フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン (ドイツ語 ご : Franz Ferdinand von Habsburg-Lothringen , 1863年 ねん 12月18日 にち - 1914年 ねん 6月28日 にち )は、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく の皇位 こうい 継承 けいしょう 者 しゃ 、エスターライヒ=エステ大公 たいこう 。サラエボ でセルビア人 じん 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ ガヴリロ・プリンツィプ によって暗殺 あんさつ された(サラエボ事件 じけん )[1] 。
生涯 しょうがい
生 お い立 た ち
父 ちち カール・ルートヴィヒ大公 たいこう 、母 はは マリア、フランツ・フェルディナント、弟 おとうと オットー・フランツ(1869年 ねん )。
フランツ・フェルディナントは1863年 ねん 、オーストリア皇帝 こうてい フランツ・ヨーゼフ1世 せい の弟 おとうと であったカール・ルートヴィヒ大公 たいこう と両 りょう シチリア王 おう フェルディナンド2世 せい の長女 ちょうじょ マリア・アンヌンツィアータ の長男 ちょうなん としてグラーツ で生 う まれた。1875年 ねん に従兄 じゅうけい のフランチェスコ5世 せい が死去 しきょ し、オーストリア=エステ大公 たいこう を相続 そうぞく した。
1877年 ねん にオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 軍 ぐん に入隊 にゅうたい して中尉 ちゅうい に任官 にんかん 。その後 ご も皇族 こうぞく として順当 じゅんとう な昇進 しょうしん を続 つづ け、1885年 ねん に大尉 たいい 、1890年 ねん に大佐 たいさ 、1894年 ねん に少将 しょうしょう に昇進 しょうしん した[2] 。フランツ・フェルディナントは指揮 しき 官 かん としての教練 きょうれん を学 まな ばなかったが、司令 しれい 官 かん としての適性 てきせい を認 みと められ第 だい 9騎兵 きへい 連隊 れんたい 長 ちょう に任命 にんめい された。また、特定 とくてい の部隊 ぶたい の指揮 しき 権 けん を持 も たない時期 じき でも軍事 ぐんじ 機密 きみつ に関 かか わる書類 しょるい を閲覧 えつらん することができ、1913年 ねん には高齢 こうれい のフランツ・ヨーゼフ1世 せい に代 か わり全 ぜん 軍 ぐん 監察 かんさつ 官 かん に就任 しゅうにん して軍 ぐん 権 けん を掌握 しょうあく している。
1892年 ねん から約 やく 1年 ねん の歳月 さいげつ をかけて世界 せかい 一周 いっしゅう の見聞 けんぶん 旅行 りょこう に出 で かける。イギリス領 りょう インド帝国 ていこく を訪問 ほうもん した後 のち 、1893年 ねん に訪 おとず れたオーストラリア ではカンガルー やエミュー の狩 か りをして過 す ごした[5] 。その後 ご はヌメア 、ニューヘブリディーズ諸島 しょとう 、ソロモン諸島 しょとう 、ニューギニア 、サラワク 、香港 ほんこん 、大日本帝国 だいにっぽんていこく を訪 おとず れた[6] 。横浜 よこはま からRMS エンプレス・オブ・チャイナ (英語 えいご 版 ばん ) で太平洋 たいへいよう を横断 おうだん してカナダ ・バンクーバー 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を訪 おとず れヨーロッパに戻 もど った[7] 。
皇位 こうい 継承 けいしょう 者 しゃ 指名 しめい
フランツ・フェルディナント。
1889年 ねん 1月 がつ 、従兄 じゅうけい ルドルフ皇太子 こうたいし がマリー・フォン・ヴェッツェラ と共 とも に情死 じょうし した(マイヤーリンク事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) )[8] 。このため、父 ちち カール・ルートヴィヒが皇位 こうい 継承 けいしょう 者 しゃ となった[9] 。
