フランシス・ベーコン (哲学てつがくしゃ)

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フランシス・ベーコン
Francis Bacon
フランシス・ベーコンの肖像しょうぞう(1618ねんごろ
生誕せいたん (1561-01-22) 1561ねん1がつ22にち
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこくロンドン
死没しぼつ (1626-04-09) 1626ねん4がつ9にち(65さいぼつ
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこく・ロンドン
時代じだい 16世紀せいき哲学てつがく
17世紀せいき哲学てつがく
地域ちいき 西洋せいよう哲学てつがく
学派がくは ルネサンス哲学てつがく
イギリス経験けいけんろん
研究けんきゅう分野ぶんや 自然しぜん哲学てつがく
形而上学けいじじょうがく
数学すうがく論理ろんりがく
神学しんがく宗教しゅうきょう哲学てつがく
おも概念がいねん知識ちしきちからなり
署名しょめい
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初代しょだいセント・オールバン(ズ)子爵ししゃくフランシス・ベーコンえい: Francis Bacon, 1st Viscount St Alban(s), PC, QC1561ねん1がつ22にち - 1626ねん4がつ9にち[1])は、イギリス哲学てつがくしゃ神学しんがくしゃ法学ほうがくしゃ政治せいじ貴族きぞくである。イングランド近世きんせいルネサンステューダーあさエリザベスあさ)からステュアートあさ)の人物じんぶつ。イギリス経験けいけん主義しゅぎ

知識ちしきちからなり」(Ipsa scientia potestas est)の名言めいげんや、「イドラ」の概念がいねん有名ゆうめい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう[編集へんしゅう]

1561ねん1がつ22にちサーニコラス・ベーコンとそのつまアン(旧姓きゅうせいクック)の息子むすことしてロンドンストランドヨーク・ハウス英語えいごばんまれる[1]。6にん兄弟きょうだいすえ同母どうぼけいアンソニー・ベーコンがいた。ちちはエリザベスちょう最初さいしょだい法官ほうかんけん庶民しょみんいん議長ぎちょうけん国璽尚書こくじしょうしょであり、はは女王じょおうエリザベス1せい側近そっきんである初代しょだいバーリー男爵だんしゃくウィリアム・セシルつまミルドレッド・クック英語えいごばんいもうとだった[2][3][4]。また、バーリー男爵だんしゃくとミルドレッド夫妻ふさい息子むすこのち初代しょだいソールズベリー伯爵はくしゃくロバート・セシル母方ははかた従弟じゅうていたる[5]

敬虔けいけんプロテスタントかつ才能さいのうにあふれるはは教育きょういく熱心ねっしんなプロテスタントとしてそだち、ちちハートフォードシャーセント・オールバンズ購入こうにゅうした土地とちてた屋敷やしきゴランベリー・ハウス英語えいごばん生活せいかつするうち、自然しぜんかこまれた環境かんきょう自然しぜん世界せかいへの興味きょうみ目覚めざめていった[6][7]

1573ねん4がつちちけいらいであにアンソニーとともケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジ入学にゅうがく[8]。ここで学寮がくりょうちょうのちカンタベリーだい主教しゅきょうになるジョン・ホイットギフトおそわり、理性りせい知識ちしきおもんじ、たしかな証拠しょうこもとづくことしに議論ぎろんおこなわないかれ姿勢しせい影響えいきょうけた。またアリストテレス哲学てつがくきらうようになり、理由りゆうは「議論ぎろん論争ろんそうすぐれているだけで、人間にんげん生活せいかつ役立やくだつような成果せいかすことはほとんどない」というもので、退屈たいくつ大学だいがく学問がくもんより自然しぜん科学かがくへの関心かんしんたかまっていった。ただし在学ざいがく1575ねん12月の2ねんだけで、学位がくい取得しゅとくせず大学だいがく卒業そつぎょうはしていない[9][10]

よく1576ねん6がつあにともロンドングレイ法曹ほうそういん法律ほうりつまなび、9月に在籍ざいせきのままちゅうふつ大使たいしもと家庭かてい教師きょうしでもあったエイミアス・ポーレット英語えいごばん同行どうこう見聞けんぶんひろめてほしいちち意向いこうがあったといわれる)、フランスパリ留学りゅうがくてフランス各地かくちめぐった。ユグノー戦争せんそう荒廃こうはいしたフランスや国王こくおうアンリ3せい奨励しょうれいした自然しぜん科学かがくけ、国内こくない情勢じょうせい分析ぶんせき科学かがくからけた刺激しげきおおいに見識けんしきひろげた[11][12]。そして帰国きこく1582ねん法廷ほうてい弁護士べんごし資格しかく取得しゅとくした[1][13]

しかしこのあいだ1579ねんちちはわずかな遺産いさんのこしただけで死去しきょ[14]急遽きゅうきょ帰国きこくした。死因しいんふゆのうたたでかかった肺炎はいえんで、ベーコンがフランス留学りゅうがくものおおきかったが、ちちうしなったことはおおきな痛手いたでで、異母いぼけいふくめた兄弟きょうだい遺産いさん分割ぶんかつ、ベーコンにはわずかなぶんしかのこらなかった。くわえてベーコンが金銭きんせん感覚かんかく浪費ろうひだったこともわざわいし、ちちうしたていまま政界せいかいのぞむことを余儀無よぎなくされ、借金しゃっきん生活せいかつにもくるしむ羽目はめおちいってしまった[15][16]

政界せいかい立身出世りっしんしゅっせ最初さいしょ失脚しっきゃく[編集へんしゅう]

生活せいかつのためまずは法律ほうりつみちあゆみ、1582ねん法廷ほうてい弁護士べんごしはじまり1586ねんにグレイ法曹ほうそういん幹部かんぶいんに、1587ねんまたは1588ねん講師こうし選出せんしゅつされた。1589ねんほししつちょう書記しょき継承けいしょうけんあたえられたが、収入しゅうにゅう1608ねんまでかった。コモン・ロー勉強べんきょう生計せいけいわれるなか執筆しっぴつ活動かつどうはじめ、1585ねんころ最初さいしょのエッセイ『時代じだい最大さいだい誕生たんじょう』をいた。またバーリー男爵だんしゃく有力ゆうりょくしゃ猟官りょうかん運動うんどうおこなったが、バーリー男爵だんしゃくがベーコンのてに熱心ねっしんかったためか、政敵せいてきレスターはくロバート・ダドリー派閥はばつ接近せっきん1581ねんにレスターベッドフォード伯爵はくしゃくフランシス・ラッセル英語えいごばん影響えいきょうコーンウォールボッシニー選挙せんきょ英語えいごばんから選出せんしゅつされて庶民しょみんいん議員ぎいんとなる。1584ねんにやはりベッドフォードはく影響えいきょうがあるウェイマス=メルクーム・レジス選挙せんきょ英語えいごばんから選出せんしゅつされた[1][17][18]

議会ぎかい活動かつどうは1584ねん議会ぎかいでまだ断片だんぺんてき発言はつげんしかのこっていないが、議会ぎかいとはべつ国王こくおう秘書ひしょ長官ちょうかんフランシス・ウォルシンガム諜報ちょうほう活動かつどう参加さんかした。これがみとめられてウォルシンガムの後援こうえん選出せんしゅつされた1586ねん議会ぎかい冒頭ぼうとう演説えんぜつ栄誉えいよあたえられ、よく1587ねんには特別とくべつぜいかんする委員いいんかい、1588ねん法案ほうあん審議しんぎ準備じゅんび委員いいんかい委員いいん任命にんめいされ、徐々じょじょ政府せいふ重用じゅうようされるようになった。1589ねん議会ぎかいでもウォルシンガムの後援こうえんつづ選出せんしゅつおおくの委員いいんかい出席しゅっせき発言はつげん増加ぞうかられ、議会ぎかいでも重要じゅうよう役割やくわりかついつつあった。また1589ねん1592ねんにそれぞれピューリタンイングランド国教こっきょうかい過激かげき論争ろんそう非難ひなんする『イングランドの教会きょうかい論争ろんそうについての勧告かんこく』と、バーリー男爵だんしゃく中庸ちゅうよう宗教しゅうきょう政策せいさく反対はんたいするカトリックイエズスかい)のパンフレットに反論はんろんする『この1592ねん出版しゅっぱんされた中傷ちゅうしょうぶんたいする考察こうさつ』を執筆しっぴつ著作ちょさく活動かつどうつづけていた[注釈ちゅうしゃく 1][24][25]

ベーコンはあにとも法学ほうがくまな優秀ゆうしゅうであったが、うしたてとなるはずのバーリー男爵だんしゃく優秀ゆうしゅうなベーコン兄弟きょうだい息子むすこロバート・セシルの競争きょうそう相手あいてになることをおそれて兄弟きょうだいささえようとしなかった。そのためベーコン兄弟きょうだいはセシル父子ふしうらむようになり[14]1591ねん以来いらいエリザベス1せい寵臣ちょうしんエセックスはくロバート・デヴァルー顧問こもんとなる。それまでベーコンの後援こうえんしゃだったレスターはくは1588ねんに、ウォルシンガムは1590ねんくなり、レスターはくとウォルシンガムを義父ぎふにしているエセックスはく彼等かれら派閥はばつぎ、バーリー男爵だんしゃく父子ふし対抗たいこうする有力ゆうりょくしゃ台頭たいとうしていた。ベーコンはウォルシンガムにつかえた経験けいけんかし、かれのこした諜報ちょうほうネットワークを再建さいけんしてエセックスはくった[13][26][27]

