イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ (ウズベク語 ご : Islom Abdug‘aniyevich Karimov / Ислом Абдуғаниевич Каримов 、英語 えいご : Islam Abduganievich Karimov 、1938年 ねん 1月 がつ 30日 にち – 2016年 ねん 9月2日 にち )は、ソビエト連邦 れんぽう 、ウズベキスタン の政治 せいじ 家 か である。1964年 ねん ソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう に入党 にゅうとう 。ウズベク・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 国家 こっか 計画 けいかく 委員 いいん 会 かい 第 だい 1副 ふく 議長 ぎちょう 、財務 ざいむ 相 しょう 、副 ふく 首相 しゅしょう などを歴任 れきにん し、1990年 ねん 3月 がつ 、新設 しんせつ された同 どう 共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。同年 どうねん 7月 がつ ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 政治 せいじ 局 きょく 局員 きょくいん 、中央 ちゅうおう 委員 いいん となった。11月共和 きょうわ 国 こく 首相 しゅしょう (内閣 ないかく 議長 ぎちょう )兼任 けんにん 。1991年 ねん 11月ウズベキスタン人民 じんみん 民主党 みんしゅとう 創設 そうせつ 、党首 とうしゅ となる。ウズベキスタン独立 どくりつ 後 ご の1991年 ねん 12月、大統領 だいとうりょう 直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ に当選 とうせん し同国 どうこく の初代 しょだい 大統領 だいとうりょう となった。以後 いご 2016年 ねん に死去 しきょ するまで、25年間 ねんかん にわたって同国 どうこく の大統領 だいとうりょう を務 つと めた。
政敵 せいてき や言論 げんろん への弾圧 だんあつ 、不正 ふせい 選挙 せんきょ 、人権 じんけん 問題 もんだい や報道 ほうどう 規制 きせい などの問題 もんだい により欧米 おうべい 諸国 しょこく からは独裁 どくさい 者 しゃ として批判 ひはん を受 う け、パレード誌 し (英語 えいご 版 ばん ) に「世界 せかい 最悪 さいあく の独裁 どくさい 者 しゃ 」の一人 ひとり に選 えら ばれていた[ 1] 。経済 けいざい 面 めん では、カリモフ在任 ざいにん 中 ちゅう のウズベキスタンは2004年 ねん 以降 いこう 7%以上 いじょう のGDP 成長 せいちょう 率 りつ を記録 きろく しているが、これも子 こ どもを含 ふく む強制 きょうせい 労働 ろうどう によるものとする批判 ひはん がある。
1938年 ねん 1月 がつ 30日 にち 、ウズベク・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく のサマルカンド で生 う まれた[ 2] 。1941年 ねん 、サマルカンドの孤児 こじ 院 いん に送 おく られ、1942年 ねん に家 いえ に連 つ れ帰 かえ られたが1945年 ねん に孤児 こじ 院 いん に送 おく られた[ 3] 。少年 しょうねん 時代 じだい については模範 もはん 的 てき な学生 がくせい だったという説 せつ と荒 あら くれものであったという説 せつ の2つが存在 そんざい する[ 4] 。
1955年 ねん に高校 こうこう を卒業 そつぎょう 。1960年 ねん に中央 ちゅうおう アジア工科 こうか 大学 だいがく (現 げん ・タシュケント国立 こくりつ 工科 こうか 大学 だいがく (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) )を卒業 そつぎょう し、機械 きかい 工学 こうがく の学位 がくい を取得 しゅとく 。1961年 ねん から1966年 ねん まで、航空機 こうくうき 製造 せいぞう 企業 きぎょう や水 みず 資源 しげん 省 しょう で技術 ぎじゅつ 者 しゃ として勤務 きんむ した。
