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直木なおき三十五さんじゅうご」のはんあいだ差分さぶん

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このころ直木なおきあさからばんまで着物きものをぞろりとひっかけるようにて、まさひろしをつかまえると「おい、マサおおやけ」とまってようをいいつけた。かねもないのに「スリーキャッスル(煙草たばこ)をってこい」といい、「おっさん、きむがない」とこたえると「ぬすんでいッ!」と怒鳴どなるような人物じんぶつだった。まさひろしは「生意気なまいきながら、早稲田大学わせだだいがく中退ちゅうたい程度ていどたいしたひとだとはおもわなかった」とかたっている。
このころ直木なおきあさからばんまで着物きものをぞろりとひっかけるようにて、まさひろしをつかまえると「おい、マサおおやけ」とまってようをいいつけた。かねもないのに「スリーキャッスル(煙草たばこ)をってこい」といい、「おっさん、きむがない」とこたえると「ぬすんでいッ!」と怒鳴どなるような人物じんぶつだった。まさひろしは「生意気なまいきながら、早稲田大学わせだだいがく中退ちゅうたい程度ていどたいしたひとだとはおもわなかった」とかたっている。


直木なおきは1925ねん大正たいしょう14ねん)に[[菊池きくちひろし]]をあたまに[[連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい]]を設立せつりつして映画えいが製作せいさくした。資金しきんすべてマキノ省三しょうぞうさせていた。映画えいがじんからは「作家さっかゴロ」「映画えいがゴロ」と陰口かげぐちをたたかれ、まさひろしは「直木なおき三十五さんじゅうごっておとこ活動かつどう映画えいが制作せいさく関係かんけいしゃ蔑称べっしょう)のブローカーになりがったやつで、きむしいだけでなにかない作家さっかだ」とひとからおしえてもらったという。1926ねん大正たいしょう15ねん)の『山賊さんぞく』はマキノプロの施設しせつ資金しきんり、直木なおきはただタイトルをすだけでかねっていた。まさひろしは「文芸ぶんげい作家さっか協会きょうかいいん人達ひとたちは、ずかしいということをらないひとたちばかりだと真面目まじめおもったものである」ともべている。
直木なおきは1925ねん大正たいしょう14ねん)に[[菊池きくちひろし]]をあたまに[[連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい]]を設立せつりつして映画えいが製作せいさくした。資金しきんすべてマキノ省三しょうぞうさせていた。映画えいがじんからは「作家さっかゴロ」「映画えいがゴロ」と陰口かげぐちをたたかれ、まさひろしは「直木なおき三十五さんじゅうごっておとこ[[活動かつどう写真しゃしん|活動かつどう]]映画えいが制作せいさく関係かんけいしゃ蔑称べっしょう)のブローカーになりがったやつで、きむしいだけでなにかない作家さっかだ」とひとからおしえてもらったという。1926ねん大正たいしょう15ねん)の『山賊さんぞく』はマキノプロの施設しせつ資金しきんり、直木なおきはただタイトルをすだけでかねっていた。まさひろしは「文芸ぶんげい作家さっか協会きょうかいいん人達ひとたちは、ずかしいということをらないひとたちばかりだと真面目まじめおもったものである」ともべている。


直木なおきはのちに「大衆たいしゅう文芸ぶんげい同人どうじん」とあらため、連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかいおな陣容じんようで『野火のび』を製作せいさく。マキノ雅弘まさひろは「大衆たいしゅう文芸ぶんげい同人どうじん聯合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかいも、相手あいて活動かつどうだとタカをくくってものにしていたようだ。連中れんちゅうまわされて、マキノは、せいぜいどっかの雑誌ざっし宣伝せんでんのための映画えいがきゃくせていたのではなかったろうか」としている。
直木なおきはのちに「大衆たいしゅう文芸ぶんげい同人どうじん」とあらため、連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかいおな陣容じんようで『野火のび』を製作せいさく。マキノ雅弘まさひろは「大衆たいしゅう文芸ぶんげい同人どうじん聯合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかいも、相手あいて活動かつどうだとタカをくくってものにしていたようだ。連中れんちゅうまわされて、マキノは、せいぜいどっかの雑誌ざっし宣伝せんでんのための映画えいがきゃくせていたのではなかったろうか」としている。

