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私年号 - Wikipedia

わたしねんごう

王朝おうちょうさだめた元号げんごう以外いがい年号ねんごう

わたしねんごう(しねんごう)は、紀年きねんほうとして元号げんごうもちいたひがしアジアにおいて、安定あんていした統治とうち能力のうりょく確立かくりつした王朝おうちょうさだめた元号げんごうおおやけ年号ねんごう以外いがい年号ねんごうす。年号ねんごう(いねんごう)・にせ年号ねんごう(ぎねんごう)・僭年ごう(せんねんごう)ともぶ。

しゅとして当時とうじ王朝おうちょうたいする反乱はんらん勢力せいりょく批判ひはん勢力せいりょくによって使用しようされたものがおおく、使用しよう期間きかんがいしてみじかい。日本にっぽんでは、正史せいしには記載きさいされていないものの、天皇てんのうさだめたものとして後世こうせい史書ししょ記載きさいがあったり、考古こうこ資料しりょう使用しようれいられたりする古代こだい年号ねんごういっ年号ねんごう(いつねんごう)とび、これにふくめる場合ばあいがある。なお、「わたしねんごう」を当時とうじ王朝おうちょうたいする対抗たいこうてき性格せいかくうすいものと定義ていぎし、明確めいかく覇者はしゃてき意志いしをもっててられる「にせ年号ねんごう」「僭(窃)年号ねんごう」などとは区別くべつする場合ばあいもある。

日本にっぽんわたしねんごう 編集へんしゅう

古代こだい年号ねんごう 編集へんしゅう

日本にっぽん最初さいしょおおやけ年号ねんごう孝徳天皇こうとくてんのう制定せいていした「大化たいか」であるが、中世ちゅうせい成立せいりつした寺院じいん縁起えんぎ年代ねんだいには、大化たいか前代ぜんだいから年号ねんごうがあたかも使用しようされたもののごとくに記載きさいされ、これらをぞく古代こだい年号ねんごうぶことがある。古代こだい年号ねんごうそうじて仏教ぶっきょうてき色彩しきさいく、こと太子たいし信仰しんこう影響えいきょうつよけていることから、現在げんざいそのほとんどは後世こうせいふつによって仮託かたくされた架空かくう年号ねんごうであるとかんがえられている。ただし、「ほうきょう」だけは例外れいがいで、法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう釈迦三尊しゃかさんぞんぞう光背こうはいめい・『伊予いよこく風土記ふどき逸文いつぶんといった信用しんようすべき史料しりょう実例じつれいられる。これが年号ねんごうかの解釈かいしゃくについては議論ぎろん余地よちがあるものの、聖徳太子しょうとくたいし讃仰さんぎょうする僧侶そうりょによって使用しようされたものとみて間違まちがいなかろう。また、「白鳳はくほう」「朱雀すじゃく」はおおやけ年号ねんごうの「しろ」「朱鳥あすか」からそれぞれ派生はせいした年号ねんごうであるとかんがえられ、ことに「白鳳はくほう」は、現在げんざいでも文化ぶんかうえ時代じだい呼称こしょう白鳳はくほう文化ぶんか)として通用つうようしている。

なお、江戸えど後期こうきつるみねつちのえさる著書ちょしょかさねこくにせ僣考』において、一連いちれん古代こだい年号ねんごうくまかさね使用しようした僭年ごうであると主張しゅちょうした。現在げんざい九州きゅうしゅう王朝おうちょうせつ論者ろんしゃなかには、これをたか評価ひょうかして古代こだい年号ねんごう自説じせつ有利ゆうり傍証ぼうしょう史料しりょう九州きゅうしゅう年号ねんごう)たりるとしんじるものすくなくないが、学界がっかいからはまった相手あいてにされていない。

