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モンゴル国と大韓民国の関係 - Wikipedia コンテンツにスキップ

モンゴルこく大韓民国だいかんみんこく関係かんけい

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大韓民国だいかんみんこくとモンゴル関係かんけい
South KoreaとMongoliaの位置を示した地図

韓国かんこく

モンゴル

モンゴルこく大韓民国だいかんみんこく関係かんけいモンゴル: Монгол, Өмнөд Солонгосын харилцаа朝鮮ちょうせん: 대한민국-몽골 관계英語えいご: Mongolia–South Korea relations)では、大韓民国だいかんみんこくモンゴルこく以下いかでは歴史れきしてき推移すいいべるためモンゴルと表記ひょうきする)のこくあいだ関係かんけいについてべる。

歴史れきしてき背景はいけい[編集へんしゅう]

みなみモンゴル出身しゅっしん楊海えいによると、一般いっぱんモンゴルじんは「朝鮮ちょうせんモンゴル帝国ていこく属国ぞっこく」「モンゴルの血統けっとう権威けんい確立かくりつしていたくに」であり、朝鮮ちょうせん清朝せいちょうにも戦争せんそう惨敗ざんぱいして臣下しんかれいをとり、ベトナムタイ王国おうこくなどのほかの朝貢ちょうこうこく比較ひかくすると、有史ゆうし以来いらいだい中国ちゅうごく王朝おうちょう属国ぞっこくであった実態じったいともなっていると認識にんしきしている[1]

元朝がんちょう時代じだいには、朝鮮ちょうせん代々だいだいだいのモンゴルの帝室ていしつからむすめめとって高麗こうらいおう皇后こうごうとするなどながくモンゴルの帝室ていしつ婿むこ殿どの立場たちばであり、元朝がんちょう朝鮮ちょうせんおうあらたに朝鮮ちょうせんおうになると、モンゴルからつま降嫁こうかさせ朝鮮ちょうせんをコントロールした[1]朝鮮ちょうせんはモンゴルの歓心かんしんることに必死ひっしで、もとこううららちゅうれつおうが、義父ぎふまえ手柄てがらてたかったので、侵略しんりゃくすすめた。また、みつぎおんなとして、朝鮮ちょうせんむすめたちはモンゴルの帝室ていしつされ、宮廷きゅうていはいって皇后こうごう王族おうぞくのそばではたらきながらモンゴルの支配しはいそう結婚けっこんすることを願望がんぼうしていたが、それはモンゴルの帝室ていしつはいって朝鮮ちょうせん身内みうちおくって発言はつげんりょく確保かくほしようとする朝鮮ちょうせんなりののこるためのじゅつであり、モンゴルは朝鮮ちょうせん魂胆こんたん見抜みぬいていた。そのため、モンゴル王族おうぞく高麗こうらいみつぎおんな結婚けっこんしてはいけないというめがあり、モンゴルのハーン一族いちぞくは、つうこんするモンゴルの部族ぶぞくからきさきえらんだが、トゴン・テムルみつぎおんなきさきとした結果けっかみつぎおんなはモンゴルのめを無視むしして後宮こうきゅう権力けんりょくりかざしたので、モンゴル帝室ていしつたいする人心じんしん離反りはんまねき、反乱はんらんひろがり元朝がんちょうほろんだとモンゴルじんしんじており、モンゴルの年代ねんだいには、元朝がんちょうほろんだのはみつぎおんなめとったからだと記録きろくされている[1]

ぜん近代きんだい朝鮮ちょうせんじんのモンゴル認識にんしき[編集へんしゅう]

A

きみてん也、父母ちちはは也、ほういんゆうだい戚如此、而不於天與てんよ父母ちちはは、而又於何しょ訴之耶、ふくもち皇帝こうてい陛下へいか、推天父母ちちはは慈、りょうしょうくに靡他、敕令大軍たいぐんかいながえかえし旆、えいまもる小國しょうこくのりしんさら努力どりょく竭誠、とし輸土ぶつようひょう悃、えきしゅく皇帝こうていせんまんさいことぶきしんこころざし也。ふくおもんみ陛下へいかしょう憐焉。

