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うえ穎人

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うえ 穎人
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天平てんぺい神護かんご2ねん766ねん
死没しぼつ ひろしひとし12ねん8がつ18にち821ねん9月17にち
官位かんい したがえよんじょう東宮とうぐう学士がくし
主君しゅくん 桓武かんむ天皇てんのう平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう
氏族しぞく うえこううえ朝臣あそん
父母ちちはは ちちうえ大川おおかわ
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うえ 穎人(かみつけの の かいひと/ひでひと)は、平安へいあん時代じだい初期しょき貴族きぞく漢詩かんしじんせいおおやけのち朝臣あそん主計しゅけいあたまうえ大川おおかわ官位かんいしたがえよんじょう東宮とうぐう学士がくし

経歴けいれき

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文章ぶんしょうせいせられて簡単かんたん歴史れきしまなんだのち[1]のべれき20ねん12月(802ねん)にみぎしょうにんじられ。のべれき23ねん804ねん)7がつ遣唐使けんとうしろくごととしてくわわってわたりとうとうにおいて通訳つうやくかた言葉ことばつうじないさいには、筆談ひつだんによって唐人とうじん意思いし疎通そつうしたという[1]よくのべれき24ねん805ねん)6がつ帰朝きちょうした(このとき官位かんいせいろくじょうくだりひだりしょうけん常陸ひたちしょう)。

のべれき25ねん806ねん)4がつみぎだいのぼると、7がつだい内記ないき、8がつひだりだいよく大同だいどう2ねん807ねん)6がつだいそと文筆ぶんぴつてのひら官職かんしょく歴任れきにんし、大同だいどう4ねん809ねん)にはわたりとう功労こうろうによりそとしたがえ昇叙しょうじょされた。

大同だいどう4ねん12月(810ねん1がつまたは2がつ)に平城ひらじろ上皇じょうこう旧都きゅうとである平城京へいじょうきょううつると、そときょく二分にぶんされてそのかんじんがそれぞれ平安京へいあんきょう平城京へいじょうきょう出仕しゅっしすることになったさい、穎人はだいそととして平城京へいじょうきょう出仕しゅっしした。ひろしひとし元年がんねん810ねん)にはいるとおおやけせいから朝臣あそんせい改姓かいせいする[2]同年どうねん9がつ発生はっせいしたくすりへんでは、平城ひらじろ上皇じょうこう挙兵きょへいのために東国とうごくかおうとしたさいに、陪従ばいじゅうたちはあわてふためきどうすべきかわからず混乱こんらんしたが、穎人は平城京へいじょうきょう脱出だっしゅつして平安京へいあんきょうかい、嵯峨天皇さがてんのう平城ひらじろ上皇じょうこう動静どうせい上奏じょうそうする。この功労こうろうによりうちしたがえじょうじょせられた[3]。そのひろじん2ねん811ねん)にしゃ1人ひとり[4]よくひろしじん3ねん812ねん)2がつには山城やましろこく乙訓おとくにぐん土地とち1まちたまものあずかされている[5]。またこのあいだひろじん6ねん上表じょうひょうされた『新撰しんせん姓氏せいしろく』の編纂へんさん事業じぎょうにも参加さんかした[6]

ひろじん8ねん817ねん)に皇太子こうたいし大伴おおとも親王しんのう(のち淳和天皇じゅんなてんのう)の東宮とうぐう学士がくしてんじ、のちみん大輔だいすけ歴任れきにんした。このあいだひろじん10ねん819ねんせいひろじん11ねん820ねんしたがえよん嵯峨さがちょう後半こうはんにかけて急速きゅうそく昇進しょうしんし、したがえよんじょうにまでいたった。晩年ばんねんさけふけ日々ひびごしたという[1]

ひろじん12ねん821ねん)8がつ18にち卒去そっきょ享年きょうねん56。最終さいしゅう官位かんい東宮とうぐう学士がくししたがえよんじょう

人物じんぶつ

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穎人のぞくするうえうえこうきみ))は本来ほんらい帰化きかけい氏族しぞく田辺たなべせいふみ)で、うえ氏名しめい(うじな)は古代こだい豪族ごうぞくすめらぎべつ氏族しぞくであるうえおかせしょうしたものとかんがえられる。田辺たなべ帰化きかけい氏族しぞくとして大化たいか改新かいしん以後いご外交がいこうといった学問がくもんてき素養そようようする分野ぶんや活躍かつやくする氏族しぞくであったため、穎人もその出自しゅつじわれてからろくごとや『姓氏せいしろく編纂へんさんめいじられたと想定そうていされる。

また『しのげ雲集うんしゅう』をはじめとする漢詩かんししゅう作品さくひん採録さいろくされているように、当代とうだい漢詩かんしじんとしてもられていた[7]。なお、『しのげ雲集うんしゅう』におけるは「春日しゅんじつでんちょく疏」とだいされ、「于禄おわりけん」や「空手からてかつえかたいたり」「如此なん處遇しょぐうはるおん」といった詩句しくえることから、これをくすりへん以前いぜん官途かんとじょう不遇ふぐうかこであったとることもでき、そうした境遇きょうぐうへんさいしてかれ嵯峨天皇さがてんのうもとはしらせた可能かのうせいがある[7]

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 日本にっぽんひろしじん12ねん8がつ18にちじょう
  2. ^ 新撰しんせん姓氏せいしろく左京さきょうすめらぎべつ
  3. ^ 日本にっぽんひろしじん元年がんねん9がつ11にちじょう
  4. ^ 日本にっぽんひろしじん2ねん3がつ14にちじょう
  5. ^ 日本にっぽんひろしじん3ねん2がつ22にちじょう
  6. ^ 姓氏せいしろく編纂へんさんみことのりくすりへんによる混乱こんらんおさまったひろしじん元年がんねん9がつ以降いこうくだされたものとおもわれる(佐伯さえき前掲ぜんけいしょだい1へんだい2しょう)。
  7. ^ a b 佐伯さえき新撰しんせん姓氏せいしろく研究けんきゅう研究けんきゅうへんだい1へんだい2しょう同書どうしょへんだい3しょう
  8. ^ a b c d そと補任ほにん
  9. ^ ただし「みぎしょう」は「ひだりしょう」の誤記ごきまたは誤伝ごでん可能かのうせいがある(佐伯さえき新撰しんせん姓氏せいしろく研究けんきゅう 研究けんきゅうへんだい1へんだい2しょうの註)
  10. ^ 新撰しんせん姓氏せいしろく左京さきょうすめらぎべつ
  11. ^ 公卿くぎょう補任ほにん』にたちばなこう因幡いなばかい就任しゅうにんえる。

参考さんこう文献ぶんけん

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