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花房博志 - Wikipedia

花房はなふさ 博志ひろし(はなぶさ ひろし、生年せいねん不明ふめい - 1943ねん昭和しょうわ18ねん6月11にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海兵かいへい51そつ)。「24潜水せんすい艦長かんちょうとして、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきシドニーわん攻撃こうげきガダルカナルとうたたかで、特殊とくしゅ潜航せんこうていきのえ標的ひょうてき搭載とうさいかん指揮しき真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきでは酒巻さかまき和男かずお稲垣いながききよし、シドニーわん攻撃こうげきではばん勝久かつひさ芦辺あしべもり花房はなぶさもとから出撃しゅつげきした。潜水艦せんすいかん輸送ゆそうでは7かい成功せいこうおさめ、キスカとう撤退てったい作戦さくせん戦死せんし戦死せんしによるいちかいきゅう昇進しょうしん最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大佐たいさ

花房はなふさ 博志ひろし
花房はなふさ 博志ひろし海軍かいぐん中佐ちゅうさ時代じだい
生誕せいたん 生年せいねん不明ふめい
日本の旗 日本にっぽん 岡山おかやまけん
死没しぼつ 1943ねん6月11にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく キスカとう周辺しゅうへん
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1924 - 1943
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大佐たいさ
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生涯しょうがい

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花房はなぶさ岡山おかやまけん出身しゅっしん海軍兵学校かいぐんへいがっこう51なまである。鈴木すずき貫太郎かんたろう千坂ちさかさとし次郎じろう谷口たにぐちしょうしんさんだい校長こうちょうのもとで教育きょういくけたが、ワシントン会議かいぎ影響えいきょう自主じしゅてき退校たいこうゆるされ、卒業生そつぎょうせいは255めいである。花房はなぶさ中位ちゅうい成績せいせき[1]海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょうした。練習れんしゅう艦隊かんたい豪州ごうしゅう方面ほうめんかい、斎藤さいとう七五郎しちごろう司令しれいかん練習れんしゅうかんいわしゅ艦長かんちょう米内よない光政みつまさ、「浅間あさま艦長かんちょうべいむらまつらの幹部かんぶ実務じつむ訓練くんれんける。1924ねん大正たいしょう13ねん)12月、海軍かいぐん少尉しょうい任官にんかん

花房はなぶさ潜水せんすいかん専攻せんこうする士官しかんとなる。潜水せんすいかんすすんだ同期生どうきせい18めいは「ドンガメかい」を結成けっせいし、切磋琢磨せっさたくましながら軍務ぐんむはげむ(会員かいいんについては下記かき参照さんしょう[2]花房はなぶさは「りょ64」、「りょ63」、「121」、「60」と4せき潜水せんすい艦長かんちょうつとめ、連合れんごう艦隊かんたいきびしい訓練くんれんんだ[3]1941ねん昭和しょうわ16ねん)7がつには、さい新鋭しんえいかんであるめぐせんへいがた潜水せんすいかん24」の艤装ぎそういんちょうとなり、竣工しゅんこう初代しょだい艦長かんちょう就任しゅうにんする。