君主くんしゅてんであり、父母ちちははであります。……して皇帝こうてい陛下へいかにおねがもうげたいのは、天地てんち父母ちちははいつくしみをもってしょうくに二心ふたごころがないことをご理解りかいくださり、軍隊ぐんたいかえして末永すえなが小国しょうこく保護ほごしてくださいますならば、わたしどもはさらに努力どりょくしてまことくし、毎年まいとし土産物みやげものをおおくりして赤誠せきせいしんをあらわし、ますます皇帝こうていのおいのち永遠えいえんつづくことをしゅくします、これがわたしどものこころざしでございます[2] — だかうららまきだいじゅうさんこうむねじゅうきゅういちさんいちねんふゆじゅうがつ

B

國書こくしょ曰:我國わがくに臣事しんじこうむ大國たいこく、稟正さくゆうねん矣、皇帝こうてい仁明にんみょう、以天ため一家いっかどお如邇、日月じつげつしょあきら、咸仰其德。こんよくどおりこう於貴こく而詔寡人うん日本にっぽんあずか高麗こうらいためとなり典章てんしょう政治せいじゆうあしよしみしゃかんから而下屢通中國ちゅうごくとくしょ以往いおう、勿以ふう濤阻けわしため。其旨げんきり、玆不やめぼうかんぼうたてまつ皇帝こうていしょまえ貴國きこくつうこう中國ちゅうごく無代むだいこれきょうこん皇帝こうていほっどおりこう貴國きこくしゃ貢獻こうけん、盖欲以無がい名高なだか於天みみわかとく貴國きこくつうこのみ、必厚まち。其遣一介之士以往觀之、なに如也、貴國きこくしょうしゃく焉。

わがくにこうむ大国たいこく臣事しんじすることがもうなんねんにもわたっています。皇帝こうてい仁徳じんとくあきらかであり、天下てんか一家いっかとみなして遠近えんきんをつけることもなく、日月じつげつらすところはみんなそのとくあおいでいます[2] — だかうららだいじゅうろく元宗もとむねはちいちろくろくねんはちがつ

C

下降かこう以公ぬしなで聖恩せいおんしょう邦之くにゆきみんほうゆう聊生もちしかちゃおかざい焉、しん爲國ためくにまたなん哉。如茶おかしゃただよろし理會りかい軍事ぐんじいたり國家こっかことみなよく擅斷せんだん、其置たち魯花あか於南かたまたしんしょ知也ともやうえこく必欲おけぐん於小くにやすし以韃靼漢ぐん無論むろんおおしょう而遣、如茶おかぐんおもんみもち召還しょうかん

陛下へいか皇女おうじょくだされ、聖恩せいおんによって撫育ぶいくしてくださることによって、(わたしども)しょうくにみんはまさに安心あんしんしてきるのぞみがあります。……うえこくがどうしても軍隊ぐんたいしょうくに設置せっちしたいとおのぞみならば、むしろ韃靼だったん漢人かんど若者わかもの軍隊ぐんたい多少たしょうわず派遣はけんされていただくことをねがっています[2] — だかうららだいじゅうはちただしれつおういちななななよんねんろくがつ

D

へい邑本海外かいがいしょうくに也、歷世れきせい以來いらい、必行事大じだいれいしかこうのう保有ほゆう國家こっかふるころ臣事しんじ于大きん。及金こくかなえいつしかこう朝貢ちょうこうれいはじめはい矣。えつへいとしちぎり大擧たいきょへいたけなわいれわがさかい橫行おうこう肆暴。いたりおのれわが大國たいこくそちかわたたえ、扎臘りょうへいらいすくえ一掃いっそう其類。小國しょうこく以蒙たまもの貲、こうとうはいれいとげこうてんめいつげ、以まんせい和好かずよしためやくいん請歲進貢しんこうしょ便びん

