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遭難 そうなん し、直立 ちょくりつ したまま仮死 かし 状態 じょうたい で発見 はっけん された後藤 ごとう 房之助 ふさのすけ 伍長 ごちょう の像 ぞう
事件 じけん 当時 とうじ の陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 、寺内 てらうち 正毅 まさき の揮毫 きごう による後藤 ごとう 伍長 ごちょう 像 ぞう の碑文 ひぶん
八甲田 はっこうだ 雪 せつ 中 ちゅう 行軍 こうぐん 遭難 そうなん 事件 じけん (はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )1月 がつ に日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 第 だい 8師団 しだん の歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい が青森 あおもり 市 し 街 まち から八甲田山 はっこうださん の田代 たしろ 新湯 あらゆ に向 む かう雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん の途中 とちゅう で遭難 そうなん した事件 じけん 。訓練 くんれん への参加 さんか 者 しゃ 210名 めい 中 ちゅう 199名 めい が死亡 しぼう (うち6名 めい は救出 きゅうしゅつ 後 ご 死亡 しぼう )するという日本 にっぽん の冬季 とうき 軍事 ぐんじ 訓練 くんれん において最 もっと も多 おお くの死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ した事故 じこ であるとともに、近代 きんだい の登山 とざん 史 し における世界 せかい 最大 さいだい の山岳 さんがく 遭難 そうなん 事故 じこ である[1] 。
雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )の日 にち 清 しん 戦争 せんそう で冬季 とうき 寒冷 かんれい 地 ち での苦戦 くせん を強 し いられた経験 けいけん を踏 ふ まえ、さらなる厳寒 げんかん 地 ち での戦 たたか いとなる対 たい ロシア 戦 せん に向 む けた準備 じゅんび をしていた。日本 にっぽん 陸軍 りくぐん にとって冬季 とうき 訓練 くんれん は喫緊 きっきん の課題 かだい であった。対 たい ロシア戦 せん は10年 ねん 後 ご の1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )に日 にち 露 ろ 戦争 せんそう として現実 げんじつ のものとなる。
雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん は青森 あおもり 歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい 210名 めい が1902年 ねん 1月 がつ 23日 にち から、弘前 ひろさき 歩兵 ほへい 第 だい 31連隊 れんたい 37名 めい と新聞 しんぶん 記者 きしゃ 1名 めい が1月 がつ 20日 はつか から2月 がつ 1日 にち までそれぞれ異 こと なる経路 けいろ を行軍 こうぐん した。
行軍 こうぐん の目的 もくてき [ 編集 へんしゅう ]
青森 あおもり 歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい は、冬 ふゆ のロシア軍 ぐん の侵攻 しんこう で青森 あおもり の海岸 かいがん 沿 ぞ いの列車 れっしゃ が不通 ふつう となった場合 ばあい 、物資 ぶっし の運搬 うんぱん を人力 じんりき ソリ で代替 だいたい 可能 かのう か調査 ちょうさ することが主 おも な目的 もくてき であった。対象 たいしょう となった経路 けいろ は「青森 あおもり - 田代 たしろ - 三本木 さんぼんぎ - 八戸 はちのへ 」間 あいだ で、最大 さいだい の難所 なんしょ である青森 あおもり - 田代 たしろ 温泉 おんせん 間 あいだ の雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 演習 えんしゅう は片道 かたみち 約 やく 20km、1月 がつ 23日 にち より1泊 はく 2日 にち の予定 よてい で計画 けいかく された。行軍 こうぐん 経路 けいろ は田代 たしろ 街道 かいどう 、現在 げんざい の青森 あおもり 県 けん 道 どう 40号 ごう 青森 あおもり 田代 たしろ 十和田 とわだ 線 せん である。
弘前 ひろさき 歩兵 ほへい 第 だい 31連隊 れんたい の計画 けいかく は「雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん に関 かん する服装 ふくそう 、行軍 こうぐん 方法 ほうほう 等 とう 」の全般 ぜんぱん に亘 わた る研究 けんきゅう の最終 さいしゅう 段階 だんかい に当 あ たるもので、3年 ねん がかりで実施 じっし してきた演習 えんしゅう の総 そう 決算 けっさん であった。経路 けいろ は「弘前 ひろさき - 十和田湖 とわだこ - 三本木 さんぼんぎ - 田代 たしろ - 青森 あおもり - 浪岡 なみおか - 弘前 ひろさき 」間 あいだ で総 そう 延長 えんちょう 224km。日程 にってい は1月 がつ 20日 はつか より11泊 はく 12日 にち の予定 よてい であった[3] 。
なお、両 りょう 連隊 れんたい は、日程 にってい を含 ふく め、お互 たが いの雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 予定 よてい を知 し らずに計画 けいかく を立 た てた[注釈 ちゅうしゃく 1] 。ただし、弘前 ひろさき 連隊 れんたい の行軍 こうぐん 予定 よてい については東奥 ひがしおく 日報 にっぽう が1月 がつ 17日 にち 発行 はっこう の紙面 しめん 上 じょう で報道 ほうどう していたことから、青森 あおもり 側 がわ には行軍 こうぐん 予定 よてい の重複 じゅうふく に気付 きづ いた者 もの がいた可能 かのう 性 せい がある。
行軍 こうぐん の準備 じゅんび [ 編集 へんしゅう ]
弘前 ひろさき 第 だい 31連隊 れんたい [ 編集 へんしゅう ]
弘前 ひろさき 第 だい 31連隊 れんたい が行軍 こうぐん 命令 めいれい を通知 つうち したのは1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )12月20日 にち 頃 ごろ で、出発 しゅっぱつ の1ヵ月 かげつ 前 まえ だった[3] 。指揮 しき は陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 大尉 たいい ・福島 ふくしま 泰 やすし 蔵 ぞう 。隊 たい は志願 しがん 者 しゃ 37名 めい の少数 しょうすう 精鋭 せいえい に東奥 ひがしおく 日報 にっぽう から従軍 じゅうぐん 記者 きしゃ 1名 めい を加 くわ えた計 けい 38名 めい で編成 へんせい された。出発 しゅっぱつ に先立 さきだ ち、同隊 どうたい は沿線 えんせん の村落 そんらく や町 まち 役場 やくば に書簡 しょかん で食糧 しょくりょう ・寝具 しんぐ ・案内 あんない 人 じん の調達 ちょうたつ を依頼 いらい した[3] 。また、木 き こり 、マタギ 、農家 のうか から情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう し、冬山 ふゆやま では汗 あせ をかかないように配慮 はいりょ することと、足 あし の凍傷 とうしょう 予防 よぼう として靴下 くつした を3枚 まい 重 かさ ね履 は きした上 うえ から唐辛子 とうがらし をまぶし、さらに油紙 あぶらがみ を巻 ま くなどの防寒 ぼうかん の知識 ちしき を得 え て実践 じっせん していた[3] 。服装 ふくそう は絨衣袴 はかま ・冬 ふゆ 襦袢 じばん ・冬 ふゆ 袴 はかま 下 か ・外套 がいとう を着 き て手套 しゅとう ・水筒 すいとう ・雑嚢 ざつのう ・背嚢 はいのう を装着 そうちゃく し藁沓 わらぐつ を履 は き寒 かん 地 ち 着 ぎ 各 かく 一 いち を付着 ふちゃく した。行軍 こうぐん 中 ちゅう は麻 あさ 縄 なわ で隊員 たいいん 同士 どうし を1列 れつ に結 むす んだ[3] 。
青森 あおもり 第 だい 5連隊 れんたい [ 編集 へんしゅう ]
青森 あおもり 第 だい 5連隊 れんたい の第 だい 2大隊 だいたい は1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )1月 がつ 18日 にち 、行軍 こうぐん 計画 けいかく の立案 りつあん 者 しゃ である陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 大尉 たいい ・神成 かみなり 文吉 ぶんきち の指揮 しき で予行 よこう 演習 えんしゅう を行 おこな った。これは中隊 ちゅうたい 規模 きぼ (約 やく 140名 めい 、うちかんじき 隊 たい 20名 めい )の将兵 しょうへい とソリ1台 だい で屯営 とんえい - 小峠 ことうげ 間 あいだ (片道 かたみち 約 やく 9km)を往復 おうふく したもので、好天 こうてん に恵 めぐ まれて成功 せいこう した。これを受 う け、大隊 だいたい 長 ちょう で陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 少佐 しょうさ の山口 やまぐち 鋠 は屯営 とんえい - 田代 たしろ 間 あいだ は1日 にち で踏破 とうは 可能 かのう と判断 はんだん 。1月21日 にち 、山口 やまぐち は行軍 こうぐん 命令 めいれい を下 くだ し、23日 にち に出発 しゅっぱつ することを定 さだ めた[6] 。
行軍 こうぐん 隊 たい は210名 めい の大 だい 編成 へんせい で、1日 にち 分 ぶん の食糧 しょくりょう (米 べい 、豆 まめ 、餅 もち 、缶詰 かんづめ 、漬物 つけもの 、清酒 せいしゅ )、燃料 ねんりょう (薪 たきぎ と木炭 もくたん )、大釜 おおかま と工具 こうぐ など合計 ごうけい 約 やく 1.2tをソリ14台 だい で曳 ひ く計画 けいかく だった。ソリの重量 じゅうりょう は1台 だい 約 やく 80kgあり、4人 にん 以上 いじょう で曳 ひ くこととなる。加 くわ えて行李 こうり に詰 つ めた昼食 ちゅうしょく 用 よう の弁当 べんとう 1食分 しょくぶん 、道明寺 どうみょうじ 粉 こ 1日 にち 分 ぶん 、餅 もち 2個 こ (1個 いっこ 50匁 もんめ =187.5g)の各自 かくじ 携行 けいこう が命 めい じられ、懐炉 かいろ の使用 しよう が推奨 すいしょう された[7] [8] 。
出発 しゅっぱつ 前日 ぜんじつ 、同行 どうこう する軍医 ぐんい から凍傷 とうしょう の予防 よぼう と処置 しょち に関 かん する事前 じぜん 注意 ちゅうい があった。そこでは手指 しゅし の摩擦 まさつ や足 あし 踏などに加 くわ え、露営 ろえい ではなるべく「睡眠 すいみん セザル様 さま 注意 ちゅうい スベキコト」と指示 しじ された[9] 。将兵 しょうへい の十分 じゅうぶん な休息 きゅうそく は計画 けいかく しておらず、後述 こうじゅつ のごとく、物心 ぶっしん 両面 りょうめん の備 そな えを欠 か いていた。
遭難 そうなん 部隊 ぶたい ・青森 あおもり 歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい [ 編集 へんしゅう ]
遭難 そうなん の3ヶ月 かげつ 程 ほど 前 まえ に撮影 さつえい された歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい の様子 ようす
遭難 そうなん した歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい は青森 あおもり を衛戍 えいじゅ 地 ち としていた。部隊 ぶたい の指揮 しき を執 と っていたのは、第 だい 2大隊 だいたい 第 だい 5中隊 ちゅうたい 長 ちょう で陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 大尉 たいい の神成 かみなり 文吉 ぶんきち であった。神成 かみなり 大尉 たいい は羽後 うご 国 こく 秋田 あきた 郡 ぐん 鷹巣 たかす 村 むら (秋田 あきた 県 けん 北秋田 きたあきた 郡 ぐん 鷹巣 たかす 町 まち を経 へ て、現在 げんざい は同 どう 県 けん 北秋田 きたあきた 市 し の一部 いちぶ )出身 しゅっしん で、陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう ではなく陸軍 りくぐん 教導 きょうどう 団 だん を経 へ て陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 二 に 等 とう 軍曹 ぐんそう に任官 にんかん し、順次 じゅんじ 昇進 しょうしん して陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 大尉 たいい となった人物 じんぶつ で、平民 へいみん の出身 しゅっしん である。5連隊 れんたい の雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん は、第 だい 2大隊 だいたい を中心 ちゅうしん に第 だい 5中隊 ちゅうたい 長 ちょう の神成 かみなり を中心 ちゅうしん に行軍 こうぐん 隊 たい が編成 へんせい されたが、第 だい 1大隊 だいたい や第 だい 3大隊 だいたい からも長期 ちょうき 伍長 ごちょう が一部 いちぶ 選抜 せんばつ された。
また、大 だい 隊長 たいちょう で陸軍 りくぐん 歩兵 ほへい 少佐 しょうさ の山口 やまぐち 鋠 が随行 ずいこう した。山口 やまぐち 少佐 しょうさ は遭難 そうなん 行軍 こうぐん の途中 とちゅう から指揮 しき 権 けん を握 にぎ ったという証言 しょうげん もあるが、中隊 ちゅうたい には大隊 だいたい 本部 ほんぶ が随行 ずいこう するのは通例 つうれい であり、神成 かみなり 大尉 たいい の上官 じょうかん である山口 やまぐち 少佐 しょうさ が最終 さいしゅう 的 てき な責任 せきにん 者 しゃ だった。
冬 ふゆ の八甲田山 はっこうださん
1月 がつ 23日 にち 午前 ごぜん 6時 じ 55分 ふん に歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい は青森 あおもり 連隊 れんたい 駐屯 ちゅうとん 地 ち を出発 しゅっぱつ 。田茂木野 たもぎの において地元 じもと 村民 そんみん が行軍 こうぐん の中止 ちゅうし を進言 しんげん し、もしどうしても行 い くならと案内 あんない 役 やく を申 もう し出 で るが、これを断 ことわ り地図 ちず と方位 ほうい 磁針 じしん のみで厳寒 げんかん 期 き の八甲田山 はっこうださん 踏破 とうは を行 おこな うこととなった。
午前 ごぜん 中 ちゅう 、小峠 ことうげ までは障害 しょうがい もなく進軍 しんぐん できたが、ソリ隊 たい が遅 おく れ始 はじ めたため大 だい 休止 きゅうし とし昼食 ちゅうしょく を摂 と った。この時 とき 、天候 てんこう が急変 きゅうへん し、暴風 ぼうふう 雪 ゆき の兆 きざ しがあらわれたことから、永井 ながい 軍医 ぐんい の進言 しんげん により、将校 しょうこう 間 あいだ で進退 しんたい についての協議 きょうぎ を行 おこな った。装備 そうび の乏 まず しさと天候 てんこう 悪化 あっか を懸念 けねん し、将校 しょうこう らは駐屯 ちゅうとん 地 ち へ帰営 きえい することを検討 けんとう したが、田茂木野 たもぎの 村 むら ではすでに案内 あんない 人 じん を断 た っていたほか、見習 みならい 士官 しかん や長期 ちょうき 伍長 ごちょう など下士 かし を中心 ちゅうしん とする兵 へい たちの反対 はんたい もあり、行軍 こうぐん を続行 ぞっこう した[10] 。
