(Translated by https://www.hiragana.jp/)
たけしプロレス軍団 - Wikipedia コンテンツにスキップ

たけしプロレス軍団ぐんだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

たけしプロレス軍団ぐんだん(たけしプロレスぐんだん)は、ラジオ番組ばんぐみ企画きかくからまれたプロレス団体だんたい企画きかく略称りゃくしょうTPG

概要がいよう[編集へんしゅう]

1987ねんにラジオ番組ばんぐみビートたけしのオールナイトニッポン』の企画きかくからまれた企画きかくで、ビートたけし首領しゅりょうとし、たけし軍団ぐんだん参加さんかしている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

端緒たんしょ[編集へんしゅう]

たけしが、当時とうじ懇意こんいになりつつあった東京とうきょうスポーツ紙上しじょう(1987ねん9がつ8にちけ)で、「プロレス団体だんたい設立せつりつ」をぶちげたのが発端ほったんとなった。設立せつりつについてたけしは「オイラがプロレスファンということもあるけど、最近さいきんのプロレスにかんじられなくなった。力道山りきどうざん時代じだい熱気ねっきを、ぜひもどしたいとおもった」とかたり、手駒てごま選手せんしゅそだてたうえで、「手始てはじめにアントニオ猪木いのき挑戦ちょうせんしたい。なにといっても日本にっぽんでナンバー1のプロレスラーだから」と、その目標もくひょうあきらかにした。

東京とうきょうスポーツは以後いご「ビートたけしプロレスだい挑戦ちょうせん」とだいした密着みっちゃくルポをはじめるなどして、TPGのあおやくになった。しかし、『天才てんさい・たけしの元気げんきるテレビ!!』にいて、総合そうごう演出えんしゅつテリー伊藤いとう中心ちゅうしんとなって発案はつあんした、全日本ぜんにほんプロレス協力きょうりょくのもとコーナーをもうけていたがえとなった「プロレス予備校よびこう[1]なおしではないかとの疑問ぎもんていされていた。

TPGは『たけしのオールナイトニッポン』で練習れんしゅうせい募集ぼしゅうし、アポロ菅原すがわらをコーチとして招聘しょうへいし、都内とない秘密ひみつ道場どうじょう用意よういしてトレーニングをませた。練習れんしゅうせいのなかには、脇田わきたひろしじん(スペル・デルフィン)秋吉あきよし昭二しょうじ邪道じゃどう高山たかやまけい外道げどうがいた。

マサ斎藤さいとうがたけしに接近せっきんし、斎藤さいとうはTPGの参謀さんぼうやくまかされたほか、広報こうほうてき役割やくわりをたけし軍団ぐんだんガダルカナル・タカダンカンつとめ、1987ねん10がつ9にちしん日本にっぽんプロレス事務所じむしょ出向でむいて山本やまもとしょうてつ挑戦ちょうせんじょう手渡てわたし、山本やまもとに「プロレスをなめるな!」と一喝いっかつされた[2]。12月4にちにはリングにがり猪木いのき直接ちょくせつ挑戦ちょうせんじょうわたすなどした[2]

TPGのしん日本にっぽんプロレス参戦さんせんは、同年どうねん12がつ27にち両国りょうこく国技こくぎかん大会たいかい決定けっていし、猪木いのきへの刺客しかくビッグバン・ベイダーであることが発表はっぴょうされた。

ミスター高橋たかはしのちかしたところによれば、TPGの結成けっせい後述こうじゅつのアングルには、東京とうきょうスポーツの櫻井さくらい康雄やすお仲介ちゅうかいで、たけしと親交しんこうった猪木いのきおおきく関係かんけいしていたとしている。高橋たかはしによれば、猪木いのきはマッチメイカーであった高橋たかはしめいじて、TPGにかんするアングルを作成さくせいさせたとしている[3]

試合しあい当日とうじつ[編集へんしゅう]