中世ちゅうせい前期ぜんき 編集へんしゅう

れいせいしたにて年号ねんごう制度せいど確立かくりつしたのちわたしねんごう出現しゅつげんは12世紀せいき後半こうはん平安へいあん末期まっきまでたなくてはならない。最古さいこわたしねんごうとみられる「寿ことぶき」は、平清盛たいらのきよもり台頭たいとう背景はいけいとして藤原ふじわら息災そくさいいのるために、いであらわれた「かずまさる」「むかいくも」は、ともにうけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)の終結しゅうけつによる平和へいわ再来さいらい寿ことほぐために使用しようされた。鎌倉かまくらの「けんきょう」「永福えいふく」「正久まさひさ」などは、いずれも僧侶そうりょによって使用しようされたもので仏教ぶっきょうてき色彩しきさいいが、関東かんとう地方ちほうでも実例じつれいられるてん特徴とくちょうがある。南北なんぼくあさの「しろ鹿しか」「おう」「至大しだい」などは、地方ちほう拠点きょてんとする南朝なんちょうかたまたはこれに好意こういせた(たん北朝ほくちょうの)しゃによって使用しようされた可能かのうせいたかく、一方いっぽうの「ひろしとく」「えいたから」は、北朝ほくちょう年号ねんごうかんさるする公家くげあいだ対立たいりつ背景はいけいとしておおやけ年号ねんごうたいする不満ふまんから使用しようされたものと推測すいそくされている。これら中世ちゅうせい前期ぜんきわたしねんごうのこ実例じつれいが「元年がんねん」のみで、かつかずも1〜3れいすくないことから、そのほとんどは使用しようしゃ個別こべつ願意がんい祝意しゅくい表明ひょうめいしたものにまり、通用つうようけんがさほどひろがることはなかったようである。

中世ちゅうせい後期こうき 編集へんしゅう

室町むろまち幕府ばくふによる分権ぶんけん体制たいせいへの移行いこう地方ちほう自立じりつうながしたが、一部いちぶ勢力せいりょくあいだでははんまく意識いしき表明ひょうめいするためにわたしねんごう使用しようされたこともあった。具体ぐたいてきには、禁闕きんけつへんのち近畿きんき南部なんぶ南朝なんちょう遺臣いしんこう南朝なんちょう)が使用しようしたという「てんやすし」「あきらおう」、えいとおるらんはいした鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ成氏しげうじ支持しじする人々ひとびと使用しようした「とおるただし」「延徳えんとく」などがそのれいである。ところが、15世紀せいきまつ以降いこう戦国せんごく発生はっせいしたわたしねんごうは、依然いぜんとして戦国せんごく大名だいみょうこうそうなかにありながら、従来じゅうらいわたしねんごうとは性格せいかくおおきくことにしていることが指摘してきできる。すなわち、「福徳ふくとく」「弥勒みろく」「たから寿ひさし」「いのちろく」などは、弥勒みろく福神ふくじん信仰しんこうたよって天災てんさい飢饉ききんなどの災厄さいやくからのがれようとする願望がんぼう所産しょさんであって、たんなる政治せいじてき不満ふまん反抗はんこう理由りゆうおおやけ年号ねんごう使用しよう拒否きょひしていたわけではない。しかも、これらのわたしねんごうおおくは甲斐かいこく山梨やまなしけん)から発生はっせいし、寺社じしゃ巡礼じゅんれい流行りゅうこうじょうじて中部ちゅうぶ地方ちほう東北とうほく地方ちほう伝播でんぱしたとみられ、現在げんざい東国とうごくひろ地域ちいきのこ板碑いたび過去かこちょう巡礼じゅんれいさつなどのなかにその実例じつれい確認かくにんる。こうした事態じたい背景はいけいには、幕府ばくふ鎌倉かまくら公方くぼうとの対立たいりつによる改元かいげん伝達でんたつルートのみだれや途絶とぜつがあったに相違そういなく、その意味いみにおいて、広範囲こうはんい通用つうようしたわたしねんごう中世ちゅうせい後期こうき東国とうごく歴史れきしてき所産しょさんべるものであろう。

近世きんせい以後いご 編集へんしゅう

戦国せんごく戦乱せんらんのち中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい確立かくりつ目指めざゆたか政権せいけんにおいて、わたしねんごう次第しだい姿すがたしていく。国家こっか統一とういつげた江戸えど幕府ばくふキリスト教きりすときょうたいして弾圧だんあつ政策せいさくったため、これに抵抗ていこうする地方ちほうキリシタンあいだで「大道だいどう大筒おおづつ)」の年号ねんごうもちいられたらしいが、以後いごぼしいわたしねんごう発生はっせいていない。