真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき

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事前じぜん準備じゅんび
 
24」の同型どうけいかん

潜水せんすいかん就役しゅうえきした場合ばあい乗員じょういん慣熟かんじゅく訓練くんれんおこなうのが通常つうじょう[4]であるが、「24」には異常いじょう事態じたいつづいた。竣工しゅんこう1941ねん昭和しょうわ16ねん10月31にちであったが、つづ特殊とくしゅ潜航せんこうてい以下いかとくせん)「きのえ標的ひょうてき搭載とうさい必要ひつよう設備せつび工事こうじおこなわれ、11月10にち回航かいこうし、8にちには出撃しゅつげきするのである。「きのえ標的ひょうてき」は艦隊かんたい決戦けっせん秘密ひみつ兵器へいきとしてその存在そんざい海軍かいぐんないでも秘匿ひとくされ、特別とくべつ攻撃こうげきたい指揮しきかん佐々木ささきはんきゅう大佐たいさにも当初とうしょ工事こうじ目的もくてきらされなかった[5]。「24」水雷すいらいちょうであった橋本はしもと以行は、この事前じぜん準備じゅんびけた異様いよう印象いんしょうかたのこしている[6]特別とくべつ攻撃こうげきたいとくせん搭載とうさいははせんめぐせんへいがた5せきはいずれも準備じゅんび余裕よゆうはなかったが、この5せきえらばれた理由りゆうは、めぐせん当時とうじ日本にっぽん海軍かいぐん潜水せんすいかんもっと大型おおがたであり、さらにおつがたぜん甲板かんぱん大砲たいほうこう甲板かんぱん飛行機ひこうき格納かくのうとうゆうしていたのにたいし、「24」らへいがたのち甲板かんぱん装備そうびく「きのえ標的ひょうてき」の搭載とうさい可能かのうであったためである[7]竣工しゅんこうしたばかりの「24」はとく余裕よゆうく、同艦どうかん砲術ほうじゅつちょう回想かいそうでは、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん山本やまもと五十六いそろくは「24」の除外じょがい考慮こうりょしていたが、有泉ありいずみりゅうこれすけ軍令ぐんれい参謀さんぼう参戦さんせんさせることを主張しゅちょうし、また花房はなぶさ参加さんか決断けつだんしたという。出港しゅっこう11月18にち、「苦労くろうかんばいしていたに相違そういない」[6]といわれる航海こうかいはじまりである。

酒巻さかまき稲垣いながきてい出撃しゅつげき
 
真珠湾しんじゅわんげられた酒巻さかまき稲垣いながき乗組のりくんだ「きのえ標的ひょうてき

花房はなぶささん交代こうたいせいであった当直とうちょくのいずれでも急速きゅうそく潜航せんこう可能かのうとなるよう訓練くんれんおこないつつ真珠湾しんじゅわんかい、12月6にちには最後さいご準備じゅんびおこなう。魚雷ぎょらい発射はっしゃかん故障こしょうによる魚雷ぎょらい交換こうかんきのえ標的ひょうてき整備せいび荒天こうてんなかおこなった。作業さぎょういん命綱いのちづな使つかっての作業さぎょうおこない、「24」は「きのえ標的ひょうてき発進はっしん予定よてい到着とうちゃくした。しかし、出撃しゅつげき直前ちょくぜんに「きのえ標的ひょうてき」のジャイロコンパス故障こしょう発見はっけんされる。コンパスてい針路しんろ決定けっていする機器ききであり、花房はなぶさは「きのえ標的ひょうてき」を出撃しゅつげきさせるべきかまよった[8]。しかし、ていちょう酒巻さかまき出撃しゅつげき希望きぼうし、花房はなぶさ出撃しゅつげき決断けつだんくだす。酒巻さかまき稲垣いながき出撃しゅつげきは、12月7にち233ふん真珠湾しんじゅわんこうの202、10.5マイル地点ちてんからであった。出撃しゅつげき酒巻さかまきていはジャイロコンパス故障こしょうのため座礁ざしょうかえし、酒巻さかまき人事不省じんじふせいおちいって太平洋戦争たいへいようせんそうにおける日本人にっぽんじん捕虜ほりょだいいちごうとなり、稲垣いながき戦死せんしする[9]当時とうじ日本にっぽんでは捕虜ほりょとなることはけるべきとされており、佐々木ささき花房はなぶさが「酒巻さかまき捕虜ほりょ責任せきにんかんじ、ひどくしんいためていたようであった」[10]べている。

ミッドウェーとう砲撃ほうげき

24」はクェゼリン環礁かんしょう帰還きかんしたが、ハワイ監視かんしにあたっていた「3」(戸上とうえ一郎いちろう艦長かんちょう)から空母くうぼふく部隊ぶたい発見はっけんほうじられ、再度さいどハワイにかい同島どうとう監視かんしにあたる。しかし短期間たんきかんミッドウェーとうかい、偵察ていさつ砲撃ほうげきおこなった[11]

シドニーわん攻撃こうげき

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とくせんだい攻撃こうげき隊員たいいん前列ぜんれつ左端ひだりはしばん勝久かつひさ。その後方こうほう芦辺あしべもりともとなり八巻はちまき悌次ていじ、その後方こうほう松本まつもとしずみぎからにん後方こうほう坪倉つぼくら大盛おおもり写真しゃしんにある14めいはちかんのぞ全員ぜんいん戦死せんししている。はちかんルンガ泊地はくち攻撃こうげき参加さんかし、戦後せんごは「とくせんいしぶみ建立こんりゅう委員いいんちょうつとめる[12]

