とおるひのとぎん

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とおるひのとぎん

とおるひのとぎん(きょうほうちょうぎん)とは、正徳まさのり4ねん8がつ2にち1714ねん9月10にち)から鋳造ちゅうぞう開始かいし通用つうようしたちょうぎん一種いっしゅ秤量ひょうりょう貨幣かへいである。正徳しょうとくひのとぎん(しょうとくちょうぎん)ともいうが、とおる年間ねんかんほう流通りゅうつう期間きかんながかったためとおるひのとぎんばれることがおお[1]とおるひのとぎん正徳しょうとくひのとぎん)およびとおる豆板銀まめいたぎん正徳しょうとく豆板銀まめいたぎん)を総称そうしょうしてとおるぎん(きょうほうぎん)あるいは正徳しょうとくぎん(しょうとくぎん)とぶ。

表面ひょうめんには「(大黒だいこくぞう)、つね」および「つねたから」の極印ごくいんたれ、慶長けいちょうひのとぎんどう形式けいしきであるが、大黒だいこくぞうがややななきの慶長けいちょうひのとぎんたいし、正徳まさのりとおるひのとぎん大黒だいこくぞう正面しょうめん[2][3]あおたからろう小川おがわひろし提唱ていしょうしたせつとして、大黒おおくろしるしふくめて極印ごくいん10めん以上いじょうのものを初期しょき鋳造ちゅうぞうとして正徳しょうとくひのとぎんび、9めん以下いかのものを次期じき鋳造ちゅうぞうとしてとおるひのとぎん場合ばあいもある[2]極印ごくいん10めん以上いじょう存在そんざいりつとおる正徳しょうとくひのとぎん全体ぜんたいの1%だいである[4]。また12めん大黒だいこくぞうったじゅうめん大黒だいこくひのとぎん上納じょうのうようあるいは祝儀しゅうぎようとされるが、この場合ばあい極印ごくいん打数だすうからのとおる正徳しょうとくとの区別くべつ困難こんなんである[5]

なお小判こばんについては正徳しょうとく小判こばんからとおる小判こばんへの変更へんこう若干じゃっかん品位ひんい向上こうじょうとなったが、ちょうぎんについても金貨きんかとのバランスの関係かんけいから初期しょきのころに品位ひんい若干じゃっかん向上こうじょうさせる変更へんこうおこなった可能かのうせい非破壊ひはかい分析ぶんせきにより示唆しさされる[4]

りゃく[編集へんしゅう]

新井あらい白石はくせきは、宝永ほうえい年間ねんかんあくぎん鋳造ちゅうぞうのとき、朝鮮ちょうせん貿易ぼうえきにて宝永ほうえいぎん受取うけとり拒否きょひされ良質りょうしつ人参にんじんだい往古おうこぎん鋳造ちゅうぞう余儀よぎなくされた経過けいか国辱こくじょくとしてめ、金銀きんぎん改悪かいあくにはきわめて批判ひはんてきであった[6]。また、元禄げんろく宝永ほうえい一連いちれん吹替ふきかえで銀座ぎんざけい125,495かんのぼ莫大ばくだいぶんいちぎん収入しゅうにゅうたと推定すいていされ[7]銀座ぎんざなどからの収賄しゅうわいにより勘定かんじょう奉行ぶぎょう荻原おぎわら重秀しげひで巨額きょがくとみたとされる[8]。これは正徳しょうとく4ねん銀座ぎんざ粛正しゅくせい銀座ぎんざ年寄としより深江ふかえしょう左衛門さえもん手記しゅき発見はっけんにより重秀しげひでかね26まんりょうわかり、従者じゅうしゃ長井ながいはんろくも6まんりょうていたことが根拠こんきょとされる[9]。このよんたからぎん鋳造ちゅうぞうまえに6だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家宣いえのぶよりえいぎんさんたからぎん無断むだん鋳造ちゅうぞうについて釈明しゃくめいもとめられたとき荻原おぎわら重秀しげひでひらなおりの態度たいど白石しらいし激怒げきどした[10]

