アレクサンドロス・ロマンス 、またはアレクサンダー・ロマンス は、古代 こだい マケドニア のアレクサンドロス大王 だいおう の生涯 しょうがい を素材 そざい として多 おお くの空想 くうそう をまじえ、ユーラシア大陸 たいりく 各地 かくち で語 かた り継 つ がれた伝説 でんせつ 群 ぐん の総称 そうしょう 。伝奇 でんき 的 てき な内容 ないよう のものが多 おお く、分布 ぶんぷ 地域 ちいき は地中海 ちちゅうかい 地域 ちいき と西 にし アジア を中心 ちゅうしん に、インド や中国 ちゅうごく やエチオピア にまでおよぶ。
アレクサンドロス大王 だいおう の生涯 しょうがい と東方 とうほう 遠征 えんせい は、王 おう の生前 せいぜん から伝説 でんせつ 化 か されはじめていた。しかし後世 こうせい に長 なが く語 かた り継 つ がれるアレクサンドロス・ロマンスの成立 せいりつ は、3世紀 せいき 頃 ころ にエジプト のアレクサンドリア で書 か かれたとされる『アレクサンドロス大王 だいおう 物語 ものがたり 』(伝 つて カリステネス著 ちょ )の登場 とうじょう を画 が 期 き とする。この物語 ものがたり のなかでアレクサンドロスはエジプトの王子 おうじ とされ、世界 せかい の果 は てを求 もと めてあらゆる国々 くにぐに をさまよった末 すえ に裏切 うらぎ りによって殺 ころ されたことになっている。
中世 ちゅうせい ヨーロッパにはアレクサンドロス大王 だいおう に関係 かんけい する説話 せつわ が数多 かずおお く存在 そんざい しており、トマス・マロリー の『アーサー王 おう の死 し 』キャクストン版 ばん の編者 へんしゃ ウィリアム・キャクストン による序文 じょぶん ではアーサー王 おう やシャルルマーニュ といった伝説 でんせつ 化 か された君主 くんしゅ とともに九 きゅう 人 にん の『過去 かこ の偉大 いだい な最上 さいじょう の人物 じんぶつ 』の一人 ひとり としてあげられている。
生物 せいぶつ が実 みの る「もの言 い う木 き 」に至 いた ったイスカンダル。フェルドウスィー の『シャー・ナーメ 』より(14世紀 せいき 前半 ぜんはん 、イルハン朝 あさ )
アレクサンドロスは東方 とうほう 世界 せかい ではイスカンダル双 そう 角 かく 王 おう (イスカンダル・ズルカルナイン)として知 し られている。双 そう 角 かく 王 おう (Dhul-Qarnayn, ドゥル・カルナイン)という通称 つうしょう は彼 かれ の額 がく に二 に 本 ほん の角 かく が生 は えていたとの伝承 でんしょう に基 もと づくもので、生前 せいぜん のアレクサンドロスが角 かく のある兜 かぶと を愛用 あいよう していたという伝承 でんしょう (真偽 しんぎ は定 さだ かでない)に加 くわ え、古代 こだい オリエントにおける牡 おす 牛神 うしがみ 信仰 しんこう の影響 えいきょう があると考 かんが えられている。
ゾロアスター教 きょう の伝承 でんしょう によれば、アケメネス朝 あさ 時代 じだい には既 すで に聖典 せいてん アヴェスター が存在 そんざい していたが、それらは全 すべ てアレクサンドロスによって焚書 ふんしょ されたとされる(証明 しょうめい はされていない)。そのため、前 まえ イスラーム 期 き のペルシア では、アレクサンドロスはもっぱら悪 あ しき侵略 しんりゃく 者 しゃ としてのみ伝 つた えられていた。しかしこの状況 じょうきょう は中世 ちゅうせい に入 はい るとともに次第 しだい に変化 へんか をはじめる。