幕末ばくまつから明治めいじ時代じだい初期しょきにかけては、天皇てんのう崩御ほうぎょ戊辰戦争ぼしんせんそうかさなり、混乱こんらんなかおおくのわたしねんごうあらわれた[1]奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐんあいだ採択さいたくされたという「延寿えんじゅ」「大政たいせい」がある。また、近代きんだいにおいても自由じゆう民権みんけん運動うんどうなか秩父ちちぶこまみんとう使用しようしたという「自由じゆう自治じち」、にち戦争せんそう勝利しょうりしたことをしゅくして一般いっぱん大衆たいしゅうにも使用しようされた「せい」などがわたしねんごうれいとしてげられる。

だい世界せかい大戦たいせんこうは、終戦しゅうせん直後ちょくご宗教しゅうきょう団体だんたい璽宇教祖きょうそ璽光みこと天皇てんのうになったと宣言せんげんして教団きょうだん国家こっかつくり、独自どくじ元号げんごうさだめたことがある。また出版しゅっぱんしゃばんこえしゃ自社じしゃ出版しゅっぱんぶつに「かく時代じだい」という年号ねんごうしている。現代げんだいにおいても「オリンピック元年がんねん」などのように、マスコミや企業きぎょうをはじめ個人こじんレベルにいたるまで、ふか意味いみたせることなく一般いっぱんてき使用しようされている。