正徳しょうとく2ねん9がつ10日とおか(1712ねん10がつ10日とおか)、新井あらい白石はくせき病床びょうしょうにあった徳川とくがわ家宣いえのぶたいし「荻原おぎわら罷免ひめんしなければ荻原おぎわらちがえをするつもりだ」とつよせまって、翌日よくじつ(1712ねん10がつ11にち)、荻原おぎわら重秀しげひで罷免ひめんみ、度重たびかさなる秤量ひょうりょう銀貨ぎんか吹替ふきかによる混乱こんらんおよび諸色しょしき高騰こうとう是正ぜせいしようと、慶長けいちょう幣制へいせい復帰ふっきするべく吹替ふきかえに着手ちゃくしゅした。しかし、この翌月よくげつ10がつ14にち(1712ねん11月12にち)、新井あらい白石はくせき懇願こんがんしていた徳川とくがわ家宣いえのぶ他界たかいし、さらにいくしゅ混在こんざい流通りゅうつうしているてい品位ひんいぎん回収かいしゅうしんぎんへの引替手続てつづきの策定さくてい容易よういなものではなかった[10]てい品位ひんいよんたからぎん流通りゅうつう大半たいはんめている状況じょうきょう復古ふっこてき改鋳かいちゅうおこなえば通貨つうかすうにわか半減はんげんし、新古しんこ金銀きんぎん引替ひきかえによりその家財かざいなかばをうしなうがごと結果けっかになること予想よそうされたからであった[11]白石しらいしはこのとき元禄げんろく宝永ほうえいきゅうぎん回収かいしゅうさいし、一時いちじてき便法べんぽうとしてぎん鈔(ぎんさつ)を発行はっこうし、逐次ちくじしんぎんえていく計画けいかくてていたという。しかし、上方かみがた町人ちょうにんたにちょうみぎ衛門えもんからきゅうぎん割増わりまし通用つうようせつをききいれ、困難こんなんともなぎん発行はっこう撤回てっかいした[12]

徳川とくがわ家宣いえのぶ逝去せいきょあいだもなく、老中ろうじゅう秋元あきもとたかしから「おおせおもむき」として幣制へいせい東照宮とうしょうぐうじょうせい慶長けいちょう金銀きんぎん)にふくすべく改正かいせいあるべきむねが、かねてから幣制へいせいみだれをうれいていた家宣いえのぶ遺言ゆいごんとして公表こうひょうされた[10]

宝永ほうえいに、将軍しょうぐん決裁けっさい荻原おぎわら重秀しげひで内密ないみつ吹替ふきかえを遂行すいこう莫大ばくだい利益りえきげていた銀座ぎんざたい正徳しょうとく4ねん5がつ13にち(1714ねん6がつ24にち)に手入ていれが決行けっこうされ、深江ふかえしょう左衛門さえもん銀座ぎんざ年寄としよりらが召捕めしとりとなり、遠島えんとう流罪るざい闕所などにしょされた(正徳しょうとく)。こののちせき久右衛門きゅうえもんわり大黒おおくろつねこれこと大黒だいこくちょう左衛門さえもんやくめいぜられ銀座ぎんざ復帰ふっきした[13]

いで正徳しょうとく4ねん5がつ15にち(1714ねん6がつ26にち)に、正徳しょうとくぎん吹立の御触おふされた。この触書ふれがきしん鋳造ちゅうぞう主旨しゅししん貨が出廻でまわるまでのきゅう通用つうようほうきゅう貨引えのじょうさん本立ほんだてから[10]よんよりなる長文ちょうぶんであった[14][15]。そのだい一部いちぶ総論そうろん以下いかとおりであった。

