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エルマン・モーリス・ド・サックス (Hermann Maurice de Saxe , 1696年 ねん 10月28日 にち - 1750年 ねん 11月30日 にち )は、フランス王国 おうこく の軍人 ぐんじん 。ラ・ルート伯爵 はくしゃく (comte de la Raute )およびサックス伯爵 はくしゃく (comte de Saxe )。ド・サックス元帥 げんすい (Maréchal de Saxe )の通称 つうしょう でも知 し られる。ヴェッティン家 か の出身 しゅっしん で、ドイツ読 よ みではヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン (Hermann Moritz Graf von Sachsen )。ザクセン選 せん 帝 みかど 侯 こう 兼 けん ポーランド 王 おう アウグスト2世 せい の庶子 しょし で、アウグスト3世 せい は異母 いぼ 兄 けい にあたる。年少 ねんしょう の頃 ころ から軍務 ぐんむ に就 つ き、後 のち にフランス王国 おうこく 軍人 ぐんじん の最高 さいこう 名誉 めいよ 、フランス大元帥 だいげんすい に上 のぼ り詰 つ めた。軍隊 ぐんたい の編制 へんせい 、戦術 せんじゅつ 、リーダーシップ 、士気 しき について著作 ちょさく があり、深 ふか い洞察 どうさつ を残 のこ している。
ザクセン選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ・アウグスト1世 せい とマリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルク の間 あいだ の庶子 しょし として、1696年 ねん 10月 がつ 28日 にち にゴスラー (現 げん ドイツニーダーザクセン州 しゅう ゴスラー郡 ぐん )で生 う まれる[ 1] 。父 ちち が翌年 よくねん にアウグスト2世 せい としてポーランド王 おう に即位 そくい すると、母 はは によって1698年 ねん にワルシャワ にいる父 ちち のもとに送 おく られたが、ポーランドが不安定 ふあんてい だったため、モーリスは幼少 ようしょう 期 き からポーランド国外 こくがい で過 す ごした[ 1] 。父 ちち と引 ひ き離 はな されて育 そだ てられたことは後 のち にモーリスに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた[ 1] 。
12歳 さい でオイゲン・フォン・ザヴォイエン の軍 ぐん に入隊 にゅうたい してスペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう に参加 さんか 、翌年 よくねん のトゥルネー 包囲 ほうい 戦 せん 、モンス 包囲 ほうい 戦 せん 、マルプラケの戦 たたか い に参戦 さんせん して軍功 ぐんこう を挙 あ げた[ 1] 。1709年 ねん の戦役 せんえき が終 お わると、モーリスをブリュッセル のイエズス会 かい 学校 がっこう に入学 にゅうがく させる提案 ていあん がなされたが、母 はは が反対 はんたい したため入学 にゅうがく せず、1710年 ねん 初 はつ には再 ふたた び同盟 どうめい 軍 ぐん で勇猛 ゆうもう に戦 たたか ったが、オイゲンからは軽率 けいそつ と勇敢 ゆうかん をしっかり分別 ふんべつ するように宥 なだ められた[ 1] 。その後 ご は大 だい 北方 ほっぽう 戦争 せんそう 中 なか のピョートル1世 せい の軍勢 ぐんぜい に入隊 にゅうたい してスウェーデン と戦 たたか った[ 1] 。1711年 ねん に父 ちち から正式 せいしき に認知 にんち され、伯爵 はくしゃく に叙 じょ されると、父 ちち とともにポメラニア に向 む かい、1712年 ねん のシュトラールズント攻囲 こうい 戦 せん に参戦 さんせん した[ 1] 。1714年 ねん 、裕福 ゆうふく な貴族 きぞく の娘 むすめ ヨハンナ・フィクトリア・フォン・レーベン(Johanna Victoria von Löben )と結婚 けっこん したが、散財 さんざい が速 はや すぎてすぐに借金 しゃっきん まみれになり、結局 けっきょく 1721年 ねん に結婚 けっこん の無効 むこう に同意 どうい した[ 1] 。1717年 ねん に対 たい トルコ戦争 せんそう に参戦 さんせん した後 のち 、1719年 ねん にパリ へ行 い って数学 すうがく を学 まな び、1720年 ねん にマレシャル・ド・カン (英語 えいご 版 ばん ) (陸軍 りくぐん 少将 しょうしょう )の辞令 じれい を受 う けた[ 1] 。
1725年 ねん 、クールラント公 こう 選出 せんしゅつ に向 む けた交渉 こうしょう が開始 かいし され、公爵 こうしゃく 未亡人 みぼうじん のアンナ・イヴァノヴナ との結婚 けっこん を前提 ぜんてい に交渉 こうしょう がまとまり、1726年 ねん に正式 せいしき に選出 せんしゅつ された[ 1] 。モーリスがアンナとの結婚 けっこん を拒否 きょひ したためアンナはモーリスの選出 せんしゅつ に反対 はんたい することとなったが、モーリスはフランスの女優 じょゆう アドリエンヌ・ルクヴルール から借 か りた3万 まん ポンドで軍 ぐん を編成 へんせい 、1727年 ねん までクールラントに陣取 じんど った[ 2] 。その後 ご は撤退 てったい してパリに戻 もど った[ 1] 。1734年 ねん にポーランド継承 けいしょう 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ すると、ベリック元帥 げんすい の下 した で従軍 じゅうぐん 、フィリップスブルク包囲 ほうい 戦 せん での軍功 ぐんこう により1734年 ねん 8月 がつ に中将 ちゅうじょう に昇進 しょうしん した[ 1] 。
