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藤原純友 - Wikipedia

藤原ふじわらじゅんとも

日本にっぽんかんじん海賊かいぞく

藤原ふじわら じゅんとも(ふじわら の すみとも)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき貴族きぞく海賊かいぞく藤原ふじわらきたみぎだいべん藤原ふじわらどおけいまごだいおさむしょう藤原ふじわら良範よしのり三男さんなん[5]おとうと藤原ふじわらじゅんじょうがいる。官位かんいしたがえ[5][注釈ちゅうしゃく 1]伊予いよじょう[5]

 
藤原ふじわら じゅんとも
藤原ふじわらじゅんとも歌川うたがわかおるただし ちく神社じんじゃくら
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 不明ふめい 
死没しぼつ

てんけい4ねん6がつ20日はつか[1][2]941ねん7がつ17にち)?

げん宇和島うわじま? 
別名べつめい 南海なんかいりゅう
官位かんい したがえ伊予いよじょう
氏族しぞく 藤原ふじわらきた長良ながらりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら良範よしのり[3]
兄弟きょうだい じゅんはる純美じゅんびじゅんともじゅんじょう純正じゅんせいじゅんもとじゅんぎょうじゅんぎょう
有信ありのぶ紀年きねん王丸おうまる真純ますみ
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瀬戸内せとうち朝廷ちょうていたい反乱はんらんこしたことでられる。じゅんともらん関東かんとう平将門たいらのまさかどこしたらんあわせてうけたまわひらてんけいらんばれる。

生涯しょうがい

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歌川うたがわ国芳くによし

出生しゅっしょう故郷こきょう現在げんざいまで不明ふめいだが、伊予いよこく現在げんざい愛媛えひめけん)だというせつもっと有力ゆうりょくである。藤原ふじわらなかもっとさかえた藤原ふじわらきた出身しゅっしん大叔父おおおじには藤原基経ふじわらのもとつねがいるが、はやくにちちうしない、での出世しゅっせのぞむべくもなく地方ちほうかんとなる。

当初とうしょちち従兄弟いとこである伊予いよもり藤原ふじわら元名もとなしたがって伊予いよじょうとして、瀬戸内せとうち横行おうこうする海賊かいぞく鎮圧ちんあつするがわにあった。帰任きにん海賊かいぞくおい宣旨せんじたまわり、うけたまわひらた6ねん936ねん)3がつごろ再度さいど伊予いよこく下向げこうした[6]。『日本にっぽんりゃくうけたまわひら6ねん6がつぼうじょうによれば、このころ海賊かいぞく頭領とうりょうとなり[注釈ちゅうしゃく 2]伊予いよ愛媛えひめけん)の日振島ひぶりしま根城ねじろとしてせんそう以上いじょうふねあやつって周辺しゅうへん海域かいいきらし、やがて瀬戸内海せとないかい全域ぜんいき勢力せいりょくばしたとされているが、実際じっさいにはうけたまわひら6ねん時点じてんではじゅんとも海賊かいぞくついするがわであったとするのが近年きんねん研究けんきゅう動向どうこうである。

関東かんとう平将門たいらのまさかどらんこしたころとほぼときおなじくして瀬戸内せとうち海賊かいぞくひきいてらんこし、藤原ふじわらじゅんとも勢力せいりょく畿内きない進出しんしゅつてんけい2ねん939ねん)にはじゅんとも部下ぶか藤原ふじわらぶんもと摂津せっつこく須岐えきにおいて備前びぜんこく播磨はりまこくかい備前びぜんかい藤原ふじわらだか播磨はりまかい島田しまだおもんみみき)を襲撃しゅうげきさせ、これをらえた。よくてんけい3ねん940ねん)には、2がつ淡路あわじこく・8がつには伊予いよこく讃岐さぬきこく国府こくふ襲撃しゅうげきし、略奪りゃくだつおこなった。瀬戸内海せとないかい転戦てんせんし、てんけい4ねん941ねん)5がつ上旬じょうじゅんには大宰府だざいふ陥落かんらくさせた。