隊 たい は悪天候 あくてんこう と深雪 みゆき などの苦難 くなん を経 へ て、大峠 おおとうげ から6kmの馬 うま 立場 たちば まで進 すす んだ。ここから鳴沢 なるさわ にかけては積雪 せきせつ 量 りょう が格段 かくだん に増 ま したために速度 そくど が落 お ち、食料 しょくりょう と燃料 ねんりょう などを積 つ んだソリ隊 たい は本隊 ほんたい より2時間 じかん 以上 いじょう 遅 おく れることとなった。神成 かみなり 大尉 たいい は第 だい 2、第 だい 3小隊 しょうたい 計 けい 88名 めい をソリ隊 たい の応援 おうえん に向 む かわせると共 とも に、設営 せつえい 隊 たい 15名 めい を田代 たしろ 方面 ほうめん に斥候 せっこう を兼 か ねた先遣 せんけん 隊 たい として先行 せんこう させた。
午後 ごご 5時 じ 頃 ごろ 、馬立 うまたて 場 じょう から鳴沢 なるさわ へ向 む かう途中 とちゅう でソリによる運搬 うんぱん を断念 だんねん 、積 つ み荷 に は各 かく 輸送 ゆそう 隊員 たいいん が分担 ぶんたん して持 も つこととなった。先遣 せんけん 隊 たい として先行 せんこう していた設営 せつえい 隊 たい は進路 しんろ を発見 はっけん できず、道 みち に迷 まよ っていたところを、偶然 ぐうぜん 本隊 ほんたい と合流 ごうりゅう した。見習 みならい 士官 しかん が先導 せんどう する第 だい 2の斥候 せっこう 隊 たい を派遣 はけん したが、日没 にちぼつ と猛 もう 吹雪 ふぶき により田代 たしろ 方面 ほうめん への進路 しんろ も発見 はっけん できなくなったため、やむなく隊 たい は露営 ろえい 地 ち を探 さが すこととなった。
八甲田 はっこうだ 雪 せつ 中 ちゅう 行軍 こうぐん 遭難 そうなん 事件 じけん ・第 だい 一 いち 露営 ろえい 地 ち 跡 あと 。青森 あおもり 県 けん 県道 けんどう 40号 ごう 脇 わき
午後 ごご 8時 じ 15分 ふん 、田代 たしろ [注釈 ちゅうしゃく 2] まであと1.5kmの平沢 ひらさわ の森 もり を最初 さいしょ の露営 ろえい 地 ち と定 さだ めた。『遭難 そうなん 始末 しまつ 』によれば、幅 はば 2m、長 なが さ5m、深 ふか さ2.5m、都合 つごう 6畳 じょう ほどの雪 ゆき 壕 ごう を小隊 しょうたい 毎 ごと に5つ掘 ほ り、1壕 ごう あたり40名 めい が入 はい った。覆 おお いや敷 じ き藁 わら もなかったため保温 ほおん 性 せい に乏 とぼ しく、座 すわ ることもできなかった。
午後 ごご 9時 じ 頃 ごろ までには行李 こうり 隊 たい も全 すべ て露営 ろえい 地 ち に到着 とうちゃく し、各 かく 壕 ごう に餅 もち と缶詰 かんづめ 、および木炭 もくたん 約 やく 6貫 かん 匁 もんめ (約 やく 22.5kg)ずつが分配 ぶんぱい された。しかし40人 にん 分 ぶん を賄 まかな うには乏 とぼ しい量 りょう であり、炉 ろ 火 ひ も各 かく 壕 ごう で1つずつしかおこせなかったため交代 こうたい で暖 だん を取 と ることとなったが、着火 ちゃっか に1時 じ 間 あいだ 余 あま りを要 よう し、炊事 すいじ 用 よう の壕 ごう を掘 ほ ろうとするも、8尺 しゃく (約 やく 2.4m)掘 ほ っても地面 じめん に届 とど かず、やむなく雪上 せつじょう にかまどと釜 がま を据 す えて炊事 すいじ 作業 さぎょう を始 はじ めた。炊事 すいじ 用 よう の水 みず も火 ひ で雪 ゆき を融 と かして得 え る必要 ひつよう があったが、まず火 ひ が容易 ようい に点 つ かず、さらに火 ひ で床 ゆか の雪 ゆき が融 と けて釜 がま が傾 かたむ くなど問題 もんだい が続発 ぞくはつ し、炊事 すいじ 作業 さぎょう は極 きわ めて難航 なんこう した[12] 。
1月 がつ 24日 にち 午前 ごぜん 1時 じ 頃 ごろ 、ようやく1食分 しょくぶん の生煮 なまに えの飯 めし が支給 しきゅう された。炊飯 すいはん 後 ご の釜 がま で温 あたた めた酒 さけ も分配 ぶんぱい されたが、異臭 いしゅう を帯 お びていて飲 の めなかった。将兵 しょうへい は壕 ごう の側壁 そくへき に寄 よ り掛 か かるなどして仮眠 かみん を取 と ったが、気温 きおん 零下 れいか 20℃以下 いか に達 たっ しており、眠 ねむ ると凍傷 とうしょう になるとして軍歌 ぐんか の斉唱 せいしょう や足 あし 踏が命 めい じられた。このため長 なが くても1時 じ 間 あいだ 半 はん 程度 ていど しか眠 ねむ れなかった[14] 。出発 しゅっぱつ は午前 ごぜん 5時 じ の予定 よてい だったが、多 おお くの将兵 しょうへい が寒気 さむけ を訴 うった え、凍傷 とうしょう 者 しゃ が出 で る恐 おそ れが出 で てきた。午前 ごぜん 2時 じ 頃 ごろ 、事態 じたい を重 おも く見 み た山口 やまぐち 少佐 しょうさ ら将校 しょうこう たちの協議 きょうぎ の結果 けっか 、行軍 こうぐん の目的 もくてき は達成 たっせい されたとして帰営 きえい を決定 けってい 。隊 たい は午前 ごぜん 2時半 じはん に露営 ろえい 地 ち を出発 しゅっぱつ した[15] 。
隊 たい は馬立 うまたて 場 じょう を目指 めざ すが、午前 ごぜん 3時半 じはん 頃 ごろ に鳴沢 なるさわ 付近 ふきん で峡谷 きょうこく (ゴルジュ)に迷 まよ い込 こ んでしまい、やむなく前 まえ の露営 ろえい 地 ち に引 ひ き返 かえ すこととなったが、この時 とき 佐藤 さとう 特務 とくむ 曹長 そうちょう が田代 たしろ への道 みち を知 し っていると進言 しんげん 。山口 やまぐち 少佐 しょうさ は独断 どくだん で「然 しか らば案内 あんない せよ」と命 めい じた。しかし佐藤 さとう は道 みち を誤 あやま り、沢 さわ への道 みち を下 くだ ったところが駒込川 こまごめがわ の本流 ほんりゅう に出 で てしまった。その頃 ころ は全員 ぜんいん が疲労 ひろう 困憊 こんぱい しており、隊列 たいれつ も揃 そろ わず統制 とうせい に支障 ししょう が出 で 始 はじ めた。山口 やまぐち は佐藤 さとう の言 げん が誤 あやま りだったことに気付 きづ くが、元 もと 来 き た道 みち は吹雪 ふぶき により消 け されており、隊 たい は遭難 そうなん 状態 じょうたい となった。
やむなく隊 たい は崖 がけ をよじ登 のぼ ることとなったが、登 のぼ れずに落伍 らくご する者 もの が出 で てきた。駒込川 こまごめがわ の沢 さわ を抜 ぬ ける際 さい 、第 だい 4小隊 しょうたい の水野 みずの 忠 ただし 宜 よろし 中尉 ちゅうい (華族 かぞく 、紀伊 きい 新宮 しんぐう 藩 はん 藩主 はんしゅ 水野 みずの 忠 ただし 幹 みき の長男 ちょうなん )が卒倒 そっとう して凍死 とうし し、将兵 しょうへい らの士気 しき が下 さ がった。
隊 たい は崖 がけ を登 のぼ って高地 こうち に出 で たが、猛烈 もうれつ な暴風 ぼうふう 雪 ゆき に曝 さら されたため、目標 もくひょう を鳴沢 なるさわ 上流 じょうりゅう の山陰 やまかげ に定 さだ め、安全 あんぜん な場所 ばしょ を求 もと めてさまよった。「遭難 そうなん 始末 しまつ 」はこの日 ひ の天候 てんこう は風速 ふうそく 29m/s前後 ぜんご 、気温 きおん 零下 れいか 20 - 25℃以下 いか 、積雪 せきせつ は渓谷 けいこく の深 ふか い場所 ばしょ で6 - 9mという悪条件 あくじょうけん だったと推測 すいそく している。このためこの間 あいだ に将兵 しょうへい の4分 ぶん の1が凍死 とうし または落伍 らくご した。特 とく に行李 こうり の運搬 うんぱん 手 しゅ はわずかしか残 のこ らず、彼 かれ らもみな荷物 にもつ を放棄 ほうき していた。倉石 くらいし 大尉 たいい は夕刻 ゆうこく になっても未 いま だに炊事 すいじ 用 よう の銅 どう 釜 がま を背負 せお っている山本 やまもと 徳次郎 とくじろう 一等 いっとう 卒 そつ (生還 せいかん )を見 み かねて釜 がま をすてさせた。
八甲田 はっこうだ 雪 せつ 中 ちゅう 行軍 こうぐん 遭難 そうなん 事件 じけん ・第 だい 二 に 露営 ろえい 地 ち 跡 あと 。青森 あおもり 県 けん 県道 けんどう 40号 ごう 脇 わき
この日 ひ の行軍 こうぐん は14時 じ 間 あいだ 半 はん に及 およ んだが、それでも前 まえ の露営 ろえい 地 ち より直線 ちょくせん 距離 きょり にして約 やく 700m進 すす むだけに留 と まり、夕方 ゆうがた 頃 ごろ 鳴沢 なるさわ 付近 ふきん にて見出 みいだ した窪地 くぼち を次 つぎ の露営 ろえい 地 ち と定 さだ めた[注釈 ちゅうしゃく 3] 。しかし、隊 たい の統制 とうせい が取 と れぬ上 うえ に、雪 ゆき 濠 ほり を掘 ほ ろうにも道具 どうぐ を携行 けいこう していた者 もの は全員 ぜんいん 落伍 らくご して行方 ゆくえ 不明 ふめい となっており、文字通 もじどお り吹 ふ き曝 さら しの露天 ろてん に露営 ろえい することとなった。食糧 しょくりょう は各自 かくじ 携行 けいこう していた糒 ほしい や餅 もち の残 のこ りと缶詰 かんづめ があったが、凍結 とうけつ していてほとんど摂食 せっしょく 不可能 ふかのう だった。隊 たい は凍傷 とうしょう 者 しゃ を内側 うちがわ に囲 かこ むように固 かた まり、軍歌 ぐんか の斉唱 せいしょう や足 あし 踏、互 たが いに摩擦 まさつ し合 あ うなどして睡魔 すいま と空腹 くうふく に耐 た えたが、猛 もう 吹雪 ふぶき と気温 きおん の低下 ていか で体感 たいかん 温度 おんど が零下 れいか 50℃近 ちか く、前日 ぜんじつ からほとんど不眠 ふみん 不休 ふきゅう で絶食 ぜっしょく 状態 じょうたい ということもあり、多数 たすう の将兵 しょうへい が昏倒 こんとう ・凍死 とうし した。第 だい 2露営 ろえい 地 ち はこの遭難 そうなん で最 もっと も多 おお くの死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ した場所 ばしょ となった。
一方 いっぽう 、青森 あおもり では帰営 きえい 予定 よてい 日時 にちじ になっても到着 とうちゃく しない行軍 こうぐん 隊 たい を迎 むか えに行 い くため、川 かわ 和田 わだ 少尉 しょうい 以下 いか 40名 めい が田茂木野 たもぎの まで行 い き、午前 ごぜん 0時 じ まで待 ま ったものの消息 しょうそく が得 え られなかった。この日 ひ は弘前 ひろさき 第 だい 31連隊 れんたい へ転出 てんしゅつ する松木 まつき 中尉 ちゅうい の送別 そうべつ 会 かい を催 もよお しており、出席 しゅっせき 者 しゃ は「この場 ば で行軍 こうぐん 隊 たい が戻 もど ってきたらうれしい話 はなし だな」などと悠長 ゆうちょう に語 かた り合 あ っていた。
1月 がつ 25日 にち は夜明 よあ けを待 ま って出発 しゅっぱつ する予定 よてい であったが、凍死 とうし 者 しゃ が続出 ぞくしゅつ したため、やむなく午前 ごぜん 3時 じ 頃 ごろ 、隊 たい は馬立 うまたて 場 じょう 方面 ほうめん を目指 めざ して出発 しゅっぱつ した。この時点 じてん で死者 ししゃ ・行方 ゆくえ 不明 ふめい 者 しゃ 合 あ わせて70名 めい を超 こ えており、その他 た の者 もの も多 おお くが凍傷 とうしょう にかかっていた。方位 ほうい 磁針 じしん は凍 こお りついて用 よう を成 な さず、地図 ちず と勘 かん だけに頼 たよ った行軍 こうぐん となっていた。
隊 たい は鳴沢 なるさわ の辺 あた りまで一旦 いったん は辿 たど り着 つ いたものの、風 ふう も強 つよ く断崖 だんがい に達 たっ したため引 ひ き返 かえ そうとしたが、前方 ぜんぽう を山 やま に遮 さえぎ られ道 みち を見失 みうしな った。のちの後藤 ごとう 伍長 ごちょう の証言 しょうげん によれば、大隊 だいたい 本部 ほんぶ の将校 しょうこう や神成 かみなり 大尉 たいい らの協議 きょうぎ の末 すえ 「ここで部隊 ぶたい を解散 かいさん する。各 かく 兵 へい は自 みずか ら進路 しんろ を見出 みいだ して青森 あおもり または田代 たしろ へ進行 しんこう するように」と命令 めいれい したとされる。また小原 おはら 伍長 ごちょう の証言 しょうげん によれば、「天 てん は我 われ らを見捨 みす てたらしい」[注釈 ちゅうしゃく 4] [注釈 ちゅうしゃく 5] [18] というような言葉 ことば をこの場所 ばしょ で神成 かみなり が吐 は いたとされる[19] 。このため、それまで何 なに とか落伍 らくご せずに頑張 がんば っていた多 おお くの将兵 しょうへい が、この一言 いちげん により箍 たが (たが)が外 はず れ、矛盾 むじゅん 脱衣 だつい を始 はじ める者 もの 、「この崖 がけ を降 お りれば青森 あおもり だ!」と叫 さけ び川 かわ に飛 と び込 こ む者 もの 、「いかだ を作 つく って川 かわ 下 くだ りをして帰 かえ るぞ」と叫 さけ び、樹 き に向 む かって銃剣 じゅうけん で切 き りつける者 もの など発狂 はっきょう 者 しゃ が出 で てくるほか、凍傷 とうしょう で手 て が利 き かず、軍 ぐん 袴 はかま のボタンを外 はず せぬまま放尿 ほうにょう し、そこからの凍結 とうけつ が原因 げんいん で凍死 とうし する者 もの など死亡 しぼう 者 しゃ が続出 ぞくしゅつ した。
ただし、実質 じっしつ 的 てき に隊 たい の統制 とうせい が失 うしな われていたことはともかく、生還 せいかん した伊藤 いとう 中尉 ちゅうい は晩年 ばんねん に至 いた っても「隊 たい が途中 とちゅう で解散 かいさん した」と巷 ちまた で定説 ていせつ のように扱 あつか われている話 はなし を否定 ひてい し続 つづ けた。
彷徨 ほうこう で興津 おきつ 大尉 たいい 以下 いか 約 やく 30名 めい が凍死 とうし 。興津 おきつ は昨晩 さくばん から凍傷 とうしょう にかかり、櫻井 さくらい 看護 かんご 長 ちょう らが手当 てあ てをしたが[注釈 ちゅうしゃく 6] 、さらに後 のち に生存 せいぞん 者 しゃ として発見 はっけん された将兵 しょうへい を含 ふく む十 じゅう 数 すう 名 めい が行方 ゆくえ 不明 ふめい となった。長谷川 はせがわ 特務 とくむ 曹長 そうちょう は雪原 せつげん を滑落 すべりおち して道 みち に迷 まよ い、彼 かれ に従 したが っていた数 すう 名 めい は午後 ごご 2時 じ 頃 ごろ に見出 みいだ した平沢 ひらさわ の炭 すみ 小屋 こや に滞在 たいざい していた。炭 すみ 小屋 こや ではマッチ で火 ひ をおこし暖 だん を取 と ったが、みな激 はげ しい疲労 ひろう からくる睡魔 すいま に襲 おそ われ、火 ひ の番 ばん をするのが困難 こんなん になったため、翌 よく 1月 がつ 26日 にち 午前 ごぜん 3時 じ 頃 ごろ に火事 かじ を恐 おそ れて火 ひ を消 け した。隊 たい が第 だい 2露営 ろえい 地 ち に戻 もど った頃 ころ に山口 やまぐち 少佐 しょうさ が意識 いしき 障害 しょうがい となり、倉石 くらいし は山口 やまぐち に遺言 ゆいごん を訊 たず ねた。後藤 ごとう 伍長 ごちょう はこの時 とき 山口 やまぐち が死 し んだものと判断 はんだん したようである。
午前 ごぜん 7時 じ 頃 ごろ 、やや天候 てんこう が回復 かいふく したのを見計 みはか らって、大隊 だいたい 本部 ほんぶ 所属 しょぞく の倉石 くらいし 大尉 たいい は斥候 せっこう 隊 たい を募 つの り、田茂木野 たもぎの 方面 ほうめん に高橋 たかはし 他 た 一 いち 伍長 ごちょう 以下 いか 7名 めい 、田代 たしろ 方面 ほうめん に渡辺 わたなべ 幸之助 こうのすけ 軍曹 ぐんそう 以下 いか 6名 めい の計 けい 13名 めい を送 おく り出 だ した[20] 。隊 たい はしばし平静 へいせい を取 と り戻 もど したが、午前 ごぜん 10時 じ 頃 ごろ 、1人 ひとり の兵士 へいし が遠目 とおめ に将兵 しょうへい の隊列 たいれつ が行進 こうしん するのを見出 みいだ して「救助 きゅうじょ 隊 たい が来 き た!」と叫 さけ び、他 た の者 もの も「本当 ほんとう に来 き た!」「母 はは ちゃ~ん!」と叫 さけ び始 はじ めた。倉石 くらいし はラッパ手 しゅ に命 めい じて号音 ごうおん を吹 ふ かせようとしたが、ラッパが唇 くちびる に凍 こお りつき、腹 はら の力 ちから も乏 とぼ しくまともに吹 ふ けなかった。しかし午前 ごぜん 11時 じ まで待 ま っても一向 いっこう に隊列 たいれつ の様子 ようす が変 か わらないので、よく見 み ると救援 きゅうえん 隊 たい と思 おも っていたものは風 ふう に吹 ふ き荒 あ らされる樹 き 列 れつ だと判明 はんめい した[21] 。