1895年 ねん 、フランツ・フェルディナントは当時 とうじ 不治 ふじ の病 やまい とされた結核 けっかく の疑 うたが いがあると診断 しんだん されていたことから、軍隊 ぐんたい の旅団 りょだん 長 ちょう の地位 ちい を降 お りることをフランツ・ヨーゼフ1世 せい に申 もう し出 で た。皇位 こうい 継承 けいしょう 者 しゃ には弟 おとうと のオットー・フランツ大公 たいこう が選 えら ばれるであろうという憶測 おくそく も流 なが れ、フランツ・フェルディナントに見切 みき りをつけてオットー・フランツに媚 こ びを売 う る者 もの もいたが、南 みなみ チロル のメラーノ で療養 りょうよう につとめた結果 けっか 、フランツ・フェルディナントは1年 ねん 半 はん ほどして健康 けんこう を回復 かいふく した。1896年 ねん に父 ちち カール・ルートヴィヒが腸 ちょう チフス で死去 しきょ すると、フランツ・フェルディナントが伯父 おじ フランツ・ヨーゼフ1世 せい の皇位 こうい 継承 けいしょう 者 しゃ に認定 にんてい された。結核 けっかく の療養 りょうよう を済 す ませたフランツ・フェルディナントは、この頃 ころ から政治 せいじ 活動 かつどう を開始 かいし するようになった。
結婚 けっこん
フランツ・フェルディナント、ゾフィー、子供 こども たち
オーストリア皇室 こうしつ では、フランツ・フェルディナントが皇位 こうい 継承 けいしょう 者 しゃ として認定 にんてい されるようになると結婚 けっこん 話 ばなし を進 すす めるが、彼 かれ にはボヘミア の伯爵 はくしゃく 家 か 出身 しゅっしん でテシェン公 こう フリードリヒ の妃 ひ イザベラ の女官 にょかん であったゾフィー・ホテク という恋人 こいびと がいた。
2人 ふたり は1894年 ねん にプラハ で出会 であ い恋 こい に落 お ち、それ以降 いこう フランツ・フェルディナントはプレスブルク のテシェン公家 くげ の別荘 べっそう を頻繁 ひんぱん に訪 おとず れるようになった。ゾフィーはフランツ・フェルディナントの結核 けっかく 回復 かいふく を祝 いわ う手紙 てがみ を彼 かれ の療養 りょうよう 先 さき のロシニ島 とう に送 おく っている。2人 ふたり は周囲 しゅうい に関係 かんけい が露見 ろけん しないように細心 さいしん の注意 ちゅうい を払 はら っていた[13] 。
しかし、フランツ・フェルディナントが蓋 ぶた 付 つ き腕時計 うでどけい をテシェン公家 くげ に忘 わす れたことがきっかけで2人 ふたり の恋 こい が露見 ろけん することになった。当時 とうじ 腕時計 うでどけい の蓋 ぶた の裏 うら に意中 いちゅう の女性 じょせい の肖像 しょうぞう 画 が を描 えが くのが流行 りゅうこう しており、忘 わす れ物 もの を預 あず かったイザベラは、彼 かれ が足 あし 繁 しげ く通 かよ うのは長女 ちょうじょ マリア・クリスティーナ に気 き があるからだと信 しん じて時計 とけい の蓋 ぶた を盗 ぬす み見 み たため、ゾフィーとの恋 こい が露呈 ろてい した。
オーストリア帝室 ていしつ は由緒 ゆいしょ ある王家 おうけ の出身 しゅっしん 者 しゃ 以外 いがい との結婚 けっこん を認 みと めておらず、次期 じき 皇帝 こうてい がチェコ人 じん の女官 にょかん のような身分 みぶん の低 ひく い女性 じょせい と貴 き 賤結婚 けっこん するのに反対 はんたい したが、フランツ・フェルディナントはゾフィー以外 いがい の女性 じょせい との結婚 けっこん を拒否 きょひ した。最終 さいしゅう 的 てき に、フランツ・ヨーゼフ1世 せい はゾフィーが皇族 こうぞく としての特権 とっけん を全 すべ て放棄 ほうき し、将来 しょうらい 生 う まれる子供 こども には帝位 ていい を継 つ がせないことを条件 じょうけん に結婚 けっこん を承認 しょうにん した[8] 。
フランツ・フェルディナントとゾフィーの結婚式 けっこんしき
1900年 ねん 7月 がつ 1日 にち に2人 ふたり の結婚式 けっこんしき は挙行 きょこう されたが、フランツ・ヨーゼフ1世 せい は出席 しゅっせき を拒否 きょひ し、彼 かれ の弟妹 ていまい や他 た の皇族 こうぞく が出席 しゅっせき することも許可 きょか しなかった[8] 。結婚 けっこん 後 ご もゾフィーは冷遇 れいぐう され続 つづ け、公式 こうしき 行事 ぎょうじ においては幼児 ようじ を含 ふく む全 すべ ての皇族 こうぞく の末席 まっせき に座 すわ ることを余儀 よぎ なくされていた。また、それ以外 いがい の公 おおやけ の場 ば (劇場 げきじょう など)でもフランツ・フェルディナントとの同席 どうせき は許 ゆる されなかった[13] 。このような複雑 ふくざつ な経緯 けいい もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子 こうたいし 」とはあまり呼 よ ばれず、「皇位 こうい 継承 けいしょう 者 しゃ 」と遠回 とおまわ しな呼 よ ばれ方 かた をされるようになった。
1913年 ねん 11月22日 にち にゾフィーと共 とも にイギリス ・ノッティンガムシャー のウェルベック修道院 しゅうどういん を訪 おとず れ1週間 しゅうかん 滞在 たいざい し、その後 ご はウィンザー城 じょう を訪問 ほうもん してジョージ5世 せい 、メアリー・オブ・テック 夫妻 ふさい と共 とも に1週間 しゅうかん 過 す ごした。回顧 かいこ 録 ろく によると、フランツ・フェルディナント夫妻 ふさい はウェルベック修道院 しゅうどういん の式典 しきてん に出席 しゅっせき した後 のち に同地 どうち の射撃 しゃげき 大会 たいかい に参加 さんか したが、そこで銃 じゅう の暴発 ぼうはつ 事故 じこ に遭 あ ったという[14] 。
フランツ・フェルディナントは当時 とうじ のヨーロッパ貴族 きぞく の中 なか でもとりわけトロフィー・ハンティング を愛好 あいこう し、彼 かれ の日記 にっき には約 やく 30万 まん 頭 とう の動物 どうぶつ を仕留 しと めたことが記 しる されている(その内 うち 5,000頭 とう は鹿 しか だったという)[15] 。彼 かれ の城 しろ には仕留 しと めた10万 まん 頭 とう の動物 どうぶつ の頭部 とうぶ が展示 てんじ されており、他 ほか にも様々 さまざま な骨董 こっとう 品 ひん をコレクションしていた[16] [17] [18] 。
暗殺 あんさつ
サラエボ駅 えき に到着 とうちゃく したフランツ・フェルディナントとゾフィー
1914年 ねん 6月28日 にち 、フランツ・フェルディナントはゾフィーを伴 ともな い共同 きょうどう 統治 とうち 国 こく ボスニア・ヘルツェゴヴィナ の首府 しゅふ サラエヴォの軍事 ぐんじ 演習 えんしゅう 視察 しさつ に出 で かけた。しかし、1878年 ねん のベルリン会議 かいぎ 以来 いらい オーストリア=ハンガリーが占領 せんりょう し、1908年 ねん には正式 せいしき に二 に 重 じゅう 君主 くんしゅ 国 こく に併合 へいごう されていたボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人 じん も住 す んでおり、大 だい セルビア主義 しゅぎ 者 しゃ にとってはオーストリア=ハンガリーに侵略 しんりゃく された土地 とち だった。ロシア帝国 ていこく を後 うし ろ盾 たて とする汎 ひろし スラヴ主義 しゅぎ に沸 わ くバルカン半島 ばるかんはんとう では、オーストリア大公 たいこう はテロの標的 ひょうてき となっていた。
午前 ごぜん 10時 じ 15分 ふん 、フランツ・フェルディナント夫妻 ふさい の乗 の った車列 しゃれつ がサラエボ市内 しない に入 はい った。青年 せいねん ボスニア(英語 えいご 版 ばん ) のメンバーで秘密 ひみつ 組織 そしき 黒 くろ 手 しゅ 組 ぐみ のメンバーだったボスニア系 けい セルビア人 じん (英語 えいご 版 ばん ) ネデリュコ・チャブリノヴィッチ (英語 えいご 版 ばん ) が手榴弾 しゅりゅうだん を投 な げ付 つ けたが、手榴弾 しゅりゅうだん は後続 こうぞく の車 くるま に当 あ たり乗員 じょういん が負傷 ふしょう した。夫妻 ふさい を乗 の せた車 くるま は市庁舎 しちょうしゃ に逃 に げ込 こ み、フランツ・フェルディナントは「爆 ばく 弾 だん を投 な げ付 つ けるのが君 きみ たちの歓迎 かんげい のやり方 かた なのか!」と激怒 げきど した[19] 。
フランツ・フェルディナントとゾフィーの暗殺 あんさつ を報 ほう じる『ニューヨーク・タイムズ 』
しばらくして落 お ち着 つ きを取 と り戻 もど したフランツ・フェルディナントは、爆 ばく 弾 だん で負傷 ふしょう した人々 ひとびと を見舞 みま うために病院 びょういん を訪問 ほうもん することに決 き めた。午前 ごぜん 10時 じ 45分 ふん 、夫妻 ふさい を乗 の せた車 くるま は市庁舎 しちょうしゃ を出発 しゅっぱつ したが、運転 うんてん 手 しゅ に行 い き先 さき が変更 へんこう されたことが伝 つた わっておらず、車 くるま は脇道 わきみち に入 はい り込 こ んでしまい、病院 びょういん に向 む かうため方向 ほうこう 転換 てんかん した。車 くるま が方向 ほうこう 転換 てんかん しようとした通 とお りのカフェには、暗殺 あんさつ に失敗 しっぱい した黒 くろ 手 しゅ 組 ぐみ のガヴリロ・プリンツィプ が偶然 ぐうぜん 居合 いあ わせ、彼 かれ は拳銃 けんじゅう を取 と り出 だ し車 しゃ に近寄 ちかよ り発砲 はっぽう した[19] [20] 。プリンツィプは1発 はつ 目 め をゾフィーの腹部 ふくぶ に、2発 はつ 目 め はフランツ・フェルディナントの首 くび に向 む けて発砲 はっぽう し、フランツ・フェルディナントは泣 な き叫 さけ ぶゾフィーの上 うえ に身 み を乗 の り出 だ した。周囲 しゅうい の人々 ひとびと が夫妻 ふさい に駆 か け寄 よ った時 とき にはフランツ・フェルディナントはまだ息 いき があり[20] 、ゾフィーに「ゾフィー、死 し んではいけない。子供 こども たちのために生 い きなくては」と語 かた りかけていたという[19] 。総督 そうとく 官邸 かんてい に入 はい った側近 そっきん たちはフランツ・フェルディナントの手当 てあ てを試 こころ みようとしたが、フランツ・フェルディナントは数 すう 分 ふん 後 ご に絶命 ぜつめい し、ゾフィーも病院 びょういん に向 む かう途中 とちゅう で死亡 しぼう した[21] 。
フランツ・フェルディナントとゾフィーの遺体 いたい
暗殺 あんさつ 者 しゃ たちへの尋問 じんもん で、彼 かれ らの所持 しょじ していた武器 ぶき は黒 くろ 手 しゅ 組 ぐみ 指導 しどう 者 しゃ でセルビア軍 ぐん 大佐 たいさ のドラグーティン・ディミトリエビッチ から提供 ていきょう されたものだと判明 はんめい した[22] 。このサラエボ事件 じけん の後 のち 、オーストリア=ハンガリーは報復 ほうふく としてセルビア王国 おうこく に宣戦 せんせん 布告 ふこく し、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ することとなった[23] [24] 。
フランツ・フェルディナント夫妻 ふさい の葬儀 そうぎ は2人 ふたり 合同 ごうどう で行 おこな われた。貴 き 賤結婚 けっこん のために、ハプスブルク=ロートリンゲン家 か の人々 ひとびと が埋葬 まいそう されるカプツィーナー納骨 のうこつ 堂 どう に入 い れないことを生前 せいぜん から悟 さと っていた夫妻 ふさい は、居城 きょじょう であったアルトシュテッテン城 じょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) 内 うち の納骨 のうこつ 堂 どう に埋葬 まいそう された。
政治 せいじ 思想 しそう
サラエボ市民 しみん と触 ふ れ合 あ うフランツ・フェルディナントとゾフィー。
フランツ・フェルディナントは保守 ほしゅ カトリック主義 しゅぎ 者 しゃ で中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき な国家 こっか を目指 めざ した反面 はんめん 、異 い 民族 みんぞく へのリベラルな姿勢 しせい を持 も っていた[2] 。チェコ人 じん と結婚 けっこん したこともあり親 おや スラヴ 的 てき な傾向 けいこう があり、アウスグライヒ によって帝国 ていこく 内 ない における権利 けんり を抑圧 よくあつ されていたチェコ人 じん と南 みなみ スラヴ系 けい 住民 じゅうみん の自治 じち 権 けん 拡大 かくだい を提唱 ていしょう していた[25] 。また、セルビアに対 たい しても慎重 しんちょう な姿勢 しせい を示 しめ し、参謀 さんぼう 総長 そうちょう フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ などの軍部 ぐんぶ 強硬 きょうこう 派 は に対 たい し、「セルビアへの高 こう 圧 あつ 的 てき な態度 たいど はスラヴの盟主 めいしゅ ロシア帝国 ていこく との戦争 せんそう を招 まね き、やがては両 りょう 帝国 ていこく を破滅 はめつ させる」と警告 けいこく している。フランツ・ヨーゼフ1世 せい のボヘミア 王 おう 戴冠 たいかん による三重 みえ 君主 くんしゅ 国 こく への帝国 ていこく 改編 かいへん (ドナウ連邦 れんぽう 構想 こうそう )を望 のぞ んでいた時期 じき もあった。
海軍 かいぐん の軍服 ぐんぷく を着用 ちゃくよう したフランツ・フェルディナント
その一方 いっぽう で、フランツ・フェルディナントはハンガリー人 じん を嫌悪 けんお しており、1904年 ねん には「ハンガリー人 じん は大臣 だいじん 、貴族 きぞく 、兵士 へいし 、農民 のうみん 、従僕 じゅうぼく などあらゆる階級 かいきゅう に関係 かんけい なく革命 かくめい 的 てき である」と述 の べ、ハンガリー首相 しゅしょう ティサ・イシュトヴァーン を「革命 かくめい 思想 しそう の裏切者 うらぎりもの 」と批判 ひはん している[26] 。彼 かれ はハンガリーのナショナリズムをハプスブルク朝 あさ の脅威 きょうい と見 み なしており、第 だい 9騎兵 きへい 連隊 れんたい 長 ちょう 時代 じだい には部下 ぶか が公用 こうよう 語 ご として認 みと められているハンガリー語 ご を話 はな しているのを見 み て激怒 げきど したという逸話 いつわ がある。また、ハンガリー軍 ぐん を潜在 せんざい 的 てき な敵対 てきたい 勢力 せいりょく と見 み なして信用 しんよう しておらず、ハンガリー軍 ぐん の砲兵 ほうへい 部隊 ぶたい 編制 へんせい 予算 よさん について反対 はんたい している。
1900年 ねん に勃発 ぼっぱつ した義和 よしかず 団 だん の乱 らん での軍事 ぐんじ 的 てき 失策 しっさく は、大国 たいこく としての威厳 いげん を損 そこ ねたとしてフランツ・フェルディナントを失望 しつぼう させた。彼 かれ は「ドワーフ のようなベルギー やポルトガル さえ軍隊 ぐんたい を中国 ちゅうごく に駐留 ちゅうりゅう させていたにもかかわらず、我 わ が国 くに は1兵 へい も駐留 ちゅうりゅう させていなかった。しかし、我 わ が国 くに は"国際 こくさい 救援 きゅうえん 隊 たい "として八 はち カ国 かこく 連合 れんごう 軍 ぐん に参加 さんか し、軍隊 ぐんたい を派遣 はけん した」と述 の べている。軍事 ぐんじ 面 めん では陸軍 りくぐん 優位 ゆうい で海軍 かいぐん を軽視 けいし していた国内 こくない の中 なか で海軍 かいぐん の増強 ぞうきょう を主張 しゅちょう しており、フランツ・フェルディナント夫妻 ふさい が暗殺 あんさつ された際 さい には、軍艦 ぐんかん フィリブス・ウニティス が夫妻 ふさい の遺体 いたい を乗 の せて栄光 えいこう を称 とな えた。
日本 にっぽん との関 かか わり
新橋 しんばし 駅 えき に到着 とうちゃく したフランツ・フェルディナントを描 えが いた日本 にっぽん の錦絵 にしきえ (楳堂小 しょう 国政 こくせい 画 が )。
