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羌 - Wikipedia

(きょう、拼音: Qiāng)は、古代こだいより中国ちゅうごく西部せいぶんでいる民族みんぞく西にしともばれる。現在げんざい中国ちゅうごく少数しょうすう民族みんぞくチャンぞく)として存在そんざいする。

こうかん末期まっき198ねんころ)の羌族の位置いち
西にしすすむ時代じだい民族みんぞく分布ぶんぷみどりが羌族。

概要がいよう

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中国ちゅうごくにおいて羌族はぞくとともにもっとふるくみえるチベットけいとされる部族ぶぞくひとつである。しかしながら『漢書かんしょ』に氐羌の列伝れつでんもうけられておらず、西域せいいきでんに婼羌などがしるされているのみであった。そして『りゃく』においてようやく氐羌についての記述きじゅつあらわれ、『こう漢書かんしょ』において羌族について詳細しょうさいしるされた「西にし羌伝」がもうけられた。

こう漢書かんしょ』「西にし羌伝」では「羌の源流げんりゅうさんなえきょう[1]別種べっしゅ」としており、羌をふく中国ちゅうごく四方しほうすべての民族みんぞくはななつ苗裔びょうえい主張しゅちょうしている[2]紀元前きげんぜん5世紀せいきえびすぞく出身しゅっしん弋爰けん(むよくえんけん)というものあらわれ、かれ一族いちぞくひきいられたものたちが羌族を形成けいせいしていくこととなる。

かんだいになると、きた匈奴きょうどつよもりであったため、はじめのうちは匈奴きょうどいていたものの、前漢ぜんかんたけみかどにより匈奴きょうど駆逐くちくされると、わってかんくようになり、かんまもる羌校じょうのもとで生活せいかつすることとなる。しかし、羌族はたびたびかんそむいて叛乱はんらんこしたため、その都度つどかんによって討伐とうばつされた。

こうかんすえはばらんきると(184ねん)羌族はふたたいきおいをかえし、羌族のうまあがうまちょう父子ふしかれらとむすんだかんとげといったかん民族みんぞく軍閥ぐんばつんで独自どくじ勢力せいりょくきずいた。さんこく時代じだい220ねん - 280ねん)においては、たかししょくかん国境こっきょう地帯ちたいにおいて勢力せいりょくたもち、その趨勢すうせいおうじてしょくいてたたかった。

えびすじゅうろくこく時代じだいはいると、みなみやすあかてい羌の酋長しゅうちょうである姚萇ぜんはたから独立どくりつしてこうはた建国けんこくした(384ねん)。こうはた417ねんあずますすむりゅうひろし南朝なんちょうそうたけみかど)によってほろぼされる。

とうだいからきたそうだいには、羌族の有力ゆうりょく部族ぶぞくであるタングートモンゴルしたテュルク民族みんぞくとするせつもあり[3])がつよぜいになり、やがてそう圧迫あっぱくして多額たがくとしぬさこと成功せいこうした。その李元りげんひろし西にしなつてて皇帝こうていとなる。きたそうきむほろぼされると服属ふくぞくするが、チンギス・ハーン勃興ぼっこうほろぼされた。

西にしなつ滅亡めつぼう表立おもてだった主導しゅどうてき政治せいじ活動かつどうせることはなく、現在げんざいいたっている。

いんだいの羌

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甲骨文字こうこつもじの「羌」

しょけい』によると、いんしゅう革命かくめいにおけるしゅう同盟どうめいこく、いわゆる「まきちかいはちこく」のうちのいちこくが羌である[4]。しかし、『しょけい』にはこの時代じだいの羌にかんする詳細しょうさい記述きじゅつはない。一方いっぽういん発見はっけん以降いこういんと羌の関係かんけいしめ甲骨文字こうこつもじ資料しりょう多数たすう発掘はっくつされており、それらによると、「羌」はいんにとって中原なかはらにおける最大さいだい軍事ぐんじ目標もくひょうであり、また、いんによる膨大ぼうだいかず人間にんげん生贄いけにえも「羌」とばれている。そこで、「羌」は固有名詞こゆうめいしいん敵対てきたいする特定とくてい集団しゅうだんであるというせつと、「羌」は一般いっぱん名詞めいしちかいん敵対てきたいするあるしゅしょ集団しゅうだんをまとめて「羌」とんでいたというせつの2つがある[5]

羌はその字形じけいに「ひつじ」のふくむことから、牧羊ぼくようする遊牧ゆうぼく民族みんぞくというせつふるくからあるが[6]いん墟の生贄いけにえほね分析ぶんせき結果けっかからは、遊牧民ゆうぼくみんぞくではなく農耕のうこう民族みんぞくであることを示唆しさするデータがられている[5]

 
紀元前きげんぜん1世紀せいき西域せいいき諸国しょこく

西域せいいきにおいてせきてから一番いちばんちかくにが婼羌である。婼羌国王こくおうは「えびすらいおう」とごうす。せきること1800長安ながやすること6300さと距離きょりにあり、西にし且末くにせっし、西北せいほくには鄯善くにがある。婼羌は鄯善こく東南とうなんから于闐くにみなみまでの地域ちいきにわたって分布ぶんぷしていた。

戸数こすう:450、人口じんこう:1750、へいすう:500。

婼羌は遊牧民ゆうぼくみんであり、農耕のうこうをしないため、鄯善こくと且末こく穀物こくもつにたよっていた。やまからはてつ産出さんしゅつする。武器ぶきにはゆみほこかたなけんがある。

羌族の言語げんごと氐族の言語げんごており、中国ちゅうごく漢語かんご)とはちがうことが『りゃく西戎せいじゅうでんしるされている。もし、この言語げんご現在げんざいチャンだとすれば、羌族および氐族はチベットけいチベット・ビルマ)に分類ぶんるいされる。