2024ねん5がつ24にち (金)きん 23:18時点じてんにおける最新さいしんばん

直木なおき 三十五さんじゅうご
(なおき さんじゅうご)
直木なおき三十五さんじゅうご
誕生たんじょう 植村うえむら 宗一そういち(うえむら そういち)
1891ねん2がつ12にち
日本の旗 日本にっぽん 大阪おおさか大阪おおさかみなみうち安堂寺あんどうじまちどおり2丁目ちょうめ
現在げんざい大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう安堂寺あんどうじまち2丁目ちょうめ
死没しぼつ (1934-02-24) 1934ねん2がつ24にち(43さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごうほん富士ふじまち
げん東京とうきょう文京ぶんきょう本郷ほんごう
墓地ぼち 長昌寺ちょうしょうじ横浜よこはま金沢かなざわ
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
脚本きゃくほん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
ジャンル 大衆たいしゅう小説しょうせつ
主題しゅだい 時代じだい小説しょうせつ
時局じきょく小説しょうせつ
代表だいひょうさく合戦かっせん』(1928ねん
由比ゆひ根元ねもとだいころせ』(1929ねん
南国なんごく太平たへい』(1931ねん
楠木くすのき正成まさしげ』(1932ねん
えきまんきゅうすけ』(1932ねん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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直木なおき 三十五さんじゅうご(なおき さんじゅうご、1891ねん明治めいじ24ねん2がつ12にち - 1934ねん昭和しょうわ9ねん2がつ24にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ脚本きゃくほん映画えいが監督かんとく本名ほんみょう植村うえむら 宗一そういち(うえむら そういち)。おとうと東洋とうよう学者がくしゃ植村うえむら清二せいじエンターテインメントけい作品さくひんあたえられる直木なおき三十五さんじゅうごしょう通称つうしょう直木賞なおきしょう」)は、かれ由来ゆらいする。

来歴らいれき

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1891ねん明治めいじ24ねん2がつ12にち現在げんざい大阪おおさか中央ちゅうおう安堂寺あんどうじまち2丁目ちょうめまれる。

ちち反対はんたいして早稲田大学わせだだいがく英文えいぶんて、早稲田大学わせだだいがく高等こうとう師範しはん英語えいご進学しんがくしたが、月謝げっしゃ未納みのう中退ちゅうたい。しかし早稲田大学わせだだいがくへは登校とうこうつづけており、卒業そつぎょう記念きねん写真しゃしん撮影さつえいにも参加さんかしている。

1920ねん大正たいしょう9ねん)、里見さとみ久米くめ正雄まさお吉井よしいいさむ田中たなかじゅんらによって創刊そうかんされた『人間にんげん』の編集へんしゅう担当たんとう。この当時とうじ本名ほんみょう植村うえむら宗一そういち」を使つかった。

1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさい以後いご大阪おおさかプラトンしゃ勤務きんむし、川口かわぐち松太郎まつたろうとともに娯楽ごらく雑誌ざっし苦楽くらく』の編集へんしゅうたった。以後いご次第しだい時代じだい小説しょうせつくようになる。

1925ねん大正たいしょう14ねん)、マキノ・プロダクション主催しゅさいマキノ省三しょうぞういえ居候いそうろうする。マキノ省三しょうぞうって、映画えいが制作せいさく集団しゅうだん聯合れんごう映畫えいが藝術げいじゅつ協會きょうかい」を結成けっせい映画えいが製作せいさくにのめりこむ。