ところが、1593ねん議会ぎかいでベーコンは失態しったいえんじてしまう。女王じょおう意向いこう無視むしした発言はつげんかえして政府せいふ対立たいりつ議会ぎかい紛糾ふんきゅうさせたのである。スペイン侵攻しんこうそなえて軍事ぐんじまかなうため、3つの特別とくべつぜい承認しょうにんもとめた女王じょおう議会ぎかい召集しょうしゅうしたが、ベーコンは女王じょおう目的もくてきとはちが法律ほうりつさい編纂へんさんについて演説えんぜつしたり、特別とくべつぜいについて貴族きぞくいんさき協議きょうぎされたことをとが庶民しょみんいんさき特別とくべつぜい承認しょうにんする特権とっけん強調きょうちょうして審議しんぎばしたり、議会ぎかい混乱こんらんんだ。さらに特別とくべつぜいには賛成さんせいするものの、その支払しはら期間きかんを6ねんにすることを提案ていあん国民こくみんおも負担ふたんをかけることをうれい、特別とくべつぜい承認しょうにん先例せんれいにしないことを主張しゅちょうした。ベーコンの提案ていあんはすぐさま政府せいふがわ人間にんげん反論はんろんされ、ロバート・セシルは「2つのおおきなわざわいがせまっているとしたら、よりちいさなわざわいをえらぶべきである」「今回こんかい特別とくべつぜいけっして永続えいぞくするものではなく、原因げんいんがあってまれたものは、原因げんいん消滅しょうめつともわるものである」と発言はつげん、セシルは議会ぎかいながれをえて特別とくべつぜい承認しょうにんにこぎつけたが、ベーコンは議会ぎかいから孤立こりつしたうえ女王じょおういかりをい、宮廷きゅうていからとおざけられ猟官りょうかんにも失敗しっぱい失脚しっきゃくして不遇ふぐうをかこつことになった[注釈ちゅうしゃく 2][14][31][32][33]

エセックスはく庇護ひご死別しべつ[編集へんしゅう]

議会ぎかいでの失敗しっぱい政界せいかい活動かつどうたれたベーコンは、執筆しっぴつ活動かつどうとおして哲学てつがく研究けんきゅう没頭ぼっとうすべきか、政界せいかい再起さいきねらうかをなやなかでエセックスはく庇護ひごけたが、そのエセックスはくうしたてがあっても失敗しっぱいするれいられた。1594ねん法務ほうむ長官ちょうかんトマス・エジャートンいたのちのポストにバーリー男爵だんしゃく父子ふしした法務ほうむ次官じかん英語えいごばんエドワード・コーク対抗たいこうしてエセックスはくがベーコンをしたが、その甲斐かいなくコークが法務ほうむ長官ちょうかん昇進しょうしんした。このとき女王じょおういかりがけていなかったため法務ほうむ次官じかんにもなれず、1596ねんになると女王じょおうとのあいだ改善かいぜんされたこともあり、エセックスはくしでどうにか特命とくめい学識がくしき顧問こもんかん任命にんめいされたが、報酬ほうしゅうともなわないため苦難くなん借金しゃっきん生活せいかつつづき、エセックスはくから地価ちか1800ポンドの所領しょりょう贈与ぞうよかたち財政ざいせい支援しえんける有様ありさまだった。1597ねん、エセックスはく支援しえんでバーリー男爵だんしゃく孫娘まごむすめ富裕ふゆう未亡人みぼうじんエリザベス・ハットン英語えいごばん(バーリー男爵だんしゃく長男ちょうなんトマス・セシルむすめでウィリアム・ハットンきょう未亡人みぼうじん)へ求婚きゅうこんしたが、彼女かのじょはコークをえらんだためこのけんでもコークにかれてしまった[34][35][36]

やがてエセックスはく女王じょおう対立たいりつ凋落ちょうらくしてくるとかれを諫めることがおおくなった。1596ねん助言じょげんでは民衆みんしゅう人気にんきりに軍事ぐんじてき栄光えいこうもとめるエセックスはくを諫め、1597ねん議会ぎかい復帰ふっきしてからもエセックスはくとのつながりをたもち、1599ねんアイルランド遠征えんせい反対はんたいしたがききいれられず、遠征えんせい失敗しっぱいして女王じょおう見限みかぎられてもエセックスはく女王じょおうあいだとうと奔走ほんそうした。だがこうした行動こうどうむくわれず、1601ねん2がつにエセックスはく反乱はんらんこして失敗しっぱいし、高等法院こうとうほういん王座おうざ裁判所さいばんしょ裁判さいばんにかけられるとコークとともにベーコンも訴追そついがわ一人ひとりとなった[37]。エセックスはく処刑しょけい事件じけん全貌ぜんぼうあきらかにする公開こうかいしょ作成さくせいにあたった[注釈ちゅうしゃく 3][13][40][41][42][43]

このときのベーコンの行動こうどうはエセックスはくたいする裏切うらぎ行為こういられ、晩年ばんねん失脚しっきゃくわせて当時とうじから現在げんざいまで評判ひょうばんわるい。しかしベーコンはエセックスはく好戦こうせんてき姿勢しせい女王じょおう危険きけんされていたことに気付きづいており、前述ぜんじゅつとお最悪さいあく事態じたいけるため反乱はんらんまえからたびたびエセックスはくに諫言したり、かれ没落ぼつらくしても見捨みすてず女王じょおうあいだとうと奔走ほんそうしたことも事実じじつであり、裁判さいばん参加さんか女王じょおう命令めいれいでベーコンは命令めいれいさからえなかったという擁護ようごろんもある[39][44][45]

エセックスはく処刑しょけいつづ同年どうねんあにうしなかなしみにれるなか1610ねんはは死去しきょ)、10月にひらかれた議会ぎかい選出せんしゅつ独占どくせんけん批判ひはんする議会ぎかいたい女王じょおう独占どくせんけん授与じゅよ国王こくおう大権たいけんれることから女王じょおう擁護ようごまわった。問題もんだい女王じょおう有害ゆうがいないくつかの独占どくせんけん撤回てっかいすることを約束やくそく実行じっこうすることで解決かいけつはかられ、わせて臣民しんみんへの感謝かんしゃ表明ひょうめいした黄金おうごん演説えんぜつ英語えいごばん議会ぎかい女王じょおう称賛しょうさんした。演説えんぜついていたベーコンは女王じょおうのしたたかな政治せいじ手法しゅほう感心かんしんし、のちふたた独占どくせんけん批判ひはんがったとき解決かいけつさくとして女王じょおう方法ほうほうれいげた。反面はんめんみずからの才能さいのう発揮はっき出来できない状況じょうきょう苛立いらだちもかんじていた[46][47][48]

ジェームズ1せい側近そっきんとして出世しゅっせ[編集へんしゅう]

1603ねん3がつにエリザベス1せい崩御ほうぎょスコットランドおうジェームズ6せいがイングランドおうジェームズ1せいとして即位そくいした。ベーコンはしん国王こくおうがエセックスはくしたしかったため当初とうしょ不安ふあんかんじていたが、国王こくおうへのはたらきかけが成功せいこうして7がつナイトじょされ、1604ねんにエリザベス1せいときおな特命とくめい学識がくしき顧問こもんかん任命にんめいされ国王こくおう側近そっきんとして重用じゅうようされた。ジェームズ1せい即位そくい尽力じんりょくしたセシルもソールズベリーはく叙爵じょしゃくされている[49][50][51]

エリザベスちょうおよびジェームズ1せい初期しょきには栄達えいたつめぐまれなかったが、ジェームズ1せい時代じだいにコモン・ローの原則げんそくまもろうとするコークにたいしてベーコンは国王こくおう大権たいけん擁護ようごしたことでジェームズ1せい重用じゅうようされるようになった[13][44]。1603ねん即位そくい直後ちょくごのジェームズ1せい献呈けんていした『イングランドとスコットランドりょう王国おうこく幸福こうふく統合とうごうについての論考ろんこう』で持論じろん展開てんかいりょう国対こくたいとうかたちでの統合とうごう両国りょうこく住民じゅうみん権利けんりほう配慮はいりょした統一とういつろんなど慎重しんちょう方策ほうさくしるしたが、統合とうごう積極せっきょくてき賛成さんせい立場たちばった。またこの時期じき1605ねんに『学問がくもん進歩しんぽ』を出版しゅっぱんする(2かん構成こうせいで、1603ねんと1605ねんいた著作ちょさくわせて出版しゅっぱん[52][53][54]

1604ねん3がつひらかれた議会ぎかいでジェームズ1せいがイングランドとスコットランドの合同ごうどうのぞみ、ベーコンも両国りょうこく統合とうごう検討けんとう委員いいんかい委員いいんとしてえらばれ、1604ねん3がつから1607ねん12月まで断続だんぞくてきひらかれた議会ぎかい統合とうごう問題もんだいたった。しかしイングランド議会ぎかい統合とうごう反対はんたい、ジェームズ1せい統合とうごう国名こくめいとしてげたブリテンの名前なまえ反対はんたい両国りょうこくあいだ自由じゆう交易こうえきやスコットランドじん流入りゅうにゅうにも反対はんたい続出ぞくしゅつした。コモン・ロー法律ほうりつたちもイングランドほうのコモン・ローがスコットランドほうとの統一とういつ変質へんしつするとの懸念けねんから反対はんたいまわり、ベーコンは大勢おおぜい反対はんたいするなかで1607ねん2がつ統合とうごう反対はんたい反論はんろん統合とうごう長期ちょうきてき利益りえき強調きょうちょうし、両国りょうこくほう統一とういつ変質へんしつこらないこと、スコットランドじん帰化きか賛成さんせいして統合とうごう段階だんかいてきすすめることなどをべたが、反対はんたいろんくつがえらず統合とうごう実現じつげんしなかった。それでもベーコンの活動かつどうがジェームズ1せい注目ちゅうもくされたのか、6がつ法務ほうむ次官じかん任命にんめいされた[55][56][57]

一方いっぽう1606ねん友人ゆうじんでロンドン参事さんじ会員かいいんベネディクト・バーナムのむすめアリス・バーナムと結婚けっこん持参じさんきんでベーコンの財政ざいせい状態じょうたい改善かいぜんされた。アリスとのあいだ子供こども結婚けっこん生活せいかつについて不明ふめいだが、1612ねん出版しゅっぱんされたエッセイにベーコンが結婚けっこんについて否定ひていてき文章ぶんしょういていること、前年ぜんねんたる1625ねんいた遺書いしょ一旦いったんつまあたえるとめた土地とち家具かぐして遺産いさん相続そうぞく権利けんり否定ひていしていることから、結婚けっこん生活せいかつ上手うまくいかなかったことが示唆しさされている[注釈ちゅうしゃく 4]

