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十津川とつかわだいおどり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

十津川とつかわだいおどり(とつかわのおおおどり)とは、奈良ならけん吉野よしのぐん十津川とつかわむら伝承でんしょうされている民俗みんぞく芸能げいのうおどである。

くに重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされ、ユネスコ無形むけい文化ぶんか遺産いさん風流ふうりゅうおどり」を構成こうせいする文化ぶんか遺産いさんひとつである[1]

概要がいよう

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十津川とつかわむら盆踊ぼんおどでは「だいおどり」とばれるおどりが村内むらうち各所かくしょひろおどられていたが、なかでも小原おはら武蔵むさしおよ西川にしかわ地区ちく永井ながい重里しげさとなど)の3地区ちくには中世ちゅうせい以来いらい歴史れきし古典こてんてきおどりが伝承でんしょうされており「十津川とつかわだいおどり」としてくに重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされている[2]かく地区ちく保存ほぞんかい継承けいしょうつとめており、毎年まいとし8がつ13にちから8がつ15にちまで地区ちくごとにをずらして、ぼうけたバチ太鼓たいこおうぎ切子きりこ灯籠どうろうなどにもあざやかなおどりがおどられている[3]

僧侶そうりょ指導しどうはじまったとされる[4]だいおどりは室町むろまち時代ときよから流行りゅうこうした風流ふうりゅうおどり典型てんけいれいひとつとして芸能げいのう史上しじょう貴重きちょうなものである[2]。この地域ちいき秘境ひきょう山里やまざとであったことが、民俗みんぞくがくてき価値かちたかい、民衆みんしゅう祭事さいじ舞踊ぶよう原型げんけいともいえるおどりを保存ほぞん継承けいしょうしてきた。ゆったりとした独特どくとくのテンポ、優雅ゆうが古風こふう歌詞かしなど、現代げんだい盆踊ぼんおどりとはまたちがおもむきがある[4]

これらのおどりはむかしてらどうないおどられていた。十津川とつかわむらでは明治めいじ廃仏毀釈はいぶつきしゃくすべての寺院じいんはいされたが、その名残なごりはこのような伝統でんとう芸能げいのうのこっている。いまでは最後さいごだいおどりでめくくり行事ぎょうじ深夜しんやにはわるが、かつてはそのままよるけるまでおどつづけていたという[3]

文化財ぶんかざい指定してい

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1974ねん昭和しょうわ49ねん12月4にち 記録きろく作成さくせいとう措置そちこうずべき無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざいとして選択せんたく[5][6][7]
選択せんたく名称めいしょう十津川とつかわだいおどり」。
保護ほご団体だんたいめいは、小原おはらおどり保存ほぞんかい武蔵むさしおどり保存ほぞんかい西川にしかわだいおどり保存ほぞんかい
1978ねん昭和しょうわ53ねん3月28にち 奈良ならけん指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい[6][7]
指定してい名称めいしょう十津川とつかわだいおどり」。
保持ほじ団体だんたい十津川とつかわむら武蔵むさし小原おはら西川にしかわだいおどり保存ほぞんかい
1989ねん平成へいせい元年がんねん3がつ20日はつか 日本にっぽんこく重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定してい[2][6][7]
指定してい名称めいしょう十津川とつかわだいおどり」。
保護ほご団体だんたいめいは、十津川村小原武蔵西川大踊保存会、小原おはらおどり保存ほぞんかい武蔵むさしおどり保存ほぞんかい西川にしかわおどり保存ほぞんかい
2022ねんれい4ねん11月30にち ユネスコの「人類じんるい無形むけい文化ぶんか遺産いさん代表だいひょうてき一覧いちらんひょう」に「風流ふうりゅうおどり」のひとつとして記載きさいされる[8][9]

小原おはらだいおど

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小原おはら盆踊ぼんおどり・だいおど
開催かいさい 8がつ13にち
しょ 吉野よしのぐん十津川とつかわむら大字だいじ小原おはら
十津川とつかわだいいち小学校しょうがっこう校庭こうてい
雨天うてん同校どうこう体育館たいいくかん

十津川とつかわむら中央ちゅうおう村役場むらやくばのある小原おはら盆踊ぼんおどりは、小原おはらおど保存ほぞんかいにより8がつ13にちよる十津川とつかわだいいち小学校しょうがっこう校庭こうていおこなわれている。校庭こうていみ、中央ちゅうおう青竹あおだけて、ハッポウ(八方はっぽう提灯ぢょうちん)をげる。校庭こうていおどるようになる以前いぜんおどどうとよばれたてらいずみぞういん)のどうないおどられていた[3][10][11]おどどう周囲しゅういにはすぎばん桟敷さじきもうけられたという[11]