  • いち慶長けいちょう年中ねんじゅう定置ていちこうきむぎんほういたり元禄げんろく年中ねんじゅういちはつて其品をあらため宝永ほうえいこれはじ再度さいどぎんしなあらためこうより以来いらい諸物しょぶつあたい年々ねんねん高直こうじきなりきたり、難儀なんぎいちこうて、ぜん御代みよ治世ちせいはじめより金銀きんぎんしな慶長けいちょうほういちかえしゆかり、雖本意ほんいこういち近世きんせい以来いらい諸国しょこく山々やまやまより出来できこう金銀きんぎんすう古来こらいいちこれもって、容易よういに其不御沙汰ごさたいちこうしょに、就中なかんづく元禄げんろくかねそんこうづけて、其通用つうよう難儀なんぎこうよし聞召いちさきづ其御沙汰さたゆうこれこう、其後にいたり宝永ほうえいぎんも其通用つうよう難渋なんじゅうこうごとたちいち其故をひろきわむこうおよび、世上せじょう通行つうこうこうしょぎん次第しだいに其品よろしもの出来できこう事相じそうれ、早速さっそくぎん吹出ふきだこうごとため停止ていしいち、其事由来ゆらい糺明きゅうめいうえゆう御沙汰ごさたいちむねこうしょすでに、不例ふれい日々ひびおもらせられこうづけとしたつ十一月じゅういちがつじゅういちにち、以書付かきつけいち思召おぼしめしほどおおせいちこうこれとう御代みよいたこうより以来いらいひとさる沙汰さたこうごとどもひろごく各々おのおの僉議のうえもって、金銀きんぎんしな慶長けいちょうほういち返事へんじ議定ぎていせられこう通用つうようほう引替じょうとうことつまびらかに別紙べっしあいこうごとくにこう今度こんど此御沙汰ざたは、ぜん御代みよむねよせ天下てんか後代こうだいまでためを以之御事おんことこうじょうは、賤・貧富ひんぷせん定之さだゆきむねあいもり、其功おわりしょよろしくゆう覚悟かくごいちことこう一身いっしん利潤りじゅんはかこうために、何事なにごとらず其通用つうようためあいとどこおこうごとども仕出しだこうおいては、ぜん御代みよむねとう御代みよ御沙汰ごさた違犯いはんこうのみにあらず、天下てんか後代こうだいまでこれため罪人ざいにんしゃこうとくしゃきゅう其罪をただすこうて、くだり厳科げんかいちこうごとこうまた其旨あい心得こころえいちこうしゃ
  • 正徳しょうとくよんねんきのえうま五月ごがつじゅうにち

この觸書ふれがきちゅうだいさんの「新古しんこ金銀きんぎん割合わりあい次第しだい」には古銀こぎん割増わりまし通用つうよう附記ふきされた。さらにこの割合わりあい古銀こぎん回収かいしゅうしてしんぎん正徳しょうとくぎん)と引替ひきかえることとなった。正徳しょうとくぎん江戸えどでは同年どうねん8がつ2にちから鋳造ちゅうぞうはじまったが、京都きょうとでは12月より鋳造ちゅうぞうされた[12]

しかし品位ひんいことなる宝永ほうえいぎんさんひんどう価値かち通用つうようさせるには無理むりがあり市場いちばでは差別さべつ通用つうようとなっていた。さらに、しん金銀きんぎん吹替の御触おふれがるやいなや、江戸えどにおいてそれまでいぬいきん1りょうぎん82-3もんめ推移すいいしていた相場そうばが、とおる2ねん(1717ねんはるなつには平均へいきん69もんめ7ふん5りんよく3ねん5がつ初頭しょとう(1718ねん5がつ30にち-)にはしんかね1りょうしんぎん58もんめ3ふん5りんであったが同年どうねん9がつしんかね1りょうしんぎん43もんめ8-9ふんぎん高騰こうとうするなど不安定ふあんてい相場そうば展開てんかいとなった[16]

江戸えど時代じだいつうじたちょうぎん平均へいきん量目りょうめは156グラム(42もんめ程度ていどと、ぎんいちまいである43もんめをやや下回したまわっている。これは豆板銀まめいたぎんしてぎんいちまいつつみとするために便宜べんぎはかったものとされる。しかし正徳まさのりとおるひのとぎん平均へいきん量目りょうめが137グラム(37もんめ程度ていどひのとぎん比較ひかくして軽量けいりょうである。これは元禄げんろく宝永ほうえいかくひのとぎんとの引替ひきかえにさいきゅうぎんぞうをつけて引替ひきかえられたため、秤量ひょうりょうによる重量じゅうりょう調整ちょうせい手間てまはぶくため意識いしきてき軽量けいりょうされたものとかんがえられている[17]