日本にっぽんわたしねんごう一覧いちらん 編集へんしゅう

古代こだい年号ねんごう 編集へんしゅう

わたしねんごう 異説いせつ 元年がんねん相当そうとうおおやけ年号ねんごう西暦せいれき 継続けいぞく年数ねんすう 実例じつれい備考びこう
れつしずく れつ こうれい天皇てんのう元年がんねん紀元前きげんぜん260ねん 5 -
けいあきら - たれじん天皇てんのう11ねん紀元前きげんぜん19ねん 4以上いじょう 尾張おわりこく風土記ふどき
璽至 応神天皇おうじんてんのう元年がんねん270ねん 1 -
ぜん 嘉紀よしのり たけれつ天皇てんのう元年がんねん498ねん 4 ぜん」のつてか。
つぎたい - つぎたい天皇てんのう11ねん517ねん 5 -
ぜん ぜん
ぜん
ぜん
つぎたい天皇てんのう16ねん522ねん 4 興福寺こうふくじりゃく年代ねんだい』、『神祇じんぎれいおう』、『濫觴らんしょうしょう』など
正和しょうわ 正治しょうじ
せい
つぎたい天皇てんのう20ねん526ねん 5 -
きょういた きょうたおせ
はつたおせ
いんいた
きょう
つぎたい天皇てんのう25ねん531ねん 6 からだげんしょう』、『ぞく教訓きょうくんしょう』、『彦山ひこさんりゅう』など
そう そうとく せん天皇てんのう元年がんねん535ねん 4 金峰山きんぷさん秘密ひみつでん』など
あかりよう あかりやす
どうよう
どうやす
欽明天皇てんのう2ねん540ねん 11 宗像むなかただい菩薩ぼさつ縁起えんぎ』など
らく - 欽明天皇てんのう13ねん551ねん 2 善光寺ぜんこうじ縁起えんぎ』など
ほうきよし ほうやすし
ゆいきよし
欽明天皇てんのう15ねん553ねん 4 伊佐いさ須美すみ神社じんじゃ年代ねんだい
兄弟きょうだい 兄弟きょうだい 欽明天皇てんのう19ねん557ねん 1 -
ぞう ぞう 欽明天皇てんのう20ねん558ねん 5 伊佐いさ須美すみ神社じんじゃ年代ねんだい
やす - 欽明天皇てんのう25ねん563ねん 1 妙法寺みょうほうじねんろく』、『善光寺ぜんこうじ縁起えんぎ』、『みねしょう』など
そう かずそう 欽明天皇てんのう26ねん564ねん 5 妙法寺みょうほうじねんろく』、『善光寺ぜんこうじ縁起えんぎ
金光かねみつ - 欽明天皇てんのう31ねん569ねん 6 さとし一本いっぽん平家ひらか物語ものがたり』、たから寿ひさし院本いんぽん聖徳太子しょうとくたいしでん』など
けんしょう けんせっ
けん
賢輔けんすけ
けんでん
さとしたち天皇てんのう5ねん576ねん 5 -
かがみつね かがみあきら さとしたち天皇てんのう10ねん581ねん 4 妙法寺みょうほうじねんろく』、『興福寺こうふくじりゃく年代ねんだい』、『日本にっぽん略記りゃっき』など
かつあきら あきらかち
かつれつ
さとしたち天皇てんのう14ねん585ねん 妙法寺みょうほうじねんろく』、『金剛寺こんごうじ略記りゃっき』、羽黒山はぐろさん本社ほんしゃとうさつなど
和重かずえ - よう明天めいてんすめらぎ2ねん587ねん 2 -
はしせい 端正たんせい
はしあらため
たかしたかし天皇てんのう2ねん589ねん 4 たから寿ひさし院本いんぽん聖徳太子しょうとくたいしでん』、『房顕ふさあき』、『あきら』、長門ながとほん平家ひらか物語ものがたり』など
ほうきょう ほうきょうもと たかしたかし天皇てんのう4ねん591ねん 32 伊予いよこく風土記ふどき逸文いつぶん法隆寺ほうりゅうじ釈迦三尊しゃかさんぞんぞう光背こうはいめい
喜楽きらく らく 推古天皇すいこてんのう元年がんねん593ねん 1 欽明天皇てんのうだいの「らく」のつてか。
つげとうと したがえとうと
よしたか
つげげん
推古天皇すいこてんのう2ねん594ねん 7 善光寺ぜんこうじ縁起えんぎ』、『本土ほんどてら過去かこちょう』など
はじめ はじめだい 推古天皇すいこてんのう3ねん595ねん 1 -
ねがいてん はんてん
ねがいはく
てんねがい