まず6世紀 せいき 以前 いぜん に無名 むめい アルメニア 人 ひと の手 て によってギリシア語 ご のアレクサンドロス・ロマンスが中世 ちゅうせい ペルシア語 ご (パフラヴィー語 ご )に翻訳 ほんやく され、それがさらにシリア語 ご に訳 やく されてオリエント各地 かくち へ伝 つた わっていった。また中東 ちゅうとう 各地 かくち に存在 そんざい したユダヤ教徒 きょうと やキリスト教徒 きりすときょうと のあいだでも独自 どくじ のアレクサンドロス伝承 でんしょう が語 かた られていた。さらに7世紀 せいき に興 おこ ったイスラームが地中海 ちちゅうかい 世界 せかい におけるアレクサンドロスの伝承 でんしょう をイランに持 も ち込 こ んでからは、アレクサンドロスのイメージは「善 よ き英雄 えいゆう 」としてのものに変質 へんしつ しはじめる。
なおイスラーム の聖典 せいてん 『クルアーン 』のなかにも「ズー・アル=カルナイン/ズルカルナイン(二 に 本 ほん 角 かく )」( ذو القرنينDhū al-Qarnayn:「二 に 本 ほん の角 かく を持 も てる者 もの 」の意味 いみ )という人物 じんぶつ が登場 とうじょう するが、これはアレクサンドロス大王 だいおう がモデルであるというのがほぼ定説 ていせつ になっている。二 に 本 ほん 角 かく についての物語 ものがたり は分量 ぶんりょう としてはごくわずかであるが、彼 かれ は世界 せかい の果 は ての探求 たんきゅう 者 しゃ であり、アッラー の言葉 ことば を聴 き くことができる者 もの (預言 よげん 者 しゃ )として描 えが かれている。
11世紀 せいき イランの詩人 しじん フェルドウスィー は、サーサーン朝 あさ 末期 まっき に編纂 へんさん された歴史 れきし 書 しょ 『フワダーイ・ナーマグ』に範 はん を採 と る、イランの伝説 でんせつ 上 じょう の英雄 えいゆう たちの功業 こうぎょう を描 えが いた一大 いちだい 叙事詩 じょじし 『シャー・ナーメ 』(『王 おう 書 しょ 』)のなかにアレクサンドロス(カイ・イスカンダル王 おう )を登場 とうじょう させた。物語 ものがたり の中 なか でアレクサンドロスは伝説 でんせつ 的 てき なカイヤーニー朝 あさ の最後 さいご の王 おう で、ダレイオス3世 せい (ダーラー)の弟 おとうと ということになっている。『シャー・ナーメ』のなかのアレクサンドロスにはなお暴君 ぼうくん 的 てき な色彩 しきさい が残 のこ るが、12世紀 せいき アゼルバイジャン の詩人 しじん ニザーミー がペルシア語 ご 叙事詩 じょじし の5 いつ つの連作 れんさく 『ハムセ』(Khamse;五 ご 部 ぶ 作 さく )の一 いち 編 へん として、アレクサンドロスの生涯 しょうがい を主題 しゅだい とする『イスカンダル・ナーメ』(アレクサンドロスの書 しょ )を著 あらわ したことにより、「偉大 いだい な悲劇 ひげき 的 てき 英雄 えいゆう 」としてのアレクサンドロス像 ぞう が確立 かくりつ した。
ビールーニー など一部 いちぶ の学者 がくしゃ は、アレクサンドロスの西 にし アジアでの伝承 でんしょう と西方 せいほう のギリシア語 ご 文献 ぶんけん での伝承 でんしょう との甚 はなは だしい相違 そうい については困惑 こんわく しているが、結局 けっきょく 西 にし アジア現地 げんち での伝承 でんしょう の方 ほう を真実 しんじつ に近 ちか いと判断 はんだん したため「イランの帝王 ていおう イスカンダル・ズルカルナイン」という認識 にんしき は定着 ていちゃく してしまった。アラビア語 ご ・ペルシア語 ご の歴史 れきし 書 しょ では、イスカンダルの出生 しゅっしょう については、イランのカイヤーニー王朝 おうちょう の帝王 ていおう ダーラーブ(ダレイオス1世 せい に相当 そうとう )とユーナーンないしルーム(ギリシア世界 せかい )の帝王 ていおう フィルフース(フィリッポス2世 せい )の王女 おうじょ とのあいだに生 う まれたということになっている。