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寵臣ちょうしん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
オリバーレスはく公爵こうしゃく騎馬きばぞうディエゴ・ベラスケス

寵臣ちょうしん(ちょうしん、えいfavo(u)rite, ふつFavori西にしValido)とは、国家こっか統治とうちしゃのような政治せいじてき重要じゅうよう人物じんぶつ親密しんみつ関係かんけいにある友人ゆうじん侍臣じしんのことである。

ちゅう近世きんせいのヨーロッパでは、時代じだい地域ちいきわず、君主くんしゅから強大きょうだい政治せいじ権力けんりょくゆだねられた人物じんぶつあらわかたりとして使つかわれた。とくに16・17世紀せいきには、統治とうち機構きこう発達はったつ途上とじょうであるにもかかわらず、国家こっか統治とうち非常ひじょう複雑ふくざつになったために、世襲せしゅう君主くんしゅたちは、統治とうちによほどの関心かんしん能力のうりょくわせたものでないかぎり、寵臣ちょうしん政治せいじ運営うんえいゆだねるようになった。1600ねんから1660ねんにかけては、欧州おうしゅうおおくのくに全権ぜんけんにぎった寵臣ちょうしんがりの大臣だいじんによる権力けんりょく継承けいしょう現象げんしょうられ、それはとくスペインイングランドフランスおよスウェーデン顕著けんちょだった[1]

寵臣ちょうしんというかたりはまたときとして、君主くんしゅの「寵姫ちょうき」、「友人ゆうじん」、「侍臣じしん」あるいは「(同性どうせいの)恋人こいびと」をしめさいのいいかえとして利用りようされることもあった。たしかに一部いちぶ寵臣ちょうしん主君しゅくんまたはその配偶はいぐうしゃ)と性的せいてき関係かんけいむすんでいた。しかし君主くんしゅ寵臣ちょうしんいだ感情かんじょうは、寵臣ちょうしん能力のうりょくたいする単純たんじゅん信頼しんらい段階だんかいから、感情かんじょうてき愛着あいちゃく依存いぞん段階だんかい、さらには性的せいてき欲望よくぼうにかられる段階だんかいいたるまで、非常ひじょう幅広はばひろいものだった。

このかたりかならずとっていいほど否定ひていてき意味合いみあいで使つかわれ、『オックスフォード英語えいご辞典じてん』は「君主くんしゅ寵愛ちょうあい不当ふとうたか地位ちいにのぼったもの[2]」と定義ていぎし、ウィリアム・シェイクスピアは「君主くんしゅ威光いこうかさてふんぞりかえ寵臣ちょうしんども」と形容けいようした(『空騒からさわだい3まくだい1じょうだい9ぎょう[3])。

寵臣ちょうしん出世しゅっせ失脚しっきゃく

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バッキンガム公爵こうしゃくルーベンス工房こうぼう制作せいさく

寵臣ちょうしんとなったもの貴族きぞくたちから嫉視しっし憎悪ぞうおけられる場合ばあいがほとんどであり、君主くんしゅもまたときとして寵臣ちょうしん追放ついほうまたは処刑しょけいするよう貴族きぞくから政治せいじてき圧力あつりょくをかけられることがあった。中世ちゅうせいには、貴族きぞくたちはしばしば寵臣ちょうしん捕縛ほばく殺害さつがい目的もくてきとして反乱はんらんこした。君主くんしゅ寵臣ちょうしん親密しんみつすぎる関係かんけいは、自然しぜん秩序ちつじょおよびあるべき身分みぶん序列じょれつたいする重大じゅうだい違反いはん行為こういなされた。寵臣ちょうしん大胆だいたんで「おもいあがった」性格せいかく人物じんぶつおおく、軽率けいそついによって破滅はめつみちあゆんだものすくなくなかった。

時代じだいくだるにしたがちからはじめたジェントリブルジョワジーといった新興しんこう社会しゃかい階層かいそうもまた、寵臣ちょうしんたいしてはげしい敵意てきいやした。寵臣ちょうしんは、とく出身しゅっしん階層かいそういやしいか、すくなくとも下級かきゅう階層かいそう出身しゅっしんで、君主くんしゅ寵愛ちょうあいだけをたよりに出世しゅっせした場合ばあいぜん社会しゃかい階層かいそうから憎悪ぞうおされた。寵臣ちょうしんはたいてい称号しょうごう所領しょりょうをふんだんにあたえられたが、人々ひとびとかれらを、突如とつじょとしていちばん肥溜こえだからにょきにょきとそだってくるキノコたとえた。クリストファー・マーロウは『エドワードせい』のなかで、おう寵臣ちょうしんピアーズ・ギャヴィストンのことを「よるそだつキノコ」と政敵せいてきばせている[4]

