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ハインリヒ・ベル

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハインリヒ・ベル
Heinrich Böll
誕生たんじょう 1917ねん12月21にち
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこくケルン
死没しぼつ (1985-07-16) 1985ねん7がつ16にち(67さいぼつ
西ドイツの旗 西にしドイツデューレンぐんドイツばんクロイツァウドイツばん
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
国籍こくせき ドイツの旗 ドイツ
文学ぶんがく活動かつどう 廃墟はいきょ文学ぶんがくde:Trümmerliteratur
47ねんグループ
おも受賞じゅしょうれき グルッペ47文学ぶんがくしょう(1951)
ゲオルク・ビューヒナーしょう(1967)
ノーベル文学ぶんがくしょう(1972)
ウィキポータル 文学ぶんがく
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ノーベルしょう受賞じゅしょうしゃノーベル賞
受賞じゅしょうねん1972ねん
受賞じゅしょう部門ぶもんノーベル文学ぶんがくしょう
受賞じゅしょう理由りゆうどう時代じだいへの幅広はばひろ眺望ちょうぼうするど描写びょうしゃによって、ドイツ文学ぶんがく刷新さっしん貢献こうけんした」[1]

ハインリヒ・テオドール・ベルHeinrich Theodor Böll1917ねん12月21にち - 1985ねん7がつ16にち)は、ドイツ作家さっか。1972ねんノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう作品さくひん発言はつげんはドイツ国内こくないおおきな社会しゃかいてき影響えいきょうりょくった。

生涯しょうがい

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ドイツのケルンで、まち工場こうじょういとな家具かぐ職人しょくにん息子むすことしてカトリック教徒きょうと一家いっかまれる。かれは1933ねんナチス政権せいけんにつき、ギムナジウムの同級生どうきゅうせいだい多数たすうヒトラー・ユーゲントくわわるなか不参加ふさんかまもつづけた。高校こうこう卒業そつぎょう本屋ほんや弟子でしりし、そのケルン大学だいがくでドイツ研究けんきゅうした。1939ねんドイツ国防こくぼうぐん召集しょうしゅうされ、だい世界せかい大戦たいせんちゅうフランスルーマニアハンガリーソ連それん転戦てんせんし、それらの戦地せんちよん負傷ふしょうをし、1945ねん4がつアメリカぐんらえられ捕虜ほりょ収容しゅうようしょおくられた。しかし、かれ凍傷とうしょうあしゆびすべうしない、生涯しょうがい病院びょういんへの通院つういん余儀よぎなくされた。休暇きゅうかちゅうの1942ねん結婚けっこんし、息子むすこまれたが1945ねんくしている。

戦後せんご1946ねんから短編たんぺん小説しょうせつはじめ、1949ねん最初さいしょ長編ちょうへん小説しょうせつ汽車きしゃおくれなかった』を出版しゅっぱん、1951ねんに『Die schwarzen Schafe』で47ねんグループしょう受賞じゅしょう、1953ねんの『そして一言ひとことわなかった』でその名声めいせいひろめる。これらの作品さくひんは「廃墟はいきょ文学ぶんがく Trümmerliteratur」とばれた。そのおおくの物語ものがたり短編たんぺん小説しょうせつ、ラジオドラマの脚本きゃくほんやエッセイをあらわす。1971ねん発表はっぴょうした『婦人ふじんのいる群像ぐんぞう』により1972ねんノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうし、1946ねんヘルマン・ヘッセ以来いらいのドイツじん受賞じゅしょうしゃとなった。1970年代ねんだい西にしドイツ過激かげきによるテロが活発かっぱつしたさい、ベルは1972ねん1がつの『シュピーゲル誌上しじょうでテロにたいする冷静れいせい対応たいおううったえたことでジャーナリズムからふくろだたきにされ、テロリスト同調どうちょうしゃとまでばれた。1974ねん大衆たいしゅう新聞しんぶんのあくどさをえがいた『カタリーナ・ブルームのうしなわれた名誉めいよ』は120まんえる空前くうぜんのベストセラーとなる。かれ作品さくひんは30える言語げんご翻訳ほんやくされた。かれはドイツでもっとひろまれた作家さっかのうちの一人ひとりである。

