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伊東 輝悦(いとう てるよし、1974年8月31日 - ) は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身のサッカー選手。アスルクラロ沼津所属。ポジションはミッドフィールダー。元日本代表。
小学生時代から多くのサッカー関係者に注目されていたが、当時は小柄なMFではなく長身FWだった。小学5年生時には清水市の選抜チーム・清水FCのメンバーとして1学年上の服部年宏、望月重良らと共に、小学6年生の時にはエースとして田島宏晃らと共に全日本少年サッカー大会2連覇を経験している。
東海大学第一高校に進学。同校は2学年上に森島寛晃、後にアトランタオリンピック代表となる服部年宏、岩下潤(1年先輩)、松原良香、白井博幸らを始め、後にJリーガーとなる選手が数人いたが、清水商業、清水東、静岡学園などの壁に阻まれ高校選手権には一度も出場できず、地元開催で2枠の出場があった1991年度高校総体での準優勝のみが目立った成績となった(決勝戦の相手は清水東で、後に清水エスパルスでチームメイトとなる田島宏晃、斉藤俊秀が所属していた)。
しかし、静岡県選抜としては国体2年連続優勝に貢献。各世代の日本代表にも選ばれるなど評価は高く注目されていた。「ゴムまりのようなドリブル」で一気に数人を抜き去るようなプレーから、マラドーナをもじって「テルドーナ」とも[2] 呼ばれる。
高校卒業後、1993年に地元の清水エスパルスに加入した。1994年6月11日のJリーグ・サントリーシリーズ第21節ガンバ大阪戦でプロ初出場を記録した。プロ3年目の1995年から頭角を現わした。また、当時U-22日本代表監督だった西野朗に促され、「最大の転機」というディフェンシブハーフへの転身を果たす[2]。ただし、状況によってはチャンスメイクを果たした。
1999年にスティーブ・ペリマン監督の下、Jリーグ2ndステージ優勝を果たし、この年のJリーグベストイレブンに選出されるが、アタッキングゾーンでのプレーを求められなかったため、この頃からさらに攻撃的なプレーが少なくなる。
2007年11月11日のサンフレッチェ広島戦(日本平)にて、藤田俊哉に続いて史上2人目のJ1通算400試合出場を達成した(同一クラブ所属では史上初)。2008年5月11日の鹿島戦(日本平)ではJリーグ通算最多出場となる415試合出場を達成、2009年6月27日のFC東京戦(国立)にて、J1史上初となる450試合出場を達成した。
2010年11月、デビュー以来所属していた清水エスパルスより戦力外通告を受けたが、2011年よりJ1に昇格し戦力補強を望んでいたヴァンフォーレ甲府より、同じく戦力外となったチームメイト市川大祐と共にオファーがあり移籍。引き続きJ1でプレーすることとなった。
2011年7月16日、ガンバ大阪戦(中銀スタ)でJ1史上初の通算500試合出場を達成[3]。
2012年に甲府が降格したがチームに残留し、J2初参戦で25試合に出場。2013年に甲府が再昇格したことから再びJ1のピッチに立つことになった。しかし2013年はコンディション不良もあり6試合の出場にとどまり、同年限りで甲府を退団することとなった。
2014年、AC長野パルセイロへ移籍[4]。
2016年、ブラウブリッツ秋田へ完全移籍したが[5]、同年シーズン限りで秋田を退団[6]。
2017年よりアスルクラロ沼津に加入した[1]。2022年、これまで最年長Jリーガーであった三浦知良がJFLの鈴鹿ポイントゲッターズに移籍したことで、伊東が最年長Jリーガーとなった。
日本代表[編集]
1996年アトランタオリンピックに出場。初戦のブラジル戦で決勝ゴールを決めマイアミの奇跡の立役者となる。3戦目のハンガリー戦でも前園真聖の決勝ゴールをアシストした。
1997年にサッカー日本代表に初選出される。1998 FIFAワールドカップ日本代表にも選出されたが、試合に出場することはなかった。
フィリップ・トルシエ監督の下では運動量と守備的意識を買われ、ボランチではなく主に右サイドの要員として起用される事が多かった。しかし常に望月や明神や波戸らと併用され、レギュラーとして定着した時期はなかった。2000年のカールスバーグカップ・メキシコ戦では初のゲームキャプテンを任せられるなど、トルシエ監督から絶大な信頼を得る(合宿終了後にゲームキャプテンから一言と言われた際、寡黙な性格のためか「お疲れ様でした」の一言しか言わなかった)。しかし、2002 FIFAワールドカップ日本代表には、負傷から復帰した直後のタイミングとなってしまい選出されなかった。