寵臣ちょうしん失墜しっつい突然とつぜんきることがおおかったが、1650ねんころからは、しつちょうつのは処刑しょけいではなく静穏せいおん引退いんたい生活せいかつになっていった。レスターはくロバート・ダドリー、レルマこうフランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス英語えいごばん、オリバーレスはく公爵こうしゃくガスパール・デ・グスマンアクセル・オクセンシェルナのような高位こうい貴族きぞく出身しゅっしん寵臣ちょうしんは、人々ひとびと憎悪ぞうおされることがすくなく、権力けんりょくなが維持いじできた。成功せいこうした寵臣ちょうしんがりの大臣だいじんおおくの場合ばあい統治とうち業務ぎょうむをこなすために自身じしん寵臣ちょうしん親族しんぞくのネットワークにたよっていた。リシュリューは「クレアチュール(créatures)」、オリバーレスはくは「エチュラ(hechuras)」という集団しゅうだんっていた[5]。オクセンシェルナとウィリアム・セシル執務しつむちゅうくなったが、どちらも自分じぶん息子むすこ権力けんりょく継承けいしょうさせることに成功せいこうした。

寵臣ちょうしん国王こくおう政府せいふ奉仕ほうしする傑出けっしゅつした行政ぎょうせいかんは、君主くんしゅ寵愛ちょうあい必要ひつようとするものさい上位じょうい位置いちするという意味いみで、ときとしてその区別くべつけることがむずかしくなる。しかし寵臣ちょうしん政治せいじ行政ぎょうせい機関きかん業務ぎょうむ統率とうそつするよりも、宮廷きゅうてい社会しゃかいなか君主くんしゅもっと緊密きんみつむすびついた人物じんぶつかたりである。セシルやジャン=バティスト・コルベールは、君主くんしゅとの個人こじんてき関係かんけい利用りようして政府せいふ高官こうかんとしての出世しゅっせ階段かいだんのぼめたが、貴族きぞく第一人者だいいちにんしゃのようにうことはけたため、寵臣ちょうしんとしては成功せいこうしゃとなった。

エリザベス1せい1558ねん即位そくいして以来いらい、セシルを国王こくおう秘書ひしょ長官ちょうかんないし大蔵おおくらきょう英語えいごばんとして重用じゅうようし、セシルがぬまで40年間ねんかんそばにつづけた。一方いっぽうで、彼女かのじょ女性じょせい君主くんしゅとして、いくにんかの廷臣ていしんとのあいだで、よりロマンチックで親密しんみつ関係かんけいきずいた。すぐれた政治せいじでもあったレスターはくとのそれがもっと愛情あいじょうふか長続ながつづきした[6]。エリザベスの晩年ばんねん、セシルと息子むすこロバート・セシル権力けんりょく女王じょおうあたらしい寵臣ちょうしんエセックスはくロバート・デヴァルーによって脅威きょういにさらされるが、エセックスはくはロバート・セシルによって排除はいじょされた。

トマス・ウルジー枢機卿すうききょう教会きょうかいじんながら行政ぎょうせいのヒエラルキーの頂点ちょうてんった人物じんぶつだが、衒示てき生活せいかつぶりが人々ひとびと反発はんぱつ破滅はめつした。ウルジーにかぎらず、中世ちゅうせいにおいてはおう寵臣ちょうしんひじりかいから供給きょうきゅうされるのがつねだった。イングランドれいげれば、ドゥンスタントマス・ベケットウィリアム・ウェインフリート英語えいごばんロバート・バーネル英語えいごばんウォルター・レイノルズ英語えいごばんなどである。アントワーヌ・ド・グランヴェル枢機卿すうききょう父親ちちおや同様どうようハプスブルク信任しんにんされ絶大ぜつだい権力けんりょくるった大臣だいじんだが、そのキャリアの大半たいはん君主くんしゅ在国ざいこくでないネーデルラントきずかれたものだというてんかんがえれば、寵臣ちょうしんには該当がいとうしない。

