八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけん

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八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけん
場所ばしょ 日本の旗 日本にっぽん 青森あおもりけん八甲田山はっこうださん
日付ひづけ 1902ねん1がつ24にち
原因げんいん 天候てんこう不順ふじゅん認識にんしき不足ふそく
死亡しぼうしゃ 199にん
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遭難そうなんし、直立ちょくりつしたまま仮死かし状態じょうたい発見はっけんされた後藤ごとう房之助ふさのすけ伍長ごちょうぞう
事件じけん当時とうじ陸軍りくぐん大臣だいじん寺内てらうち正毅まさき揮毫きごうによる後藤ごとう伍長ごちょうぞう碑文ひぶん

八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけん(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902ねん明治めいじ35ねん1がつ日本にっぽん陸軍りくぐんだい8師団しだん歩兵ほへいだい5連隊れんたい青森あおもりまちから八甲田山はっこうださん田代たしろ新湯あらゆかうゆきちゅう行軍こうぐん途中とちゅう遭難そうなんした事件じけん訓練くんれんへの参加さんかしゃ210めいちゅう199めい死亡しぼう(うち6めい救出きゅうしゅつ死亡しぼう)するという日本にっぽん冬季とうき軍事ぐんじ訓練くんれんにおいてもっとおおくの死傷ししょうしゃした事故じこであるとともに、近代きんだい登山とざんにおける世界せかい最大さいだい山岳さんがく遭難そうなん事故じこである[1]

ゆきちゅう行軍こうぐん[編集へんしゅう]

日本にっぽん陸軍りくぐん1894ねん明治めいじ27ねん)のにちしん戦争せんそう冬季とうき寒冷かんれいでの苦戦くせんいられた経験けいけんまえ、さらなる厳寒げんかんでのたたかいとなるたいロシアせんけた準備じゅんびをしていた。日本にっぽん陸軍りくぐんにとって冬季とうき訓練くんれん喫緊きっきん課題かだいであった。たいロシアせんは10ねん1904ねん明治めいじ37ねん)ににち戦争せんそうとして現実げんじつのものとなる。

ゆきちゅう行軍こうぐん青森あおもり歩兵ほへいだい5連隊れんたい210めい1902ねん1がつ23にちから、弘前ひろさき歩兵ほへいだい31連隊れんたい37めい新聞しんぶん記者きしゃ1めいが1がつ20日はつかから2がつ1にちまでそれぞれことなる経路けいろ行軍こうぐんした。

行軍こうぐん目的もくてき[編集へんしゅう]

  • 青森あおもり歩兵ほへいだい5連隊れんたいは、ふゆのロシアぐん侵攻しんこう青森あおもり海岸かいがん沿いの列車れっしゃ不通ふつうとなった場合ばあい物資ぶっし運搬うんぱん人力じんりきソリ代替だいたい可能かのう調査ちょうさすることがおも目的もくてきであった。対象たいしょうとなった経路けいろは「青森あおもり - 田代たしろ - 三本木さんぼんぎ - 八戸はちのへあいだで、最大さいだい難所なんしょである青森あおもり - 田代たしろ温泉おんせんあいだゆきちゅう行軍こうぐん演習えんしゅう片道かたみちやく20km、1がつ23にちより1はく2にち予定よてい計画けいかくされた[2]行軍こうぐん経路けいろ田代たしろ街道かいどう現在げんざい青森あおもりけんどう40ごう青森あおもり田代たしろ十和田とわだせんである。
  • 弘前ひろさき歩兵ほへいだい31連隊れんたい計画けいかくは「ゆきちゅう行軍こうぐんかんする服装ふくそう行軍こうぐん方法ほうほうとう」の全般ぜんぱんわた研究けんきゅう最終さいしゅう段階だんかいたるもので、3ねんがかりで実施じっししてきた演習えんしゅうそう決算けっさんであった。経路けいろは「弘前ひろさき - 十和田湖とわだこ - 三本木さんぼんぎ - 田代たしろ - 青森あおもり - 浪岡なみおか - 弘前ひろさきあいだそう延長えんちょう224km。日程にっていは1がつ20日はつかより11はく12にち予定よていであった[3]

なお、りょう連隊れんたいは、日程にっていふくめ、おたがいのゆきちゅう行軍こうぐん予定よていらずに計画けいかくてた[注釈ちゅうしゃく 1]。ただし、弘前ひろさき連隊れんたい行軍こうぐん予定よていについては東奥ひがしおく日報にっぽうが1がつ17にち発行はっこう紙面しめんじょう報道ほうどうしていたことから、青森あおもりがわには行軍こうぐん予定よてい重複じゅうふく気付きづいたものがいた可能かのうせいがある[4]

行軍こうぐん準備じゅんび[編集へんしゅう]

弘前ひろさきだい31連隊れんたい[編集へんしゅう]

弘前ひろさきだい31連隊れんたい行軍こうぐん命令めいれい通知つうちしたのは1901ねん明治めいじ34ねん)12月20にちごろで、出発しゅっぱつの1ヵ月かげつまえだった[3]指揮しき陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいい福島ふくしまやすしぞうたい志願しがんしゃ37めい少数しょうすう精鋭せいえい東奥ひがしおく日報にっぽうから従軍じゅうぐん記者きしゃ1めいくわえたけい38めい編成へんせいされた。出発しゅっぱつ先立さきだち、同隊どうたい沿線えんせん村落そんらくまち役場やくば書簡しょかん食糧しょくりょう寝具しんぐ案内あんないじん調達ちょうたつ依頼いらいした[3]。また、こりマタギ農家のうかから情報じょうほう収集しゅうしゅうし、冬山ふゆやまではあせをかかないように配慮はいりょすることと、あし凍傷とうしょう予防よぼうとして靴下くつしたを3まいかさきしたうえから唐辛子とうがらしをまぶし、さらに油紙あぶらがみくなどの防寒ぼうかん知識ちしき実践じっせんしていた[3]服装ふくそうは絨衣はかまふゆ襦袢じばんふゆはかま外套がいとう手套しゅとう水筒すいとう雑嚢ざつのう背嚢はいのう装着そうちゃく藁沓わらぐつかんかくいち付着ふちゃくした[5]行軍こうぐんちゅうあさなわ隊員たいいん同士どうしを1れつむすんだ[3]

青森あおもりだい5連隊れんたい[編集へんしゅう]

青森あおもりだい5連隊れんたいだい2大隊だいたいは1902ねん明治めいじ35ねん)1がつ18にち行軍こうぐん計画けいかく立案りつあんしゃである陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいい神成かみなり文吉ぶんきち指揮しき予行よこう演習えんしゅうおこなった。これは中隊ちゅうたい規模きぼやく140めい、うちかんじきたい20めい)の将兵しょうへいとソリ1だい屯営とんえい - 小峠ことうげあいだ片道かたみちやく9km)を往復おうふくしたもので、好天こうてんめぐまれて成功せいこうした。これをけ、大隊だいたいちょう陸軍りくぐん歩兵ほへい少佐しょうさ山口やまぐち屯営とんえい - 田代たしろあいだは1にち踏破とうは可能かのう判断はんだん。1月21にち山口やまぐち行軍こうぐん命令めいれいくだし、23にち出発しゅっぱつすることをさだめた[6]

行軍こうぐんたいは210めいだい編成へんせいで、1にちぶん食糧しょくりょうべいまめもち缶詰かんづめ漬物つけもの清酒せいしゅ)、燃料ねんりょうたきぎ木炭もくたん)、大釜おおかま工具こうぐなど合計ごうけいやく1.2tをソリ14だい計画けいかくだった。ソリの重量じゅうりょうは1だいやく80kgあり、4にん以上いじょうくこととなる。くわえて行李こうりめた昼食ちゅうしょくよう弁当べんとう1食分しょくぶん道明寺どうみょうじ1にちぶんもち21個いっこ50もんめ=187.5g)の各自かくじ携行けいこうめいじられ、懐炉かいろ使用しよう推奨すいしょうされた[7][8]

出発しゅっぱつ前日ぜんじつ同行どうこうする軍医ぐんいから凍傷とうしょう予防よぼう処置しょちかんする事前じぜん注意ちゅういがあった。そこでは手指しゅし摩擦まさつあし踏などにくわえ、露営ろえいではなるべく「睡眠すいみんセザルさま注意ちゅういスベキコト」と指示しじされた[9]将兵しょうへい十分じゅうぶん休息きゅうそく計画けいかくしておらず、後述こうじゅつのごとく、物心ぶっしん両面りょうめんそなえをいていた。

遭難そうなん部隊ぶたい青森あおもり歩兵ほへいだい5連隊れんたい[編集へんしゅう]

遭難そうなんの3ヶ月かげつほどまえ撮影さつえいされた歩兵ほへいだい5連隊れんたい様子ようす

遭難そうなんした歩兵ほへいだい5連隊れんたい青森あおもり衛戍えいじゅとしていた。部隊ぶたい指揮しきっていたのは、だい2大隊だいたいだい5中隊ちゅうたいちょう陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいい神成かみなり文吉ぶんきちであった。神成かみなり大尉たいい羽後うごこく秋田あきたぐん鷹巣たかすむら秋田あきたけん北秋田きたあきたぐん鷹巣たかすまちて、現在げんざいどうけん北秋田きたあきた一部いちぶ出身しゅっしんで、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうではなく陸軍りくぐん教導きょうどうだん陸軍りくぐん歩兵ほへいとう軍曹ぐんそう任官にんかんし、順次じゅんじ昇進しょうしんして陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいいとなった人物じんぶつで、平民へいみん出身しゅっしんである。5連隊れんたいゆきちゅう行軍こうぐんは、だい2大隊だいたい中心ちゅうしんだい5中隊ちゅうたいちょう神成かみなり中心ちゅうしん行軍こうぐんたい編成へんせいされたが、だい1大隊だいたいだい3大隊だいたいからも長期ちょうき伍長ごちょう一部いちぶ選抜せんばつされた。

また、だい隊長たいちょう陸軍りくぐん歩兵ほへい少佐しょうさ山口やまぐち随行ずいこうした。山口やまぐち少佐しょうさ遭難そうなん行軍こうぐん途中とちゅうから指揮しきけんにぎったという証言しょうげんもあるが、中隊ちゅうたいには大隊だいたい本部ほんぶ随行ずいこうするのは通例つうれいであり、神成かみなり大尉たいい上官じょうかんである山口やまぐち少佐しょうさ最終さいしゅうてき責任せきにんしゃだった。

遭難そうなん経緯けいい[編集へんしゅう]

だい1にち[編集へんしゅう]

ふゆ八甲田山はっこうださん

1がつ23にち午前ごぜん655ふん歩兵ほへいだい5連隊れんたい青森あおもり連隊れんたい駐屯ちゅうとん出発しゅっぱつ田茂木野たもぎのにおいて地元じもと村民そんみん行軍こうぐん中止ちゅうし進言しんげんし、もしどうしてもくならと案内あんないやくもうるが、これをことわ地図ちず方位ほうい磁針じしんのみで厳寒げんかん八甲田山はっこうださん踏破とうはおこなうこととなった。

天候てんこう悪化あっか[編集へんしゅう]

午前ごぜんちゅう小峠ことうげまでは障害しょうがいもなく進軍しんぐんできたが、ソリたいおくはじめたためだい休止きゅうしとし昼食ちゅうしょくった。このとき天候てんこう急変きゅうへんし、暴風ぼうふうゆききざしがあらわれたことから、永井ながい軍医ぐんい進言しんげんにより、将校しょうこうあいだ進退しんたいについての協議きょうぎおこなった。装備そうびまずしさと天候てんこう悪化あっか懸念けねんし、将校しょうこうらは駐屯ちゅうとん帰営きえいすることを検討けんとうしたが、田茂木野たもぎのむらではすでに案内あんないじんっていたほか、見習みならい士官しかん長期ちょうき伍長ごちょうなど下士かし中心ちゅうしんとするへいたちの反対はんたいもあり、行軍こうぐん続行ぞっこうした[10]

たい悪天候あくてんこう深雪みゆきなどの苦難くなんて、大峠おおとうげから6kmのうま立場たちばまですすんだ。ここから鳴沢なるさわにかけては積雪せきせつりょう格段かくだんしたために速度そくどち、食料しょくりょう燃料ねんりょうなどをんだソリたい本隊ほんたいより2時間じかん以上いじょうおくれることとなった。神成かみなり大尉たいいだい2、だい3小隊しょうたいけい88めいをソリたい応援おうえんかわせるとともに、設営せつえいたい15めい田代たしろ方面ほうめん斥候せっこうねた先遣せんけんたいとして先行せんこうさせた。