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
1993 |
清水 |
- |
J |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
1 |
3 |
1
|
1994 |
6 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
7 |
0
|
1995 |
44 |
4 |
- |
1 |
0 |
45 |
4
|
1996 |
26 |
4 |
7 |
1 |
3 |
0 |
36 |
5
|
1997 |
7 |
31 |
7 |
6 |
1 |
3 |
1 |
40 |
9
|
1998 |
34 |
5 |
1 |
0 |
5 |
0 |
40 |
5
|
1999 |
J1 |
29 |
1 |
4 |
1 |
3 |
0 |
36 |
2
|
2000 |
24 |
1 |
4 |
0 |
5 |
1 |
33 |
2
|
2001 |
27 |
1 |
2 |
0 |
1 |
0 |
30 |
1
|
2002 |
22 |
0 |
2 |
0 |
3 |
0 |
27 |
0
|
2003 |
30 |
2 |
4 |
0 |
4 |
0 |
38 |
2
|
2004 |
30 |
1 |
7 |
0 |
1 |
0 |
38 |
1
|
2005 |
32 |
0 |
5 |
0 |
5 |
0 |
42 |
0
|
2006 |
34 |
2 |
5 |
0 |
3 |
0 |
42 |
2
|
2007 |
34 |
1 |
2 |
0 |
3 |
0 |
39 |
1
|
2008 |
34 |
0 |
9 |
0 |
2 |
0 |
45 |
0
|
2009 |
30 |
0 |
8 |
0 |
2 |
0 |
40 |
0
|
2010 |
16 |
1 |
6 |
0 |
5 |
0 |
27 |
1
|
2011 |
甲府 |
27 |
28 |
0 |
1 |
0 |
2 |
0 |
31 |
0
|
2012 |
J2 |
25 |
0 |
- |
0 |
0 |
25 |
0
|
2013 |
J1 |
6 |
0 |
3 |
0 |
1 |
0 |
10 |
0
|
2014 |
長野 |
30 |
J3 |
8 |
0 |
- |
0 |
0 |
8 |
0
|
2015 |
3 |
0 |
- |
0 |
0 |
3 |
0
|
2016 |
秋田 |
25 |
2 |
0 |
- |
0 |
0 |
2 |
0
|
2017 |
沼津 |
0 |
0 |
- |
1 |
0 |
1 |
0
|
2018 |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
2019 |
1 |
0 |
- |
- |
1 |
0
|
2020 |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
2021 |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
2022 |
4 |
0 |
- |
- |
- |
4 |
0
|
2023 |
0 |
0 |
- |
- |
0 |
0
|
2024 |
|
|
|
|
|
|
|
|
通算 |
日本 |
J1
|
517 |
30 |
77 |
3 |
55 |
3 |
649 |
36
|
日本 |
J2
|
25 |
0 |
- |
0 |
0 |
25 |
0
|
日本 |
J3
|
18 |
0 |
- |
1 |
0 |
19 |
0
|
総通算
|
560 |
30 |
77 |
3 |
56 |
3 |
693 |
36
|
- その他の公式戦
国際大会個人成績 |
年度 |
クラブ |
背番号 |
出場 |
得点
|
AFC | ACL |
2002-03 |
清水 |
7 |
3 |
0
|
通算 |
AFC
|
3 |
0
|