1607ねん法務ほうむ次官じかんになったことを皮切かわきりに順調じゅんちょう栄達えいたつし、1613ねんには法務ほうむ長官ちょうかん1616ねん枢密すうみつ顧問こもんかん1617ねんには国璽尚書こくじしょうしょ1618ねんにはだい法官ほうかんとなる。だい法官ほうかん貴族きぞくいん議長ぎちょう就任しゅうにんさいしてヴェルラム男爵だんしゃくじょされ、貴族きぞくいん議員ぎいんとなった。1621ねんセント・オールバンズ子爵ししゃくじょされた[1][61]

裁判所さいばんしょ議会ぎかい国王こくおう折衝せっしょう奔走ほんそう[編集へんしゅう]

法務ほうむ次官じかん法務ほうむ長官ちょうかん在任ざいにんちゅう司法しほうかい政敵せいてきコークと裁判所さいばんしょ管轄かんかつあらそい、国王こくおう大権たいけん裁判所さいばんしょ権限けんげんめぐって対立たいりつつづけた。きっかけは1606ねん民事みんじ高等こうとう裁判所さいばんしょ首席しゅせき裁判官さいばんかん英語えいごばん転身てんしんしてからのコークの姿勢しせい変化へんかにあり、コモン・ローを擁護ようごしそれをあつか裁判所さいばんしょ民事みんじ高等こうとう裁判所さいばんしょ英語えいごばん王座おうざ裁判所さいばんしょ英語えいごばん財務ざいむ裁判所さいばんしょ英語えいごばん)の権限けんげん拡大かくだい裁判所さいばんしょ王権おうけんとの対立たいりつこしたのである。背景はいけいには北部ほくぶ評議ひょうぎかい英語えいごばんなどの裁判所さいばんしょ新設しんせつだい法官ほうかん裁判所さいばんしょ英語えいごばんなどのエクイティ衡平こうへいほう)の裁判所さいばんしょ権限けんげん拡大かくだい、これらをつうじて国王こくおう大権たいけん伸長しんちょうしコモン・ロー裁判所さいばんしょとのあらそいがしょうじた事情じじょうがあった。しかし国王こくおうジェームズ1せいとその側近そっきんになっていたベーコンからすれば、コークのほうがコモン・ローをたてった越権えっけん行為こういをしていることになり、コークはベーコンおよびジェームズ1せいとの対立たいりつけられなくなった[62][63][64]

コークのこうしたうごきにたいしベーコンがその対処たいしょたり、1608ねんにコモン・ロー裁判所さいばんしょウェールズ裁判所さいばんしょ管轄かんかつあらそいをこすと、自分じぶんたち権利けんり声高こわだか主張しゅちょうするコモン・ロー裁判所さいばんしょ非難ひなん、ベーコンの影響えいきょうけたジェームズ1せい1610ねんかく裁判所さいばんしょへそれぞれの管轄かんかつ保持ほじすることと自重じちょうびかけ、事態じたい収拾しゅうしゅうはかった。また政界せいかいでも国王こくおう助言じょげんしゃとして国王こくおう大権たいけん議会ぎかい均衡きんこうたもつべく奔走ほんそう財政ざいせい再建さいけんさくとしてソールズベリーはくが1610ねん提案ていあんしただい契約けいやくもとで、国王こくおう課税かぜいけんめぐってこった論争ろんそうめたジェームズ1せい擁護ようごだい契約けいやく反対はんたいした。一方いっぽう1612ねんにジェームズ1せいけて、議会ぎかい財政ざいせいささ国民こくみんおうむすけている議会ぎかい存在そんざい意義いぎ強調きょうちょうして配慮はいりょびかけている[65][66]

同年どうねんだい契約けいやく成立せいりつ失敗しっぱい財政ざいせい再建さいけん出来できなかったソールズベリーはく死亡しぼう、ベーコンはかれ所持しょじしていたポストをねら国王こくおう自薦じせんしたが実現じつげんしなかった。一方いっぽう議会ぎかい対策たいさくとしてつぎ議会ぎかい召集しょうしゅう進言しんげん、そこで国王こくおう議会ぎかい関係かんけい修復しゅうふくはかり、ジェームズ1せい議会ぎかいとの協調きょうちょうびかけた議会ぎかい1614ねん4がつ召集しょうしゅうされながら、しんスペイン・カトリックノーサンプトン伯爵はくしゃくヘンリー・ハワードハワードと、はんスペイン・プロテスタントペンブルックはくウィリアム・ハーバート、カンタベリーだい主教しゅきょうジョージ・アボット英語えいごばんらの派閥はばつ抗争こうそう原因げんいんでわずか2ヶ月かげつの6がつ解散かいさん、7ねん1621ねんまで召集しょうしゅうされなかったため、司法しほうかいふたたびコークとの対立たいりつ発生はっせいすることになった[注釈ちゅうしゃく 5][70]

1613ねん王座おうざ裁判所さいばんしょ首席しゅせき裁判官さいばんかん英語えいごばんトマス・フレミング英語えいごばん死亡しぼうでコークは民事みんじ高等こうとう裁判所さいばんしょから王座おうざ裁判所さいばんしょ異動いどうとなったが、なにとかコークを翻意ほんいさせようとかれとジェームズ1せいとの接近せっきん計画けいかくくわえて実入みいりのくない王座おうざ裁判所さいばんしょへの異動いどう懲罰ちょうばつ対外たいがいてき印象いんしょうけることもはかったベーコンがジェームズ1せい進言しんげんした結果けっかだった。なお、コークの異動いどう玉突たまつ人事じんじおこなわれ、民事みんじ高等こうとう裁判所さいばんしょ首席しゅせき裁判官さいばんかんにはコークの後任こうにん法務ほうむ長官ちょうかんヘンリー・ホバート英語えいごばんが、法務ほうむ長官ちょうかんにはベーコンが就任しゅうにんした[71][72]

しかし、王座おうざ裁判所さいばんしょ首席しゅせき裁判官さいばんかんになってもコークは態度たいどえず、ジェームズ1せい・ベーコンとの対立たいりつ継続けいぞくしていった。サマセットはくロバート・カー殺人さつじん事件じけん裁判さいばんではコークとベーコンは協力きょうりょくしたが、裁判官さいばんかん国王こくおう擁護ようごしゃかんがえるベーコンと国王こくおう人民じんみんあいだ調停ちょうていしゃかんがえるコークの思想しそう相容あいいれず、ジェームズ1せい裁判官さいばんかんへの干渉かんしょうたいする抗議こうぎかさなり、だい法官ほうかんでベーコンと連携れんけいしたエジャートンとも対立たいりつふかめていった。裁判所さいばんしょ管轄かんかつあらそいも国王こくおう大権たいけん裁判所さいばんしょ対立たいりつ問題もんだい拡大かくだい1616ねんにジェームズ1せいによりコークは王座おうざ裁判所さいばんしょ首席しゅせき裁判官さいばんかん罷免ひめんされた。罷免ひめんさいし、ベーコンはコークを徹底的てっていてき非難ひなんし、国王こくおう大権たいけんかく裁判所さいばんしょ衝突しょうとつした事例じれいしてコークへの個人こじん攻撃こうげきにまでおよび、かつてのエセックスはく彷彿ほうふつとさせる民衆みんしゅう支持しじ背景はいけいにした政治せいじ手法しゅほうきびしく批判ひはんしている[73][74][75]

コークを司法しほうかいから排除はいじょしたのち出世しゅっせかさね、上述じょうじゅつとおり1616ねん枢密すうみつ顧問こもんかん1617ねん国璽尚書こくじしょうしょ1618ねんだい法官ほうかんとなり、ヴェルラム男爵だんしゃく叙任じょにん貴族きぞくれっせられ、1621ねんにセント・オールバンズ子爵ししゃく昇叙しょうじょされた。出世しゅっせともな多忙たぼうきわめ、だい法官ほうかん残務ざんむ処理しょり裁判さいばんウォルター・ローリー(1618ねん)や]サフォークはくトマス・ハワード1619ねん)など政治せいじはん断罪だんざい治安ちあん判事はんじ巡回じゅんかい裁判さいばん判事はんじとおした地方ちほう統制とうせいかく分野ぶんや精通せいつうした委員いいんかい設立せつりつ提案ていあん現代げんだいにおける省庁しょうちょう相当そうとうする)など司法しほうかい政界せいかいにまたがる多彩たさい活動かつどう展開てんかいしていった。この出世しゅっせには1615ねんから交際こうさいしていたジェームズ1せい寵臣ちょうしんバッキンガムこうのち公爵こうしゃくジョージ・ヴィリアーズうしたてところおおきかった[76][77]

バッキンガムこうへの助言じょげんというかたちで1618ねんにイングランドの政治せいじ社会しゃかい全般ぜんぱん広範囲こうはんい分析ぶんせき解説かいせつした書簡しょかん執筆しっぴつした。1616ねんにもいた書簡しょかん大幅おおはば増補ぞうほしたこの文書ぶんしょでバッキンガムこう宮廷きゅうてい腐敗ふはい一掃いっそう国王こくおう枢密院すうみついん中心ちゅうしん政治せいじおこなうこと、枢密すうみつ顧問こもんかん登用とうよう公平こうへい人事じんじおこなうことをすすめた。内容ないよう多岐たきわたり、宗教しゅうきょう法律ほうりつ議会ぎかい枢密院すうみついん外交がいこう戦争せんそう経済けいざい植民しょくみん宮廷きゅうていのそれぞれのくわしい特徴とくちょう問題もんだいてん解決かいけつさくげて、バッキンガムこう国政こくせい運営うんえいにふさわしい政治せいじ養成ようせいしようとした。しかしバッキンガムこうはベーコンの政治せいじマニュアルともうべき書簡しょかん内容ないよう上手うまめず派閥はばつ形成けいせいはしり、身内みうち贔屓びいき役職やくしょくがバッキンガム独占どくせんされる事態じたいとなり、それに不満ふまんいた有力ゆうりょくしゃ議会ぎかいでバッキンガムこう政府せいふ対立たいりつ、ベーコンの目論見もくろみ失敗しっぱいした。そしてバッキンガムぞくするベーコンも議会ぎかい政府せいふ対立たいりつまれていった[注釈ちゅうしゃく 6][80]