推古天皇すいこてんのう9ねん601ねん 4 妙法寺みょうほうじねんろく』、『善光寺ぜんこうじ縁起えんぎ』、『伊予いよ三嶋みしま縁起えんぎ』など
ひかりたかし ひろもと
光弘みつひろ
ひかりもと
推古天皇すいこてんのう13ねん605ねん 6 たちばなてら縁起えんぎ
大花おおはな - 推古天皇すいこてんのう14ねん606ねん 不明ふめい 上宮かみみや太子たいし拾遺しゅうい』、『障子しょうじでん
ていきょ 定光じょうこう 推古天皇すいこてんのう19ねん611ねん 7 善光寺ぜんこうじ縁起えんぎ』、『神明しんめいきょう』、『関東かんとう兵乱へいらん』、異本いほん小田原おだわら
きよし 見知みし 推古天皇すいこてんのう21ねん613ねん 5 -
やまときょうなわ かずきょう
やまときょう
けいなわ
なわ
推古天皇すいこてんのう26ねん618ねん 神明しんめいきょう』、『妙法寺みょうほうじねんろく』など
ふしちゅう - 推古天皇すいこてんのう31ねん623ねん 1 -
仁王におう 推古天皇すいこてんのう31ねん(623ねん 6 妙法寺みょうほうじねんろく』、『園城寺おんじょうじ伝記でんき
証明しょうめい 推古・舒明天皇てんのうだい? 4 あぶら明神みょうじんしゃ
聖徳せいとく 舒明天皇てんのう元年がんねん629ねん 6 妙法寺みょうほうじねんろく』、『きみだいかん左右さゆうちょう』、『本土ほんどてら過去かこちょう
そうよう そうやす 舒明天皇てんのう7ねん635ねん 5 妙法寺みょうほうじねんろく』、『興福寺こうふくじりゃく年代ねんだい
いのちちょう れいちょう
長命ちょうめい
あかりちょう
舒明天皇てんのう12ねん640ねん 7 専修寺せんしゅうじ文書ぶんしょ』、『法然ほうねん上人しょうにん行状ぎょうじょう絵図えず』、『妙法寺みょうほうじねんろく』など
つねいろ つね
つねおのれ
大化たいか3ねん647ねん 5 妙法寺みょうほうじねんろく』、『大成たいせい年代ねんだいこう』、『伊予いよ三嶋みしま縁起えんぎ』など
白鳳はくほう - しろ元年がんねん650ねん 不明ふめい ふじ家伝かでん』、『古語こご拾遺しゅうい』、『類聚るいじゅうさんだいかく』など。「しろ雉」の別称べっしょう
しろ しろ雉3ねん652ねん 9 -
白鳳はくほう ひとし明天めいてんすめらぎ7ねん661ねん 23
天智天皇てんぢてんのう元年がんねん662ねん 不明ふめい
中元ちゅうげん 天智天皇てんぢてんのう元年がんねん(662ねん 4 中元ちゅうげん」は在位ざいい途中とちゅうでまた元年がんねんからかぞなおすもので「年号ねんごう」とはことなる
朱雀すじゃく 天武天皇てんむてんのう元年がんねん672ねん 1 扶桑ふそう略記りゃっき』、『かんしょう』、『水鏡みずかがみ』、『源平げんぺい盛衰せいすい』など
白鳳はくほう 白鳳はくほう 天武天皇てんむてんのう元年がんねん672ねん 13 かんしょう』、『多武峰とうのみね略記りゃっき』、『興福寺こうふくじ伽藍がらん縁起えんぎ』など
- 天武天皇てんむてんのう2ねん(673ねん 不明ふめい 扶桑ふそう略記りゃっき』、『年中ねんじゅう行事ぎょうじしょう』、『興福寺こうふくじりゃく年代ねんだい』など
朱雀すじゃく 朱鳥あすか元年がんねん686ねん ぞく日本にっぽん』、『熱田あつた大神宮だいじんぐう縁起えんぎ
大化たいか 朱鳥あすか元年がんねん686ねん -
朱鳥あすか 朱雀すじゃく もちすべ天皇てんのう元年がんねん687ねん 万葉集まんようしゅう
大長おおちょう だいたむろ もちすべ天皇てんのう6ねん692ねん 9 妙法寺みょうほうじねんろく
大和やまと 大化たいか もちすべ天皇てんのう9ねん695ねん 2 -
白亀しらかめ - かみひさし元年がんねん724ねん 不明ふめい きゅうとうしょ倭国わのくに日本国にっぽんこくでんおおやけ年号ねんごうかみひさし」の誤認ごにん
正法しょうぼう 天平てんぴょうたから4ねん760ねん 本土ほんどてら過去かこちょう

