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京大きょうだい天皇てんのう事件じけん

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1951ねん昭和しょうわ天皇てんのうらいがく京都きょうと大学だいがく吉田よしだ分校ぶんこう現在げんざい吉田よしだみなみ構内こうないキャンパス)正門せいもんまえてられた看板かんばん / どう学会がっかいの「公開こうかい質問しつもんじょう」とくらべさほど問題もんだいにならなかった。

京大きょうだい天皇てんのう事件じけん(きょうだいてんのうじけん)は、1951ねん11月12にち昭和しょうわ天皇てんのう京都大学きょうとだいがくがくさいして発生はっせいした混乱こんらん、およびこれを発端ほったんとする学生がくせい処分しょぶん事件じけんで、「京大きょうだい事件じけん」あるいは「天皇てんのう事件じけん」ともしょうされる。

概要がいよう

1951ねん11月12にち関西かんさい巡幸じゅんこう途上とじょう昭和しょうわ天皇てんのう京都大きょうとだいがくがくしたとき、多数たすう学生がくせい正門せいもん付近ふきん見物けんぶつけ、どう学会がっかい全学ぜんがく学生がくせい自治じちかい)が「公開こうかい質問しつもんじょう」の提出ていしゅつこころみたり、群衆ぐんしゅう反戦はんせん合唱がっしょうしたり、警備けいび警察官けいさつかんとのあいだ若干じゃっかん小競こぜいがしょうじた事件じけん。この出来事できごと自体じたい逮捕たいほしゃすらいない突発とっぱつてきなハプニングにぎなかったが、直後ちょくご国会こっかい審議しんぎ文相ぶんしょうおよび保守ほしゅ議員ぎいん学生がくせい態度たいどを「不敬ふけい」などとして非難ひなんし、またマスコミも同様どうよう論調ろんちょうをとった。これに反応はんのうした京大きょうだい当局とうきょくどう学会がっかい解散かいさん処分しょぶんくだし、17にちには学生がくせい8めい期限きげん停学ていがくとした[1]

経緯けいい

背景はいけい

昭和しょうわ天皇てんのう関西かんさい地方ちほう巡幸じゅんこう過程かてい京都きょうとおとずれた1951ねんは、講和こうわ問題もんだい賃上ちんあ問題もんだいなどをめぐって全般ぜんぱんてき労働ろうどう運動うんどう学生がくせい運動うんどう復活ふっかつうごきをせたとしであり、京都きょうとでも労働ろうどう運動うんどう高揚こうようしていた。京都きょうとりした天皇てんのう訪問ほうもんさきとなっていた島津製作所しまづせいさくしょ三条さんじょう工場こうじょうでは、訪問ほうもん直前ちょくぜんまで賃上ちんあげストがおこなわれ(労使ろうし紛争ふんそう天皇てんのうれさせたくない)関係かんけいしゃませた。天皇てんのう訪問ほうもん同様どうよう予定よていされていた京都きょうと市役所しやくしょまえの「組合くみあい掲示板けいじばん」ではそうした事態じたい皮肉ひにくり、(天皇てんのう巡幸じゅんこう社会しゃかい問題もんだい存在そんざい隠蔽いんぺいするという意味いみで)「天皇てんのうはほうきである」という大書たいしょがなされたが、当局とうきょく掲示板けいじばん撤去てっきょ要求ようきゅう組合くみあいとのあいだ徹夜てつや交渉こうしょうがもたれ、11月12にち天皇てんのう来訪らいほう1あいだまえにつかない場所ばしょうつすことで妥協だきょう成立せいりつした。

市役所しやくしょ訪問ほうもん天皇てんのう進講しんこうけるためがくすることが予定よていされていた京都きょうと大学だいがくでも、前年ぜんねん1950ねん以降いこう学生がくせい運動うんどう高揚こうようかっていた。全学ぜんがくれんでは少数しょうすう主流しゅりゅう)であった所感しょかん思想しそうてき政治せいじてき影響えいきょうにあった当時とうじどう学会がっかいは、1950年度ねんどレッド・パージ粉砕ふんさい闘争とうそう主導しゅどうし、これにたい大学だいがく当局とうきょく服部はっとりたかし治郎じろう総長そうちょう)はすべての学生がくせいストライキ禁止きんし措置そちのぞんだため、おおくの処分しょぶん学生がくせいすことになった。