小原おはらおどりは「だいおどり」「口説くどき」「馬鹿ばかおどり」におおきくけられる。だいおどりはおとこおどりともよばれ男性だんせい中心ちゅうしんおどりであった。広義こうぎだいおどりにふくむ、なかおどり・おはなおどり・おたからおどりなどをほんおどりとよぶが、これらのおどりは次第しだいうたわれなくなりうしなわれ、現在げんざい狭義きょうぎだいおどりのみが伝承でんしょうされている。口説くどきは女性じょせい中心ちゅうしんおどりで、おすぎ口説くどき・つばくら口説くどき・中山なかやま口説くどき・おくま口説くどき・おいそ口説くどきなどがある。それら以外いがいおどりは馬鹿ばかおどりといい、木曽きそたかし串本くしもとたかしなど民謡みんようもとにしたおどりなどがある[11]

だいおどりは前列ぜんれつには男性だんせい太鼓たいこちと太鼓持たいこもちにかれ、そのうしろに女性じょせいおうぎならぶ。後列こうれつには切子きりこ灯籠どうろうものくわわる。最初さいしょはゆったりとおどられるが後半こうはんのセメにはいると、太鼓たいこちはしろあかみどりながぼういたバチをまわしはねるように太鼓持たいこもちの太鼓たいこち、女性じょせいはその周囲しゅういいておうぎ頭上ずじょう左右さゆうり、バチとおなしょくあざやかなながぼうけた切子きりこ灯籠どうろうまわりを時計とけいまわりにはしまわる。次第しだいにテンポがはやくなりおどりがたかまっていく構成こうせいになっている[3][10][11]

このだいおどりには農作業のうさぎょうやま仕事しごとまた女装じょそうなどの扮装ふんそうをし、かさ帽子ぼうし手拭てぬぐいでかおかくしておどりにくわわる道化者どうけものもいる[3][10][11]集落しゅうらくひとたちがあれはだれかと詮索せんさくするのだが、このように仮装かそうおどりにくわわることを「けてる」とんでいる[10]むかし道化どうけ人数にんずうおおくさまざまな仮装かそうがあったという[11]

武蔵むさしだいおど

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武蔵むさし盆踊ぼんおどり・だいおど
開催かいさい 8がつ14にち
しょ 吉野よしのぐん十津川とつかわむら大字だいじ武蔵むさし
きゅう武蔵むさし小学校しょうがっこう校庭こうてい
雨天うてんよこのおどうない

小原おはら対岸たいがんにある武蔵むさし盆踊ぼんおどりは、8がつ14にちよる現在げんざい廃校はいこうとなっているきゅう武蔵むさし小学校しょうがっこう(もとちょうさかりさん光明寺こうみょうじ)の校庭こうていんでおこなわれる。こちらももとてらどうないおどられていたが、参加さんかしゃ増加ぞうかともない1950年代ねんだいごろから屋外おくがいおこなうようになった。このどういま校庭こうていすみのこっており雨天うてんのときに使つかわれている[10][12][13]盆踊ぼんおどりは青年せいねんかい主催しゅさいし、婦人ふじんかい武蔵むさしおどり保存ほぞんかい協力きょうりょくおこなわれており、だいおどりは武蔵むさしおどり保存ほぞんかい中心ちゅうしんとなっておどる。武蔵むさしおどり保存ほぞんかいむらないではいちはや1965ねん昭和しょうわ40ねん)1がつ結成けっせいされた[13]

おどりはおまつ口説くどき・おすぎ口説くどき・はなづくし・りゅうくずし・りゅうおどり・おかげおどりなど30きょくあるが、それらをおどったあとだいおどりがおどられる。現在げんざい伝承でんしょうされているだいおどりは1きょくのみであるが、かつておどられていた、じゅうさんよん鎌倉かまくらおどり・しろおどりはほんおどりといい、広義こうぎだいおどりにふくかんがかたもある。じゅうさんよんむね太鼓たいこげる形式けいしきのもので、近隣きんりんどうきょくなかでも武蔵むさしのそれは一番いちばんにぎやかであったという[10][12][13]