一方 いっぽう 、高橋 たかはし 班 はん の佐々木 ささき 霜 しも 吉 きち 一等 いっとう 卒 そつ が馬 うま 立場 たちば 付近 ふきん で帰路 きろ を見出 みいだ し、午前 ごぜん 11時 じ 30分 ふん 頃 ごろ 、戻 もど ってきた高橋 たかはし 斥候 せっこう 長 ちょう が帰路 きろ を発見 はっけん し田茂木野 たもぎの 方面 ほうめん へ進軍 しんぐん 中 ちゅう と報告 ほうこく した。本隊 ほんたい は正午 しょうご 頃 ごろ 出発 しゅっぱつ し、戻 もど ってきた斥候 せっこう 隊 たい について行 い った。この時点 じてん で隊 たい は60名 めい から14名 めい (元 もと の1/3以下 いか )になっていた[22] 。午後 ごご 3時 じ 頃 ごろ 馬立 うまたて 場 じょう に到着 とうちゃく し、そこでもう片方 かたがた の渡辺 わたなべ 幸之助 こうのすけ 軍曹 ぐんそう らの合流 ごうりゅう を待 ま ったが、彼 かれ らはついに戻 もど らなかった。高橋 たかはし 、佐々木 ささき の両 りょう 名 な も重 かさ なり合 あ うようにして凍死 とうし しているのを発見 はっけん された。
隊 たい は行軍 こうぐん を再開 さいかい したが、中ノ森 なかのもり 東方 とうほう 山腹 さんぷく に達 たっ したところで日暮 ひぐ れを迎 むか え、さらに午後 ごご 5時 じ 、カヤイド沢 さわ 東方 とうほう 鞍部 あんぶ に着 つ いた頃 ころ 、倉石 くらいし 大尉 たいい が気 き づいた時 とき には大橋 おおはし 中尉 ちゅうい 、永井 ながい 軍医 ぐんい が隊列 たいれつ から離 はな れて行方 ゆくえ 不明 ふめい となっていた。永井 ながい や桜井 さくらい 龍 りゅう 造 づくり 看護 かんご 長 ちょう などの医療 いりょう 班 はん は、身体 しんたい の限界 げんかい を押 お して看護 かんご を続 つづ けた結果 けっか 、自分 じぶん たちも倒 たお れてしまっていた。この頃 ころ には隊 たい はばらばらになっており、倉石 くらいし はカヤイド沢 さわ に降 お りて第 だい 3の露営 ろえい 地 ち を定 さだ め、伝令 でんれい を送 おく ったが、人員 じんいん は集 あつ まらなかった[22] 。
合流 ごうりゅう 、第 だい 3露営 ろえい [ 編集 へんしゅう ]
『遭難 そうなん 始末 しまつ 』によれば、午後 ごご 11時 じ 頃 ごろ 、倉石 くらいし 大尉 たいい の一 いち 行 ぎょう は山口 やまぐち 隊 たい の捜索 そうさく に出発 しゅっぱつ し、午後 ごご 12時 じ 頃 ごろ に合流 ごうりゅう を果 は たして第 だい 3露営 ろえい 地 ち に戻 もど った[23] 。露営 ろえい 地 ち では互 たが いに大声 おおごえ で呼 よ び、打撃 だげき を加 くわ えて昏睡 こんすい を防 ふせ ぎ、凍死 とうし 者 しゃ の背嚢 はいのう を燃 も やすなどして寒 さむ さを凌 しの いだものの多数 たすう の将兵 しょうへい が凍死 とうし した。
なお、この日 ひ と翌 よく 26日 にち の記録 きろく は資料 しりょう や証言 しょうげん 者 しゃ によって違 ちが いがあり、記憶 きおく 違 ちが いか異 こと なる側面 そくめん かは定 さだ かでない。
倉石 くらいし 大尉 たいい の証言 しょうげん によれば、山口 やまぐち 少佐 しょうさ ではなく先行 せんこう した神成 かみなり 大尉 たいい の一 いち 行 ぎょう とはぐれており、25日 にち 深夜 しんや を回 まわ った26日 にち 午前 ごぜん 1時 じ に合流 ごうりゅう を目指 めざ して出発 しゅっぱつ したが、同日 どうじつ 中 ちゅう には合流 ごうりゅう できず、27日 にち に至 いた って神成 かみなり らと再会 さいかい し、協議 きょうぎ の末 すえ ふた手 しゅ に分 わ かれることを決 き めたという[24] 。
また、後藤 ごとう 伍長 ごちょう の証言 しょうげん によれば、25日 にち に山口 やまぐち 少佐 しょうさ が死亡 しぼう し、この日 ひ の夜 よる の時点 じてん で生存 せいぞん 者 しゃ は71名 めい いたが、田代 たしろ に進 すす むか田茂木野 たもぎの に戻 もど るか方針 ほうしん が定 さだ まらず各自 かくじ の任意 にんい 行動 こうどう となった。ここで倉石 くらいし 大尉 たいい は田代 たしろ を目指 めざ すとして独 ひと り姿 すがた を消 け し、先導 せんどう した水野 みずの 中尉 ちゅうい も雪 ゆき に沈 しず むなど凍死 とうし 者 しゃ が続出 ぞくしゅつ した[25] 。(山口 やまぐち の死亡 しぼう は誤認 ごにん とされる。また水野 みずの の死亡 しぼう は通常 つうじょう 24日 にち とされる)
青森 あおもり では、天候 てんこう が前日 ぜんじつ よりも良 よ かったこともあり、古閑 こが 中尉 ちゅうい 以下 いか 40名 めい は幸畑 こうばた で粥 かゆ を炊 た いて帰営 きえい を待 ま った。さらに一部 いちぶ の将兵 しょうへい は田茂木野 たもぎの 村 むら の南端 なんたん でかがり火 び を焚 た いて夜 よる まで待 ま った。しかし夜半 やはん になっても到着 とうちゃく せず、屯営 とんえい では行軍 こうぐん 隊 たい が三本木 さんぼんぎ 方面 ほうめん に抜 ぬ けているのではと考 かんが え、三本木 さんぼんぎ 警察 けいさつ に電報 でんぽう を打 う ったが確認 かくにん がとれず、翌日 よくじつ 救援 きゅうえん 隊 たい を派遣 はけん することを決定 けってい した。
1月 がつ 26日 にち 、『遭難 そうなん 始末 しまつ 』によれば、倉石 くらいし 、神成 かみなり 両 りょう 大尉 たいい と比較的 ひかくてき 元気 げんき だった十 じゅう 数 すう 名 めい との協議 きょうぎ の末 すえ 、現在地 げんざいち から田茂木野 たもぎの までおよそ8kmと推測 すいそく し夜明 よあ けを待 ま って出発 しゅっぱつ することとした。午前 ごぜん 1時 じ 頃 ごろ に将兵 しょうへい を呼集 こしゅう すると約 やく 30名 めい になっていた[27] 。前日 ぜんじつ の露営 ろえい で山口 やまぐち 少佐 しょうさ が再 ふたた び意識 いしき 障害 しょうがい となり、兵卒 へいそつ に背負 しょ われて行軍 こうぐん した。隊列 たいれつ は乱 みだ れに乱 みだ れ、先頭 せんとう は神成 かみなり 、倉石 くらいし と定 さだ まっていたが、他 た の者 もの は所属 しょぞく も階級 かいきゅう も関係 かんけい なく、将兵 しょうへい たちが後 こう から続 つづ く形 かたち となっていた。神成 かみなり と倉石 くらいし は前方 ぜんぽう 高地 こうち を偵察 ていさつ しつつ進 すす んでいた。
前日 ぜんじつ 夜 よる 、後藤 ごとう 伍長 ごちょう は他 た の4、5名 めい と共 とも に露営 ろえい 中 ちゅう 、飢 う えと寒 さむ さのため昏睡 こんすい したが、幸運 こううん にも凍死 とうし せず26日 にち 朝 あさ に目覚 めざ めた。降雪 こうせつ もなく晴天 せいてん だったが、周 まわ りに誰 だれ もおらず、見渡 みわた すと三々五々 さんさんごご 、将兵 しょうへい が点在 てんざい して帰路 きろ を見定 みさだ めようとしていた。そこで自分 じぶん も高地 こうち に登 のぼ ったところ、神成 かみなり 大尉 たいい 、鈴木 すずき 少尉 しょうい らと出会 であ い、以後 いご 行動 こうどう を共 とも にした。この日 ひ の天気 てんき は晴 は れ時々 ときどき 雪 ゆき だった[28] 。
隊 たい は夕方 ゆうがた までに中 なか の森 もり から賽 さい の河原 かわら の間 あいだ (正確 せいかく な位置 いち は不明 ふめい )に到着 とうちゃく し4度目 どめ の露営 ろえい をした。賽 さい の河原 かわら までは通常 つうじょう なら徒歩 とほ で2時 じ 間 あいだ の距離 きょり だったが、極度 きょくど の飢 う えと疲労 ひろう のために1日 にち を要 よう した[24] 。
救援 きゅうえん 隊 たい による捜索 そうさく [ 編集 へんしゅう ]
この日 ひ 、村上 むらかみ 一等 いっとう 軍医 ぐんい 、三神 みかみ 少尉 しょうい 、下士 かし 卒 そつ 60名 めい の救援 きゅうえん 隊 たい は屯営 とんえい を出発 しゅっぱつ した。途中 とちゅう 村民 そんみん を案内 あんない 人 じん として雇 やと い大 だい 峠 とうげ まで捜索 そうさく 活動 かつどう を行 おこな ったが、案内 あんない 人 じん の調達 ちょうたつ に手間取 てまど り出発 しゅっぱつ が遅 おく れたことに加 くわ え、この日 ひ の気温 きおん は零下 れいか 14℃で風雪 ふうせつ も厳 きび しく、案内 あんない 人 じん および軍医 ぐんい の進言 しんげん により捜索 そうさく を打 う ち切 き って田茂木野 たもぎの へ引 ひ き返 かえ した。
1月 がつ 27日 にち 、生 い き残 のこ った隊 たい は協議 きょうぎ の末 すえ ふた手 しゅ に分 わ かれることとした。青森 あおもり に向 む かって左手 ひだりて の田茂木野 たもぎの を目指 めざ す神成 かみなり 大尉 たいい 一 いち 行 ぎょう 数 すう 名 めい と、右手 みぎて の駒込 こまごめ 澤 さわ 沿 ぞ いに進行 しんこう し青森 あおもり を目指 めざ す倉石 くらいし 大尉 たいい (山口 やまぐち 少佐 しょうさ 含 ふく む)の一 いち 行 ぎょう 約 やく 20名 めい である。なお、『遭難 そうなん 始末 しまつ 』では分隊 ぶんたい した日付 ひづ けを26日 にち としているが、倉石 くらいし の証言 しょうげん によれば27日 にち が正 ただ しい[24] 。
倉石 くらいし 隊 たい は駒込川 こまごめがわ 方面 ほうめん を進 すす むが、途中 とちゅう 青岩 あおいわ 付近 ふきん で崖 がけ にはまってしまい、進 すす むことも退 しりぞ くこともできなくなった。日没 にちぼつ 後 ご は崖 がけ の陰 かげ に寄 よ って夜 よる を凌 しの ごうとしていたところ、今泉 いまいずみ 三太郎 さんたろう 見習 みならい 士官 しかん が下士 かし 1名 めい を伴 ともな い、連隊 れんたい に報告 ほうこく すると告 つ げ、裸 はだか になると倉石 くらいし の制止 せいし を振 ふ り切 き り川 かわ に飛 と び込 こ んだ[24] 。のちに倉石 くらいし は「川 かわ を下 くだ っていった」と述 の べているが、他 た の生還 せいかん 者 しゃ の証言 しょうげん から川 かわ に飛 と び込 こ んだのは間違 まちが いなく、3月9日 にち に下流 かりゅう で遺体 いたい となって発見 はっけん された。
神成 かみなり 隊 たい は、目標 もくひょう に対 たい し比較的 ひかくてき 正 ただ しい方角 ほうがく へ進 すす んでいたものの、猛 もう 吹雪 ふぶき をまともに受 う けたため落伍 らくご 者 しゃ が続出 ぞくしゅつ し、隊 たい は4名 めい となった。やがて鈴木 すずき 少尉 しょうい も高地 こうち を見 み に行 い くとい残 いのこ し、隊 たい を離 はな れたが、そのまま帰 かえ ってこなかった。さらに及川 おいかわ 篤三 とくぞう 郎 ろう も危篤 きとく に陥 おちい り手当 てあ てもできずに死亡 しぼう 。ついには神成 かみなり も倒 たお れ、1月 がつ 27日 にち 早朝 そうちょう 、神成 かみなり は後藤 ごとう に「田茂木野 たもぎの に行 い って住民 じゅうみん を雇 やと い、連隊 れんたい への連絡 れんらく を依頼 いらい せよ」と命令 めいれい した。後藤 ごとう は朦朧 もうろう とした意識 いしき の中 なか 、危急 ききゅう を知 し らせるために、単身 たんしん 田茂木野 たもぎの へ向 む かった。
救援 きゅうえん 隊 たい による捜索 そうさく と後藤 ごとう 伍長 ごちょう 発見 はっけん [ 編集 へんしゅう ]
救援 きゅうえん 隊 たい は捜索 そうさく 活動 かつどう を再開 さいかい した。田代 たしろ まで行 い き、行軍 こうぐん 隊 たい と接触 せっしょく しようと、尻込 しりご みする案内 あんない 人 じん を説得 せっとく して出発 しゅっぱつ した。午前 ごぜん 10時半 じはん 頃 ごろ 、三神 みかみ 少尉 しょうい 率 ひき いる小隊 しょうたい が大滝平 おおたきだいら 付近 ふきん で雪 ゆき 中 ちゅう にたたずむ後藤 ごとう 房之助 ふさのすけ 伍長 ごちょう を発見 はっけん 。後藤 ごとう はこの時 とき のことを「其距離 きょり 等 とう も詳 つまびら かに知 し る能 のう はず、所謂 いわゆる 夢中 むちゅう に前進 ぜんしん 中 ちゅう 救護 きゅうご 隊 たい の為 ため めに救助 きゅうじょ せられたるものなり」[28] と述 の べている。ここで雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 隊 たい の遭難 そうなん が判明 はんめい した。
発見 はっけん 時 じ の様子 ようす については複数 ふくすう の説 せつ がある。
1月 がつ 29日 にち 付 づけ 東奥 ひがしおく 日報 にっぽう によれば、救援 きゅうえん 隊 たい が遠目 とおめ に人 ひと らしいものが1、2歩 ほ 動 うご くのを認 みと めて近付 ちかづ くと、後藤 ごとう 伍長 ごちょう が直立 ちょくりつ したまま身動 みうご きせず目 め だけをギロギロさせており、大声 おおごえ で呼 よ び掛 か けると初 はじ めて気 き が付 つ いた様子 ようす で言葉 ことば を発 はっ した。
同紙 どうし の1月 がつ 30日 にち 付 づけ 号外 ごうがい によれば、救援 きゅうえん 隊 たい に気付 きづ いて大声 おおごえ で叫 さけ び、気 き が緩 ゆる んだのかその場 ば で倒 たお れた。この記述 きじゅつ が29日 にち の記事 きじ に続 つづ くものかは不明 ふめい 。
同年 どうねん 7月 がつ 23日 にち 発行 はっこう の『遭難 そうなん 始末 しまつ 』によれば、目 め を開 あ けたまま仮死 かし 状態 じょうたい で立 た っており、近付 ちかづ いて救命 きゅうめい 処置 しょち を施 ほどこ して約 やく 10分 ふん 後 ご に蘇生 そせい した。この説 せつ は以後 いご 『仮死 かし 状態 じょうたい で歩哨 ほしょう の如 ごと く立 た っていた』などと喧伝 けんでん され、後 のち に銅像 どうぞう が建立 こんりゅう された。
神成 かみなり 大尉 たいい らの遺体 いたい 発見 はっけん [ 編集 へんしゅう ]
意識 いしき を取 と り戻 もど した後藤 ごとう 伍長 ごちょう が「神成 かみなり 大尉 たいい 」と言葉 ことば を発 はっ したため、付近 ふきん を捜索 そうさく すると約 やく 100m先 さき に神成 かみなり が倒 たお れていた。神成 かみなり は帽子 ぼうし や手袋 てぶくろ も着 つ けぬまま首 くび まで雪 ゆき に埋 う まっており、全身 ぜんしん が凍結 とうけつ していた。軍医 ぐんい は腕 うで に気付 きつ け薬 やく を注射 ちゅうしゃ しようとしたが、皮膚 ひふ まで凍 こお っていたため針 はり が折 お れた。やむなく口 くち を開 あ けさせ口腔 こうくう 内 ない に針 はり を刺 さ した。何 なに か語 かた ったように見 み えたが、蘇生 そせい せずそのまま死亡 しぼう した。すぐ近 ちか くで及川 おいかわ 篤 あつし 三郎 さぶろう の遺体 いたい も発見 はっけん されたが、2名 めい の遺体 いたい を運 はこ ぶことはできず、目印 めじるし を付 つ けて後日 ごじつ 収容 しゅうよう することとし、後藤 ごとう と重度 じゅうど の凍傷 とうしょう で倒 たお れた救援 きゅうえん 隊員 たいいん の計 けい 2名 めい の生存 せいぞん 者 しゃ を救護 きゅうご して田茂木野 たもぎの へたどりついた。
本部 ほんぶ への報告 ほうこく [ 編集 へんしゅう ]
午後 ごご 7時 じ 40分 ふん 、三神 みかみ 少尉 しょうい が連隊 れんたい 長官 ちょうかん 舎 しゃ に駆 か け込 こ み、大滝平 おおたきだいら での後藤 ごとう 伍長 ごちょう 発見 はっけん の報 ほう に加 くわ え、雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 隊 たい が「全滅 ぜんめつ の模様 もよう 」であること、2時 じ 間 あいだ の捜索 そうさく で「救助 きゅうじょ 隊 たい 60余 よ 名 めい 中 ちゅう 、約 やく 半数 はんすう が凍傷 とうしょう で行動 こうどう 不可 ふか かつ1名 めい が重度 じゅうど の凍傷 とうしょう で卒倒 そっとう 」となったことを知 し らせた。行軍 こうぐん 隊 たい が田代 たしろ に到達 とうたつ したものと信 しん じていた青森 あおもり 歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい 長 ちょう の津川 つがわ 謙 けん 光 こう 中佐 ちゅうさ は、この報告 ほうこく を聞 き いて青 あお くなった。