1620ねん一時期いちじきだがトマス・ホッブズがベーコンの秘書ひしょつとめたことがある。

議会ぎかいからの告発こくはつ再度さいど失脚しっきゃく[編集へんしゅう]

1621ねん1がつ30にち、7ねんぶりに議会ぎかいひらかれた。さんじゅうねん戦争せんそうでヨーロッパ大陸たいりく戦乱せんらんつつまれ、ジェームズ1せいむすめエリザベス・ステュアートおっとであるプファルツせんみかどこうフリードリヒ5せい戦争せんそう当事とうじしゃのため、戦争せんそうそなえる費用ひよう調達ちょうたつ目的もくてきだった。議会ぎかいには独占どくせんけんたいする反感はんかん再度さいどがっていたため、それをさっしていたベーコンは議会ぎかい対策たいさくおこない、その一環いっかんとして1601ねんにエリザベス1せいった対策たいさく参考さんこうに、バッキンガムこう独占どくせんけん廃止はいし要請ようせいした。だがバッキンガムこう要請ようせいげず独占どくせんけんをそのままにしていたため、はじめは政府せいふ友好ゆうこうてき主要しゅよう目的もくてきだった特別とくべつぜいみとめた議会ぎかい一転いってんして独占どくせんけん批判ひはん展開てんかい、かつてベーコンが排除はいじょした政敵せいてきコークが批判ひはん運動うんどう先頭せんとう深刻しんこく政争せいそうはじまった[注釈ちゅうしゃく 7][84][85][86]

議会ぎかいはまずバッキンガムこう身内みうち独占どくせんけん濫用らんよううたがいで告発こくはつつづいてバッキンガムこう追及ついきゅうしようとしたが、ジェームズ1せいがバッキンガムこう擁護ようご独占どくせんけん批判ひはん国王こくおう大権たいけんれることを理由りゆう議論ぎろん中止ちゅうしもとめたため、独占どくせんけん批判ひはん終息しゅうそくかった。しかし議会ぎかいいかりの矛先ほこさきはベーコンにけられ、独占どくせんけん審議しんぎかかわり違反いはんしゃ処罰しょばつしたこともあるベーコンにとっては不安ふあんのこものとなった。ジェームズ1せいがバッキンガムこうまもるためベーコンを議会ぎかい攻撃こうげきのスケープゴートにすることを画策かくさくかれ見放みはなしたことも不安ふあん助長じょちょうしていた[87][88][89]

やがて不安ふあん現実げんじつとなり、ベーコンは独占どくせんけん批判ひはん終息しゅうそくした直後ちょくご3月14にち庶民しょみんいん訴訟そしょう関係かんけいしゃから賄賂わいろったという告発こくはつけた。ベーコンはこの告発こくはつみとめたが、判決はんけつには影響えいきょうあたえていないと弁護べんごした。当時とうじ裁判官さいばんかん贈物おくりものるのは普通ふつうのことであり、この告発こくはつには党派とうはあらそいがからんでいた。しかし弁護べんごとおらず、コークらのベーコンへの追及ついきゅうまず庶民しょみんいんでベーコンを告発こくはつする人物じんぶつ続出ぞくしゅつした。病気びょうき療養りょうようちゅうだったこともありベーコンの対応たいおうおくれ、ジェームズ1せいからのたすけもられず、観念かんねんしたベーコンは4がつ30にち貴族きぞくいん問責もんせきしょたいする返書へんしょおくり、収賄しゅうわいみと弁護べんご放棄ほうき処分しょぶん貴族きぞくいんゆだねた。5月3にち判決はんけつくだり、罰金ばっきん4まんポンド、国王こくおう許可きょかがあるまでロンドンとう監禁かんきん一切いっさい公職こうしょく就任しゅうにん禁止きんし議会ぎかい出席しゅっせき宮廷きゅうてい出仕しゅっし禁止きんしをいいわたされた。こうしてベーコンは再度さいど失脚しっきゃく、4日間にちかんではあるが、5がつまつから6月4にちまでロンドンとうめられもした[87][90][91][92]

以降いこうはセント・オールバンズの領地りょうち隠退いんたい生活せいかつおくって著述ちょじゅつ専念せんねんした[92]。ジェームズ1せいけいらいで投獄とうごく短期間たんきかんみ、罰金ばっきんとし1200ポンドの分割払ぶんかつばらいにおさえられ、よく1622ねんにはグレイ法曹ほうそういん帰還きかんやロンドン居住きょじゅうゆるされ、友人ゆうじんトビー・マシュー英語えいごばんにもささえられ傷心しょうしんをいくらかいやすことが出来できた。一方いっぽう知的ちてき好奇心こうきしん政界せいかい復帰ふっきのぞみをさえられず、しばしば国王こくおう政府せいふ関係かんけいしゃ助言じょげんおくったり名誉めいよ回復かいふくねがたりしながら、著作ちょさく続々ぞくぞく出版しゅっぱん、『ヘンリーななせいおう』(1622ねん)、『自然しぜん実験じっけん』(1622ねん)、『学問がくもん進歩しんぽ』を増補ぞうほラテン語らてんごばんやくした『学問がくもん尊厳そんげん進歩しんぽ』(1623ねん)、『資料しりょうもり』(1624ねん)、『随筆ずいひつしゅう』(1625ねんだいさんはん)などをげた。しかし60だいのベーコンは病気びょうきがちになるにつれて復帰ふっき意志いしよわまり、1625ねんチャールズ1せい即位そくいしてひらかれた議会ぎかい召集しょうしゅうがあったときことわっている[93][94]

1626ねんにわとりゆきんで冷凍れいとう実験じっけんおこなったさい悪寒おかんにかかり、ちかくのアランデル伯爵はくしゃくトマス・ハワード屋敷やしきせたが、体調たいちょう回復かいふくせず4がつ9にち気管支炎きかんしえんこして死亡しぼうした。65さいだった[95][96]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

政治せいじ哲学てつがく思想しそう[編集へんしゅう]

知識ちしきちからとして人間にんげん自然しぜん征服せいふくしゃたることをのぞみ、既存きそん体系たいけい整理せいりただしい知識ちしき獲得かくとくする方法ほうほうとして帰納きのうほうかかげ、人生じんせい適用てきようして人類じんるい福祉ふくし増大ぞうだいさせるという学問がくもんただしい目標もくひょう達成たっせいするための方法ほうほうであるとかんがえた。理論りろん実践じっせんむすけ、現実げんじつ社会しゃかい適応てきおうして政界せいかい出世しゅっせ出来できたが、自然しぜんについての知識ちしき獲得かくとくすることが人類じんるい窮状きゅうじょうからすく手段しゅだんとの信念しんねんもとづき、知識ちしき取捨選択しゅしゃせんたく必要ひつよう情報じょうほう収集しゅうしゅう、および実験じっけん設備せつびさらにはそうして獲得かくとくした知識ちしきもとづいた技術ぎじゅつ開発かいはつなど、知識ちしき現実げんじつかすには権力けんりょく不可欠ふかけつだともかんがえ、ちからむすけ、人類じんるい幸福こうふく状態じょうたいみちびくことがベーコンの最終さいしゅう目標もくひょうだった。かれ自身じしん失脚しっきゃく挫折ざせつちから結合けつごう自然しぜん解明かいめい構想こうそうたせなかったが、方法ほうほうつぎ世代せだいへとがれていった[97][98]

こうした心情しんじょう吐露とろしたのが1592ねんごろにバーリー男爵だんしゃくてた手紙てがみで、政治せいじてき目標もくひょう哲学てつがくてき目標もくひょうっていること、後者こうしゃしんつよろしていることを告白こくはく浅薄せんばく論争ろんそう盲目的もうもくてき実験じっけん一掃いっそうすれば有益ゆうえき知識ちしきをもたらすだろうと期待きたいめていている。以後いご既存きそん体系たいけい批判ひはんあたらしい方法ほうほう提示ていじ支配しはいりょく強調きょうちょうがベーコン哲学てつがく基本きほんてき原理げんりになり、エセックスはくなど有力ゆうりょくしゃ自己じこアピールしつつ出世しゅっせ機会きかいうかがいながら、ちから結合けつごう夢見ゆめみことあるごとに著作ちょさく手紙てがみ重要じゅうようせいうったえるようになっていった。同年どうねんにエセックスはくのため女王じょおう即位そくい記念きねんしてひらかれた仮面かめんげき脚本きゃくほん知識ちしき称賛しょうさん』でギリシャ哲学てつがく錬金術れんきんじゅつ哲学てつがく批判ひはん、1594ねんおなじく仮面かめんげき脚本きゃくほんとしていた『グレイ法曹ほうそういん催事さいじ』にはげきとおして自然しぜん研究けんきゅうのため図書館としょかん動物どうぶつえん博物館はくぶつかん研究所けんきゅうじょなど施設しせつ建設けんせつ勧告かんこくあん自然しぜん研究けんきゅう政府せいふ援助えんじょねがったと推測すいそくされる[注釈ちゅうしゃく 8][100][101]