1942ねん昭和しょうわ17ねん2がつ2にち横須賀よこすか帰港きこうし、へい先遣せんけん支隊したい指揮しきかん佐々木ささきはんきゅう大佐たいさ)に編入へんにゅうとなる。この部隊ぶたいだいろく艦隊かんたいだいはち潜水せんすい戦隊せんたいぞくし、「きのえ標的ひょうてき」によるだい攻撃こうげきや、通商つうしょう破壊はかいせん目的もくてきとして編成へんせいされた。「きのえ標的ひょうてき」にたいしては、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきせんくんから装備そうび改善かいぜん訓練くんれん強化きょうかおこなわれている。潜水せんすいかん偵察ていさつ報告ほうこくによって攻撃こうげき目標もくひょう決定けっていするまでのあいだ24はトラック待機たいきしたが、ポートモレスビー攻略こうりゃくせん協力きょうりょくするため出撃しゅつげき珊瑚さんごうみ海戦かいせんちゅう散開さんかいせんいたがかいてきしていない。5月15にち帰還きかんするものの僚艦りょうかん28矢島やじま安雄やすお艦長かんちょう)は撃沈げきちんされている。

5月18にち花房はなぶさ八巻はちまき悌次ていじ松本まつもとしず一等いっとう兵曹へいそう)がむ「きのえ標的ひょうてき」を搭載とうさいして出撃しゅつげきしたが、ここで災禍さいか見舞みまわれる。「きのえ標的ひょうてき」で電池でんち爆発ばくはつ発生はっせいし、はちかん負傷ふしょう松本まつもと死亡しぼうしたのである。このためトラックへかえし、本来ほんらい28に搭載とうさい予定よていであった「きのえ標的ひょうてき」と、乗員じょういんばん勝久かつひさ芦辺あしべもり乗艦じょうかんさせてさい出撃しゅつげきした。攻撃こうげき目標もくひょう豪州ごうしゅうシドニーわんである。5月31にち1740ふん、シドニーわん北東ほくとう7かいりからとも芦辺あしべ出撃しゅつげきした。ともてい宿泊しゅくはくかんクッタブルHMAS Kuttabul)を沈没ちんぼつさせ、潜水せんすいかんK IXK IX)を損傷そんしょうさせる戦果せんかをあげたが、帰還きかんすることはなかった。なお、この攻撃こうげきでは27吉村よしむらいわお艦長かんちょう)から出撃しゅつげきした中馬ちゅうまけんよんけい6めい戦死せんしした。

交通こうつう破壊はかいせん

6月3にちまで「きのえ標的ひょうてき」の帰還きかんをまったが、参加さんか3せき乗員じょういん6めい帰還きかんとなり、24はシドニーでの交通こうつう破壊はかいせんうつる。花房はなぶさ魚雷ぎょらい4ほん自爆じばくという不運ふうんいながらも、輸送ゆそうせん1せき(4812t)を撃沈げきちんし、1せき(7748t)を撃破げきは。さらにシドニーにたいする砲撃ほうげきおこなった[13]。クェゼリンへの帰還きかん25にち横須賀よこすかへは7がつ12にちである。

ガダルカナルのたたか

編集へんしゅう
 
ガダルカナルとう北部ほくぶ中央ちゅうおうのLunga Pointにある輸送ゆそう船団せんだんおも目標もくひょうとして8せきの「きのえ標的ひょうてき」が出撃しゅつげきし、5せき生還せいかんした。ははせんからの出撃しゅつげきはこの攻撃こうげき最後さいごとなる。
哨戒しょうかい

1942ねん昭和しょうわ17ねん8がつ7にちガダルカナルとうたたかはじまり、8がつ30にちソロモン方面ほうめん出撃しゅつげきした。9月7にちには僚艦りょうかん7せき散開さんかいせんくがてき襲撃しゅうげきする機会きかいはなかった。このころの「24」のぞくだいさん潜水せんすいたいだいいち潜水せんすい戦隊せんたい司令しれいかん山崎やまざきしげるあきら指揮しきにあり、だい監視かんし部隊ぶたいとしてインディスペンサブル海峡かいきょう英語えいごばん付近ふきん監視かんしおこない、10がつ初旬しょじゅん整備せいびけたのちふたた散開さんかいせんき、28にちには戦艦せんかん雷撃らいげきしたが命中めいちゅうはしていない[14]だいいち潜水せんすい戦隊せんたい僚艦りょうかん19」(木梨きなしたかいち艦長かんちょう)、「25」(田上たうえあきら艦長かんちょう)、「26」(横田よこたみのる艦長かんちょう)はべつ散開さんかいせんいていた[15]