1月 がつ 28日 にち 、倉石 くらいし 隊 たい の佐藤 さとう 特務 とくむ 曹長 そうちょう が発狂 はっきょう 、下士 かし 兵卒 へいそつ を連 つ れて川 かわ に飛 と び込 こ み、岩 いわ に引 ひ っ掛 か かり凍死 とうし した[注釈 ちゅうしゃく 7] 。倉石 くらいし は数 すう 名 めい を連 つ れて崖 がけ 穴 あな に入 はい ったが、山口 やまぐち 少佐 しょうさ ら数 すう 名 めい は川岸 かわぎし の場所 ばしょ にいた。どちらかといえば倉石 くらいし のいる所 ところ の方 ほう が場所 ばしょ 的 てき には良 よ かったので、倉石 くらいし は山口 やまぐち に崖 がけ 穴 あな に来 く るよう勧 すす めたが、山口 やまぐち は「吾 われ は此処 ここら にて死 し せん」として拒 こば んだ[24] 。山口 やまぐち に水 みず を与 あた える役目 やくめ は、比較的 ひかくてき 動 うご けた山本 やまもと 徳次郎 とくじろう 一等 いっとう 卒 そつ が負 お った。
弘前 ひろさき 隊 たい の通過 つうか [ 編集 へんしゅう ]
この日 ひ の朝 あさ 、八甲田山 はっこうださん を逆 ぎゃく 方向 ほうこう から行軍 こうぐん してきた弘前 ひろさき 隊 たい は田代 たしろ 付近 ふきん の露営 ろえい 地 ち を発 た ち、鳴沢 なるさわ -大峠 おおとうげ 経由 けいゆ で田茂木野 たもぎの を目指 めざ した。この行軍 こうぐん では青森 あおもり 隊 たい の遭難 そうなん 地 ち を通過 つうか する際 さい に遭難 そうなん 者 しゃ を見 み たとする説 せつ がある(後述 こうじゅつ )。
1月 がつ 29日 にち 、救助 きゅうじょ 隊 たい が神成 かみなり 大尉 たいい および及川 おいかわ 伍長 ごちょう の遺体 いたい を収容 しゅうよう し、各 かく 哨所も完成 かんせい する。
弘前 ひろさき 隊 たい の青森 あおもり 到着 とうちゃく [ 編集 へんしゅう ]
午前 ごぜん 2時 じ 過 す ぎ、弘前 ひろさき 隊 たい は前日 ぜんじつ からの昼夜 ちゅうや を分 わ かたぬ強行 きょうこう 軍 ぐん の末 すえ 、田茂木野 たもぎの に到着 とうちゃく した。同隊 どうたい は民家 みんか で食事 しょくじ したのち午前 ごぜん 4時 じ 20分 ふん に再 ふたた び出発 しゅっぱつ し、午前 ごぜん 7時 じ 20分 ふん に青森 あおもり 駅前 えきまえ に到着 とうちゃく した。
1月 がつ 30日 にち 、後藤 ごとう 惣 そう 助 じょ 一等 いっとう 卒 そつ が倉石 くらいし 大尉 たいい らと合流 ごうりゅう した[24] 。
救助 きゅうじょ 隊 たい は賽 さい の河原 かわら で中野 なかの 中尉 ちゅうい ら36名 めい の遺体 いたい を発見 はっけん した。この場所 ばしょ は倉石 くらいし 大尉 たいい らが駒込川 こまごめがわ の沢 さわ に下 お りていった道 みち に当 あ たる。「賽 さい の河原 かわら 」という地名 ちめい は、以前 いぜん にもここで凍死 とうし した村人 むらびと が多数 たすう いたことに由来 ゆらい するといわれる。
1月 がつ 31日 にち 午前 ごぜん 9時 じ 頃 ごろ 、鳴沢 なるさわ 付近 ふきん で捜索 そうさく に加 くわ わっていた人夫 にんぷ が、飛 と び出 だ してきたウサギを面白 おもしろ 半分 はんぶん に追 お いかけたところ、偶然 ぐうぜん 炭 すみ 小屋 こや を見出 みいだ した。人 ひと の気配 けはい がするので戸 と を開 あ けてみると2名 めい の生存 せいぞん 者 しゃ がおり、三浦 みうら 武雄 たけお 伍長 ごちょう と阿部 あべ 卯吉 うきち 一等 いっとう 卒 そつ を救出 きゅうしゅつ した。朝 あさ まで生 い きていたというもう1名 めい の遺体 いたい も発見 はっけん した。三浦 みうら 、阿部 あべ の両 りょう 名 な は軍医 ぐんい の質問 しつもん に対 たい し、25日 にち 朝 あさ に露営 ろえい 地 ち から出発 しゅっぱつ したところまでは覚 おぼ えているが、それ以降 いこう は記憶 きおく がなく、気 き づいたら小屋 こや に飛 と び込 こ んでいたと証言 しょうげん している[31] 。小屋 こや 周辺 しゅうへん では16名 めい の遺体 いたい を発見 はっけん した。この際 さい 、田村 たむら 少佐 しょうさ は陸軍 りくぐん 省 しょう に「生存 せいぞん 者 しゃ 12名 めい 」と電報 でんぽう を打 う つが、すぐさま「生存 せいぞん 兵卒 へいそつ 2、遺体 いたい 10」と訂正 ていせい している。なお、三浦 みうら は3月 がつ 14日 にち に入院 にゅういん 先 さき で死亡 しぼう した。
鳴沢 なるさわ では他 た に水野 みずの 忠 ただし 宜 むべ 中尉 ちゅうい 以下 いか 33名 めい の遺体 いたい を発見 はっけん し、大滝平 おおたきだいら 付近 ふきん で鈴木 すずき 少尉 しょうい の遺体 いたい を発見 はっけん している。1902年 ねん 2月 がつ 6日 にち 付 づけ 萬 まん 朝 あさ 報 ほう に「故 ゆえ に某 ぼう 将校 しょうこう は鈴木 すずき 少尉 しょうい の死体 したい を発見 はっけん せし時 とき 、『是 ぜ れ死後 しご 二 に 十 じゅう 時間 じかん 以上 いじょう を経 へ しものに非 ひ ず。捜索 そうさく 今 いま 一 いち 日 にち 早 はや かりせば』とて深 ふか く捜索 そうさく の緩慢 かんまん なるを遺憾 いかん とす」という記述 きじゅつ が残 のこ っている。
倉石 くらいし 大尉 たいい らの発見 はっけん [ 編集 へんしゅう ]
午前 ごぜん 9時 じ 頃 ごろ から倉石 くらいし 大尉 たいい らが崖 がけ を登 のぼ り始 はじ め、午後 ごご 3時 じ 頃 ごろ 、250mほど進 すす んだ所 ところ で倉石 くらいし 、伊藤 いとう 中尉 ちゅうい ら4名 めい が救援 きゅうえん 隊 たい に発見 はっけん された。生存 せいぞん 者 しゃ 計 けい 9名 めい が救助 きゅうじょ されたが、高橋 たかはし 房治 ふさじ 伍長 ごちょう 、紺野 こんの 市次郎 いちじろう 二 に 等 とう 卒 そつ は救出 きゅうしゅつ 後 ご 死亡 しぼう した。同時 どうじ に救出 きゅうしゅつ された山口 やまぐち 少佐 しょうさ も入院 にゅういん 先 さき にて2月 がつ 2日 にち に死亡 しぼう した。
弘前 ひろさき 隊 たい の帰営 きえい [ 編集 へんしゅう ]
この日 ひ 弘前 ひろさき 隊 たい は弘前 ひろさき 市 し 郊外 こうがい の連隊 れんたい 屯営 とんえい に帰営 きえい し、雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん の全 ぜん 日程 にってい を終 お えた。
2月 がつ 1日 にち 、賽 さい の河原 かわら 付近 ふきん にて数 すう 名 めい 、按ノ木 き 森 もり から中ノ森 なかのもり にかけては十 じゅう 数 すう 名 めい の遺体 いたい を発見 はっけん した。
2月 がつ 2日 にち 、捜索 そうさく 隊 たい が大崩 おおくずれ 沢 さわ (平沢 ひらさわ )付近 ふきん で見出 みいだ した炭 すみ 小屋 こや において、長谷川 はせがわ 特務 とくむ 曹長 そうちょう 、阿部 あべ 寿 ひさし 松 まつ 一等 いっとう 卒 そつ 、佐々木 ささき 正教 せいきょう 二 に 等 とう 卒 そつ 、小野寺 おのでら 佐平 さへい 二 に 等 とう 卒 そつ の4名 めい の生存 せいぞん が確認 かくにん された。しかし佐々木 ささき 、小野寺 おのでら の両 りょう 名 な は救出 きゅうしゅつ 後 ご 死亡 しぼう した[32] [33] 。当初 とうしょ 小屋 こや には8名 めい の生存 せいぞん 者 しゃ がいたが、うち比較的 ひかくてき 元気 げんき な3名 めい は屯営 とんえい を目指 めざ して出発 しゅっぱつ したのち全員 ぜんいん 凍死 とうし し、永井 ながい 軍医 ぐんい は付近 ふきん から発 はっ された助 たす けを求 もと める声 こえ を聞 き いて外出 がいしゅつ したきり戻 もど らなかったという[34] 。
午後 ごご 3時 じ 頃 ごろ には、最後 さいご の生存 せいぞん 者 しゃ となる村松 むらまつ 伍長 ごちょう が古館 ふるだて 要吉 ようきち 一等 いっとう 卒 そつ の遺体 いたい とともに田代 たしろ 元 もと 湯 ゆ 付近 ふきん の小屋 こや で発見 はっけん された。村松 むらまつ は四肢 しし 切断 せつだん し一 いち 時 じ 危篤 きとく となったが、かろうじて回復 かいふく した。25日 にち 朝 あさ の遭難 そうなん 当時 とうじ 、村松 むらまつ は古館 ふるたて らと共 とも に隊 たい からはぐれ、青森 あおもり を目指 めざ したが道 みち を誤 あやま り、26日 にち 午後 ごご にこの小屋 こや を見出 みいだ した。中 なか には茅 ちがや が積 つ まれていたがマッチが無 な かったため火 ひ をおこせず、翌日 よくじつ 古館 ふるだて が死亡 しぼう した。村松 むらまつ は付近 ふきん で発見 はっけん した温泉 おんせん の湯 ゆ を飲 の んで命 いのち をつないだが、30日 にち 以降 いこう は立 た てなくなり、以後 いご は寝 ね たまま雪 ゆき を食 た べていたという[35] 。
最終 さいしゅう 的 てき な生存 せいぞん 者 しゃ は、倉石 くらいし 一 はじめ 大尉 たいい (山形 やまがた )、伊藤 いとう 格 かく 明 あきら 中尉 ちゅうい (山形 やまがた )、長谷川 はせがわ 貞三 ていぞう 特務 とくむ 曹長 そうちょう (秋田 あきた )、後藤 ごとう 房之助 ふさのすけ 伍長 ごちょう (宮城 みやぎ )、小原 おはら 忠三郎 ちゅうざぶろう 伍長 ごちょう (岩手 いわて )、及川 おいかわ 平助 へいすけ 伍長 ごちょう (岩手 いわて )、村松 むらまつ 文 ぶん 哉伍長 ちょう (宮城 みやぎ )、阿部 あべ 卯吉 うきち 一等 いっとう 卒 そつ (岩手 いわて )、後藤 ごとう 惣 そう 助 じょ 一等 いっとう 卒 そつ (岩手 いわて )、山本 やまもと 徳次郎 とくじろう 一等 いっとう 卒 そつ (青森 あおもり )、阿部 あべ 寿 ひさし 松 まつ 一等 いっとう 卒 そつ (岩手 いわて )の11名 めい のみであった。
この他 ほか 、山口 やまぐち 鋠少佐 さ 、三浦 みうら 武雄 たけお 伍長 ごちょう 、高橋 たかはし 房治 ふさじ 伍長 ごちょう 、紺野 こんの 市次郎 いちじろう 二 に 等 とう 卒 そつ 、佐々木 ささき 正教 せいきょう 二 に 等 とう 卒 そつ 、小野寺 おのでら 佐平 さへい 二 に 等 とう 卒 そつ の6名 めい も救出 きゅうしゅつ されたが、治療 ちりょう の甲斐 かい なく死亡 しぼう した。
生還 せいかん 者 しゃ は、倉石 くらいし 大尉 たいい 、伊藤 いとう 中尉 ちゅうい 、長谷川 はせがわ 特務 とくむ 曹長 そうちょう を除 のぞ き、その全員 ぜんいん が凍傷 とうしょう により足 あし や手 て の切断 せつだん を余儀 よぎ なくされた。比較的 ひかくてき 軽症 けいしょう 者 しゃ のうち、及川 おいかわ はアキレス腱 あきれすけん と指 ゆび 3本 ほん 、山本 やまもと は左足 ひだりあし を切断 せつだん した。他 た の者 もの は四肢 しし 切断 せつだん (一部 いちぶ は両 りょう 下肢 かし と手指 しゅし 部 ぶ のみ)であった。また、最 もっと も健常 けんじょう だった倉石 くらいし は日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の黒 くろ 溝 みぞ 台 だい 会戦 かいせん で1905年 ねん 1月 がつ 27日 にち に戦死 せんし した。伊藤 いとう 、長谷川 はせがわ も重傷 じゅうしょう を負 お った。
遭難 そうなん の詳細 しょうさい については生存 せいぞん 者 しゃ の証言 しょうげん に異同 いどう があり、軍部 ぐんぶ の圧力 あつりょく または情報 じょうほう 操作 そうさ により、戦争 せんそう に向 む けて民間 みんかん 人 じん の軍部 ぐんぶ への批判 ひはん をかわすことを目的 もくてき に、真実 しんじつ が隠 かく されたり、歪曲 わいきょく された節 ふし がある。
山口 やまぐち 少佐 しょうさ の死因 しいん [ 編集 へんしゅう ]
2月 がつ 2日 にち に死亡 しぼう した山口 やまぐち 少佐 しょうさ (大隊 だいたい 長 ちょう )の死因 しいん は公式 こうしき 発表 はっぴょう では心臓麻痺 しんぞうまひ となっている。山口 やまぐち は元々 もともと 心臓 しんぞう が弱 よわ かったとの証言 しょうげん もある。しかし、遭難 そうなん についての一切 いっさい の責任 せきにん を負 お わせるために軍部 ぐんぶ が暗殺 あんさつ したとする説 せつ や、ピストル自殺 じさつ 説 せつ (小笠原 おがさわら 孤 こ 酒 しゅ を取材 しゅざい した新田 にった 次郎 じろう が採 と っている)もある。最近 さいきん では「凍傷 とうしょう の指 ゆび で銃 じゅう の操作 そうさ は不可能 ふかのう 」として新 あら たな背景 はいけい を探 さぐ る松木 まつき 明知 めいち の研究 けんきゅう (死因 しいん はクロロホルムによるショック死 し )もある。
山口 やまぐち 鋠(婿養子 むこようし のため改姓 かいせい 、旧姓 きゅうせい は成澤 なりさわ )は安政 あんせい 3年 ねん 12月17日 にち (1857年 ねん 1月 がつ 12日 にち )に幕臣 ばくしん の子 こ として生 う まれ、義兄 ぎけい の英学 えいがく 者 しゃ の渡部 わたなべ 温 あつし [注釈 ちゅうしゃく 8] が沼津 ぬまづ 兵 へい 学校 がっこう 教授 きょうじゅ を務 つと めていたため、幼少 ようしょう 期 き を沼津 ぬまづ で過 す ごした(年少 ねんしょう のため入学 にゅうがく はせず)。東京 とうきょう 外国 がいこく 語 ご 学校 がっこう [注釈 ちゅうしゃく 9] でフランス語 ふらんすご を専攻 せんこう し、陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう から陸軍 りくぐん 戸山 とやま 学校 がっこう に進 すす む。日 にち 清 しん 戦争 せんそう に従軍 じゅうぐん した後 のち 、青森 あおもり の前 ぜん 任地 にんち は山形 やまがた (歩兵 ほへい 第 だい 32聯隊 れんたい )だった。なお、山口 やまぐち 鋠の兄 あに は退役 たいえき 陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ の成澤 なりさわ 知行 ともゆき であり、遭難 そうなん 直後 ちょくご に青森 あおもり に急行 きゅうこう して死亡 しぼう 直前 ちょくぜん の山口 やまぐち に面会 めんかい している。また知行 ちぎょう ・鋠兄弟 きょうだい の父親 ちちおや 、成澤 なりさわ 良作 りょうさく は同 おな じ幕臣 ばくしん の大川 おおかわ 家 か からの婿養子 むこようし であり、成澤 なりさわ 知行 ともゆき と山口 やまぐち 鋠(養子 ようし のため改姓 かいせい )は、近代 きんだい 日本 にっぽん ので測量 そくりょう ・地図 ちず 出版 しゅっぱん の草分 くさわ け、大川 おおかわ 通 どおり 久 ひさ (沼津 ぬまづ 兵 へい 学校 がっこう で知行 ちぎょう の同期 どうき )の従弟 じゅうてい であることが、2018年 ねん になって成澤 なりさわ 家 か 古文書 こもんじょ から判明 はんめい し、国立 こくりつ 歴史 れきし 民俗 みんぞく 博物館 はくぶつかん の樋口 ひぐち 雄彦 たけひこ 教授 きょうじゅ によって公表 こうひょう [36] された。これは従来 じゅうらい 全 まった く知 し られていなかった新 しん 事実 じじつ である。