1605ねん出版しゅっぱんした『学問がくもん進歩しんぽ』(1623ねんに『学問がくもん尊厳そんげん進歩しんぽ』として増補ぞうほラテン語らてんごばんやくした)では、著作ちょさく主張しゅちょうしていた既存きそん哲学てつがく批判ひはん大切たいせつさをかえいている。ここから独自どくじ学問がくもん分類ぶんるいほうし、学問がくもん分類ぶんるい原理げんり大別たいべつして真理しんり性質せいしつ学問がくもんをする人間にんげん知的ちてき能力のうりょく区別くべつふん前者ぜんしゃはあまりくわしくいていないのにたいし、後者こうしゃ分類ぶんるいひろげて知的ちてき能力のうりょく理性りせい想像そうぞう記憶きおくさんふん、それぞれ哲学てつがく歴史れきしへとつなげ、さらなる区分くぶんへとつづ自然しぜん研究けんきゅうまじえて分析ぶんせき解説かいせつしていく。また、知識ちしき獲得かくとく方法ほうほう人間にんげん認識にんしき判断はんだんさまたげる意識いしきについても言及げんきゅうのちにそれらはあたらしい帰納きのうほうイドラ検討けんとうというかたちで1620ねん出版しゅっぱんの『ノヴム・オルガヌム』で発展はってんしていくことになる。伝達でんたつ知識ちしき使用しよう進歩しんぽ継続けいぞく大切たいせつだともき、1人ひとり知識ちしき到達とうたつ努力どりょくすることの限界げんかいしめすと同時どうじに、研究けんきゅうしゃあいだ世代せだいえた共同きょうどう作業さぎょう知識ちしき発展はってん促進そくしんさせることを期待きたいしていたとされる[102][103]

議会ぎかい国王こくおう関係かんけいでは協調きょうちょうおもんじ、エリザベス1せい治世ちせいでは1593ねん議会ぎかい庶民しょみんいん権利けんり主張しゅちょうして失態しったいえんじ、1601ねん議会ぎかいでは国王こくおう擁護ようごして反対はんたい立場たちばまわっていたが、ジェームズ1せい治世ちせいでは議会ぎかい国王こくおうそれぞれに協調きょうちょうびかけた。均衡きんこう憲法けんぽうろん[注釈ちゅうしゃく 9]おもんじる姿勢しせいから、議会ぎかい議論ぎろん国王こくおう大権たいけん抵触ていしょくするとさっした場合ばあい議論ぎろん停止ていしびかける一方いっぽう、ジェームズ1せいには議会ぎかい必要ひつようせい強調きょうちょうしてたびたび議会ぎかいとの協力きょうりょく進言しんげんしている。議会ぎかいからは信頼しんらいされ1604ねん議会ぎかい庶民しょみんいん議長ぎちょう候補こうほげられ、1614ねん議会ぎかい本来ほんらい禁止きんしされている法務ほうむ長官ちょうかん庶民しょみんいん議員ぎいん兼任けんにん特別とくべつゆるされたが、1621ねん議会ぎかいでは一転いってんしてベーコンをとすがわまわった。かたや国王こくおうはベーコンの議会ぎかい対策たいさく協調きょうちょうあんげず、1621ねん議会ぎかいでは保身ほしんはしかれ見捨みすてたが、投獄とうごくされたのち短期間たんきかん釈放しゃくほう罰金ばっきん分割払ぶんかつばらいなどをはからいベーコンに好意こういしめしている[105][106][107]

ほう思想しそう改革かいかく[編集へんしゅう]

1612ねん、『随筆ずいひつしゅう』(後述こうじゅつ)のエッセイで「司法しほうについて」をくわえ、ほうについての思想しそう改革かいかく提案ていあんしるしている。裁判官さいばんかんについてくわしく解説かいせつ役割やくわりほう解釈かいしゃくであって立法りっぽうではいとの言葉ことばからはじまり、裁判官さいばんかんには慎重しんちょうさと正直しょうじきさがもとめられ、公平こうへい判断はんだんち、証言しょうげん辛抱強しんぼうづよくききとり、法廷ほうてい腐敗ふはいまないなどの注意ちゅういあたえている。法廷ほうていあらそいを人間にんげんげ、むすびに司法しほう国家こっか関係かんけい重要じゅうようせいれ、裁判官さいばんかん王権おうけん擁護ようごすることにあり、ほう適用てきよう大切たいせつさを強調きょうちょうしている[注釈ちゅうしゃく 10][110][111][112]

ほう改革かいかく熱心ねっしんでそれを実現じつげんしようと構想こうそう法務ほうむ長官ちょうかん就任しゅうにんから翌年よくねんの1614ねんほう改革かいかく覚書おぼえがきをジェームズ1せい提出ていしゅつほう改革かいかく国王こくおう名誉めいよだと強調きょうちょうしコモン・ローの整理せいり編集へんしゅう提案ていあん情報じょうほう収集しゅうしゅう整理せいり不可欠ふかけつだと進言しんげんした。1616ねんにこの論理ろんり発展はってんさせた『イングランドのほう編集へんしゅう改正かいせいについての提言ていげん』をあらためてジェームズ1せいおくり、イングランドほう問題もんだい提起ていき改革かいかくうったえ、コモン・ローの全体ぜんたい実質じっしつのこしつつそこから無効むこう部分ぶぶんのぞくことを剪定せんてい接木つぎきになぞらえ、みずか主張しゅちょうした整理せいり方法ほうほうろん帰納きのうほうほう改革かいかく活用かつようすることをかんがえた。またこれに関係かんけいして、コモン・ローの執行しっこうたすけ、ほう理解りかい浸透しんとうさせるための手段しゅだんとして提要ていよう用語ようご事典じてん必要ひつようべ、法令ほうれいしゅうほう規定きていしゅう法律ほうりつ用語ようごしゅうとくほう規定きていしゅう構想こうそうげて自分じぶん完成かんせいさせることを熱望ねつぼうした。ここまでほう改革かいかくうったえたベーコンだったが、仕事しごと多忙たぼうのため中断ちゅうだん改革かいかく実現じつげんされなかった[注釈ちゅうしゃく 11][115][116]

随筆ずいひつしゅう』でかれたテーマ[編集へんしゅう]

1597ねん出版しゅっぱんした『随筆ずいひつしゅう』では10のエッセイをみ、1612ねんと1625ねん増補ぞうほされている(それぞれエッセイを38、58にやしている)。「学問がくもんについて」のエッセイではじまるこのほんはテーマを分析ぶんせき実体験じつたいけんもとづいたとおもわれる内容ないようまれ、「学問がくもんについて」は学問がくもん役立やくだものとしてよろこび、かざり、能力のうりょくがあるとき、よろこびに利用りようするのは私生活しせいかつ閑居かんきょしているときかざりに利用りようするのに談話だんわたとえにしている記述きじゅつ政治せいじ生活せいかつから距離きょりき、世界せかいあそぼうとするベーコンの態度たいど反映はんえいしているとおもわれる。一方いっぽう学問がくもんおおくの時間じかんをかけぎるのは怠慢たいまんともき、学問がくもん能力のうりょくかす場合ばあい事務じむ判断はんだんりょく処理しょり役立やくだつと主張しゅちょう学問がくもん勉強べんきょうしん問題もんだいたいする処方しょほうであるともしるし、数学すうがく哲学てつがくなどを提案ていあんして自分じぶんしんいた勉強べんきょうすすめている。増補ぞうほでエッセイの順番じゅんばん変更へんこうがあったのか、だいさんはんでは「学問がくもんについて」は50番目ばんめ位置付いちづけられている[注釈ちゅうしゃく 12][118][119][120]

友情ゆうじょうについて」では友情ゆうじょう知性ちせいにもたらす効果こうかしるし、自分じぶんかんがえを友人ゆうじんはなすことで整理せいり出来できたり言葉ことばでいいあらわすことがどんなふうえるかがかるといている。同時どうじに、自分じぶんよろこびやかなしみを友人ゆうじんけることで、共感きょうかんともなしんよろこびを倍加ばいかさせたりかなしみがうすまる効果こうかいている。トビー・マシューとの友情ゆうじょうはベーコンにとって大切たいせつものであり、『学問がくもん進歩しんぽ』をマシューへおく相談そうだん著作ちょさく批評ひひょうもとめ、自分じぶん独善どくぜんおちいらないように注意ちゅういしている。マシューとベーコンの友情ゆうじょう晩年ばんねんにもつづき、失脚しっきゃくして不遇ふぐうのベーコンはつら境遇きょうぐうをマシューへしんいやしにしていた[121][122]

ほかにも「反乱はんらん騒動そうどうについて」は分析ぶんせき防止ぼうしさくこうじ、政府せいふはしら宗教しゅうきょう司法しほう忠言ちゅうげん財政ざいせい)がさぶられることが反乱はんらん原因げんいんになると分析ぶんせき宗教しゅうきょう改新かいしん課税かぜい法律ほうりつ風習ふうしゅう変更へんこう一般いっぱんてき迫害はくがいなど)、貿易ぼうえき土地とち開墾かいこんなど対策たいさくほどこして貧困ひんこんふせいだり、徒党ととうつくらせず分裂ぶんれつさせる手段しゅだん反乱はんらん防止ぼうしさくとしていている。「偉大いだい地位ちいについて」はたか地位ちいのぞ正当せいとう理由りゆうとしていことを実現じつげんするちから獲得かくとくげ、ちから結合けつごうもとつづけていた一方いっぽう地位ちいについて「権威けんいともな悪徳あくとく」として遅延ちえん腐敗ふはい粗暴そぼう容易よういげ、それぞれの対策たいさくしるしている(約束やくそくをきちんとまもることや確実かくじつ仕事しごと処理しょり直接ちょくせつ間接かんせつわずものりに注意ちゅういしはっきりとまわりに宣言せんげんする・叱責しっせき重々おもおもしいものであってもきずつけるものであってはならない・いい加減かげん依怙贔屓えこひいきはしない)。「貴族きぞく階級かいきゅうについて」は主権しゅけん国王こくおう)と民衆みんしゅうあいだ階級かいきゅうとしてとらえ、民衆みんしゅうおもがりをめる国王こくおう藩屏はんぺいであるべきとろんじ、「宗教しゅうきょう統一とういつについて」は人間にんげん社会しゃかいきずなとして重要じゅうようしながら異端いたん分裂ぶんれつ警戒けいかい持論じろん中庸ちゅうよう寛容かんようによる説得せっとく提案ていあん、「とみについて」では土地とち改良かいりょう勤勉きんべん公平こうへい取引とりひき慎重しんちょう投機とうきすすめている[123][124][125]

