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恩賞おんしょうかた

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恩賞おんしょうかた(おんしょうがた)とは、たてたけし政府せいふおよ室町むろまち幕府ばくふ設置せっちされた恩賞おんしょう業務ぎょうむあつかった部局ぶきょく

たてたけし政府せいふ恩賞おんしょうかた

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元弘もとひろ3ねん1333ねん)に鎌倉かまくら幕府ばくふほろぼした後醍醐天皇ごだいごてんのうが、恩賞おんしょう業務ぎょうむ審議しんぎ調査ちょうさのために設置せっちした。その正確せいかく時期じきや、初期しょき制度せいど不明ふめいだが、7がつ19にち新田にった庶流(ただし派閥はばつ新田にったではなく足利あしかが)の岩松いわまつけいたい北条ほうじょうやすしきゅう幕府ばくふ幹部かんぶのこりょう配布はいふされているため(『あつまり古文書こもんじょ[1])、7がつちゅうには恩賞おんしょうかた設置せっちされていたとかんがえられる[2][注釈ちゅうしゃく 1]

よくたてたけし元年がんねん1334ねん5月18にち全国ぜんこくを4地域ちいきけてそれぞれにあたまじん任命にんめいするよんばんせい導入どうにゅう[4]

あたまじん任命にんめい楠木くすのき正成まさしげ名和なわ長年ながとし寄人よりうどにんじた。かれらはざつ決断けつだんしょあたまじん寄人よりうど兼務けんむしていたため、両者りょうしゃ連携れんけい期待きたいされた。また、伊賀いが兼光かねみつきゅう幕府ばくふ法曹ほうそう官僚かんりょうから恩賞おんしょうかたくわわるものもいた[5]

室町むろまち幕府ばくふ恩賞おんしょうかた

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たてたけし3ねんのべもと元年がんねん/1336ねん)、たてたけし政府せいふたおした足利尊氏あしかがたかうじただちに室町むろまち幕府ばくふとなるしん政府せいふ樹立じゅりつはかり、足利あしかが宗家そうけいえおさむである執事しつじ高師直こうのもろなおあたまじんとする恩賞おんしょうかた恩沢おんたくかた(おんたくがた)とも)を設置せっちした。たかしたてたけし政府せいふ恩賞おんしょうかた失敗しっぱいまなんでつづ最終さいしゅう決定けっていけんたかし親裁しんさいとしたものの、恩賞おんしょうかた恩賞おんしょう申請しんせい受理じゅり恩賞おんしょう選定せんてい恩賞おんしょう替地かえち沙汰さた恩賞おんしょう他者たしゃ所領しょりょうであった場合ばあい新旧しんきゅう領主りょうしゅあいだ裁判さいばん)・恩賞おんしょうぶん紛失ふんしつ安堵あんどなどの広範こうはん業務ぎょうむまかされた。

たかし幕府ばくふ成立せいりつ民政みんせいのみならずぐんけん一部いちぶまでおとうと足利あしかが直義ただよしゆずって、なか象徴しょうちょうてき存在そんざいにもなっていたが、恩賞おんしょうかた業務ぎょうむのみはみずからが把握はあくして親裁しんさいおこない、必要ひつようがあれば審議しんぎにも参加さんかした。これを「おん沙汰さた(ごおんさた)」とんだ。皮肉ひにくにもかんおう擾乱じょうらんによってたかし直義ただよし対立たいりつして直義ただよしとこれを支持しじする幕府ばくふ官僚かんりょうおおくが離反りはんしたとき室町むろまち幕府ばくふ機構きこうおおくが機能きのう停止ていしおちいったが、恩賞おんしょうかたのみはたかし官僚かんりょうがそのまま残留ざんりゅうしたためにこれをまぬかれたのである。

幕府ばくふ組織そしき再建さいけん主導しゅどうしたのちの2だい将軍しょうぐん足利あしかが義詮よしあきら恩賞おんしょうかた拠点きょてんとして再建さいけんはかり、のちにここで御前ごぜん沙汰さたばれる会議かいぎ主宰しゅさいした。のち御前ごぜん沙汰ざた義詮よしあきら後継こうけいしゃである足利あしかが義満よしみつによって恩賞おんしょう以外いがい重要じゅうよう事項じこう審議しんぎするとともに、将軍しょうぐん個人こじんてき人選じんせんによってえらばれた重臣じゅうしん側近そっきんによる事実じじつじょう最高さいこう諮問しもん機関きかんへと変化へんかしていく。とく恩賞おんしょうかたなどで事務じむ担当たんとうしていた法曹ほうそう官僚かんりょうである奉行ぶぎょうじん次第しだい奉行ぶぎょうしゅ右筆ゆうひつかた)として幕政ばくせいふかかかわってくると、本来ほんらい恩賞おんしょうかた下級かきゅう官僚かんりょうでしかないかれらが将軍しょうぐん意向いこう御前ごぜん沙汰ざた一員いちいんくわえられて恩賞おんしょうかたしゅばれるようになる。