山口 やまぐち の最期 さいご を看取 みと った軍医 ぐんい は山形 やまがた 衛戍 えいじゅ 病院 びょういん からの応援 おうえん 者 しゃ 、中原 なかはら 貞 さだ 衛 まもる である。担当 たんとう の中原 なかはら 軍医 ぐんい が数 すう 年 ねん 後 ご に変死 へんし したことなどもあって、陸軍 りくぐん 上層 じょうそう 部 ぶ による暗殺 あんさつ 説 せつ もあるが、弘前大学 ひろさきだいがく 医学部 いがくぶ 麻酔 ますい 科 か の松木 まつき 明知 めいち 教授 きょうじゅ が、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 三宿 みしゅく 駐屯 ちゅうとん 地 ち 内 うち にある彰 あきら 古館 ふるだて (医療 いりょう 史 し 博物館 はくぶつかん )が所蔵 しょぞう する『陸軍 りくぐん 軍医 ぐんい 学会 がっかい 雑誌 ざっし 』の「明治 めいじ 三 さん 十 じゅう 五 ご 年 ねん 凍傷 とうしょう 患者 かんじゃ 治療 ちりょう 景況 けいきょう 」に記載 きさい された山口 やまぐち 少佐 しょうさ の死亡 しぼう 状 じょう 況 きょう を医学 いがく 的 てき に分析 ぶんせき したところ、クロロホルム 麻酔 ますい による心臓麻痺 しんぞうまひ の可能 かのう 性 せい が高 たか いと指摘 してき した。なお中原 なかはら 軍医 ぐんい は医学 いがく を志 こころざ す以前 いぜん に、山口 やまぐち 少佐 しょうさ と同 おな じ東京 とうきょう 外国 がいこく 語 ご 学校 がっこう に学 まな んでおり(専攻 せんこう はドイツ語 ご )、一方 いっぽう 、山口 やまぐち 少佐 しょうさ の前 ぜん 任地 にんち は中原 なかはら 軍医 ぐんい が居 い た山形 やまがた であった。この点 てん に注目 ちゅうもく し、[37] 二人 ふたり に面識 めんしき があったと推論 すいろん する論 ろん も見 み られる。
山口 やまぐち の生存 せいぞん が確認 かくにん されたのは1月 がつ 31日 にち の夕刻 ゆうこく であり、それまでは後藤 ごとう 伍長 ごちょう の言 げん によりすでに死亡 しぼう したとされていた。崖 がけ 下 か からの引 ひ き上 あ げに手間取 てまど ったため、最終 さいしゅう 的 てき に救助 きゅうじょ されたのは夜中 よなか で、応急 おうきゅう 処置 しょち の後 のち 、青森 あおもり 衛戍 えいじゅ 病院 びょういん に入院 にゅういん したのは2月 がつ 1日 にち の夜 よる である。入院 にゅういん 時 じ の記録 きろく では「膝下 ひざもと 、肘 ひじ 下 か は重度 じゅうど の凍傷 とうしょう で手指 しゅし は水 みず 膨 ふく れて膨張 ぼうちょう す」とある[38] 。この記録 きろく によって、まず拳銃 けんじゅう 自殺 じさつ は否定 ひてい される。
山口 やまぐち が死亡 しぼう したのは2月 がつ 2日 にち 午後 ごご 8時半 じはん であるが、入院 にゅういん 後 ご わずか1日 にち で死亡 しぼう している。当時 とうじ 、東京 とうきょう -青森 あおもり 間 あいだ は、直通 ちょくつう 列車 れっしゃ で23時 じ 間 あいだ を要 よう し、電話 でんわ も敷設 ふせつ されていなかったため、急 きゅう を要 よう する通信 つうしん 手段 しゅだん は電報 でんぽう に限 かぎ られていた。遭難 そうなん 発生 はっせい 後 ご の当時 とうじ のその電報 でんぽう 記録 きろく についても、その発信 はっしん 日 び 時 じ まで詳細 しょうさい に残 のこ っている[注釈 ちゅうしゃく 10] が、その中 なか には陸軍 りくぐん 上層 じょうそう 部 ぶ (陸軍 りくぐん 大臣 だいじん および第 だい 八 はち 師団 しだん 長 ちょう )による謀殺 ぼうさつ を匂 にお わすような文言 もんごん は一切 いっさい ない。
よって、松木 まつき が主張 しゅちょう するような「軍 ぐん 上層 じょうそう 部 ぶ による山口 やまぐち 少佐 しょうさ 謀殺 ぼうさつ 説 せつ 」は、それを裏付 うらづ ける証拠 しょうこ もなく、以上 いじょう のような時間 じかん 的 てき 制約 せいやく (すなわち、救出 きゅうしゅつ 後 ご わずか1日 にち 程度 ていど で陸軍 りくぐん 大臣 だいじん が師団 しだん 長 ちょう を通 とお して連隊 れんたい 長 ちょう に暗殺 あんさつ を命 めい じることは時間 じかん 的 てき に不可能 ふかのう )もあり、謀殺 ぼうさつ の事実 じじつ はほぼあり得 え ないと考 かんが えられる[39] 。
松木 まつき の主張 しゅちょう 通 どお りクロロホルム(クロロホルムは現在 げんざい 劇 げき 物 ぶつ として取 と り扱 あつか われている[40] )が死因 しいん だとすれば、治療 ちりょう ミスの可能 かのう 性 せい もあるが、救出 きゅうしゅつ 後 ご 死亡 しぼう した者 もの の中 なか には心臓麻痺 しんぞうまひ が原因 げんいん の者 もの もおり、死因 しいん に特段 とくだん 疑問 ぎもん に思 おも われる点 てん はないと考 かんが えられる。
救助 きゅうじょ 活動 かつどう [ 編集 へんしゅう ]
救助 きゅうじょ 活動 かつどう は青森 あおもり 連隊 れんたい 、弘前 ひろさき 連隊 れんたい 、さらには仙台 せんだい 第 だい 5砲兵 ほうへい 隊 たい も出動 しゅつどう した大掛 おおが かりな体制 たいせい となり、延 の べ1万 まん 人 にん が動員 どういん された。生存 せいぞん 者 しゃ の救出 きゅうしゅつ が済 す み、捜索 そうさく 方法 ほうほう が確立 かくりつ したのちは青森 あおもり 連隊 れんたい が独自 どくじ に行 い った。
救助 きゅうじょ 拠点 きょてん は、幸畑 こうばた に資材 しざい 集散 しゅうさん 基地 きち 、田茂木野 たもぎの に捜索 そうさく 本部 ほんぶ を置 お き、そこから哨戒 しょうかい 所 しょ と呼 よ ばれるベースキャンプを設置 せっち 、前進 ぜんしん させる方法 ほうほう が取 と られた。哨戒 しょうかい 所 しょ は大滝平 おおたきだいら から最初 さいしょ の遭難 そうなん 地点 ちてん の鳴沢 なるさわ まで合計 ごうけい 15箇所 かしょ 設営 せつえい 予定 よてい であったが、実際 じっさい にはいくつかが併合 へいごう され、11箇所 かしょ の設営 せつえい にとどまった。
捜索 そうさく は、生存 せいぞん 者 しゃ の証言 しょうげん と行軍 こうぐん 計画 けいかく を参照 さんしょう して行軍 こうぐん 経路 けいろ を割 わ り出 だ し、そこを基点 きてん として、幅 はば 30m(およそ30人 にん 一 いち 列 れつ )の横隊 おうたい となり、各人 かくじん が所持 しょじ する長 なが さ10m程 ほど の竹 たけ 棒 ぼう を雪 ゆき 中 ちゅう に突 つ き刺 さ しながら前進 ぜんしん し、少 すこ しでも違和感 いわかん のある手応 てごた えを感 かん じた場所 ばしょ を掘削 くっさく する方法 ほうほう が採 と られた。この作業 さぎょう は哨戒 しょうかい 所 しょ を拠点 きょてん として、日 にち 中 ちゅう 6時 じ 間 あいだ 程 ほど かけて行 おこな い、遺体 いたい は哨戒 しょうかい 所 しょ に一旦 いったん 収容 しゅうよう したのち捜索 そうさく 本部 ほんぶ に集積 しゅうせき した。1ヵ月 かげつ も経過 けいか すると、気温 きおん の変化 へんか で捜索 そうさく 隊員 たいいん によって踏 ふ み固 かた められた雪 ゆき がシャーベット状 じょう に硬 かた くなり、竹 たけ 棒 ぼう では刺 さ さらなくなったため鉄棒 てつぼう に切 き り替 か えた。
また、初動 しょどう 捜索 そうさく で北海道 ほっかいどう から辨 べん 開 ひらき 凧 だこ 次郎 じろう らアイヌ 一 いち 行 ぎょう を招 まね いた。彼等 かれら は周辺 しゅうへん の地名 ちめい から遭難 そうなん 者 しゃ が退避 たいひ している可能 かのう 性 せい が高 たか い地点 ちてん を絞 しぼ り込 こ み、所有 しょゆう する猟犬 りょうけん (北海道 ほっかいどう 犬 いぬ )と共 とも に捜索 そうさく 活動 かつどう を行 おこな うという独自 どくじ の手法 しゅほう を用 もち いた。その結果 けっか 、67日間 にちかん の捜索 そうさく 活動 かつどう で遺体 いたい 11体 たい と多数 たすう の遺品 いひん を発見 はっけん した。
発見 はっけん された遺体 いたい は、1体 たい につき数 すう 名 めい がかりで掘 ほ り出 だ し哨戒 しょうかい 所 しょ に運搬 うんぱん した。あまりに凍 こお りついていたため、粗略 そりゃく に扱 あつか うと遺体 いたい が関節 かんせつ の部分 ぶぶん からばらばらに砕 くだ けるからであった。遺体 いたい は哨戒 しょうかい 所 しょ にて衣服 いふく を剥 む いだのち、鉄板 てっぱん に載 の せて直 ちょく 火 ひ にて解凍 かいとう され、新 あたら しい軍服 ぐんぷく を着 き せて棺 かん に収容 しゅうよう し本部 ほんぶ まで運搬 うんぱん した。
水中 すいちゅう に沈 しず んだ遺体 いたい は引 ひ き揚 あ げ作業 さぎょう が難航 なんこう し、そのまま流 なが されてしまうものが多数 たすう あった。そのため、幸畑 こうばた 村 むら を流 なが れる駒込川 こまごめがわ に流出 りゅうしゅつ 防止 ぼうし の柵 しがらみ を設置 せっち し、そこに引 ひ っ掛 か かった遺体 いたい から順次 じゅんじ 収容 しゅうよう して行 い った。しかし、雪解 ゆきど けのため川 かわ が増水 ぞうすい し、柵 しがらみ を越 こ えて海 うみ まで流 なが された遺体 いたい もあった。
発見 はっけん された遺体 いたい は、最終 さいしゅう 的 てき に5連隊 れんたい 駐屯 ちゅうとん 所 しょ に運 はこ ばれ、そこで遺族 いぞく と面会 めんかい 確認 かくにん の後 のち 、そこで荼毘 だび に付 ふ されるか故郷 こきょう へ帰 かえ っていった。腐敗 ふはい が進 すす んで身元 みもと がなかなか判明 はんめい しない遺体 いたい もあった。
最後 さいご の遺体 いたい 収容 しゅうよう は5月28日 にち であった。
原因 げんいん は諸説 しょせつ あるが、決定的 けっていてき なものは特定 とくてい されていない。唱 とな えられている説 せつ を列挙 れっきょ する。
低 てい 体温 たいおん 症 しょう [ 編集 へんしゅう ]
低 てい 体温 たいおん 症 しょう にかかっていることを視野 しや に入 い れず、指揮 しき 官 かん や将校 しょうこう の判断 はんだん ミス、その人物 じんぶつ の資質 ししつ を批判 ひはん するケースは多 おお い。
判断 はんだん 力 りょく の欠如 けつじょ 、思考 しこう 停止 ていし 、錯乱 さくらん などは典型 てんけい 的 てき な低 てい 体温 たいおん 症 しょう の症状 しょうじょう である。神成 かみなり 大尉 たいい の「天 てん は我 われ らを見捨 みす てたらしい」という言動 げんどう は低 てい 体温 たいおん 症 しょう に起因 きいん する典型 てんけい 的 てき な例 れい ともいえる。数日 すうじつ 間 あいだ に及 およ ぶ不眠 ふみん 不休 ふきゅう 、食事 しょくじ もとれず、猛 もう 吹雪 ふぶき で氷点下 ひょうてんか の雪山 ゆきやま を連日 れんじつ 彷徨 ほうこう したことにより、全員 ぜんいん が例外 れいがい なく低 てい 体温 たいおん 症 しょう にかかっていたと思 おも われる。[41]
生存 せいぞん 者 しゃ の小原 おはら 忠三郎 ちゅうざぶろう 伍長 ごちょう は、行軍 こうぐん 中 ちゅう に幻覚 げんかく 幻聴 げんちょう があったことを証言 しょうげん している。幻覚 げんかく 幻聴 げんちょう は重度 じゅうど の低 てい 体温 たいおん 症 しょう で現 あらわ れる症状 しょうじょう である。
気象 きしょう 条件 じょうけん [ 編集 へんしゅう ]
行軍 こうぐん が行 おこな われた時 とき は典型 てんけい 的 てき な西高東低 せいこうとうてい の気圧 きあつ 配置 はいち で、未曾有 みぞう のシベリア寒気 さむけ 団 だん が日本 にっぽん 列島 れっとう を覆 おお っており、各地 かくち で日本 にっぽん の観測 かんそく 史上 しじょう における最低 さいてい 気温 きおん を記録 きろく していた[注釈 ちゅうしゃく 11] 。青森 あおもり は例年 れいねん より8℃から10℃程 ほど 低 ひく く、青森 あおもり 測候所 そっこうじょ の記録 きろく では1月 がつ 24日 にち の最低 さいてい 気温 きおん が零下 れいか 12.3℃、最高 さいこう 気温 きおん は同 どう 8℃、最大 さいだい 風速 ふうそく 14.3m/秒 びょう であり、山間 さんかん 部 ぶ の気象 きしょう 条件 じょうけん はそれらをさらに下回 したまわ るものであった[3] 。行軍 こうぐん 隊 たい の遭難 そうなん した山中 さんちゅう の気温 きおん は、観測 かんそく 係 がかり であった看護 かんご 兵 へい が記録 きろく も残 のこ せず死亡 しぼう したため定 さだ かでないが、『遭難 そうなん 始末 しまつ 』は零下 れいか 20℃以下 いか だったと推測 すいそく している[42] 。
行軍 こうぐん 時 じ の将兵 しょうへい の装備 そうび は、特務 とくむ 曹長 そうちょう (准 じゅん 士官 しかん )以上 いじょう が「毛糸 けいと の外套 がいとう 1着 ちゃく 」「毛糸 けいと の軍帽 ぐんぼう 」「ネル生地 きじ の冬 ふゆ 軍服 ぐんぷく 」「軍手 ぐんて 1双 そう 」「長 ちょう 脚 あし 型 がた 軍靴 ぐんか 」「長靴 ながぐつ 型 がた 雪 ゆき 沓 くつ 」、下士 かし 卒 そつ が「毛糸 けいと の外套 がいとう 2着 ちゃく 重 かさ ね着 ぎ 」「フェルト 地 ち の普通 ふつう 軍帽 ぐんぼう 」「小倉 おぐら 生地 きじ の普通 ふつう 軍服 ぐんぷく 」「軍手 ぐんて 1双 そう 」「短 たん 脚 あし 型 がた 軍靴 ぐんか 」と、現代 げんだい と比較 ひかく すれば冬山 ふゆやま 登山 とざん の防寒 ぼうかん に対応 たいおう しているとは言 い い難 がた い装備 そうび であった。とくに下士 かし 兵卒 へいそつ の防寒 ぼうかん 装備 そうび に至 いた っては、毛糸 けいと の外套 がいとう 2着 ちゃく を渡 わた されただけである。
しかしながら、「ネル生地 きじ 」、「小倉 おぐら 生地 きじ 」、毛糸 けいと などのウールやラシャを超 こ える生地 きじ は当時 とうじ 存在 そんざい していない。装備 そうび 自体 じたい の問題 もんだい ではなく、濡 ぬ れたら交換 こうかん するなどの運用 うんよう 方法 ほうほう に問題 もんだい があった。
倉石 くらいし 大尉 たいい はゴム靴 くつ を持 も っていたことが結果 けっか として凍傷 とうしょう を防 ふせ いだと言 い われるが、これは正月 しょうがつ に東京 とうきょう に行 い った際 さい にたまたま土産物 みやげもの として買 か っていたものであった。当時 とうじ の日本 にっぽん ではゴム靴 くつ はハイカラ な靴 くつ (いわゆるファッションブーツ)として扱 あつか われていたにすぎず、倉石 くらいし が行軍 こうぐん で履 は いていたのは単 たん なる偶然 ぐうぜん である。
指揮 しき 系統 けいとう の混乱 こんらん [ 編集 へんしゅう ]
映画 えいが 「八甲田山 はっこうださん 」では三 さん 國連 こくれん 太郎 たろう 演 えん じる山口 やまぐち 少佐 しょうさ が無謀 むぼう な上司 じょうし として描 えが かれ、青森 あおもり 歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい の組織 そしき の問題 もんだい が原因 げんいん の一 ひと つになっていること、また、新田 にった 次郎 じろう の小説 しょうせつ 「八甲田山 はっこうださん 死 し の彷徨 ほうこう 」では、軍 ぐん 首脳 しゅのう 部 ぶ が考 かんが え出 だ した寒冷 かんれい 地 ち における人体 じんたい 実験 じっけん との記述 きじゅつ があるが、これらは映画 えいが や小説 しょうせつ としての演出 えんしゅつ 、創作 そうさく であり史実 しじつ とは異 こと なる。
大隊 だいたい 本部 ほんぶ が勝手 かって についてきたという話 はなし も映画 えいが 「八甲田山 はっこうださん 」と新田 にった 次郎 じろう の小説 しょうせつ 「八甲田山 はっこうださん 死 し の彷徨 ほうこう 」の創作 そうさく 部分 ぶぶん で、大隊 だいたい 本部 ほんぶ が参加 さんか するのは通例 つうれい となっている。
神成 かみなり 大尉 たいい は雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん を実施 じっし する演習 えんしゅう 中隊 ちゅうたい 長 ちょう であり、実質 じっしつ 的 てき な指揮 しき 官 かん は大隊 だいたい 長 ちょう の山口 やまぐち 少佐 しょうさ だった。[43]
しかしながら、神成 かみなり との間 あいだ に意思 いし 決定 けってい の不 ふ 統一 とういつ もあったと思 おも われる。
極端 きょくたん な情報 じょうほう 不足 ふそく [ 編集 へんしゅう ]