午後ごご5ごろ馬立うまたてじょうから鳴沢なるさわかう途中とちゅうでソリによる運搬うんぱん断念だんねんかく輸送ゆそう隊員たいいん分担ぶんたんしてつこととなった。先遣せんけんたいとして先行せんこうしていた設営せつえいたい進路しんろ発見はっけんできず、みちまよっていたところを、偶然ぐうぜん本隊ほんたい合流ごうりゅうした。見習みならい士官しかん先導せんどうするだい2の斥候せっこうたい派遣はけんしたが、日没にちぼつもう吹雪ふぶきにより田代たしろ方面ほうめんへの進路しんろ発見はっけんできなくなったため、やむなくたい露営ろえいさがすこととなった。

だい1露営ろえい[編集へんしゅう]

八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけんだいいち露営ろえいあと青森あおもりけん県道けんどう40ごうわき

午後ごご815ふん田代たしろ[注釈ちゅうしゃく 2]まであと1.5kmの平沢ひらさわもり最初さいしょ露営ろえいさだめた。『遭難そうなん始末しまつ』によれば、はば2m、ながさ5m、ふかさ2.5m、都合つごう6じょうほどのゆきごう小隊しょうたいごとに5つり、1ごうあたり40めいはいった。おおいやわらもなかったため保温ほおんせいとぼしく、すわることもできなかった[11]

午後ごご9ごろまでには行李こうりたいすべ露営ろえい到着とうちゃくし、かくごうもち缶詰かんづめ、および木炭もくたんやく6かんもんめやく22.5kg)ずつが分配ぶんぱいされた。しかし40にんぶんまかなうにはとぼしいりょうであり、かくごうで1つずつしかおこせなかったため交代こうたいだんることとなったが、着火ちゃっかに1あいだあまりをようし、炊事すいじようごうろうとするも、8しゃくやく2.4m)っても地面じめんとどかず、やむなく雪上せつじょうにかまどとがまえて炊事すいじ作業さぎょうはじめた。炊事すいじようみずゆきかして必要ひつようがあったが、まず容易よういかず、さらにゆかゆきけてがまかたむくなど問題もんだい続発ぞくはつし、炊事すいじ作業さぎょうきわめて難航なんこうした[12]

だい2にち[編集へんしゅう]

帰営きえい決定けってい[編集へんしゅう]

1がつ24にち午前ごぜん1ごろ、ようやく1食分しょくぶん生煮なまにえのめし支給しきゅうされた。炊飯すいはんがまあたためたさけ分配ぶんぱいされたが、異臭いしゅうびていてめなかった[13]将兵しょうへいごう側壁そくへきかるなどして仮眠かみんったが、気温きおん零下れいか20℃以下いかたっしており、ねむると凍傷とうしょうになるとして軍歌ぐんか斉唱せいしょうあし踏がめいじられた。このためながくても1あいだはん程度ていどしかねむれなかった[14]出発しゅっぱつ午前ごぜん5予定よていだったが、おおくの将兵しょうへい寒気さむけうったえ、凍傷とうしょうしゃおそれがてきた。午前ごぜん2ごろ事態じたいおも山口やまぐち少佐しょうさ将校しょうこうたちの協議きょうぎ結果けっか行軍こうぐん目的もくてき達成たっせいされたとして帰営きえい決定けっていたい午前ごぜん2時半じはん露営ろえい出発しゅっぱつした[15]

遭難そうなん[編集へんしゅう]

たい馬立うまたてじょう目指めざすが、午前ごぜん3時半じはんごろ鳴沢なるさわ付近ふきん峡谷きょうこく(ゴルジュ)にまよんでしまい、やむなくまえ露営ろえいかえすこととなったが、このとき佐藤さとう特務とくむ曹長そうちょう田代たしろへのみちっていると進言しんげん山口やまぐち少佐しょうさ独断どくだんで「しからば案内あんないせよ」とめいじた。しかし佐藤さとうみちあやまり、さわへのみちくだったところが駒込川こまごめがわ本流ほんりゅうてしまった。そのころ全員ぜんいん疲労ひろう困憊こんぱいしており、隊列たいれつそろわず統制とうせい支障ししょうはじめた。山口やまぐち佐藤さとうげんあやまりだったことに気付きづくが、もとみち吹雪ふぶきによりされており、たい遭難そうなん状態じょうたいとなった。

がけのぼ[編集へんしゅう]

やむなくたいがけをよじのぼることとなったが、のぼれずに落伍らくごするものてきた。駒込川こまごめがわさわけるさいだい4小隊しょうたい水野みずのただしよろし中尉ちゅうい華族かぞく紀伊きい新宮しんぐうはん藩主はんしゅ水野みずのただしみき長男ちょうなん)が卒倒そっとうして凍死とうしし、将兵しょうへいらの士気しきがった。

彷徨ほうこう[編集へんしゅう]

たいがけのぼって高地こうちたが、猛烈もうれつ暴風ぼうふうゆきさらされたため、目標もくひょう鳴沢なるさわ上流じょうりゅう山陰やまかげさだめ、安全あんぜん場所ばしょもとめてさまよった。「遭難そうなん始末しまつ」はこの天候てんこう風速ふうそく29m/s前後ぜんご気温きおん零下れいか20 - 25℃以下いか積雪せきせつ渓谷けいこくふか場所ばしょで6 - 9mという悪条件あくじょうけんだったと推測すいそくしている。このためこのあいだ将兵しょうへいの4ぶんの1が凍死とうしまたは落伍らくごした。とく行李こうり運搬うんぱんしゅはわずかしかのこらず、かれらもみな荷物にもつ放棄ほうきしていた[16]倉石くらいし大尉たいい夕刻ゆうこくになってもいまだに炊事すいじようどうがま背負せおっている山本やまもと徳次郎とくじろう一等いっとうそつ生還せいかん)をかねてがまをすてさせた[17]

だい2露営ろえい[編集へんしゅう]

八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけんだい露営ろえいあと青森あおもりけん県道けんどう40ごうわき

この行軍こうぐんは14あいだはんおよんだが、それでもまえ露営ろえいより直線ちょくせん距離きょりにしてやく700mすすむだけにまり、夕方ゆうがたごろ鳴沢なるさわ付近ふきんにて見出みいだした窪地くぼちつぎ露営ろえいさだめた[注釈ちゅうしゃく 3]。しかし、たい統制とうせいれぬうえに、ゆきほりろうにも道具どうぐ携行けいこうしていたもの全員ぜんいん落伍らくごして行方ゆくえ不明ふめいとなっており、文字通もじどおさらしの露天ろてん露営ろえいすることとなった。食糧しょくりょう各自かくじ携行けいこうしていたほしいもちのこりと缶詰かんづめがあったが、凍結とうけつしていてほとんど摂食せっしょく不可能ふかのうだった。たい凍傷とうしょうしゃ内側うちがわかこむようにかたまり、軍歌ぐんか斉唱せいしょうあし踏、たがいに摩擦まさつうなどして睡魔すいま空腹くうふくえたが、もう吹雪ふぶき気温きおん低下ていか体感たいかん温度おんど零下れいか50℃ちかく、前日ぜんじつからほとんど不眠ふみん不休ふきゅう絶食ぜっしょく状態じょうたいということもあり、多数たすう将兵しょうへい昏倒こんとう凍死とうしした。だい2露営ろえいはこの遭難そうなんもっとおおくの死傷ししょうしゃした場所ばしょとなった。

青森あおもり屯営とんえい[編集へんしゅう]

一方いっぽう青森あおもりでは帰営きえい予定よてい日時にちじになっても到着とうちゃくしない行軍こうぐんたいむかえにくため、かわ和田わだ少尉しょうい以下いか40めい田茂木野たもぎのまでき、午前ごぜん0までったものの消息しょうそくられなかった。この弘前ひろさきだい31連隊れんたい転出てんしゅつする松木まつき中尉ちゅうい送別そうべつかいもよおしており、出席しゅっせきしゃは「この行軍こうぐんたいもどってきたらうれしいはなしだな」などと悠長ゆうちょうかたっていた。

だい3にち[編集へんしゅう]

1がつ25にち夜明よあけをって出発しゅっぱつする予定よていであったが、凍死とうししゃ続出ぞくしゅつしたため、やむなく午前ごぜん3ごろたい馬立うまたてじょう方面ほうめん目指めざして出発しゅっぱつした。この時点じてん死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃわせて70めいえており、そのものおおくが凍傷とうしょうにかかっていた。方位ほうい磁針じしんこおりついてようさず、地図ちずかんだけにたよった行軍こうぐんとなっていた。

彷徨ほうこう[編集へんしゅう]

たい鳴沢なるさわあたりまで一旦いったん辿たどいたものの、ふうつよ断崖だんがいたっしたためかえそうとしたが、前方ぜんぽうやまさえぎられみち見失みうしなった。のちの後藤ごとう伍長ごちょう証言しょうげんによれば、大隊だいたい本部ほんぶ将校しょうこう神成かみなり大尉たいいらの協議きょうぎすえ「ここで部隊ぶたい解散かいさんする。かくへいみずか進路しんろ見出みいだして青森あおもりまたは田代たしろ進行しんこうするように」と命令めいれいしたとされる。また小原おはら伍長ごちょう証言しょうげんによれば、「てんわれらを見捨みすてたらしい」[注釈ちゅうしゃく 4][注釈ちゅうしゃく 5][18]というような言葉ことばをこの場所ばしょ神成かみなりいたとされる[19]。このため、それまでなにとか落伍らくごせずに頑張がんばっていたおおくの将兵しょうへいが、この一言いちげんによりたが(たが)がはずれ、矛盾むじゅん脱衣だついはじめるもの、「このがけりれば青森あおもりだ!」とさけかわもの、「いかだつくってかわくだりをしてかえるぞ」とさけび、かって銃剣じゅうけんりつけるものなど発狂はっきょうしゃてくるほか、凍傷とうしょうかず、ぐんはかまのボタンをはずせぬまま放尿ほうにょうし、そこからの凍結とうけつ原因げんいん凍死とうしするものなど死亡しぼうしゃ続出ぞくしゅつした。

ただし、実質じっしつてきたい統制とうせいうしなわれていたことはともかく、生還せいかんした伊藤いとう中尉ちゅうい晩年ばんねんいたっても「たい途中とちゅう解散かいさんした」とちまた定説ていせつのようにあつかわれているはなし否定ひていつづけた。

彷徨ほうこう興津おきつ大尉たいい以下いかやく30めい凍死とうし興津おきつ昨晩さくばんから凍傷とうしょうにかかり、櫻井さくらい看護かんごちょうらが手当てあてをしたが[注釈ちゅうしゃく 6]、さらにのち生存せいぞんしゃとして発見はっけんされた将兵しょうへいふくじゅうすうめい行方ゆくえ不明ふめいとなった。長谷川はせがわ特務とくむ曹長そうちょう雪原せつげん滑落すべりおちしてみちまよい、かれしたがっていたすうめい午後ごご2ごろ見出みいだした平沢ひらさわすみ小屋こや滞在たいざいしていた。すみ小屋こやではマッチをおこしだんったが、みなはげしい疲労ひろうからくる睡魔すいまおそわれ、ばんをするのが困難こんなんになったため、よく1がつ26にち午前ごぜん3ごろ火事かじおそれてした。たいだい2露営ろえいもどったころ山口やまぐち少佐しょうさ意識いしき障害しょうがいとなり、倉石くらいし山口やまぐち遺言ゆいごんたずねた。後藤ごとう伍長ごちょうはこのとき山口やまぐちんだものと判断はんだんしたようである。

斥候せっこうたい[編集へんしゅう]

午前ごぜん7ごろ、やや天候てんこう回復かいふくしたのを見計みはからって、大隊だいたい本部ほんぶ所属しょぞく倉石くらいし大尉たいい斥候せっこうたいつのり、田茂木野たもぎの方面ほうめん高橋たかはしいち伍長ごちょう以下いか7めい田代たしろ方面ほうめん渡辺わたなべ幸之助こうのすけ軍曹ぐんそう以下いか6めいけい13めいおくした[20]たいはしばし平静へいせいもどしたが、午前ごぜん10ごろ1人ひとり兵士へいし遠目とおめ将兵しょうへい隊列たいれつ行進こうしんするのを見出みいだして「救助きゅうじょたいた!」とさけび、ものも「本当ほんとうた!」「ははちゃ~ん!」とさけはじめた。倉石くらいしはラッパしゅめいじて号音ごうおんかせようとしたが、ラッパがくちびるこおりつき、はらちからとぼしくまともにけなかった。しかし午前ごぜん11までっても一向いっこう隊列たいれつ様子ようすわらないので、よくると救援きゅうえんたいおもっていたものはふうらされるれつだと判明はんめいした[21]