1967年 ねん にタシケント国民 こくみん 経済 けいざい 大学 だいがく (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) タシュケント国民 こくみん 経済 けいざい 大学 だいがく で経済 けいざい 学 がく の修士 しゅうし 号 ごう を取得 しゅとく した[ 3] 。
世界 せかい 経済 けいざい フォーラム年次 ねんじ 総会 そうかい でのカリモフ(右 みぎ から2人 ふたり 目 め 、1992年 ねん )
1964年 ねん 、ソビエト連邦 れんぽう 共産党 きょうさんとう 下部 かぶ 組織 そしき ウズベキスタン共産党 きょうさんとう に入党 にゅうとう 。1966年 ねん から1983年 ねん にかけて、ゴスプラン の主任 しゅにん 専門 せんもん 官 かん 、議長 ぎちょう 補佐 ほさ 官 かん 、課長 かちょう 、局長 きょくちょう 、副 ふく 議長 ぎちょう 、第 だい 一 いち 副 ふく 議長 ぎちょう を歴任 れきにん した。
1983年 ねん 、ウズベク共和 きょうわ 国 こく の財務 ざいむ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん 。1986年 ねん からは副 ふく 首相 しゅしょう 兼 けん ゴスプラン議長 ぎちょう を務 つと めた。カシュカダリヤ州 しゅう の共産党 きょうさんとう 第 だい 一 いち 書記 しょき を経 へ て、1989年 ねん 6月 がつ にウズベキスタン共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 第 だい 一 いち 書記 しょき に就任 しゅうにん した。
1990年 ねん から1991年 ねん までソ連 それん 共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 、政治 せいじ 局員 きょくいん 、ソビエト連邦 れんぽう 最高 さいこう 会議 かいぎ 代議員 だいぎいん を務 つと めた[ 3] 。
プーチンと会談 かいだん するカリモフ(2001年 ねん )
1990年 ねん 3月 がつ 24日 にち 、ウズベク・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の初代 しょだい 大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ された[ 3] 。
1991年 ねん 3月 がつ に行 おこな われた連邦 れんぽう 制 せい 維持 いじ の賛否 さんぴ を問 と う国民 こくみん 投票 とうひょう (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に際 さい してはソ連 それん への連帯 れんたい を呼 よ びかけ、95%の投票 とうひょう 率 りつ で70%以上 いじょう が連邦 れんぽう 制 せい に賛成 さんせい した[ 3] 。この投票 とうひょう 結果 けっか に基 もと づく新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく の調印 ちょういん を控 ひか えた8月 がつ 19日 にち 、モスクワ でクーデター が発生 はっせい 。これは失敗 しっぱい に終 お わったが、結果 けっか 的 てき に新 しん 連邦 れんぽう 条約 じょうやく は実現 じつげん せずソ連 それん の崩壊 ほうかい を招 まね くこととなった。カリモフ自身 じしん は、ペレストロイカの行 い き詰 づ まりとゴルバチョフ自身 じしん の指導 しどう 力 りょく の無 な さを批判 ひはん し、クーデターに対 たい する支持 しじ を表明 ひょうめい していた。
1991年 ねん 8月 がつ 31日 にち に共和 きょうわ 国 こく 独立 どくりつ 宣言 せんげん を行 おこな い、国名 こくめい を「ウズベキスタン 共和 きょうわ 国 こく 」に変更 へんこう した[ 5] 。自身 じしん の率 ひき いるウズベキスタン共産党 きょうさんとう はウズベキスタン人民 じんみん 民主党 みんしゅとう に改称 かいしょう した。12月29日 にち 、ウズベキスタン大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) で当選 とうせん し初代 しょだい 大統領 だいとうりょう となった[ 3] 。