12月27にちしん日本にっぽんプロレス両国りょうこく国技こくぎかん大会たいかいでは、当初とうしょ藤波ふじなみ辰巳たつみ木村きむら健吾けんごくみたいマサ斎藤さいとう・ビッグバン・ベイダーぐみのタッグマッチがまれていた。しかし、選手せんしゅともにたけし、タカ、ダンカンが入場にゅうじょうしリングにがり、タカが「我々われわれ挑戦ちょうせんじょうみずかったのだから、ベイダーとたたかうべきひとはアントニオ猪木いのきさんのはずです」と挑発ちょうはつし、さらにダンカンが観客かんきゃくけて「あんたらアントニオ猪木いのきげる姿すがたたのか?あんたら猪木いのき卑怯ひきょうしゃにしていいのか?やらせろーっ!やらせてくださーい!やらせてくれー!」などとアピールし、つづいてマサ斎藤さいとうも「猪木いのき!このおとこ(ベイダー)とたたかえ!おれがわざわざアメリカかられてきたおとこだ!こわいか?猪木いのき!てこーい!」と猪木いのき挑発ちょうはつした。たけし本人ほんにんだまっていたが、これにたいして猪木いのきはリングにがり、観客かんきゃくかって「けてやるかコノヤロー!(おきゃくさんにたいし)どーですか!(挑戦ちょうせんしゃ対戦たいせんしてもいいか)」とびかけ、当初とうしょカード発表はっぴょうされていた長州ちょうしゅうりょくとのシングルマッチを中止ちゅうしし、ベイダーとの対戦たいせん宣言せんげんすると、場内じょうない騒然そうぜんとなった。

猪木いのき長州ちょうしゅうのシングルマッチが中止ちゅうしとなり、その振替ふりかえ試合しあいとして長州ちょうしゅう&斎藤さいとうぐみたい藤波ふじなみ&木村きむらぐみのタッグマッチが急遽きゅうきょおこなわれたが、突然とつぜん試合しあい変更へんこう納得なっとくがいかない観客かんきゃくせきからは、試合しあい開始かいしまえから「やめろ、やめろ!」というコールがき、リングに次々つぎつぎものまれ、レフェリーが選手せんしゅ不慮ふりょ事故じこ負傷ふしょうしないようまれたもの片付かたづける場面ばめんられた[4]。タッグマッチ終了しゅうりょう長州ちょうしゅうがマイクをって「マサさんよくけよ、なんおれわらなきゃいけないんだ!」と斎藤さいとう不満ふまんをぶつけるとともに、「みんな、納得なっとくいかなくてもたのむから試合しあいだけはやらせてくれ!おねがいだからものげないでくれ!みんな必死ひっしでやってるから!猪木いのきだったらおれがやる!たおすから!」と観客かんきゃく冷静れいせいびかけた。

この長州ちょうしゅうのアピールに猪木いのきこたえるかたちで、メインイベントのまえ猪木いのきたい長州ちょうしゅうのシングルマッチが急遽きゅうきょ特別とくべつ試合しあいとしておこなわれ、会場かいじょうきをもどした。さき試合しあいでのダメージがのこっていたうえに、顔面がんめん骨折こっせつかんなおしていない状況じょうきょう長州ちょうしゅうは、猪木いのき攻撃こうげきにより顔面がんめんから大量たいりょう出血しゅっけつし、猪木いのきまんじがためでギブアップ寸前すんぜんとなったが、セコンドのはせひろし乱入らんにゅうし、試合しあい阻止そしによる長州ちょうしゅう反則はんそくけにわった。納得なっとくのいかない長州ちょうしゅうはせをリングがいばし、若手わかてつかみかかるというだいれの結果けっかになってしまった。

そして猪木いのきは、直前ちょくぜん長州ちょうしゅうせんのダメージがけていないまま、中止ちゅうしすることなくそのままメインイベントとなるベイダーとの一騎討いっきうちちへと突入とつにゅうした。ベイダーの一方いっぽうてき攻撃こうげきすえぜん体重たいじゅうをかけたボディスラム(オクラホマ・スタンピード)であっさりとピンフォールけをきっする。観客かんきゃくは、最終さいしゅうてき暴動ぼうどうさわぎにまで発展はってんした。このときすでにたけし軍団ぐんだん会場かいじょうのちにしていた[5]

舞台裏ぶたいうらのエピソード[編集へんしゅう]

両国りょうこく国技こくぎかん大会たいかいまでの一連いちれんこうそうは、当然とうぜんながらしん日本にっぽんプロレスも合意ごういずみアングルであり、試合しあいまえにはしん日本にっぽんのフロントとのはないのなかで「海賊かいぞくおとこがいまして、これはうちのキャラクターで…」と念入ねんいりにわせがされていた。2012ねん7がつ5にち放送ほうそうの『たけしの等々力とどろきベース』(だい36かいプロレスどう)にてたけしは、しんあいだ寿ことぶき(TPG企画きかく当時とうじしん日本にっぽんプロレス専務せんむ)より、「しん日本にっぽんプロレスでレオン・ホワイト(ビッグバン・ベイダー)をデビューさせたいが、たけしプロレス軍団ぐんだんからデビューさせてしい」とおねがいされたとかたっている。