1927ねん昭和しょうわ2ねん)、マキノに出資しゅっしさせて製作せいさくした映画えいがぐんことごと赤字あかじわり、「キネマかい児戯じぎるいす」(映画えいがなど子供こどもあそびだ)と台詞せりふいて映画えいがかいから撤退てったい同年どうねん、マキノプロの大作たいさく忠魂ちゅうこん義烈ぎれつ實録じつろく忠臣蔵ちゅうしんぐら』の編集へんしゅうちゅう失火しっかしマキノてい全焼ぜんしょうすると、火事場かじば見舞みまいにおとずれた直木なおきはマキノから小遣こづかいをもらったうえ、「マキノはこれでつぶれる」と喧伝けんでん。これがマキノのスタア大量たいりょう脱退だったい一因いちいんとなる[1]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)、『由比ゆひ根元ねもとだいころせ』で大衆たいしゅう作家さっかとしてみとめられた。『黄門こうもん廻国かいこく』は月形つきがた龍之介りゅうのすけ主演しゅえんした映画えいが水戸黄門みとこうもん』の原作げんさくにもなった。ほかにも直木なおき作品さくひん原作げんさくとした映画えいがは50ほんちかくある。

代表だいひょうさくとなったのは、よし騒動そうどうえがいた『南国なんごく太平たへい』である。これは三田村鳶魚みたむらえんぎょ調しらべて発表はっぴょうしたのをもとネタにしたため三田みたむらいかり、『大衆たいしゅう文藝ぶんげい評判ひょうばん』をいて歴史れきし小説しょうせつ時代じだい小説しょうせつらの無知むち批判ひはんした。そのため海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう司馬しばりょう太郎たろう永井ながい路子みちこなど(いずれも直木賞なおきしょう受賞じゅしょう)の本格ほんかくてき歴史れきし作家さっかそだった。[よう出典しゅってん]

1934ねん昭和しょうわ9ねん2がつ24にち結核けっかくせい脳膜炎のうまくえんにより東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく附属ふぞく病院びょういん永眠えいみん[2][3]。43さいぼつ

横浜よこはま金沢かなざわ長昌寺ちょうしょうじにある直木なおき三十五さんじゅうごはか

1934ねん昭和しょうわ9ねん2がつ26にち東京とうきょう内幸町うちさいわいちょうにあった大阪おおさかビルで神式しんしきによる葬儀そうぎおこなわれた。喪主もしゅ長男ちょうなんすばるせいつとめる予定よていであったが病気びょうきのため出席しゅっせきできなかった。親族しんぞくのほかにはぜん夫人ふじん香西こうざいおりえ、愛人あいじんたてはな出席しゅっせきした。式場しきじょうには出版しゅっぱん関係かんけいしゃをはじめ菊池きくちひろし久米くめ正雄まさお三上みかみ於菟吉おときち大仏だいぶつ次郎じろう吉川よしかわ英治えいじ横光よこみつ利一としかずなどの文士ぶんしやく600にん出席しゅっせきしてわかれをしんだ[4]

没後ぼつご菊池きくちひろし発意はついにより大衆たいしゅう文学ぶんがく対象たいしょうとする文学ぶんがくしょう直木賞なおきしょう」が創設そうせつされた。

人物じんぶつぞうなど

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名前なまえについて

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直木なおき」は「うえ」の分解ぶんかいしたもので、「さんじゅう」は年齢ねんれいもとにしたものである。31さいのときに直木なおきさんじゅういち筆名ひつめいで『時事新報じじしんぽう』に月評げっぴょういたのが文筆ぶんぴつ活動かつどうはじまりで、以降いこう誕生たんじょうむかえるごとに「さんじゅう」、「さんじゅうさん」と名前なまええていた。

34さい誕生たんじょうむかえたとき本人ほんにんは「直木なおきさんじゅうよん」といた。しかし、編集へんしゅうしゃ勘違かんちがいから「直木なおきさんじゅうさん」となおしてしまい、とうの「直木なおきさんじゅうよん」はそれを訂正ていせいすることはせず「直木なおきさんじゅうさん」を使つかっていた。しかし「さんじゅうさん」は字面じめんくない、あるいは「さんざん」とむことができたり「みそそさん」とばれることを本人ほんにんきらったようで、直木なおき三十五さんじゅうごあらためた。

それ以降いこうとしかさねても改名かいめいすることはなかった。めた理由りゆう以下いかの2せつがある。

  1. さんじゅうろくけいげるにかず」と茶化ちゃかされるのがいやだった
  2. 菊池きくちひろしから「もういい加減かげん年齢ねんれいとともにペンネームをえることは)やめろ」と忠告ちゅうこくされた