朝廷ちょうていじゅんとも追討ついとうのためについ使つかい長官ちょうかん小野おの好古よしふる次官じかん源経基みなもとのつねもとしゅてん藤原ふじわらけいこう大蔵おおくらはるによるへいけ、博多湾はかたわんたたかいで、じゅんとも船団せんだんつい使つかいぐんにより壊滅かいめつさせられた。そののことはじゅんともかんする資料しりょうとぼしく現在げんざいまで詳細しょうさい不明ふめいてんおおい。どうてんけい4ねん6がつ今日きょう宇和島うわじまころされたとも、らえられて獄中ごくちゅう病死びょうししたとも、あるいはそれらは国府こくふ役人やくにん捏造ねつぞう真実しんじつ海賊かいぞく大船おおぶねだんひきいて南海なんかい彼方かなたえていったともわれている。 

将門まさかどらんがわずか2かげつ平定へいていされたのにたいし、じゅんともらんは2ねんおよんだ。また、じゅんとも合戦かっせん様子ようすは『じゅんとも追討ついとう』として、つい使により政府せいふへの報告ほうこくがなされたとされ、一部いちぶが『扶桑ふそう略記りゃっき』に引用いんようされている。

 
中野なかの神社じんじゃあと石碑せきひ

藤原ふじわらじゅんともまつった神社じんじゃ

  • 中野なかの神社じんじゃ[7]げん愛媛えひめけん新居浜にいはま):当地とうちとらえられころされたじゅんとも怨霊おんりょうまつまもがみえた全国ぜんこく唯一ゆいいつしょ
  • じゅんとも神社じんじゃげん岡山おかやまけん松島まつしま):松島まつしまひがしにある釜島かましまじゅん友軍ゆうぐん根拠地こんきょちひとつで松島まつしまには出城でしろがあったことから島民とうみん守護神しゅごじんとしてほこらいまでは鎮守ちんじゅしゃとなっている。

じゅんとも関白かんぱく平将門たいらのまさかど天皇てんのうになり天下でんか政治せいじおこなうと約束やくそくして東国とうごく西国さいこく反乱はんらんこしたという記事きじがあり、比叡山ひえいざんちかいをわしたとされる(『だいかがみ』)[8]。このりょうめい共謀きょうぼう疑惑ぎわく事件じけん発生はっせい当初とうしょから貴族きぞくあいだにあったが、実際じっさい将門まさかどじゅんともらず、じゅんとも将門まさかど反乱はんらんてから行動こうどうしたのが実情じつじょうではないかと指摘してきされている[8]

しかし、1976ねん大河たいがドラマふうくもにじでは 加藤かとうつよしえんじる平将門たいらのまさかど緒形おがたけんえんじる藤原ふじわらじゅんとも京都きょうとさけみながらはなしをして今後こんごかたうシーンがあり話題わだいとなった。

  • ちち藤原ふじわら良範よしのり
  • ははしょう
  • 生母せいぼ不明ふめい子女しじょ
    • 男子だんし藤原ふじわら有信ありのぶ[5]
    • 男子だんし藤原ふじわら紀年きねん[5]
    • 男子だんし藤原ふじわら王丸おうまる[5]元服げんぷく良純よしずみともされるが不明ふめい[よう出典しゅってん]
    • 男子だんし藤原ふじわら真純ますみ[9](または直純なおずみ[10]

後世こうせい有馬ありま大村おおむららは藤原ふじわらじゅんともまご藤原ふじわらただしきよし子孫しそんしょうした[注釈ちゅうしゃく 3]ものの、藤原ふじわらただしきよしとは、本来ほんらい肥前ひぜんこく藤津ふじつそう庄司しょうじ平正盛たいらのまさもりたれたたいら清澄きよすみたいらただしきよしであり[注釈ちゅうしゃく 4]先祖せんぞ汚名おめいそそぐために藤原ふじわらじゅんとも末裔まつえいであると僭称せんしょうしたとされる[11]筑後ちくごこく蒲池かまちもまた藤原ふじわらじゅんとも後裔こうえいとする伝承でんしょうがあるが[12]つながりがあるのはたちばなこうよりゆきとされる[よう出典しゅってん]

