イングランド国教 こっきょう 会 かい (イングランドこっきょうかい、英 えい : Church of England, C of E )は、16世紀 せいき (1534年 ねん )のイングランド王国 おうこく で成立 せいりつ したキリスト教会 きょうかい の名称 めいしょう で、世界 せかい に広 ひろ がる聖 せい 公会 こうかい (アングリカン・コミュニオン )のうち最初 さいしょ に成立 せいりつ し、その母体 ぼたい となった教会 きょうかい [ 1] 。
英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい (えいこくこっきょうかい)、イギリス国教 こっきょう 会 かい (イギリスこっきょうかい)[ 2] 、イングランド教会 きょうかい (イングランドきょうかい)[ 3] 、または聖 せい 公会 こうかい 内部 ないぶ では英国 えいこく 聖 せい 公会 こうかい [ 4] (えいこくせいこうかい)とも呼 よ ばれる。
聖 せい 公会 こうかい (アングリカン・チャーチ 、英 えい :Anglican Church)という名称 めいしょう は、アングリカン・コミュニオン(Anglican Communion)全体 ぜんたい の日本語 にほんご 訳 やく であると同時 どうじ に、イングランド国外 こくがい におけるイングランド国教 こっきょう 会 かい の姉妹 しまい 教会 きょうかい の名称 めいしょう の日本語 にほんご 訳 わけ である[ 5] 。
カンタベリー管区 かんく のカンタベリー大 だい 聖堂 せいどう
ヨーク管区 かんく のヨーク大 だい 聖堂 せいどう
グレートブリテン島 とう にキリスト教 きりすときょう が初 はじ めて到来 とうらい したのは、ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい の紀元 きげん 200年 ねん 頃 ころ のことであると考 かんが えられている。イングランド(ブリタンニア )はロ ろ ーマ帝国 まていこく に征服 せいふく されたため、禁教 きんきょう 時代 じだい でも、軍人 ぐんじん 、貿易 ぼうえき 商人 しょうにん のなかに信者 しんじゃ がいた。イングランド南部 なんぶ にセント・オールバンズ という市 し があるが、ここで3世紀 せいき 初 はじ めに聖 せい オルバン(英語 えいご 版 ばん ) が殉教 じゅんきょう したという伝説 でんせつ も生 う まれている。キリスト教 きょう はウェールズ 、スコットランド 、アイルランド へも別々 べつべつ に宣教 せんきょう されて、ローマ人 じん の撤退 てったい 後 ご も残 のこ った。
しかし、キリスト教 きょう の歴史 れきし の中 なか では正式 せいしき なイングランドの宣教 せんきょう は、カンタベリーのアウグスティヌス によるものを最初 さいしょ であると見 み なしている。アウグスティヌスは教皇 きょうこう グレゴリウス1世 せい の命 いのち により、ケント のエゼルベルト 王 おう の元 もと へと派遣 はけん された宣教師 せんきょうし であった。597年 ねん 、アウグスティヌスは初代 しょだい カンタベリー大司教 だいしきょう に着座 ちゃくざ する。これが聖 せい 公会 こうかい の起源 きげん の一 ひと つとされる。664年 ねん に行 おこな われたウィットビー教会 きょうかい 会議 かいぎ ではノーサンブリア のオスウィの指導 しどう により、それまで用 もち いられてきたケルト的 てき 典礼 てんれい を廃 はい し、ローマ式 しき 典礼 てんれい を取 と り入 い れることを決定 けってい したことが大 おお きな意義 いぎ を持 も っている[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。
他 た のヨーロッパ諸国 しょこく と同様 どうよう に、イギリスでも中世 ちゅうせい 後期 こうき 以降 いこう 、王権 おうけん と教皇 きょうこう 権 けん の争 あらそ いが顕著 けんちょ となった。論点 ろんてん となったのは教会 きょうかい の保有 ほゆう する資産 しさん の問題 もんだい 、聖職 せいしょく 者 しゃ に対 たい する裁判 さいばん 権 けん 、聖職 せいしょく 叙任 じょにん 権 けん などであった。特 とく にヘンリー2世 せい とジョン王 おう の時代 じだい に王 おう と教皇 きょうこう が激 はげ しく争 あらそ った。