また、この吹替ふきかえは、よりこう品位ひんい銀貨ぎんかへの復帰ふっきであるため、市場いちばから回収かいしゅうされたてい品位ひんい元禄げんろくぎんおよび宝永ほうえいぎんから灰吹はいふきぎんおよびせいどう分離ぶんりする、ぎんどう吹分ふきわけが必要ひつようであった。吹分ふきわけは正徳しょうとく4ねん5がつから浅草あさくさ諏訪すわまちにて、また京都きょうとでは闕所にしょせられた深江ふかえしょう左衛門さえもんおよび中村なかむら内蔵助くらのすけ屋敷やしきに吹所を大坂おおさかからどう吹屋ふきや交代こうたいめ12がつまつからみなみ蛮吹によりおこなわれたが、とおる3ねん11月(1718ねん)からは大坂おおさかどう吹屋ふきや一切いっさい請負うけおうことになった[18]

正徳しょうとくぎん鋳造ちゅうぞうかかきゅうぎん吹分だか[19]
  たからぎん さんたからぎん よんたからぎん
江戸えど正徳しょうとく4ねん9がつ-とおる元年がんねん1がつ 3,200かん 17,700かん
京都きょうと正徳しょうとく4ねん11月-とおる3ねんうるう10がつ 20,972かん 20,328かん 47,890かん
大坂おおさかとおる3ねん11月-とおる7ねん12がつ 127,850かん 320,560かん
けい 20,972かん 151,378かん 386,150かん

割増わりましから、えいぎんさんたからぎんよんたからぎんいずれも10かんしんぎん5かん引替ひきかえたのであるが、当時とうじ流通りゅうつう大半たいはんめていたのはもっとてい品位ひんいよんたからぎん(20%)であり、よんたからぎん10かん吹分ふきわ灰吹はいふきぎん2かん、これに幕府ばくふが2かんぎんをして5かん品位ひんい80%のしんぎんるという勘定かんじょうであり、その損失そんしつ幕府ばくふけた[12]

正徳しょうとく金銀きんぎんとおる金銀きんぎん)の鋳造ちゅうぞうにより通貨つうか縮小しゅくしょうデフレーション)により物価ぶっか下落げらくしてきょうおちいったとされることがおおいが、実際じっさいにはただちに正徳しょうとく金銀きんぎん通用つうよう金銀きんぎん地位ちいたわけではなく、後述こうじゅつのように吉宗よしむね将軍しょうぐん就任しゅうにん以降いこうのこととなる。正徳しょうとく金銀きんぎん鋳造ちゅうぞう開始かいし初期しょきには、幕府ばくふ損失そんしつともな造幣ぞうへい材料ざいりょう事欠ことかいた正徳しょうとくぎん鋳造ちゅうぞうきゅうぎん回収かいしゅうなか進捗しんちょくせず、正徳しょうとく4ねんちゅう鋳造ちゅうぞうだか江戸えど毎日まいにち平均へいきん27かんあまり京都きょうとでは毎日まいにち平均へいきん45かんあまり正徳しょうとく5ねんちゅう鋳造ちゅうぞうだか江戸えどで9,632かんあまり京都きょうとで16,369かんあまりにとどまり、元禄げんろくぎん宝永ほうえいぎん各種かくしゅ混在こんざい流通りゅうつう依然いぜんつづ状態じょうたいであった[12]正徳しょうとくぎん鋳造ちゅうぞうのための宝永ほうえいぎんの吹分だかは、とおる3ねん(1718ねん)までの江戸えど京都きょうと合計ごうけいは11まんかんあまりだが、とおる3ねん以降いこう大坂おおさかどう吹屋ふきやって以降いこう合計ごうけいで44まんかん以上いじょうたっしている。後述こうじゅつのようにとおる6ねん(1721ねん)にいたってようやとおるぎん鋳造ちゅうぞうりょう全体ぜんたいやく2/3を鋳造ちゅうぞうした。