竹林ちくりんななけんにちなんだ“竹林たけばやしけんなな”などの筆名ひつめいもある。

直木なおきの「タニマチ」医師いしうすじょいち

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直木なおき母方ははかた叔父おじ親友しんゆうが、相撲すもうさかいでパトロンをす「タニマチ」の語源ごげんとなった医師いしうすじょいちである。 すすき経営けいえいする大阪おおさか谷町たにまちろく丁目ちょうめうす病院びょういん」に、病弱びょうじゃく直木なおき幼稚園ようちえんのころから通院つういん。19さいのころにはアルバイトで学費がくひかせぐなど、物心ぶっしん両面りょうめん世話せわになっている。 このため、直木なおき作家さっかとなったのちすすきへの感謝かんしゃわすれず、自叙伝じじょでんまでをかたる」で、「うすじょいち紹介しょうかいで、小学校しょうがっこう代用だいよう教員きょういんになることになった。」「ほとんどそだつか、そだたぬかわからなかったわたしが、とにかく、よんじゅうさんまで、きてきたられたのは、このひとられたからである。」とつづっている[5]。 また、すすきは、直木なおきおとうと清二せいじ」のづけおやにもなっている。

直木なおきとマキノ省三しょうぞう

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直木なおきさんじゅうさん名乗なのっていたころ、マキノ省三しょうぞういえ居候いそうろうしていた。当時とうじ中学生ちゅうがくせいだったマキノ雅弘まさひろは、なぜ直木なおきいえにいるのかからなかった。マキノ雅弘まさひろは、「小学校しょうがっこうさんねんまでしか学校がっこうっていないちちが、直木なおき早稲田わせだ中退ちゅうたいというだけで、しかも在学ざいがくちゅうには自分じぶんがファンだった澤田さわだ正二郎しょうじろう同級どうきゅうだったということもあり、直木なおきのことをよくいて居候いそうろうさせていたのだろう」とかたっている。

このころ直木なおきあさからばんまで着物きものをぞろりとひっかけるようにて、まさひろしをつかまえると「おい、マサおおやけ」とまってようをいいつけた。かねもないのに「スリーキャッスル(煙草たばこ)をってこい」といい、「おっさん、きむがない」とこたえると「ぬすんでいッ!」と怒鳴どなるような人物じんぶつだった。まさひろしは「生意気なまいきながら、早稲田大学わせだだいがく中退ちゅうたい程度ていどたいしたひとだとはおもわなかった」とかたっている。

直木なおきは1925ねん大正たいしょう14ねん)に菊池きくちひろしあたま連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい設立せつりつして映画えいが製作せいさくした。資金しきんすべてマキノ省三しょうぞうさせていた。映画えいがじんからは「作家さっかゴロ」「映画えいがゴロ」と陰口かげぐちをたたかれ、まさひろしは「直木なおき三十五さんじゅうごっておとこ活動かつどう映画えいが制作せいさく関係かんけいしゃ蔑称べっしょう)のブローカーになりがったやつで、きむしいだけでなにかない作家さっかだ」とひとからおしえてもらったという。1926ねん大正たいしょう15ねん)の『山賊さんぞく』はマキノプロの施設しせつ資金しきんり、直木なおきはただタイトルをすだけでかねっていた。まさひろしは「文芸ぶんげい作家さっか協会きょうかいいん人達ひとたちは、ずかしいということをらないひとたちばかりだと真面目まじめおもったものである」ともべている。

直木なおきはのちに「大衆たいしゅう文芸ぶんげい同人どうじん」とあらため、連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかいおな陣容じんようで『野火のび』を製作せいさく。マキノ雅弘まさひろは「大衆たいしゅう文芸ぶんげい同人どうじん聯合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかいも、相手あいて活動かつどうだとタカをくくってものにしていたようだ。連中れんちゅうまわされて、マキノは、せいぜいどっかの雑誌ざっし宣伝せんでんのための映画えいがきゃくせていたのではなかったろうか」としている。