ルンガ泊地はくち攻撃こうげき

連合れんごう艦隊かんたい司令しれいガダルカナルとうたたかに「きのえ標的ひょうてき部隊ぶたい投入とうにゅう決定けっていし、「24」はさん度目どめの「きのえ標的ひょうてき搭載とうさいかんえらばれる。攻撃こうげき目標もくひょうルンガ泊地はくち輸送ゆそうせんいで艦艇かんていである。花房はなぶさ11月23にち12月6にちと2きのえ標的ひょうてき」を発進はっしんさせたが、2せきとも帰還きかんとなっている[16]戦死せんししゃ11月22にち攻撃こうげきむかい泰明やすあき中尉ちゅうい佐野さの久五郎きゅうごろう一等いっとう兵曹へいそう、12月6にちつじ富雄とみお中尉ちゅうい坪倉つぼくら大盛おおもり一等いっとう兵曹へいそうである[17]。この4めい戦死せんししゃ連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん古賀こがみねいちで、功績こうせきぜんぐん布告ふこくされている。「きのえ標的ひょうてき」によるルンガ泊地はくち攻撃こうげきは、潜水艦せんすいかん輸送ゆそうまるどおり)に搭載とうさい潜水せんすいかん使用しようすることなどから中止ちゅうしとなるが、「きのえ標的ひょうてき」はこのたたかいではじめて生還せいかんしゃした。

まるとおる

いでブナラエたいする輸送ゆそうめいじられる。この潜水せんすいかん輸送ゆそうは、潜水せんすいかん本来ほんらい隠密おんみつせい攻撃こうげきりょく発揮はっきできず、また攻撃こうげきける可能かのうせいたかいため潜水せんすいかん乗員じょういんにはこのまれなかった任務にんむである。花房はなぶさ1943ねんの1がつから2がつにかけて7かい輸送ゆそうおこない、いずれも成功せいこうおさめた。輸送ゆそう物資ぶっし人員じんいん合計ごうけい174.5t、408めいである[18]。なお、この作戦さくせん行動こうどうで、交互こうご出撃しゅつげきしたのが「36潜水せんすいかん稲葉いなばとおるむね艦長かんちょう)であった[19]

キスカとう撤退てったい作戦さくせん

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1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつ横須賀よこすかもどふたた南方なんぽう出撃しゅつげきするが、5月12にちアッツとうたたかはじまり、24はだい艦隊かんたい基幹きかんとする北方ほっぽう部隊ぶたい編入へんにゅうとなる。アッツとう守備しゅびたい山崎やまざき保代やすよ部隊ぶたいちょう)ははげしく抵抗ていこうしたが全滅ぜんめつし、キスカとう守備しゅびたい救出きゅうしゅつはかられる。キスカへの輸送ゆそう成功せいこうしていた31井上いのうえ規矩きく艦長かんちょう)は、すでに行方ゆくえ不明ふめい(のち撃沈げきちん判明はんめい)となっていた。花房はなぶさ千島ちしま列島れっとうほろむしろから出撃しゅつげきしたが、井浦いうら祥二郎しょうじろう軍令ぐんれい潜水せんすいかん担当たんとう部員ぶいんによれば、目的もくてきアッツとう守備しゅびたい最後さいご連絡れんらくいんチチャコブわん(アッツとう)から収容しゅうようするためであったという[20]花房はなぶさは3にわたり接近せっきんこころみたが、連絡れんらくいん姿すがたはなかった。そのキスカとう周辺しゅうへん海域かいいき偵察ていさつかったが、6月11にちだい1キスカとう撤退てったい作戦さくせん参加さんかするためほろむしろもどるようめいぜられ、その命令めいれい受託じゅたく反応はんのう最後さいご消息しょうそくち、同日どうじつキスカとう付近ふきんべい海軍かいぐん駆潜艇くせんてい攻撃こうげきにより撃沈げきちんされ、総員そういん104めい戦死せんしした。