中世ちゅうせい以降いこうわたしねんごう 編集へんしゅう

わたしねんごう 異説いせつ 元年がんねん相当そうとうおおやけ年号ねんごう西暦せいれき 継続けいぞく年数ねんすう 典拠てんきょ備考びこう
寿ことぶき - じんやす2ねん1167ねん)? 不明ふめい 奈良ならけん五條ごじょう御霊みたま神社じんじゃ神像しんぞうめい
泰平たいへい 万平まんぺい うけたまわやす2ねん1172ねん - 百錬ひゃくれんしょううけたまわやす2ねんうるう12がつ10日とおかじょう、『たま同月どうげつ13にちじょうおおやけ年号ねんごう改元かいげん風説ふうせつ
かずまさる - たてひさ元年がんねん1190ねん 不明ふめい 高野山こうのやま文書ぶんしょたから簡集18、宗像むなかたしょく定法じょうほういちぴつ書写しょしゃ一切経いっさいきょう
むかいくも 正治しょうじ元年がんねん1199ねん 法隆寺ほうりゅうじ文書ぶんしょ』9
けんきょう げんひとし2ねん1225ねん むねせいふで読経どきょうばん論議ろんぎ問答もんどう
せい 鎌倉かまくら時代ときよ 愛知あいちけん武豊たけとよまち出土しゅつどすえすずりめいおおやけ年号ねんごうせいもと」の誤記ごき
永福えいふく えいひとし5ねん1297ねん)? 法隆寺ほうりゅうじ東院とういん書写しょしゃ同学どうがくしょう奥書おくがき武蔵むさしこく豊島としまぐん清光寺せいこうじ板碑いたび(『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう[2]
正久まさひさ もとおう元年がんねん1319ねん 埼玉さいたまけん飯能はんのう西光寺さいこうじ廃寺はいじ墓地ぼち板碑いたび
もとしん 14世紀せいきなか 埼玉さいたまけん小川おがわまち発見はっけん板碑いたびおおやけ年号ねんごうもととく」の表記ひょうき
しなれき のべもと - 興国こうこく年間ねんかん1336ねん - 1346ねん 阿蘇あそ文書ぶんしょ
えいまぼろし かんひさし1342ねん - 1344ねん前後ぜんこう 宮城みやぎけん登米とよねうえこうてら板碑いたび
しろ鹿しか 興国こうこく6ねん/貞和さだかず元年がんねん1345ねん とくこう文書ぶんしょ』、竜安寺りゅうあんじぞう太平たいへい奥書おくがき
おう 興国こうこく6ねん/貞和さだかず元年がんねん(1345ねん 大阪おおさか泉大津いずみおおつ細見ほそみみのるぞうかかふつめい
真賀まが のべぶん - おうやす年間ねんかん1356ねん - 1374ねん 日光にっこうはなわ王寺おうじ慈眼じげんどう経蔵きょうぞう眷属けんぞく妙義みょうぎ奥書おくがき
文徳ふみのり おうやす年間ねんかん1368ねん - 1374ねん)? ばん信友のぶともが『長等ながら山風やまかぜ』で「妖偽年号ねんごう」のれいとしてげるもところよりどころ不明ふめい
至大しだい 永和えいわまたは至徳しとく年間ねんかん1375ねん - ) 東京とうきょう武蔵野むさしの郷土きょうどかん蔵板ぞうはん
ひろとく もとなか元年がんねん/至徳しとく元年がんねん1384ねん 奈良ならじゅうろくしょ神社じんじゃ棟木むなぎめいじ叡山えいざん文庫ぶんこぞう般若心経はんにゃしんぎょうかぎしょう奥書おくがき
えいたから もとなか4ねん/よしみけい元年がんねん1387ねん 奈良ならけん奈良ならはりまち観音寺かんおんじぞうだい般若はんにゃけいまき480奥書おくがき
寿ことぶきけい もとなか4ねん/よしみけい元年がんねん(1387ねん)? 岩手いわてけん花巻はなまき白山はくさん神社じんじゃぞう大日如来だいにちにょらい胎内たいないめいおおやけ年号ねんごうよしみけい」の誤記ごき
立徳りっとく かんおう元年がんねん1389ねん)かぶんやす元年がんねん1449ねん)かえいただし6ねん1509ねん 埼玉さいたまけん江南えなまち発見はっけん板碑いたび亡失ぼうしつ[3]
きょうとく おうひさし2ねん1395ねん 大阪おおさか河内長野かわちながの観音寺かんおんじぞうだい般若はんにゃけい奥書おくがき
てんやすし 嘉吉よしきち3ねん1443ねん 15 武家ぶけ功名こうみょう』などの史料しりょうこう南朝なんちょう関係かんけいしゃ使用しよう
ぶくやす 嘉吉よしきち4ねん1444ねん 不明ふめい 岡山おかやまけん赤磐あかいわ千光寺せんこうじぞう備前焼びぜんやきよんみみつぼめい
とおるだか とおるとく元年がんねん1452ねん 山本やまもと達雄たつおぞう山水さんすいおおやけ年号ねんごうとおるとく」の誤記ごき
とおるただし 康正こうせい元年がんねん1455ねん 埼玉さいたまけんときがわまち発見はっけん板碑いたび、『きゅうあん主家しゅか文書ぶんしょ』(『香取かとり文書ぶんしょ』)など
延徳えんとく ひろしただし元年がんねん1460ねん きゅう新福寺しんぷくじ文書ぶんしょ』(『香取かとり文書ぶんしょ』)、『本土ほんどてら過去かこちょう』など
永楽えいらく ひろしせい2ねん1461ねん 高野山こうのやま宝亀ほうきいんぞう大日だいにちけい疏二まつしょう奥書おくがき
あきらおう 文明ぶんめい元年がんねん1469ねん 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ文明ぶんめい元年がんねん11がつ21にちじょうこう南朝なんちょう改元かいげん風説ふうせつ
とくあきら 文明ぶんめい1469ねん - 1486ねんごろ 宮城みやぎけん栗原くりはらみょうきょうてら板碑いたび
おうとおる 文明ぶんめい11ねん1479ねん)? 奈古なご神社じんじゃ文書ぶんしょ
せいとおる せいとおる
せいきょう
延徳えんとく元年がんねん1489ねん 甲斐かいこく妙法寺みょうほうじ
福徳ふくとく - 延徳えんとく元年がんねん1489ねん)など きゅうろく司代しだい文書ぶんしょ』(『香取かとり文書ぶんしょ』)、『本土ほんどてら過去かこちょう』など多数たすう
