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アヴィニョン歴史れきし地区ちく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界遺産 アヴィニョン歴史れきし地区ちく
教皇きょうこう宮殿きゅうでん大司教だいしきょう建造けんぞうぶつぐんおよびアヴィニョンきょう
フランス
教皇宮殿、大聖堂および橋
教皇きょうこう宮殿きゅうでんだい聖堂せいどうおよびはし
英名えいめい Historic Centre of Avignon: Papal Palace, Episcopal Ensemble and Avignon Bridge
ふつめい Centre historique d'Avignon : Palais des papes, ensemble épiscopal et Pont d'Avignon
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (1),(2),(4)
登録とうろくねん 1995ねん
備考びこう 2006ねん現在げんざい名称めいしょう改称かいしょうされた。
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
地図ちず
アヴィニョン歴史地区の位置
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ

アヴィニョン歴史れきし地区ちく教皇きょうこう宮殿きゅうでん大司教だいしきょう建造けんぞうぶつぐんおよびアヴィニョンきょう」は、フランスにあるユネスコ世界せかい遺産いさんのひとつ。

みなみフランスの都市としアヴィニョン景観けいかんのうち、教皇きょうこう宮殿きゅうでんとその周辺しゅうへん、すなわちプチ・パレ(小宮こみや殿どの)、ノートルダム・デ・ドンだい聖堂せいどうサン・ベネゼきょう(アヴィニョンきょう)、一部いちぶ城壁じょうへきなどを対象たいしょうとする。

当初とうしょ登録とうろくめいたんなる「アヴィニョン歴史れきし地区ちく」だったが、2006ねん現在げんざい登録とうろくめい変更へんこうされた(とう項目こうもくめい煩瑣はんさになるのをふせぐため、便宜上べんぎじょう旧称きゅうしょうもちいている)。

おも登録とうろく物件ぶっけん

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アヴィニョンは14世紀せいきには教皇きょうこうちょうかれていた時期じきがあり、世界せかい遺産いさん登録とうろくされたのは、しゅとして当時とうじアヴィニョンの中心ちゅうしんとしてさかえていた地区ちくである。

以下いかおも登録とうろく物件ぶっけんについて概説がいせつする。

教皇きょうこう宮殿きゅうでん

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教皇きょうこう宮殿きゅうでんは、かつてアヴィニョンに教皇きょうこうちょうがおかれていたとき建造けんぞうされた宮殿きゅうでんである。フランス革命かくめい略奪りゃくだつによって内装ないそうさびしいものとなってしまったが、現存げんそんするヨーロッパの中世ちゅうせいゴシック様式ようしき建築けんちくぶつなかでは最大さいだいきゅうほこ重要じゅうようなものである。

アヴィニョンはいわゆる教皇きょうこうアヴィニョンしゅう時代じだい(1309ねん - 1377ねん)には教皇きょうこうしょとして機能きのうした。現存げんそんする宮殿きゅうでんは、元々もともとアヴィニョン司教しきょう宮城みやぎがあったローヌがわのぞむアヴィニョンきたえん建造けんぞうされたものである。1335ねんから1364ねんまでのやく30ねんおよんだ建築けんちくは、おもむきことなるふたつの区画くかくかれる。いわゆるきゅう宮殿きゅうでん(パレ・ヴィュー)と新宮しんぐう殿どの(パレ・ヌフ)である。りょう区画くかく完成かんせい面積めんせきは11000km2という広大こうだいなもので、当時とうじ教皇きょうこう収入しゅうにゅうおおくの部分ぶぶんがつぎまれた。

きゅう宮殿きゅうでんは、教皇きょうこうベネディクトゥス12せいいのちで、ミルポワピエール・ポワソンがけた。厳格げんかくなベネディクトゥスは司教しきょうみやこわし、回廊かいろう重厚じゅうこう防壁ぼうへきそなえたよりおおきな宮殿きゅうでんつくらせた。この宮殿きゅうでんよっつのつばさとうち、それぞれからたかとうびている。

