(Translated by https://www.hiragana.jp/)
アレクサンドロス・ロマンス - Wikipedia コンテンツにスキップ

アレクサンドロス・ロマンス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

アレクサンドロス・ロマンス、またはアレクサンダー・ロマンスは、古代こだいマケドニアアレクサンドロス大王だいおう生涯しょうがい素材そざいとしておおくの空想くうそうをまじえ、ユーラシア大陸たいりく各地かくちかたがれた伝説でんせつぐん総称そうしょう伝奇でんきてき内容ないようのものがおおく、分布ぶんぷ地域ちいき地中海ちちゅうかい地域ちいき西にしアジア中心ちゅうしんに、インド中国ちゅうごくエチオピアにまでおよぶ。

アレクサンドロス・ロマンスの発生はっせい

[編集へんしゅう]

アレクサンドロス大王だいおう生涯しょうがい東方とうほう遠征えんせいは、おう生前せいぜんから伝説でんせつされはじめていた。しかし後世こうせいながかたがれるアレクサンドロス・ロマンスの成立せいりつは、3世紀せいきころエジプトアレクサンドリアかれたとされる『アレクサンドロス大王だいおう物語ものがたり』(つてカリステネスちょ)の登場とうじょうとする。この物語ものがたりのなかでアレクサンドロスはエジプトの王子おうじとされ、世界せかいてをもとめてあらゆる国々くにぐにをさまよったすえ裏切うらぎりによってころされたことになっている。

西方せいほう世界せかいにおける伝承でんしょう

[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいヨーロッパにはアレクサンドロス大王だいおう関係かんけいする説話せつわ数多かずおお存在そんざいしており、トマス・マロリーの『アーサーおう』キャクストンばん編者へんしゃウィリアム・キャクストンによる序文じょぶんではアーサーおうシャルルマーニュといった伝説でんせつされた君主くんしゅとともにきゅうにんの『過去かこ偉大いだい最上さいじょう人物じんぶつ』の一人ひとりとしてあげられている。

東方とうほう世界せかいにおける伝承でんしょう

[編集へんしゅう]
生物せいぶつみのる「もの」にいたったイスカンダル。フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』より(14世紀せいき前半ぜんはんイルハンあさ

アレクサンドロスは東方とうほう世界せかいではイスカンダルそうかくおう(イスカンダル・ズルカルナイン)としてられている。そうかくおう(Dhul-Qarnayn, ドゥル・カルナイン)という通称つうしょうかれがくほんかくえていたとの伝承でんしょうもとづくもので、生前せいぜんのアレクサンドロスがかくのあるかぶと愛用あいようしていたという伝承でんしょう真偽しんぎさだかでない)にくわえ、古代こだいオリエントにおけるおす牛神うしがみ信仰しんこう影響えいきょうがあるとかんがえられている。

西にしアジア

[編集へんしゅう]

ゾロアスターきょう伝承でんしょうによれば、アケメネスあさ時代じだいにはすで聖典せいてんアヴェスター存在そんざいしていたが、それらはすべてアレクサンドロスによって焚書ふんしょされたとされる(証明しょうめいはされていない)。そのため、まえイスラームペルシアでは、アレクサンドロスはもっぱらしき侵略しんりゃくしゃとしてのみつたえられていた。しかしこの状況じょうきょう中世ちゅうせいはいるとともに次第しだい変化へんかをはじめる。

まず6世紀せいき以前いぜん無名むめいアルメニアひとによってギリシアのアレクサンドロス・ロマンスが中世ちゅうせいペルシアパフラヴィー)に翻訳ほんやくされ、それがさらにシリアやくされてオリエント各地かくちつたわっていった。また中東ちゅうとう各地かくち存在そんざいしたユダヤ教徒きょうとキリスト教徒きりすときょうとのあいだでも独自どくじのアレクサンドロス伝承でんしょうかたられていた。さらに7世紀せいきおこったイスラームが地中海ちちゅうかい世界せかいにおけるアレクサンドロスの伝承でんしょうをイランにんでからは、アレクサンドロスのイメージは「英雄えいゆう」としてのものに変質へんしつしはじめる。