王女 おうじょ を疎 うと ましく思 おも ったダーラーブは王女 おうじょ を実家 じっか のルーム地方 ちほう に返 かえ し、そこで祖父 そふ のフィルフースのもとで誕生 たんじょう ・成長 せいちょう 。やがてイランの帝王 ていおう になった兄弟 きょうだい のダーラーと争 あらそ いこれを討伐 とうばつ し、イスカンダルは両 りょう 地域 ちいき に君臨 くんりん して「ルームとイランの帝王 ていおう である征服 せいふく 者 しゃ イスカンダル・ズルカルナイン」となったと認識 にんしき されるようになった。この種 たね の「征服 せいふく 者 しゃ イスカンダル・ズルカルナイン」像 ぞう は、14世紀 せいき のイルハン朝 あさ で『シャー・ナーメ』や『イスカンダル・ナーメ』などのニザーミーの『五 ご 部 ぶ 作 さく 』の挿 さ し絵 え 付 つ き写本 しゃほん が大量 たいりょう に作成 さくせい されたことで、中央 ちゅうおう アジア、イラン、アナトリアの各地 かくち でテュルク・モンゴル系 けい の王侯 おうこう 達 たち にも広 ひろ く愛読 あいどく され、君主 くんしゅ の規範 きはん のひとつとされるようになった。
東南 とうなん アジアのマレー年代 ねんだい 記 き には、アレクサンドロスとインドの王女 おうじょ の子孫 しそん であるラジャ・スランという人物 じんぶつ が登場 とうじょう し、中国 ちゅうごく まで兵 へい を進 すす めたとされる。
インドの軍神 ぐんしん スカンダ の名 な が「アレクサンドロス」のアラビア・ペルシア語 ご 名 めい 「イスカンダル 」に由来 ゆらい するという説 せつ も唱 とな えられている。またインドの賢明 けんめい な老 ろう 王 おう がアレクサンドロスと交 か わしたという哲学 てつがく 的 てき 対話 たいわ や、インドの王 おう たちがアレクサンドロスの陣営 じんえい に毒 どく 使 づか いの娼婦 しょうふ を送 おく り込 こ んで王 おう を暗殺 あんさつ したなどという伝奇 でんき 物語 ものがたり も存在 そんざい する。しかしアレクサンドロスと同 どう 時代 じだい のインドの文献 ぶんけん には彼 かれ の名 な が全 まった く見 み られないので、これらはすべて後世 こうせい に作 つく られた物語 ものがたり と考 かんが えられる。
なお、インドのアレクサンドロスをめぐる物語 ものがたり としては、マウリヤ朝 あさ の建国 けんこく 者 しゃ チャンドラグプタ が青年 せいねん 時代 じだい にアレクサンドロスと出会 であ ったという逸話 いつわ も伝 つた えられる。これは同 どう 時代 じだい の確実 かくじつ な文献 ぶんけん が存在 そんざい しないため、まったく証明 しょうめい 不可能 ふかのう であるが、状況 じょうきょう 的 てき には可能 かのう なストーリーである。すなわちチャンドラグプタはアレクサンドロスの帰還 きかん 直後 ちょくご に西北 せいほく インドで挙兵 きょへい した。したがって上記 じょうき の諸 しょ 伝説 でんせつ に比 くら べれば比較的 ひかくてき 信憑 しんぴょう 性 せい が高 たか い。
中国 ちゅうごく の『北 きた 斉 ひとし 書 しょ 』には、北 きた 斉 ひとし の創始 そうし 者 しゃ である文宣 ふみのぶ 帝 みかど が少年 しょうねん の頃 ころ 、父 ちち の高 こう 歓 から複雑 ふくざつ に絡 から まった糸 いと を解 と くように命 めい じられて剣 けん で斬 き った(「高祖 こうそ 嘗試觀 かん 諸子 しょし 意識 いしき 各 かく 使 つかい 治亂 ちらん 絲 いと 帝 みかど 獨 どく 抽刀斬 き 之 これ [ 1] 」)という逸話 いつわ がある。これはアレクサンドロス大王 だいおう の有名 ゆうめい な逸話 いつわ 「ゴルディアスの結 むす び目 め 」の換骨奪胎 かんこつだったい と考 かんが えられる。