だいおどりは馬鹿ばかおどりとはことなり男女だんじょかれておどる。まずちかくに太鼓たいこばちった男性だんせいならび、その外側そとがわおうぎった女性じょせい、その外側そとがわ灯籠とうろうのついた笹竹ささたけどもたちがならぶ。最初さいしょのモトうごきのすくないしずかなおどりである。音頭取おんどとりが「ナムアミダブツ」をとなえるとおどしゅ一同いちどうかこんでになり、太鼓たいこ男性だんせいたちが太鼓持たいこもちと太鼓たいこにんいちくみとなって内側うちがわはいる。つづくセメとばれる部分ぶぶんになるとテンポががり、うたかたおどかたわりうごきがはげしくなる。「よわやつはまくりしゅっせ」のごえなかおどりの高揚こうようし、おどりの内側うちがわでは太鼓たいこちははねるようにして太鼓たいこち、女性じょせいたちはこしかがめ(小原おはら西川にしかわくら武蔵むさしもっとぜんかたぶけ姿勢しせいおうぎおおきくひるがえおどり、灯籠とうろうちはおどりのめぐ雰囲気ふんいきげる。むかし最後さいごには灯籠とうろういたという。つまりぼん灯籠とうろうおくりの作法さほうおこなっていた。また仮装かそうした道化者どうけものとしもある[10][12][13]

馬鹿ばかおどりの3あいだたいし、だいおどりの30ふんきょくおどりともに変化へんかみ、はじまるとまたたくあいだわるようにおもわれる。かつてのだいおどりは1あいだえるものであったが1970ねん昭和しょうわ45ねん)の大阪おおさか万博ばんぱく公演こうえんさい時間じかん制限せいげんもうけられ短縮たんしゅくし、以来いらい地元じもとおど場合ばあいみじかくなったという。この万博ばんぱくもう特訓とっくんおこなったことでおどりも洗練せんれんされ、以前いぜん男性だんせいのみでうたっていたものが男女だんじょいでうたかたちになるなど万博ばんぱく公演こうえんだいおどりに変化へんかあたえた[13]

少子しょうし高齢こうれいによる伝承でんしょう憂慮ゆうりょもあり、武蔵むさしではむらがい後継こうけいしゃ育成いくせいにもちかられている。北海道ほっかいどう新十津川しんとつかわまちへの伝承でんしょう普及ふきゅう活動かつどう1979ねん昭和しょうわ54ねん)にはじまった。よく1980ねん昭和しょうわ55ねん)には新十津川しんとつかわおどり保存ほぞんかい組織そしきされ、1983ねん昭和しょうわ58ねん)にだいおどりを伝承でんしょうした。新十津川しんとつかわまち小学生しょうがくせいははむら訪問ほうもん研修けんしゅう十津川とつかわむらおとずれるさいには武蔵むさし宿泊しゅくはく盆踊ぼんおどりを伝授でんじゅするなど交流こうりゅうつづけている。また奈良ならけん小学生しょうがくせい武蔵むさし宿泊しゅくはくする機会きかいには盆踊ぼんおどりの練習れんしゅう参加さんかしてもらうなど、外部がいぶへの伝承でんしょう活動かつどう積極せっきょくてきっている。さらには、30ねん以上いじょう武蔵むさし盆踊ぼんおどりにかよつづけているという音楽おんがく学者がくしゃ中川なかがわしん大阪市立大学おおさかいちりつだいがく)がひきいる一団いちだんが、2013ねん現在げんざい毎年まいとし8がつにやって準備じゅんび練習れんしゅう盆踊ぼんおどりに参加さんかしており、武蔵むさし盆踊ぼんおどりにかせない伝承でんしょうしゃ一員いちいんとなっている[13]

西川にしかわだいおど

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西川にしかわ盆踊ぼんおどり・だいおど
開催かいさい 8がつ15にち
しょ 吉野よしのぐん十津川とつかわむら大字だいじ重里しげさと
きゅう西川にしかわだいいち小学校しょうがっこう校庭こうてい
雨天うてん同校どうこう体育館たいいくかん

十津川とつかわむら南西なんせい十津川とつかわ支流しりゅう西川にしかわすじ集落しゅうらくぐん総称そうしょうして西川にしかわ地区ちくという。西川にしかわ盆踊ぼんおどりは、8がつ15にち西川にしかわ地区ちく全体ぜんたいもよおしとして重里しげさときゅう西川にしかわだいいち小学校しょうがっこう校庭こうていおどられている。以前いぜん集落しゅうらくごとにおどられていたが大正たいしょうころよりどう川筋かわすじ永井ながい集落しゅうらくあつまりおどられるようになり[3]1967ねん昭和しょうわ42ねん)に永井ながい重里しげさと中心ちゅうしん玉垣内たまがいと西中にしなか小山手こやまてひとたちもくわわり西川にしかわだいおどり保存ほぞんかい結成けっせいされ、以来いらい毎年まいとし西川にしかわ中学校ちゅうがっこう中学校ちゅうがっこう統合とうごうされ、その場所ばしょ西川にしかわだいいち小学校しょうがっこうになっていた)の校庭こうていおどられるようになった。永井ながいではもと川原かわらで、さらに1889ねん明治めいじ22ねん)の十津川とつかわだい水害すいがいながされる以前いぜん道場どうじょう集会しゅうかいしょおどっていた。集落しゅうらくによっては民家みんかたたみをあげておどることもあったという[14]