だが金銭きんせん感覚かんかく浪費ろうひだったことがわざわいし、「出費しゅっぴについて」では出費しゅっぴ身分みぶんおうじた収入しゅうにゅう半分はんぶんおさえる、出費しゅっぴおお場合ばあい支出ししゅつ節約せつやくする、借金しゃっきん返済へんさい無理むりせずすこしずつ経費けいひめてかえすなどの提案ていあんいたが、とみ使つかうためのものであるともいているベーコンが借金しゃっきんくるしむ羽目はめになったのはちちがきっかけになったが、贅沢ぜいたく派手はできでおおくの使用人しようにんかかえたため浪費ろうひ借金しゃっきんえなかった。1621ねん失脚しっきゃく借金しゃっきんがもたらしたと推定すいていされ、ベーコンが使用人しようにん監督かんとくせず彼等かれらとおして裁判さいばん当事とうじしゃから贈物おくりものり、それについてくわしい確認かくにんおこたったことが、議会ぎかいから収賄しゅうわいざいうったえられる結果けっかとなった。死後しご遺産いさん7000ポンドにたいして2まんポンドの借金しゃっきんがあったという[注釈ちゅうしゃく 13][128][129][130]

造園ぞうえんにこだわりをっていて、1625ねん増補ぞうほされたエッセイの「庭園ていえんについて[131]」では、王侯おうこうにふさわしい庭園ていえんとして1がつごとにたのしめるそれぞれのしゅんうつくしいはな果実かじつをそろえることや、植物しょくぶつかおりがただよ甘美かんびさを重要じゅうようしていている。庭園ていえんにもこまかい注文ちゅうもんしる芝生しばふ小道こみち庭園ていえん区切くぎかた庭園ていえんかこむアーチの生垣いけがき設定せってい噴水ふんすいを2種類しゅるいけて説明せつめい、その様々さまざま種類しゅるい植物しょくぶつ提案ていあんつらねた庭園ていえんあん構想こうそうした。一方いっぽう、エッセイで駄目だめしもあり、かざむすしき花壇かだんるにらないと一蹴いっしゅうしている[132][133]

エッセイでいた構想こうそうをゴランベリー・ハウスで手掛てがけ、1608ねん作成さくせいした草案そうあんには庭園ていえん正方形せいほうけいつくり、外周がいしゅう小道こみち水路すいろとおして外側そとがわ植物しょくぶつ木々きぎえる、庭園ていえん中央ちゅうおうみずうみつくりそのなかに7つの人工じんこうとうかべ、はしわたした中央ちゅうおうしまかんて、外周がいしゅうかべる6つのしまはそれぞれちが特徴とくちょうたせ、いわだけのしまはないちめんしまかおただよしまなどを構想こうそうしていた。1656ねんジョン・オーブリーがゴランベリー・ハウスをおとずれたとききし、一部いちぶがれちていたが、デザインにすぐれた歩道ほどうみずうみそこめたベーコン厳選げんせん色石しょくせき、および人工じんこうとうかんうばわれたことを記録きろくしている[134]

後世こうせい影響えいきょう[編集へんしゅう]

知識ちしきちからなり」(Ipsa scientia potestas est)という言葉ことばとともにられる[135]独力どくりょくではたせなかったものの学問がくもん壮大そうだい体系たいけい構想こうそうしていた。体系たいけい構想こうそうはフランス百科全書ひゃっかぜんしょにもがれる。

なお、おも著作ちょさくの『ノヴム・オルガヌム』の影響えいきょうもあり、イギリスのろう教育きょういくはじまっている。ろう学校がっこう最初さいしょ設立せつりつした人物じんぶつではなく、ろう教育きょういく最初さいしょはじめた人物じんぶつであるとされている。

1624ねんごろ執筆しっぴつはじまったとされ、死後しご1627ねん出版しゅっぱんされた『ニュー・アトランティス』はベーコンが夢見ゆめみ空想くうそう産物さんぶつとらえられ、架空かくうしまベンサレムにある科学かがく研究けんきゅう機関きかんソロモン学院がくいんをあらゆる分野ぶんや研究けんきゅう発達はったつさせ人々ひとびと生活せいかつ向上こうじょう役立やくだてる組織そしきとしていている。未完みかん作品さくひんわったが、ソロモン学院がくいん構想こうそう次世代じせだい科学かがくしゃたちにがれ、1660ねん王立おうりつ協会きょうかい設立せつりつつながった[136][137]。またベーコン死去しきょから王立おうりつ協会きょうかい設立せつりつまでのあいだこった清教徒せいきょうと革命かくめいイングランド内戦ないせん)で『ニュー・アトランティス』に影響えいきょうされた自然しぜん研究けんきゅうしゃたちがロンドンやオックスフォード研究けんきゅうサークルをいくつもげ、うち王立おうりつ協会きょうかい前身ぜんしんであるロンドン理学りがく協会きょうかい別名べつめい不可視ふかし学院がくいん英語えいごばん)がウィリアム・ペティロバート・ボイルサミュエル・ハートリブ英語えいごばんなどを輩出はいしゅつした。やがて理学りがく協会きょうかいのメンバーはほとんどがオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくうつりオックスフォード理学りがく協会きょうかい改名かいめい、ベーコンの帰納きのうほう経験けいけんろん理念りねんいで実験じっけん理論りろん実践じっせん試行錯誤しこうさくごかえし、王立おうりつ協会きょうかいでも創立そうりつメンバーとしてつらねた[138]

おなじく『ニュー・アトランティス』に影響えいきょうされたユートピアえがいた著作ちょさくひろまり、ハートリブは1641ねんいた『有名ゆうめいなマカリア王国おうこく記述きじゅつ英語えいごばん』でソロモン学院がくいんはじ類似るいじした内容ないようとおして社会しゃかい改革かいかく提唱ていしょうヒュー・ピーター1651ねん出版しゅっぱんした『よき為政者いせいしゃ善政ぜんせい』でベーコンの理論りろん引用いんようした社会しゃかい改革かいかく主張しゅちょうした[139]。1660ねん王政おうせい復古ふっこむかえてからは『ニュー・アトランティス』の続編ぞくへんしょうする『ぞくニュー・アトランティス』ともうべき著作ちょさくちが作者さくしゃでいくつか出版しゅっぱんされ、これらも理想りそう社会しゃかいえが一方いっぽう王政おうせい賛美さんびして宗教しゅうきょうきゅう進化しんか批判ひはんする場面ばめんかれ、『ぞくニュー・アトランティス』には革命かくめい経験けいけんしたのち王政おうせいによる平和へいわ到来とうらいした現実げんじつ反映はんえいされ、ピューリタンがもたらした熱狂ねっきょうから理性りせいおもんじる時代じだいへのうつわりをしめしている[140]

ウィリアム・シェイクスピアどう時代じだいじんであり、シェイクスピアはベーコンのペンネームだというせつとなえるものもいる(シェイクスピア別人べつじんせつこう参照さんしょう)。

ヴォルテールはベーコンについて、『ノヴム・オルガヌム』などの著作ちょさく念頭ねんとうに「経験けいけん哲学てつがく」として賞賛しょうさんしている[141]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

爵位しゃくい[編集へんしゅう]

1618ねん7がつ12にち以下いか爵位しゃくい新規しんきじょされる[1]

1620/21ねん1がつ27にち以下いか爵位しゃくい新規しんきじょされる[1]

  • 初代しょだいセント・オールバンズ子爵ししゃく (1st Viscount Saint Alban)
    勅許ちょっきょじょうによるイングランド貴族きぞく爵位しゃくい

著作ちょさく[編集へんしゅう]

Bacon, Sylva sylvarum
  • 時代じだい最大さいだい誕生たんじょう』(1585ねん) - 現存げんそんせず
  • 『イングランドの教会きょうかい論争ろんそうについての勧告かんこく』(1589ねん
  • 『この1592ねん出版しゅっぱんされた中傷ちゅうしょうぶんたいする考察こうさつ』(1592ねん
  • 知識ちしき称賛しょうさん』(1592ねん
  • 『グレイ法曹ほうそういん催事さいじ』(1594ねん
  • 随筆ずいひつしゅう』(1597ねん初版しょはん
  • きエセックスはくロバートによってくわだてられ、実行じっこうされた陰謀いんぼう反逆はんぎゃく報告ほうこく』(1601ねん
  • 『イングランドとスコットランドりょう王国おうこく幸福こうふく統合とうごうについての論考ろんこう』(1603ねん
  • 自然しぜん解明かいめい序論じょろん』(1603ねん
  • 『ワレリヌス・テルミニウス・自然しぜん解明かいめい』(1603ねん
  • 『エセックスはくかんする弁明べんめい』(1604ねん
  • 学問がくもん進歩しんぽ』(1605ねん) - 『だい革新かくしんだい一部いちぶ
  • 古代こだいじん知恵ちえ』(1609ねんラテン語らてんごばん
  • 随筆ずいひつしゅう』(1612ねんだいはん
  • 『イングランドのほう編集へんしゅう改正かいせいについての提言ていげん』(1616ねん
  • 古代こだいじん知恵ちえ』(1619ねん英語えいごばん
  • だい革新かくしん』(1620ねん
  • ノヴム・オルガヌム』(1620ねん) - 『だい革新かくしんだい
  • 『ヘンリーななせいおう』(1622ねん
  • 自然しぜん実験じっけん』(1622ねん
  • 学問がくもん尊厳そんげん進歩しんぽ』(1623ねん) - 『学問がくもん進歩しんぽ増補ぞうほラテン語らてんごばん
  • 資料しりょうもり』(1624ねん
  • 随筆ずいひつしゅう』(1625ねんだいさんはん
  • ニュー・アトランティス』(1627ねん) - 完成かんせい死後しご出版しゅっぱん

日本語にほんごやく[編集へんしゅう]