人物じんぶつ

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花房はなぶさについて井浦いうら稲葉いなばとおるむねはともに殊勲しゅくん潜水せんすい艦長かんちょうべている[21][19]稲葉いなばは、「大胆だいたん細心さいしん」、「有能ゆうのう練達れんたつ」など[19]賛辞さんじつらね、まただいさんどく潜水せんすいかん作戦さくせんかう直前ちょくぜんの「34潜水せんすい艦長かんちょう入江いりえいたる花房はなぶさにつき、「女房にょうぼう孝行こうこう」、「あいすべき存在そんざいだった」と会話かいわわしている[22]

ドンガメかい会員かいいん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
出典しゅってん
  1. ^ 海軍兵学校かいぐんへいがっこう沿革えんかく
  2. ^ 海底かいていじゅういちまんかいり』333ぺーじ
  3. ^ 海底かいていじゅういちまんかいり』300ぺーじ
  4. ^ 本当ほんとう特殊とくしゅ潜航せんこうていたたかい』87ぺーじ
  5. ^ 決戦けっせん特殊とくしゅ潜航せんこうてい』30-31ぺーじ
  6. ^ a b 特殊とくしゅ潜航せんこうてい』45ぺーじ
  7. ^ 決戦けっせん特殊とくしゅ潜航せんこうてい』34-36ぺーじ
  8. ^ 特殊とくしゅ潜航せんこうてい』53ぺーじ
  9. ^ 日本にっぽん潜水せんすいかん戦史せんし』56ぺーじ
  10. ^ 決戦けっせん特殊とくしゅ潜航せんこうてい』92ぺーじ
  11. ^ 日本にっぽん潜水せんすいかん戦史せんし』62ぺーじ
  12. ^ 特殊とくしゅ潜航せんこうてい』148ぺーじ、15ぺーじ
  13. ^ 日本にっぽん潜水せんすいかん戦史せんし』87ぺーじ
  14. ^ 日本にっぽん潜水せんすいかん戦史せんし』103-112ぺーじ
  15. ^ 日本にっぽん潜水せんすいかん戦史せんし』103ぺーじ
  16. ^ 本当ほんとう特殊とくしゅ潜航せんこうていたたかい』153ぺーじ
  17. ^ 特殊とくしゅ潜航せんこうてい』150-152ぺーじ
  18. ^ 日本にっぽん潜水せんすいかん戦史せんし』120ぺーじ
  19. ^ a b c 海底かいていじゅういちまんかいり』258ぺーじ
  20. ^ 潜水せんすい艦隊かんたい』214ぺーじ
  21. ^ 潜水せんすい艦隊かんたい』215ぺーじ
  22. ^ 海底かいていじゅういちまんかいり』332ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井浦いうら祥二郎しょうじろう潜水せんすい艦隊かんたい朝日あさひソノラマ、1985ねんISBN 4-257-17025-5 
  • 稲葉いなばとおるむね海底かいていじゅういちまんかいり朝日あさひソノラマ、1984ねんISBN 4-257-17046-8 
  • 坂本さかもときむよし日本にっぽん潜水せんすいかん戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1979ねん 
  • 佐々木ささきはんきゅうこん和泉いずみ喜次郎きじろう決戦けっせん 特殊とくしゅ潜航せんこうてい朝日あさひソノラマ、1984ねんISBN 4-257-17047-6 
  • 佐野さの大和やまと特殊とくしゅ潜航せんこうてい図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1978ねん 著者ちょしゃ海軍かいぐん大尉たいいもと特殊とくしゅ潜航せんこうていていちょう戦後せんご国学院大学こくがくいんだいがく教授きょうじゅ。)
  • 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねんISBN 4-7698-1246-9 
  • 中村なかむら秀樹ひでき本当ほんとう特殊とくしゅ潜航せんこうていたたかい』光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、2007ねんISBN 978-4-7698-2533-3 
  • 山崎やまざきしげるあきら回想かいそう帝国ていこく海軍かいぐん図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1977ねん 
  • 明治めいじひゃくねん叢書そうしょだい74かん海軍兵学校かいぐんへいがっこう沿革えんかくはら書房しょぼう