CSTO 加盟 かめい 国 こく 首脳 しゅのう 会議 かいぎ でのカリモフ(右 みぎ から2人 ふたり 目 め 、2010年 ねん )サマルカンドを訪問 ほうもん したジョン・ケリー を出迎 でむか えるカリモフ(2015年 ねん )
1995年 ねん の国民 こくみん 投票 とうひょう (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) で大統領 だいとうりょう の任期 にんき が2000年 ねん まで延長 えんちょう された。2000年 ねん の大統領 だいとうりょう 選 せん (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) で90%以上 いじょう の支持 しじ を得 え て再選 さいせん [ 6] 。選挙 せんきょ では白票 はくひょう や棄権 きけん 票 ひょう が「カリモフに投票 とうひょう した」と見 み なされるなど公正 こうせい さに疑問 ぎもん があり、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく からは「真 しん の自由 じゆう で公正 こうせい な選挙 せんきょ とは言 い えず、ウズベク国民 こくみん には選択肢 せんたくし が与 あた えられていなかった」と批判 ひはん を受 う けた[ 7] 。2002年 ねん の国民 こくみん 投票 とうひょう (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) で任期 にんき が2007年 ねん まで延長 えんちょう された[ 2] 。
2007年 ねん 11月6日 にち 、ウズベキスタン自由民主党 じゆうみんしゅとう の公認 こうにん を得 え て大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ への出馬 しゅつば を表明 ひょうめい 。選挙 せんきょ 管理 かんり 委員 いいん 会 かい からの承認 しょうにん を得 え たが、対立 たいりつ 候補 こうほ は「憲法 けんぽう に規定 きてい されている3選 せん 禁止 きんし を無視 むし している」と批判 ひはん した[ 8] [ 9] [ 10] 。2007年 ねん の大統領 だいとうりょう 選 せん (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) では90%の得票 とくひょう で3選 せん を果 は たした[ 11] 。選挙 せんきょ 結果 けっか は独立 どくりつ 国家 こっか 共同 きょうどう 体 たい (CIS)加盟 かめい 国 こく からは歓迎 かんげい されたが、欧米 おうべい 諸国 しょこく からは「政治 せいじ 的 てき な茶番 ちゃばん であり、真 しん の選択肢 せんたくし が与 あた えられていない」として批判 ひはん を受 う けた[ 12] 。
2015年 ねん の大統領 だいとうりょう 選 せん (英語 えいご 版 ばん ) で90.39%の得票 とくひょう を得 え て4選 せん された[ 13] 。旧 きゅう ソ連 それん 構成 こうせい 国 こく や中国 ちゅうごく から派遣 はけん された選挙 せんきょ 監視 かんし 団 だん は公正 こうせい な選挙 せんきょ として評価 ひょうか したが、欧米 おうべい 諸国 しょこく からは不正 ふせい な選挙 せんきょ として批判 ひはん を受 う けた[ 14] 。
政権 せいけん 掌握 しょうあく の当初 とうしょ から、敵対 てきたい 者 しゃ の逮捕 たいほ 、拷問 ごうもん 、投獄 とうごく などの政治 せいじ 弾圧 だんあつ を行 おこな った。当局 とうきょく は政治 せいじ 的 てき な動機 どうき で数 すう 千 せん 人 にん を拘束 こうそく し、刑務所 けいむしょ や警察 けいさつ 署 しょ における拷問 ごうもん が日常 にちじょう 的 てき に行 おこな われた。野党 やとう ビルリク党 とう (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、エルク党 とう (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、公正 こうせい 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう などの主要 しゅよう メンバーが標的 ひょうてき となり、国外 こくがい 退去 たいきょ を余儀 よぎ なくされる者 もの もあった。これらの極端 きょくたん な圧 あつ 力 りょく によって野党 やとう の政治 せいじ 活動 かつどう はほとんど崩壊 ほうかい した[ 15] 。