  • 『ベーコン随想ずいそうしゅう渡辺わたなべ義雄よしおやく岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1983ねん原著げんちょ1597ねん)。ISBN 978-4003361733 
  • 『ベーコン 随筆ずいひつしゅう成田なりたしげる寿ことぶきわけ中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこうクラシックス)、2014ねん原著げんちょ1597ねん)。ISBN 978-4121601506 
  • 学問がくもん進歩しんぽ服部はっとり英次郎えいじろう多田ただ英次えいじわけ岩波いわなみ文庫ぶんこ、1974ねん原著げんちょ1605ねん)。ISBN 978-4003361719 
  • 『ノヴム・オルガヌム―しん機関きかんかつら寿一ひさいちわけ岩波いわなみ文庫ぶんこ、1978ねん原著げんちょ1620ねん)。ISBN 978-4003361726 
    • 人間にんげんおちいりやすい偏見へんけん先入観せんにゅうかんあやまりを4つのイドラ(idola 幻像げんぞう)として指摘してきし、スコラがくてき議論ぎろんのように一般いっぱんてき原理げんりから結論けつろんみちび演繹えんえきほうよりも、現実げんじつ観察かんさつ実験じっけんおもんじる「帰納きのうほう」を主張しゅちょうしたもので、近代きんだい経験けいけん主義しゅぎみちひらいた(イギリス経験けいけんろん)。
  • 『ニュー・アトランティス』川西かわにしすすむわけ岩波いわなみ文庫ぶんこ、2003ねん原著げんちょ1626ねん)。ISBN 978-4003361740 ユートピア物語ものがたり

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 宗教しゅうきょう過激かげきたいする否定ひていてきかんがえは、ユグノー戦争せんそうてきたフランス滞在たいざいちゅうから芽生めばえ、1584ねん女王じょおうてた助言じょげん書簡しょかんでカトリックの脅威きょういきながら、恩師おんしホイットギフトが先導せんどうする弾圧だんあつではなく説教せっきょうによるカトリック教徒きょうとらす穏健おんけん対策たいさく提案ていあんした[19][20]。1589ねん著作ちょさくでも穏健おんけんかんがえにもとづく宗教しゅうきょう対立たいりつへの反対はんたいと、国教こっきょうかいとピューリタン双方そうほう冷静れいせい対応たいおうもとめることを主張しゅちょう解決かいけつさくとして国教こっきょうかい自己じこ改革かいかくとピューリタン弾圧だんあつめて寛容かんようさくあらためること、ピューリタンには聖書せいしょ中心ちゅうしん主義しゅぎ熱狂ねっきょうてきなあまり教会きょうかい軽蔑けいべつ論争ろんそう民衆みんしゅうむことを批判ひはん国教こっきょうかいとの妥協だきょうもとめた[21][22]。1592ねん著作ちょさくでバーリー男爵だんしゃく中庸ちゅうよう宗教しゅうきょう政策せいさく分析ぶんせき擁護ようごする内容ないようにも宗教しゅうきょう寛容かんよう重視じゅうしする姿勢しせいあらわれている[23]
  2. ^ このときのベーコンはバーリー男爵だんしゃくあて手紙てがみ女王じょおうへの釈明しゃくめいおくり、発言はつげん良心りょうしんもとづく行動こうどうだと主張しゅちょう反抗はんこうではなく女王じょおうへの奉仕ほうしけられた義務ぎむ熱意ねついあらわれとしるし、謝罪しゃざいせず自己じこ正当せいとうせい主張しゅちょうつづけた。だが失脚しっきゃくのショックはおおきく、エセックスはくあて手紙てがみみのあまり学究がっきゅう生活せいかつへの引退いんたいほのめかしたが、政界せいかい未練みれんのこっていたため、復帰ふっき機会きかいうかがっていた[28][29][30]
  3. ^ 処刑しょけい民衆みんしゅう人気にんきのあるエセックスはく犯罪はんざい白日はくじつしたさら目的もくてきしるした、1601ねん出版しゅっぱんのエセックスはくのクーデターをいた公開こうかいしょきエセックスはくロバートによってくわだてられ、実行じっこうされた陰謀いんぼう反逆はんぎゃく報告ほうこく』では反乱はんらん動機どうきをエセックスはく増長ぞうちょうした野心やしんもとめ、クーデター計画けいかく進行しんこう経過けいか女王じょおうたいする不満ふまん分子ぶんしれをしるしたのち最終さいしゅうてきにクーデターが失敗しっぱいしたことを女王じょおう賢明けんめいさによることを強調きょうちょうしてめくくった。また、のちにベーコンは弁明べんめいで「立派りっぱしん誠実せいじつひとならだれでも、かみ見捨みすてるくらいなら国王こくおうを、国王こくおう見捨みすてるくらいなら友人ゆうじんを、友人ゆうじん見捨みすてるくらいなら財貨ざいか見捨みすてるであろうから」とべ、国家こっか混乱こんらんをもたらしたエセックスはく見限みかぎり、私情しじょう公的こうてき義務ぎむ区別くべつをつけて後者こうしゃえらんだことを示唆しさしている[38][39]
  4. ^ 1612ねんのエッセイに追加ついかした「結婚けっこん独身どくしん生活せいかつについて」というタイトルのぶんでベーコンはこういている。「つま子供こどもものは、運命うんめい人質ひとじちあづけている。というのはそれらのものは、いことであれわざわいをもたらすものであれ、偉大いだい事業じぎょうたいする障害しょうがいになるからである。たしかに最良さいりょう社会しゃかいたいして最大さいだい価値かちある仕事しごとは、未婚みこんのあるいは子供こどもひとたちからしょうじている」。結婚けっこん生活せいかつはベーコンが社会しゃかい事業じぎょう目指めざすあまりつま関心かんしんけず、アリスにもなんらかの不行跡ふぎょうせきがあったと推測すいそくされ、20さい以下いか推定すいていされるアリスと40だい後半こうはんのベーコンの年齢ねんれいがすれちがいをもたらしたとされている[58][59][60]
  5. ^ 1614ねん議会ぎかい短期たんき解散かいさん召集しょうしゅう反対はんたいのノーサンプトンはくが、政府せいふ議会ぎかいもうとしていると意図いとてき庶民しょみんいんうわさながしたことが原因げんいんであり、政府せいふ協力きょうりょくてき議員ぎいん選挙せんきょ当選とうせんえに国王こくおう有利ゆうり法案ほうあん通過つうか協力きょうりょくする取引とりひきむすんだという疑惑ぎわくがり、非難ひなんまとになり派閥はばつ抗争こうそうへと発展はってんした。議会ぎかい請負人うけおいにんばれた彼等かれら非難ひなんする勢力せいりょくはん請負人うけおいにん)に分裂ぶんれつして解散かいさん、ベーコンはうわさしに奔走ほんそうしたが解散かいさん阻止そし出来できず、解散かいさん原因げんいんつくったノーサンプトンはく名指なざしで非難ひなんした[67][68][69]
  6. ^ 1618ねん書簡しょかんはベーコンがまなった経験けいけん政治せいじ主張しゅちょう反映はんえいされ、これらに沿ってそれぞれの課題かだい説明せつめいした。宗教しゅうきょう中庸ちゅうよう法律ほうりつはコモン・ローにもとづくほう支配しはい議会ぎかい役割やくわり尊重そんちょうしながら慎重しんちょう対応たいおうする、枢密院すうみついん人選じんせん情実じょうじつめずかく分野ぶんや専門せんもん構成こうせいいんえらぶ、外交がいこう交渉こうしょうしゃ判断はんだんりょく知恵ちえ経験けいけんすぐれて冷静れいせい人物じんぶつえらぶ、戦争せんそう軍備ぐんびかせないとしつつも戦争せんそう実行じっこう反対はんたい経済けいざい自国じこく産業さんぎょう発展はってん土地とち改良かいりょう奨励しょうれいするじゅうしょう主義しゅぎ植民しょくみん利益りえき目当めあての投資とうし反対はんたい公的こうてき事業じぎょうとして先住民せんじゅうみん対応たいおう注意ちゅういしながら植民しょくみん経営けいえいする、宮廷きゅうてい情実じょうじつ登用とうようふせ不正ふせいけ、緊急きんきゅうそなえた財政ざいせい備蓄びちく提言ていげんした。これらイングランドの政治せいじシステムはベーコンなどおやからいだ豊富ほうふ知識ちしき経験けいけんせい政治せいじだからこそ運営うんえい出来できたが、そうした裏付うらづけがくシステムを理解りかい出来できないバッキンガムこうにはベーコンの書簡しょかんとおした指導しどう十分じゅうぶん消化しょうか出来できなかった[78][79]
  7. ^ 議会ぎかい対策たいさくには、政府せいふ有利ゆうりなように議会ぎかい構成こうせいすることをねらったてんげられる。議会ぎかい召集しょうしゅうまえの1620ねん10がつ軍勢ぐんぜい派遣はけん特別とくべつぜい必要ひつよう付記ふきした召集しょうしゅう布告ふこく草案そうあんをジェームズ1せい提出ていしゅつ選挙せんきょ国民こくみん影響えいきょうりょくおや政府せいふ人物じんぶつ推薦すいせんすることをはかり、経験けいけん豊富ほうふ政治せいじえらぶよう勧告かんこくする有権者ゆうけんしゃけた布告ふこく草案そうあん作成さくせいした。実現じつげんしなかったが、議会ぎかい議論ぎろん逸脱いつだつしないように歯止はどめをかける言論げんろん自由じゆうたいする自己じこ規制きせい布告ふこく発布はっぷかんがえ、議会ぎかい冒頭ぼうとう演説えんぜつでは物事ものごとは1解決かいけつしないことに注意ちゅういし、自己じこ中心ちゅうしんてき論争ろんそうけ、経験けいけんもとづく助言じょげんをすべきと主張しゅちょうした。ベーコンにとって議会ぎかい対策たいさく作為さくい偶然ぐうぜんあいだ先見せんけんがあるというかんがえでおこなそなえだった[81][82][83]
  8. ^ 『グレイ法曹ほうそういん催事さいじ』には異論いろんもあり、1594ねんのクリスマスでグレイ法曹ほうそういん開催かいさいされた祝祭しゅくさい行事ぎょうじ一環いっかんとして、よく1595ねん1がつ3にち上演じょうえんされた仮面かめんげき登場とうじょう人物じんぶつである国王こくおう顧問こもんかん6にんがそれぞれことなる国家こっかビジョン(戦争せんそう哲学てつがく名声めいせい国家こっかとく娯楽ごらく)を国王こくおう上奏じょうそうした。このうち哲学てつがく研究けんきゅうによる自然しぜん征服せいふく図書館としょかん博物館はくぶつかん研究所けんきゅうじょ設置せっちとなえる2番目ばんめ顧問こもんかんがベーコンの研究けんきゅうしゃかれ最終さいしゅうてき理想りそうとして重視じゅうしされてきたが、げきちゅうでは顧問こもんかん同列どうれつあつかわれたことと、提言ていげん顧問こもんかんたちから批判ひはんされるとそれにこたえなかったこと、国王こくおう結論けつろんさずに熟慮じゅくりょかさねるとしたことから、ベーコンはむしろげき過程かていにおける、他者たしゃによる助言じょげん異論いろんまえた熟慮じゅくりょ過程かてい重視じゅうし国王こくおう顧問こもんかん中心ちゅうしんとした政治せいじ政治せいじがく原型げんけいとしていたのではないかというせつがある[99]
  9. ^ 議会ぎかいがイングランドの最高さいこう権力けんりょく一方いっぽう国王こくおう統治とうちしゃとして存在そんざいし、両者りょうしゃはいずれもイギリス憲法けんぽうじょう不可欠ふかけつとされ、一方いっぽう他方たほう併呑へいどんすることはゆるされず両者りょうしゃ均衡きんこう憲法けんぽうつという思想しそう換言かんげんすれば憲法けんぽう国王こくおう大権たいけん国民こくみん自由じゆう均衡きんこうつ。ヘンリー・ブラクトン憲法けんぽう思想家しそうか主張しゅちょうした従来じゅうらいからの制限せいげん王政おうせいろんがテューダーあさはい均衡きんこう憲法けんぽうろんくわえて発展はってん一般いっぱんひろまった。またこの思想しそうわせて国王こくおう大権たいけん二元論にげんろん形作かたちづくられ、国王こくおう大権たいけんにはほう拘束こうそくける部分ぶぶんけない部分ぶぶんがあり、前者ぜんしゃ国民こくみん自由じゆうかかわるもの後者こうしゃ直接ちょくせつ国民こくみん自由じゆう関係かんけいないものとして主張しゅちょうされた[104]
  10. ^ 司法しほう国家こっか関係かんけい重要じゅうようせいについて、ベーコンはじゅうひょうほう結論けつろん民衆みんしゅう安全あんぜん最高さいこうほうである」を引用いんようして、おう政府せいふ裁判官さいばんかん相談そうだんする場合ばあい反対はんたい裁判官さいばんかんおう政府せいふ相談そうだんする場合ばあい国家こっか上手うまくいっていると定義ていぎする。理由りゆう裁判さいばんまれる事項じこう個人こじん所有しょゆうけん問題もんだいかかわることでありながら、原理げんり帰結きけつ国家こっか問題もんだいれそうになるからだとき、そうなった場合ばあい主権しゅけんなどがおおきく変化へんかしたり、危険きけん先例せんれいしょうじたり、民衆みんしゅうだい部分ぶぶん関係かんけいすることをおそれている。また裁判官さいばんかんソロモン玉座ぎょくざ両側りょうがわにうずくまるライオンになぞらえ、均衡きんこう憲法けんぽうろんしゃ立場たちばから国王こくおう大権たいけん擁護ようご職務しょくむ忠実ちゅうじつであることを強調きょうちょうしている[108][109]
  11. ^ コモン・ロー再編さいへんはあらゆる場所ばしょから議会ぎかい制定せいていほう勅許ちょっきょじょう判決はんけつなどをふく過去かこ文書ぶんしょ調査ちょうさ収集しゅうしゅう、これらからもっとも重要じゅうようものえら時代じだいじゅん記録きろく文書ぶんしょ要約ようやくしたうえでの整理せいり方法ほうほう提案ていあんした。再編さいへん手続てつづきも勧告かんこくし、現実げんじつ適用てきよう出来できない無駄むだ判例はんれい削除さくじょおもにした内容ないようを5つげ、議会ぎかい指名しめいする委員いいんかい作業さぎょう準備じゅんびみ、最終さいしゅうてき議会ぎかいがコモン・ロー再編さいへん完成かんせいさせることをのぞんだ。またほう規定きていしゅう完成かんせい後世こうせい評価ひょうかされた場合ばあいすでに『判例はんれいしゅう』を編纂へんさんしていたコークより偉大いだい法律ほうりつになるだろうとまで宣言せんげん、コークへの対抗心たいこうしんほう改革かいかく使命しめいかんやした[113][114]
  12. ^ 1597ねん初版しょはんではあにアンソニーに、だいはんではつまいもうとおっとであるサー・ジョン・コンスタブルへ、だいさんはんではバッキンガムこうへそれぞれ献辞けんじささげた。だいはん献辞けんじ本来ほんらいヘンリー・フレデリック・ステュアートおう太子たいし(エリザベス・ステュアートとチャールズ1せいあに)へささげる予定よていだったが、1612ねん上梓じょうし直前ちょくぜんおう太子たいし急死きゅうししたため発表はっぴょうされず、献辞けんじ原稿げんこうのままのこった[117]
  13. ^ 地位ちい相応そうおう生計せいけいてる俸給ほうきゅう体系たいけいつくられていない当時とうじ裁判官さいばんかん国家こっかから支給しきゅうけられず、訴訟そしょう当事とうじしゃから支払しはらわれる手数料てすうりょう生計せいけいてていたが、この慣習かんしゅう時期じきによっては賄賂わいろともられ、乱用らんようまね危険きけん慣習かんしゅうだった。議会ぎかい告発こくはつ調査ちょうさちゅうにベーコンはジェームズ1せい報告ほうこくした収賄しゅうわい判例はんれいについて「1.訴訟そしょう未決みけつとき便宜べんぎまたは謝礼しゃれい約束やくそく、2.訴訟そしょう当事とうじしゃうことをしんじてすべてがわったとしんじいつ贈物おくりものけたか検討けんとうおこたる、3.訴訟そしょうわったのち不正ふせいなく贈物おくりものった場合ばあい」の3てんげている。このうち1は否定ひていし2は曖昧あいまい回答かいとうになり、3はみとめたが賄賂わいろったことは否定ひてい判決はんけつげなかったことを主張しゅちょうした。しかし使用人しようにん経由けいゆ贈物おくりもの確認かくにんしなかったことが収賄しゅうわいうたがいをまねき、処理しょりした事件じけん膨大ぼうだいかずのぼ反証はんしょう出来できないため、収賄しゅうわいみとめるしかなくなり失脚しっきゃくおちいった[126][127]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
ジョン・ドッドリッジ英語えいごばん
法務ほうむ次官じかん英語えいごばん
1607ねん - 1613ねん
次代じだい
ヘンリー・イェルバートン英語えいごばん
先代せんだい
サー・ヘンリー・ホバート英語えいごばん
法務ほうむ長官ちょうかん
1613ねん - 1617ねん
次代じだい
ヘンリー・イェルバートン
先代せんだい
初代しょだいブラックリー子爵ししゃく
だい法官ほうかん
1617ねん - 1621ねん
委員いいんかいせい
イングランド議会ぎかい (en
先代せんだい
フランシス・キンウェルマーシュ
ロバート・ドイリー
ボッシニー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1581ねん - 1584ねん
同職どうしょくロバート・ドイリー
次代じだい
サー・フランシス・ドレーク
ジョン・リーヴソン英語えいごばん
先代せんだい
ローレンス・トムソン英語えいごばん
ジョン・ウォリー英語えいごばん
モイル・フィンチ英語えいごばん
トマス・ハナム
ウェイマス=メルクーム・レジス選挙せんきょ英語えいごばん
選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん

1584ねん - 1585ねん
同職どうしょくローレンス・トムソン英語えいごばん
ジョージ・グリーンヴィル英語えいごばん
エドワード・ペンラドック
次代じだい
ローレンス・トムソン英語えいごばん
エドワード・ベーコン英語えいごばん
ウィリアム・スプリント
エドワード・フィリップス英語えいごばん
先代せんだい
モーリス・ホーナー
ウィリアム・ゴールドウェル
トーントン選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1586ねん - 1588ねん
同職どうしょくジョン・ゴールドウェル
次代じだい
トマス・フィッシャー
ジョン・ゴールドウェル
先代せんだい
ジョン・ポール英語えいごばん
ウィリアム・キャヴェンディッシュ英語えいごばん
リヴァプール選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1588ねん - 1593ねん
同職どうしょくエドワード・ウォーレン
次代じだい
マイケル・ドーティー
ジョン・ロース
先代せんだい
ロバート・ロース英語えいごばん
ウィリアム・フリートウッド
ミドルセックス選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1593ねん
同職どうしょくロバート・ロース英語えいごばん
次代じだい
ロバート・ロース英語えいごばん
サー・ジョン・ペイトン英語えいごばん
先代せんだい
ロバート・バーカー
ザカリア・ローク英語えいごばん
イプスウィッチ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1597ねん - 1614ねん
同職どうしょくマイケル・スタンホープ英語えいごばん(1597ねん - 1604ねん
ヘンリー・グレマム英語えいごばん(1604ねん - 1614ねん
次代じだい
ロバート・スネルリング
ウィリアム・ケイジ英語えいごばん
先代せんだい
ニコラス・ステュワード英語えいごばん
ヘンリー・マウントロー
ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
1614ねん - 1621ねん
同職どうしょくサー・マイルズ・サンズ英語えいごばん
次代じだい
ロバート・ナントン英語えいごばん
バルナバス・グーチ英語えいごばん
イングランドの爵位しゃくい
爵位しゃくい創設そうせつ 初代しょだいヴェルラム男爵だんしゃく
1618ねん - 1626ねん
廃絶はいぜつ
爵位しゃくい創設そうせつ 初代しょだいセント・オールバンズ子爵ししゃく
1621ねん - 1626ねん
廃絶はいぜつ