マダバ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マダバ

مدينة مادبا

Madaba
けん
マダバの街
マダバのまち
マダバの公式印章
印章いんしょう
マダバの位置(ヨルダン内)
マダバ
マダバ
ヨルダンない位置いち
北緯ほくい3143ふん 東経とうけい3548ふん / 北緯ほくい31.717 東経とうけい35.800 / 31.717; 35.800
くに ヨルダンの旗 ヨルダン
行政ぎょうせい区画くかく マダバけん
成立せいりつ 1921ねん
面積めんせき
 • けん 39.440 km2
 • 都市としけん
100 km2
人口じんこう
(2004)
 • けん 65,000にん
 • 都市としけん
83,180にん
ひとしときおび UTC+3
市外しがい局番きょくばん +(962)5
ウェブサイト www.madabacity.gov.jo

マダバمادبا, Madaba)はヨルダン西部せいぶ都市としマダバけんけん首都しゅとアンマン南西なんせい35km、うみひがしだい地上ちじょう位置いちする。人口じんこうやく60,000にんでヨルダンではだい5

ひがしマ帝国まていこく時代じだいおよびウマイヤあさ時代じだいモザイクのこることでられており、とくひがしマ帝国まていこく時代じだいパレスチナおよびナイルがわデルタえがいた、モザイクでできたおおきな地図ちずマダバ地図ちず)が有名ゆうめい

歴史れきし[編集へんしゅう]

マダバ周辺しゅうへんにはしん石器せっき時代じだい以来いらいじんつづけた。マダバのまち青銅器せいどうき時代じだい中期ちゅうきさかのぼり、かつてはモアブさかいにあるまちで、旧約きゅうやく聖書せいしょみんすう21しょう30せつおよびヨシュア13しょう9せつでは「メデバ」の登場とうじょうする。

ナバテア王国おうこく支配しはいにあったマダバは106ねんマ帝国まていこく支配しはいされアラビアぞくしゅう編入へんにゅうされ、7世紀せいきまでひがしマ帝国まていこくにより統治とうちされた。そのイスラム帝国ていこくおよびウマイヤあさ統治とうちするパレスチナの一部いちぶとなった。

マダバのキリスト教徒きりすときょうと共同きょうどうたい司教しきょうかんする最古さいこ言及げんきゅうは、451ねんカルケドンこう会議かいぎ記録きろくなかにみられる。この地方ちほうしゅボストラ大司教だいしきょうのコンスタンティンは、「メダベニ」(Medabeni)司教しきょうガイアノにわり署名しょめいおこなっているが、このメダベニが現在げんざいのマダバにあたる。

746ねんだい地震じしん破壊はかいされその再建さいけんされず廃墟はいきょとなったが、1880ねん2人ふたりのイタリアじん司祭しさいひきいられた90家族かぞくのアラブじんキリスト教徒きりすときょうとカラクからこのうつみ、以後いご現代げんだいのマダバのまち古代こだいまちあときずかれていった。また廃墟はいきょなかからモザイクなどが発見はっけんされ、とぼしい文献ぶんけん資料しりょうおぎな考古学こうこがくてき発見はっけんつづいた。1897ねん時点じてんで10カ所かしょ教会きょうかいあとがあったが、現在げんざいでは拡大かくだいした市街地しがいちなかまれてしまっている。

遺物いぶつ発見はっけん[編集へんしゅう]

マダバの考古学こうこがく公園こうえんのヒッポリュトス・ホール
正教会せいきょうかいせいゲオルギウス聖堂せいどう地図ちず教会きょうかい)からつかったモザイク地図ちず一部いちぶきよしエルサレムの部分ぶぶん

モザイクは最初さいしょ偶然ぐうぜん発見はっけんされた。19世紀せいきまつあらたにマダバに移住いじゅうした人々ひとびといえつくろうとして古代こだい廃墟はいきょから切石きりいしはこしていたさいに、ゆかかざっていたモザイクが出現しゅつげんした。マダバのしん住民じゅうみんたちは、司祭しさいらからモザイクの重要じゅうようせいおしえられ、以後いごつかったモザイクはすべ丁寧ていねい保存ほぞんされた。