1951ねん5がつ春季しゅんき大学だいがく文化ぶんかさい」で、「わだつみのこえこたえる」というテーマの一環いっかんとして開催かいさいされた「原爆げんばくてん」が学外がくがい市民しみん注目ちゅうもくあつ好評こうひょうであったことから、7がつには一般いっぱん市民しみんけてより展示てんじ充実じゅうじつした綜合そうごう原爆げんばくてんどう学会がっかい主催しゅさいひらかれ、10日とおかあいだで27,000にん以上いじょう来場らいじょうしゃあつめた。どう学会がっかいはこの原爆げんばくてんを11月中旬ちゅうじゅん予定よていされていた秋季しゅうき大学だいがく文化ぶんかさい現在げんざいの11月さい前身ぜんしん)の中心ちゅうしん企画きかくにしようとしたが、大学だいがく当局とうきょく天皇てんのうらいがく理由りゆうにこの時期じきにおける秋季しゅうきさい自体じたい開催かいさい許可きょかせず、延期えんきもとめた。

以上いじょうのように天皇てんのうらいがく直前ちょくぜん京都きょうと大学だいがく一種いっしゅ騒然そうぜんとした雰囲気ふんいきなかにあったが、どう学会がっかいは(当時とうじ左翼さよく勢力せいりょく主流しゅりゅうがしていたように)天皇てんのうせい反対はんたい声高こわだかうったえるのでなく「歓迎かんげいもしなければ拒否きょひもしない」「(天皇てんのうを)一個人いっこじんとしてむかえる」という態度たいどり、学生がくせい天皇てんのうとの会見かいけん要求ようきゅうしていた。

天皇てんのう京大きょうだいらいがく

当時とうじ天皇てんのうがくさいし2,000めいがこの近辺きんぺんしかけいち騒然そうぜんとした状況じょうきょうとなった。(『毎日まいにちグラフ』1951ねん12月1にちごう

天皇てんのうがく先立さきだち、京大きょうだい吉田よしだ本部ほんぶ)キャンパスでは、2,000にんのぼ学生がくせい教職員きょうしょくいんなどが正門せいもんちかくの本部ほんぶ時計とけいだいぜん広場ひろば画像がぞう参照さんしょう)に見物けんぶつ(あるいは歓迎かんげい)にしかけ、吉田よしだ分校ぶんこう現在げんざい総合そうごう人間にんげん学部がくぶキャンパス)の門前もんぜんにはたて3m・よこ2mにおよぶ「天皇てんのうへのおねがい」とだいされた看板かんばん冒頭ぼうとう画像がぞう参照さんしょう)がてられた[2]学生がくせいおおくは、予定よていされていた大学だいがく文化ぶんかさい延期えんきされたことや警察けいさつ過重かじゅう警備けいびへの不満ふまんや、たん天皇てんのうたい不満ふまんという野次馬やじうまてき気分きぶんから広場ひろばあつまってきたとされる。しかし、このとき正門せいもんがい突然とつぜん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃくるまが「きみ」をながしたため、これに対抗たいこうするように、学生がくせいなかから反戦はんせん平和へいわまも」の歌声うたごえながれ、次第しだいだい合唱がっしょうとなった。

騒然そうぜんとした雰囲気ふんいきなか午後ごご120ふん天皇てんのう自動車じどうしゃって到着とうちゃくし、進講しんこうのため本部ほんぶ会議かいぎしつはいった。進講しんこうしゃ一人ひとりであった瀧川たきがわ幸辰ゆきとしによれば、このとき天皇てんのうせい廃止はいししるしたプラカードをかかげた学生がくせいたちが正面しょうめん玄関げんかん殺到さっとうする行動こうどうがあったという。反戦はんせん合唱がっしょう天皇てんのう建物たてものなかにいる最中さいちゅうずっとつづけられた。大学だいがく当局とうきょく大学だいがくからていく天皇てんのうのために進路しんろ確保かくほするべく警官けいかんたい学内がくない導入どうにゅう天皇てんのう警官けいかんたい人垣ひとがきとおって午後ごご2ぎに京大きょうだいった。このあいだ学生がくせいたちは天皇てんのういちぎょう出入でいりを遠巻とおまきに合唱がっしょうしていただけで、とくにこれを妨害ぼうがいせず、学生がくせい警官けいかんたいとの衝突しょうとつはなかった。被害ひがいといえば植込うえこみのまつ学生がくせいすずなりになって見物けんぶつしたため、たおれてしまった程度ていどだった[3]