一方いっぽう、羌族の言語げんごインド・ヨーロッパ系統けいとうとくトカラ)であるというせつもある。(後述こうじゅつ[7]

名称めいしょうについて

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「羌」は現代げんだい中国語ちゅうごくごで「チアン (qiāng)」と発音はつおんされ、中期ちゅうき中国ちゅうごくでは「kʰɨaŋ」、古代こだい中国語ちゅうごくごでは「klaŋ」となる。クリストファー・ベックウィズは羌族のりん戦車せんしゃあやつ技術ぎじゅつから、トカラの「klānk」(りん馬車ばしゃく、-にる)とむすけ、羌族の古代こだいめいは「クラン (klānk)ぞく」であり、「りん馬車ばしゃ御者ぎょしゃ」の意味いみであろうとした。[7]

羌のおも種族しゅぞく

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弋爰けんからかれた種族しゅぞくやく150しゅにのぼるとされ[8]、そのすべてが史書ししょしるされたわけではないが、以下いかおもしょぞくしるす。

  • 爰剣しゅけんたねしょうとうたね弋爰けん直系ちょっけい種族しゅぞく
  • 卬の部落ぶらく
    • 氂牛しゅえつ巂羌
    • 白馬しろうまたねこうかん
    • まいりおおかみしゅたけ
  • さきれいしゅ
    • れいあきらしゅさきれいしゅ別種べっしゅ
  • ふうやしなえしゅ
  • ろうあねしゅ
  • 卑湳しゅ
  • 勒姐しゅ
  • われ良種りょうしゅ
  • とうせんじしゅ
  • やきなんしゅ
  • とう闐種
  • けん人種じんしゅ西河にしがわぐん
  • ぜんたね上郡かみごおり
  • 隴西しゅ
  • 沈氐しゅ上郡かみごおり
  • 且凍しゅ
  • でんなんしゅ
  • 鞏唐しゅ
  • 罕種
  • とりわれしゅ
つきしゅ
はじ敦煌とんこう付近ふきんにいたつきぞく匈奴きょうど侵攻しんこうい、そのおおくは中央ちゅうおうアジアに遷って大月おおつきとなったが、敦煌とんこう付近ふきんのこった一部いちぶ南山みなみやま崑崙山こんろんざんみゃく)の羌にって小月おづきとなった。以下いかはその小月おづき一派いっぱだとおもわれる。
  • ねぎ茈羌
  • 白馬しろうま
  • 黄牛あめうし

おも指導しどうしゃ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ おそらく「きょうえびす」のこと(藤堂とうどうあきらせつ)。
  2. ^ 薩孟たけし西遊せいゆうあずか中國ちゅうごく古代こだい政治せいじさんみんしょきょく、2018ねん7がつ13にち、47ぺーじISBN 9789571464183。「たけみかどせつ:「むかしひとしじょうおおやけふくきゅうせいなぞ,《春秋しゅんじゅうだいこれ。」(《漢書かんしょまききゅうじゅうよんじょう匈奴きょうどでん〉)たけし哉斯ごと。及至せんみかど匈奴きょうど款塞來朝らいちょう,而東えびす西戎せいじゅう北狄ほくてき南蠻なんばん罔不しんあさしたがえ而華夷之えびすのべつまた一變いっぺん而為天下でんか一家いっかてき思想しそうせつ匈奴きょうどのり曰夏きさき苗裔びょうえい同上どうじょう);せつ西南せいなんえびすのり曰高からしおんなあずか其畜いぬ槃瓠配合はいごう而生てき子孫しそん(《こう漢書かんしょまきはちじゅうろく南蠻なんばん西南せいなんえびすでん〉);せつ朝鮮ちょうせんのり曰武おうふう朝鮮ちょうせん,其後つばめじんまもる滿まんまた入朝にゅうちょう鮮稱おう(《漢書かんしょまききゅうじゅう朝鮮ちょうせんおう滿まんつて〉); せつ西にし羌,のり曰出於さんなえ(《こう漢書かんしょまきはちじゅうなな西にし羌傳〉)。這樣,ぜんしゅうてき人民じんみんいく乎無一不與華人有血統關係了。」 
  3. ^ 宮脇みやわき淳子じゅんこ『モンゴルの歴史れきし 遊牧民ゆうぼくみん誕生たんじょうからモンゴルこくまで』(2002ねんかたなすい書房しょぼう)137ページ、ドーソン訳注やくちゅうこうとおる)『モンゴル帝国ていこく1』(1989ねん平凡社へいぼんしゃ)309-311ページ(ただし、311ページでは「タングートはじつはチベットけいである」と記述きじゅつされている)。
  4. ^    (中国ちゅうごく) 尚書しょうしょ』「まきちかい, ウィキソースより閲覧えつらん, "いさおしょく・羌・髳・ほろ・彭・濮" 
  5. ^ a b Christina Cheung et al. (2017). “Social dynamics in early Bronze Age China: A multi-isotope approach” (html). Journal of Archaeological Science: Reports. https://www.academia.edu/34810325/Social_dynamics_in_Early_Bronze_Age_China_A_Multi_Isotope_Approach 2022ねん8がつ21にち閲覧えつらん. 
  6. ^    (中国ちゅうごく) せつぶんかい』「羌」, ウィキソースより閲覧えつらん, "西戎せいじゅう牧羊ぼくようじん也。从人从羊、ひつじまたこえ。" 
  7. ^ a b ベックウィズ 2017,p535-536
  8. ^ こう漢書かんしょ西にし羌伝
  9. ^ 三国志さんごくし』「まきさん しょ あきらみかど

出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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