西川にしかわおどりの特色とくしょくもうけないこと[2]、とおおくの文献ぶんけんにあるように元々もともとはなかったが、2004ねん平成へいせい16ねん)より設置せっちしている。ただし、並列へいれつ隊列たいれつおど演目えんもくおおく、また隊列たいれつ維持いじしたまま移動いどうする形式けいしき演目えんもくもあるため、中央ちゅうおうではなく校舎こうしゃちか校庭こうていすみ設置せっちして提灯ちょうちんめぐらせている。音頭取おんどとりはじょううたうが、むかしうたえるひとおどりながら音頭おんどをとっていたという[15]

西川にしかわでは馬鹿ばかおどりをおどったのちだいおどりのまえもちつきおどりもおどられる。もちうすかこ伊勢いせ音頭おんどもちつきうたはやしにもちつきのしぐさをまじえておどられる[3]もちつきおどりののちにはもちまきおこなわれいよいよだいおどりである[15]西川にしかわにはヨリコ・イリハ・カケイリの3きょくだいおどりがつたわりおどられている[10]

ヨリコ(よせ)はおどりのひとせるためのおどりといい、男性だんせいしろみじかぼういたバチを太鼓たいこちと太鼓持たいこもちにかれ、後方こうほう両手りょうておうぎ女性じょせいおど[10]男女だんじょが3、4れつなら全体ぜんたい移動いどうするダイナミックなうごきをせるおどりである[14]歌詞かしはいくつかあるがその都度つどひとつのものをうたい、うたかたおどかたさん段階だんかいわる。むかし雨乞あまごにもおどられたといい「あめはしゅげしゅげ」の歌詞かし雨乞あまごいのときのもので、その歌詞かしはそのときの音頭おんどとりがその適当てきとうえらんでうた[16]。ヨリコは小山手こやまてさかんにおどられていたので小山手こやまておどりともいわれた[14][16]

イリハは、女性じょせい両手りょうておうぎち、男性だんせいむね太鼓たいこげ、紅白こうはくながぼういたバチをうつくしく太鼓たいこちつつおど優雅ゆうがおどりである。加賀かが越前えちぜんからふね黄金おうごんたからんでくるという内容ないようはじまり、江戸えど道中どうちゅう道順みちじゅんなどをぜてうたう。むかしむらほか地区ちくでもイリハがおどられていたがいまでは西川にしかわのものだけがのこっている[10]

カケイリはだいおどりの最後さいごおどられるもので、ヨリコとおな形態けいたいおどりであるが切子きりこ灯籠どうろうげた灯籠とうろうちがくわわる。カケイリではセメのあと最後さいご横列おうれつ隊形たいけいいて円形えんけいとなる。中心ちゅうしん音頭おんどとりが即興そっきょううたうたい、ゆったりとおどって最後さいごめくくる。これを「ダイモチをく」という[10][14]

西川にしかわだいおどりにはしのおどり・鎌倉かまくらおどり・おはなおどりもある。もとはヨリコ形式けいしきおどりのみをだいおどりといい、これらのおどりはイリハとともにしょうおどりとばれ[10]、また継承けいしょう熱心ねっしんであった永井ながい中心ちゅうしんによくおどられたので永井ながいおどりともいった[16]いまではほとんおどられなくなったがむね太鼓たいこげた男性だんせい中心ちゅうしんおどるもののようで、太鼓たいこおど系統けいとうきょく盆踊ぼんおどりにれられたものであろうとかんがえられ、これらしょうおどりは十津川とつかわだいおどりにおいてはだいおどりとはべつげいたいである[14]西川にしかわだいおどりで現行げんこうで「イリハ」とんでいるおどりは実際じっさいには2きょくおどりがはいっている。最初さいしょ独立どくりつした「いりは」をおどり、つづけてべつきょくの「おえど」おどりをくわえておどっている。「いりは(にゅうなみ)」は篠原しのはらおどり五條ごじょう大塔だいとうまち)のほか、国栖くず(くず・吉野よしのまち)や東川ひがしがわ(うのがわ・川上かわかみむら)の太鼓たいこおどりでも最初さいしょりにもちいられるきょくである。現行げんこう西川にしかわの「イリハ」も、いりはからおどりにつづ様式ようしきであることから本来ほんらいしょうおどりの最初さいしょおどりであったとかんがえられる[17]

西川にしかわしょうおどりといわれたイリハけいおどりは、以前いぜん十津川とつかわむら各地かくちでもほんおどりといわれておどられていた。1954ねん昭和しょうわ29ねん)に出版しゅっぱんされた『十津川とつかわきょう』(西田にしだ正俊まさとしちょ[ちゅう 1]には三村みつむら区内くない小原おはら武蔵むさしなどの地区ちく)の「ほんおどりのうた」として「いりは」など7つのうたがあげられているが、積極せっきょくてき伝承でんしょうがなかったために消滅しょうめつし、小原おはら武蔵むさしなどにいまだいおどりだけがようやくのこった[16]ほんおどりが西川にしかわ地区ちくだけに完全かんぜんのこるのは、明治めいじはいふつ松井まつい正則まさのり松井まついこんきち玉置たまきちょうこうらがおどりの継承けいしょうつとめ、その情熱じょうねつ松井まつい義太郎よしたろう玉置たまき道雄みちおあずまいさむらにがれ[14][16]地区ちく先駆さきがけて保存ほぞんかい結成けっせいしたことによるもので、西川にしかわだいおどり保存ほぞんかい存在そんざい意義いぎおおきい[16]

歴史れきし考察こうさつ

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口碑こうひによれば盆踊ぼんおどりは平安へいあん時代じだい末期まっきごろ空也くうや念仏ねんぶつおど踊念仏おどりねんぶつ)としてはじめられ、鎌倉かまくら時代ときよ一遍いっぺんがこれをひろめたという。玉置山たまきさん玉置たまき神社じんじゃ古来こらいより熊野くまの三山さんざんおくいんしょうされ修験しゅげんどう聖地せいちとして存在そんざいし、また十津川とつかわ熊野くまの三山さんざん高野山こうのやま吉野山よしのやまをつなぐ立地りっちにあり、巡礼じゅんれいしゃ僧侶そうりょらによってこれらのおどりがつたえられたとかんがえられる。江戸えど時代じだいはいると玉置山たまきさん本山ほんざん山伏やまぶし拠点きょてんのひとつとなり、また武蔵むさしには曹洞宗そうとうしゅう宇治うじ興聖寺こうせいじ末寺まつじ光明寺こうみょうじ開山かいさんするなど京都きょうととの関係かんけいふかまり、仏教ぶっきょう念仏ねんぶつおどり、風流ふうりゅうおどりがさかんにおこなわれた。明治維新めいじいしん廃仏毀釈はいぶつきしゃく寺院じいん破棄はきされたが僧侶そうりょおおくは還俗げんぞくしてむらまり、盆踊ぼんおどりの伝承でんしょう人々ひとびとあいだのこおどがれてきた[18]

武蔵むさしだいおどりの歌詞かし注目ちゅうもくされるのは「なにとてちごにしやぐまをせにや」という部分ぶぶんである。稚児ちご赤熊しゃぐま(しゃぐま)をせるというのは風流ふうりゅうおどり重要じゅうよう要素ようそで、かつては子供こどもたちがあたま赤熊しゃぐまをかぶっておどりのなか跳躍ちょうやく乱舞らんぶしていたことを物語ものがた[12]。また「なむあみだぶつ、さあおどらいで」とうたうのは念仏ねんぶつおどりの系譜けいふをひくとおもわれ[10]だいおどりは田楽でんがく念仏ねんぶつおどりが習合しゅうごう風流ふうりゅうしたおどりであるといえる[12]

十津川とつかわにおいて広義こうぎに「だいおどり」に分類ぶんるいされるおどりには狭義きょうぎだいおどりとしょうおどり(ほんおどり)がある。コオドリ(つづみおどり・こおどり・かみおどりなどと表記ひょうき)としょうする風流ふうりゅう太鼓たいこおど芸能げいのう伝承でんしょう近畿きんきいちえんられる。西川にしかわ伝承でんしょうされるイリハ(お江戸えどおどり)、しのびおどり、鎌倉かまくらおどり、ごもんおどり、おはなおどりなどしょうおどり(ほんおどり)にぞくする演目えんもくは、近畿きんきいちえんのコオドリと共通きょうつうする部分ぶぶんおお[19]

一方いっぽうオオオドリとしょうする芸能げいのう十津川とつかわ以外いがいではあまり類例るいれいがない。小原おはら武蔵むさしだいおどりや西川にしかわのヨリコは、歌詞かし旋律せんりつもコオドリとはおもむきことなる。馬淵まぶち卯三郎うさぶろうだいおどりを「豊国とよくに祭礼さいれい屏風びょうぶえがかれているようなおどり」とたとえている。豊国とよくに祭礼さいれい屏風びょうぶ慶長けいちょう9ねん1604ねん)8がつもよおされた豊臣とよとみ秀吉ひでよしなな回忌かいき様子ようすえがいた屏風びょうぶで、おうぎぜんかたぶけ姿勢しせいおど女性じょせいや、様々さまざまもの(トリモノ)を人々ひとびと道化どうけがいるようは、小原おはら武蔵むさし西川にしかわだいおどりと共通きょうつうする要素ようそがある[19]

十津川とつかわ盆踊ぼんおどりには明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ初期しょき流行りゅうこうした民謡みんようとうれられている。ながきにわたっておおくのおどりが次々つぎつぎ十津川とつかわ伝来でんらいし、変化へんかともないながら地層ちそうをなすように定着ていちゃくしてきた。その時代じだいその時代じだいうたんではストックする行為こういかえし、あたらしい音頭おんどれられるたびにふるうた淘汰とうたされながらも、そうとなってそれぞれの時代じだい旋律せんりつ歌詞かし幾重いくえにも蓄積ちくせきしている。そのなかでもだいおどりはもっといにしえがためているとかんがえられている[18][19]

地区ちく盆踊ぼんおど

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くに重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされる3地区ちくだいおどりのほかにも、十津川とつかわむら各所かくしょにははなやかで熱気ねっきびたふる盆踊ぼんおどりが伝承でんしょうされている。このふしでは村内むらうち各地かくち盆踊ぼんおどりにれる。

谷瀬たにぜ盆踊ぼんおど

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十津川とつかわむら北部ほくぶ谷瀬たにぜみなみりゅうする十津川とつかわ右岸うがん位置いち谷瀬たにぜばし対岸たいがん上野うえのむすばれている。谷瀬たにぜ盆踊ぼんおどりは毎年まいとし8がつ13にち谷瀬たにぜ公会堂こうかいどう公民館こうみんかん)の屋内おくないおどられる。谷瀬たにぜふく中野なかのむらでは昭和しょうわ30ねんごろまでは谷瀬たにぜのほか高津たかつあさひ宇宮原うぐはらなどでも盆踊ぼんおどりがあり8がつ13にち、14にちかく地区ちくおどり15にちはオオボンといって上野うえの中野なかのむらひとたちがあつまっておどっていたが、2012ねん平成へいせい24ねん現在げんざいでは盆踊ぼんおどりをもよおしているのは谷瀬たにぜだけである。谷瀬たにぜ盆踊ぼんおどりにはおうぎおどり手踊ておどり(みんなおどり)の2系統けいとうおどりがつたえられている。手踊ておどり男女だんじょへだてなくだれもがおどれるやさしいおどりである。おうぎおどり五條ごじょう大塔だいとうまち篠原しのはら伝承でんしょうされる無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい篠原しのはらおどり」の系譜けいふくもので、明治めいじ初期しょき篠原しのはらから太鼓たいこ持参じさんよめりした女性じょせい藤井ふじいさと)が篠原しのはらおどりをアレンジして谷瀬たにぜひろめたものだという。おうぎおどり格調かくちょうたかおどりとされており、女性じょせい浴衣ゆかたではなく着物きもの太鼓たいこたいめ、おどおうぎっておどる。谷瀬たにぜにも明治めいじ40ねんごろまではだいおどりがあったとする記録きろくがあるが、だいおどりがあったことすらひとはいない[20]

神納川かんのがわ盆踊ぼんおど

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風屋かぜや盆踊ぼんおど

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湯之原ゆのはら盆踊ぼんおど

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小原おはら武蔵むさしきた位置いちする湯之原ゆのはら盆踊ぼんおどりは8がつ15にち湯之原ゆのはら公会堂こうかいどうどうないおどられる。湯之原ゆのはらおどりはやく20年間ねんかん中断ちゅうだんしていたが2004ねん平成へいせい16ねん)に復活ふっかつ以降いこう毎年まいとしおどられている。まりごとがすくなく自由じゆうたのしいと地区ちくひとにも好評こうひょうである。中断ちゅうだんまえにバカおどりの音頭おんどっていた羽根はね幹夫みきおによる音源おんげん2005ねん平成へいせい17ねんごろ採録さいろくされ後継こうけいしゃ伝承でんしょうされている。中断ちゅうだんまえにはだいおどけいおどりもおどられていたが、経験けいけんしゃもすでにりをわすれており、バカおどりを伝承でんしょうしている現状げんじょう維持いじ精一杯せいいっぱいである。だいおどりの音声おんせい映像えいぞう記録きろくでは、大阪大学おおさかだいがくにより1983ねん昭和しょうわ58ねん)に採録さいろくされた音声おんせい映像えいぞう奈良ならけん教育きょういく委員いいんかいにより1986ねん昭和しょうわ61ねん)に採録さいろくされた音頭取おんどと山口やまぐちまさししん単独たんどく音声おんせいがある[21]

折立おりたち盆踊ぼんおど

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折立おりたち盆踊ぼんおどりは1980ねん昭和しょうわ55ねんごろから途絶とだえていたが2002ねん平成へいせい14ねん)に再興さいこうされた。かつては8がつ15にちおこなわれていたが、その毎年まいとし8がつ13にちきゅう平谷ひらや小学校しょうがっこう[22]もと折立おりたち中学校ちゅうがっこう)の校庭こうてい体育館たいいくかんおこなわれている。2003ねん平成へいせい15ねん)に発行はっこうされた『折立おりたち盆踊ぼんおど』には26きょく歌詞かし掲載けいさいされているが、2002ねん平成へいせい14ねん)8がつ8にち奈良なら新聞しんぶん記事きじには「折立おりたち独自どくじおどりはおよそ30きょくあった」とされ最初さいしょおどられる「まるこなれ」や「せんよう椿つばき」「ぼんにゃしょらしょら」などが折立おりたち独自どくじおどりであるとしるされている。『折立おりたち盆踊ぼんおど』の歌詞かし以外いがいにもしめ太鼓たいこ即興そっきょう歌詞かしはいってくることがあるが、わか世代せだいもとうたそのものをらない場合ばあいもあり即興そっきょう歌詞かしつくるのがむずかしくなっている。また折立おりたち独自どくじの「ささおどり」は人数にんずう減少げんしょう途絶とだえたという[23]

出谷でたに盆踊ぼんおど

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十津川とつかわ支流しりゅう上湯川かみゆかわ流域りゅういき出谷でたにというがある。十津川とつかわ温泉郷おんせんきょうのひとつうえ温泉おんせんである。出谷でたに盆踊ぼんおどりはてんいち神社じんじゃ境内けいだい公民館こうみんかんきゅう西川にしかわだい小学校しょうがっこう[22]校庭こうていなどでおどられてきた。おどられるきょくは50きょくほどもあったといい伝承でんしょうされるきょくすう出谷でたに一番いちばんおおい。「まるこなれ」でおどはじめ「伊勢いせ音頭おんど」でひとまずめくくられるが、おどりはそのつづけられる。おどりの形式けいしきにはおどりもあるが、十津川とつかわむら南西なんせいおどりの特色とくしょくもっとしめすのは男女だんじょかいわせになっておどるものである。1978ねん昭和しょうわ53ねん)には出谷でたにおどり保存ほぞんかい結成けっせいされ地区ちくおどりの保存ほぞんんでいる。このうち「かわぶし」「いかだぶし」(十津川とつかわむら指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい)はかつて材木ざいもく搬出はんしゅつおこなわれたいかだなが作業さぎょうおどりにれたものである。出谷でたにでは8がつ15にち盆踊ぼんおどりが開催かいさいされているが、1960年代ねんだいころまでは盆踊ぼんおどりは娯楽ごらくでありおぼん前後ぜんこう毎夜まいよあつまり民家みんかなどでもさかんにおどられた。7月のはじめから40にちちかくもおどっていたという[24][25]