へい邑はもともと海外かいがいしょうくにであります。歴史れきしはじまって以来いらいかなら事大じだいれいおこない、そうして国家こっかたもってきました。それゆえ、近頃ちかごろかつて大金たいきん臣事しんじしていましたが、かねこく敗亡はいぼうするにおよんではじめて朝貢ちょうこうれいりやめました。(しかし)へいとしいちいちろく)をぎると、ちぎり大挙たいきょ派兵はへいしてわが境域きょういきない乱入らんにゅうして勝手かって暴行ぼうこうしました。おのれいちいちきゅう)になると、わが大国たいこくもと)がぐんそちかわしょうと扎臘を派遣はけんしてりょうへいたすけにてくださり、やつらを一掃いっそうしてくださいました。小国しょうこくにとってそのだいおんはつぐなえないほどであります[2] — だかうららだいじゅうさんこうむねじゅうきゅういちさんいちねんふゆじゅういちがつ

E

おっとぬしこく山川やまかわひと而行しゃかみ道也みちやのりしょぐうくにところこれにんのうあい矜而終始しゅうし保護ほご耶、本朝ほんちょうむかしさんかんかなえ峙爭疆、まんせい塗炭とたんわがりゅうおう而作、俯循人望じんぼうきょ義一ぎいち唱、四方しほうひびき臻、自然しぜん歸順きじゅんしかとう草昧そうまいあいだあるゆう不軌ふき、嘯聚蜂起ほうき、而以じゃく劒、掃淸さんごうため一家いっかしかひじりきよししょうつぎ代代だいだい相承そうしょう、以至于今矣。さんひゃくあまりこれあいだ時數じすう使しかわざわいへん屢興、そくのう戡定かんていしゃぜんわがしょかみ僉力せん扶、保安ほあん社稷しゃしょくこれしょ致也。えつからしとし以來いらい不幸ふこうためこうむひとしょ寇、國家こっかみだれ不可ふか殫言。

本朝ほんちょうさんかんむかしから、さんぽうかって境界きょうかいあらそい、あらゆる一族いちぞく塗炭とたんくるしみをあじわい、わがおうでさえもときにはあじわい、して人民じんみんのぞみにしたがって義兵ぎへいこそうととなえると、四方しほうこえおうじてあつまり、自然しぜん帰順きじゅんしました。しかし、混乱こんらんしたときにもし謀反むほんがいれば、号令ごうれいによってひとあつめて蜂起ほうきし、けんによってさん掃討そうとうし、わせて一家いっかにしてきました[2] — だかうららだいじゅうよんこうむねよんじゅういちいちさんねんふゆじゅうがつ

モンゴル皇帝こうてい公式こうしき文書ぶんしょけい」(A)では、モンゴル皇帝こうていたいして「てん」や「父母ちちはは」と同様どうよう絶対ぜったいてき服従ふくじゅう表明ひょうめいしており、朝鮮ちょうせんから日本にっぽんへの国書こくしょBおよちゅうれつおうのモンゴル皇帝こうていへの奏上そうじょうぶんC)では、モンゴルを「大国たいこく」「うえこく」、それにたいして自国じこくを「しょうくに」と表現ひょうげんしており、モンゴル皇帝こうてい陳情ちんじょうした書面しょめんD)では、高麗こうらいは「海外かいがいしょうくに」であり、大国たいこくたいしてつねに「事大じだいれい」をおこなって臣事しんじし、「朝貢ちょうこうれい」をおこなってきたことをみとめ、宗廟そうびょうへのいのり告文こくぶんE)では、いにしえさんかん時代じだいから、さんぽうかって境界きょうかいあらそい、あらゆる一族いちぞく塗炭とたんくるしみをあじわい、おうでさえも塗炭とたんくるしみをあじわってきたことが力説りきせつされている[2]