学生がくせいの「公開こうかい質問しつもんじょう

京都大学きょうとだいがくどう学会がっかいは5かじょうからなる「公開こうかい質問しつもんじょう」を作成さくせいし、天皇てんのうわたすことを計画けいかくしていたが拒否きょひされた。「わたしたちいち人間にんげんとして貴方あなたとき同情どうじょうえません」ではじまるこの質問しつもんじょうは、当時とうじ学生がくせいであった中岡なかおか哲郎てつろう(のち大阪市立大学おおさかいちりつだいがく教授きょうじゅ)の執筆しっぴつによるもので、先述せんじゅつのように現実げんじつ社会しゃかい矛盾むじゅんつくろわれ隠蔽いんぺいされたなか天皇てんのう多額たがく公費こうひにより巡幸じゅんこうおこなっていることをかなしむとともに、べいぐん占領せんりょうでのさい軍備ぐんび朝鮮ちょうせん戦争せんそう進行しんこうしていた当時とうじ情勢じょうせいまえ、日本にっぽん戦争せんそうまれそうになったとき対応たいおうなどを内容ないようであった。

関係かんけいしゃ処分しょぶん

なん暴力ぼうりょくてき事件じけんこっていなかったにもかかわらず、よく11月13にち衆議院しゅうぎいん文部もんぶ委員いいんかいでは、大学だいがく管理かんりほうあん審議しんぎ過程かてい天野あまの貞祐ていゆう文相ぶんしょうもと京大きょうだい教授きょうじゅもと京大きょうだい学生がくせい課長かちょう戦前せんぜん瀧川たきがわ事件じけん呼応こおうした京大きょうだい学生がくせい運動うんどう一定いってい理解りかいしめしていた)がこの「事件じけん」に言及げんきゅうした。大学だいがく当局とうきょく15にちどう学会がっかい解散かいさん命令めいれいくだし、17にちにはどう学会がっかい幹部かんぶ8めい期限きげん停学ていがく処分しょぶん発表はっぴょうした。がく当日とうじつ群集ぐんしゅう整理せいり協力きょうりょくしむしろ混乱こんらんしずめるがわまわっていたどう学会がっかいきびしい処分しょぶんくだされたのは、先述せんじゅつした公開こうかい質問しつもんじょう内容ないようと、それにたいする世論せろん反発はんぱつ後述こうじゅつ)を考慮こうりょしたことによるものとかんがえられている(解散かいさんされたどう学会がっかい1953ねん再建さいけんされた)。

11月26にちには衆議院しゅうぎいん法務ほうむ委員いいんかい服部はっとり総長そうちょうどう学会がっかい委員いいんちょう喚問かんもんされる事態じたいとなり、政府せいふだい3吉田よしだ内閣ないかく)および与党よとう自由党じゆうとうはこの事件じけんをきっかけに大学だいがくへの警官けいかん自由じゆうりをみとめさせようと画策かくさくした。また京都きょうと地検ちけん公安こうあん条例じょうれい違反いはんによる関係かんけいしゃ起訴きそかんがえていたが、関係かんけいしゃ調しらべた結果けっか条例じょうれい違反いはんするような事件じけん発生はっせいしていないとみなし立件りっけん断念だんねんした。

当時とうじ反応はんのう

この事件じけんおなじ1951ねんどう学会がっかい中心ちゅうしん京大きょうだいせい企画きかく開催かいさいした「綜合そうごう原爆げんばくてん」は盛況せいきょうび、京都きょうと市民しみんから好意こういてきむかえられていた(「質問しつもんじょう」でも天皇てんのう原爆げんばくてん参観さんかん要望ようぼうしている)。しかしこの事件じけんかんして京大きょうだいせいどう学会がっかいたいする好意こういてき反応はんのう少数しょうすうであり[4]、「京大きょうだい廃校はいこうにせよ」「貴方あなたたちは狂人きょうじんですか」といった非難ひなん集中しゅうちゅうした。たとえば京都きょうと新聞しんぶんは11月13にちづけで「天皇てんのうへの無礼ぶれい京大きょうだい責任せきにん」との論説ろんせつ学生がくせいがわつよ非難ひなんし、常軌じょうきいっした「不敬ふけい事件じけん」のごとくしるした[5]