神成 かみなり 大尉 たいい が雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 隊 たい の中隊 ちゅうたい 長 ちょう を任 まか されることになったのは、行軍 こうぐん 実施 じっし の直前 ちょくぜん (約 やく 3週間 しゅうかん 前 まえ )である。それまでの担当 たんとう 者 しゃ は夫人 ふじん 出産 しゅっさん の立会 たちあ いのため、任 にん を解 と かれる形 かたち となった。そのため、実際 じっさい の雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん に対 たい して神成 かみなり は何 なん の予備 よび 知識 ちしき も持 も たぬまま準備 じゅんび 作業 さぎょう に入 はい った。準備 じゅんび としては、予行 よこう 演習 えんしゅう の日帰 ひがえ り行軍 こうぐん を小峠 ことうげ まで新兵 しんぺい による小隊 しょうたい 編成 へんせい で行 おこな ったのみで、今回 こんかい の雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 参加 さんか 者 しゃ は誰 だれ 一人 ひとり 参加 さんか していない。その行軍 こうぐん 自体 じたい が晴天 せいてん 下 か で行 おこな われたこともあり、結果 けっか として冬山 ふゆやま 登山 とざん や雪 ゆき 中 ちゅう 行動 こうどう の基本 きほん 的 てき リスクの抽出 ちゅうしゅつ が行 おこな われなかったことになる。なお、神成 かみなり に関 かん しては、少 すく なくとも将校 しょうこう になってから、雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん に参加 さんか したとの記録 きろく はなく、参加 さんか した将校 しょうこう の半分 はんぶん は雪国 ゆきぐに の出身 しゅっしん ではない。また兵 へい らが露営 ろえい 地 ち において、凍傷 とうしょう で動 うご けなくなることを恐 おそ れ、朝 あさ まで待 ま たずに夜中 よなか に雪 ゆき 濠 ほり を出発 しゅっぱつ したことも大 おお きな原因 げんいん である。このため部隊 ぶたい は暗夜 あんや 道 どう に迷 まよ い、鳴沢 なるさわ 付近 ふきん を彷徨 ほうこう することとなり、これが多 おお くの兵 へい の体力 たいりょく を奪 うば い大量 たいりょう 遭難 そうなん につながった。
雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 参加 さんか 者 しゃ のほとんどは岩手 いわて 県 けん 、宮城 みやぎ 県 けん など寒冷 かんれい 地 ち の農家 のうか の出身 しゅっしん 者 しゃ であったが、厳冬 げんとう 期 き の八甲田 はっこうだ における防寒 ぼうかん の知識 ちしき (八甲田 はっこうだ の雪 ゆき は綿雪 わたゆき と呼 よ ばれる乾 いぬい 雪 ゆき と湿 しめ 雪 ゆき の中庸 ちゅうよう にあたり、岩手 いわて や宮城 みやぎ の湿 しめ 雪 ゆき とは性質 せいしつ が異 こと なる)は皆無 かいむ だった。さらに予備 よび 行軍 こうぐん が晴天 せいてん に恵 めぐ まれ、雪 ゆき の中 なか の遠足 えんそく のようであったとの噂 うわさ も広 ひろ まり、雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん をトレッキング と同列 どうれつ に考 かんが えている者 もの が多 おお かったといわれる。第 だい 5連隊 れんたい では、出発 しゅっぱつ の前日 ぜんじつ に壮行 そうこう 会 かい が開 ひら かれており、深夜 しんや まで宴会 えんかい が行 おこな われていたことも、「過酷 かこく な行軍 こうぐん 」との認識 にんしき が希薄 きはく だったことを窺 うかが わせる。長谷川 はせがわ 特務 とくむ 曹長 そうちょう は「田代 たしろ といっても僅 わず かに5里 り ばかりで、湯 ゆ に入 はい りに行 い くつもりで、たった手 て ぬぐい1本 ほん を持 も っただけだった」と語 かた っている。実際 じっさい はマッチや蝋燭 ろうそく のほか予備 よび の足袋 たび を持参 じさん していた。また、長谷川 はせがわ は凍傷 とうしょう についての知識 ちしき があり、予備 よび の足袋 たび を手袋 てぶくろ 代 か わりに使用 しよう し、常 つね に手 て の摩擦 まさつ を怠 おこた らず、さらに軍 ぐん 銃 じゅう の革 かわ と毛皮 けがわ の外套 がいとう の襟 えり を剥 は がして足 あし に巻 ま き凍傷 とうしょう を防 ふせ いでいた。後藤 ごとう 惣 そう 助 じょ 一等 いっとう 卒 そつ (生還 せいかん )は“山登 やまのぼ り”ということで履物 はきもの を普段 ふだん の革 かわ 製 せい の軍靴 ぐんか から地下足袋 じかたび に換 か え、その上 うえ に藁沓 わらぐつ (わらぐつ)を履 は いて参加 さんか した[44] 。生還 せいかん 者 しゃ の小原 おはら 伍長 ごちょう の証言 しょうげん によれば、誰 だれ も予備 よび の手袋 てぶくろ 、靴下 くつした を用意 ようい しておらず、装備 そうび が濡 ぬ れても交換 こうかん できぬまま凍結 とうけつ がはじまり、体温 たいおん と体力 たいりょく を奪 うば われていったという。小原 おはら も「もしあの時 とき 、予備 よび の軍手 ぐんて 、軍 ぐん 足 あし の一 いち 組 くみ でも余計 よけい にあれば自分 じぶん は足 あし や指 ゆび を失 うしな わなかっただろうし、半分 はんぶん の兵士 へいし が助 たす かっただろう」と後年 こうねん 証言 しょうげん している。「遭難 そうなん 始末 しまつ 」ほか当時 とうじ 発刊 はっかん された各種 かくしゅ 遭難 そうなん 顛末 てんまつ には、行軍 こうぐん 前日 ぜんじつ 、大 だい 隊長 たいちょう および軍医 ぐんい の命令 めいれい として、防寒 ぼうかん 、凍傷 とうしょう の防止 ぼうし 、食事 しょくじ 等 とう について各 かく 小隊 しょうたい 長 ちょう に詳細 しょうさい な注意 ちゅうい 事項 じこう を伝 つた えたとしているが、結果 けっか 的 てき にはそれが兵卒 へいそつ にまで伝 つた えられなかったか、聞 き いたものの特段 とくだん の準備 じゅんび をしなかったものと思 おも われる。
将兵 しょうへい の生還 せいかん 者 しゃ は全員 ぜんいん 山間 さんかん 部 ぶ の出身 しゅっしん で、普段 ふだん はマタギ の手伝 てつだ いや炭焼 すみや き に従事 じゅうじ している者 もの 達 たち だった。彼等 かれら は冬山 ふゆやま での活動 かつどう にある程度 ていど 習熟 しゅうじゅく していたが、凍傷 とうしょう に関 かん する知識 ちしき はなく、平澤 ひらさわ の炭 すみ 小屋 こや で救出 きゅうしゅつ された長谷川 はせがわ 特務 とくむ 曹長 そうちょう の談 だん によれば、炭焼 すみやき 小屋 こや で兵卒 へいそつ が凍傷 とうしょう の手 て をじかに火 ひ にかざし、見 み る間 あいだ に火傷 かしょう を負 お ったが、誰 だれ もそれに気 き がつかず凍傷 とうしょう を悪化 あっか させる結果 けっか となったため、自 みずか らはすぐに火 ひ に当 あ たらず、ひたすら手足 てあし の摩擦 まさつ を行 おこな ったと証言 しょうげん している。なお、壮年 そうねん の佐官 さかん を含 ふく め将校 しょうこう の生存 せいぞん 率 りつ が高 たか いのは、下士 かし 卒 そつ のように銃刀 じゅうとう を持 も っていなかったこと(三 さん 十 じゅう 年 ねん 式 しき 歩兵 ほへい 銃 じゅう は銃剣 じゅうけん を含 ふく めて重量 じゅうりょう 約 やく 4.5㎏、将校 しょうこう が所持 しょじ する軍刀 ぐんとう は約 やく 2㎏)、行李 こうり の運搬 うんぱん に携 たずさ わらなかったこと、野営 やえい 中 なか 、優先 ゆうせん 的 てき に焚 た き火 び に当 あ たることができたこと、防寒 ぼうかん 機能 きのう に優 すぐ れた装備 そうび (上質 じょうしつ の羅紗 らしゃ 仕立 した ての外套 がいとう や長靴 ながぐつ の着用 ちゃくよう )、携行 けいこう 品 ひん も独自 どくじ の裁量 さいりょう が認 みと められていた(懐炉 かいろ 、フランネル の下着 したぎ など)が一因 いちいん と言 い われている。
第 だい 1日 にち 目 め の斥候 せっこう 隊 たい の道 みち 迷 まよ い、第 だい 2日 にち 目 め の佐藤 さとう 特務 とくむ 曹長 そうちょう が先導 せんどう して田代 たしろ 温泉 おんせん に向 む かった際 さい の道 みち 迷 まよ い、第 だい 3日 にち 目 め の鳴沢 なるさわ での道 みち 迷 まよ い、これらはリングワンダリング と呼 よ ばれる現象 げんしょう である。人間 にんげん が視界 しかい を失 うしな った場合 ばあい 、自身 じしん は真 ま っ直 す ぐに歩 ある いているつもりが、実際 じっさい は円 えん を描 えが くように進 すす んでしまい、方向 ほうこう 方角 ほうがく がわからなくなり遭難 そうなん へと繋 つな がる。猛 もう 吹雪 ふぶき と暴風 ぼうふう により視界 しかい はゼロに近 ちか く、雪 ゆき 壕 ごう を出 で れば確実 かくじつ にリングワンダリング に陥 おちい るが、当時 とうじ はそのような知識 ちしき はなかった。[45]
階級 かいきゅう 別 べつ 生存 せいぞん 率 りつ
階級 かいきゅう
参加 さんか 者 しゃ 数 すう
生存 せいぞん 者 しゃ 数 すう
生存 せいぞん 率 りつ
将校 しょうこう ・同 どう 相当 そうとう 官 かん (軍医 ぐんい )
11
2
18.2%
見習 みならい 士官 しかん
2
0
0%
准 じゅん 士官 しかん
4
1
25%
下士 かし (看護 かんご 長 ちょう 含 ふく む)
45
4
8.9%
兵卒 へいそつ (看護 かんご 手 しゅ 含 ふく む)
148
4
2.7%
合計 ごうけい
210
11
5.2%
弘前 ひろさき 歩兵 ほへい 第 だい 31連隊 れんたい [ 編集 へんしゅう ]
弘前 ひろさき ルートで入山 にゅうざん した弘前 ひろさき 歩兵 ほへい 第 だい 31連隊 れんたい 38名 めい も、激 はげ しい風雪 ふうせつ に悩 なや まされたが、ほぼ全 ぜん 行程 こうてい で案内 あんない 人 じん を立 た てたおかげで見事 みごと に踏破 とうは を果 は たした。
1月 がつ 20日 にち 午前 ごぜん 5時 じ 、弘前 ひろさき の屯営 とんえい を出発 しゅっぱつ 。気温 きおん 零下 れいか 6度 ど 。午後 ごご 3時 じ 20分 ふん 小国 おぐに 村 むら に到着 とうちゃく し村落 そんらく に舎営 しゃえい 。移動 いどう 距離 きょり 24キロ。
21日 にち 午前 ごぜん 8時 じ 小国 おぐに 村 むら を出発 しゅっぱつ 。午前 ごぜん 11時 じ 40分 ふん 切明 きりあけ 村 むら に到着 とうちゃく し村落 そんらく に舎営 しゃえい 。移動 いどう 距離 きょり 6キロ。
22日 にち 午前 ごぜん 6時 じ 30分 ふん 切明 きりあけ 村 むら を出発 しゅっぱつ 。午後 ごご 3時 じ 十和田 とわだ 村 むら に到着 とうちゃく し舎営 しゃえい 。
23日 にち 午前 ごぜん 7時 じ 十和田 とわだ 村 むら を出発 しゅっぱつ 。午後 ごご 4時 じ 30分 ふん 宇樽部 ぶ に到着 とうちゃく し村落 そんらく 宿営 しゅくえい 。移動 いどう 距離 きょり 20キロ。
24日 にち 午前 ごぜん 6時 じ 30分 ふん 宇樽部 ぶ を出発 しゅっぱつ 。午後 ごご 6時 じ 30分 ふん 戸来 へらい 村 むら に到着 とうちゃく し舎営 しゃえい 。移動 いどう 距離 きょり 34キロ。
25日 にち 午前 ごぜん 7時 じ 30分 ふん 戸来 へらい 村 むら を出発 しゅっぱつ 。午後 ごご 4時 じ 11分 ふん 三本木 さんぼんぎ に到着 とうちゃく し舎営 しゃえい 。移動 いどう 距離 きょり 20キロ。三本木 さんぼんぎ で1名 めい 離脱 りだつ 。
26日 にち 午前 ごぜん 8時 じ 三 さん 本木 もとき を出発 しゅっぱつ 。午後 ごご 2時 じ 40分 ふん 増沢 ますざわ に到着 とうちゃく し村落 そんらく 宿営 しゅくえい 。移動 いどう 距離 きょり 14キロ。
福島 ふくしま 大尉 たいい は他 た の通過 つうか 予定 よてい 地 ち でも1~2名 めい の案内 あんない 人 じん 斡旋 あっせん の依頼 いらい 状 じょう を送付 そうふ していたが、八甲田 はっこうだ 山越 やまご えのため事前 じぜん に登山 とざん 口 こう の大深 おおふか 内村 ないむら に下士官 かしかん 2名 めい を派遣 はけん し案内 あんない 人 じん 7名 めい (内訳 うちわけ は排 はい 雪 ゆき 6名 めい 、雪 ゆき 道 どう に詳 くわ しいマタギ衆 しゅ 1名 めい )の提供 ていきょう を依頼 いらい する公文書 こうぶんしょ と日当 ひなた その他 た の費用 ひよう を立替払 たてかえばら いとする念書 ねんしょ を持参 じさん させている。
27日 にち 午前 ごぜん 6時 じ 30分 ふん 増沢 ますざわ を出発 しゅっぱつ 。午後 ごご 1時 じ 18分 ふん 田代 たしろ 一 いち 軒 けん 小屋 こや に着 つ き、田代 たしろ に向 む かったが視界 しかい が悪化 あっか し目標 もくひょう の長内 おさない 文 ぶん 次郎 じろう 宅 たく の発見 はっけん に窮 きゅう し案内 あんない 人 じん も動揺 どうよう したため午後 ごご 8時 じ 50分 ふん 田代 たしろ にて露営 ろえい 。大 おお きな枯木 かれき を中心 ちゅうしん に直径 ちょっけい 4m深 ふか さ2mの雪 ゆき 壕 ごう を掘 ほ り、枯 か れ枝 えだ を薪 たきぎ として火 ひ を熾 おこ し、隊員 たいいん は立 た ったまま焚 た き火 び で暖 だん を取 と った。田代 たしろ の積雪 せきせつ 量 りょう は5メートル10センチ、最 さい 下降 かこう 気温 きおん はマイナス11度 ど 。移動 いどう 距離 きょり 18キロ。
28日 にち 午前 ごぜん 1時 じ 頃 ごろ 案内 あんない 人 じん に昨日 きのう の目標 もくひょう であった長内 おさない 文 ぶん 次郎 じろう 宅 たく の捜索 そうさく を命 めい じる。長内 おさない 家 か は発見 はっけん できなかったが小屋 こや が見 み つかったため午前 ごぜん 4時 じ 7分 ふん に露営 ろえい 地 ち を出発 しゅっぱつ 。午前 ごぜん 6時 じ 3分 ふん より空 あ き小屋 こや で1時 じ 間 あいだ 37分 ぶん の休憩 きゅうけい をした。全員 ぜんいん は入 はい りきらないため、外 そと で足踏 あしぶ みをしつつ待 ま つ組 くみ と、中 なか で暖 だん を取 と り餅 もち を炙 あぶ って食 た べる組 くみ とに分 わ かれた。午後 ごご 1時 じ 5分 ふん 鳴沢 なるさわ で6分 ぶん の昼食 ちゅうしょく 休止 きゅうし をとり、午後 ごご 11時 じ 50分 ふん 小 しょう 峠 とうげ に到着 とうちゃく 。移動 いどう 距離 きょり 12キロ。
29日 にち 午前 ごぜん 0時 じ 小 しょう 峠 とうげ を出発 しゅっぱつ 。午前 ごぜん 2時 じ 15分 ふん 田茂木野 たもぎの に着 つ き3時 じ 間 あいだ 休止 きゅうし し朝食 ちょうしょく を摂 と った。午前 ごぜん 7時 じ 20分 ふん 青森 あおもり 市 し に着 つ き舎営 しゃえい 。地元 じもと の歓迎 かんげい を受 う けるが、公式 こうしき には、この日 ひ に青森 あおもり 隊 たい の遭難 そうなん を知 し ることになった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
30日 にち 午前 ごぜん 7時 じ 青森 あおもり 市 し を出発 しゅっぱつ 。午後 ごご 4時 じ 8分 ふん 浪岡 なみおか 村 むら に到着 とうちゃく し舎営 しゃえい 。移動 いどう 距離 きょり 26キロ。
31日 にち 午前 ごぜん 7時半 じはん 浪岡 なみおか 村 むら を出発 しゅっぱつ し午後 ごご 2時 じ 5分 ふん 弘前 ひろさき 屯営 とんえい に到着 とうちゃく 。移動 いどう 距離 きょり 22キロ。予定 よてい よりも1日 にち 多 おお い11泊 はく 12日 にち の行程 こうてい で、負傷 ふしょう のため中途 ちゅうと で帰還 きかん した1名 めい を除 のぞ き全員 ぜんいん が無事 ぶじ 完遂 かんすい した[3] 。
弘前 ひろさき 第 だい 31連隊 れんたい が全員 ぜんいん 無事 ぶじ 帰還 きかん できた理由 りゆう は下記 かき のようなものとされている。
天候 てんこう 不順 ふじゅん で田代 たしろ 新湯 あらゆ にたどり着 つ けないと判断 はんだん するや、穴 あな を掘 ほ ってビバーク し、案内 あんない 人 じん が休憩 きゅうけい のできる小屋 こや を発見 はっけん するまで露営 ろえい 地 ち に留 とど まっていたこと。