寵臣ちょうしん政治せいじ黄金おうごんに、もっと成功せいこうした寵臣ちょうしん1人ひとりとなったリシュリュー枢機卿すうききょう

寵臣ちょうしんなかには非常ひじょう素性すじょういやしいものもいた。イングランドおうジェームズ1せいのおアーチボルド・アームストロング英語えいごばん道化師どうけしであり、その出自しゅつじひくさとするど舌鋒ぜっぽう宮廷きゅうてい人々ひとびと憎悪ぞうおてたが、金持かねもちになって引退いんたい悠々自適ゆうゆうじてき生活せいかつおくった。スコットランドじんロバート・コクラン英語えいごばん石工せっこう(といっても職人しょくにんというよりは親方おやかたそうぞくし、建築けんちく表現ひょうげんしたほうちかい)だったが、王族おうぞくさづけるならいのマー伯爵はくしゃく叙爵じょしゃくされるにいたって貴族きぞく反乱はんらん発生はっせい国王こくおうジェームズ3せいほか卑賎ひせんまれの寵臣ちょうしんたちと一緒いっしょつかまって絞首刑こうしゅけいになった。フランスおうルイ11せい理髪りはつオリヴィエ・ル・ダン英語えいごばん爵位しゃくい枢要すうようぐん司令しれい官職かんしょくあたえられたが、主君しゅくん直後ちょくご貴族きぞくたちはかれ曖昧あいまい内容ないよう罪状ざいじょうとらえ、しんおうなにらせないまま処刑しょけいした。ル・ダンの出現しゅつげんは、フランス語ふらんすご寵臣ちょうしん意味いみする「ファヴォリ(favori)」のかたりまれるきっかけとなり、このかたりはル・ダンがころされた1484ねんころはじめて使用しようされた。スペイン寵臣ちょうしんかたり「プリバード(Privado)」はこれよりふるくから存在そんざいしたが、のちに「バリード(valido)」というかたりってわられた。この2とも、英語えいごフランス語ふらんすごでの寵臣ちょうしんかたりくらべると、否定ひていてきなニュアンスはすくなかった[7]

下層かそう召使めしつかいからの寵臣ちょうしんヘの立身出世りっしんしゅっせ時代じだいくだるにつれて困難こんなんになっていった。幸運こううんにも、ひろがってゆく一方いっぽうだった貴族きぞく召使めしつかい階級かいきゅうてきみぞえることが出来でき最後さいごれいの1つが、ルイ14せい従者じゅうしゃアレクサンドル・ボンタン英語えいごばん家族かぞくである。一家いっかはボンタンののちの3世代せだい、つまり曾孫そうそん世代せだいまでのあいだおおくの権門けんもん勢家せいけつうこんし、そのなかには王家おうけ分家ぶんけすじ最後さいごコンティこうルイ・フランソワ2せい庶子しょし)さえもふくまれた。ヴィクトリア女王じょおうをかけたジョン・ブラウン登場とうじょうした時代じだいおそすぎた。主君しゅくんからのちょうぐう女王じょおう家政かせい機関きかんへの境界きょうかい侵犯しんぱんは、社会しゃかいてき経済けいざいてき利益りえきをほとんどなにまなかった。

寵臣ちょうしん衰退すいたい

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イングランドでは、議会ぎかい政治せいじてき重要じゅうようせい過程かていなかで、寵臣ちょうしん掌握しょうあくできる政治せいじ権力けんりょく範囲はんい縮小しゅくしょうしていった。同国どうこく代表だいひょうてきな「キノコ」の1人ひとりバッキンガムこうジョージ・ヴィリアーズ1628ねんジョン・フェルトン英語えいごばん暗殺あんさつされたのち元々もともとはバッキンガムこうチャールズ1せい反対はんたいする議会ぎかい指導しどうしゃだったトマス・ウェントワースのちストラフォード伯爵はくしゃく)は国王こくおう和解わかいし、国王こくおう支持しじてんじた。いくらチャールズ1せいとの関係かんけい親密しんみつだったとしても、ストラフォードはく通常つうじょう定義ていぎ寵臣ちょうしんなすことはむずかしい。かれ権勢けんせいやコネのある名望めいぼうそう出身しゅっしんしゃだった。権力けんりょくにしばらくあったのち、ストラフォードはくいまかれつよ敵視てきしするようになった議会ぎかいから弾劾だんがいけた。弾劾だんがい不首尾ふしゅびわると、議会ぎかい私権しけん剥奪はくだつほう英語えいごばん利用りようしてかれ審理しんりなしの死刑しけい宣告せんこくくだした。チャールズ1せい議会ぎかい圧力あつりょくけて、躊躇ちゅうちょしながらも死刑しけい執行しっこう命令めいれい署名しょめい、ストラフォードはく処刑しょけいされた。イングランドではその寵臣ちょうしんがりの大臣だいじん登場とうじょうするが、かれらは君主くんしゅからだけの信頼しんらいているだけでは為政者いせいしゃとしては不十分ふじゅうぶんだと自覚じかくしていたし、かれらの大半たいはん国会こっかい議員ぎいん経験けいけんしゃだった。