もりたいら雅彦まさひこは、「高麗こうらいがモンゴルにおくったけいでは、モンゴルかんじんたいしてみことかん貴人きじんたいする尊敬そんけいである『閣下かっか』をもちい、モンゴルかんじんがわ指示しじ命令めいれいについてもみことかん貴人きじんのおおせを意味いみする『ひとしむね』をもちいる一方いっぽう自国じこくのことは『小国しょうこく』『しょうくに』『へい邑』と卑称ひしょうしている。したがって、基本きほんてきには相手あいてうえにたてた形式けいしきかれたものとみて大過たいかなかろう」とべており[3]こうむ(モンゴル)を「てん」「父母ちちはは」「大国たいこく」「うえこく」と表現ひょうげんし、自国じこく高麗こうらい)を「へい邑」「しょうくに」と表現ひょうげんしているのは、高麗こうらいのそれまでのたい中国ちゅうごく認識にんしきをそのままモンゴルにてはめ、モンゴルを中国ちゅうごく皇帝こうてい=「てん」に代置だいちするものとして認識にんしきしていることをしめ[4]

国民こくみん感情かんじょう[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務省こくむしょうは2010ねんはる以降いこう、モンゴルで「外国がいこくせき人間にんげんたいする排外はいがい主義しゅぎてき襲撃しゅうげき事件じけん増加ぞうかしている」「こうした国粋こくすい主義しゅぎ団体だんたいは、アジアけいアメリカじん中国人ちゅうごくじん韓国かんこくじんだと誤解ごかいし、突然とつぜん襲撃しゅうげきすることがおおい」との渡航とこう情報じょうほうしており[5]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務省こくむしょうのウェブサイトは「nationalist groups frequently mistake Asian-Americans for ethnic Chinese or Koreans and may attack without warning or provocation. Asian-Americans should exercise caution walking the streets of Ulaanbaatar at all times.(モンゴルの民族みんぞく主義しゅぎしゃがアジアけいアメリカじん中国人ちゅうごくじん韓国かんこくじん間違まちがえ、警告けいこく挑発ちょうはつなしに頻繁ひんぱん攻撃こうげきしているので、ウランバートルまちちゅうあるくアジアけいアメリカじんつね注意ちゅういすべきである)」と注意ちゅういけている[6]

経済けいざい関係かんけい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c SPA! 2014
  2. ^ a b c d e f 井上いのうえあつし朝鮮ちょうせん日本にっぽん自他じた認識にんしき : 13〜14世紀せいきの「こうむいにしえかん自己じこ認識にんしき変容へんよう」『北東ほくとうアジア研究けんきゅう別冊べっさつ3、島根しまね県立けんりつ大学北だいがくきたひがしアジア地域ちいき研究けんきゅうセンター、2017ねん9がつ、35ぺーじISSN 1346-3810 
  3. ^ もりたいら雅彦まさひこ『モンゴル覇権はけん高麗こうらい帝国ていこく秩序ちつじょ王国おうこく対応たいおう名古屋大学出版会なごやだいがくしゅっぱんかい、2013ねん11月30にち、213ぺーじISBN 978-4815807535 
  4. ^ 井上いのうえあつし朝鮮ちょうせん日本にっぽん自他じた認識にんしき : 13〜14世紀せいきの「こうむいにしえかん自己じこ認識にんしき変容へんよう」『北東ほくとうアジア研究けんきゅう別冊べっさつ3、島根しまね県立けんりつ大学北だいがくきたひがしアジア地域ちいき研究けんきゅうセンター、2017ねん9がつ、36ぺーじISSN 1346-3810 
  5. ^ 極右きょくうするモンゴルのはんちゅう感情かんじょうつよまる警戒けいかいかん. AFP. (2010ねん9がつ1にち). オリジナルの2021ねん2がつ19にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210219043038/https://www.afpbb.com/articles/-/2752486 
  6. ^ 宮家みやけ邦彦くにひこ (2011ねん3がつ18にち). 中国ちゅうごくとモンゴル:中国ちゅうごく毛嫌けぎらいするモンゴルじん DNAに記録きろくされた蛮行ばんこう歴史れきし中国ちゅうごく株式会社かぶしきがいしゃ研究けんきゅう(102)”. JBpress (日本にっぽんビジネスプレス). オリジナルの2011ねん3がつ21にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110321105305/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5667 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]