部隊 ぶたい を率 ひき いた指揮 しき 官 かん ・福島 ふくしま 泰 やすし 蔵 ぞう 大尉 たいい が、寒冷 かんれい 地 ち での活動 かつどう に際 さい しての様々 さまざま な準備 じゅんび (例 れい :雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん の研究 けんきゅう という目的 もくてき から、隊員 たいいん の荷物 にもつ を最小限 さいしょうげん とし、食糧 しょくりょう や藁沓 わらぐつ (わらぐつ)など消耗 しょうもう 品 ひん の補給 ほきゅう 、宿泊 しゅくはく を全部 ぜんぶ 現地 げんち の民間 みんかん に委 ゆだ ねたことなど)を重 かさ ねたこと。
連隊 れんたい が比較的 ひかくてき 少 しょう 人数 にんずう で、最後 さいご まで統率 とうそつ が保 たも たれていたこと。
隊員 たいいん に地元 じもと 青森 あおもり の出身 しゅっしん 者 しゃ が多 おお く、選抜 せんばつ に当 あ たっても応募 おうぼ 者 しゃ の体格 たいかく や素質 そしつ が充分 じゅうぶん 考慮 こうりょ されたこと。
福島 ふくしま 大尉 たいい が過去 かこ 2年間 ねんかん にわたり、岩木山 いわきやま 雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん などを実施 じっし しており、露営 ろえい を含 ふく め、雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん を熟知 じゅくち していたこと。
行軍 こうぐん 途中 とちゅう の遭難 そうなん 隊 たい の目撃 もくげき 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
福島 ふくしま 泰 やすし 蔵 ぞう 大尉 たいい 率 ひき いる弘前 ひろさき 歩兵 ほへい 隊 たい が青森 あおもり 隊 たい の遭難 そうなん を知 し ったのは公式 こうしき には田茂木野 たもぎの に着 つ いてからとされているが、途中 とちゅう 凍死 とうし 者 しゃ および銃 じゅう を見 み たとの記述 きじゅつ が従軍 じゅうぐん 記者 きしゃ による記事 きじ [注釈 ちゅうしゃく 12] や隊員 たいいん の日記 にっき 、案内 あんない 人 じん の証言 しょうげん 記録 きろく などにある[47] 。遭難 そうなん 者 しゃ の顔 かお を見 み ようと軍帽 ぐんぼう を外 はず そうとしたところ、顔 かお の皮膚 ひふ まで剥 は がれて軍帽 ぐんぼう に付着 ふちゃく したとの記述 きじゅつ もある[48] 。さらに弘前 ひろさき 隊 たい が田茂木野 たもぎの に着 つ いた際 さい 、第 だい 5連隊 れんたい 遭難 そうなん 者 しゃ を目撃 もくげき した旨 むね を福島 ふくしま 大尉 たいい 自身 じしん が報告 ほうこく したという資料 しりょう が2002年 ねん に見 み つかっている。
しかし、福島 ふくしま の「過去 かこ 二 に 日間 にちかん の事 こと は絶対 ぜったい 口外 こうがい すべからず」という命令 めいれい やその後 ご の軍 ぐん の緘口 かんこう 令 れい により、現地 げんち で見 み たこと、その他 た 軍 ぐん の不利 ふり になるようなことはすべて封 ふう じられた。自 みずか らも遭難 そうなん しそうな状況 じょうきょう 下 か で救助 きゅうじょ は事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう だったが、目撃 もくげき の事実 じじつ を隠蔽 いんぺい した理由 りゆう として、遭難 そうなん を発見 はっけん しながら救助 きゅうじょ 活動 かつどう をしなかったことが推測 すいそく されている。その後 ご 、第 だい 5連隊 れんたい の後藤 ごとう 惣 そう 助 じょ 一等 いっとう 卒 そつ (生還 せいかん )の体験 たいけん 談 だん として、救援 きゅうえん 隊 たい とおぼしき一団 いちだん を見 み て互 たが いに気付 きづ いたが無視 むし して通過 つうか されてしまい、後日 ごじつ 弘前 ひろさき 隊 たい だったと知 し ったという旨 むね の資料 しりょう が見 み つかっている[49] 。
案内 あんない 人 じん の証言 しょうげん と被害 ひがい [ 編集 へんしゅう ]
31連隊 れんたい と共 とも に田代 たしろ への道案内 みちあんない で駆 か り出 だ された地元 じもと の一般人 いっぱんじん も後遺症 こういしょう の残 のこ る凍傷 とうしょう などの被害 ひがい を受 う けている。国 くに などから補償 ほしょう のあった遭難 そうなん 兵士 へいし と違 ちが い、道案内 みちあんない の地元民 じもとみん には1人 ひとり 2円 えん の案内 あんない 料 りょう 以外 いがい は渡 わた されていない[注釈 ちゅうしゃく 13] 。
後日 ごじつ 発表 はっぴょう された当時 とうじ の案内 あんない 人 じん の言 げん によれば、実際 じっさい には田代 たしろ に向 む けた行進 こうしん において、引 ひ き返 かえ すことを進言 しんげん した案内 あんない 人 じん を叱 しか り飛 と ばし無理矢理 むりやり 案内 あんない をさせたばかりか、田代 たしろ 近辺 きんぺん の露営 ろえい 地 ち に着 つ くなり休憩 きゅうけい する暇 ひま も与 あた えず、案内 あんない 人 じん の一部 いちぶ を人質 ひとじち として拘束 こうそく した上 うえ で、残 のこ りの者 もの に田代 たしろ 新湯 あらゆ への斥候 せっこう を命 めい じたとある。結局 けっきょく 、新湯 あらゆ は見 み つからず、明 あ け方 がた になって開拓 かいたく 者 しゃ の小 ちい さな小屋 こや を見出 みいだ したが、全員 ぜんいん は入 はい りきれず、足踏 あしぶ みをしながら朝 あさ まで交代 こうたい で小屋 こや の内 うち と外 そと で休憩 きゅうけい をした。
また、31連隊 れんたい の福島 ふくしま 隊 たい は、八甲田山 はっこうださん 系 けい の最 さい 難関 なんかん を通過 つうか 後 ご 、小峠 ことうげ 付近 ふきん で疲労 ひろう 困憊 こんぱい の案内 あんない 人 じん たちを置 お き去 ざ りにして部隊 ぶたい だけで田茂木野 たもぎの に行軍 こうぐん していった。これら案内 あんない 人 じん はすべて重度 じゅうど の凍傷 とうしょう を負 お い、うち1名 めい は入院 にゅういん するも回復 かいふく せず、廃人 はいじん 同様 どうよう となったまま16年 ねん 後 ご に死亡 しぼう 、いま1人 にん は凍傷 とうしょう のため頬 ほお に穴 あな があき、水 みず を飲 の むのにさえ苦労 くろう したという。これらの事実 じじつ は1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )になって初 はじ めて明 あき らかにされ、地元 じもと では“七 なな 勇士 ゆうし ”として、その功績 こうせき を称 たた える石碑 せきひ も翌年 よくねん に建立 こんりゅう された[47] [50] 。
陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 幹部候補生学校 かんぶこうほせいがっこう に寄贈 きぞう された福島 ふくしま 大尉 たいい の遺品 いひん に、7人 にん の案内 あんない 人 じん を提供 ていきょう した大深 おおふか 内 ない 村 むら の村長 そんちょう からの、「連隊 れんたい 長 ちょう 及 およ び福島 ふくしま 大尉 たいい の念書 ねんしょ を頂 いただ いて用立 ようだて てした案内 あんない 人 じん が重度 じゅうど の凍傷 とうしょう にかかり、治療 ちりょう 費 ひ を陸軍 りくぐん に負担 ふたん して貰 もら う旨 むね 村議 そんぎ 会 かい で全会 ぜんかい 一致 いっち で議決 ぎけつ したため、議決 ぎけつ 書 しょ や診断 しんだん 書 しょ をお送 おく りしますのでご補助 ほじょ をよろしくお願 ねが いします」との内容 ないよう の手紙 てがみ がある。
その後 ご の雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 2次 じ 雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん (戦前 せんぜん )[ 編集 へんしゅう ]
1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )1月 がつ 、第 だい 2次 じ 雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん を敢行 かんこう 。参加 さんか 者 しゃ 全員 ぜんいん 無事 ぶじ に八甲田山 はっこうださん 踏破 とうは に成功 せいこう した。
陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 第 だい 5普通 ふつう 科 か 連隊 れんたい (戦後 せんご )[ 編集 へんしゅう ]
事件 じけん 以降 いこう の出来事 できごと [ 編集 へんしゅう ]
馬立 うまたて 場 じょう に立 た てられた雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 遭難 そうなん 記念 きねん 像 ぞう (2006年 ねん 、記事 きじ 冒頭 ぼうとう の銅像 どうぞう の全景 ぜんけい )
当時 とうじ 陸軍 りくぐん 大臣 だいじん だった寺内 てらうち 正毅 まさき は、全国 ぜんこく の将校 しょうこう から寄付 きふ を募 つの り、事件 じけん 翌年 よくねん の1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )、大熊 おおくま 氏 し 廣 ひろ の制作 せいさく した神成 かみなり 大尉 たいい の雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 遭難 そうなん 記念 きねん 像 ぞう (後藤 ごとう 房之助 ふさのすけ 伍長 ごちょう の像 ぞう )が立 た てられた。像 ぞう のモデルに後藤 ごとう 伍長 ごちょう が選 えら ばれたのは、神成 かみなり 大尉 たいい の命 いのち を受 う けた後藤 ごとう 伍長 ごちょう が命 いのち がけで田茂木野 たもぎの に向 む け行進 こうしん した功 こう が認 みと められたためである。銅像 どうぞう 建立 こんりゅう の場所 ばしょ は青森湾 あおもりわん を見渡 みわた すことのできる馬 うま 立場 たちば 付近 ふきん で、第 だい 二 に 露営 ろえい 地 ち (1月 がつ 24日 にち )と第 だい 三 さん 露営 ろえい 地 ち (1月 がつ 25日 にち )の間 あいだ に位置 いち する。当時 とうじ の連隊 れんたい 長 ちょう に「よく見 み ろ」と言 い われた後藤 ごとう 本人 ほんにん は、照 て れくさく銅像 どうぞう をなかなか見 み ることができなかったという。なお、後藤 ごとう 伍長 ごちょう 発見 はっけん の地 ち は銅像 どうぞう よりも数 すう km青森 あおもり よりの場所 ばしょ である。また、彼 かれ は遭難 そうなん の話 はなし はあまり話 はな したがらず、同 おな じく生 い き残 のこ りの村松 むらまつ 伍長 ごちょう と仲 なか が良 よ かった。
八甲田山 はっこうださん 雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 遭難 そうなん 事件 じけん を聞 き いたノルウェー 国王 こくおう ホーコン7世 せい は、1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )、お見舞 みま いとして明治天皇 めいじてんのう 宛 あて にスキー板 ばん 2台 だい を進呈 しんてい した。1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )には陸軍 りくぐん の依頼 いらい で、交換 こうかん 将校 しょうこう として来日 らいにち 中 ちゅう のオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく のレルヒ少佐 しょうさ によるスキー の指導 しどう が行 おこな われた。レルヒ少佐 しょうさ は1912年 ねん (明治 めいじ 45年 ねん )まで高田 たかだ 第 だい 58連隊 れんたい (新潟 にいがた 県 けん )や旭川 あさひかわ 第 だい 7師団 しだん (北海道 ほっかいどう )でスキーの指導 しどう を行 おこな い、同 どう 時期 じき にノルウェー式 しき スキーが北海道 ほっかいどう で導入 どうにゅう されたことで、日本 にっぽん 国内 こくない でスキーによる雪上 せつじょう 移動 いどう が普及 ふきゅう した。
1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )、新田 にった 次郎 じろう が『八甲田山 はっこうださん 死 し の彷徨 ほうこう 』として小説 しょうせつ 化 か 。さらにこの小説 しょうせつ を原作 げんさく とした1977年 ねん (昭和 しょうわ 52年 ねん )の映画 えいが 『八甲田山 はっこうださん 』で一般 いっぱん に広 ひろ く知 し られることになった。
新田 にった 次郎 じろう の『八甲田山 はっこうださん 死 し の彷徨 ほうこう 』の終章 しゅうしょう に、事件 じけん 後 ご に陸軍 りくぐん と国家 こっか が取 と った対応 たいおう として遺族 いぞく には国家 こっか から恩給 おんきゅう が与 あた えられ皇室 こうしつ からは祭 まつり 粢 しとぎ 料 りょう が下賜 かし されたことに続 つづ いて、「遭難 そうなん 者 しゃ は戦死 せんし 者 しゃ と同 おな じように扱 あつか い、靖国神社 やすくにじんじゃ に合祀 ごうし するということを聞 き いて、遺家族 いかぞく や国民 こくみん もようやく納得 なっとく した」と書 か かれているくだりがあるため、この事件 じけん の遭難 そうなん 者 しゃ が靖国神社 やすくにじんじゃ の合祀 ごうし 対象 たいしょう となったという誤 あやま った説 せつ が、長 なが い間 あいだ 流布 るふ される結果 けっか となったが、上記 じょうき の情報 じょうほう は誤報 ごほう であったことが、詳細 しょうさい に明 あき らかにされた[52] 。
生還 せいかん 者 しゃ の中 なか で最後 さいご の存命 ぞんめい 人物 じんぶつ だったのは小原 おはら 忠三郎 ちゅうざぶろう 伍長 ごちょう で、両足 りょうあし と手 て の指 ゆび を切断 せつだん したが、91歳 さい まで存命 ぞんめい し、1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )2月 がつ 5日 にち に死去 しきょ した。1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )12月に陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい の渡辺 わたなべ 一等 いっとう 陸 りく 尉 じょう が国立 こくりつ 箱根 はこね 療養 りょうよう 所 しょ を訪 たず ねて、遭難 そうなん 事故 じこ のき取 きと り調査 ちょうさ を行 おこな った。その後 ご 、1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )8月 がつ に小笠原 おがさわら 孤 こ 酒 しゅ が小原 おはら からき取 きと りを行 おこな った。小原 おはら の証言 しょうげん によって事件 じけん の詳細 しょうさい が判明 はんめい した。
2007年 ねん (平成 へいせい 19年 ねん )2月 がつ 14日 にち 、後藤 ごとう 伍長 ごちょう の銅像 どうぞう に向 む かうスキーのコース「銅像 どうぞう コース」で雪崩 なだれ が発生 はっせい し、死者 ししゃ 2人 にん ・重軽傷 じゅうけいしょう 者 しゃ 8人 にん の事故 じこ となった。
2011年 ねん 3月 がつ 11日 にち に起 お きた東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい の影響 えいきょう により、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 衛生 えいせい 学校 がっこう (東京 とうきょう 都 と 世田谷 せたがや 区 く )の史料 しりょう 室 しつ の展示 てんじ 品 ひん が壊 こわ れた際 さい 、救出 きゅうしゅつ された隊員 たいいん のうち後藤 ごとう 房之助 ふさのすけ 伍長 ごちょう ら5名 めい の手術 しゅじゅつ 前 まえ の姿 すがた を写 うつ した写真 しゃしん が見 み つかったことが、2012年 ねん 6月 がつ に明 あき らかとなった。これまで術 じゅつ 前 まえ の写真 しゃしん の存在 そんざい は知 し られていなかった[54] 。