南 みなみ 宋 そう の泉州 せんしゅう 市 し 舶司 であった趙 ちょう 汝 なんじ 适 が著 あらわ した『諸 しょ 蕃 しげる 志 こころざし 』には、勿斯里 さと (ミスル 、アラビア語 ご : مصر )の遏根陀國(アレキサンドリア)の徂葛尼 あま (ズルカルナイン の音 おと 写 うつし とされる)による大塔 おおとう (アレクサンドリアの大 だい 灯台 とうだい )が記述 きじゅつ されている[ 2] 。
遏根陀國,勿斯里 さと 之 の 屬 ぞく 也。相傳 そうでん 古人 こじん 異人 いじん 徂葛尼 あま ,於瀕海 うみ 建 けん 大塔 だいとう ,下 しも 鑿地為 ため 兩 りょう 屋 や ,塼結甚密,一 いち 窖 あなぐら 糧食 りょうしょく ,一 いち 儲 もうか 器械 きかい ,塔 とう 高 だか 二 に 百 ひゃく 丈 たけ ,可 か 通 どおり 四馬齊驅而上,至 いたり 三 さん 分 ふん 之 の 二 に ,塔 とう 心 しん 開 ひらき 大井 おおい ,結 ゆい 渠 みぞ 透 とおる 大江 おおえ 以防他國 たこく 兵 へい 侵 おかせ ,則 のり 舉國據 よりどころ 塔 とう 以拒敵 てき ,上下 じょうげ 可 か 容 よう 二 に 萬 まん 人 にん ,內居守 もり 而外出 がいしゅつ 戰 せん 。其頂上 じょう 有 ゆう 鏡 きょう 極大 きょくだい ,他國 たこく 或 ある 有 ゆう 兵船 へいせん 侵犯 しんぱん ,鏡 かがみ 先 さき 照 あきら 見 み ,卽 そく 預 あずか 備守禦之計 けい 。近年 きんねん 為 ため 外國 がいこく 人 じん 投 とう 塔 とう 下 か 。執 と 役 やく 掃洒數 すう 年 ねん ,人 にん 不 ふ 疑 うたぐ 之 これ ,忽 ゆるがせ 一 いち 日 にち 得 とく 便 びん ,盜 とう 鏡 きょう 抛 ほう 沉海中 ちゅう 而去。 — 『諸 しょ 蕃 しげる 志 こころざし 』卷 まき 上 のぼる [ 3]
伝 つて カリステネス『アレクサンドロス大王 だいおう 物語 ものがたり 』(橋本 はしもと 隆夫 たかお 訳 やく 、国文 こくぶん 社 しゃ 「叢書 そうしょ アレクサンドリア図書館 としょかん 第 だい 7巻 かん 」、2000年 ねん )
ナポリの首席 しゅせき 司祭 しさい レオ『アレクサンデル大王 だいおう の誕生 たんじょう と勝利 しょうり 』(芳賀 はが 重徳 しげのり 訳 やく 、近代 きんだい 文芸 ぶんげい 社 しゃ 、1996年 ねん )
井本 いもと 英一 ひでかず 、岡本 おかもと 健一 けんいち 、金澤 かなざわ 良樹 よしき 『アレクサンダー大王 だいおう 99の謎 なぞ 』(サンポウジャーナル、1978年 ねん )
^ 李 り 百藥 ひゃくやく (中国 ちゅうごく 語 ご ), 北 きた 齊 ひとし 書 しょ /卷 まき 4 , ウィキソース より閲覧 えつらん 。 「文宣 ふみのぶ 帝 みかど 紀 き 」
^ 以上 いじょう は金澤 かなざわ 良樹 よしき ; 井本 いもと 英一 ひでかず 、岡本 おかもと 健一 けんいち (1978-02-15). “15図説 ずせつ -世界 せかい にみるアレクサンダーの痕跡 こんせき ”. アレキサンダー大王 だいおう 99の謎 なぞ . 99の謎 なぞ . サンポウジャーナル. pp. 49
^ 趙 ちょう 汝 なんじ 适 (中国 ちゅうごく 語 ご ), 諸 しょ 蕃 しげる 志 こころざし /卷 まき 上 じょう , ウィキソース より閲覧 えつらん 。