一方いっぽう高橋たかはしはん佐々木ささきしもきち一等いっとうそつうま立場たちば付近ふきん帰路きろ見出みいだし、午前ごぜん1130ふんごろもどってきた高橋たかはし斥候せっこうちょう帰路きろ発見はっけん田茂木野たもぎの方面ほうめん進軍しんぐんちゅう報告ほうこくした。本隊ほんたい正午しょうごごろ出発しゅっぱつし、もどってきた斥候せっこうたいについてった。この時点じてんたいは60めいから14めいもとの1/3以下いか)になっていた[22]午後ごご3ごろ馬立うまたてじょう到着とうちゃくし、そこでもう片方かたがた渡辺わたなべ幸之助こうのすけ軍曹ぐんそうらの合流ごうりゅうったが、かれらはついにもどらなかった。高橋たかはし佐々木ささきりょうかさなりうようにして凍死とうししているのを発見はっけんされた。

たい行軍こうぐん再開さいかいしたが、中ノ森なかのもり東方とうほう山腹さんぷくたっしたところで日暮ひぐれをむかえ、さらに午後ごご5、カヤイドさわ東方とうほう鞍部あんぶいたころ倉石くらいし大尉たいいづいたときには大橋おおはし中尉ちゅうい永井ながい軍医ぐんい隊列たいれつからはなれて行方ゆくえ不明ふめいとなっていた。永井ながい桜井さくらいりゅうづくり看護かんごちょうなどの医療いりょうはんは、身体しんたい限界げんかいして看護かんごつづけた結果けっか自分じぶんたちもたおれてしまっていた。このころにはたいはばらばらになっており、倉石くらいしはカヤイドさわりてだい3の露営ろえいさだめ、伝令でんれいおくったが、人員じんいんあつまらなかった[22]

合流ごうりゅうだい3露営ろえい[編集へんしゅう]

遭難そうなん始末しまつ』によれば、午後ごご11ごろ倉石くらいし大尉たいいいちぎょう山口やまぐちたい捜索そうさく出発しゅっぱつし、午後ごご12ごろ合流ごうりゅうたしてだい3露営ろえいもどった[23]露営ろえいではたがいに大声おおごえび、打撃だげきくわえて昏睡こんすいふせぎ、凍死とうししゃ背嚢はいのうやすなどしてさむさをしのいだものの多数たすう将兵しょうへい凍死とうしした。

なお、このよく26にち記録きろく資料しりょう証言しょうげんしゃによってちがいがあり、記憶きおくちがいかことなる側面そくめんかはさだかでない。
倉石くらいし大尉たいい証言しょうげんによれば、山口やまぐち少佐しょうさではなく先行せんこうした神成かみなり大尉たいいいちぎょうとはぐれており、25にち深夜しんやまわった26にち午前ごぜん1合流ごうりゅう目指めざして出発しゅっぱつしたが、同日どうじつちゅうには合流ごうりゅうできず、27にちいたって神成かみなりらと再会さいかいし、協議きょうぎすえふたしゅかれることをめたという[24]

また、後藤ごとう伍長ごちょう証言しょうげんによれば、25にち山口やまぐち少佐しょうさ死亡しぼうし、このよる時点じてん生存せいぞんしゃは71めいいたが、田代たしろすすむか田茂木野たもぎのもどるか方針ほうしんさだまらず各自かくじ任意にんい行動こうどうとなった。ここで倉石くらいし大尉たいい田代たしろ目指めざすとしてひと姿すがたし、先導せんどうした水野みずの中尉ちゅういゆきしずむなど凍死とうししゃ続出ぞくしゅつした[25]。(山口やまぐち死亡しぼう誤認ごにんとされる。また水野みずの死亡しぼう通常つうじょう24にちとされる)

青森あおもり屯営とんえい[編集へんしゅう]

青森あおもりでは、天候てんこう前日ぜんじつよりもかったこともあり、古閑こが中尉ちゅうい以下いか40めい幸畑こうばたかゆいて帰営きえいった。さらに一部いちぶ将兵しょうへい田茂木野たもぎのむら南端なんたんでかがりいてよるまでった。しかし夜半やはんになっても到着とうちゃくせず、屯営とんえいでは行軍こうぐんたい三本木さんぼんぎ方面ほうめんけているのではとかんがえ、三本木さんぼんぎ警察けいさつ電報でんぽうったが確認かくにんがとれず、翌日よくじつ救援きゅうえんたい派遣はけんすることを決定けっていした[26]

だい4にち[編集へんしゅう]

1がつ26にち、『遭難そうなん始末しまつ』によれば、倉石くらいし神成かみなりりょう大尉たいい比較的ひかくてき元気げんきだったじゅうすうめいとの協議きょうぎすえ現在地げんざいちから田茂木野たもぎのまでおよそ8kmと推測すいそく夜明よあけをって出発しゅっぱつすることとした。午前ごぜん1ごろ将兵しょうへい呼集こしゅうするとやく30めいになっていた[27]前日ぜんじつ露営ろえい山口やまぐち少佐しょうさふたた意識いしき障害しょうがいとなり、兵卒へいそつ背負しょわれて行軍こうぐんした。隊列たいれつみだれにみだれ、先頭せんとう神成かみなり倉石くらいしさだまっていたが、もの所属しょぞく階級かいきゅう関係かんけいなく、将兵しょうへいたちがこうからつづかたちとなっていた。神成かみなり倉石くらいし前方ぜんぽう高地こうち偵察ていさつしつつすすんでいた。

前日ぜんじつよる後藤ごとう伍長ごちょうの4、5めいとも露営ろえいちゅうえとさむさのため昏睡こんすいしたが、幸運こううんにも凍死とうしせず26にちあさ目覚めざめた。降雪こうせつもなく晴天せいてんだったが、まわりにだれもおらず、見渡みわたすと三々五々さんさんごご将兵しょうへい点在てんざいして帰路きろ見定みさだめようとしていた。そこで自分じぶん高地こうちのぼったところ、神成かみなり大尉たいい鈴木すずき少尉しょういらと出会であい、以後いご行動こうどうともにした。この天気てんき時々ときどきゆきだった[28]

たい夕方ゆうがたまでになかもりからさい河原かわらあいだ正確せいかく位置いち不明ふめい)に到着とうちゃくし4度目どめ露営ろえいをした。さい河原かわらまでは通常つうじょうなら徒歩とほで2あいだ距離きょりだったが、極度きょくどえと疲労ひろうのために1にちようした[24]

救援きゅうえんたいによる捜索そうさく[編集へんしゅう]

この村上むらかみ一等いっとう軍医ぐんい三神みかみ少尉しょうい下士かしそつ60めい救援きゅうえんたい屯営とんえい出発しゅっぱつした。途中とちゅう村民そんみん案内あんないじんとしてやとだいとうげまで捜索そうさく活動かつどうおこなったが、案内あんないじん調達ちょうたつ手間取てまど出発しゅっぱつおくれたことにくわえ、この気温きおん零下れいか14℃で風雪ふうせつきびしく、案内あんないじんおよび軍医ぐんい進言しんげんにより捜索そうさくって田茂木野たもぎのかえした。

だい5にち[編集へんしゅう]

1がつ27にちのこったたい協議きょうぎすえふたしゅかれることとした。青森あおもりかって左手ひだりて田茂木野たもぎの目指めざ神成かみなり大尉たいいいちぎょうすうめいと、右手みぎて駒込こまごめさわ沿いに進行しんこう青森あおもり目指めざ倉石くらいし大尉たいい山口やまぐち少佐しょうさふくむ)のいちぎょうやく20めいである。なお、『遭難そうなん始末しまつ』では分隊ぶんたいした日付ひづけを26にちとしているが、倉石くらいし証言しょうげんによれば27にちただしい[24]

倉石くらいしたい駒込川こまごめがわ方面ほうめんすすむが、途中とちゅう青岩あおいわ付近ふきんがけにはまってしまい、すすむことも退しりぞくこともできなくなった。日没にちぼつがけかげってよるしのごうとしていたところ、今泉いまいずみ三太郎さんたろう見習みならい士官しかん下士かし1めいともない、連隊れんたい報告ほうこくするとげ、はだかになると倉石くらいし制止せいしかわんだ[24]。のちに倉石くらいしは「かわくだっていった」とべているが、生還せいかんしゃ証言しょうげんからかわんだのは間違まちがいなく、3月9にち下流かりゅう遺体いたいとなって発見はっけんされた。

神成かみなりたいは、目標もくひょうたい比較的ひかくてきただしい方角ほうがくすすんでいたものの、もう吹雪ふぶきをまともにけたため落伍らくごしゃ続出ぞくしゅつし、たいは4めいとなった。やがて鈴木すずき少尉しょうい高地こうちくといいのこし、たいはなれたが、そのままかえってこなかった。さらに及川おいかわ篤三とくぞうろう危篤きとくおちい手当てあてもできずに死亡しぼう。ついには神成かみなりたおれ、1がつ27にち早朝そうちょう神成かみなり後藤ごとうに「田茂木野たもぎのって住民じゅうみんやとい、連隊れんたいへの連絡れんらく依頼いらいせよ」と命令めいれいした。後藤ごとう朦朧もうろうとした意識いしきなか危急ききゅうらせるために、単身たんしん田茂木野たもぎのかった。

救援きゅうえんたいによる捜索そうさく後藤ごとう伍長ごちょう発見はっけん[編集へんしゅう]

救援きゅうえんたい捜索そうさく活動かつどう再開さいかいした。田代たしろまでき、行軍こうぐんたい接触せっしょくしようと、尻込しりごみする案内あんないじん説得せっとくして出発しゅっぱつした。午前ごぜん10時半じはんごろ三神みかみ少尉しょういひきいる小隊しょうたい大滝平おおたきだいら付近ふきんゆきちゅうにたたずむ後藤ごとう房之助ふさのすけ伍長ごちょう発見はっけん後藤ごとうはこのときのことを「其距離きょりとうつまびらかにのうはず、所謂いわゆる夢中むちゅう前進ぜんしんちゅう救護きゅうごたいためめに救助きゅうじょせられたるものなり」[28]べている。ここでゆきちゅう行軍こうぐんたい遭難そうなん判明はんめいした。

発見はっけん様子ようすについては複数ふくすうせつがある。

  • 1がつ29にちづけ東奥ひがしおく日報にっぽうによれば、救援きゅうえんたい遠目とおめひとらしいものが1、2うごくのをみとめて近付ちかづくと、後藤ごとう伍長ごちょう直立ちょくりつしたまま身動みうごきせずだけをギロギロさせており、大声おおごえけるとはじめていた様子ようす言葉ことばはっした。
  • 同紙どうしの1がつ30にちづけ号外ごうがいによれば、救援きゅうえんたい気付きづいて大声おおごえさけび、ゆるんだのかそのたおれた。この記述きじゅつが29にち記事きじつづくものかは不明ふめい
  • 同年どうねん7がつ23にち発行はっこうの『遭難そうなん始末しまつ』によれば、けたまま仮死かし状態じょうたいっており、近付ちかづいて救命きゅうめい処置しょちほどこしてやく10ふん蘇生そせいした[29]。このせつ以後いご仮死かし状態じょうたい歩哨ほしょうごとっていた』などと喧伝けんでんされ、のち銅像どうぞう建立こんりゅうされた。

神成かみなり大尉たいいらの遺体いたい発見はっけん[編集へんしゅう]

意識いしきもどした後藤ごとう伍長ごちょうが「神成かみなり大尉たいい」と言葉ことばはっしたため、付近ふきん捜索そうさくするとやく100mさき神成かみなりたおれていた。神成かみなり帽子ぼうし手袋てぶくろけぬままくびまでゆきまっており、全身ぜんしん凍結とうけつしていた。軍医ぐんいうで気付きつやく注射ちゅうしゃしようとしたが、皮膚ひふまでこおっていたためはりれた。やむなくくちけさせ口腔こうくうないはりした。なにかたったようにえたが、蘇生そせいせずそのまま死亡しぼうした。すぐちかくで及川おいかわあつし三郎さぶろう遺体いたい発見はっけんされたが、2めい遺体いたいはこぶことはできず、目印めじるしけて後日ごじつ収容しゅうようすることとし、後藤ごとう重度じゅうど凍傷とうしょうたおれた救援きゅうえん隊員たいいんけい2めい生存せいぞんしゃ救護きゅうごして田茂木野たもぎのへたどりついた。