えいつたえ 延徳えんとく2ねん1490ねん 1 入来いりきいん文書ぶんしょ
おういさお 延徳えんとく2ねん(1490ねん 不明ふめい 日光にっこうはなわ王寺おうじ慈眼じげんどう経蔵きょうぞういんきょう指南しなん』。おおやけ年号ねんごう延徳えんとく」の表記ひょうき
ちょうよしみ 室町むろまち時代ときよ 千葉ちばけん香取かとりちょうよしみ板碑いたび
とくおう ぶんかめ元年がんねん1501ねん 1 東京とうきょう中野なかのたて文化ぶんかセンター蔵板ぞうはんなど
ぶんおに ぶんかめ元年がんねん(1501ねん 不明ふめい 宮城みやぎけん石巻いしのまきせんたたえ寺跡てらあと板碑いたびおおやけ年号ねんごうぶんかめ」の表記ひょうき
子平しへい ぶんかめ2ねん1502ねん 熊本くまもとけん熊本くまもときた植木うえきまち所在しょざいたから篋印とうめい
福寿ふくじゅ 15世紀せいきまつ - 16世紀せいき前半ぜんはん 宮城みやぎけん石巻いしのまき板碑いたび
弥勒みろく 身禄みろく えいただし3ねん・4ねん1506ねん1507ねん 3 きゅうろく司代しだい文書ぶんしょ』(『香取かとり文書ぶんしょ』)、『本土ほんどてら過去かこちょう』、『妙法寺みょうほうじ』など多数たすう
加平かへい - えいただし14ねん1517ねん 1 阿蘇あそ文書ぶんしょ』など
えい えいひさし だいひさし6ねん1526ねん 2 きゅうあん主家しゅか文書ぶんしょ』(『香取かとり文書ぶんしょ』)、『会津あいづ塔寺とうでら八幡やはた宮長みやながちょう』など
たから寿ひさし - 天文てんもん2ねん1533ねん 長野ながのけん佐久さくまち出土しゅつどけいとうめいじ、『古今ここん金工きんこう便覧びんらん
いのちろく 天文てんもん9ねん1540ねん 3 本土ほんどてら過去かこちょう』、『津金つがね文書ぶんしょ』など
光永みつなが 天正てんしょう4ねん1576ねん 不明ふめい 熊本くまもとけん熊本くまもと西にし上野うえの家蔵かぞう板碑いたび、『きたこえせん』(ただ元年がんねん天正てんしょう5ねん(1577ねん)とする[4]
天王てんのう 天正てんしょう5ねん1577ねん)か17ねん1589ねん 国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんぞう丹波たんばしょうさんみみつぼめい[5]
大道だいどう 大同だいどう
大筒おおづつ
慶長けいちょう14ねん1609ねん 青森あおもりけん南部なんぶまち霊験れいけんどうがんとびらめいじ和歌山わかやまけん高野口こうやぐちまち地蔵寺じぞうじせき灯籠どうろうめいなど
正中せいちゅう - 元和がんわ7ねん1621ねん 山田やまだ文書ぶんしょ』(『佐久間さくままちふみ 史料しりょうへん3所収しょしゅう[6]
慶喜よしのぶ 寛永かんえい20ねん1643ねん うえかじ文書ぶんしょ
ほうとく たからいさお 寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん 能登のとこころざしちょう
久宝くぼう - 天保てんぽう5ねん1834ねん 石川いしかわけん七尾ななお藤原ふじわら四手よつでいとぐち神社じんじゃくら天保てんぽう絵馬えまがく
永長ながおさ 天保てんぽう8ねん1837ねん 加賀かがはん豪商ごうしょう木谷きたにふじみぎ衛門えもんらが使用しよう[7]。この年号ねんごう絵暦えごよみあり[8]
てんはれ てんせい
てんぼし
慶応けいおう3ねん1867ねん 2 高知こうちけんしも神社じんじゃいし灯籠とうろう手水ちょうずはちなどに使用しようれい多数たすう[9]
神徳しんとく - 不明ふめい 千葉ちばけん袖ケ浦そでがうら個人こじんぞう文書ぶんしょ[10]
かみおさむ 熊本くまもとけん人吉ひとよし大畑麓おこばふもとまち行者ぎょうじゃどう安置あんちやく小角おがく木像もくぞう補修ほしゅうめい
ちょういさお 多摩たま豪商ごうしょう中野なかの久次郎きゅうじろう使用しよう(『ちょういさお元年がんねんようとめ』)[11]
延寿えんじゅ 慶応けいおう4ねん1868ねん 1 中外ちゅうがい新聞しんぶん慶応けいおう4ねん5がつ17にちづけなど。奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい使用しよう
大政たいせい 慶応けいおう4ねん(1868ねん)6がつ - 9月 蜂須賀はちすか文書ぶんしょ』、『菊池きくち容斎ようさい所蔵しょぞう文書ぶんしょ』。奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい使用しよう
自由じゆう自治じち 明治めいじ17ねん1884ねん 秩父ちちぶこまみんとう使用しようしたとされるもしょう秩父ちちぶ事件じけんかんする供述きょうじゅつ調書ちょうしょからは、3めい平民へいみんが「自由じゆう自治じち元年がんねん」をうたった盟約めいやくしょ1つう存在そんざいられるのみ[12]
せい 明治めいじ37ねん1904ねん 2 萩野はぎの由之よしゆきせいねん」(『読史どくし趣味しゅみ』)、栃木とちぎけん小山おやまてんおきないん縁台えんだい墨書ぼくしょめいなど
だいのべ 大正たいしょう4ねん1915ねん 43 自称じしょう天皇てんのう熊沢くまさわ寛道ひろみちだいのべ天皇てんのう)とその支持しじしゃ使用しよう
かく時代じだい 昭和しょうわ20ねん1945ねん 継続けいぞくちゅう ばんこえしゃ出版しゅっぱんする書籍しょせき年号ねんごうとして1987ねんから使用しよう継続けいぞくちゅう
れい寿ことぶき 昭和しょうわ21ねん1946ねん 不明ふめい 宗教しゅうきょう団体だんたい璽宇使用しよう