クレメンス6せいインノケンティウス6せいウルバヌス5せい時代じだいに、現在げんざいしん宮殿きゅうでんとしてられる部分ぶぶん増築ぞうちくおこなわれた。これはクレメンス6せいいのちジャン・ド・ルーヴルがけた。そこには教皇きょうこう礼拝れいはい使つかわれたながさ52メートル(たかさ20メートル)のだい礼拝れいはいしつなどもふくまれる。その、インノケンティウス6せいとウルバヌス5せいのときにふたつのとうつくられた。きゅう宮殿きゅうでんだけのときにはひらかれていた前庭ぜんていは、増築ぞうちくされたしん宮殿きゅうでんかこむようなかたちになったために、事実じじつじょう中庭なかにわになった。クレメンス6せい華美かびこのんだため、イタリアからシモーネ・マルティーニマッテオ・ジョヴァネッティまねいて、内装ないそう豪奢ごうしゃかざらせた。このため、きゅう宮殿きゅうでんかざりのなさとは対照たいしょうてきに、しん宮殿きゅうでんフレスコタペストリー絵画かいが彫刻ちょうこくなどではなやかにいろどられた。

1377ねん教皇きょうこうちょうふたたびローマにもどったが、つづ教会きょうかい大分おおいたきれには対立たいりつ教皇きょうこうであるクレメンス7せいベネディクトゥス13せいが、この教皇きょうこう宮殿きゅうでんを1408ねんまでしょとした(ただし、ベネディクトゥス13せいは1398ねんからおよそ10年間ねんかん宮殿きゅうでんない幽閉ゆうへい状態じょうたいだった)。そのすこしのあいだ宮殿きゅうでん対立たいりつ教皇きょうこうにあったが、1433ねんローマ教皇きょうこうちょう財産ざいさんとなった。

宮殿きゅうでんはそのもおよそ350ねんにわたり、周辺しゅうへんのアヴィニョンヴナスクはくりょうとともに教皇きょうこうちょう管理かんりにあった。そのあいだ、1516ねん修復しゅうふくなどもあったものの、徐々じょじょ劣化れっかしていった。フランス革命かくめいこった1789ねんには、この宮殿きゅうでんすでひど状態じょうたいになっており、革命かくめい破壊はかい略奪りゃくだつ拍車はくしゃをかけた。その一部いちぶ獄舎ごくしゃ転用てんようされていたが、1791ねんには投獄とうごくされていたはん革命かくめい虐殺ぎゃくさつされ、その死体したいきゅう宮殿きゅうでんのラトリヌとう投棄とうきされるという事件じけんこった。ナポレオン・ボナパルトフランス皇帝こうていナポレオン1せい)の治世ちせいでもつづ獄舎ごくしゃ兵営へいえいとしてもちいられていた。最終さいしゅうてき兵営へいえい撤去てっきょされたのは1906ねんのことであり、それまでのあいだ、なおも破壊はかい略奪りゃくだつにさらされた。

現在げんざい国営こくえいのミュージアムとして修復しゅうふくおこなわれており、だい部分ぶぶん一般いっぱん公開こうかいされている。ただし、なが年月としつき破壊はかい略奪りゃくだつ結果けっか最盛さいせい様子ようすつたえる当時とうじ調度ちょうどひんなどはほとんどが散逸さんいつしてしまっている。

なお1947ねん以降いこうは、毎年まいとし開催かいさいされているアヴィニョン演劇えんげきさいのメイン会場かいじょうとなっている。

プチ・パレ

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プチ・パレ(アヴィニョン)英語えいごばん(Petit Palais、小宮こみや殿どの)は14世紀せいきてられた司教しきょうかんで、現在げんざい美術館びじゅつかんとなっている。ルネサンスのイタリア絵画かいがアヴィニョン絵画かいがのコレクションが充実じゅうじつしており、サンドロ・ボッティチェリさく聖母子せいぼし』、カルロ・クリヴェッリさくよん聖人せいじん』などが所蔵しょぞうされている。

内部ないぶは19しつかれており、だい1しつだい2しつには14世紀せいき彫刻ちょうこくやフレスコなどをることが出来できる。だい3しつからだい16しつには、13世紀せいきから16世紀せいきまでのイタリアの絵画かいがが、時代じだい分類ぶんるいされて展示てんじされている。上述じょうじゅつのボッティチェリの作品さくひんだい11しつ)やクリヴェッリの作品さくひんだい12しつ)などもここにふくまれている。だい17しつからだい19しつまでは15・16世紀せいきのアヴィニョン絵画かいが展示てんじされている。