本部ほんぶへの報告ほうこく[編集へんしゅう]

午後ごご740ふん三神みかみ少尉しょうい連隊れんたい長官ちょうかんしゃみ、大滝平おおたきだいらでの後藤ごとう伍長ごちょう発見はっけんほうくわえ、ゆきちゅう行軍こうぐんたいが「全滅ぜんめつ模様もよう」であること、2あいだ捜索そうさくで「救助きゅうじょたい60めいちゅうやく半数はんすう凍傷とうしょう行動こうどう不可ふかかつ1めい重度じゅうど凍傷とうしょう卒倒そっとう」となったことをらせた。行軍こうぐんたい田代たしろ到達とうたつしたものとしんじていた青森あおもり歩兵ほへいだい5連隊れんたいちょう津川つがわけんこう中佐ちゅうさは、この報告ほうこくいてあおくなった。

だい6にち[編集へんしゅう]

1がつ28にち倉石くらいしたい佐藤さとう特務とくむ曹長そうちょう発狂はっきょう下士かし兵卒へいそつれてかわみ、いわかり凍死とうしした[注釈ちゅうしゃく 7]倉石くらいしすうめいれてがけあなはいったが、山口やまぐち少佐しょうさすうめい川岸かわぎし場所ばしょにいた。どちらかといえば倉石くらいしのいるところほう場所ばしょてきにはかったので、倉石くらいし山口やまぐちがけあなるようすすめたが、山口やまぐちは「われ此処ここらにてせん」としてこばんだ[24]山口やまぐちみずあたえる役目やくめは、比較的ひかくてきうごけた山本やまもと徳次郎とくじろう一等いっとうそつった。

弘前ひろさきたい通過つうか[編集へんしゅう]

このあさ八甲田山はっこうださんぎゃく方向ほうこうから行軍こうぐんしてきた弘前ひろさきたい田代たしろ付近ふきん露営ろえいち、鳴沢なるさわ-大峠おおとうげ経由けいゆ田茂木野たもぎの目指めざした。この行軍こうぐんでは青森あおもりたい遭難そうなん通過つうかするさい遭難そうなんしゃたとするせつがある(後述こうじゅつ)。

だい7にち[編集へんしゅう]

1がつ29にち救助きゅうじょたい神成かみなり大尉たいいおよび及川おいかわ伍長ごちょう遺体いたい収容しゅうようし、かく哨所も完成かんせいする[30]

弘前ひろさきたい青森あおもり到着とうちゃく[編集へんしゅう]

午前ごぜん2ぎ、弘前ひろさきたい前日ぜんじつからの昼夜ちゅうやかたぬ強行きょうこうぐんすえ田茂木野たもぎの到着とうちゃくした。同隊どうたい民家みんか食事しょくじしたのち午前ごぜん420ふんふたた出発しゅっぱつし、午前ごぜん720ふん青森あおもり駅前えきまえ到着とうちゃくした。

だい8にち[編集へんしゅう]

1がつ30にち後藤ごとうそうじょ一等いっとうそつ倉石くらいし大尉たいいらと合流ごうりゅうした[24]

救助きゅうじょたいさい河原かわら中野なかの中尉ちゅういら36めい遺体いたい発見はっけんした。この場所ばしょ倉石くらいし大尉たいいらが駒込川こまごめがわさわりていったみちたる。「さい河原かわら」という地名ちめいは、以前いぜんにもここで凍死とうしした村人むらびと多数たすういたことに由来ゆらいするといわれる。

だい9にち[編集へんしゅう]

1がつ31にち午前ごぜん9ごろ鳴沢なるさわ付近ふきん捜索そうさくくわわっていた人夫にんぷが、してきたウサギを面白おもしろ半分はんぶんいかけたところ、偶然ぐうぜんすみ小屋こや見出みいだした。ひと気配けはいがするのでけてみると2めい生存せいぞんしゃがおり、三浦みうら武雄たけお伍長ごちょう阿部あべ卯吉うきち一等いっとうそつ救出きゅうしゅつした。あさまできていたというもう1めい遺体いたい発見はっけんした。三浦みうら阿部あべりょう軍医ぐんい質問しつもんたいし、25にちあさ露営ろえいから出発しゅっぱつしたところまではおぼえているが、それ以降いこう記憶きおくがなく、づいたら小屋こやんでいたと証言しょうげんしている[31]小屋こや周辺しゅうへんでは16めい遺体いたい発見はっけんした。このさい田村たむら少佐しょうさ陸軍りくぐんしょうに「生存せいぞんしゃ12めい」と電報でんぽうつが、すぐさま「生存せいぞん兵卒へいそつ2、遺体いたい10」と訂正ていせいしている。なお、三浦みうらは3がつ14にち入院にゅういんさき死亡しぼうした。

鳴沢なるさわでは水野みずのただしむべ中尉ちゅうい以下いか33めい遺体いたい発見はっけんし、大滝平おおたきだいら付近ふきん鈴木すずき少尉しょうい遺体いたい発見はっけんしている。1902ねん2がつ6にちづけまんあさほうに「ゆえぼう将校しょうこう鈴木すずき少尉しょうい死体したい発見はっけんせしとき、『死後しごじゅう時間じかん以上いじょうしものにず。捜索そうさくいまいちにちはやかりせば』とてふか捜索そうさく緩慢かんまんなるを遺憾いかんとす」という記述きじゅつのこっている。

倉石くらいし大尉たいいらの発見はっけん[編集へんしゅう]

午前ごぜん9ごろから倉石くらいし大尉たいいらががけのぼはじめ、午後ごご3ごろ、250mほどすすんだところ倉石くらいし伊藤いとう中尉ちゅういら4めい救援きゅうえんたい発見はっけんされた。生存せいぞんしゃけい9めい救助きゅうじょされたが、高橋たかはし房治ふさじ伍長ごちょう紺野こんの市次郎いちじろうとうそつ救出きゅうしゅつ死亡しぼうした。同時どうじ救出きゅうしゅつされた山口やまぐち少佐しょうさ入院にゅういんさきにて2がつ2にち死亡しぼうした。

弘前ひろさきたい帰営きえい[編集へんしゅう]

この弘前ひろさきたい弘前ひろさき郊外こうがい連隊れんたい屯営とんえい帰営きえいし、ゆきちゅう行軍こうぐんぜん日程にっていえた。

だい10日とおか[編集へんしゅう]

2がつ1にちさい河原かわら付近ふきんにてすうめい、按ノもりから中ノ森なかのもりにかけてはじゅうすうめい遺体いたい発見はっけんした。

だい11にち[編集へんしゅう]

2がつ2にち捜索そうさくたい大崩おおくずれさわ平沢ひらさわ付近ふきん見出みいだしたすみ小屋こやにおいて、長谷川はせがわ特務とくむ曹長そうちょう阿部あべ寿ひさしまつ一等いっとうそつ佐々木ささき正教せいきょうとうそつ小野寺おのでら佐平さへいとうそつの4めい生存せいぞん確認かくにんされた。しかし佐々木ささき小野寺おのでらりょう救出きゅうしゅつ死亡しぼうした[32][33]当初とうしょ小屋こやには8めい生存せいぞんしゃがいたが、うち比較的ひかくてき元気げんきな3めい屯営とんえい目指めざして出発しゅっぱつしたのち全員ぜんいん凍死とうしし、永井ながい軍医ぐんい付近ふきんからはっされたたすけをもとめるこえいて外出がいしゅつしたきりもどらなかったという[34]

午後ごご3ごろには、最後さいご生存せいぞんしゃとなる村松むらまつ伍長ごちょう古館ふるだて要吉ようきち一等いっとうそつ遺体いたいとともに田代たしろもと付近ふきん小屋こや発見はっけんされた。村松むらまつ四肢しし切断せつだんいち危篤きとくとなったが、かろうじて回復かいふくした。25にちあさ遭難そうなん当時とうじ村松むらまつ古館ふるたてらとともたいからはぐれ、青森あおもり目指めざしたがみちあやまり、26にち午後ごごにこの小屋こや見出みいだした。なかにはちがやまれていたがマッチがかったためをおこせず、翌日よくじつ古館ふるだて死亡しぼうした。村松むらまつ付近ふきん発見はっけんした温泉おんせんんでいのちをつないだが、30にち以降いこうてなくなり、以後いごたままゆきべていたという[35]

生存せいぞんしゃ[編集へんしゅう]

最終さいしゅうてき生存せいぞんしゃは、倉石くらいしはじめ大尉たいい山形やまがた)、伊藤いとうかくあきら中尉ちゅうい山形やまがた)、長谷川はせがわ貞三ていぞう特務とくむ曹長そうちょう秋田あきた)、後藤ごとう房之助ふさのすけ伍長ごちょう宮城みやぎ)、小原おはら忠三郎ちゅうざぶろう伍長ごちょう岩手いわて)、及川おいかわ平助へいすけ伍長ごちょう岩手いわて)、村松むらまつぶん哉伍ちょう宮城みやぎ)、阿部あべ卯吉うきち一等いっとうそつ岩手いわて)、後藤ごとうそうじょ一等いっとうそつ岩手いわて)、山本やまもと徳次郎とくじろう一等いっとうそつ青森あおもり)、阿部あべ寿ひさしまつ一等いっとうそつ岩手いわて)の11めいのみであった。

このほか山口やまぐち鋠少三浦みうら武雄たけお伍長ごちょう高橋たかはし房治ふさじ伍長ごちょう紺野こんの市次郎いちじろうとうそつ佐々木ささき正教せいきょうとうそつ小野寺おのでら佐平さへいとうそつの6めい救出きゅうしゅつされたが、治療ちりょう甲斐かいなく死亡しぼうした。

生還せいかんしゃは、倉石くらいし大尉たいい伊藤いとう中尉ちゅうい長谷川はせがわ特務とくむ曹長そうちょうのぞき、その全員ぜんいん凍傷とうしょうによりあし切断せつだん余儀よぎなくされた。比較的ひかくてき軽症けいしょうしゃのうち、及川おいかわアキレス腱あきれすけんゆび3ほん山本やまもと左足ひだりあし切断せつだんした。もの四肢しし切断せつだん一部いちぶりょう下肢かし手指しゅしのみ)であった。また、もっと健常けんじょうだった倉石くらいしにち戦争せんそうくろみぞだい会戦かいせん1905ねん1がつ27にち戦死せんしした。伊藤いとう長谷川はせがわ重傷じゅうしょうった。

遭難そうなん詳細しょうさいについては生存せいぞんしゃ証言しょうげん異同いどうがあり、軍部ぐんぶ圧力あつりょくまたは情報じょうほう操作そうさにより、戦争せんそうけて民間みんかんじん軍部ぐんぶへの批判ひはんをかわすことを目的もくてきに、真実しんじつかくされたり、歪曲わいきょくされたふしがある。

山口やまぐち少佐しょうさ死因しいん[編集へんしゅう]

2がつ2にち死亡しぼうした山口やまぐち少佐しょうさ大隊だいたいちょう)の死因しいん公式こうしき発表はっぴょうでは心臓麻痺しんぞうまひとなっている。山口やまぐち元々もともと心臓しんぞうよわかったとの証言しょうげんもある。しかし、遭難そうなんについての一切いっさい責任せきにんわせるために軍部ぐんぶ暗殺あんさつしたとするせつや、ピストル自殺じさつせつ小笠原おがさわらしゅ取材しゅざいした新田にった次郎じろうっている)もある。最近さいきんでは「凍傷とうしょうゆびじゅう操作そうさ不可能ふかのう」としてあらたな背景はいけいさぐ松木まつき明知めいち研究けんきゅう死因しいんはクロロホルムによるショック)もある。