試合しあい当日とうじつには長州ちょうしゅうはたけしに「よろしくおねがいします」と挨拶あいさつし、たけしにサインをもとめたりしていたが、試合しあいはじまるとリングじょうで「なんだおまえは!」と怒鳴どなるなどのパフォーマンスをせており、たけしは「態度たいど全然ぜんぜんちがうじゃないか」とかたっていた。

ミスター高橋たかはしによれば、たけし軍団ぐんだんのタカも、両国りょうこくでの殺気立さっきだったファンからの罵声ばせいブーイングたいして「大丈夫だいじょうぶでしょうか?」と控室ひかえしつでは安気あんき関係かんけいしゃたずねていたが、「セコンドがまもりますから安心あんしんしてください」と高橋たかはし回答かいとうしていたという[3]一方いっぽう東国原ひがしこくばる英夫ひでお当時とうじ、そのまんまひがし)はリングにがるまえから「かえろ、かえろ」とっていたとのことである。ファンからの不穏ふおんなムードを察知さっちした高橋たかはし関係かんけいしゃは、たけし軍団ぐんだんメンバーをメインがはじまるまえ国技こくぎかん退出たいしゅつさせたが、そのさいにたけしは「やってられないよー、まったくもー」と高橋たかはしかたり、TPGのマットじょうでのアングルについて終了しゅうりょうさせる趣旨しゅし発言はつげんをしている[3]

試合しあい[編集へんしゅう]

この暴動ぼうどうさわぎにより両国りょうこく国技こくぎかん升席ますせきのパイプが破損はそんしたり、座布団ざぶとんやぶられ、椅子いすせきこわされるなど日本にっぽんプロレス史上しじょう最大さいだいきゅう暴動ぼうどうとなったため、1987ねん12月28にち坂口さかぐちせいふく社長しゃちょう日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい謝罪しゃざいしたが、よく12がつ29にち日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいしん日本にっぽんプロレスにたいして「両国りょうこく国技こくぎかんしを期限きげん禁止きんし」すること決定けっていした[5]輪島わじままさる所属しょぞく問題もんだい国技こくぎかんから撤退てったいしていた全日本ぜんにほんプロレスとわせ、国技こくぎかんでのプロレス興行こうぎょう一切いっさい出来できなくなり、しん日本にっぽんプロレスは1ねん2かげつわたって国技こくぎかん使用しよう出来できなかった。

しん日本にっぽんプロレスは日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいから多額たがく損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅうされ、1988ねん2がつ3にちおこなわれる予定よていだった国技こくぎかん大会たいかい中止ちゅうしとなったため(1988ねん2がつ5にち後楽園こうらくえんホール振替ふりかえ興行こうぎょう開催かいさい)、だい損害そんがいこうむることになった。国技こくぎかん都内とないでのビッグイベントの常打じょうう会場かいじょうでもあり、集客しゅうきゃくせいたか国技こくぎかんでの興行こうぎょう禁止きんしされたことは、しん日本にっぽんにとってだい打撃だげきであった[6]

暴動ぼうどうから4にち大晦日おおみそか、『ビートたけしの元祖がんそマラソン野球やきゅう中継ちゅうけい』にしん日本にっぽんプロレス正規せいきぐん乱入らんにゅう野球やきゅう対決たいけつをするが、たけしが3ストライクでバッターボックスを木村きむらにボールをげつけ、げるたけしを木村きむらいかけるようを、猪木いのき藤波ふじなみらがわらころげる姿すがた放映ほうえいされた。このようにしん日本にっぽんプロレスの選手せんしゅがたけしの番組ばんぐみ出演しゅつえんするかたちで、TPG両者りょうしゃ良好りょうこう関係かんけいつづいていた。

またよく1988ねん2がつ再開さいかいされた『ビートたけしのスポーツ大将たいしょう』のなかで、「たけしプロレス軍団ぐんだん」としょうし、たけし軍団ぐんだん若手わかてにマスクをかぶせてシゴキをおこなったり、前述ぜんじゅつのTPGの練習れんしゅうせい登場とうじょうしてくさ野球やきゅうならぬ「くさプロレス」をおこなうコーナーをつくるなど、そのもたけしの番組ばんぐみでプロレスを題材だいざいにした企画きかくまれていた。

