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宇都宮うつのみやつな

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

宇都宮うつのみや つな(うつのみや もちつな、おうひさし3ねん1396ねん) - おうなが30ねん8がつ9にち1423ねん9月13にち))は室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき武将ぶしょうで、下野げやこく宇都宮うつのみやだい13だい当主とうしゅたけしげるつな三男さんなんで12だい当主とうしゅ宇都宮うつのみやみつるつな婿養子むこようしだい14だい当主とうしゅ宇都宮うつのみやひとしつな芳賀はがしげるだかしつあしめいもりかいしつちち常陸ひたちかい

下野しもの宇都宮うつのみや一族いちぞくたけしげる出身しゅっしんおうなが14ねん1407ねん)に急逝きゅうせいした宇都宮うつのみや本家ほんけまんつな男子だんしがいなかったのでその養子ようしとなり家督かとく継承けいしょうした。鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ臣従しんじゅうしてそのへんいみなけてもちつな名乗なの[1]上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらんでは関東かんとうしょしょう上杉うえすぎかたにつき一族いちぞくにも呼応こおううごきがあるなかで、室町むろまち幕府ばくふ討伐とうばつぐん協力きょうりょくしてらん鎮圧ちんあつ、そのこうによって上総かずさこく守護しゅご京都きょうと扶持ふちしゅにんじられるなど幕府ばくふ重用じゅうようされたが、もちより那須なすぐんさんさと長沼ながぬま義秀よしひでゆずってしいと懇願こんがんされたとき拒否きょひしたことなどからもち警戒けいかいされるようになり、のち小栗おぐりみつるじゅうらん荷担かたんしたとして討伐とうばつけた。もちつなはん鎌倉かまくら活動かつどうめいじる幕府ばくふからの御内おんうちしょけていたとみられている[2]おうなが30ねん(1423ねん)8がつ9にち一族いちぞく塩谷しおやきょうつなによって殺害さつがいされた。塩谷しおや芳賀はがら、家中いえじゅうおや鎌倉かまくらによる離反りはんがあったとみられている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 江田えだ郁夫いくお総論そうろん 下野げや宇都宮うつのみや」(所収しょしゅう江田えだ、2011ねん、P.13)。このいち拝領はいりょう鎌倉かまくら公方くぼうとの良好りょうこう関係かんけい、および公方くぼうから相応そうおう家格かかくみとめられていたことの徴証ちょうしょうとらえることができる(江田えだ同前どうぜん)。
  2. ^ まんすみじゅんきさき日記にっきおうなが30ねん6がつ5にち・7がつ4にちじょうなど

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 江田えだ郁夫いくお 編著へんちょ『シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいよんかん 下野しもの宇都宮うつのみや』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2011ねんISBN 978-4-86403-043-4
    • 江田えだ郁夫いくお総論そうろん 下野げや宇都宮うつのみや
    • 杉山すぎやま一弥かずや室町むろまち幕府ばくふ下野げや京都きょうと扶持ふちしゅ〉」(初出しょしゅつ:『年報ねんぽう中世ちゅうせい研究けんきゅう』30ごう、2005ねん)、杉山すぎやま一弥かずや室町むろまち幕府ばくふ東国とうごく政策せいさく』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2014ねんISBN 978-4-7842-1739-7にも所収しょしゅう