1741年 ねん にオーストリア継承 けいしょう 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ すると、モーリスはフランスのオーストリア侵攻 しんこう 軍 ぐん の一部 いちぶ を率 ひき いて、11月19日 にち の夜 よる にプラハ を奇襲 きしゅう して、駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん が気付 きづ く前 まえ にプラハの占領 せんりょう に成功 せいこう した[ 1] 。この奇襲 きしゅう によりモーリスの名声 めいせい はヨーロッパ中 ちゅう に広 ひろ がった[ 1] 。1742年 ねん 4月 がつ 19日 にち にエゲル 要塞 ようさい を占領 せんりょう すると、休暇 きゅうか をもらってロシア帝国 ていこく に向 む かい、クールラント公国 こうこく への請求 せいきゅう を再 ふたた び主張 しゅちょう したが失敗 しっぱい に終 お わり、結局 けっきょく フランス軍 ぐん の指揮 しき に戻 もど った[ 1] 。1743年 ねん 3月 がつ 26日 にち 、フランス元帥 げんすい に叙 じょ された[ 1] 。1744年 ねん 、チャールズ・エドワード・ステュアート をイギリス王位 おうい に戻 もど すためのイギリス本土 ほんど 侵攻 しんこう 軍 ぐん を率 ひき いる予定 よてい だったが、ダンケルク に集結 しゅうけつ した軍勢 ぐんぜい はその後 ご 出発 しゅっぱつ できなかった[ 1] 。続 つづ いてネーデルラント に転戦 てんせん 、トゥルネーを包囲 ほうい した後 のち 、救援 きゅうえん にやってきたカンバーランド公 こう ウィリアム・オーガスタス をフォントノワの戦 たたか い で撃破 げきは した。この功績 こうせき により、フランス王 おう ルイ15世 せい はモーリスの一 いち 代 だい 限 かぎ りでシャンボール城 じょう を与 あた え、1746年 ねん 4月 がつ にはフランスに帰化 きか させた。ネーデルラントの戦役 せんえき は続 つづ き、モーリスは1746年 ねん のロクールの戦 たたか い と1747年 ねん のラウフフェルトの戦 たたか い にも勝利 しょうり した。さらにレーヴェンタール伯爵 はくしゃく (英語 えいご 版 ばん ) に命 めい じてベルヘン・オプ・ゾームを陥落 かんらく させた 。モーリスの最後 さいご の戦闘 せんとう は1748年 ねん のマーストリヒト包囲 ほうい 戦 せん であり、やはり勝利 しょうり に終 お わった。1747年 ねん 、フランス大元帥 だいげんすい に叙 じょ されたが、1750年 ねん 11月30日 にち にシャンボール で病死 びょうし した。
1748年 ねん に庶出 しょしゅつ の娘 むすめ マリー=オーロル・ド・サックス (英語 えいご 版 ばん ) をもうけ、その孫 まご がジョルジュ・サンド である。
モーリス・ド・サックスの著書 ちょしょ 『我 わ が瞑想 めいそう 』は死後 しご の1757年 ねん に出版 しゅっぱん され[ 1] 、戦争 せんそう 、士気 しき 、戦術 せんじゅつ について実践 じっせん 的 てき な記述 きじゅつ が記 しる されている。まず同書 どうしょ においては戦争 せんそう はあらゆる法則 ほうそく に支配 しはい されない予測 よそく 不可能 ふかのう 性 せい に満 み ちたものであると述 の べられている。また戦闘 せんとう においても士気 しき が大 おお きく戦況 せんきょう を左右 さゆう するために偶然 ぐうぜん 性 せい が大 おお きく関 かか わるとも述 の べている。それ以外 いがい にも、部隊 ぶたい 編制 へんせい は寡兵 かへい 、傭兵 ようへい を集 あつ めて編制 へんせい することが多 おお いが、法律 ほうりつ で兵役 へいえき 義務 ぎむ を定 さだ めることが望 のぞ ましい。軍規 ぐんき は部隊 ぶたい 編制 へんせい が完了 かんりょう した直後 ちょくご に必要 ひつよう であり、厳正 げんせい に守 まも られなければならない。
また軍服 ぐんぷく や帽子 ぼうし 、ゲートル は実戦 じっせん に不向 ふむ きである。訓練 くんれん は兵士 へいし に戦闘 せんとう 準備 じゅんび をさせて錬 ね 度 たび を挙 あ げるために必要 ひつよう であり、その基礎 きそ は脚力 きゃくりょく にある。ドラム があれば行軍 こうぐん が整然 せいぜん と統制 とうせい することができる。正確 せいかく で迅速 じんそく な前進 ぜんしん は敵 てき の士気 しき を阻害 そがい する。戦闘 せんとう が長引 ながび くと火力 かりょく 攻撃 こうげき は有効 ゆうこう ではなく、予 よ は一 いち 回 かい の一斉 いっせい 射撃 しゃげき と白兵戦 はくへいせん を併用 へいよう することとした、などの実戦 じっせん を想定 そうてい した記述 きじゅつ が記 しる されている。
ただし、『我 わ が瞑想 めいそう 』はトーマス・カーライル からは「軍事 ぐんじ に関 かん するおかしい寄 よ せ集 あつ めであり、アヘン の影響 えいきょう 下 か で書 か かれたと思 おも われる」と酷評 こくひょう された[ 1] 。
また、1794年 ねん にLettres et mémoires choisis (手紙 てがみ と回想 かいそう 録 ろく の選集 せんしゅう )が出版 しゅっぱん されたが、ストラスブール で保存 ほぞん された手紙 てがみ は普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう 中 なか のストラスブール包囲 ほうい 戦 せん (1870年 ねん )で砲撃 ほうげき により焼失 しょうしつ した[ 1] 。
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