1969ねんからは西にしドイツペンクラブ会長かいちょう、1971ねんからは国際こくさいペンクラブ会長かいちょうつとめた。あたらしいドイツの代表だいひょうとして頻繁ひんぱん旅行りょこうし、その物腰ものごしヒトラー政権せいけん悪評あくひょうたかまったドイツじん尊大そんだい態度たいどとは対照たいしょうてきな、謙虚けんきょなものであった。かれ作品さくひん資本しほん主義しゅぎくら側面そくめん描写びょうしゃし、西側にしがわ諸国しょこくだけでなくソ連それん東欧とうおう諸国しょこくでもおおくの読者どくしゃて、すうひゃくまんものコピーがソ連それん国内こくない販売はんばいされた。アレクサンドル・ソルジェニーツィンソ連それんから追放ついほうされたときかれ最初さいしょにベルのいえ避難ひなんした。1983ねんにはケルンの名誉めいよ市民しみんえらばれる。のちにはつまともにケルンおよびアイフェルらした。

1985ねんに67さい死去しきょげた新聞しんぶんとうでは「民族みんぞく良心りょうしん」「判断はんだん機関きかん」などとしょうされた。そのハインリヒ・ベル財団ざいだんドイツばん設立せつりつされ、ケルン図書館としょかんにはハインリヒ・ベル・アーカイヴ(アルヒーフ)設置せっちされた。

作品さくひん

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作品さくひん故郷こきょうのケルンにふかざし、強制きょうせいてきローマ・カトリック価値かちかんとややあら急場きゅうばしのぎのユーモア・センスがられた。戦後せんごあいだもない時期じきかれ戦争せんそう記憶きおくおよび、戦争せんそう普通ふつう人々ひとびと生活せいかつおよぼした影響えいきょう - 物質ぶっしつてきにも心理しんりてきにも - を作品さくひんあらわすことに夢中むちゅうとなった。かれ作品さくひんなかでそれらの人々ひとびと英雄えいゆうとしてあつかった。

かれ作品さくひんちゅう悪役あくやく政府せいふ、ビジネスかい教会きょうかい権力けんりょくしゃたちであり、かれらはその権力けんりょく乱用らんようし、勇気ゆうき不足ふそくし、自己じこ満足まんぞく姿勢しせいせ、これらの登場とうじょう人物じんぶつをベルはしばしば滑稽こっけいに、ときにはきびしくばっした。かれ簡潔かんけつ文体ぶんたいはドイツのテキストブックにこのんで使用しようされることとなった。

ベルはナチスがケルンに蔓延まんえんしたことでふか影響えいきょうけた。さら連合れんごうぐん爆撃ばくげきによってケルンが破壊はかいされたことは、かれしんおおきな傷跡きずあとのこした。戦後せんご再建さいけんされふたた隆盛りゅうせいもどしたケルンにベルはおもれをかんじることができなかった。かれ生涯しょうがいとおしておおくのケルン市民しみんとの関係かんけい貧富ひんぷへだてなく維持いじした。かれ病院びょういん入院にゅういんしていたとき、看護かんご友人ゆうじん見舞みまいにやってきた「下層かそう階級かいきゅう」の人々ひとびとたいしてしばしば不平ふへいべた。

ドイツ社会しゃかい保守ほしゅしてゆくことの危機ききかんから、管理かんり社会しゃかい極限きょくげん戯画ぎがてきえがいた『とどいた管理かんり体制たいせい』や、遺作いさくとなった『かわのほとりにおんなたち』などを執筆しっぴつ。ナチス時代じだいから核弾頭かくだんとうミサイル配備はいびまでの西にしドイツの歴史れきしえがつづけたことから「連邦れんぽう共和きょうわこく批判ひはんてき年代ねんだい作家さっか」ともばれる。