正徳しょうとく6ねん4がつ30にち(1716ねん6がつ19にち)、7だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家継いえつぐわずか8さい他界たかいし、紀州きしゅうはんあるじ徳川とくがわ吉宗よしむねが8だい将軍しょうぐんむかえられ、深刻しんこく財政難ざいせいなんした将軍しょうぐん中心ちゅうしんとする政治せいじ体制たいせい整備せいび緊縮きんしゅく財政ざいせい施政しせいだい転換てんかんはかられた。儒臣新井あらい白石はくせき罷免ひめんされたが、貨幣かへい制度せいどについては正徳しょうとく金銀きんぎんぎ、正徳しょうとく金銀きんぎん通用つうようについては一段いちだん強力きょうりょく措置そちこうじた[20]。そのうえ吉宗よしむね推進すいしんしたとおる改革かいかく主幹しゅかんをなす緊縮きんしゅく財政ざいせい年貢ねんぐ増徴ぞうちょうとうにより経済けいざい混乱こんらん農民のうみん疲弊ひへいおとしいれ、きょうおちいることになった[21]。さらにぎん産出さんしゅつ低迷ていめいしていたのにくわえ、海外かいがい流出りゅうしゅつによる金銀きんぎん絶対ぜったいりょう不足ふそく、さらに人口じんこう江戸えど初期しょきして2ばい程度ていど増加ぞうか経済けいざい活動かつどう飛躍ひやくてき発展はってんしていたなど、慶長けいちょう金銀きんぎん流通りゅうつうしていた時代じだいとは状況じょうきょう一変いっぺんしており、ぎる良貨りょうか政策せいさくによる通貨つうか不足ふそく緩和かんわのため、宝永ほうえい4ねん(1707ねん以来いらいめとなっていたぎんさつ発行はっこうとおる15ねん6がつ(1730ねん)の解禁かいきんいたらしめる一因いちいんとなった[22]

ろくひんぎん交易こうえき一覧いちらん両替りょうがえ年代ねんだいもと作成さくせい[23]文字もじぎん鋳造ちゅうぞう開始かいし文字もじぎんたいする引替りつしゅ追加ついかされた。ただし、文字もじぎんたいする引替ひきかりつ慶長けいちょうぎんたいし12%のぞうけたものであり、ぎん品位ひんいもとづくものではない。元禄げんろく宝永ほうえいかくぎんとおる7ねん停止ていしされたが、もとぶん元年がんねん時点じてんでも市場いちばでは依然いぜん割方わりかた通用つうようつづいていた。

とおる3ねんうるう10がつ(1718ねん)に、「しん金銀きんぎんを以当いぬじゅういちがつより通用つうようつかまつさとし」の御触おふれがされ、同年どうねん11月(1718ねん12月22にち)から古銀こぎん割増わりまし通用つうようぎん品位ひんいもとづくものに変更へんこうとなり市場いちば追認ついにんするかたちとなった[24][25]

  • しんぎん慶長けいちょうぎんたい元禄げんろくぎんは2わり5ふんぞう
  • しんぎん慶長けいちょうぎんたいたからぎんは6わりぞう
  • しんぎん慶長けいちょうぎんたいえいぎんは10わりぞう
  • しんぎん慶長けいちょうぎんたいさんたからぎんは15わりぞう
  • しんぎん慶長けいちょうぎんたいよんたからぎんは30わりぞう

またこの御触おふれにより11月からぎん取引とりひき通用つうようぎんけんえいぎんさんたからぎんよんたからぎん)がしんぎんけん正徳しょうとくぎん)へと変更へんこうされた。さらに元禄げんろく宝永ほうえい古銀こぎん割増わりまし併用へいようとおる7ねんまつ(1723ねん2がつ4にち)までにかぎむね通達つうたつされた[24]

店頭てんとう商品しょうひん諸種しょしゅひのとぎんによる複数ふくすう価格かかく表示ひょうじかかげられ、この換算かんさんについて倉田くらたきよしじゅんは『たから古伝こでんろく』のなかで「其紛ハシキごとげんぜっヘタリ」とべている[26]とおる3ねん(1718ねん)には換算かんさん便宜べんぎはかるため諸種しょしゅひのとぎんあいだでの換算かんさんひょうである、『ろくひんぎん交易こうえき一覧いちらん』が刊行かんこうされた。とおる5ねん3がつ(1720ねん)に幕府ばくふは、元禄げんろくぎんおよび宝永ほうえいぎん4しゅ通用つうようを6ねんまつ(1722ねん2がつ15にちかぎりと布告ふこくしたが、6ねん4がつ御触おふれで延期えんきされ、最終さいしゅうてきとおる7ねんまつ(1723ねん2がつ4にち)に通用つうよう停止ていしされた。これによりとおる6ねん以降いこうよんたからぎんなどきゅうぎんおおあつまるようになり吹分ふきわけが進行しんこうし、通用つうようぎん正徳まさのりとおるぎん慶長けいちょうぎん同列どうれつあつかい)に統一とういつされた[20][27]