片岡かたおか千恵ちえぞう直木なおき紹介しょうかいでマキノに入社にゅうしゃするが、直木なおきはじめて脚本きゃくほんいたのが千恵ちえぞう主演しゅえんの『がらすぐみ就縛しゅうばく始末しまつ』であり、以来いらい直木なおき千恵ちえぞうはくっつきすぎていて、マキノ省三しょうぞう千恵ちえぞうをやや敬遠けいえんしていた。千恵ちえぞう翌年よくねんマキノを脱退だったいするが、まさひろしは「いまこそうんえることだが、直木なおきというおとこさんじゅうになるまでマキノからぜにだけってなにもしなかったひとであり、そんなタカリせんもんおとこからの個人こじんてき紹介しょうかいであったことが---当然とうぜんながら最初さいしょからマキノの不信ふしんかんうことになり---千恵ちえぞう不幸ふこうであった」とこのスタアの脱退だったいについてかたっている。

マキノプロの大作たいさく忠魂ちゅうこん義烈ぎれつ實録じつろく忠臣蔵ちゅうしんぐら』は当初とうしょ直木なおきがどうしても原作げんさくかせろとってかず、結局けっきょくいちぎょうけなかった。そこでマキノ省三しょうぞう直木なおき連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかいからこの作品さくひんはなすため「實録じつろく」と銘打めいうった。直木なおき反感はんかんっていたマキノ夫人ふじん世子せいしもこの「實録じつろく」にはよろこんで協力きょうりょくしている。マキノ省三しょうぞう失火しっかのち病臥びょうがしても直木なおき見舞みまいもなく、撮影さつえいしょからぱったり姿すがたした。

まさひろしは「当時とうじわたしたちわかいマキノの連中れんちゅうは、とにかくころもりゅう貞之助ていのすけ伊藤いとう大輔だいすけ二川ふたかわ文太郎ぶんたろう井上いのうえ金太郎きんたろうらの先輩せんぱいいつけ、いつけで、現場げんばはしまわり、がんばったものだった。つくえまえいてホンをつくり、映画えいが芝居しばい河原かわはら乞食こじき---つまりわたしたち---をおだてて金儲かねもうけをし、えらくなられた『芸術げいじゅつ』の先生せんせいとはおなこころざしたなかった。すくなくとも、『芸術げいじゅつ』とはむもんで、るもんじゃないとわたしたちはおもった」とし、「直木賞なおきしょうができたときにはなにやこれとくびをかしげた、直木なおきさんじゅうさんからさんじゅうになってもついにかれ名作めいさくらしいものをまったらなかったおろかなわたし現在げんざいつづいている直木賞なおきしょうに、いったいどんな値打ねうちがあるのかとくびをかしげずにはいられないのである」としている[1]

直木なおき将棋しょうぎ囲碁いご麻雀まーじゃん

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自宅じたく直木なおきおくには初段しょだん免状めんじょう

囲碁いご将棋しょうぎきでられた。1932ねんには日本棋院にほんきいんから初段しょだん免状めんじょうけている[6]。ある菊池きくちひろしのところへタクシーって借財しゃくざいき5えんりたが、タクシーをたせたまま菊池きくちとの将棋しょうぎ没頭ぼっとう料金りょうきん借財しゃくざい上回うわまわったため、そのタクシーにってべつ場所ばしょふたた借財しゃくざいまわ逸話いつわのこした[7]直木なおき通夜つやせきでもしきわると会場かいじょう菊池きくちひろし山本やまもと有三ゆうぞう将棋しょうぎを、豊島としま与志雄よしお平凡へいぼん社員しゃいん囲碁いごち、わかれをしんだ[6]。また、これとはべつ菊池きくちしば旅館りょかん直木なおききだった麻雀まーじゃんにかこつけて追善ついぜん麻雀まーじゃん大会たいかい開催かいさい後日ごじつ警視庁けいしちょう賭博とばく容疑ようぎ検挙けんきょされている[8]