ロシェ・デ・ドン

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ロシェ・デ・ドン英語えいごばん(ドンのいわかべ)は、教皇きょうこう宮殿きゅうでんきたにある要塞ようさいしかとしたいわかべ。そのうえは、現在げんざいみどりにあふれる公園こうえんとなっている。見晴みはらしがよく、ローヌがわやサン・ベネゼきょう対岸たいがんヴィルヌーヴ=レザヴィニョンなどを見渡みわたすことが出来できる。

ノートルダム・デ・ドンだい聖堂せいどう

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ノートルダム・デ・ドンだい聖堂せいどう

ノートルダム・デ・ドンだい聖堂せいどう英語えいごばんは、ロシェ・デ・ドンと教皇きょうこう宮殿きゅうでんあいだ位置いちするだい聖堂せいどう。12世紀せいきなかばに建造けんぞうされたロマネスク様式ようしき教会堂きょうかいどうだが、なんとなく改修かいしゅうされている。現在げんざい、ひときわたか西側にしがわ鐘楼しゅろう頂上ちょうじょう黄金おうごんかがや聖母せいぼぞうは、1859ねんけられたものである。内部ないぶ礼拝れいはいしつには、ゴシック様式ようしきつくられた教皇きょうこうヨハネス22せいはかがある。

  • 入口いりくち左手ひだりてのサン・ジャン・バティスト礼拝れいはいどうには16世紀せいきうつくしいキリストの彩色さいしき石像せきぞうがある。
  • 左手ひだりて聖歌せいかたい入口いりくちにはうつくしい12世紀せいきしろ大理石だいりせきせい司教しきょうせきがある。司教しきょうせきりょう側面そくめんにはひじりマルコとひじりルカを象徴しょうちょうした動物どうぶつ文様もんようほどこされている[1]

城壁じょうへき

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現在げんざいのアヴィニョンは城壁じょうへきかこまれている。この城壁じょうへき教皇きょうこうちょうかれていた14世紀せいき建造けんぞうされたものである。防衛ぼうえいじょう観点かんてんからはすぐれたものとはえないとの指摘してきもあるが、中世ちゅうせい都市とし城塞じょうさい建築けんちく姿すがたつたえるものとしては貴重きちょう遺構いこうである。19世紀せいきには、一部いちぶヴィオレ=ル=デュックによって再建さいけんされた。

  • この城壁じょうへきもっと興味深きょうみぶか部分ぶぶんは、ローヌの城壁じょうへきどおりからクリヨン広場ひろばいた道筋みちすじにみられる[1]

サン・ベネゼきょう

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サン・ベネゼきょうは12世紀せいきにかけられたはしで、世界せかい遺産いさん登録とうろくめいにもあらわれているように「アヴィニョンきょう」のでもしたしまれている。もと対岸たいがんのヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンまでびる22のアーチをはしであったが、現存げんそんするのは4つのアーチのみである。

  • 歩行ほこうしゃ騎馬きば通行つうこうしゃのためにつくられたものなので、うたにあるように、みんなでになっておどることはせまくて出来できなかったはずである。実際じっさいうたったりおどったりしていた場所ばしょはししたしまであった[1]

登録とうろく基準きじゅん

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この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • (1) 人類じんるい創造そうぞうてき才能さいのう表現ひょうげんする傑作けっさく
  • (2) ある期間きかんつうじてまたはある文化ぶんかけんにおいて、建築けんちく技術ぎじゅつ記念きねんてき芸術げいじゅつ都市とし計画けいかく景観けいかんデザインの発展はってんかんし、人類じんるい価値かち重要じゅうよう交流こうりゅうしめすもの。
  • (4) 人類じんるい歴史れきしじょう重要じゅうよう時代じだい例証れいしょうする建築けんちく様式ようしき建築けんちくぶつぐん技術ぎじゅつ集積しゅうせきまたは景観けいかんすぐれたれい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c ミシュラン・グリーンガイド プロヴァンス(みなみフランス)著作ちょさくフランスミシュランタイヤしゃ1991ねん6がつ1にち

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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