ろくひんぎん交易こうえき一覧いちらん (もくもんめ同義どうぎ) 原書げんしょ五角形ごかっけい曼荼羅まんだら形状けいじょう
  慶長けいちょうぎん正徳しょうとくぎん もと元禄げんろくぎん たからたからぎん えいえいぎん 三宝さんぼうさんたからぎん よんたからよんたからぎん
慶長けいちょうぎん正徳しょうとくぎんひゃくもく   ひゃく廿にじゅうもんめ ひゃくろくじゅうもく ひゃくもく ひゃくじゅうもく よんひゃくもく
もとひゃくもく はちじゅうもく   ひゃく廿にじゅうはちもんめ ひゃくろくじゅうもく ひゃくもく さんひゃくじゅうもく
たからひゃくもく ろくじゅうもんめふん ななじゅうはちもんめいちふんりんもう   ひゃく廿にじゅうもんめ ひゃくじゅうろくもんめふんりん ひゃくじゅうもく
ながひゃくもく じゅうもく ろくじゅうもんめふん はちじゅうもく   ひゃく廿にじゅうもんめ ひゃくもく
三宝さんぼうひゃくもく よんじゅうもく じゅうもく ろくじゅうもんめママ はちじゅうもく   ひゃくろくじゅうもく
よんたからひゃくもく 廿にじゅうもんめ さんじゅういちもんめふんりん よんじゅうもく じゅうもく ろくじゅうもんめふん  


とおるぎんおよび慶長けいちょうぎん通用つうよう停止ていしもとぶん2ねん3がつ17にち(1737ねん4がつ16にち)に3ねん1がつ(1738ねん3がつ19にちかぎりと布告ふこくされたが、延期えんきされ、もとぶん3ねん4がつまつ(1738ねん6がつ16にち)に文字もじぎんたいする割増わりまし通用つうよう正徳まさのりとおるぎん10かんにつき文字もじぎん15かん)が停止ていしとなった[28]

とおる豆板銀まめいたぎん[編集へんしゅう]

とおる豆板銀まめいたぎん

とおる豆板銀まめいたぎん/正徳しょうとく豆板銀まめいたぎん(きょうほうまめいたぎん/しょうとくまめいたぎん)はとおるひのとぎん正徳しょうとくひのとぎん)とどう品位ひんい豆板銀まめいたぎんで、「(大黒だいこくぞう)、つね」または「つねたから」の極印ごくいんたれ、慶長けいちょう豆板銀まめいたぎんどう形式けいしきであるが、ひらたい円形えんけいのものがおお変形へんけいしたものはすくない。さらに大黒だいこくぞう正面しょうめんいていることはちょうぎん同様どうようである[3]

とおるぎん正徳しょうとくぎん)の品位ひんい[編集へんしゅう]

きゅう貨幣かへいひょう』によれば、規定きてい品位ひんい慶長けいちょうぎん同位どういぎん80%(いちわり分引ぶびきケ)、どう20%である。

とおるぎん正徳しょうとくぎん)の規定きてい品位ひんい

明治めいじ時代じだい造幣局ぞうへいきょくにより江戸えど時代じだい貨幣かへい分析ぶんせきおこなわれた。古賀こがによるとおるぎん分析ぶんせき以下いかとおりである[29]

ざつぶんはほとんどがどうであるが、少量しょうりょうなまりなどをふくむ。なおこのざつぶんちゅうなまり含有がんゆうりつは2、3%と慶長けいちょうぎん比較ひかくしてたかくなっており、みなみ蛮吹によるぎんどう吹分ふきわけにともないかなりのなまり残存ざんそんしたものと推定すいていされる[30]

とおるぎん正徳しょうとくぎん)の鋳造ちゅうぞうりょう[編集へんしゅう]

『吹塵ろく』によればとおる21ねん4がつ(1736ねん)までの累計るいけいで、ちょうぎんおよび豆板銀まめいたぎん合計ごうけいで331,420ぬきやく1,236トン)としている。

つきどう見聞けんぶんしゅう』ではとおる6ねん7がつ(1721ねん)までに、このうち223,080かん571もんめやく832トン)をてたとしている[31]

