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いわおに正美まさみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
いわおに 正美まさみ
東京とうきょうスーパースターズ #5
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 神奈川かながわけん
生年月日せいねんがっぴ (1977-04-01) 1977ねん4がつ1にち(47さい
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 三塁手さんるいしゅ
プロ 1994ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1995ねん4がつ1にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

いわおに 正美まさみ(いわき まさみ)は、漫画まんがドカベン』に登場とうじょうする架空かくう人物じんぶつ。アニメばん声優せいゆう玄田げんだ哲章てっしょう実写じっしゃばん俳優はいゆう高品たかしな正広まさひろ

経歴けいれき

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誕生たんじょう4がつ1にち(『プロ野球やきゅうへん以降いこう設定せっていでは1977ねんまれ)。

幼稚園ようちえんはいまえから喧嘩けんかはや問題児もんだいじで、入園にゅうえん喧嘩けんか毎日まいにちで、最後さいご先生せんせいまでなぐってしまい、2年間ねんかん幼稚園ようちえん時代じだいは3かいてんえんする有様ありさまだった。

小学校しょうがっこうについては、初期しょきサチ子さちこ入学にゅうがくした青田あおた小学校しょうがっこうで4ねんから6ねんまで番長ばんちょうだったとかたっている。しかし、あにたちがかよしゅう西小学校にししょうがっこうではなく明星みょうじょう小学校しょうがっこうはいった描写びょうしゃや、そのしゅう西小にしおユニフォーム野球やきゅうをしているシーンもある。途中とちゅう転校てんこうした可能かのうせいもあるが、実際じっさい経歴けいれき不明ふめい

中学ちゅうがく時代じだい

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中学ちゅうがく時代じだい後年こうねんくらべてもけて粗暴そぼうであった。たかおかちゅうではいわゆる番長ばんちょうであったが、転校てんこう初日しょにち山田やまだ太郎たろうより自分じぶん弁当べんとうちいさかったことにより、逆恨さかうらみにちかかたちライバル意識いしきつ。自分じぶん山田やまだたおすまでやつ山田やまだたおさせたくない、という理由りゆう山田やまだっかけて柔道じゅうどうはいった。柔道じゅうどうでは山田やまだ木下きのした次郎じろうらとともにたかおかちゅう中心ちゅうしんてき選手せんしゅとして活躍かつやく地区ちく大会たいかいじゅん優勝ゆうしょう原動力げんどうりょくとなった。

その野球やきゅうてん野球やきゅうてん山田やまだよりさき)。野球やきゅうでは主将しゅしょう・4ばんエースにこだわる。ピッチャーとしてはノーコン。けん大会たいかいでは東郷とうごう学園がくえん中等ちゅうとう対戦たいせん(エースは小林こばやし真司しんじ。この時点じてんでは退すさしているが、ひか投手とうしゅとしてのちにチームメートになる里中さとなかさとしがいた)、独善どくぜんてきいわおに山田やまだたくみにリードし、いわおにもまたがく死球しきゅう直撃ちょくげきするアクシデントに見舞みまわれながら出場しゅつじょうつづ善戦ぜんせんしたものの、敗退はいたい

高校こうこうけるような成績せいせきではなかったらしいが、やくざに因縁いんねんをつけられわれていた徳川とくがわ監督かんとくたすけたことからあかりくん高校こうこう進学しんがく金銭きんせんによる裏口うらぐち入学にゅうがくおこなったことがにおわされているが、真相しんそうかされていない)。

後年こうねんではその粗暴そぼうさなどの描写びょうしゃ少年しょうねんえがくのに問題もんだいとなるためか、ドリームトーナメントへん回想かいそうではいくふんかマイルドなものに改変かいへんされている。

高校こうこう時代じだい

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あかりくん高校こうこう入学にゅうがく野球やきゅう入部にゅうぶ高校こうこう入学にゅうがくにやんちゃな態度たいど封印ふういんしていたが、周囲しゅういねここうむるなど自分じぶん見失みうしないかけていた。初期しょきはまったくてず、徳川とくがわ監督かんとくにおべんちゃらを使つかうだけで、メンバーめの「ごぼうきノック」ではるわなかった。そんないわおにかねて山田やまだは「もう高校こうこう野球やきゅうあきらめたほうがいいとおもうよ」とプライドをえてきずつけることで元来がんらい闘争とうそうしんもどさせ、いわおにもと豪気ごうき性格せいかくもどった。いわおにあくたまであることに山田やまだづき、それを徳川とくがわていたためメンバーにくわえられた。さらに山田やまだ機転きてんによって1ねんなつけん大会たいかい1回戦かいせん白新はくしん高校こうこうせん途中とちゅう出場しゅつじょうし、不知火しらぬひまもるからったためそのはレギュラーとなる。この試合しあいでは左翼さよくしゅまもり、ウイニングボールはいわおにったが、そのときに野手やしゅ全員ぜんいんいわおに周囲しゅういあつまるほど守備しゅび不安ふあんされていた。そのけん大会たいかいでは準決勝じゅんけっしょうまで投手とうしゅとして出場しゅつじょう

けん大会たいかい決勝けっしょう東海とうかい高校こうこうせんで1ばん三塁手さんるいしゅとして出場しゅつじょう、1かいうらにスコアボードの時計とけい破壊はかいする豪快ごうかい先頭せんとう打者だしゃ初球しょきゅう本塁打ほんるいだはなった。以後いご、「1ばん・サード」がいわおにてい位置いちとなる(ただし、二塁手にるいしゅ一塁いちるいしゅ右翼うよくしゅ捕手ほしゅ経験けいけんもある。また、4ばんでの出場しゅつじょうも2試合しあいある)。

1ねんなつ甲子園こうしえん大会たいかいでは、だい1試合しあい始球しきゅうしきさいにボールをってホームランにしたが、試合しあいでは16打席だせき連続れんぞく三振さんしんというだい不振ふしん。しかし、決勝けっしょうのいわきひがし高校こうこうせんでのはつ安打あんだがまたもバックスクリーンへのプレイボールホームランだったが、三塁さんるいわすれてしまい、三塁手さんるいしゅアピールプレイによってされている(記録きろくじょう二塁打にるいだとなるため、はつ安打あんだわりはない)。この試合しあい逆転ぎゃくてん決勝けっしょう2ランをはなち、あきらくん高校こうこうはつ出場しゅつじょうはつ優勝ゆうしょう貢献こうけんした。なお、準決勝じゅんけっしょう土佐とさまる高校こうこうせんではさとちゅうをリリーフして登板とうばんいわおに勝利しょうり投手とうしゅとなっている。

1ねんなつ甲子園こうしえん出場しゅつじょうのち教師きょうし乱闘らんとう事件じけんこし、謹慎きんしん処分しょぶんけたことがある。乱闘らんとう理由りゆうは、いわおに勝手かって放送ほうそうしつ占拠せんきょし、甲子園こうしえん大会たいかいかえる(いわおに主観しゅかんてきな)放送ほうそうおこなったことを教師きょうしとがめ、口論こうろんになったためである。不祥事ふしょうじ外部がいぶれなかったものの、騒動そうどうおおくの部員ぶいん愛想あいそかして野球やきゅうってしまい(実際じっさいにはこのときに野球やきゅうはなれようとした部員ぶいん徳川とくがわ監督かんとく除名じょめい処分しょぶんにしていた)、一時いちじ、メンバーを9にんそろえなくなってしまったことがある。高校こうこう時代じだいいわおになぐった相手あいては、山田やまだ土門どもんけい3にん。なお、この放送ほうそう最初さいしょこそ批判ひはんもあったが、2ねんはる大会たいかい以降いこうあかりくん高校こうこう風物詩ふうぶつしとなり、校長こうちょうが「これがないと甲子園こうしえん大会たいかいわったがしない」とわしめるほどになっている。

1ねんあきけん大会たいかいでは故障こしょうしたさとちゅうわってエースナンバー1を背負せおうが、ながいイニングをげたことはない。けん大会たいかい決勝けっしょうよりふたた三塁手さんるいしゅもどっている。関東かんとう大会たいかいや2ねんはる選抜せんばつ大会たいかいでは目立めだった活躍かつやくすくなかったが、決勝けっしょう土佐とさまる高校こうこうせんでは起死回生きしかいせい同点どうてん二塁打にるいだはなった(二塁にるいらず三塁さんるいをもねらいアウトになり、打者だしゃ殿しんがりいちにんに「ドジ!! ひとついいとみっつもよっつもドジるづら」とあきれられている)。

2ねんなつけん大会たいかい東海とうかい高校こうこうせん追撃ついげきだいホームラン、吉良きら高校こうこうせんでプレイボールホームラン、決勝けっしょう横浜よこはま学院がくいん高校こうこうせんでは甲子園こうしえんめるサヨナラホームランをはなつなど活躍かつやく甲子園こうしえん大会たいかいでは打撃だげきめんでは目立めだった活躍かつやくはなかったが、2回戦かいせん弁慶べんけい高校こうこうせんでは1かい武蔵坊むさしぼう数馬かずま強烈きょうれつなライナーをよこびでキャッチするファインプレーをせた。しかし弁慶べんけい高校こうこうせんにサヨナラけし、いわゆるあかりくん四天王してんのう世代せだい唯一ゆいいつ敗戦はいせんきっした。

2ねんあきあたらしく就任しゅうにんした太平たいへい監督かんとくから主将しゅしょう指名しめいされ、野球やきゅうる。一時いちじ失恋しつれんのため無気力むきりょく状態じょうたいになったが夏川なつかわ夏子なつこの「サヨウナラ」のゆび文字もじを「アイシテル」と勘違かんちがいしたことで闘志とうし復活ふっかつ不知火しらぬいから逆転ぎゃくてん満塁まんるい本塁打ほんるいだはなった。関東かんとう大会たいかいでも本塁打ほんるいだはなつなど活躍かつやくあきらくん高校こうこうの4連続れんぞく甲子園こうしえん出場しゅつじょう貢献こうけんした。はる選抜せんばつ大会たいかいでは3度目どめ全国ぜんこく制覇せいは達成たっせい

3ねんなつ準決勝じゅんけっしょう横浜よこはま学院がくいんせんでサヨナラホームランをはなつなど、あきらくん高校こうこうの5連続れんぞく甲子園こうしえん出場しゅつじょう貢献こうけん上記じょうきのとおり、甲子園こうしえんほん大会たいかいでの3ねんはるまでの本塁打ほんるいだすうは、1ねんなつ決勝けっしょうせんはなった逆転ぎゃくてん2ランの1ほんだけだったが(されたまぼろし本塁打ほんるいだのぞく)、3ねんなつほん大会たいかいではそれまでの鬱憤うっぷんらすかのように6本塁打ほんるいだ量産りょうさんした。これはおな大会たいかい山田やまだ太郎たろう記録きろくした7本塁打ほんるいだ記録きろくである。準決勝じゅんけっしょう青田あおたせんさい試合しあいでは先発せんぱつ投手とうしゅとして登板とうばんした。青田あおたせんではMAX158キロを記録きろくしており、本人ほんにんは「フォーム次第しだいで170キロもかるい」と豪語ごうごしている。

プロ時代じだい

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ダイエー時代じだい

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プロ野球やきゅうドラフト会議かいぎ読売よみうりジャイアンツ長嶋ながしま茂雄しげお福岡ふくおかダイエーホークスおう貞治さだはるONりょう監督かんとくから1指名しめいけ、抽選ちゅうせん結果けっかダイエーに入団にゅうだん

1995ねん
ルーキーイヤー。開幕かいまくせんたい西武せいぶライオンズ西武せいぶドーム)から1ばん三塁さんるいでスタメン起用きようされる。プロはつ打席だせきでは、渡辺わたなべ久信ひさのぶから、初球しょきゅう威嚇いかくだまち、バックスクリーンへ本塁打ほんるいだ
1996ねん
シーズン最終さいしゅうせん渡辺わたなべ久信ひさのぶからはつ本塁打ほんるいだおう手中しゅちゅうおさめる一発いっぱつはなつ。
1997ねん
春季しゅんきキャンプの紅白こうはくせんにおいて、井口いぐち忠仁ただひと入団にゅうだんにより、おう監督かんとく方針ほうしんで4ばんえられる。しかし「一番いちばんじゃないとやるない」という無気力むきりょくかんから、極度きょくど不振ふしんおちいる。いわおにファンのウグイス嬢うぐいすじょうかんがえによってわざと「1ばんがんおに」とコールした途端とたん本塁打ほんるいだち、おう監督かんとくいわおにを1ばんえることを決意けついする。
西武せいぶとの開幕かいまくせんで、イチロー真似まねをしてひだり打席だせきち、西口にしぐち文也ふみやとうじたどなかたま完璧かんぺきとらえ、先頭せんとう打者だしゃ本塁打ほんるいだはなつ。これを山田やまだは「もしかしていわおに本当ほんとう左利ひだりきなんじゃないのか」とっている[1]だい打席だせきではセーフティバント出塁しゅつるいするととうさんとうつづけにめて追加ついかてんうばったものの、西武せいぶ新人しんじんぞう獅子じしまるとの小競こぜいで暴力ぼうりょく行為こういひざり)をはたらいてしまい退場たいじょう処分しょぶんけた。
オールスターで、仰木おうぎあきらぜん監督かんとくによる守備しゅび位置いち交代こうたい三塁手さんるいしゅから捕手ほしゅわり、里中さとなかさとしとバッテリーをんだ。山田やまだミットマスクり、プロテクターけない急造きゅうぞう捕手ほしゅであるにもかかわらず、里中さとなかのオールスターでの連続れんぞく三振さんしん記録きろく更新こうしん(16)をアシストした。ぜんセ・古田ふるたあつしおどろたくみなリードだったが、じつはこれは山田やまだ三塁さんるいからリードしていた(いわおに自身じしん自分じぶんなにでもれるからとぜんはいだまさとちゅうまかせダミーサインのみで実質じっしつノーサインでたましていた)。
1998ねん
オープンせんたい阪神はんしんタイガースせん)ではソロ、2ラン、3ラン、満塁まんるい本塁打ほんるいだどういち試合しあいはなつ「サイクル本塁打ほんるいだ」を達成たっせいったたまはすべてあくだまであった。ところが、シーズンが開幕かいまくすると「いわおに本塁打ほんるいだった試合しあいのダイエーはける」というジンクスまれてしまい、開幕かいまくせんオリックスたたかえグリぐりンスタジアム神戸んすたじあむこうべ)では本塁打ほんるいだはなったもののオリックスに1試合しあいでのチーム最多さいた安打あんだ記録きろくゆる大敗たいはいきっした。その西武せいぶせんでも2本塁打ほんるいだはなったものの、いわおにったのち中継なかつじん大友おおともすすむに2本塁打ほんるいだ(3ラン、2ラン)を逆転ぎゃくてんけをきっした。しかし、その試合しあい翌日よくじつぐんからどんあしだが盗塁とうるい成功せいこうりつ10わりというジンクスを亀岡かめおかえらみん昇格しょうかく。その試合しあい村松むらまつ有人ゆうじん出塁しゅつるいしたのち代走だいそう亀岡かめおか出場しゅつじょうし、とう成功せいこうさせる。しかし、おう貞治さだはる監督かんとく亀岡かめおかさんとう指示しじし、亀岡かめおか失敗しっぱい。しかし、ここでおう監督かんとくいわおにに「ホームランっていいぞ」と指示しじするといわおに福岡ふくおかドームのスポーツバーに直撃ちょくげきする本塁打ほんるいだはなった。この試合しあい結局けっきょく勝利しょうりおさめ、ジンクスをることに成功せいこうした。
オールスターゲーム(千葉ちばマリンスタジアム)でははじめて4ばん出場しゅつじょうだい1打席だせき小宮山こみやまさとるゴーグルりて打席だせきち、ぜん先発せんぱつちゅう美夫よしおからホームベースへかって強風きょうふうれるなかバックスクリーンへ先制せんせいホームランをはなった。だい打席だせきでは小林こばやしみきえい対戦たいせんしたがピッチャーゴロに凡退ぼんたい。これであまりのショックをけたいわおに戦意せんい喪失そうしつし、守備しゅびちゅうデニー友利ともり初芝はつしばきよし年上としうえ選手せんしゅたいして失言しつげん連発れんぱつした。そのいつもの調子ちょうしもどったが、だい3打席だせき桑田くわた真澄ますみまえさんきゅう三振さんしんたおれた。このシーズンは山田やまだならぶ40本塁打ほんるいだはなち、本塁打ほんるいだおう獲得かくとく
1999ねん
前半ぜんはんせん極度きょくど打撃だげき不振ふしんおちいるも、オールスターまえ試合しあい本塁打ほんるいだはなってから復調ふくちょう。このとしのリーグ優勝ゆうしょう日本一にっぽんいち貢献こうけん日本にっぽんシリーズMVPを受賞じゅしょうしたが、そのさい景品けいひんとして獲得かくとくしたくるまけいトラックにえて山田やまだ祖父そふにプレゼントしている。
2000ねん
このとしだけは本塁打ほんるいだねらいをらし、バント・バスター・プッシュバントをわせたほうで6わり打者だしゃ目指めざ打率だりつ5わり以上いじょうをキープしていた。しかし、シーズンちゅうにあまりに味方みかた打線だせん中西なかにし球道きゅうどうてず、いわおに出塁しゅつるいしても得点とくてんにならないためもとにもどした。このとし開幕かいまくせんたい千葉ちばロッテマリーンズせんさとちゅうからサヨナラ満塁まんるい本塁打ほんるいだ後述こうじゅつ偽装ぎそうスクイズ)をっている。
2001ねん
開幕かいまくせんで1試合しあい18塁打るいだ(4本塁打ほんるいだ、1二塁打にるいだ)を記録きろくし、プロ野球やきゅうタイ記録たいきろくならんだ[2]。シーズンつうじての本塁打ほんるいだすうでまたも山田やまだならび、山田やまだの「単独たんどく三冠王さんかんおう」を阻止そしした。
2002ねん
本塁打ほんるいだおう獲得かくとく(5度目どめ)。
2003ねん
シーズン終了しゅうりょうフリーエージェント宣言せんげんし、高校こうこう時代じだい先輩せんぱいである井垣いがきすすむひきいるしん球団きゅうだん東京とうきょうスーパースターズ移籍いせき

前述ぜんじゅつのように、プロ以降いこうは1ばんというかかわりには並々なみなみならぬものをっている。ただし、高校こうこう時代じだいには4ばんを「当然とうぜん」とっていたこともある。しかし2009ねんに4ばん起用きようされたとき精神せいしんてき成長せいちょうからかとく文句もんくわなかった。また、1998ねんのオールスターでもいわおにを4ばんにした東尾ひがしおおさむぜん監督かんとく抗議こうぎこうとしたが、ぎゃく説得せっとくされ気分きぶんくしていた。

東京とうきょう時代じだい

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2005ねん
札幌さっぽろはなせいどうメッツとの日本にっぽんシリーズでは、だいいちせん岩田いわた鉄五郎てつごろうからサヨナラ本塁打ほんるいだはなつなど、7せんで7本塁打ほんるいだはなってMVPを獲得かくとく
2006ねん
シーズン終了しゅうりょうの12年間ねんかん通算つうさん397本塁打ほんるいだ同年どうねんオフ、新潟にいがたらしていた夏子なつこははむすめ自分じぶんのマンションの隣室りんしつせる。
2007ねん
中日ちゅうにちドラゴンズとの日本にっぽんシリーズ7せん故障こしょうさとちゅうわりに土井どいかき監督かんとくおもいついた「1イニング1投手とうしゅあんにより、5かいまかされる。中西なかにし球道きゅうどう日本にっぽんシリーズ最速さいそく記録きろくである157km/hをえる158km/hのつよし速球そっきゅうげるが、平田ひらた良介りょうすけ逆転ぎゃくてん2ランをびた。
2008ねん
開幕かいまくせん終了しゅうりょう夏子なつこにプロポーズし、結婚けっこん保土ヶ谷ほどがや球場きゅうじょうちかくの一軒家いっけんや転居てんきょした。

スーパースターズに入団にゅうだんしてから、4ねん連続れんぞく開幕かいまくだい1打席だせき本塁打ほんるいだ記録きろくした(さらに、05ねん以外いがいの3ほんはどなかである)。

人物じんぶつ

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学生がくせいぼうっぱトレードマーク学生がくせいぼう入浴にゅうよくときがず、ダイエー入団にゅうだんのキャンプでダイエーの先輩せんぱいであった石毛いしげ宏典ひろのり指摘してきされたとき「これはあたま一部いちぶですから」とい、帽子ぼうしうえからシャンプーをしていた。本来ほんらい打席だせきはいるときはヘルメット着用ちゃくよう義務付ぎむづけられているが、いわおに打席だせきのみ黙認もくにんされている(本来ほんらいユニフォームの斉一せいいつ違反いはんであり、あらためないと退場たいじょう処分しょぶんになる)。なお、里中さとなか家庭かてい貧困ひんこんのため退学たいがく実際じっさいには休学きゅうがくあつかいで、なつ復学ふくがくした)を決意けついしたときのみ、餞別せんべつとして学生がくせいぼうげている(このときのいわおにかお描写びょうしゃされていない)。っぱは、あかぼうころからおしゃぶりをいやがり、っぱをくわえてていたため、そのままくちからはなさなくなった。くわえているっぱはいわおに気分きぶんによってはないたりれたりする。っぱをくちにくわえるというキャラ設定せっていは、作者さくしゃ水島みずしま新司しんじいわおにのキャラづくりをしているときにたまたまテレビで放映ほうえいされていた『木枯こがら紋次郎もんじろう』の爪楊枝つまようじがヒントとなっている[3]

身長しんちょう設定せっていじょう連載れんさい初期しょき中学ちゅうがく2年生ねんせい時点じてんで190cmちょう大男おおおとことなっているが、山田やまだ人物じんぶつくらべるとどうても2メートル以上いじょうたかさのある異常いじょうなほどの大男おおおとこえがかれている。

神奈川かながわ出身しゅっしんにもかかわらず関西かんさいべんはなす。これは、幼少ようしょう世話せわをしてもらった乳母うば「おつる」が関西かんさい出身しゅっしんで、その言葉ことばづかいがうつったためである。なお、初期しょきどもるしゃべりが特徴とくちょうだったが、のちなおったようである。

好物こうぶつサンマ丸焼まるやき。ほね内臓ないぞうのぞくことなくまるごと頬張ほおばり、バキボキと豪快ごうかい咀嚼そしゃくおんててたいらげる。べたさい感想かんそうつねに「まずい」だが、そういつつ笑顔えがお感涙かんるいかべることもおおい。きになったきっかけは、サチ子さちこかられられた弁当べんとうはいっていたサンマによるものと推測すいそくされる。ちなみに無印むじるしばん連載れんさい当時とうじ、サンマは大衆たいしゅうぎょであり、裕福ゆうふく家庭かていまれそだちであるいわおにには新鮮しんせん存在そんざいうつったともられる。 裕福ゆうふく家庭かていまれそだったものの偏食へんしょくではなく、あじ不評ふひょうりょう食事しょくじ全部ぜんぶたいらげたり、吉良きら高校こうこう対戦たいせんこう集団しゅうだん食中毒しょくちゅうどく棄権きけんしたさいのメンバーが警戒けいかいするなか平然へいぜん夕食ゆうしょくにありつき、むしろ「失礼しつれいだ」とメンバーをとがめていた。一方いっぽう、「りょうすくない」と不満ふまんべる場面ばめんはある。

座右ざゆうめいは「はな桜木さくらぎおとこいわおに」。

作者さくしゃ水島みずしま新司しんじがドカベンの初回しょかい原稿げんこうさい編集へんしゅうしゃ難色なんしょくしめされたため、山田やまだ太郎たろうとコンビをいわおに正美まさみ登場とうじょうさせた。いわおに編集へんしゅうしゃはすぐにGOサインをしたという[4]。そのため初期しょきは、山田やまだより目立めだっている場面ばめんおおい。「ブラック・ジャック」の「人間にんげんとり」、「ルパンさんせい DEAD OR ALIVE」でゲスト出演しゅつえんしている。「ちょうこちかめ」では、水島みずしま新司しんじえがきおろしで両津りょうつかんきち共演きょうえん

いわおに熱心ねっしんっかけとして、日本にほんテレビアナウンサー関谷せきや亜矢子あやこがいた。かなりねつげており、度々たびたびいわおにラブレターいたりしている。しかし、いわおにがわ性格せいかくてきわないといってわず、また出会であった当初とうしょはまだ夏子なつこ結婚けっこんらなかったこともあって、相思そうし関係かんけいには発展はってんしなかった。なお、実在じつざい人物じんぶつがモデルであるが、実際じっさい関谷せきや熱狂ねっきょうてき巨人きょじんファンとしてられている。あくたまちのため、女性じょせいたいする美的びてき感覚かんかく一般いっぱんことなるいわおには、全国ぜんこくネットで、有名ゆうめい関谷せきやのことを「どブス」とってしまい、チームメイトから失笑しっしょうう。一方いっぽう関谷せきやも、いわおに応援おうえんするにもかかわらずダイエー・西武せいぶせんサチ子さちことも西武せいぶがわ応援おうえんせきはいり、いわおに声援せいえんおくって周囲しゅうい顰蹙ひんしゅくったりした。

主人公しゅじんこう山田やまだにとっていわおにはシリーズをつうじてもっともいがなが親友しんゆうであり、野球やきゅう選手せんしゅとしてはバッテリーを里中さとなかとの関係かんけいふかえがかれている一方いっぽういわおにとは中学ちゅうがくからプロにいたるまでプライベートなめんでの交流こうりゅう一際ひときわおおい。山田やまだ単純たんじゅん思考しこういわおに上手うまくコントロールしてあしらっているような場面ばめんすくなからずあるが、高校こうこう1ねんあき神奈川かながわけん大会たいかい決勝けっしょうでは山田やまだひだり手首てくびった怪我けがかばうあまり十分じゅうぶんなプレイがおこなえてなかった状況じょうきょうで、いわおにから「自分じぶんなら左手ひだりてつぶれてでも勝利しょうりのために全力ぜんりょく勝負しょうぶく。それが出来できずこれ以上いじょうなさけない姿すがたせるなら、おまえはもう他人たにんだ」という手厳てきびしいげきびせられ、苦笑くしょうしながら「それはこまる。おれいわおにきだ…他人たにんなんかになりたくないぞ」と述懐じゅっかいしてかれうように勝負しょうぶるプレイにえており、いわおにたいして多大ただい好感こうかんいていることがかる。また、いわおにほう後述こうじゅつとお山田やまだ実力じつりょく内心ないしん相応そうおうみとめているほか、素直すなお表現ひょうげんできない場合ばあいにおいても「努力どりょくはするおとこ」という表現ひょうげん可能かのうかぎ山田やまだてており、かれなりに山田やまだ友人ゆうじんとして大切たいせつおもっていることがうかがえる。プロてきチームとなっていた時期じき里中さとなかとはライバルとしての関係かんけいつよえがかれていた一方いっぽうで、いわおに場合ばあい打撃だげき成績せいせきおも本塁打ほんるいだおうあらそい)のうえではライバル関係かんけいであったものの、シーズンちゅう、オフをわず山田やまだいえまりであそびにるなど交流こうりゅうつづいていた。そのうえ、ドカベンシリーズのクライマックスとなったドリームトーナメントへんのトーナメント決勝けっしょうせんでのいわおにの「わきをしめてあごをいて、おもりアッパースイングや」という助言じょげんが、山田やまだのサヨナラホームランをみちびいている。さらに最終さいしゅうばなしも、最後さいご山田やまだいわおに試合しあい球場きゅうじょうで1たい1でかたらいながら2人ふたり出会であったおもかえすというかたちめくくられている。このさい山田やまだいわおにに「おまえがいてくれたからおれたのしく野球やきゅうができた。ありがとう」という最大限さいだいげん感謝かんしゃ言葉ことばおくってもいる。そもそも山田やまだ中学ちゅうがく時代じだいいち野球やきゅうをやめて柔道じゅうどう転向てんこうしたのちふたた野球やきゅうはじめるきっかけのひとつとなったのが山田やまだ先駆さきがけていわおに柔道じゅうどうから野球やきゅう転向てんこうしたことであるので、野球やきゅう選手せんしゅとしての山田やまだにとっていわおに根幹こんかんてき部分ぶぶん文字通もじどおりの恩人おんじんともいえる。

野球やきゅう選手せんしゅとして

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グワァラゴワガキーン!」という独特どくとく打球だきゅうおんをしており、打球だきゅう威力いりょく距離きょりによって「ゴワ」のかずや「ガキーン」の具合ぐあいわる。どういうわけか、普通ふつう打者だしゃにとってちごろのストライクのボールをったとき打球だきゅうおんは、なぜか「カキーン」などの普通ふつう打球だきゅうおんになる。

豪快ごうかい打撃だげき目立めだつが、殿しんがりけをとらぬ守備しゅび名手めいしゅでもある。守備しゅび範囲はんい非常ひじょうひろく、ファインプレーを連発れんぱついくとなく投手とうしゅすくう。巨体きょたい似合にあわずのこなしもかなりのもので、ジャンピングキャッチののちそのままとんぼがえりをして着地ちゃくちするせプレイをしたこともある(打者だしゃおもわず「なんだ、あいつ――」と絶句ぜっくした)。しかし、普通ふつうのサードゴロ・フライのエラーやあく送球そうきゅうをすることもおおい。2000ねんにはゴールデングラブしょう獲得かくとくしている。また、びぬけて俊足しゅんそくうわけではないが、積極せっきょく果敢かかん走塁そうるい盗塁とうるい仕掛しかける。さらに三塁さんるいコーチがめても暴走ぼうそうして本塁ほんるい突入とつにゅうし、捕手ほしゅ体当たいあたりすることがおおいため、ランニングホームランが非常ひじょうおおい。反面はんめん本塁ほんるいでタッチアウトになることもおおいが巨人きょじん学園がくえんせんでは、一瞬いっしゅんすきいて本塁ほんるいみそれがほん試合しあいいち得点とくてんかつサヨナラ勝利しょうりんだ。

どおなげ150メートルのちょう強肩きょうけんであり、星野ほしのせんいちから「おう監督かんとくはどうしていわおに投手とうしゅにしないんだ」とわれたことがある。いわおに実際じっさい投手とうしゅとして登板とうばんセーブげたこともある。長嶋ながしま茂雄しげおによると、いわおにかたは「サードのかた」であり、美技びぎからまれる強肩きょうけんかたっている。原作げんさく漫画まんがでは、たかおか中学ちゅうがく野球やきゅう3ねん時代じだいいわおにが、現役げんえき時代じだいおう長嶋ながしままえつよし速球そっきゅうげ、てきてのまとやぶっている。中学ちゅうがく高校こうこう時代じだい投手とうしゅとして登板とうばんしたときはノーコンで、山田やまだ苦心くしんしてリードしていた。ただし、つよし速球そっきゅうげられる強肩きょうけんっているが、山田やまだ苦心くしんしてリードするひとしいきおいだけで投球とうきゅうてが出来できないという欠点けってんがあり、『だい甲子園こうしえん』のなかで、里中さとなか一時期いちじき休学きゅうがくしたことによるブランクからおもうような投球とうきゅう出来できず、山田やまだたい自分じぶんげれなくてもいわおにがいるとったさいに、山田やまだは、いわおに投球とうきゅうでは3かい程度ていど限界げんかいだと冷静れいせいさとちゅうはなしている。ちなみに高校こうこう入学にゅうがく当初とうしょねここうむっていたさい打撃だげき投手とうしゅつとめることがあったが、土井どいかき打撃だげき練習れんしゅうさいころたまげて滅多めったちにされている。

またスポーツ選手せんしゅとしてあまりにめぐまれたたくましい肉体にくたいっていることもあって怪我けがにも非常ひじょうつよい。元々もともと怪我けがよわさとちゅうはおろか主人公しゅじんこう山田やまだですら度々たびたび故障こしょうするシーンがあるなかいわおに主要しゅよう人物じんぶつなかだれよりもおおくの死球しきゅうけているにもかかわらず高校こうこうからプロにかけてほとん怪我けがをしたことがない。プロ野球やきゅうへんではまれ怪我けが途中とちゅう交代こうたいすることはあるが、つぎ試合しあいには何事なにごともなかったかのように出場しゅつじょうしている。中学ちゅうがく時代じだい死球しきゅうがく流血りゅうけつ昏倒こんとうしたが、その縫合ほうごうおこな止血しけつ意識いしき回復かいふくし、負傷ふしょうまえまったわらないプレイをしているが、これが作中さくちゅう唯一ゆいいつともえる野球やきゅうでの負傷ふしょうとなっている。1ねんはる甲子園こうしえん山田やまだ里中さとなかきた負傷ふしょうし、殿しんがり音楽おんがくみちすすむため退すさ決定的けっていてきになったことでチームの戦力せんりょく大幅おおはば低下ていかした状況じょうきょうなか土井どいかきはただ一人ひとりわらずに元気げんきなままのいわおに苦笑くしょうしながらも感心かんしんし「怪我けがのない選手せんしゅほど一流いちりゅうというが、将来しょうらいはプロの世界せかいるほどのうつわになるかも」と、冗談じょうだんじりながらもたか評価ひょうかしていた。

1998ねんのオールスターゲームのホームラン競争きょうそうでは、千葉ちばマリンスタジアムふう打球だきゅうもどされ、ホームランを一本いっぽんてなかった。そのことにたいいわおには「この球場きゅうじょうこそファンのゆめうばうクソ球場きゅうじょうや」とっている。しかし、本番ほんばん試合しあいではかいかぜやぶるようなホームランをバックスクリーンにたたんでいる。

山田やまだを「や~まだ」、殿しんがりを「とんま」、不知火しらぬひを「フチカ」、土井どいかきを「どえがき」など、他人たにん自分じぶんけた名前なまえぶことがおおい。ただし、そのうち一部いちぶ本当ほんとう間違まちがえてっているらしい。あかりくん高校こうこう時代じだい上述じょうじゅつのどえがきにくわえ、山岡やまおか鉄司てつじ=パンダなど先輩せんぱいしくはあだんでいたが、悪気わるぎこと理解りかいされている。プロにはいってからはダイエー時代じだいにチームメイトだった犬飼いぬかい小次郎こじろうたいしては「小次郎こじろうはん」と目上めうえものとしてせっしている。犬飼いぬかいは、2ねんのシーズンのたい西武せいぶ最終さいしゅうせんいわおにホームランおう決定けっていするために山田やまだったことから、いわおに陶酔とうすいする人間にんげん1人ひとりになった。実際じっさいはそのまえ腹部ふくぶ負傷ふしょうをしながらも山田やまだたいする闘争とうそうしんから力投りきとうせたときから小次郎こじろうたいするみことっていたようである。実際じっさい、このときに小次郎こじろう限界げんかいむかえたさいにはかれからだささえ、感涙かんるいながしながらその力投りきとう賞賛しょうさんした。

プロ野球やきゅうへんにおける実在じつざい選手せんしゅたいしても遠慮えんりょのないかたをしばしばおこない、とく渡辺わたなべ久信ひさのぶたいしては度々どど挑発ちょうはつてき言動げんどうせていた。一方いっぽうで、長嶋ながしま茂雄しげおイチローにだけは礼節れいせつわきまえてせっしていた。

自画じが自賛じさんえる自信じしんなどとばれ自分じぶんへの賛美さんびおくる、ある意味いみナルシストである。3ねんなつ甲子園こうしえん大会たいかい1回戦かいせん犬飼いぬかい知三郎ともさぶろうから長打ちょうだったさいにもコンタクトレンズをはめていたことをみずかかしてしまい、さとちゅうに「まったくだまってりゃ犬飼いぬかいにもづかれずにつぎ使つかえるのに」とあきれられ、「ひとがほめてしまうまえ自分じぶんですべてほめてしまうおひとだからなぁ」と微笑びしょう三太郎さんたろう苦笑くしょうされたこともある。あかりくん時代じだいもランニングごえに『あきらくん歩調ほちょう』などとしょう号令ごうれいにしていた。「二枚目にまいめいわおに1、2、3、スーパースターだ2、2、3」「1、2、3、4、ごういわおに、キャプテンがんおに」のようかんじであるが、チームメイトもあきれながらもっている。

だが仲間なかまおも気持きもちは人一倍ひといちばいつよく、相手あいてチームの危険きけん行為こういたいしては逆上ぎゃくじょうし、さきしていく。一方いっぽう他者たしゃ冷静れいせいつめるもあり、普段ふだん温厚おんこうられているもののそのじつ激情げきじょうしやすいさとちゅうをからかいじりにいさめる場面ばめんすくなくない。1999ねん日本にっぽんシリーズだい5せんでは4せんノーヒットだった相手あいて中日ちゅうにちドラゴンズの1ばん打者だしゃ関川せきかわ浩一こういち不振ふしん原因げんいん見抜みぬき、三塁さんるいベースじょうから関川せきかわにアドバイスをおくり、見事みごとその打席だせき関川せきかわはホームランをはなった。ただし、スーパースターズへんの2005ねん開幕かいまくせん楽天らくてん対戦たいせんとしたさい楽天らくてんの1ばん打者だしゃとして打席だせきった関川せきかわ初回しょかいさとちゅうとうじた初球しょきゅうをサードにころがるセーフティバントにしたさいいわおには「いきなりせこいで23ばん‼︎」とさけんでいる。また、面倒めんどうく、後輩こうはいからしたわれることもおおい。なかでもこうだいはその素直すなお性格せいかく守備しゅび位置いちちかいこともあってか可愛かわいがっていたようであり、がらみがおおい。3ねんはる土佐とさまる高校こうこうせんでは犬飼いぬかい武蔵むさしのゲッツーくずしスライディングをけたこうだいなぐさめていた。おなじくいちねん後輩こうはいなぎさたいしては、はじめは自信じしん過剰かじょう自己じこ中心ちゅうしんてき言動げんどう目立めだかれきらっているようなそぶりをせたが、2ねんなつ神奈川かながわけん大会たいかい初戦しょせん東海とうかい高校こうこうせんなぎさがチームの勝利しょうりのためにえて死球しきゅうけたさいにはかれこたえようと奮起ふんきした。また、どう大会たいかい決勝けっしょう横浜よこはま学院がくいんせん代打だいだ出場しゅつじょうしたなぎさはっした啖呵たんかたいしていわおに自身じしんは「生意気なまいきな」とったものの、殿しんがりからは「いわおにがもう一人ひとりいる」とひょうされており気質きしつているめんもある。このほか練習れんしゅうなぎさいわおに打撃だげき投手とうしゅつとめたさいにはコントロールがい(当然とうぜんがんおにたいする特別とくべつメニューとしてあくたまはなっていただけだが)として「さとちゅうえるちかい」とげきばしたこともあるなど、かれみとめる言動げんどうすくなくなかった。さらに犬飼いぬかい知三郎ともさぶろう経緯けいいかんがえればいわおににとっては突然とつぜんかつ一方いっぽうてき敬意けいいせられているかたちえるが、それでもかれのプロテスト受験じゅけんのために便宜べんぎはかったり、その度々たびたび助言じょげんおこなうなど世話せわいており、自分じぶんしたものたいしてはなんだかんだ非常ひじょう寛大かんだいであるとえる。

基本きほんてき他人たにんめることはほとんどないが、武蔵坊むさしぼうすう中西なかにし球道きゅうどうたいしてはあるしゅ尊敬そんけいねんいている。山田やまだたいしても、普段ふだん山田やまだかいやファインプレーにたいしても「相手あいて調子ちょうしわるかっただけ」「まぐれたり」などの軽口かるくちばすものの、「ワイと山田やまだのバットでってきたあきらくん」と胸中きょうちゅうせる場面ばめんがあり、ある程度ていどみとめている。里中さとなか微笑びしょうがプロから3ながら指名しめいされたとき、いわおには「プロはあまい」とい、殿しんがりについて「高校こうこうまり」といながら、山田やまだについては「弱小じゃくしょう球団きゅうだん似合にあうとる」とって、すくなくともプロの素質そしつまではみとめている。1998ねん日本にっぽんシリーズでは土門どもんを「まぁまぁ一流いちりゅう」とひょうしており、かれこともそれなりにみとめていることがうかがえる。そんななか、イチローには1999ねんのオールスターで「天才てんさい」と評価ひょうかしている。

何事なにごと一番いちばんいという性格せいかくゆえ打順だじゅん一番いちばんにこだわる。ただし、中学ちゅうがく時代じだいは4ばんピッチャーにこだわっており、高校こうこう時代じだいやプロ野球やきゅうへんにも4ばんにまわされたとき「本来ほんらい位置いちた」「だい一番いちばん山田やまだじゃなくてわしや」とっていたこともある。しかし、プロはこだわりがいっそうつよくなったのか、打順だじゅんになると成績せいせきるわなくなってしまうようになった。また、その性格せいかくゆえに中学ちゅうがく時代じだいからキャプテンという役職やくしょくにも非常ひじょう執着しゅうちゃくしており、高校こうこう1ねんあき神奈川かながわけん大会たいかいさとちゅうが、どう大会たいかい山岡やまおか任命にんめいされたさいには不平ふへいらしているほか、2ねんなつ甲子園こうしえん大会たいかい上級生じょうきゅうせい引退いんたいしたさいにはひょうあつめのために後輩こうはいまえ真面目まじめ先輩せんぱいえんじたり(直後ちょくご投票とうひょうせいではなく監督かんとくからの指名しめいせいってズッコケる)、率先そっせんしてグランド整備せいびむなどのアピールをおこなっている。結果けっかとして新任しんにん太平たいへい監督かんとくからの指名しめいによりのぞどおりキャプテンに抜擢ばってきされた。太平たいへいいわく「やりたいやつにやらせとくのが一番いちばん」というのがえらんだ理由りゆうで、チーム内外ないがい山田やまださい有力ゆうりょく候補こうほされていただけに当初とうしょおどろきと不安ふあんひろがり、場合ばあいによっては他校たこうから嘲笑ちょうしょうすらけられる始末しまつであったが、実際じっさいところ後述こうじゅつ失恋しつれん騒動そうどうのときをのぞいて公私こうしともに動揺どうようすることはなく、つねにチームの先頭せんとうって部員ぶいんり、なんだかんだで練習れんしゅうにも真摯しんしんでいたり試合しあいちゅう監督かんとくから指揮しきいでチームを勝利しょうりみちびいたこともある(先読さきよみが得意とくい花巻はなまき高校こうこう太平洋たいへいようたいして山田やまだ偽装ぎそうおくりバントのバスターを指示しじしてくなど。ちなみに太平洋たいへいよう慧眼けいがんをもってしても、いわおに難解なんかいなブロックサインはめなかった)。また、打撃だげき不振ふしんくるしむ山田やまだえて打撃だげき練習れんしゅう禁止きんしれいして結果けっかてきにスランプ脱出だっしゅつみちびいたり、2ねんあき関東かんとう大会たいかい決勝けっしょうさとちゅうきゅうかた負傷ふしょうげられなくなってなぎさ起用きようすることになり、事情じじょうらない部員ぶいんたちから異議いぎとなえられたさいには「なぎさ甲子園こうしえんげざるをない状況じょうきょうになるかもしれないから経験けいけんませておくことも必要ひつよう」とべて、里中さとなかのけがをかくしてチームない動揺どうようひろがるのをけつつなぎさ登板とうばん全員ぜんいん納得なっとくさせたこともあるなど、わってみれば常勝じょうしょうあきらくん高校こうこうのキャプテンとして最後さいごまで立派りっぱつとげていた。プロ流石さすがにキャプテン(選手せんしゅ会長かいちょう)に執着しゅうちゃくするようなあからさまな態度たいどっていないが、ダイエー時代じだいの1999ねん選手せんしゅ会長かいちょう就任しゅうにんした秋山あきやま幸二こうじからふくキャプテン(本来ほんらい不要ふよう役職やくしょく)に任命にんめいされたさいには過剰かじょうって秋山あきやま本人ほんにん記者きしゃからあきれられるなど、リーダーしょくたいするあこが自体じたいつづけている様子ようす

高校こうこう時代じだい井垣いがきすすむのサインを無視むしして暴走ぼうそうしたり、プロ野球やきゅうへんではコーチのストップを無視むししホームに突入とつにゅうしたり4ばん起用きようされたことから無気力むきりょくになったり、サイクルホームラン達成たっせいのためにおう貞治さだはる監督かんとくおくりバントのサインをえてもらうように無理むりったりしていた。また、前期ぜんきのプロ野球やきゅうへんではチームプレーをせずに個人こじんプレーをすることもあったため、ダイエーのチームメイトから反感はんかんうこともすくなくなかった。しかし、スーパースターズへんにおいては土井どいかきのサインはすべまもっており、山田やまだが1ばんったとき山田やまだわりに「4ばん捕手ほしゅ」で先発せんぱつすることになったとき文句もんくひとわなかった。また、自分じぶん自身じしん個人こじんプレイをこの傾向けいこうにある一方いっぽうで、高校こうこうのキャプテン時代じだいにチームの指揮しきまかされたさいにはバントやスクイズなどのチーム打撃だげき重視じゅうしした指示しじおこなっている。

プロ野球やきゅうへん捕手ほしゅまも不知火しらぬひまもるをリードしたとき滅茶苦茶めちゃくちゃなリードをしていたが、スーパースターズへんでは怪我けが試合しあいられなくなった山田やまだわって捕手ほしゅつとめ、最終さいしゅうてき中村なかむらつよしにサヨナラホームランをたれたものの8かいまで西武せいぶ打線だせん失点しってんおさえるリードをし、最後さいごたれたたまもインコースで併殺へいさつ仕留しとめようとかんがえていたたま失投しっとうであり、それなりに理論りろんてきなリードをしていた。

1997ねん、ドラフトで希望きぼうするダイエーではなく西武せいぶ指名しめいされた犬飼いぬかい知三郎ともさぶろうが「浪人ろうにんする」とったとき(知三郎ともさぶろういわおに心底しんそこ尊敬そんけいしており、あにがいることもあってダイエーのこころざしつよかった)、いわおには「やーまだはへタクソやがそれなりに努力どりょくはするおとこ」とい、西武せいぶ入団にゅうだん後押あとおししている。

2007ねん古巣ふるす福岡ふくおかソフトバンクホークスとの開幕かいまくせんでは、福岡ふくおかドームのひかしつがんのため長期ちょうき休養きゅうようしていたおう監督かんとく復帰ふっきいわいにと大量たいりょう花束はなたばおくり、「これでおう監督かんとく遠慮えんりょすることてる」と豪語ごうごしている。

ピッチャーゴロなどでは全力ぜんりょくさないという持論じろんっていたが、2007ねん終盤しゅうばん公式こうしきせんではキャッチャーゴロをったのち、「それでもはしるさかい野球やきゅう少年しょうねんかんなんや」といいながら全力ぜんりょく疾走しっそうし、捕手ほしゅあく送球そうきゅうをさそった。

あくたま

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あくたまいわおに代名詞だいめいしである。これはリトルリーグで4ばんっていたさい相手あいてチームから場面ばめんにかかわらずぜん打席だせき敬遠けいえんされるようになったため、ボールだまあくだま)をてるようになろうと特訓とっくんかさねたことによる。結果けっか動体どうたい視力しりょくきたえられたことで見事みごとにそれを習得しゅうとくし、ぎゃく打者だしゃにとって絶好ぜっこうきゅうであるどなかのストレートはてなくなった[5]。 その打撃だげきのボール角度かくどとスイングの軌道きどうから、ホームランであってもやまなりの「アーチ」ではなく、スコアボードめがけてさるライナーであることがおおい。

あくたまであればたましゅやコースに関係かんけいなく的確てきかくかえし、そのほとんどをホームランにしている。四球しきゅう出塁しゅつるいしたのは中学ちゅうがく時代じだい東郷とうごう学園がくえんとの試合しあいと、高校こうこう3ねんのときのひかり高校こうこうとの試合しあいだけである。とはいえボールだますべつわけではなく、プロにはいってからも松坂まつさか大輔だいすけのきわどいボールだま見逃みのがしたこともある。当初とうしょいわおにあくたまちであることはあかりくんのチームないにしかられておらず、1ねんなつ地区ちく大会たいかい雪村ゆきむら、1ねんなつ甲子園こうしえん大会たいかい決勝けっしょう緒方おがたなど、いわおにあくたまちであることをらずにボールだまげて本塁打ほんるいだはなたれたれいもあった[6]。『だい甲子園こうしえん』ではストライクゾーンからボール1個いっこはずれたたまを、左右さゆうれる力強ちからづよいファールライナーにすることができる設定せってい一方いっぽう死球しきゅうはやたらおおく、高校こうこう時代じだい不知火しらぬいなかひとしといった速球そっきゅう投手とうしゅからも度々たびたびてられていた。つよいメガネで視界しかい不良ふりょうだった2ねんはるセンバツ決勝けっしょうたい犬飼いぬかい武蔵むさしや、失恋しつれんのショックで無気力むきりょくになっていた2ねんあき神奈川かながわ予選よせんたい不知火しらぬいなど、打撃だげき回避かいひ困難こんなん状況じょうきょうにおける死球しきゅうもあるが、普通ふつうける死球しきゅうおおかったことから、当時とうじ身体しんたい付近ふきんあくだま多少たしょう苦手にがてだったようである。3ねんなつむらさきよしじゅくせんでは近藤こんどういさむの「サツジンスライダー」をゴルフスイングのようなアッパースイングで見事みごと本塁打ほんるいだはなっている。プロりは死球しきゅうコースのたますべかえしているため死球しきゅうほとんくなったが、3ねんのオールスターではひざ付近ふきんたま苦手にがてであるとかげまるかたっている。なお、いわおにけられそうな死球しきゅうコースのたまでもけっしてけることはなく、ちにってなかばスイングした状態じょうたいたることもあるが、いわおに場合ばあいはなぜかかなら死球しきゅうみとめられる(本来ほんらい審判しんぱんけられると判断はんだんした死球しきゅうコースのたまたいしてまった回避かいひ行動こうどうをとらなければ身体しんたいたっても死球しきゅうみとめられず、スイングをみとめられれば当然とうぜんストライク判定はんていとなる)。

またどなかでなくとも、たかひくめのストライクなどもヒットやホームランにすることは可能かのうである。

あくたますくないはずのプロ野球やきゅう世界せかいにおいてもいわおにつづけられることについては、作中さくちゅう登場とうじょう人物じんぶつくちから、「プロといえどもいわおにてないどなかのストレートを正確せいかくつづけることむずかしく、ある程度ていど絶対ぜったいあくたまる。」ためとかたられている。

本人ほんにんのこじつけにちか解釈かいしゃくあくだまでないたまあくたまなしてこともあり、中学ちゅうがく高校こうこうへんだい甲子園こうしえんにおいては、「いわおににとってストレートのどなかあくたまおなじ」という設定せっていがあったが、プロ野球やきゅうへん以降いこうはその設定せっていていない。2005ねんのシーズン開幕かいまくまえあくたま克服こくふく特訓とっくんをするが、結果けっかてきにはみのらなかった。しかし、オープンせんたい阪神はんしんせんでは先発せんぱつ藤川ふじかわ球児きゅうじ初球しょきゅうなかストレートとおもわれるたまをホームランにしている。さら同年どうねんのプレーオフだい2ステージのたい四国しこくせん2試合しあいでは3打席だせき連続れんぞく先発せんぱつ土門どもんからホームランをはなっているが、そのうちの2ほんがどなかである。しかし同年どうねんシーズン、どなか打率だりつは.062である。

おう監督かんとくあくたまちには限界げんかいがあるとかんじており、1999ねんたい中日ちゅうにちとの日本にっぽんシリーズにおいて、てるようになるまでどなかたま凝視ぎょうしするように指令しれいされる。結果けっかかげまる隼人はやとからどなかつことに成功せいこうしのランニングホームランとなった。

仰木おうぎあきらあくたまちを理解りかいしていた数少かずすくない1人ひとりだったという。そのエピソードにかんしてスーパースターズへんの2006ねん開幕かいまくまえ自主じしゅトレのさいには前年ぜんねん他界たかいした仰木おうぎいわおにおもし「わいのあくたまちを理解りかいしてくれた……その仰木おうぎはんがんでしもうた…さびしい……」となみだぐむ場面ばめんがあった。

あくたまちのため、ほかのひととストライクゾーンの意識いしきちがうという設定せっていがある。そのため、プロ当初とうしょはどなかのストレートをストライクとコールする審判しんぱん文句もんくをつけていた。プロ投手とうしゅとして登板とうばんすることになったときは、ストライクゾーンのちがいにより四球しきゅう連発れんぱつすると古賀こが英彦ひでひこコーチに心配しんぱいされた。このときはキャッチャーの城島じょうしま健司けんじが「かまえたところげるのがプロだ」といわおにせ、ストライクをげさせた。

恋人こいびとである夏子なつこているときだけは「こいばくあい」(本人ほんにんだん)という状態じょうたいとなり、どなかでもあくだまでもてるようになりさい早手はやてがつけられない有様ありさまになる。高校こうこう時代じだいは2ねん秋季しゅうき大会たいかい不知火しらぬいから満塁まんるいホームランをっているほか、3ねんなつ甲子園こうしえん決勝けっしょうでエンタイトルツーベースをはなっている。

あくたまちは本人ほんにん通常つうじょうとは逆転ぎゃくてんした美的びてき感覚かんかく由来ゆらいするものだとする仮説かせつ作中さくちゅう存在そんざいしており、不知火しらぬいが2001ねんシーズン前半ぜんはんにそれについて言及げんきゅうしていた。どう時期じきにはストライクゾーンの意識いしき正常せいじょうしたが、これは不知火しらぬいによるとサチ子さちこ異性いせいとして意識いしきするなど美的びてき感覚かんかく正常せいじょうしたためであることが示唆しさされている。

あくたま対策たいさく

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相手あいてピッチャーがストライクをげる場合ばあい様々さまざま対策たいさくあくだまにするのがほんさく醍醐味だいごみである。いわおに自他じたどもみとめる研究けんきゅう熱心ねっしんであり、様々さまざまあくたま対策たいさくしている。 「つよ眼鏡めがねをかけてわざとえにくくする」「あらかじめ逆立さかだちをしておいてあたまをクラクラさせてボールが分裂ぶんれつしたようにえるようにする」「かるくてながいノックようバットを使つかう」「さけんでぱらい、あくたまえるようにする」など、様々さまざま工夫くふうでどなかつことが出来できる。ただし、あくたまえる手法しゅほうもちいた打席だせきでは、ぎゃくあくたまてなくなるという欠点けってんがある。そのためおなしゅつづけて使つかえないケースがおおい(もしくは「おとこ意地いじ」で使つかわない)。しかしプロ3ねん西武せいぶせん使つかった「使つかてコンタクトレンズを使つかう」という作戦さくせん絶大ぜつだい効果こうか発揮はっきしたためか、そのなん使つかわれた。また、「くわえているっぱで視界しかいさえぎられた」「どなかたまを(相手あいてなさけをかけたため)わざと三振さんしんするようデタラメなスイングをした」、「実際じっさいひくめのたまだがたかめだとおもいこんでった」という偶然ぐうぜん理由りゆうでホームランをったことがある。

別々べつべつ試合しあいで2以上いじょう使つかわれたあくたま戦術せんじゅつもあるが、そのうちの偽装ぎそうスクイズでウエストボールをげさせる戦術せんじゅつ犬飼いぬかい知三郎ともさぶろうから2ランをはなっている。このことが、知三郎ともさぶろういわおに尊敬そんけいするようになったきっかけである。この戦術せんじゅついわおにこう1の神奈川かながわけん秋季しゅうき大会たいかい決勝けっしょう山田やまだ当時とうじあかりくん監督かんとくだった徳川とくがわ提案ていあんして、たい土門どもんよう実行じっこうしたものだが、このとき室戸むろとひきいていたとう徳川とくがわはすっかりそのことを失念しつねんしていた。そのうえ性質せいしつじょう投手とうしゅとしてはモーションにはいるまではそのスクイズが偽装ぎそうであるかどうかはわからず、っていても失点しってん覚悟かくごでないかぎやぶりようがない。また、里中さとなかもそのことを失念しつねんして、2000ねん開幕かいまくせん、9かい無死むし満塁まんるい場面ばめんでスクイズしてきたいわおにたいしてウエストしてサヨナラ満塁まんるいホームランをたれている(このときさとちゅうみぎ投手とうしゅであるので、三塁さんるいランナーがスタートをったのをて、モーションの途中とちゅうでウエストにえている。また、このとしいわおにはバント戦法せんぽうをしていたため、スクイズをしてくるかもという素地そじがあった)。

家族かぞく

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おとこばかり4にん兄弟きょうだいすえ父親ちちおやいわおに建設けんせつ(株)かぶしきがいしゃ社長しゃちょうで、いわゆる金持かねもちの御曹司おんぞうしだった。3にん兄達あにたちは『清彦きよひこ』『晴彦はるひこ』『秀彦ひでひこ』と名前なまえに『彦』がけられており、本来ほんらいなら『いわおに正彦まさひこ』と名付なづけられるはずだったが、まれたときおんなのように可愛かわいらしいかおだったため、『正美まさみ』と命名めいめいされる。いわゆる「みそっかす」であり、いえなかでは優秀ゆうしゅう兄達あにたち比較ひかくされて肩身かたみせま窮屈きゅうくつおもいをしており、その鬱憤うっぷん喧嘩けんかやスポーツなどでらしていた。

両親りょうしんあに対面たいめんするときには関西かんさいべん使つかわずつね敬語けいごで「おとうさま」「おかあさま」「おあにさま」とび、卑屈ひくつせっする。自身じしん衣服いふくみだれなどもみずからてきぱきとなおす。

兄達あにたちよん兄弟きょうだいなか勉強べんきょうでも野球やきゅうでもあまり成績せいせきのよくないいわおにのことをないがしろにしているめんがあったが、結局けっきょく兄弟きょうだいなか一番いちばん高給こうきゅうりで出世しゅっせしているのは正美まさみである。あにたちはサラリーマンで、さんにんとも優秀ゆうしゅうではあるものの典型てんけいてきな「マニュアル人間にんげん」であり、「会社かいしゃ野球やきゅう正美まさみれさせる」と本人ほんにん相談そうだんなく勝手かってったりしており、正美まさみ出世しゅっせのためのネタとして使つかうようなせこい性格せいかくである。現在げんざい兄弟きょうだいなかくないようである。兄達あにたちはインテリではあるが、やはり正美まさみ血縁けつえん長身ちょうしんでがっしりしたからだつきをしていて、かおもどちらかというと強面こわおもてである。しかし身長しんちょう190cmを正美まさみにとっては「ひょろい」らしい。

高校こうこう2ねんはる甲子園こうしえん決勝けっしょうせん会社かいしゃ倒産とうさんしたため一気いっき貧乏びんぼう生活せいかつおちいってしまう。このさいいわおに大阪おおさかガメッツへの入団にゅうだん確約かくやくさせるのとえに援助えんじょはなしまれるが、息子むすこ志望しぼう球団きゅうだん東京とうきょうメッツであることをあんじた父親ちちおやことわっている。当時とうじ父親ちちおやは「あいつら3にん一緒いっしょでなければなにもできない。しかし正美まさみ1人ひとり十分じゅうぶんやっていける」と、一族いちぞくなか唯一ゆいいつ正美まさみ期待きたいせていた。

母親ははおやにもないがしろにされており、正美まさみ一人ひとりだけ直接ちょくせつ世話ぜわをせず乳母うばまかせきりだったり、兄達あにたちとはべつ小学校しょうがっこう入学にゅうがくさせたりしていた。しかし、正美まさみ自身じしんはその仕打しうちをうらむことなどいっぺんもなく、母親ははおやたい幼少ようしょうから現在げんざいまで思慕しぼ尊敬そんけい感情かんじょうっている。2ねんなつけん大会たいかい優勝ゆうしょう直後ちょくご母親ははおややまいたおれたことを父親ちちおやかららされたとき、4兄弟きょうだいなかもっとはやけつけたのは病院びょういんからもっととおあかりくん高校こうこうから正美まさみだった。このとき、兄弟きょうだい電話でんわ連絡れんらくしたのみですぐにはけつけず、正美まさみは「あきらくんのわいとこよりちかいくせして…」といきどおっている。けん大会たいかい優勝旗ゆうしょうきのみをかかいそ正美まさみはその直後ちょくごに「いまはおかねないけど、わいがプロにはいったらばいにもさんばいにもしてかえします、どうかおふくろをたすけてください」と医者いしゃ懇願こんがんしている。このときの母親ははおや危険きけん状態じょうたい(容態ようだい悪化あっかつづけ、医者いしゃ父親ちちおやに「ヤマがすこはやまるかもれません、できれば息子むすこさんたちに…(はやるようにうながしてください)」とげるほど)だったが、弁慶べんけい高校こうこう武蔵坊むさしぼう不思議ふしぎちからによって回復かいふくした。以後いごいわおに武蔵坊むさしぼうあたまがらない。現在げんざい母親ははおや正美まさみ一番いちばん期待きたいせるようになっており(いわおに建設けんせつ倒産とうさん父親ちちおやわりにつけてきた仕事しごと内容ないよう待遇たいぐうばかりをにしていたほか息子むすこたちを「なさけない」となみだしている)、関係かんけい改善かいぜんされている。

かげまる隼人はやとあね亜希子あきこいわおに長兄ちょうけい清彦きよひこ夫婦ふうふ(お見合みあ結婚けっこん)で縁戚えんせき関係かんけい[7]であり、中学ちゅうがく柔道じゅうどう時代じだいから因縁いんねんのあるライバルでもある。中学ちゅうがくへんにおける柔道じゅうどう日米にちべい対決たいけつではチームメイトとして味方みかた同士どうしとなった。一方いっぽう高校こうこう3ねんなつ千葉ちばけん大会たいかい決勝けっしょうせん青田あおた高校こうこうたいクリーンハイスクールせんをテレビ観戦かんせんしていたさいには青田あおた中西なかにし球道きゅうどう応援おうえんしており、かげまるはいわば身内みうちなのになぜ中西なかにし応援おうえんするのかと微笑びしょう三太郎さんたろうかれ、「関係かんけいあらへん、よう心意気こころいき問題もんだいや!男気おとこぎやで!」といいはなち、山田やまだも(なるほど、うかもな)と納得なっとくしている。

中学ちゅうがく高校こうこうとおして同級生どうきゅうせいだった夏川なつかわ夏子なつこ恋愛れんあい関係かんけいにあった。夏子なつこ外見がいけんはお世辞せじにも美人びじんとはえないが、いわおにには絶世ぜっせい美人びじんえている。また、先述せんじゅつの「おつる」とているということ関係かんけいしている。一方いっぽう気立きだてのいい“性格せいかく美人びじん”ではある。いち夏子なつこ吉良きら高校こうこう男子だんし生徒せいとだまされて浮気うわきしたために破局はきょく寸前すんぜんとなったこともある。プロ夏子なつこ倒産とうさん危機ききにあったちち会社かいしゃすくうため、政略せいりゃく結婚けっこんおうじていた。しかし高校こうこう時代じだい浮気うわきとはことなり、夏子なつこ気持きもちはいわおににあった。わない理由りゆうけたのは、それをらせていわおにきずつけないための方便ほうべんだった。夏子なつこはそのいちじょをもうけるも離婚りこん。2008ねんいわおにのプロポーズにおうじ、結婚けっこんした。

おも記録きろく

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  • 本塁打ほんるいだおう6かい(1996~1998ねん,2001~2003ねん) - 2005ねんには本塁打ほんるいだおう打点だてんおうのどちらかを獲得かくとくしている。
  • 日本にっぽんシリーズMVP2かい(1999ねん,2005ねん
  • オールスターMVP(1997ねん
  • パ・リーグ特別とくべつ表彰ひょうしょう(1995ねん
  • 1試合しあい4本塁打ほんるいだ(2001ねん3がつ24にち) - 4打席だせき連続れんぞく
  • 公式こうしきせんはつ打席だせき先頭せんとう打者だしゃ本塁打ほんるいだ(1995ねん4がつ1にち開幕かいまくせん西武せいぶせん) - プレイボールアーチ。

この通算つうさん三振さんしんのプロ野球やきゅう記録きろく更新こうしんちゅうである。2006ねんまでの12年間ねんかんでは2399三振さんしんきっしている。

背番号せばんごう

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銅像どうぞう

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2002ねん新潟にいがた商工しょうこう会議かいぎしょどう商店しょうてんがい振興しんこう組合くみあいにより、新潟にいがた中央ちゅうおう古町通ふるまちどおりのアーケードない水島みずしま作品さくひん登場とうじょう人物じんぶつけい7たい銅像どうぞう設置せっちされたが、そのなかにはいわおに銅像どうぞうふくまれている[8]。これらの銅像どうぞうについては2015ねん撤去てっきょはなしがったが、撤去てっきょ見直みなおしをもとめる地元じもと商店しょうてんがいなどの要望ようぼうもあり、2016ねん2がつ撤去てっきょ見送みおくられることとなった[8]

その作品さくひんへの登場とうじょう

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野球やきゅうどアホウでん#1かん』(水島みずしま新司しんじ野球やきゅう漫画まんがたん編集へんしゅう)に収録しゅうろくされている「まぼろしだま秘話ひわ」(1972ねん発表はっぴょう)では、主人公しゅじんこうのジャンボ(東京とうきょうメッツ)の対戦たいせん相手あいて大阪おおさかアパッチの選手せんしゅとして、いわおに藤村ふじむら甲子園こうしえん登場とうじょうする。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 2000ねんにもイチローの真似まねをしてひだり打席だせきったが、その打席だせきはショートゴロにわった。
  2. ^ のち、2008ねん山田やまだ最終さいしゅうせんの6打席だせき連続れんぞく本塁打ほんるいだにより更新こうしんされた
  3. ^ 水島みずしま新司しんじ創刊そうかん40周年しゅうねん特別とくべつ寄稿きこう わたしとチャンピオン」『週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン』だい41かんだい15ごう秋田あきた書店しょてん、2009ねん、47ページ。 
  4. ^ 秋田あきた文庫ぶんこの『ドカベンあきらくんへん最終巻さいしゅうかん作者さくしゃによる解説かいせつ
  5. ^ このエピソードはいわおにがどなかてない理由りゆうについて「原因げんいんがあるのかもしれない」とおも眼科がんかおとずれたさいかたられたもので、それをいた眼科がんかは「動体どうたい視力しりょく野球やきゅう選手せんしゅにとってこのうえない財産ざいさんであるから、いまのままでい」と結論けつろんけている。また、そのまえ視力しりょく検査けんさでは視力しりょく1.5相当そうとう文字もじ認識にんしきしている。
  6. ^ 厳密げんみつには緒方おがた事例じれいはベースのわすれによりしとなっており、2度目どめった本塁打ほんるいだ記録きろくじょう成立せいりつしたがこれは日光にっこうによる不可抗力ふかこうりょくいちである
  7. ^ スーパースターズへん1かん登場とうじょう人物じんぶつ紹介しょうかいでは「(義理ぎりの)従兄弟いとこ」とその関係かんけい紹介しょうかいされていたが、4親等しんとう姻族いんぞくなので民法みんぽうじょう他人たにんである。
  8. ^ a b 古町ふるまちのドカベンぞう 存続そんぞくまる”. 新潟にいがた日報にっぽう. (2016ねん2がつ23にち). http://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20160223236825.html 2016ねん2がつ23にち閲覧えつらん [リンク]