著作ちょさく

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伝記でんき

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フィルモグラフィ

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昭和しょうわ初年しょねん無声むせい映画えいが時代じだい直木なおき京都きょうと映画えいが作家さっかたちとかかわり、みずからも3年間ねんかんに9ほん映画えいが脚本きゃくほん執筆しっぴつし、そのうち1ほん監督かんとくをした。脚本きゃくほんデビューさくは、親友しんゆう菊池きくちひろし小説しょうせつ翻案ほんあん恩讐おんしゅう彼方かなたに』で、1925ねん2がつ5にちに、監督かんとくデビューさくは、江戸川えどがわ乱歩らんぽ原作げんさく翻案ほんあん一寸法師いっすんぼうし』で、1927ねん3月25にちにそれぞれ公開こうかいされた。脚本きゃくほん監督かんとくさくのすべてが無声むせい映画えいがであった。

また、原作げんさくについては50ほんちかくの作品さくひんがり、『南国なんごく太平たへい』だけで10さく映画えいががつくられている。

監督かんとく牧野まきの省三しょうぞう原作げんさく菊池きくちひろし撮影さつえい持田もちだ米三よねぞう(「持田もちだ米彦よねひこ名義めいぎ)、助監督じょかんとく二川ふたかわ文太郎ぶんたろう主演しゅえん鬼頭おにがしら善一郎ぜんいちろう中村なかむらわかこれすけ久松ひさまつ喜世子きよこ沢田さわだ正二郎しょうじろう製作せいさく東亜とうあキネマ等持院とうじいん撮影さつえいしょ
  • 室町むろまち御所ごしょ 1925ねん 脚本きゃくほん ※「直木なおきさんじゅうさん名義めいぎ
監督かんとく広瀬ひろせ五郎ごろう原作げんさく岡本おかもと綺堂きどう撮影さつえい河上かわかみ勇喜ゆうき指揮しき中川なかがわむらさきろう助監督じょかんとくマキノ雅弘まさひろ(「マキノただしただ名義めいぎ)、主演しゅえんマキノ輝子てるこ実川じつかわのべまつ製作せいさく中川なかがわ映画えいが製作所せいさくしょ配給はいきゅう連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい
  • 生玉いくたま心中しんちゅうの 1925ねん 脚本きゃくほん ※「直木なおきさんじゅうさん名義めいぎ
監督かんとく中川なかがわむらさきろう広瀬ひろせ五郎ごろう撮影さつえい河上かわかみ勇喜ゆうき主演しゅえん実川じつかわのべまつ春日かすが小夜子さよこ製作せいさく中川なかがわ映画えいが製作所せいさくしょ配給はいきゅう連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい
  • 忠弥ちゅうや召捕めしと 1926ねん 原作げんさく脚本きゃくほん ※「直木なおきさんじゅうさん名義めいぎ
監督かんとくマキノ省三しょうぞう沼田ぬまた紅緑こうろく撮影さつえい大森おおもり伊八いはち助監督じょかんとくマキノただしただ主演しゅえん沢村さわむら長十郎ちょうじゅうろう松本まつもと松五郎まつごろうせきみさお、マキノ輝子てるこ製作せいさくマキノ・プロダクション御室おむろ撮影さつえいしょ
  • てんいちぼう伊賀いがあきら 1926ねん 脚本きゃくほん ※「直木なおきさんじゅうさん名義めいぎ
監督かんとく牧野まきの省三しょうぞうころもりゅう貞之助ていのすけ原作げんさく額田ぬかた六福ろっぷく撮影さつえい田中たなか十三じゅうざ助監督じょかんとくマキノただしただ主演しゅえん市川いちかわ猿之助えんのすけ市川いちかわはちひゃくぞう市川いちかわ小太夫こだゆう沢村さわむらみなもと十郎じゅうろう、マキノ輝子てるこ製作せいさく連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい春秋しゅんじゅう
  • 地蔵じぞうけい由来ゆらい 1926ねん 指揮しき脚本きゃくほん ※「直木なおきさんじゅうさん名義めいぎ
監督かんとく深川ふかがわひさし、原作げんさく久米くめ正雄まさお撮影さつえい柏田かしわだ敏雄としお字幕じまく稲垣いながきにじ二郎じろう主演しゅえん金井かない謹之すけ高堂こうどう国典こくてん香川かがわ良介りょうすけ(「香川かがわりょう名義めいぎ)、稲垣いながきひろし東明とうめい二郎じろう製作せいさく連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい
共同きょうどう監督かんとく志波しば西にしはて原作げんさく江戸川えどがわ乱歩らんぽ撮影さつえい酒井さかい健三けんぞう主演しゅえん石井いしいばく白川しらかわ珠子たまこ栗山くりやまちゃ迷、石井いしい小浪こなみ鈴木すずき芳子よしこ製作せいさく連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい
  • 新珠あらたま 1927ねん 脚本きゃくほん 
監督かんとく鈴木すずき謙作けんさく原作げんさく菊池きくちひろし撮影さつえい柏田かしわだ敏雄としお主演しゅえん富士ふじ龍子りゅうこあずま愛子あいこ石井いしい小浪こなみ梅島うめじまのぼる友成ともなりわかなみ中西なかにしきんこれゆう今井いまい緑郎ろくろう製作せいさく連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい
  • ほのおそら 1927ねん 脚本きゃくほん 
監督かんとく鈴木すずき謙作けんさく原作げんさく三上みかみ於菟吉おときち撮影さつえい柏田かしわだ敏雄としお主演しゅえん梅島うめじまのぼる荒木あらきしのぶ富士ふじ龍子りゅうこ今井いまい緑郎ろくろう浅原あさはら和夫かずおあずま愛子あいこ製作せいさく連合れんごう映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい配給はいきゅうマキノ・プロダクション