マスコミの反応はんのう[編集へんしゅう]

TPGの企画きかく全面ぜんめんてき後押あとおしした東京とうきょうスポーツでさえ、この1987ねん12月27にち評価ひょうか紙上しじょう二分にぶんされた。猪木いのきたいベイダーせんのち一旦いったんんだ猪木いのきがリングじょうあらわれ「みんな今日きょうはありがとう」と挨拶あいさつしたのにたいし、観客かんきゃくいかりを増幅ぞうふくさせ、さらに暴動ぼうどう激化げきかといった場面ばめんがあったが、それについて「観客かんきゃくいかりがおさまらないのに、なにおもったか猪木いのきあらわれ『ありがとう』と挨拶あいさつ」と解釈かいしゃくするものと、「猪木いのきがわざわざてきて『ありがとう』と挨拶あいさつしたにもかかわらず、観客かんきゃくいかりは増幅ぞうふく」と解釈かいしゃくしたことなったニュアンスの記事きじ東京とうきょうスポーツのどういち紙面しめん掲載けいさいされていた。

フリーライターの板橋いたばし雅弘まさひろは、当時とうじ週刊しゅうかんプレイボーイ連載れんさいしていたコラム「元祖がんそ!プロレスのおに」のなかで「こうなることかりっていたのになあ。とくにTPGにかんしてはあおてたひがしスポもわるい。猛省もうせいせよ。ひがしスポはこれを機会きかいに、プロレス報道ほうどうのありかたをよくかんがえてもらいたい」とひがしスポを批判ひはんしていた。

消滅しょうめつとその[編集へんしゅう]

TPGは自然しぜん消滅しょうめつした。一時いちじ、たけしの周辺しゅうへんでは猪木いのきはっした言葉ことば「どーですか!」が、「どーですか、おきゃくさん!」としてちょっとした流行りゅうこうになり、『スーパージョッキー』のワンコーナーのタイトルにもなった。また、たけし軍団ぐんだん一員いちいんで、もともと猪木いのき物真似ものまね得意とくいとしていた井手いでらっきょは、前述ぜんじゅつ暴動ぼうどう直後ちょくご早速さっそくこのフレーズをちネタにくわえていた。

TPGの頓挫とんざにより、インディ団体だんたいでそれぞれデビューすることになった脇田わきた(デルフィン)、秋吉あきよし邪道じゃどう)、高山たかやま外道げどう)の3にん現役げんえきつづけており、デルフィンは1994ねんだい1かいBEST OF THE SUPER Jr.」に招聘しょうへいされ、優勝ゆうしょう決定けっていせん進出しんしゅつするなどこう成績せいせきげた。また、邪道じゃどう&外道げどうのタッグチームは、デビュー以来いらい一貫いっかんしてタッグで様々さまざまなインディ団体だんたいわたあるいたのち、2001ねんから新日本しんにほん定着ていちゃく参戦さんせんし、IWGPジュニアタッグ王座おうざ獲得かくとくしている。

プロレスラー養成ようせい学校がっこうとしての企画きかくは、『天才てんさい・たけしの元気げんきるテレビ!!』のなかで「女子じょしプロレス予備校よびこう」として復活ふっかつ、こちらは当時とうじあったほぼすべての女子じょし団体だんたいのバックアップをて、元気げんき美佐恵みさえシュガー佐藤さとう市来いちき貴代子きよこ上林うえばやしあいたからをおく評価ひょうかされた。

ベイダーはそのしん日本にっぽんプロレスに継続けいぞくして参戦さんせん常連じょうれん外国がいこくじんとなり、日本にっぽんとアメリカ双方そうほう人気にんきプロレスラーとしてなが活躍かつやくしたが、2018ねん6がつ18にち肺炎はいえんのため63さい死去しきょした。

また猪木いのき現役げんえき引退いんたいは、参議院さんぎいん議員ぎいんつとめて各国かっこく首脳しゅのうとパイプをむすんだり、格闘技かくとうぎやプロレス業界ぎょうかいのさらなる発展はってん貢献こうけんしたが、2022ねん10がつ1にち全身ぜんしんせいアミロイドーシスに起因きいんする心不全しんふぜんのため79さい死去しきょした。