さらに足利あしかが義教よしのりになると、御前ごぜん沙汰ざたそのものが恩賞おんしょうかたからはなれて幕府ばくふ中枢ちゅうすうかれるようになり、恩賞おんしょうかたしゅも「御前ごぜん沙汰さたしゅ御前ごぜん奉行ぶぎょうじん」などとばれるのが一般いっぱんてきとなる。また、恩賞おんしょうかた実際じっさいには御前ごぜん沙汰ざたのための事務じむ機関きかんとなり、御前ごぜん沙汰さたしゅ予備よびぐんともえる奉行ぶぎょうじんたちめるようになった。

このため、別個べっこ奉行ぶぎょうしゅなかから「べつ奉行ぶぎょう」として恩賞おんしょう奉行ぶぎょうあるいはおん奉行ぶぎょうなどが任命にんめいされて恩賞おんしょう業務ぎょうむいたと推定すいていされているが、詳細しょうさい不明ふめいである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 流布るふほんまき12「公家くげ一統いっとう政道せいどうこと[3]では、「恩賞おんしょうかた長官ちょうかん一人ひとりで、「うえきょう」とい、ほらいんじつ実力じつりょく不足ふそくから解任かいにんされ、つぎ万里小路まりこうじふじぼう正道せいどうおこなわれないいかりから辞職じしょくし、さらにつぎ九条くじょうひかりけい後醍醐ごだいご佞臣ねいしん無道むどうにおろおろとするだけだった。恩賞おんしょうかた審議しんぎ機関きかんでしかなく最終さいしゅう決定けっていけん後醍醐天皇ごだいごてんのう親裁しんさいとしたこと、天皇てんのう恩賞おんしょう問題もんだい処理しょり恩賞おんしょうかた一元化いちげんかせずに(おも側近そっきん要望ようぼうけて)恩賞おんしょうかた意見いけんちがった綸旨りんじくだしたこと、そのために訴訟そしょう頻発ひんぱつさら訴訟そしょう機関きかん整備せいびされていなかったために恩賞おんしょうかた訴訟そしょう事務じむ殺到さっとうしたことによって恩賞おんしょう業務ぎょうむ混乱こんらんした」という描写びょうしゃあるが、事実じじつかは不明ふめいである。そもそも「8がつ3にち設立せつりつ実際じっさいは7がつちゅう)」「ふじぼう恩賞おんしょうかたはなれた(実際じっさい翌年よくねん恩賞おんしょうかたとして活動かつどうしている)」「北条ほうじょうやすし所領しょりょうすべ護良親王もりよししんのうわたった(実際じっさい岩松いわまつけいらもたい所領しょりょうている)」など、すくなくとも3箇所かしょ以上いじょう史実しじつ矛盾むじゅんしている。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 博文ひろぶみかん編輯へんしゅうきょく へん校訂こうてい 太平たいへい』(21はん博文ひろぶみかんぞく帝国ていこく文庫ぶんこ 11〉、1913ねんdoi:10.11501/1885211NDLJP:1885211https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211 
  • 長谷川はせがわはし へん太平たいへい』 2かん小学しょうがくかん新編しんぺん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう 55〉、1996ねん3がつ20日はつかISBN 978-4096580554 
  • もり幸夫ゆきお ちょ「【たてたけし政権せいけん官僚かんりょう】3 たてたけし政権せいけんささえたきゅう幕府ばくふ武家ぶけ官僚かんりょうたち」、日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい; 呉座ござ勇一ゆういち へん南朝なんちょう研究けんきゅう最前線さいぜんせん : ここまでわかった「たてたけし政権せいけん」からのち南朝なんちょうまで』よういずみしゃ歴史れきし新書しんしょy〉、2016ねん、64–83ぺーじISBN 978-4800310071