音声おんせい作品さくひん

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関連かんれん項目こうもく

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くなった翌年よくねん昭和しょうわ10ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう社長しゃちょう菊池きくちひろしにより直木賞なおきしょう設置せっちされた。
  • 南国なんごく
忌日きじつの2がつ24にちは、代表だいひょうさく南国なんごく太平たへい』にちなんで「南国なんごく」とばれる。
  • 直木なおき三十五さんじゅうご記念きねんかん
大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう谷町たにまち6-5-26に所在しょざい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 映画えいが渡世とせいてんまき マキノ雅弘まさひろでん』(マキノ雅弘まさひろ平凡社へいぼんしゃ
  2. ^ 直木なおき三十五さんじゅうご りゃく年表ねんぴょう直木なおき三十五さんじゅうご富岡とみおかいえ 2014ねん12月13にち閲覧えつらん
  3. ^ 岩井いわいひろし作家さっか臨終りんじゅう墓碑ぼひ事典じてん』(東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1997ねん)226ぺーじ
  4. ^ 各界かくかい知名ちめいじん参列さんれつ盛大せいだい葬儀そうぎ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ9ねん9がつ27にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp484)
  5. ^ 直木なおき三十五さんじゅうご までをかたる - 青空あおぞら文庫ぶんこ
  6. ^ a b 文士ぶんしらしいこころやり:将棋しょうぎ直木なおきのお通夜つや」『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1934ねん2がつ26にち朝刊ちょうかん、11めん
  7. ^ 抜群ばつぐん執筆しっぴつりょく代表だいひょうさく南国なんごく太平たへい」『中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう昭和しょうわ9ねん9がつ25にち昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん毎日まいにちコミュニケーションズ、1994ねん本編ほんぺん484ぺーじ
  8. ^ 大御所おおごしょ菊池きくちひろし花形はながた女優じょゆう次々つぎつぎ検挙けんきょ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ9ねん3がつ18にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺん615ぺーじ
  9. ^ 忠臣蔵ちゅうしんぐら 傑作けっさくコレクション 列伝れつでんへんじょう』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1989ねん解説かいせつ 305ページ
  10. ^ おとうと植村うえむら清二せいじにも直木なおき三十五さんじゅうご回想かいそう評伝ひょうでんがある。『歴史れきし文芸ぶんげいあいだ』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ のち中公ちゅうこう文庫ぶんこ)に収録しゅうろく

外部がいぶリンク

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