ポチョムキン公爵こうしゃく

イングランドとは対照たいしょうてきに、フランスでは寵臣ちょうしん政治せいじからうごきは王権おうけんがわからきた。1661ねんジュール・マザラン枢機卿すうききょうぬと、23さいだったルイ14せい親政しんせい決意けついし、大臣だいじん権力けんりょく委任いにんしてきた過去かこ40年間ねんかん寵臣ちょうしん政治せいじとの訣別けつべつ表明ひょうめいした。絶対ぜったい王政おうせいはマザランの前任ぜんにんしゃリシュリュー枢機卿すうききょうによって導入どうにゅうされたが、いま君主くんしゅ自身じしんによって主導しゅどうされることとなった。ルイ14せいには財務ざいむ担当たんとうのコルベールや軍事ぐんじ担当たんとうのルーヴォワこうフランソワ=ミシェル・ル・テリエなどおおくの有能ゆうのう大臣だいじんつかえたが、全権ぜんけん委任いにんされることはなかった。そして以後いご大臣だいじんだれも、リシュリュー・マザランのりょう枢機卿すうききょう保持ほじした規模きぼ匹敵ひってきする権力けんりょくることはなかった。

スペイン・ハプスブルク王権おうけんはフランスのような改革かいかく意欲いよく統治とうち能力のうりょくたなかったが、オリバーレスの政治せいじ権力けんりょくおいルイス・デ・アロ英語えいごばん移譲いじょうされたのちは、以前いぜんのように一人ひとり権力けんりょくしゃ統治とうちけんいちにぎ状況じょうきょう徐々じょじょよわまっていった。

文学ぶんがくにおける寵臣ちょうしん

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寵臣ちょうしんおおくのどう時代じだいじんたちの議論ぎろんまととなったが、議論ぎろんなかには参加さんかしゃ危険きけんにさらするいのものもあった。寵臣ちょうしん主題しゅだいとする英語えいご戯曲ぎきょく数多かずおおくあるが、ギャヴィストンを主人公しゅじんこうとするクリストファー・マーロウの『エドワードせい』、そしてベン・ジョンソンの『シジェイナスの失脚しっきゃく英語えいごばん』がもっと有名ゆうめいである。後者こうしゃについては、この戯曲ぎきょくどう時代じだいのジェームズ1せい宮廷きゅうていたいする揶揄やゆふくむものだと同業どうぎょうのライバルたちがさわいだために、「教皇きょうこう支持しじ大逆だいぎゃくざい」の容疑ようぎ作者さくしゃ枢密院すうみついん召喚しょうかんされる事態じたい発展はってんしている。このげき主人公しゅじんこうであるセイヤヌスティベリウスみかどした目覚めざましい昇進しょうしんげる様子ようすについてはタキトゥスによってきとえがかれており、そのため当時とうじヨーロッパちゅうおおくの文芸ぶんげい作品さくひん主題しゅだいとなっていた[8]。シェイクスピアはより慎重しんちょうで、寵臣ちょうしんになろうとする野心やしん無残むざんかたちくだかれるフォルスタッフと、『ヘンリーはちせい』に登場とうじょうするウルジー枢機卿すうききょうのぞけば、作品さくひんなか寵臣ちょうしんおおきな役割やくわりあたえていない。[9]

パトラ出土しゅつどしたアンティノウス胸像きょうぞうアテネ国立こくりつ考古学こうこがく博物館はくぶつかん所蔵しょぞう

自身じしんもほぼ寵臣ちょうしんにあてはまったフランシス・ベーコンは、その著書ちょしょ随筆ずいひつしゅう』の「友情ゆうじょうについて」のしょうで、エリザベスあさ政治せいじ出世しゅっせについてつぎのように叙述じょじゅつした。