なおイスラーム聖典せいてんクルアーン』のなかにも「ズー・アル=カルナイン/ズルカルナイン(ほんかく)」( ذو القرنينDhū al-Qarnayn:「ほんかくてるもの」の意味いみ)という人物じんぶつ登場とうじょうするが、これはアレクサンドロス大王だいおうがモデルであるというのがほぼ定説ていせつになっている。ほんかくについての物語ものがたり分量ぶんりょうとしてはごくわずかであるが、かれ世界せかいての探求たんきゅうしゃであり、アッラー言葉ことばくことができるもの預言よげんしゃ)としてえがかれている。

11世紀せいきイランの詩人しじんフェルドウスィーは、サーサーンあさ末期まっき編纂へんさんされた歴史れきししょ『フワダーイ・ナーマグ』にはんる、イランの伝説でんせつじょう英雄えいゆうたちの功業こうぎょうえがいた一大いちだい叙事詩じょじしシャー・ナーメ』(『おうしょ』)のなかにアレクサンドロス(カイ・イスカンダルおう)を登場とうじょうさせた。物語ものがたりなかでアレクサンドロスは伝説でんせつてきなカイヤーニーあさ最後さいごおうで、ダレイオス3せい(ダーラー)のおとうとということになっている。『シャー・ナーメ』のなかのアレクサンドロスにはなお暴君ぼうくんてき色彩しきさいのこるが、12世紀せいきアゼルバイジャン詩人しじんニザーミーペルシア叙事詩じょじしいつつの連作れんさく『ハムセ』(Khamse;さく)のいちへんとして、アレクサンドロスの生涯しょうがい主題しゅだいとする『イスカンダル・ナーメ』(アレクサンドロスのしょ)をあらわしたことにより、「偉大いだい悲劇ひげきてき英雄えいゆう」としてのアレクサンドロスぞう確立かくりつした。

ビールーニーなど一部いちぶ学者がくしゃは、アレクサンドロスの西にしアジアでの伝承でんしょう西方せいほうのギリシア文献ぶんけんでの伝承でんしょうとのはなはだしい相違そういについては困惑こんわくしているが、結局けっきょく西にしアジア現地げんちでの伝承でんしょうほう真実しんじつちかいと判断はんだんしたため「イランの帝王ていおうイスカンダル・ズルカルナイン」という認識にんしき定着ていちゃくしてしまった。アラビア・ペルシア歴史れきししょでは、イスカンダルの出生しゅっしょうについては、イランのカイヤーニー王朝おうちょう帝王ていおうダーラーブ(ダレイオス1せい相当そうとう)とユーナーンないしルーム(ギリシア世界せかい)の帝王ていおうフィルフース(フィリッポス2せい)の王女おうじょとのあいだにまれたということになっている。王女おうじょうとましくおもったダーラーブは王女おうじょ実家じっかのルーム地方ちほうかえし、そこで祖父そふのフィルフースのもとで誕生たんじょう成長せいちょう。やがてイランの帝王ていおうになった兄弟きょうだいのダーラーとあらそいこれを討伐とうばつし、イスカンダルはりょう地域ちいき君臨くんりんして「ルームとイランの帝王ていおうである征服せいふくしゃイスカンダル・ズルカルナイン」となったと認識にんしきされるようになった。このたねの「征服せいふくしゃイスカンダル・ズルカルナイン」ぞうは、14世紀せいきのイルハンあさで『シャー・ナーメ』や『イスカンダル・ナーメ』などのニザーミーの『さく』の写本しゃほん大量たいりょう作成さくせいされたことで、中央ちゅうおうアジア、イラン、アナトリアの各地かくちでテュルク・モンゴルけい王侯おうこうたちにもひろ愛読あいどくされ、君主くんしゅ規範きはんのひとつとされるようになった。

その地域ちいき

[編集へんしゅう]

東南とうなんアジアのマレー年代ねんだいには、アレクサンドロスとインドの王女おうじょ子孫しそんであるラジャ・スランという人物じんぶつ登場とうじょうし、中国ちゅうごくまでへいすすめたとされる。