山口やまぐち鋠(婿養子むこようしのため改姓かいせい旧姓きゅうせい成澤なりさわ)は安政あんせい3ねん12月17にち1857ねん1がつ12にち)に幕臣ばくしんとしてまれ、義兄ぎけい英学えいがくしゃ渡部わたなべあつし[注釈ちゅうしゃく 8]沼津ぬまづへい学校がっこう教授きょうじゅつとめていたため、幼少ようしょう沼津ぬまづごした(年少ねんしょうのため入学にゅうがくはせず)。東京とうきょう外国がいこく学校がっこう[注釈ちゅうしゃく 9]フランス語ふらんすご専攻せんこうし、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうから陸軍りくぐん戸山とやま学校がっこうすすむ。にちしん戦争せんそう従軍じゅうぐんしたのち青森あおもりぜん任地にんち山形やまがた歩兵ほへいだい32聯隊れんたい)だった。なお、山口やまぐち鋠のあに退役たいえき陸軍りくぐん中佐ちゅうさ成澤なりさわ知行ともゆきであり、遭難そうなん直後ちょくご青森あおもり急行きゅうこうして死亡しぼう直前ちょくぜん山口やまぐち面会めんかいしている。また知行ちぎょう・鋠兄弟きょうだい父親ちちおや成澤なりさわ良作りょうさくおな幕臣ばくしん大川おおかわからの婿養子むこようしであり、成澤なりさわ知行ともゆき山口やまぐち鋠(養子ようしのため改姓かいせい)は、近代きんだい日本にっぽんので測量そくりょう地図ちず出版しゅっぱん草分くさわけ、大川おおかわどおりひさ沼津ぬまづへい学校がっこう知行ちぎょう同期どうき)の従弟じゅうていであることが、2018ねんになって成澤なりさわ古文書こもんじょから判明はんめいし、国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん樋口ひぐち雄彦たけひこ教授きょうじゅによって公表こうひょう[36]された。これは従来じゅうらいまったられていなかったしん事実じじつである。

山口やまぐち最期さいご看取みとった軍医ぐんい山形やまがた衛戍えいじゅ病院びょういんからの応援おうえんしゃ中原なかはらさだまもるである。担当たんとう中原なかはら軍医ぐんいすうねん変死へんししたことなどもあって、陸軍りくぐん上層じょうそうによる暗殺あんさつせつもあるが、弘前大学ひろさきだいがく医学部いがくぶ麻酔ますい松木まつき明知めいち教授きょうじゅが、陸上りくじょう自衛隊じえいたい三宿みしゅく駐屯ちゅうとんうちにあるあきら古館ふるだて医療いりょう博物館はくぶつかん)が所蔵しょぞうする『陸軍りくぐん軍医ぐんい学会がっかい雑誌ざっし』の「明治めいじさんじゅうねん凍傷とうしょう患者かんじゃ治療ちりょう景況けいきょう」に記載きさいされた山口やまぐち少佐しょうさ死亡しぼうじょうきょう医学いがくてき分析ぶんせきしたところ、クロロホルム麻酔ますいによる心臓麻痺しんぞうまひ可能かのうせいたかいと指摘してきした。なお中原なかはら軍医ぐんい医学いがくこころざ以前いぜんに、山口やまぐち少佐しょうさおな東京とうきょう外国がいこく学校がっこうまなんでおり(専攻せんこうはドイツ)、一方いっぽう山口やまぐち少佐しょうさぜん任地にんち中原なかはら軍医ぐんい山形やまがたであった。このてん注目ちゅうもくし、[37]二人ふたり面識めんしきがあったと推論すいろんするろんられる。

山口やまぐち生存せいぞん確認かくにんされたのは1がつ31にち夕刻ゆうこくであり、それまでは後藤ごとう伍長ごちょうげんによりすでに死亡しぼうしたとされていた。がけからのげに手間取てまどったため、最終さいしゅうてき救助きゅうじょされたのは夜中よなかで、応急おうきゅう処置しょちのち青森あおもり衛戍えいじゅ病院びょういん入院にゅういんしたのは2がつ1にちよるである。入院にゅういん記録きろくでは「膝下ひざもとひじ重度じゅうど凍傷とうしょう手指しゅしみずふくれて膨張ぼうちょうす」とある[38]。この記録きろくによって、まず拳銃けんじゅう自殺じさつ否定ひていされる。

山口やまぐち死亡しぼうしたのは2がつ2にち午後ごご8時半じはんであるが、入院にゅういんわずか1にち死亡しぼうしている。当時とうじ東京とうきょう青森あおもりあいだは、直通ちょくつう列車れっしゃで23あいだようし、電話でんわ敷設ふせつされていなかったため、きゅうようする通信つうしん手段しゅだん電報でんぽうかぎられていた。遭難そうなん発生はっせい当時とうじのその電報でんぽう記録きろくについても、その発信はっしんまで詳細しょうさいのこっている[注釈ちゅうしゃく 10]が、そのなかには陸軍りくぐん上層じょうそう陸軍りくぐん大臣だいじんおよびだいはち師団しだんちょう)による謀殺ぼうさつにおわすような文言もんごん一切いっさいない。

よって、松木まつき主張しゅちょうするような「ぐん上層じょうそうによる山口やまぐち少佐しょうさ謀殺ぼうさつせつ」は、それを裏付うらづける証拠しょうこもなく、以上いじょうのような時間じかんてき制約せいやく(すなわち、救出きゅうしゅつわずか1にち程度ていど陸軍りくぐん大臣だいじん師団しだんちょうとおして連隊れんたいちょう暗殺あんさつめいじることは時間じかんてき不可能ふかのう)もあり、謀殺ぼうさつ事実じじつはほぼありないとかんがえられる[39]

松木まつき主張しゅちょうどおりクロロホルム(クロロホルムは現在げんざいげきぶつとしてあつかわれている[40])が死因しいんだとすれば、治療ちりょうミスの可能かのうせいもあるが、救出きゅうしゅつ死亡しぼうしたものなかには心臓麻痺しんぞうまひ原因げんいんものもおり、死因しいん特段とくだん疑問ぎもんおもわれるてんはないとかんがえられる。

救助きゅうじょ活動かつどう[編集へんしゅう]

救助きゅうじょ活動かつどう青森あおもり連隊れんたい弘前ひろさき連隊れんたい、さらには仙台せんだいだい5砲兵ほうへいたい出動しゅつどうした大掛おおがかりな体制たいせいとなり、べ1まんにん動員どういんされた。生存せいぞんしゃ救出きゅうしゅつみ、捜索そうさく方法ほうほう確立かくりつしたのちは青森あおもり連隊れんたい独自どくじった。

救助きゅうじょ拠点きょてんは、幸畑こうばた資材しざい集散しゅうさん基地きち田茂木野たもぎの捜索そうさく本部ほんぶき、そこから哨戒しょうかいしょばれるベースキャンプを設置せっち前進ぜんしんさせる方法ほうほうられた。哨戒しょうかいしょ大滝平おおたきだいらから最初さいしょ遭難そうなん地点ちてん鳴沢なるさわまで合計ごうけい15箇所かしょ設営せつえい予定よていであったが、実際じっさいにはいくつかが併合へいごうされ、11箇所かしょ設営せつえいにとどまった。

捜索そうさく方法ほうほう[編集へんしゅう]

捜索そうさくは、生存せいぞんしゃ証言しょうげん行軍こうぐん計画けいかく参照さんしょうして行軍こうぐん経路けいろし、そこを基点きてんとして、はば30m(およそ30にんいちれつ)の横隊おうたいとなり、各人かくじん所持しょじするながさ10mほどたけぼうゆきちゅうしながら前進ぜんしんし、すこしでも違和感いわかんのある手応てごたえをかんじた場所ばしょ掘削くっさくする方法ほうほうられた。この作業さぎょう哨戒しょうかいしょ拠点きょてんとして、にちちゅう6あいだほどかけておこない、遺体いたい哨戒しょうかいしょ一旦いったん収容しゅうようしたのち捜索そうさく本部ほんぶ集積しゅうせきした。1ヵ月かげつ経過けいかすると、気温きおん変化へんか捜索そうさく隊員たいいんによってかためられたゆきがシャーベットじょうかたくなり、たけぼうではさらなくなったため鉄棒てつぼうえた。

また、初動しょどう捜索そうさく北海道ほっかいどうからべんひらきだこ次郎じろうアイヌいちぎょうまねいた。彼等かれら周辺しゅうへん地名ちめいから遭難そうなんしゃ退避たいひしている可能かのうせいたか地点ちてんしぼみ、所有しょゆうする猟犬りょうけん北海道ほっかいどういぬ)ととも捜索そうさく活動かつどうおこなうという独自どくじ手法しゅほうもちいた。その結果けっか、67日間にちかん捜索そうさく活動かつどう遺体いたい11たい多数たすう遺品いひん発見はっけんした。

遺体いたい収容しゅうよう[編集へんしゅう]

発見はっけんされた遺体いたいは、1たいにつきすうめいがかりで哨戒しょうかいしょ運搬うんぱんした。あまりにこおりついていたため、粗略そりゃくあつかうと遺体いたい関節かんせつ部分ぶぶんからばらばらにくだけるからであった。遺体いたい哨戒しょうかいしょにて衣服いふくいだのち、鉄板てっぱんせてちょくにて解凍かいとうされ、あたらしい軍服ぐんぷくせてかん収容しゅうよう本部ほんぶまで運搬うんぱんした。

水中すいちゅうしずんだ遺体いたい作業さぎょう難航なんこうし、そのままながされてしまうものが多数たすうあった。そのため、幸畑こうばたむらながれる駒込川こまごめがわ流出りゅうしゅつ防止ぼうししがらみ設置せっちし、そこにかった遺体いたいから順次じゅんじ収容しゅうようしてった。しかし、雪解ゆきどけのためかわ増水ぞうすいし、しがらみえてうみまでながされた遺体いたいもあった。

発見はっけんされた遺体いたいは、最終さいしゅうてきに5連隊れんたい駐屯ちゅうとんしょはこばれ、そこで遺族いぞく面会めんかい確認かくにんのち、そこで荼毘だびされるか故郷こきょうかえっていった。腐敗ふはいすすんで身元みもとがなかなか判明はんめいしない遺体いたいもあった。

最後さいご遺体いたい収容しゅうよう5月28にちであった。

原因げんいん[編集へんしゅう]

原因げんいん諸説しょせつあるが、決定的けっていてきなものは特定とくていされていない。となえられているせつ列挙れっきょする。

てい体温たいおんしょう[編集へんしゅう]

てい体温たいおんしょうにかかっていることを視野しやれず、指揮しきかん将校しょうこう判断はんだんミス、その人物じんぶつ資質ししつ批判ひはんするケースはおおい。

判断はんだんりょく欠如けつじょ思考しこう停止ていし錯乱さくらんなどは典型てんけいてきてい体温たいおんしょう症状しょうじょうである。神成かみなり大尉たいいの「てんわれらを見捨みすてたらしい」という言動げんどうてい体温たいおんしょう起因きいんする典型てんけいてきれいともいえる。数日すうじつあいだおよ不眠ふみん不休ふきゅう食事しょくじもとれず、もう吹雪ふぶき氷点下ひょうてんか雪山ゆきやま連日れんじつ彷徨ほうこうしたことにより、全員ぜんいん例外れいがいなくてい体温たいおんしょうにかかっていたとおもわれる。[41]

生存せいぞんしゃ小原おはら忠三郎ちゅうざぶろう伍長ごちょうは、行軍こうぐんちゅう幻覚げんかく幻聴げんちょうがあったことを証言しょうげんしている。幻覚げんかく幻聴げんちょう重度じゅうどてい体温たいおんしょうあらわれる症状しょうじょうである。

気象きしょう条件じょうけん[編集へんしゅう]

行軍こうぐんおこなわれたとき典型てんけいてき西高東低せいこうとうてい気圧きあつ配置はいちで、未曾有みぞうシベリア寒気さむけだん日本にっぽん列島れっとうおおっており、各地かくち日本にっぽん観測かんそく史上しじょうにおける最低さいてい気温きおん記録きろくしていた[注釈ちゅうしゃく 11]青森あおもり例年れいねんより8℃から10℃ほどひくく、青森あおもり測候所そっこうじょ記録きろくでは1がつ24にち最低さいてい気温きおん零下れいか12.3℃、最高さいこう気温きおんどう8℃、最大さいだい風速ふうそく14.3m/びょうであり、山間さんかん気象きしょう条件じょうけんはそれらをさらに下回したまわるものであった[3]行軍こうぐんたい遭難そうなんした山中さんちゅう気温きおんは、観測かんそくがかりであった看護かんごへい記録きろくのこせず死亡しぼうしたためさだかでないが、『遭難そうなん始末しまつ』は零下れいか20℃以下いかだったと推測すいそくしている[42]