2005年 ねん 5月 がつ 13日 にち 、アンディジャン での反 はん 政府 せいふ デモに対 たい し、軍 ぐん による鎮圧 ちんあつ を行 おこな いデモ参加 さんか 者 しゃ 数 すう 百 ひゃく 人 にん を射殺 しゃさつ した(アンディジャン事件 じけん )[ 16] 。その鎮圧 ちんあつ 方法 ほうほう をめぐり、アメリカはカリモフ政権 せいけん を非難 ひなん した[ 17] 。
宗教 しゅうきょう 弾圧 だんあつ と対 たい テロ政策 せいさく [ 編集 へんしゅう ]
宗教 しゅうきょう に対 たい しても強 つよ いスタンスで対峙 たいじ した。独立 どくりつ 系 けい イスラム教 いすらむきょう に対 たい し規制 きせい を強化 きょうか した。1998年 ねん 、過激 かげき 派 は を防 ふせ ぐという名目 めいもく で宗教 しゅうきょう を制限 せいげん する法律 ほうりつ を採択 さいたく しモスクを事実 じじつ 上 じょう の国家 こっか 支配 しはい 下 か に置 お いた[ 15] [ 18] 。
1999年 ねん 2月 がつ 16日 にち 、タシュケントで爆破 ばくは 事件 じけん (ウズベク語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) が発生 はっせい [ 19] 。政府 せいふ はこれをカリモフ暗殺 あんさつ の試 こころ みとみなし、ウズベキスタン・イスラム運動 うんどう (IMU)の仕業 しわざ だと非難 ひなん し、大 だい 規模 きぼ な一斉 いっせい 捜査 そうさ や投獄 とうごく を行 おこな った[ 20] 。ステートメディアによる反 はん IMUプロパガンダも行 おこな われた[ 21] 。しかし明確 めいかく な証拠 しょうこ が出 で てこず、単 たん にウズベキスタン国民 こくみん の権利 けんり が損 そこ なわれただけに終 お わった[ 20] 。
2001年 ねん 9月 がつ 11日 にち のアメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん 以降 いこう 、「テロとの戦 たたか い」という文脈 ぶんみゃく で、イスラム原理 げんり 主義 しゅぎ や過激 かげき 派 は の脅威 きょうい を排除 はいじょ するために数 すう 千 せん 人 にん のイスラム教徒 きょうと と、独立 どくりつ 系 けい の宗教 しゅうきょう 指導 しどう 者 しゃ を恣意 しい 的 てき に投獄 とうごく した[ 15] 。熱湯 ねっとう を浴 あ びせられて殺害 さつがい された例 れい も報告 ほうこく された[ 22] 。一方 いっぽう で、ウズベキスタンは対 たい テロ戦争 せんそう におけるアメリカの戦略 せんりゃく 的 てき 同盟 どうめい 国 こく とみなされるようになり、同年 どうねん 10月 がつ より始 はじ まったアフガニスタン紛争 ふんそう においては800人 にん のアメリカ軍 ぐん を国内 こくない に受 う け入 い れサポートした[ 23] 。
同年 どうねん 6月 がつ には中国 ちゅうごく とロシアが主導 しゅどう する上海 しゃんはい 協力 きょうりょく 機構 きこう の原 げん 加盟 かめい 国 こく となり、テロ対策 たいさく を担 にな う地域 ちいき 対 たい テロ機構 きこう (RATS)の本部 ほんぶ がタシュケントに置 お かれた[ 24] [ 25] 。カリモフ政権 せいけん とアメリカの蜜月 みつげつ は中 ちゅう 露 ろ から懸念 けねん された[ 17] 。
2004年 ねん にもタシュケントで自殺 じさつ 爆 ばく 弾 だん 攻撃 こうげき があり、カリモフはIMUあるいはヒズブ・タハリール による犯行 はんこう と非難 ひなん した[ 20] 。国営 こくえい の若者 わかもの 向 む けラジオニュースでは、「邪悪 じゃあく なヒズブ・タハリールがわが国 くに に入 はい り込 こ んで以来 いらい 、若者 わかもの を洗脳 せんのう し、さまざまな手段 しゅだん で政権 せいけん を奪取 だっしゅ しようと陰謀 いんぼう をたくらんでいる」という報道 ほうどう もされた[ 20] 。