インドの軍神ぐんしんスカンダが「アレクサンドロス」のアラビア・ペルシアめいイスカンダル」に由来ゆらいするというせつとなえられている。またインドの賢明けんめいろうおうがアレクサンドロスとわしたという哲学てつがくてき対話たいわや、インドのおうたちがアレクサンドロスの陣営じんえいどく使づかいの娼婦しょうふおくんでおう暗殺あんさつしたなどという伝奇でんき物語ものがたり存在そんざいする。しかしアレクサンドロスとどう時代じだいのインドの文献ぶんけんにはかれまったられないので、これらはすべて後世こうせいつくられた物語ものがたりかんがえられる。

なお、インドのアレクサンドロスをめぐる物語ものがたりとしては、マウリヤあさ建国けんこくしゃチャンドラグプタ青年せいねん時代じだいにアレクサンドロスと出会であったという逸話いつわつたえられる。これはどう時代じだい確実かくじつ文献ぶんけん存在そんざいしないため、まったく証明しょうめい不可能ふかのうであるが、状況じょうきょうてきには可能かのうなストーリーである。すなわちチャンドラグプタはアレクサンドロスの帰還きかん直後ちょくご西北せいほくインドで挙兵きょへいした。したがって上記じょうきしょ伝説でんせつくらべれば比較的ひかくてき信憑しんぴょうせいたかい。

中国ちゅうごくの『きたひとししょ』には、きたひとし創始そうししゃである文宣ふみのぶみかど少年しょうねんころちちこうから複雑ふくざつからまったいとくようにめいじられてけんった(「高祖こうそ嘗試かん諸子しょし意識いしき かく使つかい治亂ちらんいと みかどどく抽刀これ[1]」)という逸話いつわがある。これはアレクサンドロス大王だいおう有名ゆうめい逸話いつわゴルディアスのむす」の換骨奪胎かんこつだったいかんがえられる。

みなみそう泉州せんしゅう舶司であったちょうなんじあらわした『しょしげるこころざし』には、勿斯さとミスルアラビア: مصر‎)の遏根陀國(アレキサンドリア)の徂葛あまズルカルナインおとうつしとされる)による大塔おおとうアレクサンドリアのだい灯台とうだい)が記述きじゅつされている[2]

遏根陀國,勿斯さとぞく也。相傳そうでん古人こじん異人いじん徂葛あま,於瀕うみけん大塔だいとうしも鑿地ためりょう,塼結甚密,いちあなぐら糧食りょうしょくいちもうか器械きかいとうだかひゃくたけどおり四馬齊驅而上,いたりさんふんとうしんひらき大井おおいゆいみぞとおる大江おおえ以防他國たこくへいおかせのり舉國よりどころとう以拒てき上下じょうげようまんにん,內居もり外出がいしゅつせん。其頂じょうゆうきょう極大きょくだい他國たこくあるゆう兵船へいせん侵犯しんぱんかがみさきあきらそくあずか備守禦之けい近年きんねんため外國がいこくじんとうとうやく掃洒すうねんにんうたぐこれゆるがせいちにちとく便びんとうきょうほう沉海ちゅう而去。 — 『しょしげるこころざしまきのぼる[3]

関連かんれん文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • つてカリステネス『アレクサンドロス大王だいおう物語ものがたり』(橋本はしもと隆夫たかおやく国文こくぶんしゃ叢書そうしょアレクサンドリア図書館としょかん だい7かん」、2000ねん
  • ナポリの首席しゅせき司祭しさいレオ『アレクサンデル大王だいおう誕生たんじょう勝利しょうり』(芳賀はが重徳しげのりやく近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、1996ねん
  • 井本いもと英一ひでかず岡本おかもと健一けんいち金澤かなざわ良樹よしき『アレクサンダー大王だいおう99のなぞ』(サンポウジャーナル、1978ねん

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ ウィキソース出典 百藥ひゃくやく (中国ちゅうごく), きたひとししょ/まき4, ウィキソースより閲覧えつらん 文宣ふみのぶみかど
  2. ^ 以上いじょう金澤かなざわ良樹よしき; 井本いもと英一ひでかず岡本おかもと健一けんいち (1978-02-15). “15図説ずせつ-世界せかいにみるアレクサンダーの痕跡こんせき”. アレキサンダー大王だいおう99のなぞ. 99のなぞ. サンポウジャーナル. pp. 49 
  3. ^ ウィキソース出典 ちょうなんじ适 (中国ちゅうごく), しょしげるこころざし/まきじょう, ウィキソースより閲覧えつらん