公儀こうぎ灰吹はいふきぎんおよび回収かいしゅうされたきゅうぎんからちょうぎんきたてる場合ばあい銀座ぎんざ収入しゅうにゅうであるぶんいちぎん(ぶいちぎん)は正徳しょうとくぎんでは慶長けいちょうぎんおなじく鋳造ちゅうぞうだかの3%にげられ、品位ひんい向上こうじょうさせる吹替ふきかえのため改鋳かいちゅう利益りえきられず銀座ぎんざ役所やくしょつね役所やくしょとも困窮こんきゅうしたという[27]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 郡司ぐんじ(1972), p83.
  2. ^ a b 青山あおやま(1982), p116-117.
  3. ^ a b 貨幣かへいしょう組合くみあい(1998), p85-86.
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  5. ^ 青山あおやま(1982), p116-118, p120.
  6. ^ 三上みかみ(1996), p186-189.
  7. ^ 田谷たや(1963), p193-197.
  8. ^ 児玉こだまみゆき(1975),「 側近そっきん政治せいじ大奥おおおく生活せいかつ 白石しろいし改革かいかく」, p73-78.
  9. ^ 田谷たや(1963), p193-197.
  10. ^ a b c d 久光ひさみつ(1976), p111-115.
  11. ^ 田谷たや(1963), p269-270.
  12. ^ a b c d 田谷たや(1963), p273-275.
  13. ^ 田谷たや(1963), p213-218.
  14. ^ 滝沢たきざわ(1996), p215.
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  16. ^ しょうでん(1958), p169-170.
  17. ^ 西川にしかわ裕一ひろいち江戸えど秤量ひょうりょう銀貨ぎんか使用しようじょうきょう -重量じゅうりょうならびにしょう極印ごくいんからみた若干じゃっかん考察こうさつ- (PDF)金融きんゆう研究けんきゅう日本銀行にっぽんぎんこう金融きんゆう研究所けんきゅうじょ
  18. ^ しょうでん(1958), p163-179.
  19. ^ しょうでん(1999), p109-198.
  20. ^ a b 瀧澤たきざわ西脇にしわき(1999), p270-271.
  21. ^ 郡司ぐんじ(1972), p88-89.
  22. ^ 三上みかみ(1996), p193.
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  24. ^ a b 田谷たや(1963), p275-277.
  25. ^ 滝沢たきざわ(1996), p207-208.
  26. ^ 滝沢たきざわ(1996), p208-210.
  27. ^ a b 田谷たや(1963), p277-281.
  28. ^ 田谷たや(1963), p287-289.
  29. ^ 甲賀こうがむべせい金銀きんぎん調査ちょうさ明細めいさいろく』 1930ねん
  30. ^ 早川はやかわ泰弘やすひろ三浦みうらじょうしゅん大貫おおぬきさと江戸えど銀貨ぎんか品位ひんい色揚いろあげにかんする科学かがくてき調査ちょうさ日本銀行にっぽんぎんこう金融きんゆう研究所けんきゅうじょ、2001ねん
  31. ^ しょうでん(1958), p173-174.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 郡司ぐんじ勇夫いさお渡部わたなべあつし図説ずせつ 日本にっぽん古銭こせん日本文芸社にほんぶんげいしゃ、1972ねん 
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  • 井上いのうえ幸治こうじ児玉こだまみゆきほか『図説ずせつ 日本にっぽん歴史れきし12変動へんどうする幕政ばくせい集英社しゅうえいしゃ、1975ねん 
  • しょうでんあつし日本にっぽん貨幣かへい至文しぶんどう、1958ねん 
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  • 瀧澤たきざわ武雄たけお西脇にしわきやすし日本にっぽんしょう百科ひゃっか貨幣かへい」』東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1999ねんISBN 978-4-490-20353-0 
  • 田谷たや博吉ひろきち近世きんせい銀座ぎんざ研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1963ねんISBN 978-4-6420-3029-8 
  • 三井みついだかへんしん稿こう 両替りょうがえ年代ねんだいせきかぎ まき考証こうしょうへん岩波書店いわなみしょてん、1933ねん 
  • 日本にっぽん貨幣かへいしょう協同きょうどう組合くみあい へん日本にっぽん貨幣かへい-収集しゅうしゅう手引てびき-』日本にっぽん貨幣かへいしょう協同きょうどう組合くみあい、1998ねん 

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