2012年 ねん 4月 がつ 12日 にち 、弘前 ひろさき 歩兵 ほへい 第 だい 31連隊 れんたい の福島 ふくしま 泰 やすし 蔵 ぞう 大尉 たいい が記 しる した報告 ほうこく 書 しょ や手記 しゅき 、論文 ろんぶん 、手紙 てがみ など計 けい 241点 てん が陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 幹部候補生学校 かんぶこうほせいがっこう に寄贈 きぞう された。親族 しんぞく が生家 せいか で保管 ほかん していたもので、2004年 ねん の日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 開戦 かいせん 100周年 しゅうねん を機 き に、公開 こうかい を検討 けんとう していたものである[55] 。
陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 第 だい 9師団 しだん 青森 あおもり 駐屯 ちゅうとん 地 ち 防衛 ぼうえい 館 かん - 元 もと 第 だい 5連隊 れんたい 本部 ほんぶ 兵舎 へいしゃ を1968年 ねん に移築 いちく (事前 じぜん 連絡 れんらく で見学 けんがく 可能 かのう )。
青森 あおもり 県立 けんりつ 青森 あおもり 高等 こうとう 学校 がっこう - 出発 しゅっぱつ 点 てん の青森 あおもり 歩兵 ほへい 第 だい 5連隊 れんたい 跡地 あとち 。
八甲田山雪中行軍遭難資料館 - 近 ちか くに幸畑 こうばた 陸軍 りくぐん 墓地 ぼち (雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 隊 たい 墓碑 ぼひ がある)、遭難 そうなん 凍死 とうし 者 しゃ 英霊 えいれい 堂 どう がある。雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 遭難 そうなん 記念 きねん 像 ぞう (後藤 ごとう 伍長 ごちょう 像 ぞう )のレプリカを所蔵 しょぞう する。
後藤 ごとう 伍長 ごちょう 発見 はっけん の地 ち - 青森 あおもり 県 けん 道 どう 40号 ごう 青森 あおもり 田代 たしろ 十和田 とわだ 線 せん 青森 あおもり 市 し が設置 せっち した看板 かんばん あり。
中 なか の森 もり 第 だい 三 さん 露営 ろえい 地 ち - 青森 あおもり 県 けん 道 どう 40号 ごう 青森 あおもり 田代 たしろ 十和田 とわだ 線 せん 青森 あおもり 市 し が設置 せっち した看板 かんばん あり。
雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 遭難 そうなん 記念 きねん 像 ぞう - 八甲田山 はっこうださん 中 ちゅう 。1904年 ねん 建立 こんりゅう 。モデルは後藤 ごとう 房之助 ふさのすけ 伍長 ごちょう 。県立 けんりつ 青森 あおもり 高校 こうこう から県道 けんどう 40号 ごう (行軍 こうぐん ルート)で車 くるま で40分 ふん 、銅像 どうぞう 茶屋 ちゃや の脇 わき から歩行 ほこう 者 しゃ 用 よう の参道 さんどう を約 やく 250m登 のぼ った場所 ばしょ にある。同地 どうち はかつての馬立 うまたて 場 じょう 付近 ふきん であり、実際 じっさい の後藤 ごとう 伍長 ごちょう 発見 はっけん 場所 ばしょ からは数 すう km南東 なんとう に位置 いち する。
銅像 どうぞう 茶屋 ちゃや - 青森 あおもり 県 けん 県道 けんどう 40号 ごう 沿 ぞ い、後藤 ごとう 伍長 ごちょう 像 ぞう に続 つづ く参道 さんどう の入 にゅう 口脇 くちわき にある民営 みんえい ドライブイン。八甲田 はっこうだ 雪 せつ 中 ちゅう 行軍 こうぐん 記念 きねん 館 かん 「鹿 しか 鳴 な 庵 あん 」を併設 へいせつ し、関連 かんれん 書籍 しょせき や資料 しりょう 等 とう を展示 てんじ していたが、2019年 ねん から経営 けいえい 難 なん と経営 けいえい 者 しゃ の高齢 こうれい 化 か で閉店 へいてん 中 ちゅう である[56] 。経営 けいえい 者 しゃ と生前 せいぜん の小笠原 おがさわら 孤 こ 酒 しゅ に交流 こうりゅう があった関係 かんけい で、小笠原 おがさわら 孤 こ 酒 しゅ 『吹雪 ふぶき の惨劇 さんげき 』の発行 はっこう ・販売元 はんばいもと となっている。
鳴沢 なるさわ 第 だい 二 に 露営 ろえい 地 ち - 青森 あおもり 県 けん 道 どう 40号 ごう 青森 あおもり 田代 たしろ 十和田 とわだ 線 せん 青森 あおもり 市 し が設置 せっち した看板 かんばん あり。
平沢 ひらさわ 第 だい 一 いち 露営 ろえい 地 ち - 青森 あおもり 県 けん 道 どう 40号 ごう 青森 あおもり 田代 たしろ 十和田 とわだ 線 せん 青森 あおもり 市 し が設置 せっち した看板 かんばん あり。
田代 たしろ 元 もと 湯 ゆ - 生存 せいぞん 者 しゃ のひとり、村松 むらまつ 伍長 ごちょう が発見 はっけん された場所 ばしょ 。
田代 たしろ 新湯 あらゆ - 雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん の目的 もくてき 地 ち 。駒込川 こまごめがわ 沿 そ いに浴槽 よくそう の跡 あと 、湯 ゆ 小屋 こや がある。
青森 あおもり 市 し 森林 しんりん 博物館 はくぶつかん - 旧 きゅう 青森営林局 あおもりえいりんきょく 庁舎 ちょうしゃ 。営林局 えいりんきょく 長 ちょう 室 しつ が映画 えいが 八甲田山 はっこうださん のロケに使 つか われた。
題材 だいざい とした作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
^ 小説 しょうせつ や映画 えいが での行軍 こうぐん 競争 きょうそう などは創作 そうさく である。
^ 本来 ほんらい の目的 もくてき 地 ち は田代 たしろ 新湯 あらゆ である。映画 えいが 「八甲田山 はっこうださん 」では最後 さいご の方 ほう に村山 むらやま 伍長 ごちょう がロープウェイに乗 の るシーンがあるが、彼 かれ のモデルとなった村松 むらまつ 伍長 ごちょう が実際 じっさい に発見 はっけん されたのは田代 たしろ 元 もと 湯 ゆ であり、また彼 かれ を含 ふく めた生還 せいかん 者 しゃ 全員 ぜんいん が八甲田山 はっこうださん ロープウェイ敷設 ふせつ 前 まえ に死去 しきょ している。
^ ちなみに2015年 ねん 現在 げんざい 、青森 あおもり 県 けん 県道 けんどう 40号 ごう 沿 ぞ いに第 だい 1、第 だい 2露営 ろえい 地 ち 跡 あと の標識 ひょうしき があるが、この間 あいだ は徒歩 とほ で約 やく 10分 ふん ほどの距離 きょり である。
^ 映画 えいが 『八甲田山 はっこうださん 』(1977年 ねん )では、神田 かんだ 大尉 たいい (北大路 きたおおじ 欣也 きんや )が「天 てん は…天 てん は我々 われわれ を見放 みはな した」と声 こえ を下 した に絞 しぼ り出 だ しながら発言 はつげん している。脚本 きゃくほん (橋本 はしもと 忍 しのぶ )では「血 ち を吐 は くような悲痛 ひつう な声 こえ が静 しず かな疎林 そりん の中 なか へ響 ひび く」と表現 ひょうげん されている。
^ 『八甲田山 はっこうださん 死 し の彷徨 ほうこう 』(新田 にった 次郎 じろう )では「神田 かんだ 大尉 たいい は雪 ゆき を踏 ふ みしめながら怒鳴 どな った」と記述 きじゅつ 。
^ 余談 よだん :2月 がつ 12日 にち に興津 おきつ の遺体 いたい が発見 はっけん された際 さい 、従卒 じゅうそつ の軽石 かるいし 三蔵 さんぞう 二 に 等 とう 卒 そつ の遺体 いたい が興津 おきつ に覆 おお いかぶさるように倒 たお れていたという説 せつ があり、現場 げんば を写 うつ したとされる写真 しゃしん も存在 そんざい する。これは美談 びだん として広 ひろ く喧伝 けんでん され、『遭難 そうなん 始末 しまつ 』附録 ふろく の美談 びだん 集 しゅう にも「上官 じょうかん を想 おも い供 きょう に凍死 とうし す」という見出 みだ しで取 と り上 あ げられた(歩兵 ほへい 第 だい 五 ご 聯隊 れんたい 1902b , p. 3)。ところが実際 じっさい には、興津 おきつ と軽石 かるいし の遺体 いたい はそれぞれ別 べつ の捜索 そうさく 隊 たい が異 こと なる場所 ばしょ で発見 はっけん しており、興津 おきつ に覆 おお いかぶさっていたのは軽石 かるいし ではなく吉田 よしだ 春松 はるまつ 一等 いっとう 卒 そつ だった。問題 もんだい の写真 しゃしん も現場 げんば で撮影 さつえい したものではなく、遺体 いたい を第 だい 8哨所に収容 しゅうよう したのちに演出 えんしゅつ を加 くわ えて撮影 さつえい した写真 しゃしん だったことが判明 はんめい している(川口 かわぐち 2001 , pp. 200–204)。
^ のちに倉石 くらいし は「佐藤 さとう は連隊 れんたい に連絡 れんらく せんとて行 い きしまま行方 ゆくえ 不明 ふめい 」と述 の べている。
^ 『イソップ寓話 ぐうわ 』の翻訳 ほんやく 等 とう で名高 なだか い。
^ 渡部 わたなべ が校長 こうちょう だったことがある。
^ 防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ 図書館 としょかん 所蔵 しょぞう 。
^ 旭川 あさひかわ では1月 がつ 25日 にち 零下 れいか 41.0℃を記録 きろく した。帯広 おびひろ では1月 がつ 26日 にち に同 どう 38.2℃を記録 きろく し、第 だい 2位 い となった。
^ 1月 がつ 30日 にち 付 づけ 東奥 ひがしおく 日報 にっぽう 号外 ごうがい において、従軍 じゅうぐん した同紙 どうし 記者 きしゃ の東海 とうかい 勇三郎 ゆうさぶろう が1月 がつ 28日 にち の行軍 こうぐん 中 ちゅう に銃 じゅう および凍死 とうし 体 たい を見 み たと記 しる している。ただし同紙 どうし は後 のち に訂正 ていせい 記事 きじ を掲載 けいさい した。
^ 映画 えいが では案内 あんない 人 じん に敬礼 けいれい をする等 ひとし 、一定 いってい の敬意 けいい を払 はら っていたかのような描写 びょうしゃ があるが、あくまで映画 えいが における演出 えんしゅつ である。
^ 八甲田山雪中行軍遭難事件 遭難 そうなん の過程 かてい と原因 げんいん 2022 , p. 70
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出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2010年 ねん 6月 がつ )
遭難 そうなん 始末 しまつ :歩兵 ほへい 第 だい 五 ご 聯隊 れんたい による事件 じけん 調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ 。原書 げんしょ は古書 こしょ となるが、他 ほか にも以下 いか の参照 さんしょう 手段 しゅだん がある。
歩兵 ほへい 第 だい 五 ご 聯隊 れんたい , ed. (1977-08-07), 遭難 そうなん 始末 しまつ , 財団 ざいだん 法人 ほうじん 稽古 けいこ 館 かん :原書 げんしょ の復刻 ふっこく 版 ばん 。
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歩兵 ほへい 第 だい 五 ご 聯隊 れんたい , ed. (1902b-07), 遭難 そうなん 始末 しまつ 〔附録 ふろく 〕 , 歩兵 ほへい 第 だい 五 ご 聯隊 れんたい , https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/844358 2015年 ねん 10月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん 。
北辰 ほくしん 日報 にっぽう 編輯 へんしゅう 部 ぶ , ed. (1902), 第 だい 五 ご 聯隊 れんたい 遭難 そうなん 始末 しまつ 〔増補 ぞうほ 四 よん 版 はん 〕 , 近松 ちかまつ 書店 しょてん , https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1083845 2015年 ねん 10月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん 。
北辰 ほくしん 日報 にっぽう 社 しゃ , ed. (1902-03), 第 だい 五 ご 聯隊 れんたい 遭難 そうなん 始末 しまつ 記 き : 附 ふ ・第 だい 三 さん 十 じゅう 一 いち 聯隊 れんたい 雪 せつ 中 ちゅう 行軍 こうぐん 記 き , 近松 ちかまつ 書店 しょてん , https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/844359 2015年 ねん 10月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん 。
佐藤 さとう , 陽之助 ようのすけ , ed. (1902-04), 青森 あおもり 聯隊 れんたい 惨事 さんじ 雪 せつ 中 ちゅう の行軍 こうぐん , 工業 こうぎょう 館 かん , https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/844294 2015年 ねん 10月 がつ 18日 にち 閲覧 えつらん 。
高木 たかぎ 勉 つとむ 「八甲田山 はっこうださん から還 かえ ってきた男 おとこ 雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 隊長 たいちょう 福島 ふくしま 大尉 たいい の生涯 しょうがい 」文芸春秋 ぶんげいしゅんじゅう
新田 にった 次郎 じろう 『八甲田山 はっこうださん 死 し の彷徨 ほうこう 』(新潮社 しんちょうしゃ 文庫 ぶんこ 、1978)ISBN 4-10-112214-8
陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 第 だい 5普通 ふつう 科 か 連隊 れんたい , 陸奥 みちのく の吹雪 ふぶき , 陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 第 だい 9師団 しだん 、非売品 ひばいひん 青森 あおもり 県立 けんりつ 図書館 としょかん 蔵 ぞう
小笠原 おがさわら , 孤 こ 酒 しゅ (1970), 吹雪 ふぶき の惨劇 さんげき 第 だい 一部 いちぶ , 銅像 どうぞう 茶屋 ちゃや 、私家 しか 本 ほん
小笠原 おがさわら , 孤 こ 酒 しゅ (1974), 吹雪 ふぶき の惨劇 さんげき 第 だい 二 に 部 ぶ , 銅像 どうぞう 茶屋 ちゃや 、私家 しか 本 ほん
百足 むかで , 登 とう , ed. (1902-02), 青森 あおもり 聯隊 れんたい 遭難 そうなん 雪 せつ 中 ちゅう 行軍 こうぐん , 本 ほん 文書 ぶんしょ 店 てん ほか, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/844295 2015年 ねん 10月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん 。 :他 た に有 ゆう 千 せん 閣 かく 書店 しょてん 刊 かん の復刻 ふっこく 版 ばん あり。銅像 どうぞう 茶屋 ちゃや にて入手 にゅうしゅ 可能 かのう (要 よう 確認 かくにん )
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松木 まつき 明知 めいち 『八甲田 はっこうだ 雪 せつ 中 ちゅう 行軍 こうぐん の研究 けんきゅう 』
松木 まつき 明知 めいち 『八甲田 はっこうだ 雪 せつ 中 ちゅう 行軍 こうぐん の医学 いがく 的 てき 研究 けんきゅう 』
松木 まつき 明知 めいち 『雪 ゆき 中 ちゅう 行軍 こうぐん 山口 やまぐち 少佐 しょうさ の最後 さいご 』(以上 いじょう 3点 てん :岩波 いわなみ 出版 しゅっぱん サービスセンター)
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