偉大いだい国王こくおう君主くんしゅが、われわれのろんじている友情ゆうじょう効果こうかを、じつたか評価ひょうかしているのをるのは意外いがいである。かれらはしばしば自分じぶん安全あんぜん王位おうい危険きけんにさらしても、それをもとめるほどである。それというのも王侯おうこうは、自分じぶん身分みぶん臣下しんか召使めしつかいのそれとがかけはなれているので、この友情ゆうじょう効果こうかおさめるには(自分じぶんにはそれができるために)2、3のものげて、いわば自分じぶん仲間なかまとし、ほとんど対等たいとうものとせずにはいられないが、そうすることはしばしば面倒めんどうなことにもなるからである。近代きんだい言語げんごはこういう人々ひとびとたいして、寵臣ちょうしん(favorites)とか側近そっきん(privadoes)とかの名称めいしょうあたえている。…またわれわれは、こうしたことが無気力むきりょくな、いかりやすい王侯おうこうによってばかりでなく、かつて君臨くんりんしたもっと賢明けんめい慎重しんちょう王侯おうこうによってもなされたことをあきらかにっている。かれらは随従ずいじゅうしゃいくにんかを同列どうれつあつかい、平民へいみんあいだれられている言葉ことばもちいて、たがいにともび、人々ひとびとにも同様どうよう自分じぶんたちをそのようにぶことをゆるした[11]

ジョージ3せい家庭かてい教師きょうしだったことが機縁きえんとなって首相しゅしょうにまでのぼめたビュートはくジョン・ステュアートについても、1844ねんトーマス・マコーリーきょうつぎのように記述きじゅつしている、「かれ寵臣ちょうしんであり、寵臣ちょうしんという存在そんざいはそのくにつねにくまれるものである。フェルトンのにぎった短刀たんとう刃先はさきがバッキンガム公爵こうしゃく心臓しんぞうたっして以来いらい政府せいふ首脳しゅのう寵臣ちょうしんめたことはこのときまでなかった[12]」。

著名ちょめい寵臣ちょうしんれい

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首吊くびつり・内臓ないぞうえぐり・よっきのけいしょされたしょうディスペンサーフロワサール稿こう挿絵さしえ
自身じしん役職やくしょく権勢けんせいのシンボルであるかねかぎアン女王じょおう私室ししつかぎ)をこれよがしにけたマールバラ公爵こうしゃく夫人ふじん肖像しょうぞうゴドフリー・ネラー、1702ねん[13]
デ・ラ・パス(平和へいわおおやけマヌエル・デ・ゴドイゴヤ

関連かんれん項目こうもく

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引用いんよう脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Elliott:5, summarising the work of French historian Jean Bérenger
  2. ^ "favourite". Oxford English Dictionary (3rd ed.). Oxford University Press. September 2005. 2019ねん1がつ23にち閲覧えつらん (よう購読こうどく、またはイギリス公立こうりつ図書館としょかんへの会員かいいん加入かにゅう。)
  3. ^ Much Ado About Nothing 3.1”. www.shakespeare-online.com. 2019ねん1がつ23にち閲覧えつらん
  4. ^ s:Edward the Second
  5. ^ Elliott:6
  6. ^ Adams pp. 17–18
  7. ^ Elliott:1
  8. ^ Elliott:2-3
  9. ^ Blair Worden in Elliott:171
  10. ^ Bacon, Francis (1597ねん). “On Friendship”. authorama.com. 2020ねん11月7にち閲覧えつらん訳文やくぶんは、日本語にほんごやくばんである渡辺わたなべ義雄よしおやく『ベーコン随想ずいそうしゅう岩波いわなみ文庫ぶんこ、1983ねん、P120を参照さんしょう
  11. ^ Published 1597, perhaps the earliest use of the word in English, it is missed by the OED, who give the Shakespeare use quoted above, perhaps written in 1598.[10]
  12. ^ Essay on "The Earl of Chatham", quoted Elliott:1
  13. ^ Portraits of Sarah Churchill. National Portrait Gallery (United Kingdom). Retrieved on 7 August 2007.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Adams, Simon: Leicester and the Court: Essays in Elizabethan Politics Manchester UP 2002 ISBN 0719053250
  • J.H. Elliott and LWB Brockliss, eds, The World of the Favourite,1999, Yale UP, ISBN 0-300-07644-4