じゅんとも藤原ふじわら血統けっとうであることには異説いせつがある。それによるとじゅんとも伊予いよ豪族ごうぞく越智おち一族いちぞくで、今治いまばり高橋たかはしさと高橋たかはし友久ともひさであったが、良範よしのり国司こくしとして赴任ふにんしたおりに養子ようしになり、藤原ふじわらせい名乗なのったというものである。しかしこれは歴史れきしてきにはありないとして否定ひていされている[よう説明せつめい][11]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 実際じっさいに、てんけい3ねん940ねん)2がつ反乱はんらんこしたじゅんとも懐柔かいじゅうするために、朝廷ちょうていじゅんともしたがえじょしたとされる。
  2. ^ ただし、この過程かていについては、土着どちゃくする過程かていみずからが海賊かいぞくしたとするせつ[よう出典しゅってん]と、土着どちゃく後任こうにん伊予いよもりであるきの淑人よしと協力きょうりょくして海賊かいぞく帰順きじゅんにあたっているうちにその信望しんぼうあつめたもののきの淑人よしとへの不満ふまんからかれらにされて指導しどうしゃとなったとするせつがある[よう出典しゅってん]
  3. ^ 姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん』では肥前ひぜんこく豪族ごうぞくである大村おおむらただし後裔こうえいとする。
  4. ^ 中秋ちゅうしゅう』、『ちゅう右記うき』、『百錬ひゃくれんしょう』などには元永もとなが2ねん1119ねん)の出来事できごととして関連かんれんする記事きじえる。

出典しゅってん

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  1. ^ 松原まつばら 1999, p. 192.
  2. ^ 寺内てらうち 2022, p. 163.
  3. ^ 寺内てらうち 2022, p. 1.
  4. ^ ほらいん 1903, p. 76.
  5. ^ a b c d e f 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく[4]
  6. ^ 松原まつばら 1999, p. 130.
  7. ^ 941ねん死後しごまもなくして中野なかのさん中野なかの神社じんじゃとしてまつられていたが明治めいじ2ねん新高にいたか神社じんじゃ境内けいだいしゃとしてうつされていた。だが平成へいせい16ねん台風たいふうにより全壊ぜんかい御霊代みたましろ新高にいたか神社じんじゃ本殿ほんでん合祀ごうしされた。[1]
  8. ^ a b 福田ふくだ 1995, p. 50.
  9. ^ 有馬ありま系図けいず
  10. ^ 大村おおむら系図けいず
  11. ^ a b 亀井かめいえいまれ藤原ふじわらじゅんとも伝承でんしょうかんするいち考察こうさつ」『研究けんきゅう紀要きようだい6かん愛媛えひめけん歴史れきし文化ぶんか博物館はくぶつかん、2001ねん3がつ、1-13ぺーじdoi:10.24484/sitereports.119186-29551CRID 1390573407598617984 
  12. ^ 姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん』『蒲池かまち物語ものがたり』『筑後ちくご国史こくし』。

参考さんこう文献ぶんけん

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藤原ふじわらじゅんとも登場とうじょうするおも作品さくひん

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小説しょうせつ
吉川よしかわ英治えいじたいら将門まさかど』(講談社こうだんしゃ
海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろううみふうにじと』※絶版ぜっぱん
北方きたがた謙三けんぞう絶海ぜっかいにあらず』(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ
夢枕ゆめまくらばく陰陽いんよう たき夜叉やしゃひめ』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう
小池こいけ一夫かずお夢源氏剣祭文ゆめげんじつるぎのさいもん』(角川書店かどかわしょてん
テレビドラマ
ふうくもにじ』(NHK大河たいがドラマ1976ねん) - 海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろうの『うみふうにじと』および『平将門たいらのまさかど』が原作げんさくじゅんともやく緒形おがたけん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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