己斐(こい)は、広島県広島市西区の地域である。
町名では己斐上(こいうえ)、己斐大迫(こいおおさこ)、己斐中(こいなか)、己斐西町(こいにしまち)、己斐東(こいひがし)、己斐本町(こいほんまち)に該当する。現行行政地名は己斐上一丁目から己斐上六丁目、己斐大迫一丁目から己斐大迫三丁目、己斐中一丁目から己斐中三丁目、己斐西町、己斐東一丁目および己斐東二丁目、己斐本町一丁目から己斐本町三丁目。
旧・佐伯郡己斐町を前身とする地域であり、さまざまな史跡が存在するが、地域西部には戦後になって造成されたニュータウンもある。
1988年度の航空写真。己斐は、太田川放水路の西側の地域である。大迫団地(己斐大迫)は赤色、もみじが丘(一致する行政区分がないため、大まかに囲んである)は黄色で囲んである。また、西広島駅は青色、広電西広島駅は緑色で示してある。放水路にかかっている4本の橋は北から順に己斐橋、新己斐橋、旭橋、新旭橋。なお、新旭橋が旭橋に沿うように架橋されているため、3本に見える。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
己斐は広島市中心部(紙屋町)から西へ約3から5km、同市西区に位置する地域。主に己斐上・己斐大迫・己斐中・己斐西町・己斐東・己斐本町からなる。東側の福島町とは太田川放水路で隔てられている。西で高須台、南で庚午と接する。庚午との境界には西広島バイパスが走っている[1]。
地域内をJR西日本山陽本線および広島電鉄本線・宮島線が走り、己斐本町に西広島駅および広電西広島駅がある。また、己斐本町に宮島街道が走っており、西広島駅前交差点付近には前述の2駅のほかひろでん会館が在った跡地に「KOI PLACE」が在る。己斐バスストップが広島電鉄本線および宮島線の広電西広島駅のすぐそばにあり、西広島駅バスストップがJR西日本山陽本線西広島駅のすぐそばにある。地域東部には茶臼山(通称「小茶臼」北緯34度24分27.55秒 東経132度25分29.67秒)があり、昔己斐城(平原城)があったことで知られる。また、地域南部には旭山(北緯34度23分50.8秒 東経132度25分14.1秒 / 北緯34.397444度 東経132.420583度 / 34.397444; 132.420583 (旭山))もあり、己斐古城(岩原城)があったという[2][3]。
太田川放水路が地域の東端を流れており、北から己斐橋(北緯34度23分55.99秒 東経132度25分57.48秒 / 北緯34.3988861度 東経132.4326333度 / 34.3988861; 132.4326333 (己斐橋))、新己斐橋(北緯34度23分46.61秒 東経132度25分51.37秒 / 北緯34.3962806度 東経132.4309361度 / 34.3962806; 132.4309361 (新己斐橋))、旭橋(北緯34度23分22.71秒 東経132度25分35.65秒 / 北緯34.3896417度 東経132.4265694度 / 34.3896417; 132.4265694 (旭橋))がかかっている。地域内には八幡川が西から東に流れ、太田川放水路に流れ込んでいる。八幡川には東から順に観光橋(北緯34度23分45.4秒 東経132度25分37.8秒 / 北緯34.395944度 東経132.427167度 / 34.395944; 132.427167 (観光橋))、源左衛門橋(北緯34度23分46.51秒 東経132度25分34.79秒 / 北緯34.3962528度 東経132.4263306度 / 34.3962528; 132.4263306 (源左衛門橋))がかかっている[2]。
源左衛門橋は、歴史のある橋である。昔、時の広島藩主は広島入府の後に親友である紫竹源左衛門を呼び寄せて、現在の己斐西町のあたりに領地を与えた。大雨で八幡川が氾濫した時、源左衛門が仮設の橋を渡して大名行列を助けた。このことからその後この場所にできた橋を源左衛門橋と呼ぶようになったのだという[3]。
原爆による火災消失分布図 / 己斐川で火の手が止まり、己斐地区の全域が被爆火災による消失から免れたことがわかる。
1945年アメリカ軍作成の広島市地図 / 前述の己斐川がこちらではYAMATE-GAWAとなっている。
「己斐」は鎌倉時代以来の歴史ある地名で、その由来についてはいくつかの説がある。一つは神功皇后が長門の熊襲族征討に際してこの地に立ち寄ったとき、県主が大きな鯉を献上したので「鯉村」と称したというもの(国郡志下調書出帳)、「山間の村」を意味する「峡村」(かひむら)が変化したというもの(秋長夜話)、古くは「許斐」とも書いたことから筑前宗像の「許斐神社」と何らかの関係を有するというもの(芸藩通志)、などである。