1892年 ねん に出発 しゅっぱつ した軍艦 ぐんかん エリザベート皇后 こうごう 号 ごう による世界 せかい 一周 いっしゅう の見聞 けんぶん 旅行 りょこう の途上 とじょう で、1893年 ねん に香港 ほんこん を経 へ て日本 にっぽん を訪 おとず れ1か月 げつ をかけて長崎 ながさき から東京 とうきょう まで旅 たび している。同年 どうねん 8月 がつ 2日 にち に長崎 ながさき 港 こう に入 はい り、熊本 くまもと 、下関 しものせき 、宮島 みやじま 、京都 きょうと 、大阪 おおさか 、奈良 なら 、大津 おおつ 、岐阜 ぎふ 、名古屋 なごや 、宮ノ下 みやのした 、東京 とうきょう 、日光 にっこう を経 へ て、8月 がつ 24日 にち に横浜 よこはま 港 こう よりバンクーバーに向 む けて出発 しゅっぱつ した。長崎 ながさき では厳島 いつくしま 、松島 まつしま 、高尾 たかお 、高千穂 たかちほ 、開聞 かいもん 、葛城 かつらぎ 、八重山 やえやま といった日本 にっぽん 海軍 かいぐん の錚々たる軍艦 ぐんかん が迎 むか え、艦隊 かんたい 司令 しれい 官 かん 、各 かく 艦長 かんちょう のほか、長崎 ながさき 県知事 けんちじ 中野 なかの 健明 たけあき 、長崎 ながさき 市 し 長 なが 北原 きたはら 雅 みやび 長 ちょう 、長崎 ながさき 司教 しきょう アルフォンス・クーザン らが歓迎 かんげい した[31] 。日本 にっぽん 滞在 たいざい 中 ちゅう の接待 せったい 員 いん には、語学 ごがく に堪能 かんのう な宮 みや 内省 ないせい 式部 しきぶ 次長 じちょう 三宮 さんのみや 義胤 よしたね 、大膳 だいぜん 職 しょく 山内 やまうち 勝明 かつあき 、軍艦 ぐんかん 艦長 かんちょう 黒岡 くろおか 帯刀 たてわき 、陸相 りくしょう 秘書官 ひしょかん 村木 むらき 雅美 まさみ らがあたった[31] 。長崎 ながさき 見物 けんぶつ で日本 にっぽん 文化 ぶんか の実際 じっさい に初 はじ めて触 ふ れ、市街 しがい のどこもが清潔 せいけつ なこと、家屋 かおく が開放 かいほう 的 てき なことなどに驚 おどろ き、一般 いっぱん 女性 じょせい の髪結 かみゆ いまで見学 けんがく し、茶屋 ちゃや 遊 あそ び を体験 たいけん した[31] 。東京 とうきょう では天皇 てんのう ・皇后 こうごう を表敬 ひょうけい 訪問 ほうもん している[32] 。
箱根 はこね において左腕 さわん に龍 りゅう の刺青 しせい を彫 ほ ってもらっている(日本 にっぽん を訪 おとず れたら刺青 しせい を彫 ほ ってもらうのが、当時 とうじ のヨーロッパの男性 だんせい 王族 おうぞく にとってある種 しゅ の流行 りゅうこう となっていた[注釈 ちゅうしゃく 1] )。一説 いっせつ によると、フランツ・フェルディナントは胸 むね にも蛇 へび の刺青 しせい を彫 ほ っており、サラエボ事件 じけん ではその蛇 へび の頭 あたま が銃弾 じゅうだん に貫 つらぬ かれていたという。
フランツ・フェルディナントはこの時 とき の日本 にっぽん の風物 ふうぶつ や伝統 でんとう 文化 ぶんか などを詳細 しょうさい に手記 しゅき に記 しる しており、これは後 のち にまとめられて出版 しゅっぱん されている。なお、シェーンブルン宮殿 きゅうでん にある日本 にっぽん 庭園 ていえん は、日本 にっぽん 文化 ぶんか に触 ふ れたフランツ・フェルディナントの命令 めいれい で作 つく られたものである。
子女 しじょ
ゾフィー (1901年 ねん - 1990年 ねん )
マクシミリアン (1902年 ねん - 1962年 ねん )
エルンスト (1904年 ねん - 1954年 ねん )
男子 だんし (死産 しざん 、1908年 ねん )
系図 けいず
著書 ちょしょ
脚注 きゃくちゅう
注釈 ちゅうしゃく
^ ニコライ2世 せい もジョージ5世 せい も、皇太子 こうたいし 時代 じだい の日本 にっぽん 訪問 ほうもん 時 じ に刺青 しせい を入 い れている。明治 めいじ 時代 じだい に日本 にっぽん を訪 おとず れた5人 にん の英国 えいこく 王子 おうじ のうち、少 すく なくとも4人 にん は確実 かくじつ に日本 にっぽん で刺青 しせい を彫 ほ っている。また、ヴィルヘルム2世 せい の弟 おとうと ハインリヒ 皇子 おうじ にも日本 にっぽん 婦人 ふじん の図柄 ずがら と思 おも われる刺青 しせい があった。
出典 しゅってん
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参考 さんこう 文献 ぶんけん
関連 かんれん 文献 ぶんけん
関連 かんれん 項目 こうもく
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