出場大会など[編集]
- 国際Aマッチ 27試合 0得点 (1997年 - 2001年)
|
---|
J1 |
1990年代 |
- 93: サントス, 本田泰人, ラモス瑠偉
- 94: 柱谷哲二, 北澤豪, ラモス瑠偉, ベッチーニョ
- 95: 柱谷哲二, ビスマルク
- 96: ジョルジーニョ, 前園真聖, 山口素弘, 名波浩
- 97: ビスマルク, 中田英寿, 山口素弘, 名波浩
- 98: 小野伸二, 奥大介, 藤田俊哉, 名波浩, ドゥンガ
- 99: 中村俊輔, アレックス, 伊東輝悦, 澤登正朗, 福西崇史
|
---|
2000年代 |
- 00: 明神智和, 中村俊輔, 稲本潤一, 森島寛晃
- 01: 小笠原満男, 福西崇史, 藤田俊哉, 服部年宏, 中田浩二
- 02: 小笠原満男, 福西崇史, 藤田俊哉, 名波浩
- 03: 小笠原満男, 福西崇史, 奥大介, 遠藤保仁
- 04: 小笠原満男, 長谷部誠, 奥大介, 遠藤保仁
- 05: 小笠原満男, 阿部勇樹, フェルナンジーニョ, 遠藤保仁, 古橋達弥
- 06: 鈴木啓太, 阿部勇樹, 中村憲剛, 谷口博之, 遠藤保仁
- 07: 阿部勇樹, 鈴木啓太, ポンテ, 中村憲剛, 遠藤保仁
- 08: 中村憲剛, 小川佳純, 遠藤保仁
- 09: 小笠原満男, 石川直宏, 中村憲剛, 遠藤保仁
|
---|
2010年代 |
- 10: 中村憲剛, マルシオ・リシャルデス, 藤本淳吾, ダニルソン, 遠藤保仁
- 11: ジョルジ・ワグネル, レアンドロ・ドミンゲス, 藤本淳吾, 遠藤保仁, 清武弘嗣
- 12: レアンドロ・ドミンゲス, 遠藤保仁, 青山敏弘, 髙萩洋次郎
- 13: 中村俊輔, 山口螢, 柿谷曜一朗, 青山敏弘
- 14: 柴崎岳, 武藤嘉紀, レオ・シルバ, 遠藤保仁
- 15: 金崎夢生, 遠藤保仁, 青山敏弘
- 16: 阿部勇樹, 柏木陽介, 中村憲剛, 齋藤学
- 17: 中村憲剛, 井手口陽介, 山口蛍
- 18: チャナティップ, 家長昭博, 大島僚太, 中村憲剛
- 19: 橋本拳人, 喜田拓也, アンドレス・イニエスタ
|
---|
2020年代 |
- 20: 家長昭博, 田中碧, 守田英正, 三笘薫
- 21: 家長昭博, 脇坂泰斗, アンドレス・イニエスタ, 稲垣祥
- 22: 家長昭博, 水沼宏太, 脇坂泰斗
- 23: 伊藤敦樹, 脇坂泰斗, 山口蛍
|
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|
---|
J2 |
|
---|
J3 |
|
---|
ベストイレブン(GK - DF - MF - FW) - JCB |
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J1 |
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 |
- 10: 槙野智章
- 11: 梁勇基, 太田宏介
- 12: 佐藤寿人
- 13: 柿谷曜一朗, 佐藤寿人
- 14: 西川周作, 工藤壮人, 平岡康裕, 森岡亮太, 水本裕貴, 豊田陽平
- 15: 谷口彰悟, 中澤佑二
- 16: 秋元陽太, 田中佑昌
- 17: 中澤佑二, 柿谷曜一朗, 水本裕貴
- 18: 西川周作, 秋元陽太, 澤田崇
- 19: 受賞者なし
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2020年代 | |
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J2 |
|
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J3 |
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Jリーグアウォーズ(最優秀選手賞 - JB11 - 得点王 - JBYP賞 - JFP個人賞 - J2MEP - 功労選手賞 - 最優秀監督賞 - 最優秀主審賞 - 最優秀副審賞 - JBP賞) |
日本代表 - 出場大会 |
---|
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