- 広島市への編入合併前の詳細については「己斐町」を参照
以下の通り[3]。
総数 [戸数または世帯数:
、人口:
]
1980年(昭和55年)12月末[4]
|
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/R50.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png) 9,325世帯
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/G100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) 26,118人
|
1990年(平成2年)12月末[4]
|
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/R100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png) 11,296世帯
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/G100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/G50.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/G01.png) 30,364人
|
2000年(平成12年)12月末[4]
|
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/R100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/R05.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png) 11,743世帯
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/G100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) 28,215人
|
2010年(平成22年)12月末[4]
|
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/R100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/R05.png) 12,573世帯
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/G100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/G05.png) 27,119人
|
2013年(平成25年)10月末[5]
|
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/R100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/R05.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png) 12,698世帯
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/G100.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/G10.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/G01.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/G01.png) ![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/G01.png) 26,773人
|
大迫団地は己斐地域の北東部のニュータウンであり、己斐大迫という町丁に対応している。広電己斐団地は己斐地域の北西部のニュータウンであり、己斐上の一部である。フジハイツやイトーピアは茶臼山の南、己斐地域の東側のニュータウンであり、それぞれ己斐中、己斐東という町丁の一部である。もみじが丘は己斐地域の西側のニュータウンであり、己斐上という町丁の一部である。
地域内を運行するのは広電バス、広島バス、エイチ・ディー西広島の三社である。前2者は己斐本町を通過する便が主だが、己斐を拠点とするエイチ・ディー西広島は西広島駅バスストップや八丁堀バスストップと地域東部の住宅地を結んでおり、己斐上・己斐大迫・己斐中・己斐東にも停車する[2][6][7][8]。
己斐本町にJR西日本山陽本線西広島駅(北緯34度23分52.2秒 東経132度25分40.72秒 / 北緯34.397833度 東経132.4279778度 / 34.397833; 132.4279778 (西広島駅))および広島電鉄本線宮島線広電西広島駅(北緯34度23分48.68秒 東経132度25分40.62秒 / 北緯34.3968556度 東経132.4279500度 / 34.3968556; 132.4279500 (広電西広島駅))がある。地域北東部、己斐大迫のあたりはJR西日本山陽本線および広島電鉄横川線の横川駅(北緯34度24分35.65秒 東経132度27分0.52秒 / 北緯34.4099028度 東経132.4501444度 / 34.4099028; 132.4501444 (横川駅))が最寄りである。
-
西広島駅
-
広電西広島駅
地域内に宮島街道が走っており、南の他地区との間には西広島バイパスが走っている。広島県道265号伴広島線が地域内を通っており、己斐峠を経由して五月が丘へ行くことができる。
西広島駅付近に設置されたズッコケ三人組の像
ズッコケ三人組に登場する花山町のモデルが己斐であることは作者の那須正幹自身が明かしており、広島市の広報紙でも紹介されている[9]。那須によると、ミドリ市のモデルは「もう完全に1960年代の後半の広島、人口もちょうど60万人ぐらいになるかな、あのころの広島」であるという[10]。
- 店・企業
- 金融機関
- 商業施設・その他
- 広島銀行研修所と付属する各種スポーツ施設。同体育館はかつて広島銀行ブルーフレイムズが本拠地としていた他、広島メイプルレッズも練習場としている。また、広島銀行の関連法人である学校法人信愛学園のぞみ幼稚園も隣接して立地する。
- かつて存在した商人・事業家など
『日本紳士録』によると、商人・事業家は金なべ、料理の石橋[11]、敷島食堂の影広[11]、米穀商の竹本[11]、広島家畜社長の田中[11]、植木商の田中[11]、東洋機械取締、東洋製罐広島工場長和田[11]、日本麻紡織支配の渡邊[11]などがいた。
『日本紳士録』によると、地家主は岩原[11][12]、地主は濱田[12]、家主は加藤[11]姓の人物などがいた。
歴史ある宗教施設が多数ある[3]。また、以下に示すように、小中学校の名前と存在地域は必ずしも一致していない。
旭山神社
- 「鯉の神社」と親しまれている。
- 曹洞宗。大茶臼山西麓にある。
- 境内の滝は古くから自然の聖地とされ、蓮如上人作と伝えられる観音が祀られていた。[13]土砂崩れによる被害を受けたが、1850年に再興。広島新四国八十八か所の第十番霊場となっている。
- 真言宗。隆誉上人が藩主毛利輝元から土地を拝領して1593年に木挽町で開山。1619年に淡島大明神を併せて祭るようになった。1945年に原爆に遭い仏像が消失。国の重要文化財「紺紙金泥宝篋印陀羅尼経(こんしきんでいほうきょういんだらにきょう)[14]」に被害はなく寺宝として大切に保管されている。1968年に現在地に移転した。[15]
- 毛利輝元彫刻の千手観音が祀られているが、開帳日以外は見ることができない。大元稲荷社がすぐ近くにあり、観音堂を守護している。
- 浄土真宗本願寺派。1928年、寺町から移転した。終戦直後、臨時に軍人および被爆死没者の遺骨の奉安所となる。遺骨は後に広島市の慰霊塔に合祀された。またかつては境内に「己斐幼稚園」を経営していた。
- 己斐上と己斐中の境界付近に位置。後述の通玄山の近くにある。
- 浄土真宗本願寺派。高田郡桑田村出身の智鏡和尚により宝永年間に廃寺となっていた教坊を再興したのが前身とされ、1862年に西本願寺より許可、1879年に「光西寺」の寺号を許可される。[16]
- 真宗木辺派。真田増丸率いる大日本仏教済世軍運動に挺身した橋本豊和師により1926年創建。[17]
ゆめマート己斐
『日本紳士録』によると、かつて存在した歯科医師は勝田、医師は天野、松本などがいた[12]。
通称「己斐ロープウェイ」。電電公社己斐無線中継所専用のロープウェイで現存せず。
1955年頃の己斐無線中継所。中央がロープウェイの発着所。
- 鎌倉時代中期から戦国時代の山城。
- 己斐古城(己斐西町、旭山)
- 築城年、城主は不明。鎌倉時代中期の城と推定されている[3]。
- 広島では1599年に伝道されたキリスト教であるが、豊臣秀吉が1587年に出したバテレン追放令や1596年に出した禁教令、および江戸幕府が1612年および1613年に出した禁教令により迫害された。1616年山手川(現在の太田川放水路)の河原にて処刑が行われた。時は流れ、付近にカトリックの学校(ノートルダム清心中学校・高等学校)ができるなど、迫害は過去のものとなった。そして1984年2月、己斐の歴史研究会の有志によってキリシタン殉教の碑が設置された[3]。
- 通玄山という文字が彫られた岩。通玄という語には禅の極地という意味がある。浅野長晟の家臣の子として広島に移り住み、晩年を己斐の地で過ごした広島藩士、寺西織部信之が、黄檗宗の開祖である隠元禅師の通玄山という書を禅門の師を通じて得て、岩に彫刻したものであると言われている[3]。
通玄岩(己斐)
- 旧送水ポンプ室は、1945年(昭和20年)の原爆に耐えた被爆建物である[18]。
- 原爆被爆給水塔(己斐本町、前述の己斐ガーデンスクエア内)
- 赤レンガ積みの給水塔であり、1辺が約4m、高さ約10mの大きさの被爆建物。軍服を製造していた日本麻紡績株式会社が所有していた[3]。
|
---|
中区 | |
---|
東区 |
曙 - 愛宕町 - 牛田▲(牛田旭・牛田新町・牛田中・牛田東・牛田本町・牛田南・牛田山・牛田早稲田) - 馬木 - 馬木町 - 尾長▲(尾長西・尾長東・尾長町) - 上大須賀町 - 中山▲(中山鏡が丘・中山上・中山北町・中山新町・中山中町・中山西・中山東・中山南) - 温品▲(温品・温品町・上温品) - 東蟹屋町 - 東山町 - 光が丘 - 光町 - 福田 - 福田町 - 二葉の里 - 戸坂▲(戸坂出江・戸坂大上・戸坂数甲・戸坂くるめ木・戸坂桜上町・戸坂桜西町・戸坂桜東町・戸坂城山町・戸坂新町・戸坂千足・戸坂惣田・戸坂町・戸坂長尾台・戸坂中町・戸坂南・戸坂山崎町・戸坂山根) - 矢賀▲(矢賀・矢賀新町・矢賀町) - 山根町 - 若草町
|
---|
南区 | |
---|
西区 | |
---|
安佐南区 | |
---|
安佐北区 |
安佐町飯室 - 安佐町後山 - 安佐町小河内 - 安佐町くすの木台 - 安佐町久地 - 安佐町毛木 - 安佐町鈴張 - 安佐町筒瀬 - 安佐町動物園 - 安佐町宮野 - あさひが丘 - 大林 - 大林町 - 小河原町 - 落合▲(落合・落合町・落合南・落合南町) - 可部 - 可部東 - 可部南 - 可部町上原 - 可部町城 - 可部町中島 - 可部町中野 - 亀崎 - 亀山▲(亀山・亀山西・亀山南・可部町綾ケ谷・可部町大毛寺・可部町今井田・可部町勝木) - 狩留家町 - 口田▲(口田・口田町・口田南・口田南町) - 倉掛 - 白木町秋山 - 白木町有留 - 白木町市川 - 白木町井原 - 白木町小越 - 白木町古屋 - 白木町志路 - 白木町三田 - 深川▲(深川・深川町・上深川町) - 真亀 - 三入▲(三入・三入東・三入南・可部町上町屋・可部町下町屋・可部町桐原・可部町南原)
|
---|
安芸区 |
阿戸町 - 瀬野▲(瀬野・瀬野町・瀬野西・瀬野南・瀬野南町・上瀬野・上瀬野町・上瀬野南) - 中野▲(中野・中野町・中野東・中野東町) - 畑賀 - 畑賀町 - 船越▲(船越・船越町・船越南) - 矢野▲(矢野新町・矢野町・矢野西・矢野東・矢野南)
|
---|
佐伯区 |
旭園 - 石内▲(石内上・石内北・石内東・石内南・五日市町石内) - 五日市 - 五日市駅前 - 五日市港 - 五日市中央 - 海老園 - 海老山町 - 海老山南 - 観音台 - 倉重 - 倉重町 - 河内▲(河内南・五日市町上河内・五日市町下河内・五日市町上小深川・五日市町下小深川) - 五月が丘 - 新宮苑 - 城山 - 杉並台 - 隅の浜 - 千同 - 坪井 - 坪井町 - 藤垂園 - 利松 - 五日市町利松 - 藤の木 - 三筋 - 美鈴が丘▲(美鈴が丘西・美鈴が丘東・美鈴が丘緑・美鈴が丘南) - 皆賀▲(皆賀・五日市町昭和台・五日市町美鈴園・五日市町皆賀) - 美の里 - 三宅 - 三宅町 - 薬師が丘 - 屋代 - 屋代町 - 八幡▲(八幡・八幡が丘・八幡東・五日市町口和田・五日市町高井・五日市町寺田・五日市町中地・五日市町保井田) - 湯来町下 - 湯来町白砂 - 湯来町菅沢 - 湯来町多田 - 湯来町葛原 - 湯来町伏谷 - 湯来町麦谷 - 湯来町和田 - 吉見園 - 楽々園
|
---|
関連項目 | |
---|
▲は広域な地域名または別名。ニュータウン及び新興住宅地の通称は、日本のニュータウン#広島市を参照。
カテゴリ |