朝鮮ちょうせんわたしねんごう 編集へんしゅう

中国ちゅうごくわたしねんごう 編集へんしゅう

ベトナムのわたしねんごう 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ てんはれてんせいてんぼし実在じつざいしないナゾ年号ねんごう高知こうちのこ”. 読売新聞よみうりしんぶん (2019ねん3がつ31にち). 2019ねん3がつ31にち閲覧えつらん
  2. ^ 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう 豊島としまむら.
  3. ^ 江南えなまち教育きょういく委員いいんかいへん江南えなまち板碑いたび江南えなまち 報告ほうこくへん1)』 江南えなまち、2003ねんNCID BA66140795
  4. ^ きたこえせん』に、「ある旧記きゅうき詳細しょうさい不明ふめい)にいふ、今年ことし光永みつなが元年がんねんと唱ふ。東西とうざいひかながうつゆえ云々うんぬん」 との記述きじゅつがある。
  5. ^ 吉岡よしおかかんとおるこくめいゆうする中世ちゅうせい陶器とうき」(『国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん研究けんきゅう報告ほうこくだい36しゅう 国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん、1991ねん11月、NCID AN00377607
  6. ^ 若林わかばやしあつしこれ郷士ごうし成立せいりつとその展開てんかい さんとおしん国境こっきょう地帯ちたいにおける―」(『国史こくし論集ろんしゅうしょうでんあつし教授きょうじゅ退官たいかん記念きねんどう教授きょうじゅ退官たいかん記念きねん事業じぎょうかい、1970ねんNCID BN02380189
  7. ^ 「はじめてみつかった“永長ながおさわたしねんごう」(『石川いしかわけん社会しゃかい教育きょういく会館かいかんだより』だい113ごう、1977ねんNCID AA11922555
  8. ^ 岡田おかだ芳朗よしろうこよみ年号ねんごう」(『歴史れきし読本とくほんだい53かんだい1ごう通巻つうかん823ごう)、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん1がつNCID AN00133555
  9. ^ まぼろし年号ねんごうてんはれ(てんせい)」”. 高知こうちホームページ. 高知こうち歴史れきし散歩さんぽ. 2019ねん12月6にち閲覧えつらん
  10. ^ 筑紫つくし敏夫としおわたしねんごう神徳しんとく』と木更津きさらづせん船待ふなまち」(『東京湾とうきょうわん学会がっかいだい1かんだい3ごう 東京湾とうきょうわん学会がっかい、1999ねん12月、NCID AA12099601
  11. ^ 昭島あきしまへんさん委員いいんかいへん昭島あきしま 本編ほんぺん昭島あきしま、1978ねんNCID BN0450395X
  12. ^ 井上いのうえ幸治こうじほかへん秩父ちちぶ事件じけん史料しりょう集成しゅうせい だい3かん二玄社にげんしゃ、1984ねん、P1249 ISBN 9784544051230

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう