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岡田おかだしん

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岡田おかだ しん
生誕せいたん (1885-03-10) 1885ねん3がつ10日とおか
日本の旗 日本にっぽん 近江おうみこく野洲やすぐん守山もりやまむら
死没しぼつ 1946ねん8がつ15にち(61さい
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく チャムス
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ
職業しょくぎょう 大蔵省おおくらしょう官僚かんりょう銀行ぎんこう
配偶はいぐうしゃ 岡田おかだのぶ
子供こども なし
おや 岡田おかだ逸治いつじろう義子ぎし
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岡田おかだ しん(おかだ まこと(通称つうしょう:おかだ しん)、1885ねん明治めいじ18ねん3がつ10日とおか - 1946ねん昭和しょうわ21ねん8がつ15にち)は、日本にっぽん大正たいしょう昭和しょうわにおける大蔵省おおくらしょう官僚かんりょう銀行ぎんこういえ大蔵省おおくらしょう官僚かんりょうとしてはおも特殊とくしゅ銀行ぎんこう植民しょくみん金融きんゆう担当たんとうした。滋賀しがけん出身しゅっしん

生涯しょうがい

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1885ねん明治めいじ18ねん)3がつ10日とおか滋賀しがけん野洲やすぐん守山もりやまむら吉身よしみげん滋賀しがけん守山もりやま吉身よしみ)で誕生たんじょう

ちち滋賀しが県議会けんぎかい議長ぎちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんつとめた岡田おかだ逸治いつじろうはは逸治いつじろうさん番目ばんめつま義子ぎしはちなんななじょろくおとことして誕生たんじょうしたが、長男ちょうなんよんなん夭折ようせつにより対外たいがいてきにはよんなんしょうす。

京都きょうと府立ふりついちなかげん京都きょうと府立ふりつらくきた高等こうとう学校がっこう附属ふぞく中学校ちゅうがっこう)よりだいよん高等こうとう学校がっこう1905ねん明治めいじ38ねん)7がつ5にち卒業そつぎょう[1]て、1909ねん明治めいじ42ねん)7がつ10日とおか東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ卒業そつぎょう[2]した。

大蔵おおくら官僚かんりょうとして

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大学だいがく卒業そつぎょう大蔵省おおくらしょう専売せんばいきょく書記しょきにんじられ、1909ねん明治めいじ42ねん)11月文官ぶんかん高等こうとう試験しけん合格ごうかく[3]した。以後いご専売せんばいきょく長官ちょうかん官房かんぼう書記しょきけん製造せいぞう書記しょき名古屋なごや専売せんばいきょく書記しょき熊本くまもと専売せんばいきょく事業じぎょう課長かちょうふく参事さんじけん製造せいぞうふく参事さんじ歴任れきにんする。

なお、1911ねん明治めいじ44ねん)12月より1912ねん大正たいしょう元年がんねん)11がつまで、志願しがんへいとして歩兵ほへいだい38連隊れんたい入営にゅうえいのため専売せんばいきょく一時いちじ休職きゅうしょくした。

1916ねん大正たいしょう5ねん)4がつ大蔵省おおくらしょう銀行局ぎんこうきょく事務じむかんてんじ、大蔵おおくら大臣だいじん勝田かつた主計かずえしたおこなわれた地方銀行ちほうぎんこうへの検査けんさ担当たんとう[4]した。

1918ねん大正たいしょう7ねん)12月より翌年よくねん6がつ実際じっさい帰国きこくは8がつ)までのあいだ日本にっぽんぐんシベリア出兵しゅっぺいさいしてうらしお派遣はけんぐん軍政ぐんせいきとして、日本にっぽんぐん占領せんりょうおよびオムスク政府せいふ財政ざいせい状態じょうたい調査ちょうさならびに財政ざいせい確立かくりつのための支援しえんおこな[5][6]

1919ねん大正たいしょう8ねん)8がつ大蔵省おおくらしょう銀行局ぎんこうきょく特別とくべつ銀行ぎんこう課長かちょう通称つうしょうとくぎん課長かちょう)ににんじられ、日本銀行にっぽんぎんこうはじめとする特殊とくしゅ銀行ぎんこう担当たんとうする。あわせて、日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこう管理かんりかん日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう管理かんりかん台湾たいわん銀行ぎんこう管理かんりかんつとめる。

とくぎん課長かちょう在任ざいにんちゅうは、国内こくないならびに植民しょくみん産業さんぎょう育成いくせいのため、特殊とくしゅ銀行ぎんこう資金しきん調達ちょうたつ円滑えんかつ目的もくてきにした『日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこう日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこう農工のうこう銀行ぎんこう北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう資金しきん調達ちょうたつ規定きてい改正かいせい[7][8]や、『金融きんゆう準備じゅんび調査ちょうさかい』の設立せつりつ[9]植民しょくみん金融きんゆうならびに産業さんぎょう施設しせつ調査ちょうさ目的もくてきにした『拓殖たくしょく経済けいざい調査ちょうさ委員いいん設立せつりつ[10]尽力じんりょくした。

大蔵省おおくらしょう退官たいかん

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東洋とうよう拓殖たくしょく理事りじ就任しゅうにん

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1925ねん大正たいしょう14ねん)5がつ25にち大蔵省おおくらしょうにおいてとくぎん課長かちょうとして台湾たいわん銀行ぎんこう朝鮮ちょうせん銀行ぎんこうかい植民しょくみん金融きんゆうかかわっていたことから、朝鮮半島ちょうせんはんとう中心ちゅうしん植民しょくみん事業じぎょう産業さんぎょう開発かいはつ推進すいしんする東洋とうよう拓殖たくしょく通称つうしょうあずまたく渡辺わたなべ勝三郎かつさぶろう総裁そうさいからの要請ようせいけ、同社どうしゃ理事りじ就任しゅうにんし、大蔵省おおくらしょう退官たいかんした。あずまたくにおいては同社どうしゃ長期ちょうき資産しさん整理せいり社債しゃさいをはじめとするあらたな資金しきん調達ちょうたつ実施じっしおも担当たんとうした[11]

台湾たいわん総督そうとく財務局ざいむきょくちょう就任しゅうにん

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1932ねん昭和しょうわ7ねん)3がつ15にち台湾たいわん総督そうとく財務局ざいむきょくちょう就任しゅうにんした。

どう時期じき台湾たいわん総督そうとく就任しゅうにんしたみなみひろし内務省ないむしょう出身しゅっしん)は、岡田おかだだいよん高等こうとう学校がっこう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ先輩せんぱいにあたる。岡田おかだ着任ちゃくにんしたヶ月かげついち事件じけんこり、みなみひろし逓信ていしん大臣だいじん転出てんしゅつわりに台湾たいわん最後さいご文官ぶんかん総督そうとくである中川なかがわ健蔵けんぞう就任しゅうにんした。

岡田おかだだいいち世界せかい大戦たいせんきょうにある台湾たいわん財政ざいせいなおしのため、「財政ざいせい自立じりつ」・「産業さんぎょう工業こうぎょう推進すいしん」を目的もくてきとして業務ぎょうむ遂行すいこうした。1933ねん昭和しょうわ8ねん)には「所得しょとく階級かいきゅうべつ租税そぜいおよ公課こうか負担ふたんじょうきょう」の調査ちょうさ1934ねん昭和しょうわ9ねん)には「土地とち利用りようじょうきょう」の調査ちょうさえ、これらをもと1935ねん昭和しょうわ10ねん)に地租ちそ改正かいせい岡田おかだ財務局ざいむきょくちょう退任たいにんしたのち1937ねん昭和しょうわ12ねん)に租税そぜい改定かいていおこなわれた[12][13]。また、1935ねん昭和しょうわ10ねん)を初年度しょねんどとする台湾たいわん産業さんぎょう開発かいはつ10ヶ年かねん計画けいかくにおいては委員いいんとして計画けいかく策定さくていかかわった。

ちなみに、台湾たいわん財政ざいせいにおける歳入さいにゅうがく1931ねん昭和しょうわ6ねん)116ひゃくまんえんから1936ねん昭和しょうわ11ねん)176ひゃくまんえん1937ねん昭和しょうわ12ねん)203ひゃくまんえんと、岡田おかだ在任ざいにん前後ぜんこうの6年間ねんかん大幅おおはば増加ぞうかした[14]

北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう頭取とうどり就任しゅうにん

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1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつ17にちだいろくだい北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう頭取とうどり就任しゅうにんした。

岡田おかだ頭取とうどり時代じだい戦前せんぜん北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう通称つうしょうきたたく)において『非常ひじょう飛躍ひやく』をげた時期じき同行どうこう内部ないぶしょうされている。1936ねん昭和しょうわ11ねん)12月北門きたもん銀行ぎんこう1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ岡田おかだ退任たいにん直後ちょくご樺太からふと銀行ぎんこう合併がっぺい吸収きゅうしゅうすることで銀行ぎんこうとしての基盤きばん強化きょうかはかるとともに、営業えいぎょう形態けいたい普通ふつう銀行ぎんこうとしての色彩しきさいつよめ、不動産ふどうさん金融きんゆう縮小しゅくしょう預金よきんによる調達ちょうたつ短期たんき貸出かしだし大幅おおはば増大ぞうだいさせた。とく軍需ぐんじゅ産業さんぎょうへのかたよった貸出かしだしおこなわれていなかったことが、にちちゅう戦争せんそうから太平洋戦争たいへいようせんそうつながるこの時期じきにおいて、経営けいえい一番いちばん特色とくしょくとされる[15]

満州まんしゅう興業こうぎょう銀行ぎんこう総裁そうさい就任しゅうにん

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1941ねん昭和しょうわ16ねん康徳やすのり8ねん)2がつだいだい満州まんしゅう興業こうぎょう銀行ぎんこう通称つうしょう満州まんしゅう興銀こうぎん総裁そうさい就任しゅうにんした[16]

1937ねん昭和しょうわ12ねん康徳やすのり4ねん)4がつから実施じっしされた満州まんしゅうこくだいいちカ年かねん計画けいかく結果けっかけ、だいカ年かねん計画けいかく実行じっこうのために必要ひつよう安定あんていした資金しきん供給きょうきゅう実現じつげん目的もくてきとして業務ぎょうむ遂行すいこうした。東京とうきょう支店してん機能きのう拡充かくじゅうし、内地ないちからの資金しきん獲得かくとくふくめた調達ちょうたつ基盤きばん多様たよう模索もさくする一方いっぽうだいいち計画けいかく期間きかんにおいておこなわれた野放図のほうず貸出かしだし抑制よくせいした。

ソ連それんたいにち宣戦せんせん布告ふこく

1945ねん昭和しょうわ20ねん康徳やすのり12ねん)8がつ8にちソ連それん日本にっぽんたい宣戦せんせん布告ふこくよく9にちにはソ連それんぐんによる満州まんしゅう進駐しんちゅう開始かいしした。

8がつ13にち岡田おかだ満州まんしゅう重工業じゅうこうぎょう社長しゃちょうこう碕達すけなどと私的してきあつまり、ソ連それんぐん満州まんしゅう進駐しんちゅうともな日本人にっぽんじん住民じゅうみん生命せいめいまもるため「治安ちあん維持いじかい」を発足ほっそくをさせた。これを契機けいきとして、8がつ19にちに「しんきょう日本人にっぽんじんかい」がつくられ、以降いこう日本人にっぽんじんかい」が満州まんしゅう全域ぜんいきつくられていった。8月28にちには、13にちあつまった岡田おかだこう碕達すけとうくわえ、満州まんしゅうこく総務そうむ長官ちょうかん武部たけべ六蔵ろくぞうまんてつ総裁そうさい山崎やまざきもとみきまんしゅう拓殖たくしょく総裁そうさい斎藤さいとう弥平やへいふとしなどもくわわり協議きょうぎおこない、ぜん満州まんしゅう在留ざいりゅう邦人ほうじん救済きゅうさいする機関きかんとして「日本人にっぽんじんかい総会そうかい」(各地かくちにある日本人にっぽんじんかい代表だいひょう団体だんたい)を結成けっせいした。同時どうじに、ソ連それんぐんによる拘束こうそく可能かのうせいひく民間みんかんじんであるこう碕達すけ代表だいひょうしゃとすることをめた。以後いごこう碕を中心ちゅうしんソ連それんぐん当局とうきょく交渉こうしょうおこない、「日本人にっぽんじんかい総会そうかい」の承認しょうにん満州まんしゅうこく財産ざいさん重要じゅうよう施設しせつ円滑えんかつ譲渡じょうとえに「在留ざいりゅう邦人ほうじん保護ほご」を交渉こうしょうあわせて避難ひなんみん救済きゅうさい必要ひつよう資金しきん確保かくほつとめた[17]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)4がつ14にち中国共産党ちゅうごくきょうさんとう指導しどうはちぐん東北とうほく民主みんしゅれんぐん)が長春ちょうしゅんしんきょう)に入城にゅうじょうした[18]。それまで長春ちょうしゅんソ連それんぐん統治とうちにあったが、はちぐんがこれにかわ同年どうねん5がつ23にち国民党こくみんとうぐん入城にゅうじょうまでつづいた[19]はちぐん占領せんりょう長春ちょうしゅんでは「日本人にっぽんじん保護ほご費用ひようとして1おくえん資金しきん拠出きょしゅつ医師いし看護かんご徴用ちょうよう403めいうち120めい以上いじょう戦後せんご残留ざんりゅうとなった)、労務ろうむ提供ていきょう」をもとめられ、撤退てったいさいして645めい日本人にっぽんじんられ、そのなか斎藤さいとう弥平やへいふとし満州まんしゅう拓殖たくしょく総裁そうさいまんしゅう鉱業こうぎょう開発かいはつ理事りじちょう竹内たけうちいさおとも岡田おかだがあった[19]一説いっせつでは岡田おかだひとしは5月14にち連行れんこうされたと[18]竹内たけうち岡田おかだチャムス桂木かつらぎ斯)に連行れんこうされ、8がつ15にち満州まんしゅう要人ようじんとも中央ちゅうおう広場ひろば民衆みんしゅう裁判さいばんにかけられるさいまんけい要人ようじん奪回だっかいたくら一団いちだんあらわれ、だい混乱こんらんとなったため裁判さいばんたず銃殺じゅうさつされたという[注釈ちゅうしゃく 1]岡田おかだ死去しきょ正確せいかく日時にちじ明確めいかくでないため、遺族いぞく終戦しゅうせん記念きねんである8がつ15にち命日めいにちとしている。

エピソード

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  • だい67かい帝国ていこく議会ぎかい衆議院しゅうぎいん1935ねん昭和しょうわ10ねん)2がつ5にち開会かいかいちゅう控室ひかえしつ台湾たいわん総督そうとく財務局ざいむきょくちょうであった岡田おかだしん衆議院しゅうぎいん議員ぎいんぼく春琴しゅんきんたい暴言ぼうげんいたうえいとなり、児玉こだま秀雄ひでおひらけつとむ大臣だいじんひとし仲裁ちゅうさいにより、かろうじてなぐいにならなかったことを雑誌ざっしつぶせつとむ評論ひょうろん)が紹介しょうかいし、岡田おかだを「王様おうさま気取きどり」と批判ひはん[20]していた。事後じご岡田おかだは、台湾たいわん総督そうとく総務そうむ長官ちょうかんである平塚ひらつか廣義ひろよし家族かぞくたいし、「こと発端ほったんほお議員ぎいんが『おな日本人にっぽんじんなのに日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじん台湾たいわんじんうのはおかしい」「日本にっぽんでも、朝鮮ちょうせん台湾たいわんでもおな幣制へいせいおこなうべき」などの発言はつげん[21]議会ぎかいでしたことだ。台湾たいわんでの地方ちほう自治じち導入どうにゅうめているときに、余計よけいいに台湾たいわんしたことに抗議こうぎおこなったにぎない。」とはなしをした。ちなみに、ある程度ていど自治じちみとめるべくかんがえていた台湾たいわん総督そうとく府中ふちゅうがわ総督そうとく以下いかたいし、「弱腰よわごし」などの批判ひはん[22][23]内地ないち一部いちぶより根強ねづよくあった。なお、台湾たいわん地方ちほう自治じち制度せいど昭和しょうわ10ねん4がつ1にち公布こうふされた[24]
  • 台湾たいわん銀行ぎんこう通称つうしょうたいぎん島田しまだしげる頭取とうどり帝人ていじん事件じけん逮捕たいほされ、後任こうにん頭取とうどりさい有力ゆうりょく候補こうほとして岡田おかだしん名前なまえがあがっていたが、大蔵おおくら官僚かんりょうへの天下あまくだ批判ひはんなかたいぎん岡田おかだ頭取とうどり誕生たんじょうえとなった[25]
  • 岡田おかだしん北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう頭取とうどり就任しゅうにんは、同行どうこう歴代れきだい頭取とうどり大蔵省おおくらしょう出身しゅっしんしゃによりめられ、かつ前任ぜんにん頭取とうどりたいする不満ふまん行内こうないおおきな問題もんだいになっていたときおこなわれた。頭取とうどりとも大蔵省おおくらしょう出身しゅっしん常務じょうむ退任たいにんし、わりにきたたく出身しゅっしん行員こういん常務じょうむ取締役とりしまりやくおっと昇格しょうかくすることで、岡田おかだ頭取とうどり就任しゅうにん実現じつげんした[26]。なお、過去かこにもきたたくでは頭取とうどりたいする不満ふまんから天下あまくだ頭取とうどりめぐあらそいがあり、当時とうじ大蔵省おおくらしょう特別とくべつ銀行ぎんこう課長かちょうであった岡田おかだみずか株主かぶぬし総会そうかい出席しゅっせきし、頭取とうどりふくぜん役員やくいん罷免ひめんという強硬きょうこう手段しゅだんもちいるとともに勧業かんぎょう銀行ぎんこう理事りじであった加藤かとうたかし三郎さぶろう頭取とうどり指名しめいして騒動そうどう鎮静ちんせいさせたことがあった[27]
  • 岡田おかだしん満州まんしゅう興業こうぎょう銀行ぎんこう総裁そうさい就任しゅうにんまえ親友しんゆうである衆議院しゅうぎいん議員ぎいん小笠原おがさわらさんきゅうろうに、満州まんしゅう興銀こうぎん総裁そうさいしょくけるべきかとの相談そうだんおこなった。小笠原おがさわらからは「これからの日本にっぽん満州まんしゅう如何いかだ‥、おれならばける」とのはなしけ、満州まんしゅうへと旅立たびだった。後日ごじつ岡田おかだった小笠原おがさわらは「剛直ごうちょく恬淡てんたん親切しんせつ人情にんじょうあつすすんで他人たにんなんすくひとであったため、満州まんしゅうてき弾丸だんがんたおれることとなったのではないか」とかたった[28]
  • 岡田おかだしん満州まんしゅう興業こうぎょう銀行ぎんこう総裁そうさい時代じだいおおくの満州まんしゅう要人ようじんとも香蘭こうらんファンクラブである「香蘭こうらんまもかい」に入会にゅうかいしていた。どうかいには、星野ほしの直樹なおき総務そうむ長官ちょうかんきし信介しんすけ総務庁そうむちょう次長じちょう満州まんしゅう重工業じゅうこうぎょう社長しゃちょうだか碕達じょ満州まんしゅう重工業じゅうこうぎょう開発かいはつ総裁そうさい鮎川あいかわ義介ぎすけ日産にっさんコンツェルン創始そうししゃ)などもれんらねている[29]
  • 岡田おかだしんは、満州まんしゅうにおける産業さんぎょう金融きんゆうかい大立者おおだてものとして満州まんしゅう大久保おおくぼ彦左衛門ひこざえもんてき存在そんざい満州まんしゅう国内こくないではわれていた。当時とうじ雑誌ざっしには岡田おかだのことを「岡田おかだしん表面ひょうめんてき性格せいかくあるものは、かれまことにやかましやでこまるとうが、それはかれいちめんのみをての批評ひひょうえよう。かれ事実じじつやかましやにはちがいはないが、さりながらたんなるやかましやではない。かれ無遠慮ぶえんりょ文句もんくっても、一方いっぽういて「はらそこからっておたがいにキンタマをにぎって、おおいに問答もんどうしてやろうじゃないか」とった調子ちょうしで、文句もんくなかにもたん上滑うわすべりではなく、心底しんそこから肝胆かんたんしょうらし議論ぎろんしたいと真剣しんけんいちめん見逃みのがしてはならない。」と紹介しょうかいしている[30]
  • 終戦しゅうせん直後ちょくご従業じゅうぎょういんわた資金しきんとして満州まんしゅう映画えいが協会きょうかい理事りじちょう甘粕あまかす正彦まさひこ岡田おかだしんたいひゃくまんえん借入かりいれもうんだ。このとき甘粕あまかすいた借入かりいれ依頼いらいじょうに「ひゃくまんえんしてください。さないとんでからけてます。八月はちがつじゅうはちにち 甘粕あまかす正彦まさひこ[31]。と記載きさいされており(甘粕あまかす自殺じさつ直前ちょくぜんいた3つう遺書いしょひとつ)、これを岡田おかだは「甘粕あまかすけてられては、後々あとあとじん迷惑めいわくかる」としてひゃくまんえん貸出かしだしおこなったと日本人にっぽんじんかい総会そうかいこう碕等につたえた。
さいあらい神社じんじゃ

著作ちょさく

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  • 銃後じゅうごまもり」(北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう出版しゅっぱん、1938ねん昭和しょうわ13ねん))

友人ゆうじん

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家族かぞく

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  • つま:のぶ(1897ねん- 1971ねん静岡しずおかけん馬場ばばそう左衛門さえもん長女ちょうじょ
  • ちち岡田おかだ逸治いつじろう(1839ねん-1909ねん明治維新めいじいしん滋賀しがけんけんかい議長ぎちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいんつとめる。
  • はは岡田おかだ義子よしこ(1856ねん-1942ねん京都きょうと坂上さかがみ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ チャムスからの引揚しゃはなし、およびハルビンよりはちぐんくわわったりょさかえたまきひとしから平島ひらしま敏夫としおへの伝言でんごん[19]。なお、満州まんしゅう中央ちゅうおう銀行ぎんこうふく総裁そうさいじょ紹郷や斎藤さいとう弥平やへいふとし死刑しけいしょされたとされる[18]はちぐん進駐しんちゅうともな銀行ぎんこう関係かんけいしゃ死亡しぼうしゃとしては、鞍山あんざん製鉄せいてつしょにおいてせんめいえる日本人にっぽんじんころされたとされ、満州まんしゅう興銀こうぎん満州まんしゅうちゅうぎん鞍山あんざん支店してんちょう行方ゆくえ不明ふめいのままである[19])。

出典しゅってん

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  1. ^ 官報かんぽう だい6607ごう 明治めいじ38ねん7がつ10日とおか 卒業そつぎょう証書しょうしょ授与じゅよ だいよん高等こうとう学校がっこう
  2. ^ 官報かんぽう だい7814ごう 明治めいじ42ねん7がつ13にち 卒業そつぎょう証書しょうしょ授与じゅよ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
  3. ^ 官報かんぽう だい7910ごう 明治めいじ42ねん11月4にち 文官ぶんかん高等こうとう試験しけん合格ごうかくしゃ
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  5. ^ 西伯さいはくとぎ財界ざいかい近情きんじょう」(大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん 1919.8.21)
  6. ^ かんづる物語ものがたり 金融きんゆうかいまき(1)銀行ぎんこうかい降注ふりそそ大蔵省おおくらしょう天下あまくだり ついきたたく行員こういん蹶起けっきす (2)重役じゅうやく任免にんめんけんこそ官吏かんり天下あまくだりのくさび うしなったきたたく行員こういん」(時事新報じじしんぽう 1936.2.21-1936.7.10(昭和しょうわ11))
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  32. ^ 百科ひゃっか繚乱りょうらん@シニア「月寒つきさむ八紘はっこう学園がくえん農場のうじょうあるく」<http://www.north.ad.jp/seniorweb/hana/ssn488sat/hokouki-7/hakko-1.html>

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 株式会社かぶしきがいしゃ亡国ぼうこくろん」(高橋たかはし亀吉かめきちちょ 万里ばんりかく書房しょぼう 昭和しょうわ5ねん)366ぺーじ-371ぺーじ だいしょう 放漫ほうまん経営けいえい銀行ぎんこう破綻はたんれい だいいち 東洋とうよう拓殖たくしょく会社かいしゃ
  • 東洋とうよう拓殖たくしょく株式会社かぶしきがいしゃさんじゅうねん」(東洋とうよう拓殖たくしょく株式会社かぶしきがいしゃ 昭和しょうわ14ねん
  • つぶせつとむ評論ひょうろん3(2) 菅原通すがはらどおりけいあずまたく総裁そうさい一言ひとこと」(つとむ評論ひょうろんしゃ 昭和しょうわ6ねん2がつ
  • 台湾たいわん大観たいかん」(日本にっぽん合同ごうどう通信つうしんしゃ 昭和しょうわ7ねん)387ぺーじ-399ぺーじ台湾たいわん金融きんゆう 岡田おかだしん
  • つぶせつとむ評論ひょうろん5(10) 台湾たいわん点描てんびょう 自治じちせい問題もんだい討議とうぎ」(つとむ評論ひょうろんしゃ 昭和しょうわ8ねん9がつ
  • つぶせつとむ評論ひょうろん5(12) たくつとむ関係かんけい人物じんぶつ展望てんぼうさん中川なかがわ健蔵けんぞうくん」(つとむ評論ひょうろんしゃ 昭和しょうわ8ねん11月)
  • 北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこうじゅうねん」(北海道拓殖銀行ほっかいどうたくしょくぎんこう 1971ねん
  • 満州まんしゅう建国けんこくじゅう周年しゅうねん大陸たいりく事業じぎょうかいさい認識にんしき」(実業じつぎょう往来おうらいしゃ 昭和しょうわ17ねん