装備そうび[編集へんしゅう]

行軍こうぐん将兵しょうへい装備そうびは、特務とくむ曹長そうちょうじゅん士官しかん以上いじょうが「毛糸けいと外套がいとう1ちゃく」「毛糸けいと軍帽ぐんぼう」「ネル生地きじふゆ軍服ぐんぷく」「軍手ぐんて1そう」「ちょうあしがた軍靴ぐんか」「長靴ながぐつがたゆきくつ」、下士かしそつが「毛糸けいと外套がいとう2ちゃくかさ」「フェルト普通ふつう軍帽ぐんぼう」「小倉おぐら生地きじ普通ふつう軍服ぐんぷく」「軍手ぐんて1そう」「たんあしがた軍靴ぐんか」と、現代げんだい比較ひかくすれば冬山ふゆやま登山とざん防寒ぼうかん対応たいおうしているとはがた装備そうびであった。とくに下士かし兵卒へいそつ防寒ぼうかん装備そうびいたっては、毛糸けいと外套がいとう2ちゃくわたされただけである。

しかしながら、「ネル生地きじ」、「小倉おぐら生地きじ」、毛糸けいとなどのウールやラシャをえる生地きじ当時とうじ存在そんざいしていない。装備そうび自体じたい問題もんだいではなく、れたら交換こうかんするなどの運用うんよう方法ほうほう問題もんだいがあった。

倉石くらいし大尉たいいはゴムくつっていたことが結果けっかとして凍傷とうしょうふせいだとわれるが、これは正月しょうがつ東京とうきょうったさいにたまたま土産物みやげものとしてっていたものであった。当時とうじ日本にっぽんではゴムくつハイカラくつ(いわゆるファッションブーツ)としてあつかわれていたにすぎず、倉石くらいし行軍こうぐんいていたのはたんなる偶然ぐうぜんである。

指揮しき系統けいとう混乱こんらん[編集へんしゅう]

映画えいが八甲田山はっこうださん」ではさん國連こくれん太郎たろうえんじる山口やまぐち少佐しょうさ無謀むぼう上司じょうしとしてえがかれ、青森あおもり歩兵ほへいだい5連隊れんたい組織そしき問題もんだい原因げんいんひとつになっていること、また、新田にった次郎じろう小説しょうせつ八甲田山はっこうださん彷徨ほうこう」では、ぐん首脳しゅのうかんがした寒冷かんれいにおける人体じんたい実験じっけんとの記述きじゅつがあるが、これらは映画えいが小説しょうせつとしての演出えんしゅつ創作そうさくであり史実しじつとはことなる。

大隊だいたい本部ほんぶ勝手かってについてきたというはなし映画えいが八甲田山はっこうださん」と新田にった次郎じろう小説しょうせつ八甲田山はっこうださん彷徨ほうこう」の創作そうさく部分ぶぶんで、大隊だいたい本部ほんぶ参加さんかするのは通例つうれいとなっている。

神成かみなり大尉たいいゆきちゅう行軍こうぐん実施じっしする演習えんしゅう中隊ちゅうたいちょうであり、実質じっしつてき指揮しきかん大隊だいたいちょう山口やまぐち少佐しょうさだった。[43] しかしながら、神成かみなりとのあいだ意思いし決定けってい統一とういつもあったとおもわれる。

極端きょくたん情報じょうほう不足ふそく[編集へんしゅう]

神成かみなり大尉たいいゆきちゅう行軍こうぐんたい中隊ちゅうたいちょうまかされることになったのは、行軍こうぐん実施じっし直前ちょくぜんやく3週間しゅうかんまえ)である。それまでの担当たんとうしゃ夫人ふじん出産しゅっさん立会たちあいのため、にんかれるかたちとなった。そのため、実際じっさいゆきちゅう行軍こうぐんたいして神成かみなりなん予備よび知識ちしきたぬまま準備じゅんび作業さぎょうはいった。準備じゅんびとしては、予行よこう演習えんしゅう日帰ひがえ行軍こうぐん小峠ことうげまで新兵しんぺいによる小隊しょうたい編成へんせいおこなったのみで、今回こんかいゆきちゅう行軍こうぐん参加さんかしゃだれ一人ひとり参加さんかしていない。その行軍こうぐん自体じたい晴天せいてんおこなわれたこともあり、結果けっかとして冬山ふゆやま登山とざんゆきちゅう行動こうどう基本きほんてきリスクの抽出ちゅうしゅつおこなわれなかったことになる。なお、神成かみなりかんしては、すくなくとも将校しょうこうになってから、ゆきちゅう行軍こうぐん参加さんかしたとの記録きろくはなく、参加さんかした将校しょうこう半分はんぶん雪国ゆきぐに出身しゅっしんではない。またへいらが露営ろえいにおいて、凍傷とうしょううごけなくなることをおそれ、あさまでたずに夜中よなかゆきほり出発しゅっぱつしたこともおおきな原因げんいんである。このため部隊ぶたい暗夜あんやどうまよい、鳴沢なるさわ付近ふきん彷徨ほうこうすることとなり、これがおおくのへい体力たいりょくうば大量たいりょう遭難そうなんにつながった。

認識にんしき不足ふそく[編集へんしゅう]

ゆきちゅう行軍こうぐん参加さんかしゃのほとんどは岩手いわてけん宮城みやぎけんなど寒冷かんれい農家のうか出身しゅっしんしゃであったが、厳冬げんとう八甲田はっこうだにおける防寒ぼうかん知識ちしき八甲田はっこうだゆき綿雪わたゆきばれるいぬいゆき湿しめゆき中庸ちゅうようにあたり、岩手いわて宮城みやぎ湿しめゆきとは性質せいしつことなる)は皆無かいむだった。さらに予備よび行軍こうぐん晴天せいてんめぐまれ、ゆきなか遠足えんそくのようであったとのうわさひろまり、ゆきちゅう行軍こうぐんトレッキング同列どうれつかんがえているものおおかったといわれる。だい5連隊れんたいでは、出発しゅっぱつ前日ぜんじつ壮行そうこうかいひらかれており、深夜しんやまで宴会えんかいおこなわれていたことも、「過酷かこく行軍こうぐん」との認識にんしき希薄きはくだったことをうかがわせる。長谷川はせがわ特務とくむ曹長そうちょうは「田代たしろといってもわずかに5ばかりで、はいりにくつもりで、たったぬぐい1ほんっただけだった」とかたっている。実際じっさいはマッチや蝋燭ろうそくのほか予備よび足袋たび持参じさんしていた。また、長谷川はせがわ凍傷とうしょうについての知識ちしきがあり、予備よび足袋たび手袋てぶくろわりに使用しようし、つね摩擦まさつおこたらず、さらにぐんじゅうかわ毛皮けがわ外套がいとうえりがしてあし凍傷とうしょうふせいでいた。後藤ごとうそうじょ一等いっとうそつ生還せいかん)は“山登やまのぼり”ということで履物はきもの普段ふだんかわせい軍靴ぐんかから地下足袋じかたびえ、そのうえ藁沓わらぐつ(わらぐつ)をいて参加さんかした[44]生還せいかんしゃ小原おはら伍長ごちょう証言しょうげんによれば、だれ予備よび手袋てぶくろ靴下くつした用意よういしておらず、装備そうびれても交換こうかんできぬまま凍結とうけつがはじまり、体温たいおん体力たいりょくうばわれていったという。小原おはらも「もしあのとき予備よび軍手ぐんてぐんあしいちくみでも余計よけいにあれば自分じぶんあしゆびうしなわなかっただろうし、半分はんぶん兵士へいしたすかっただろう」と後年こうねん証言しょうげんしている。「遭難そうなん始末しまつ」ほか当時とうじ発刊はっかんされた各種かくしゅ遭難そうなん顛末てんまつには、行軍こうぐん前日ぜんじつだい隊長たいちょうおよび軍医ぐんい命令めいれいとして、防寒ぼうかん凍傷とうしょう防止ぼうし食事しょくじとうについてかく小隊しょうたいちょう詳細しょうさい注意ちゅうい事項じこうつたえたとしているが、結果けっかてきにはそれが兵卒へいそつにまでつたえられなかったか、いたものの特段とくだん準備じゅんびをしなかったものとおもわれる。

将兵しょうへい生還せいかんしゃ全員ぜんいん山間さんかん出身しゅっしんで、普段ふだんマタギ手伝てつだいや炭焼すみや従事じゅうじしているものたちだった。彼等かれら冬山ふゆやまでの活動かつどうにある程度ていど習熟しゅうじゅくしていたが、凍傷とうしょうかんする知識ちしきはなく、平澤ひらさわすみ小屋こや救出きゅうしゅつされた長谷川はせがわ特務とくむ曹長そうちょうだんによれば、炭焼すみやき小屋こや兵卒へいそつ凍傷とうしょうをじかににかざし、あいだ火傷かしょうったが、だれもそれにがつかず凍傷とうしょう悪化あっかさせる結果けっかとなったため、みずからはすぐにたらず、ひたすら手足てあし摩擦まさつおこなったと証言しょうげんしている。なお、壮年そうねん佐官さかんふく将校しょうこう生存せいぞんりつたかいのは、下士かしそつのように銃刀じゅうとうっていなかったこと(さんじゅうねんしき歩兵ほへいじゅう銃剣じゅうけんふくめて重量じゅうりょうやく4.5㎏、将校しょうこう所持しょじする軍刀ぐんとうやく2㎏)、行李こうり運搬うんぱんたずさわらなかったこと、野営やえいなか優先ゆうせんてきたることができたこと、防寒ぼうかん機能きのうすぐれた装備そうび上質じょうしつ羅紗らしゃ仕立したての外套がいとう長靴ながぐつ着用ちゃくよう)、携行けいこうひん独自どくじ裁量さいりょうみとめられていた(懐炉かいろフランネル下着したぎなど)が一因いちいんわれている。

だいにち斥候せっこうたいみちまよい、だいにち佐藤さとう特務とくむ曹長そうちょう先導せんどうして田代たしろ温泉おんせんかったさいみちまよい、だいにち鳴沢なるさわでのみちまよい、これらはリングワンダリングばれる現象げんしょうである。人間にんげん視界しかいうしなった場合ばあい自身じしんぐにあるいているつもりが、実際じっさいえんえがくようにすすんでしまい、方向ほうこう方角ほうがくがわからなくなり遭難そうなんへとつながる。もう吹雪ふぶき暴風ぼうふうにより視界しかいはゼロにちかく、ゆきごうれば確実かくじつリングワンダリングおちいるが、当時とうじはそのような知識ちしきはなかった。[45]

階級かいきゅうべつ生存せいぞんりつ
階級かいきゅう 参加さんかしゃすう 生存せいぞんしゃすう 生存せいぞんりつ
将校しょうこうどう相当そうとうかん軍医ぐんい 11 2 18.2%
見習みならい士官しかん 2 0 0%
じゅん士官しかん 4 1 25%
下士かし看護かんごちょうふくむ) 45 4 8.9%
兵卒へいそつ看護かんごしゅふくむ) 148 4 2.7%
合計ごうけい 210 11 5.2%

弘前ひろさき歩兵ほへいだい31連隊れんたい[編集へんしゅう]

弘前ひろさきルートで入山にゅうざんした弘前ひろさき歩兵ほへいだい31連隊れんたい38めいも、はげしい風雪ふうせつなやまされたが、ほぼぜん行程こうてい案内あんないじんてたおかげで見事みごと踏破とうはたした。

経過けいか[46][編集へんしゅう]

1がつ20にち午前ごぜん5弘前ひろさき屯営とんえい出発しゅっぱつ気温きおん零下れいか6午後ごご320ふん小国おぐにむら到着とうちゃく村落そんらく舎営しゃえい移動いどう距離きょり24キロ。

21にち午前ごぜん8小国おぐにむら出発しゅっぱつ午前ごぜん1140ふん切明きりあけむら到着とうちゃく村落そんらく舎営しゃえい移動いどう距離きょり6キロ。

22にち午前ごぜん630ふん切明きりあけむら出発しゅっぱつ午後ごご3十和田とわだむら到着とうちゃく舎営しゃえい

23にち午前ごぜん7十和田とわだむら出発しゅっぱつ午後ごご430ふん宇樽到着とうちゃく村落そんらく宿営しゅくえい移動いどう距離きょり20キロ。

24にち午前ごぜん630ふん宇樽出発しゅっぱつ午後ごご630ふん戸来へらいむら到着とうちゃく舎営しゃえい移動いどう距離きょり34キロ。

25にち午前ごぜん730ふん戸来へらいむら出発しゅっぱつ午後ごご411ふん三本木さんぼんぎ到着とうちゃく舎営しゃえい移動いどう距離きょり20キロ。三本木さんぼんぎで1めい離脱りだつ

26にち午前ごぜん8さん本木もとき出発しゅっぱつ午後ごご240ふん増沢ますざわ到着とうちゃく村落そんらく宿営しゅくえい移動いどう距離きょり14キロ。

福島ふくしま大尉たいい通過つうか予定よていでも1~2めい案内あんないじん斡旋あっせん依頼いらいじょう送付そうふしていたが、八甲田はっこうだ山越やまごえのため事前じぜん登山とざんこう大深おおふか内村ないむら下士官かしかん2めい派遣はけん案内あんないじん7めい内訳うちわけはいゆき6めいゆきどうくわしいマタギしゅ1めい)の提供ていきょう依頼いらいする公文書こうぶんしょ日当ひなたその費用ひよう立替払たてかえばらいとする念書ねんしょ持参じさんさせている。

27にち午前ごぜん630ふん増沢ますざわ出発しゅっぱつ午後ごご118ふん田代たしろいちけん小屋こやき、田代たしろかったが視界しかい悪化あっか目標もくひょう長内おさないぶん次郎じろうたく発見はっけんきゅう案内あんないじん動揺どうようしたため午後ごご850ふん田代たしろにて露営ろえいおおきな枯木かれき中心ちゅうしん直径ちょっけい4mふかさ2mのゆきごうり、えだたきぎとしておこし、隊員たいいんったままだんった。田代たしろ積雪せきせつりょうは5メートル10センチ、さい下降かこう気温きおんはマイナス11移動いどう距離きょり18キロ。

28にち午前ごぜん1ごろ案内あんないじん昨日きのう目標もくひょうであった長内おさないぶん次郎じろうたく捜索そうさくめいじる。長内おさない発見はっけんできなかったが小屋こやつかったため午前ごぜん47ふん露営ろえい出発しゅっぱつ午前ごぜん63ふんより小屋こやで1あいだ37ぶん休憩きゅうけいをした。全員ぜんいんはいりきらないため、そと足踏あしぶみをしつつくみと、なかだんもちあぶってべるくみとにかれた。午後ごご15ふん鳴沢なるさわで6ぶん昼食ちゅうしょく休止きゅうしをとり、午後ごご1150ふんしょうとうげ到着とうちゃく移動いどう距離きょり12キロ。

29にち午前ごぜん0しょうとうげ出発しゅっぱつ午前ごぜん215ふん田茂木野たもぎのき3あいだ休止きゅうし朝食ちょうしょくった。午前ごぜん720ふん青森あおもり舎営しゃえい地元じもと歓迎かんげいけるが、公式こうしきには、この青森あおもりたい遭難そうなんることになった[よう出典しゅってん]

30にち午前ごぜん7青森あおもり出発しゅっぱつ午後ごご48ふん浪岡なみおかむら到着とうちゃく舎営しゃえい移動いどう距離きょり26キロ。

31にち午前ごぜん7時半じはん浪岡なみおかむら出発しゅっぱつ午後ごご25ふん弘前ひろさき屯営とんえい到着とうちゃく移動いどう距離きょり22キロ。予定よていよりも1にちおおい11はく12にち行程こうていで、負傷ふしょうのため中途ちゅうと帰還きかんした1めいのぞ全員ぜんいん無事ぶじ完遂かんすいした[3]

弘前ひろさきだい31連隊れんたい全員ぜんいん無事ぶじ帰還きかんできた理由りゆう下記かきのようなものとされている。

  1. 天候てんこう不順ふじゅん田代たしろ新湯あらゆにたどりけないと判断はんだんするや、あなってビバークし、案内あんないじん休憩きゅうけいのできる小屋こや発見はっけんするまで露営ろえいとどまっていたこと。
  2. 部隊ぶたいひきいた指揮しきかん福島ふくしまやすしぞう大尉たいいが、寒冷かんれいでの活動かつどうさいしての様々さまざま準備じゅんびれいゆきちゅう行軍こうぐん研究けんきゅうという目的もくてきから、隊員たいいん荷物にもつ最小限さいしょうげんとし、食糧しょくりょう藁沓わらぐつ(わらぐつ)など消耗しょうもうひん補給ほきゅう宿泊しゅくはく全部ぜんぶ現地げんち民間みんかんゆだねたことなど)をかさねたこと。
  3. 連隊れんたい比較的ひかくてきしょう人数にんずうで、最後さいごまで統率とうそつたもたれていたこと。
  4. 隊員たいいん地元じもと青森あおもり出身しゅっしんしゃおおく、選抜せんばつたっても応募おうぼしゃ体格たいかく素質そしつ充分じゅうぶん考慮こうりょされたこと。
  5. 福島ふくしま大尉たいい過去かこ2年間ねんかんにわたり、岩木山いわきやまゆきちゅう行軍こうぐんなどを実施じっししており、露営ろえいふくめ、ゆきちゅう行軍こうぐん熟知じゅくちしていたこと。

行軍こうぐん途中とちゅう遭難そうなんたい目撃もくげきせつ[編集へんしゅう]

福島ふくしまやすしぞう大尉たいいひきいる弘前ひろさき歩兵ほへいたい青森あおもりたい遭難そうなんったのは公式こうしきには田茂木野たもぎのいてからとされているが、途中とちゅう凍死とうししゃおよびじゅうたとの記述きじゅつ従軍じゅうぐん記者きしゃによる記事きじ[注釈ちゅうしゃく 12]隊員たいいん日記にっき案内あんないじん証言しょうげん記録きろくなどにある[47]遭難そうなんしゃかおようと軍帽ぐんぼうはずそうとしたところ、かお皮膚ひふまでがれて軍帽ぐんぼう付着ふちゃくしたとの記述きじゅつもある[48]。さらに弘前ひろさきたい田茂木野たもぎのいたさいだい5連隊れんたい遭難そうなんしゃ目撃もくげきしたむね福島ふくしま大尉たいい自身じしん報告ほうこくしたという資料しりょうが2002ねんつかっている。

しかし、福島ふくしまの「過去かこ日間にちかんこと絶対ぜったい口外こうがいすべからず」という命令めいれいやそのぐん緘口かんこうれいにより、現地げんちたこと、そのぐん不利ふりになるようなことはすべてふうじられた。みずからも遭難そうなんしそうな状況じょうきょう救助きゅうじょ事実じじつじょう不可能ふかのうだったが、目撃もくげき事実じじつ隠蔽いんぺいした理由りゆうとして、遭難そうなん発見はっけんしながら救助きゅうじょ活動かつどうをしなかったことが推測すいそくされている。そのだい5連隊れんたい後藤ごとうそうじょ一等いっとうそつ生還せいかん)の体験たいけんだんとして、救援きゅうえんたいとおぼしき一団いちだんたがいに気付きづいたが無視むしして通過つうかされてしまい、後日ごじつ弘前ひろさきたいだったとったというむね資料しりょうつかっている[49]

案内あんないじん証言しょうげん被害ひがい[編集へんしゅう]

31連隊れんたいとも田代たしろへの道案内みちあんないされた地元じもと一般人いっぱんじん後遺症こういしょうのこ凍傷とうしょうなどの被害ひがいけている。くになどから補償ほしょうのあった遭難そうなん兵士へいしちがい、道案内みちあんない地元民じもとみんには1人ひとり2えん案内あんないりょう以外いがいわたされていない[注釈ちゅうしゃく 13]

後日ごじつ発表はっぴょうされた当時とうじ案内あんないじんげんによれば、実際じっさいには田代たしろけた行進こうしんにおいて、かえすことを進言しんげんした案内あんないじんしかばし無理矢理むりやり案内あんないをさせたばかりか、田代たしろ近辺きんぺん露営ろえいくなり休憩きゅうけいするひまあたえず、案内あんないじん一部いちぶ人質ひとじちとして拘束こうそくしたうえで、のこりのもの田代たしろ新湯あらゆへの斥候せっこうめいじたとある。結局けっきょく新湯あらゆつからず、がたになって開拓かいたくしゃちいさな小屋こや見出みいだしたが、全員ぜんいんはいりきれず、足踏あしぶみをしながらあさまで交代こうたい小屋こやうちそと休憩きゅうけいをした。

また、31連隊れんたい福島ふくしまたいは、八甲田山はっこうださんけいさい難関なんかん通過つうか小峠ことうげ付近ふきん疲労ひろう困憊こんぱい案内あんないじんたちをりにして部隊ぶたいだけで田茂木野たもぎの行軍こうぐんしていった。これら案内あんないじんはすべて重度じゅうど凍傷とうしょうい、うち1めい入院にゅういんするも回復かいふくせず、廃人はいじん同様どうようとなったまま16ねん死亡しぼう、いま1にん凍傷とうしょうのためほおあながあき、みずむのにさえ苦労くろうしたという。これらの事実じじつは1930ねん昭和しょうわ5ねん)になってはじめてあきらかにされ、地元じもとでは“なな勇士ゆうし”として、その功績こうせきたたえる石碑せきひ翌年よくねん建立こんりゅうされた[47][50]

陸上りくじょう自衛隊じえいたい幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこう寄贈きぞうされた福島ふくしま大尉たいい遺品いひんに、7にん案内あんないじん提供ていきょうした大深おおふかないむら村長そんちょうからの、「連隊れんたいちょうおよ福島ふくしま大尉たいい念書ねんしょいただいて用立ようだててした案内あんないじん重度じゅうど凍傷とうしょうにかかり、治療ちりょう陸軍りくぐん負担ふたんしてもらむね村議そんぎかい全会ぜんかい一致いっち議決ぎけつしたため、議決ぎけつしょ診断しんだんしょをおおくりしますのでご補助ほじょをよろしくおねがいします」との内容ないよう手紙てがみがある[51]

そのゆきちゅう行軍こうぐん[編集へんしゅう]

だい2ゆきちゅう行軍こうぐん戦前せんぜん[編集へんしゅう]

  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつだい2ゆきちゅう行軍こうぐん敢行かんこう参加さんかしゃ全員ぜんいん無事ぶじ八甲田山はっこうださん踏破とうは成功せいこうした。

陸上りくじょう自衛隊じえいたいだい5普通ふつう連隊れんたい戦後せんご[編集へんしゅう]

事件じけん以降いこう出来事できごと[編集へんしゅう]