王権 おうけん と教皇 きょうこう 権 けん の争 あらそ いはあっても、イングランドの教会 きょうかい は中世 ちゅうせい を通 つう じてローマとの一致 いっち を保 たも ち続 つづ けていた。イングランド教会 きょうかい とローマの間 あいだ に最初 さいしょ の決定的 けっていてき な分裂 ぶんれつ が生 しょう じたのは、ヘンリー8世 せい の時代 じだい である。その原因 げんいん はヘンリー8世 せい の離婚 りこん 問題 もんだい がこじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴン と離婚 りこん しようとしたヘンリー8世 せい が、教皇 きょうこう に婚姻 こんいん の無効 むこう を宣言 せんげん するよう求 もと めたにもかかわらず、教皇 きょうこう クレメンス7世 せい がこれを却下 きゃっか したことが引 ひ き金 がね となった。これは単 たん なる離婚 りこん 問題 もんだい というより、キャサリンの甥 おい にあたる神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール5世 せい の思惑 おもわく なども絡 から んだ、複雑 ふくざつ な政治 せいじ 問題 もんだい であった。
ヘンリー8世 せい は1527年 ねん に教皇 きょうこう に対 たい して、キャサリンとの結婚 けっこん の無効 むこう を認 みと めるように願 ねが った。1529年 ねん までに繰 く り返 かえ し行 おこな われた教皇 きょうこう への働 はたら きかけが失敗 しっぱい に終 お わると、ヘンリー8世 せい は態度 たいど を変 か え、さまざまな古代 こだい 以来 いらい の文献 ぶんけん を基 もと に、霊的 れいてき 首位 しゅい 権 けん もまた王 おう にあり、教皇 きょうこう の首位 しゅい 権 けん は違法 いほう であるという論文 ろんぶん をまとめ、教皇 きょうこう に送付 そうふ した。続 つづ いて1531年 ねん にはイングランドの聖職 せいしょく 者 しゃ たちに対 たい し、王 おう による裁判 さいばん 権 けん を保留 ほりゅう する代 か わりに10万 まん ポンド を支払 しはら うよう求 もと めた。これはヘンリー8世 せい が聖職 せいしょく 者 しゃ にとっても首長 しゅちょう であり、保護 ほご 者 しゃ であるということをはっきりと示 しめ すものとなった。1531年 ねん 2月 がつ 11日 にち 、イングランドの聖職 せいしょく 者 しゃ たちはヘンリー8世 せい がイングランド教会 きょうかい の首長 しゅちょう であると認 みと める決議 けつぎ を行 おこな った。しかし、ここに至 いた ってもヘンリー8世 せい は教皇 きょうこう との和解 わかい を模索 もさく していた。
1532年 ねん 5月になると、イングランドの聖職 せいしょく 者 しゃ 会 かい は自 みずか らの法的 ほうてき 独立 どくりつ を放棄 ほうき し、完全 かんぜん に王 おう に従 したが う旨 むね を発表 はっぴょう した。1533年 ねん には上告 じょうこく 禁止 きんし 法 ほう が制定 せいてい され、それまで認 みと められていた聖職 せいしょく 者 しゃ の教皇 きょうこう への上訴 じょうそ が禁 きん じられ、カンタベリー とヨーク の大司教 だいしきょう が教会 きょうかい 裁 さい 治 ち の権力 けんりょく を保持 ほじ することになった。ヘンリー8世 せい の言 い いなりであったトマス・クランマー がカンタベリー大司教 だいしきょう の座 ざ に就 つ くと、先 さき の裁定 さいてい に従 したが ってクランマーが王 おう の婚姻 こんいん 無効 むこう を認 みと め、王 おう はアン・ブーリン と再婚 さいこん した。教皇 きょうこう がヘンリー8世 せい を破門 はもん したことで両者 りょうしゃ の分裂 ぶんれつ は決定的 けっていてき となった。ヘンリー8世 せい は1534年 ねん に国王 こくおう 至上 しじょう 法 ほう (首長 しゅちょう 令 れい )を公布 こうふ してイングランドの教会 きょうかい のトップに君臨 くんりん した。イングランドの教会 きょうかい を自由 じゆう に出来 でき る地位 ちい に就 つ いたことは、ヘンリー8世 せい が離婚 りこん を自由 じゆう にできるというだけでなく、教会 きょうかい 財産 ざいさん を思 おも うままにしたいという誘惑 ゆうわく を感 かん じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェル のもとで委員 いいん 会 かい が結成 けっせい され修道院 しゅうどういん 解散 かいさん が断行 だんこう 、修道院 しゅうどういん が保持 ほじ していた財産 ざいさん が国家 こっか へ移 うつ されていった。こうしてイングランドの修道院 しゅうどういん は破壊 はかい され、荒廃 こうはい した。