2005年 ねん 7月 がつ 、アメリカ軍 ぐん はにウズベキスタンから撤収 てっしゅう するも[ 26] 、2012年 ねん 6月 がつ にはカリモフ政権 せいけん は集団 しゅうだん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく 機構 きこう (CSTO)から脱退 だったい してロシアからの独立 どくりつ も保 たも つ動 うご きも行 おこな った[ 27] 。
カリモフは、国際 こくさい 社会 しゃかい から長年 ながねん にわたり人権 じんけん や報道 ほうどう 規制 きせい について批判 ひはん を受 う けていた[ 28] [ 29] 。駐 ちゅう ウズベキスタン英国 えいこく 大使 たいし を務 つと めたクレイグ・マレー (英語 えいご 版 ばん ) は、カリモフ政権 せいけん 下 か の腐敗 ふはい ・宗教 しゅうきょう 弾圧 だんあつ ・検閲 けんえつ ・拷問 ごうもん ・殺害 さつがい ・誘拐 ゆうかい などの問題 もんだい を批判 ひはん しており、大使 たいし 退任 たいにん 後 ご にはカリモフ政権 せいけん の人権 じんけん 問題 もんだい やアメリカとの関係 かんけい を記 しる した回顧 かいこ 録 ろく を出版 しゅっぱん している[ 30] 。また、国際 こくさい 連合 れんごう もカリモフ政権 せいけん で拷問 ごうもん が行 おこな われていることを報告 ほうこく している[ 31] [ 32] 。
2004年 ねん から2015年 ねん にかけて。カリモフ政権 せいけん 下 か にウズベキスタンは成長 せいちょう 率 りつ 7%を超 こ える安定 あんてい した経済 けいざい 成長 せいちょう を見 み せた一方 いっぽう [ 33] [ 34] 、子 こ どもを含 ふく む数 すう 百 ひゃく 万 まん 人 にん の国民 こくみん が、国 くに の主要 しゅよう 作物 さくもつ である綿花 めんか 収穫 しゅうかく の強制 きょうせい 労働 ろうどう を強 し いられており、国際 こくさい 的 てき に批判 ひはん を受 う けていた[ 35] [ 36] 。
ウズベキスタン憲法 けんぽう では、検閲 けんえつ の禁止 きんし や報道 ほうどう の自由 じゆう が明記 めいき されている。しかしカリモフ政権 せいけん は「説明 せつめい 責任 せきにん 」を理由 りゆう に報道 ほうどう ・出版 しゅっぱん を規制 きせい し、検閲 けんえつ 官 かん を配置 はいち して政権 せいけん の宣伝 せんでん を実施 じっし していた。報道 ほうどう される政府 せいふ 批判 ひはん は全 すべ て検閲 けんえつ された。1990年代 ねんだい には外国 がいこく メディアを許容 きょよう する姿勢 しせい を示 しめ していたが、ロシア の放送 ほうそう 局 きょく が減少 げんしょう したことに併 あわ せて欧米 おうべい の放送 ほうそう 局 きょく も次々 つぎつぎ に撤退 てったい し、以降 いこう 十 じゅう 数 すう 年 ねん に渡 わた り海外 かいがい の出版 しゅっぱん 物 ぶつ の出版 しゅっぱん を制限 せいげん していた[ 37] 。また、「政権 せいけん に対 たい して不実 ふじつ である」という理由 りゆう で野党 やとう の出版 しゅっぱん 物 ぶつ も規制 きせい していた[ 38] 。
カリモフの葬列 そうれつ に集 あつ まるタシュケント市民 しみん (2016年 ねん )
カリモフの健康 けんこう 問題 もんだい は政府 せいふ によって厳重 げんじゅう に報道 ほうどう 規制 きせい が敷 し かれており、2013年 ねん 3月 がつ に心臓 しんぞう 発作 ほっさ を起 お こしたと報道 ほうどう された際 さい には「事実無根 じじつむこん 」であると発表 はっぴょう していた[ 39] [ 40] [ 41] 。
2016年 ねん 8月 がつ 27日 にち 、カリモフが脳出血 のうしゅっけつ のため集中 しゅうちゅう 治療 ちりょう 室 しつ で治療 ちりょう を受 う けていることを次女 じじょ のローラ・カリモヴァ が明 あき らかにした[ 42] 。カリモフは一時 いちじ 心 しん 停止 ていし 状態 じょうたい に陥 おちい ったが、20分 ふん 後 ご に回復 かいふく し、人工 じんこう 呼吸 こきゅう 器 き を装着 そうちゃく された[ 43] 。公式 こうしき の医療 いりょう 報告 ほうこく 書 しょ によると、ウズベキスタン政府 せいふ は27日 にち から28日 にち にかけてモナコ心 しん 胸郭 きょうかく センター所長 しょちょう 、ヘルシンキ大学 だいがく 神経 しんけい 外科 げか 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ 、ハノーファー国際 こくさい 神経 しんけい 科学 かがく 研究所 けんきゅうじょ 長 ちょう 、ハイデルベルク大学 だいがく 病院 びょういん 教授 きょうじゅ 、モスクワ州立 しゅうりつ 医科 いか 大学 だいがく 心臓 しんぞう 血管 けっかん 外科 げか 部長 ぶちょう にカリモフの病状 びょうじょう について相談 そうだん している[ 43] 。
その後 ご 、カリモフが8月 がつ 29日 にち に死亡 しぼう したとの未 み 確認 かくにん 情報 じょうほう が地元 じもと メディアなどで報 ほう じられ、9月1日 にち の独立 どくりつ 25周年 しゅうねん のテレビ放送 ほうそう では政府 せいふ 報道 ほうどう 官 かん がカリモフの演説 えんぜつ を代読 だいどく し、ローラが国民 こくみん に回復 かいふく を祈 いの るように懇願 こんがん した[ 44] [ 45] 。9月2日 にち 、脳出血 のうしゅっけつ のため死去 しきょ したとの報道 ほうどう が、ウズベキスタン政府 せいふ による公式 こうしき な確認 かくにん を得 え られないまま駆 か け巡 めぐ った[ 46] 。ウズベキスタン政府 せいふ は2日 にち の日 にち 中 ちゅう の段階 だんかい では「重体 じゅうたい 」であるとしていたが、同日 どうじつ 20時 じ 55分 ふん (日本 にっぽん 時間 じかん 3日 にち 0時 じ 55分 ふん )にカリモフが死去 しきょ したことを国営 こくえい テレビを介 かい して公式 こうしき に発表 はっぴょう した[ 47] 。享年 きょうねん 78。死去 しきょ の報 ほう に接 せっ し、バラク・オバマ 、ウラジーミル・プーチン 、習近平 ひらた ら各国 かっこく 首脳 しゅのう が哀悼 あいとう の意 い を表 あらわ した。イルハム・アリエフ 、ライモンツ・ヴェーヨニス 、ナワーズ・シャリーフ 、李 り 克 かつ 強 きょう はウズベキスタン大使館 たいしかん を訪 おとず れ記帳 きちょう した[ 48] [ 49] [ 50] [ 51] 。
カリモフの葬儀 そうぎ は9月3日 にち に執 と り行 おこな われた。死没 しぼつ 地 ち のタシュケントでは数 すう 千 せん 人 にん の市民 しみん が集 あつ まり葬列 そうれつ に花 はな を手向 たむ けたが、遺体 いたい は死去 しきょ の公式 こうしき 発表 はっぴょう 前 まえ にタシュケントからサマルカンドに移送 いそう されていた[ 52] 。葬儀 そうぎ はサマルカンドのレギスタン広場 ひろば で執 と り行 おこな われ、シャーヒ・ズィンダ廟 びょう 群 ぐん にある母 はは と兄弟 きょうだい の墓 はか の隣 となり に埋葬 まいそう された[ 53] 。葬儀 そうぎ にはドミートリー・メドヴェージェフ 、アシュラフ・ガニー 、グルバングル・ベルディムハメドフ 、エモマリ・ラフモン 、カリム・マシモフ 、ソーロンバイ・ジェーンベコフ 、モハンマド・ジャヴァード・ザリーフ ら17か国 こく の代表 だいひょう が参列 さんれつ した[ 53] [ 54] [ 55] [ 56] 。また、9月5日 にち にはキューバ がカリモフの死去 しきょ について服喪 ふくも することを決定 けってい した[ 57] 他 た 、6日 にち にはプーチンが弔問 ちょうもん のためウズベキスタンを訪 おとず れ、遺族 いぞく と会談 かいだん して哀悼 あいとう の意 い を表 あらわ した[ 58] 。
ナヴォイ劇場 げきじょう の記念 きねん プレート。カリモフの命令 めいれい に基 もと づき、「日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ 」ではなく、「日本 にっぽん 国民 こくみん 」と記 しる されている。
親日 しんにち 家 か として知 し られ、経済企画庁 けいざいきかくちょう 長官 ちょうかん だった麻生 あそう 太郎 たろう が1997年 ねん に日本 にっぽん の閣僚 かくりょう として初 はじ めて面談 めんだん した際 さい 、子供 こども の頃 ころ 、毎週 まいしゅう 末 まつ 毎 ごと に母親 ははおや に手 て を引 ひ かれ日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ へ連 つ れて行 い かれた時 とき のことを「せがれ、ご覧 らん 、あの日本人 にっぽんじん の兵隊 へいたい さんを。ロシアの兵隊 へいたい が見 み ていなくても働 はたら く。他人 たにん が見 み なくても働 はたら く。お前 まえ も大 おお きくなったら、必 かなら ず他人 たにん が見 み なくても働 はたら くような人間 にんげん になれ。お蔭 かげ で母親 ははおや の言 い いつけを守 まも って、今日 きょう 俺 おれ は大統領 だいとうりょう になれた」と語 かた っている[ 59] 。
日本人 にっぽんじん 抑留 よくりゅう 兵 へい が建設 けんせつ したナヴォイ劇場 げきじょう は1966年 ねん 4月 がつ 26日 にち のタシュケント地震 じしん でもビクともせず、1996年 ねん に日本人 にっぽんじん 抑留 よくりゅう 兵 へい の功績 こうせき を称 とな えてウズベク語 ご 、日本語 にほんご 、英語 えいご で書 か かれた銘板 めいばん を掲 かか げ、日本人 にっぽんじん の功績 こうせき を称 とな えた。その際 さい 、「決 けっ して『捕虜 ほりょ 』と書 か いてはいけない」と厳命 げんめい したため、「極東 きょくとう から強制 きょうせい 移送 いそう された数 すう 百 ひゃく 名 めい の日本 にっぽん 国民 こくみん 」という表現 ひょうげん になっている[ 60] 。
父 ちち はウズベク人 じん 、母 はは はタジク人 じん とされているが、父 ちち はユダヤ人 じん という説 せつ もあり詳細 しょうさい は不明 ふめい となっている。1964年 ねん にナターリア・ペトローヴナ・クチミと結婚 けっこん し息子 むすこ ピョートルをもうけるが、後 のち に離婚 りこん している[ 61] 。1967年 ねん に経済 けいざい 学者 がくしゃ ・共和 きょうわ 国 こく 科学 かがく アカデミー経済 けいざい 研究所 けんきゅうじょ 科学 かがく 職員 しょくいん のタチヤーナ・ソビロヴァ (英語 えいご 版 ばん ) と結婚 けっこん し、2女 じょ (グリナラ 、ローラ )と5人 にん の孫 まご を有 ゆう する[ 62] [ 63] 。
長女 ちょうじょ グリナラは外交 がいこう 官 かん ・実業 じつぎょう 家 か として活動 かつどう していたが、父 ちち と対立 たいりつ したため2014年 ねん 2月 がつ 以降 いこう は汚職 おしょく の罪 つみ により自宅 じたく 軟禁 なんきん に置 お かれていた[ 64] [ 65] 。2019年 ねん 3月 がつ 、軟禁 なんきん の条件 じょうけん 違反 いはん のため拘禁 こうきん された[ 66] 。2020年 ねん 3月 がつ 、恐喝 きょうかつ やマネーロンダリングなどの罪 つみ で有罪 ゆうざい になり、さらに13年 ねん の懲役 ちょうえき 刑 けい を受 う けた[ 67] 。
次女 じじょ ローラも実業 じつぎょう 家 か であり、子供 こども の権利 けんり やスポーツ振興 しんこう に関 かん する活動 かつどう 家 か として知 し られている[ 68] 。
^ “The World's Worst Dictators: Islam Karimov ” (英語 えいご ). Parade (2008年 ねん 2月 がつ 4日 にち ). 2022年 ねん 10月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ a b “カリモフとは ”. コトバンク . 2022年 ねん 10月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。
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