馬立うまたてじょうてられたゆきちゅう行軍こうぐん遭難そうなん記念きねんぞう(2006ねん記事きじ冒頭ぼうとう銅像どうぞう全景ぜんけい
  • 当時とうじ陸軍りくぐん大臣だいじんだった寺内てらうち正毅まさきは、全国ぜんこく将校しょうこうから寄付きふつのり、事件じけん翌年よくねん1907ねん明治めいじ40ねん)、大熊おおくまひろ制作せいさくした神成かみなり大尉たいいゆきちゅう行軍こうぐん遭難そうなん記念きねんぞう後藤ごとう房之助ふさのすけ伍長ごちょうぞう)がてられた。ぞうのモデルに後藤ごとう伍長ごちょうえらばれたのは、神成かみなり大尉たいいいのちけた後藤ごとう伍長ごちょういのちがけで田茂木野たもぎの行進こうしんしたこうみとめられたためである。銅像どうぞう建立こんりゅう場所ばしょ青森湾あおもりわん見渡みわたすことのできるうま立場たちば付近ふきんで、だい露営ろえい(1がつ24にち)とだいさん露営ろえい(1がつ25にち)のあいだ位置いちする。当時とうじ連隊れんたいちょうに「よくろ」とわれた後藤ごとう本人ほんにんは、れくさく銅像どうぞうをなかなかることができなかったという。なお、後藤ごとう伍長ごちょう発見はっけん銅像どうぞうよりもすうkm青森あおもりよりの場所ばしょである。また、かれ遭難そうなんはなしはあまりはなしたがらず、おなじくのこりの村松むらまつ伍長ごちょうなかかった。
  • 八甲田山はっこうださんゆきちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけんいたノルウェー国王こくおうホーコン7せいは、1909ねん明治めいじ42ねん)、お見舞みまいとして明治天皇めいじてんのうあてスキーばん2だい進呈しんていした。1910ねん明治めいじ43ねん)には陸軍りくぐん依頼いらいで、交換こうかん将校しょうこうとして来日らいにちちゅうオーストリア=ハンガリー帝国ていこくレルヒ少佐しょうさによるスキー指導しどうおこなわれた。レルヒ少佐しょうさ1912ねん明治めいじ45ねん)まで高田たかだだい58連隊れんたい新潟にいがたけん)や旭川あさひかわだい7師団しだん北海道ほっかいどう)でスキーの指導しどうおこない、どう時期じきにノルウェーしきスキーが北海道ほっかいどう導入どうにゅうされたことで、日本にっぽん国内こくないでスキーによる雪上せつじょう移動いどう普及ふきゅうした。
  • 1971ねん昭和しょうわ46ねん)、新田にった次郎じろうが『八甲田山はっこうださん彷徨ほうこう』として小説しょうせつ。さらにこの小説しょうせつ原作げんさくとした1977ねん昭和しょうわ52ねん)の映画えいが八甲田山はっこうださん』で一般いっぱんひろられることになった。
  • 新田にった次郎じろうの『八甲田山はっこうださん彷徨ほうこう』の終章しゅうしょうに、事件じけん陸軍りくぐん国家こっかった対応たいおうとして遺族いぞくには国家こっかから恩給おんきゅうあたえられ皇室こうしつからはまつりしとぎりょう下賜かしされたことにつづいて、「遭難そうなんしゃ戦死せんししゃおなじようにあつかい、靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしするということをいて、遺家族いかぞく国民こくみんもようやく納得なっとくした」とかれているくだりがあるため、この事件じけん遭難そうなんしゃ靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうし対象たいしょうとなったというあやまったせつが、ながあいだ流布るふされる結果けっかとなったが、上記じょうき情報じょうほう誤報ごほうであったことが、詳細しょうさいあきらかにされた[52]
  • 生還せいかんしゃなか最後さいご存命ぞんめい人物じんぶつだったのは小原おはら忠三郎ちゅうざぶろう伍長ごちょうで、両足りょうあしゆび切断せつだんしたが、91さいまで存命ぞんめいし、1970ねん昭和しょうわ45ねん2がつ5にち死去しきょした。1964ねん昭和しょうわ39ねん)12月に陸上りくじょう自衛隊じえいたい渡辺わたなべ一等いっとうりくじょう国立こくりつ箱根はこね療養りょうようしょたずねて、遭難そうなん事故じこのききと調査ちょうさおこなった。その1968ねん昭和しょうわ43ねん)8がつ小笠原おがさわらしゅ小原おはらからききとりをおこなった。小原おはら証言しょうげんによって事件じけん詳細しょうさい判明はんめいした[53]
  • 2007ねん平成へいせい19ねん2がつ14にち後藤ごとう伍長ごちょう銅像どうぞうかうスキーのコース「銅像どうぞうコース」で雪崩なだれ発生はっせいし、死者ししゃ2にん重軽傷じゅうけいしょうしゃ8にん事故じことなった。
  • 2011ねん3がつ11にちきた東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい影響えいきょうにより、陸上りくじょう自衛隊じえいたい衛生えいせい学校がっこう東京とうきょう世田谷せたがや)の史料しりょうしつ展示てんじひんこわれたさい救出きゅうしゅつされた隊員たいいんのうち後藤ごとう房之助ふさのすけ伍長ごちょうら5めい手術しゅじゅつまえ姿すがたうつした写真しゃしんつかったことが、2012ねん6がつあきらかとなった。これまでじゅつまえ写真しゃしん存在そんざいられていなかった[54]
  • 2012ねん4がつ12にち弘前ひろさき歩兵ほへいだい31連隊れんたい福島ふくしまやすしぞう大尉たいいしるした報告ほうこくしょ手記しゅき論文ろんぶん手紙てがみなどけい241てん陸上りくじょう自衛隊じえいたい幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこう寄贈きぞうされた。親族しんぞく生家せいか保管ほかんしていたもので、2004ねんにち戦争せんそう開戦かいせん100周年しゅうねんに、公開こうかい検討けんとうしていたものである[55]

関連かんれん施設しせつ[編集へんしゅう]

  • 陸上りくじょう自衛隊じえいたいだい9師団しだん青森あおもり駐屯ちゅうとん防衛ぼうえいかん - もとだい5連隊れんたい本部ほんぶ兵舎へいしゃを1968ねん移築いちく事前じぜん連絡れんらく見学けんがく可能かのう)。
  • 青森あおもり県立けんりつ青森あおもり高等こうとう学校がっこう - 出発しゅっぱつてん青森あおもり歩兵ほへいだい5連隊れんたい跡地あとち
  • 八甲田山雪中行軍遭難資料館 - ちかくに幸畑こうばた陸軍りくぐん墓地ぼちゆきちゅう行軍こうぐんたい墓碑ぼひがある)、遭難そうなん凍死とうししゃ英霊えいれいどうがある。ゆきちゅう行軍こうぐん遭難そうなん記念きねんぞう後藤ごとう伍長ごちょうぞう)のレプリカを所蔵しょぞうする。
  • 後藤ごとう伍長ごちょう発見はっけん - 青森あおもりけんどう40ごう青森あおもり田代たしろ十和田とわだせん 青森あおもり設置せっちした看板かんばんあり。
  • なかもりだいさん露営ろえい - 青森あおもりけんどう40ごう青森あおもり田代たしろ十和田とわだせん 青森あおもり設置せっちした看板かんばんあり。
  • ゆきちゅう行軍こうぐん遭難そうなん記念きねんぞう - 八甲田山はっこうださんちゅう。1904ねん建立こんりゅう。モデルは後藤ごとう房之助ふさのすけ伍長ごちょう県立けんりつ青森あおもり高校こうこうから県道けんどう40ごう行軍こうぐんルート)でくるまで40ふん銅像どうぞう茶屋ちゃやわきから歩行ほこうしゃよう参道さんどうやく250mのぼった場所ばしょにある。同地どうちはかつての馬立うまたてじょう付近ふきんであり、実際じっさい後藤ごとう伍長ごちょう発見はっけん場所ばしょからはすうkm南東なんとう位置いちする。
  • 銅像どうぞう茶屋ちゃや - 青森あおもりけん県道けんどう40ごう沿い、後藤ごとう伍長ごちょうぞうつづ参道さんどうにゅう口脇くちわきにある民営みんえいドライブイン。八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん記念きねんかん鹿しかあん」を併設へいせつし、関連かんれん書籍しょせき資料しりょうとう展示てんじしていたが、2019ねんから経営けいえいなん経営けいえいしゃ高齢こうれい閉店へいてんちゅうである[56]経営けいえいしゃ生前せいぜん小笠原おがさわらしゅ交流こうりゅうがあった関係かんけいで、小笠原おがさわらしゅ吹雪ふぶき惨劇さんげき』の発行はっこう販売元はんばいもととなっている。
  • 鳴沢なるさわだい露営ろえい - 青森あおもりけんどう40ごう青森あおもり田代たしろ十和田とわだせん 青森あおもり設置せっちした看板かんばんあり。
  • 平沢ひらさわだいいち露営ろえい - 青森あおもりけんどう40ごう青森あおもり田代たしろ十和田とわだせん 青森あおもり設置せっちした看板かんばんあり。
  • 田代たしろもと - 生存せいぞんしゃのひとり、村松むらまつ伍長ごちょう発見はっけんされた場所ばしょ
  • 田代たしろ新湯あらゆ - ゆきちゅう行軍こうぐん目的もくてき駒込川こまごめがわ 沿いに浴槽よくそうあと小屋こやがある。
  • 青森あおもり森林しんりん博物館はくぶつかん - きゅう青森営林局あおもりえいりんきょく庁舎ちょうしゃ営林局えいりんきょくちょうしつ映画えいが八甲田山はっこうださんのロケに使つかわれた。

題材だいざいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 小説しょうせつ映画えいがでの行軍こうぐん競争きょうそうなどは創作そうさくである。
  2. ^ 本来ほんらい目的もくてき田代たしろ新湯あらゆである。映画えいが八甲田山はっこうださん」では最後さいごほう村山むらやま伍長ごちょうがロープウェイにるシーンがあるが、かれのモデルとなった村松むらまつ伍長ごちょう実際じっさい発見はっけんされたのは田代たしろもとであり、またかれふくめた生還せいかんしゃ全員ぜんいん八甲田山はっこうださんロープウェイ敷設ふせつまえ死去しきょしている。
  3. ^ ちなみに2015ねん現在げんざい青森あおもりけん県道けんどう40ごう沿いにだい1、だい2露営ろえいあと標識ひょうしきがあるが、このあいだ徒歩とほやく10ふんほどの距離きょりである。
  4. ^ 映画えいが八甲田山はっこうださん』(1977ねん)では、神田かんだ大尉たいい北大路きたおおじ欣也きんや)が「てんは…てん我々われわれ見放みはなした」とこえしたしぼしながら発言はつげんしている。脚本きゃくほん橋本はしもとしのぶ)では「くような悲痛ひつうこえしずかな疎林そりんなかひびく」と表現ひょうげんされている。
  5. ^ 八甲田山はっこうださん彷徨ほうこう』(新田にった次郎じろう)では「神田かんだ大尉たいいゆきみしめながら怒鳴どなった」と記述きじゅつ
  6. ^ 余談よだん:2がつ12にち興津おきつ遺体いたい発見はっけんされたさい従卒じゅうそつ軽石かるいし三蔵さんぞうとうそつ遺体いたい興津おきつおおいかぶさるようにたおれていたというせつがあり、現場げんばうつしたとされる写真しゃしん存在そんざいする。これは美談びだんとしてひろ喧伝けんでんされ、『遭難そうなん始末しまつ附録ふろく美談びだんしゅうにも「上官じょうかんおもきょう凍死とうしす」という見出みだしでげられた(歩兵ほへいだい聯隊れんたい 1902b, p. 3)。ところが実際じっさいには、興津おきつ軽石かるいし遺体いたいはそれぞれべつ捜索そうさくたいことなる場所ばしょ発見はっけんしており、興津おきつおおいかぶさっていたのは軽石かるいしではなく吉田よしだ春松はるまつ一等いっとうそつだった。問題もんだい写真しゃしん現場げんば撮影さつえいしたものではなく、遺体いたいだい8哨所に収容しゅうようしたのちに演出えんしゅつくわえて撮影さつえいした写真しゃしんだったことが判明はんめいしている(川口かわぐち 2001, pp. 200–204)。
  7. ^ のちに倉石くらいしは「佐藤さとう連隊れんたい連絡れんらくせんとてきしまま行方ゆくえ不明ふめい」とべている。
  8. ^ イソップ寓話ぐうわ』の翻訳ほんやくとう名高なだかい。
  9. ^ 渡部わたなべ校長こうちょうだったことがある。
  10. ^ 防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ図書館としょかん所蔵しょぞう
  11. ^ 旭川あさひかわでは1がつ25にち零下れいか41.0℃を記録きろくした。帯広おびひろでは1がつ26にちどう38.2℃を記録きろくし、だい2となった。
  12. ^ 1がつ30にちづけ東奥ひがしおく日報にっぽう号外ごうがいにおいて、従軍じゅうぐんした同紙どうし記者きしゃ東海とうかい勇三郎ゆうさぶろうが1がつ28にち行軍こうぐんちゅうじゅうおよび凍死とうしたいたとしるしている。ただし同紙どうしのち訂正ていせい記事きじ掲載けいさいした。
  13. ^ 映画えいがでは案内あんないじん敬礼けいれいをするひとし一定いってい敬意けいいはらっていたかのような描写びょうしゃがあるが、あくまで映画えいがにおける演出えんしゅつである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 八甲田山雪中行軍遭難事件 遭難そうなん過程かてい原因げんいん 2022, p. 70
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  13. ^ 歩兵ほへいだい聯隊れんたい 1902, p. 27.
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  15. ^ 歩兵ほへいだい聯隊れんたい 1902, p. 29
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 小笠原おがさわら, しゅ (1970), 吹雪ふぶき惨劇さんげき だい一部いちぶ, 銅像どうぞう茶屋ちゃや私家しかほん 
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  • 百足むかで, とう, ed. (1902-02), 青森あおもり聯隊れんたい遭難そうなんせつちゅう行軍こうぐん, ほん文書ぶんしょてん ほか, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/844295 2015ねん10がつ17にち閲覧えつらん ゆうせんかく書店しょてんかん復刻ふっこくばんあり。銅像どうぞう茶屋ちゃやにて入手にゅうしゅ可能かのうよう確認かくにん
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]