事件じけんあつかった作品さくひん

城山しろやま三郎さぶろう大義たいぎすえ1959ねん
公開こうかい質問しつもんじょう執筆しっぴつしゃ中岡なかおか哲郎てつろうとほぼどう世代せだい作家さっかである城山しろやま自伝じでんてき小説しょうせつ質問しつもんじょう内容ないようについて言及げんきゅうがある。

脚注きゃくちゅう

  1. ^ 京都きょうと大学だいがくひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかい京都きょうと大学だいがくひゃくねん : 総説そうせつへん』(1998ねん)p.546-551
  2. ^ 冒頭ぼうとう画像がぞうとおり、正確せいかくには「ねがい」とだいされ「神様かみさまだったあなたの我々われわれ先輩せんぱいは战場〔「战」は「せん」の略字りゃくじ〕にころされました。 / もう絶対ぜったい神様かみさまになるのはやめてください。 / 「わだつみのこえ」をさけばせないでください。 / 京都きょうと大学だいがく学生がくせい一同いちどう」( / は改行かいぎょう箇所かしょ)とある。後述こうじゅつの「公開こうかい質問しつもんじょう」とは内容ないよう文面ぶんめんことなる。
  3. ^ 京都きょうと大学だいがくひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかい京都きょうと大学だいがくひゃくねん : 総説そうせつへん』(1998ねん)p.549
  4. ^ 事件じけん作家さっか野間のまひろしどう学会がっかいあてにメッセージをせ、学生がくせいたちの「行動こうどうただしさ」をたたえている。
  5. ^ 事件じけん発行はっこうされた雑誌ざっし世界せかい』の1952ねん4がつごうには、当時とうじ京大きょうだいせいであった松尾まつおたかし(のちの日本にっぽんきん現代げんだい史家しか)による、新聞しんぶん論調ろんちょう批判ひはんした「意見いけん」が掲載けいさいされた(当時とうじ筆者ひっしゃは「京都きょうと いち学生がくせい」とされ匿名とくめいでの掲載けいさいであったが、その松尾まつお著書ちょしょ昨日きのう風景ふうけい』に収録しゅうろくされた)。

関連かんれん文献ぶんけん

  • でん良治よしはる原田はらだ久美子くみこへん) 『京都きょうとひゃくねん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ1993ねん ISBN 4634272601
  • 岩井いわいただしぐま藤谷ふじたに俊雄としお監修かんしゅう) 『戦後せんご京都きょうとのあゆみ』 かもがわ出版しゅっぱん1988ねん ISBN 4906247423
  • 河西かさい秀哉ひでや 「1950年代ねんだい初頭しょとうにおける象徴しょうちょう天皇てんのうせい相剋そうこく - 京都きょうと大学だいがく天皇てんのう事件じけん検討けんとうつうじて -」『日本にっぽん研究けんきゅう』502(2004ねん6がつ
  • どう敗戦はいせんにおける学生がくせい運動うんどう京大きょうだい天皇てんのう事件じけん -「自治じち」と「理性りせい」というキーワードから- 」 『京都きょうと大学だいがく大学だいがく文書ぶんしょかん研究けんきゅう紀要きよう』5(2007ねん)([1] (PDF)
  • 京都きょうとへん) 『京都きょうと歴史れきし だい9かん世界せかい京都きょうと京都きょうとへんさんしょ1976ねん
  • 京都きょうと大学だいがくひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかい京都きょうと大学だいがくひゃくねん総説そうせつへん京都きょうと大学だいがく後援こうえんかい1998ねん
  • どう京都きょうと大学だいがくひゃくねん資料しりょうへん2』 京都きょうと大学だいがく後援こうえんかい2000ねん
    • 公開こうかい質問しつもんじょう」の全文ぜんぶんどう学会がっかい声明せいめい京大きょうだい当局とうきょくによるどう学会がっかい解散かいさん命令めいれいなどを収録しゅうろく
  • 松尾まつおたかし国際こくさい国家こっかへの出発しゅっぱつ集英社しゅうえいしゃ1993ねん ISBN 4081950210
  • どう昨日きのう風景ふうけいともと』 岩波書店いわなみしょてん2004ねん ISBN 4000225340

外部がいぶリンク

関連かんれん項目こうもく