ローマと袂 たもと を分 わ かったとはいえ、イングランド教会 きょうかい は決 けっ してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世 せい はもともとプロテスタントを攻撃 こうげき する論文 ろんぶん を発表 はっぴょう して教皇 きょうこう レオ10世 せい から「信仰 しんこう の擁護 ようご 者 しゃ 」(Defender of the Faith )という称号 しょうごう を与 あた えられており、それを誇 ほこ っていた。ヘンリー8世 せい がローマと訣別 けつべつ したことで、大陸 たいりく のプロテスタント運動 うんどう が急速 きゅうそく にイングランドに流入 りゅうにゅう し、聖 きよし 像 ぞう 破壊 はかい 、巡礼 じゅんれい 地 ち の撤廃 てっぱい 、聖人 せいじん 暦 れき の廃止 はいし などを行 おこな った。しかしヘンリー8世 せい 自身 じしん は信条 しんじょう としてカトリックそのものであり、1539年 ねん のイングランド教会 きょうかい の6箇条 かじょう においてイングランド教会 きょうかい がカトリック教会 きょうかい 的 てき な性質 せいしつ を持 も ち続 つづ けることを宣言 せんげん している。
変革 へんかく を嫌 きら ったヘンリー8世 せい と違 ちが った息子 むすこ エドワード6世 せい の下 もと で、イングランド教会 きょうかい は最初 さいしょ の変革 へんかく を断行 だんこう した。それは典礼 てんれい ・祈祷 きとう 書 しょ の英語 えいご 翻訳 ほんやく であり、プロテスタント的 てき な信仰 しんこう の確立 かくりつ が目指 めざ された。こうして国家 こっか 事業 じぎょう として出版 しゅっぱん されたのが1549年 ねん の『イングランド国教 こっきょう 会 かい 祈祷 きとう 書 しょ 』であり、1552年 ねん に最初 さいしょ の改訂 かいてい が行 おこな われた。
エドワード6世 せい の死後 しご 、異母 いぼ 姉 あね でキャサリン・オブ・アラゴンの娘 むすめ メアリー1世 せい が王位 おうい に就 つ いた。熱心 ねっしん なカトリック教徒 きょうと であったメアリー1世 せい はヘンリー8世 せい とエドワード6世 せい の時代 じだい に行 おこな われた典礼 てんれい の改革 かいかく をすべて廃 はい し、再 ふたた びイングランドをカトリックに戻 もど そうとした。しかし反感 はんかん を買 か い、メアリー1世 せい の死後 しご 、カトリックへの復帰 ふっき 運動 うんどう は消 き えた。
真 しん の意味 いみ でのイングランド国教 こっきょう 会 かい のスタートは、1558年 ねん に王位 おうい に就 つ いたアン・ブーリンの娘 むすめ でメアリー1世 せい の異母 いぼ 妹 いもうと エリザベス1世 せい の下 した で切 き られることになる。エリザベス1世 せい は教皇 きょうこう の影響 えいきょう 力 りょく がイングランドに及 およ ぶことを阻止 そし しようとしていたが、ローマからの完全 かんぜん な分離 ぶんり までは望 のぞ んでいなかった。神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール5世 せい が彼女 かのじょ をかばったこともあって、エリザベス1世 せい は1570年 ねん 、ピウス5世 せい の時代 じだい まで破門 はもん されることはなかった。
イングランド国教 こっきょう 会 かい が正式 せいしき にローマから分 わ かれることになるのは1559年 ねん である。議会 ぎかい はエリザベス1世 せい を「信仰 しんこう の擁護 ようご 者 しゃ 」(首長 しゅちょう )として認識 にんしき し、首長 しゅちょう 令 れい を採択 さいたく して反 はん プロテスタント的 てき 法 ほう を廃止 はいし した。さらに女王 じょおう は1563年 ねん の聖職 せいしょく 者 しゃ 会議 かいぎ で「イングランド国教 こっきょう 会 かい の39箇条 かじょう 」を制定 せいてい し、イングランド国内 こくない の国教 こっきょう 会 かい を強化 きょうか した。
このころから、イングランドにおける清教徒 せいきょうと (ピューリタン )と国教 こっきょう 会派 かいは の対立 たいりつ が深刻 しんこく 化 か した。1603年 ねん に即位 そくい したジェームズ1世 せい は強 つよ く国教 こっきょう 会派 かいは を支持 しじ 、また王権 おうけん 神授 しんじゅ 説 せつ を称 とな えて国王 こくおう の絶対 ぜったい 性 せい を主張 しゅちょう したため、プロテスタント諸派 しょは から反感 はんかん を持 も たれたが、一方 いっぽう で欽定 きんてい 訳 やく 聖書 せいしょ の出版 しゅっぱん を指示 しじ するなど、宗教 しゅうきょう 的 てき な貢献 こうけん も大 おお きかった。チャールズ1世 せい の治世 ちせい では国教 こっきょう 会派 かいは がスコットランド にも教化 きょうか しようとしたために、反発 はんぱつ した人々 ひとびと の手 て によって清教徒 せいきょうと 革命 かくめい (イングランド内戦 ないせん )が勃発 ぼっぱつ し、敗 やぶ れたチャールズ1世 せい は1649年 ねん に処刑 しょけい された。しかしその後 ご 、王政 おうせい 復古 ふっこ や名誉 めいよ 革命 かくめい を経 へ て、かえって国教 こっきょう 会 かい 主流 しゅりゅう 派 は の地位 ちい は強化 きょうか された。非 ひ 国 くに 教徒 きょうと は名誉 めいよ 革命 かくめい 以降 いこう 、1828年 ねん に審査 しんさ 律 りつ が廃止 はいし されるまで公職 こうしょく に着 つ く事 こと が禁 きん じられた。
イングランド国教 こっきょう 会 かい 主流 しゅりゅう 派 は と対立 たいりつ した人々 ひとびと の中 なか には、国教 こっきょう 会 かい 内部 ないぶ で改革 かいかく を行 おこな おうとする非 ひ 分離 ぶんり 派 は (長老 ちょうろう 派 は 教会 きょうかい など)もいたが、国教 こっきょう 会 かい から出 で て別 べつ の教会 きょうかい を立 た てる者 もの も多 おお かった。後者 こうしゃ を分離 ぶんり 派 は と呼 よ ぶ。このような国教 こっきょう 会 かい から出 で たプロテスタント会派 かいは に、バプテスト教会 きょうかい 、クエーカー 、メソジスト 、会衆 かいしゅう 派 は 教会 きょうかい (独立 どくりつ 派 は )などがある。
宗教 しゅうきょう 的 てき シンクレティズム に基 もと づくユニテリアン 主義 しゅぎ も国教 こっきょう 会 かい の賛同 さんどう を得 え られずに、1774年 ねん に分離 ぶんり 独立 どくりつ し[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 、アメリカ大陸 あめりかたいりく 植民 しょくみん 地 ち ではピューリタン等 とう が会衆 かいしゅう 制 せい を形成 けいせい し、アメリカの独立 どくりつ に至 いた った[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。
1829年 ねん のカトリック教 かとりっくきょう 解放 かいほう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) は、カトリック解放 かいほう に待望 たいぼう 久 ひさ しかった市民 しみん 的 てき 諸 しょ 権利 けんり の回復 かいふく を保障 ほしょう し、16世紀 せいき 以来 いらい 非合法 ひごうほう 化 か されてきたカトリック教会 きょうかい の再建 さいけん を可能 かのう とした。1833年 ねん に始 はじ まったオックスフォード運動 うんどう は国教 こっきょう 会 かい のカトリック文化 ぶんか 遺産 いさん 意識 いしき を反映 はんえい している。オックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく 内 ない に始 はじ まったこの運動 うんどう は、ジョン・ヘンリー・ニューマン (最終 さいしゅう 的 てき に国教 こっきょう 会 かい からカトリックに改宗 かいしゅう した)とエドワード・プュージー (英語 えいご 版 ばん ) らによって主導 しゅどう されたものであった。
現代 げんだい のイングランド国教 こっきょう 会 かい は、世界 せかい の聖 せい 公会 こうかい において主導 しゅどう 的 てき 役割 やくわり を果 は たすと共 とも に、ローマ・カトリックなどとの対話 たいわ に積極 せっきょく 的 てき に乗 の り出 だ し、エキュメニカル運動 うんどう にも積極 せっきょく 的 てき な役割 やくわり を果 は たしている。ただしカトリック側 がわ は1903年 ねん 、教皇 きょうこう レオ13世 せい の大 だい 勅書 ちょくしょ (Apostolicae Curae et Caritatis )で、聖職 せいしょく 者 しゃ の叙任 じょにん は無効 むこう と宣言 せんげん しており、東方 とうほう 教会 きょうかい とは若干 じゃっかん 差別 さべつ がある。
20世紀 せいき 末 まつ から21世紀 せいき 初頭 しょとう にかけてイングランド教会 きょうかい で女性 じょせい の聖職 せいしょく 者 しゃ の叙任 じょにん が進 すす み、2015年 ねん には初 はじ めての主教 しゅきょう が生 う まれて話題 わだい となった[ 8] 。
救世 きゅうせい 軍 ぐん と類似 るいじ した社会 しゃかい 奉仕 ほうし 団体 だんたい 「チャーチ・アーミー」(教会 きょうかい 軍 ぐん )を組織 そしき し、運用 うんよう している。