平谷ひらや盆踊ぼんおど

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十津川とつかわむら南部なんぶ平谷ひらや十津川とつかわ温泉おんせん観光かんこうきゃくあつめる村内むらうち最大さいだいである。平谷ひらや盆踊ぼんおどりは平谷ひらやもちつきおど保存ほぞんかいにより毎年まいとし8がつ14にちおこなわれている。1962ねん昭和しょうわ37ねん)に津野つのダム完成かんせいする以前いぜん川原かわらで、その十津川とつかわだい小学校しょうがっこう[22]もと平谷ひらや小学校しょうがっこう)の校庭こうていなどでおどられてきた。かつては平谷ひらやふく四村よむら地区ちくではそれぞれの盆踊ぼんおどりがありたがいにしておどられてきたため、それらのおどりが地区ちく中心ちゅうしんである平谷ひらやあつまった。だい世界せかい大戦たいせん周辺しゅうへん地域ちいきあつまって平谷ひらやおどるようになり、1975ねん昭和しょうわ50ねん)によんむら地区ちく全域ぜんいきから会員かいいんつの保存ほぞんかい結成けっせいされた。「餅搗もちつおどり」(十津川とつかわむら指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい)は、ぼんほかにも11がつだい2日曜日にちようび福山ふくやま神社じんじゃ例祭れいさい地区ちく交代こうたい参加さんかする玉置たまき神社じんじゃ例祭れいさいなどでもおどられる[26][27]

その

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ふれあい物語ものがたり

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十津川とつかわむらにはぜんむらで100きょく以上いじょうおよ盆踊ぼんおどりがあったといわる。やまあいに点在てんざいするかく地区ちくごとにそれぞれがおどりをつたえてきたからだ。そこで、3地区ちくだいおどりやほかにも出谷でたに平谷ひらやなどふるおどりがのこ地区ちくおどりもくわ一堂いちどうたのしみまた伝統でんとう次代じだい継承けいしょうしていこうと、村内むらうちかく地区ちく盆踊ぼんおどりがわったあと平谷ひらやの「すばるさと」で十津川とつかわむら盆踊ぼんおど大会たいかい開催かいさいされるようになった[4]1999ねん平成へいせい11ねん)からは「すばるさとふれあい物語ものがたり十津川とつかわむらなつまつり」と銘打めいうち、むらをあげての一大いちだいイベントとなっている。

新十津川しんとつかわまちでの伝承でんしょう

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明治めいじ時代じだい十津川とつかわだい水害すいがい被災ひさいしゃ集団しゅうだん移住いじゅうにより開拓かいたくされた北海道ほっかいどう樺戸かばとぐん新十津川しんとつかわまちでは、1980ねん昭和しょうわ55ねん)にははむらである十津川とつかわむらおどおよ他府県たふけん移住いじゅうしゃからつたえられたおどりの伝承でんしょう普及ふきゅう目的もくてきとして「新十津川しんとつかわおどり保存ほぞんかい」が設立せつりつされた[28]保存ほぞんかいでは十津川とつかわむらふるくからつたわる武蔵むさしおどり保存ほぞんかいだいおどりを伝承でんしょうし、新十津川しんとつかわ神社じんじゃれい大祭たいさいでの奉納ほうのうをはじめしょ行事ぎょうじ参加さんかして披露ひろうしている[29]

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 十津川とつかわきょう初版しょはん1932ねん (全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:47012205)、だい2はん1954ねん (NCID BN04334284)、著者ちょしゃ西田にしだ正俊まさとし(1880ねん-1947ねん)。

出典しゅってん

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  10. ^ a b c d e f g h i j k l m 高橋たかはし鹿谷しかたに 1991ねん、131-133ぺーじ
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  23. ^ 奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい 2014ねんだい2かん 529-533ぺーじ
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  28. ^ 十津川とつかわおどり・新十津川しんとつかわ盆踊ぼんおど北海道ほっかいどう文化ぶんか資源しげんデータベース)、2013ねん5がつ24にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 田中たなか眞人まさと奈良なら大和やまと年中ねんじゅう行事ぎょうじあわ交社、2009ねん10がつ10日とおかISBN 978-4-473-03597-4
  • 奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい へん奈良ならけん歴史れきしみち調査ちょうさ 熊野くまの古道ふるみちしょうあたり調査ちょうさ報告ほうこくしょ奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい平成へいせい10ねん(1998ねん)3がつ
  • 奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい へん奈良ならけん民俗みんぞく芸能げいのう 奈良ならけん民俗みんぞく芸能げいのう緊急きんきゅう調査ちょうさ報告ほうこくしょぜん2かん奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい平成へいせい26ねん(2014ねん)3がつ31にち
  • 奈良ならけん編集へんしゅう委員いいんかい へん奈良ならけん だい13かん 民俗みんぞくした)』 名著めいちょ出版しゅっぱん昭和しょうわ63ねん(1988ねん)11がつ10日とおかISBN 4-626-01327-9
  • 奈良新聞社ならしんぶんしゃ へん大和やまとかみ々』 奈良新聞社ならしんぶんしゃ、1996ねん11月30にちISBN 4-88856-015-3

外部がいぶリンク

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