1896ねん、モザイクでできた古代こだいエジプト・パレスチナの地図ちず、いわゆる「マダバ地図ちず」が発見はっけんされ、1ねんにその成果せいか出版しゅっぱんされた。この発見はっけん古代こだい世界せかい地理ちりかんする貴重きちょう資料しりょうとして各国かっこく学者がくしゃ関心かんしんあつめ、モザイクの保存ほぞん発見はっけん情熱じょうねつそそいだジュゼッペ・マンフレディ(Giuseppe Manfredi)の熱意ねついいだ住民じゅうみんにもほこりをあたえた。マダバはヨルダンにおける「モザイクの」となっており、モザイクは観光かんこう目玉めだまにもなっている。

北側きたがわ古代こだいのモザイクが集中しゅうちゅうする地域ちいきである。ひがしマ帝国まていこくおよびウマイヤあさ時期じき現在げんざい市街地しがいちきた半分はんぶんにはローマ街道かいどうにつながるれつばしら道路どうろ直交ちょっこうし、「地図ちず教会きょうかい」、ヒッポリュトスの邸宅ていたく聖母せいぼマリア教会きょうかい預言よげんしゃエリヤ教会きょうかい地下ちか聖堂せいどうせい殉教者じゅんきょうしゃ教会きょうかい(アル=ハディル Al-Khadir)、「けた宮殿きゅうでん」などがっていた。

マダバのモザイク地図ちず6世紀せいきのパレスチナ・エジプト地方ちほう様々さまざま地名ちめい記載きさいした地図ちずで、正教会せいきょうかいきよしゲオルギウスバシリカゆかかざっていた。2ひゃくまんいしのかけらでできたモザイクは、パレスチナのおかたにまちむらあらわしている。またひがしローマ時代じだいエルサレム表現ひょうげんした現存げんそんする最古さいこ地図ちずでもある。まちよこに「せいなるまち」とかれ、6世紀せいき当時とうじのエルサレムのランドマーク、たとえばれつばしらならてんつらなる南北なんぼく大通おおどおり(カルド・マクシムス)や、せい墳墓ふんぼ教会きょうかいなどがはっきりとえがかれている。この地図ちずは、70ねんエルサレム攻囲こういせん一旦いったん破壊はかいされたのち135ねんわったバル・コクバのらんのち再建さいけんされたエルサレムの姿すがたについての研究けんきゅうすすめる重要じゅうよう資料しりょうとなった。

そののモザイクの名品めいひん聖母せいぼ教会きょうかい使徒しと教会きょうかい考古学こうこがく博物館はくぶつかんなどにあり、はな植物しょくぶつとりさかな動物どうぶつやそのめずらしいししゆたかな描写びょうしゃ神話しんわ風景ふうけいり・り・農耕のうこうなどの日常にちじょういとなみなどがえがされている。さらに5世紀せいきから7世紀せいきにかけてのモザイクがマダバの町中まちなかから発見はっけんされ保存ほぞんされている。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

市民しみん半分はんぶん以上いじょうムスリムだが、ヨルダンにキリスト教徒きりすときょうとおおくがマダバにみ、市民しみんの35%から40%はキリスト教徒きりすときょうとである。市内しないにはおおくの教会きょうかいがある。

開発かいはつ[編集へんしゅう]

マダバは新設しんせつ大学だいがく予定よていえらばれ、きゅう市街しがいからとおくない場所ばしょあたらしい住宅じゅうたくぐん建設けんせつすすんでいる。またクウェートの会社かいしゃがマダバにあたらしくつくられるオフィスビルに出資しゅっししている。

ギャラリー[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  1. ^ Madaba Greater Municipality Archived 2009ねん6がつ5にち, at the Wayback Machine.

座標ざひょう: 北緯ほくい3143ふん 東経とうけい3548ふん / 北緯ほくい31.717 東経とうけい35.800 / 31.717; 35.800