ZERO1(三又みつまたばんTPG)[編集へんしゅう]

2017ねん4がつ三又みつまたまたさんZERO1会見かいけん乱入らんにゅう。「TPG代表だいひょう」を名乗なのり、自身じしんのGM就任しゅうにん要求ようきゅうした[7]。その名称めいしょうはTPGではなく「三又みつまたぐん」にいたが[8][9]同年どうねん10がつよりGMに就任しゅうにん[10]、2020ねん8がつ解任かいにんされるまでつとめた。

ダンカンプロレス軍団ぐんだん[編集へんしゅう]

2019ねん9がつベストボディ・ジャパンプロレス(BBJ)のたけしば大会たいかいで、ダンカンが総帥そうすいつとめる「ダンカンプロレス軍団ぐんだん(DPG)」がメインイベントに乱入らんにゅう[11]。BBJ正規せいきぐん対抗たいこうするヒールユニットとして活動かつどうしている[12]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽんプロレス事件じけん Vol.10』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2015ねんISBN 9784583622996 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 参加さんかしゃ募集ぼしゅうから、合格ごうかくしゃを「たけしねこまね仮面かめん」という覆面ふくめんレスラーとしてデビューさせる計画けいかく予告よこくされていた。
  2. ^ a b 日本にっぽんプロレス事件じけん vol.10』P53 - P54
  3. ^ a b c 別冊べっさつ宝島たからじましん日本にっぽんプロレス10だい事件じけん真相しんそう』P82-P83、P85-P88より。
  4. ^ 日本にっぽんプロレス事件じけん vol.10』P56 - P57
  5. ^ a b 日本にっぽんプロレス事件じけん vol.10』P58
  6. ^ 当時とうじしん日本にっぽんプロレスは日本武道館にほんぶどうかん使用しようしていなかったほか全日本ぜんにほん武道館ぶどうかん常打じょうう会場かいじょうとしていた)、さらに東京とうきょう体育館たいいくかん当時とうじ工事こうじちゅうだった。結局けっきょくこの期間きかん完成かんせいしたばかりの有明ありあけコロシアム使用しようしたものの、1988ねん2がつ当時とうじレインボーブリッジ首都高しゅとこうそく10ごう晴海はるみせん開通かいつうしておらず、また周辺しゅうへん鉄道てつどう路線ろせんなど(ゆりかもめりんかいせんJR京葉線けいようせん都営地下鉄とえいちかてつ大江戸おおえどせん東京とうきょうBRT)のぜん区間くかん開業かいぎょう、さらに営団えいだん地下鉄ちかてつげん東京とうきょうメトロ)有楽町線ゆうらくちょうせん豊洲とよすえきふく新富町しんとみちょうえき - 新木場しんきばえきあいだ開業かいぎょうも4ヶ月かげつ同年どうねん6がつ6にち)であり、周辺しゅうへん交通こうつう手段しゅだん整備せいびだったうえ、1991ねんまで屋根やねかったため、あめにたたられるなど不便ふべんいられた
  7. ^ 【ゼロワン】「TPG代表だいひょう三又みつまたまたさんがゼロワンGMの要求ようきゅう”. 東京とうきょうスポーツ (2017ねん4がつ28にち). 2020ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  8. ^ 三又みつまた勝手かって会見かいけんひらき、8/31後楽園こうらくえんに、三又みつまたぐん投入とうにゅう予告よこく”. ZERO1 (2017ねん8がつ23にち). 2020ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  9. ^ mimatadanceの2017ねん10がつ19にち2334ぶんのツイート2020ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  10. ^ 【ゼロワン】おわら芸人げいにんさん又又またまたさんがGM就任しゅうにん リングで大谷おおや社長しゃちょう握手あくしゅ”. ひがしスポWeb (2017ねん10がつ26にち). 2022ねん8がつ30にち閲覧えつらん
  11. ^ ダンカン、なべやかんにてぜりふ「土下座どげざしたらオフィス北野きたのもどっていい」”. サンスポ. SANKEI DIGITAL, INC (2019ねん9がつ1にち). 2022ねん8がつ30にち閲覧えつらん
  12. ^ れいのTPG”ダンカンプロレス軍団ぐんだん王座おうざ戴冠たいかんしダンカン総帥そうすい高笑たかわらい!”. バトル・ニュース (2022ねん7がつ14にち). 2022ねん8がつ30にち閲覧えつらん