おも著作ちょさく

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ベルリン、グライフヴァルダーどおりにあるベルの彫像ちょうぞう
  • 汽車きしゃおくれなかった』 Der Zug war pünktlich, 1949ねん
  • 『さすらいじんよ、おまえはスパにいくか…』Wanderer, kommst du nach Spa…, 1950ねん短篇たんぺんしゅう
  • 『アダムよ、おまえはどこにいた』 Wo warst du, Adam?, 1951ねん
  • 『そして一言ひとことわなかった』 Und sagte kein einziges Wort, 1953ねん
  • 保護ほごしゃなきいえHaus ohne Hüter, 1954ねん
  • はじめのとしのパン』 Das Brot der frühen Jahre, 1955ねん
  • 『とどろく馬蹄ばていたにIm Tal der donnernden Hufe, 1957ねん
  • 『アイルランド日記にっきIrisches Tagebuch, 1957ねん紀行きこうぶん
  • 『ムルケ博士はかせ沈黙ちんもくしゅうDoktor Murkes gesammeltes Schweigen, 1958ねん短篇たんぺんしゅう
  • きゅう時半じはん玉突たまつき』 Billard um halb zehn, 1959ねん
  • 『ツィンペレンえきDer Bahnhof von Zimpren, 1959ねん短篇たんぺんしゅう
  • 戦争せんそうわったとき』 Als der Krieg ausbrach, Als der Krieg zu Ende war, 1962ねん
  • 『ひとみのEin Schluck Erde, 1962ねん戯曲ぎきょく
  • 道化師どうけし告白こくはくAnsichten eines Clowns, 1963ねん
  • 公務こうむ旅行りょこうわり』Ende einer Dienstfahrt, 1966ねん
  • おんなのいる群像ぐんぞうGruppenbild mit Dame, 1971ねん
  • 『カタリーナのうしなわれた名誉めいよDie verlorene Ehre der Katharina Blum, 1974ねん
  • かわ風景ふうけいおんなたち』 Frauen vor Flusslandschaft, 1985ねん (死後しご刊行かんこう)

日本語にほんごやく

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  • 汽車きしゃおくれなかった(桜井さくらいただしとらわけ三笠みかさ書房しょぼう、1957ねん
  • アダムよ、おまえはどこにいた(小松こまつ太郎たろうわけ講談社こうだんしゃ、1958ねん)のち講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ
  • 道化師どうけし告白こくはく神崎かんざきいわおわけ冬樹ふゆきしゃ、1966ねん
  • 保護ほごしゃなきいえ小松こまつ太郎たろうやく角川かどかわ文庫ぶんこ、1969ねん
  • カタリーナのうしなわれた名誉めいよ 言論げんろん暴力ぼうりょくはいかなる結果けっかむか(藤本ふじもと淳雄あつおわけ、サイマル出版しゅっぱんかい、1975ねん
  • 廃虚はいきょ文学ぶんがく承認しょうにん加藤かとうやすしよしわけげいりつ出版しゅっぱん、1975ねん
  • おんなのいる群像ぐんぞう尾崎おざき宏次こうじわけ 早川書房はやかわしょぼう,1977ねん
  • そして一言ひとことわなかった(岩淵いわぶち達治たつじわけ) キリストきょう文学ぶんがく世界せかい 主婦しゅふ友社ともしゃ、1977ねん
  • ハインリヒ・ベル短篇たんぺんしゅう青木あおき順三じゅんぞうわけ岩波いわなみ文庫ぶんこ、1988ねん
  • かわ風景ふうけいおんなたち (越智おち和弘かずひろわけ 同学どうがくしゃ,1990ねん
  • ハインリヒ・ベル小品しょうひんしゅう谷山たにやまとおるわけえん、2002ねん

映像えいぞうされた作品さくひん

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カタリーナのうしなわれた名誉めいよ
おんなのいる群像ぐんぞう

外部がいぶリンク

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