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斎藤さいとう次郎じろう

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斎藤さいとう 次郎じろう(さいとう じろう 、1936ねん昭和しょうわ11ねん1がつ15にち - )は、日本にっぽん大蔵おおくら官僚かんりょう実業じつぎょう大蔵おおくら事務次官じむじかん東京とうきょう金融きんゆう取引とりひきしょ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう日本にっぽん郵政ゆうせい代表だいひょう執行しっこうやく社長しゃちょう歴任れきにん血液けつえきがたはAがた[1]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

関東かんとうしゅう大連たいれん出身しゅっしん父親ちちおやまんてつ調査ちょうさ勤務きんむしていた。だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつの1948ねん内地ないち引揚ひきあげ、成城せいじょう中学校ちゅうがっこう新宿しんじゅく)から東京とうきょう都立とりつ新宿しんじゅく高等こうとう学校がっこう進学しんがく新宿しんじゅく高校こうこう3ねんつぎ東京大学とうきょうだいがくきゅう文科ぶんか一類いちるい現在げんざい文科ぶんか一類いちるい文科ぶんかるい前身ぜんしん)をけるも合格ごうかくとなる。その浪人ろうにん予備校よびこうかよわなかったが、模試もしではつねに5番目ばんめになっていた[2]東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶだい1るい私法しほうコース)時代じだいは3Bという教室きょうしつ在籍ざいせきしており、大蔵省おおくらしょう同期どうきとなる日吉ひよしあきららがいた。東大とうだい法学部ほうがくぶだい1るい私法しほうコース)在学ざいがくちゅう国家こっか公務員こうむいん上級じょうきゅう甲種こうしゅ試験しけん法律ほうりつを3番目ばんめ合格ごうかくし、司法しほう試験しけんも8番目ばんめ合格ごうかく[3]東大とうだい法学部ほうがくぶだい1るい私法しほうコース)卒業そつぎょう。1959ねん昭和しょうわ34ねん)、大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう

おも主計しゅけいはたけあゆみ、経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかん官房かんぼうちょう大蔵省おおくらしょう大臣だいじん官房かんぼうちょう主計しゅけい局長きょくちょうて、1995ねん5がつまで大蔵おおくら事務次官じむじかんつとめ、大物おおもの次官じかんわれた。その政策せいさくスタンスは吉野よしの良彦よしひこつらなるといわれている。同年どうねん異例いれいともいえる前倒まえだおしのかたち事務次官じむじかん辞任じにん

2000ねん5がつより東京とうきょう金融きんゆう先物さきもの取引とりひきしょ理事りじちょう就任しゅうにんした[4]。2009ねん10がつ西川にしかわ善文よしふみ後任こうにんとして亀井かめい静香しずか金融きんゆう郵政ゆうせい改革かいかく担当たんとう大臣だいじん要請ようせいにより日本にっぽん郵政ゆうせい社長しゃちょう就任しゅうにんした。 2012ねん12月19にちづけ社長しゃちょう退任たいにんした。

施策しさく人物じんぶつ[編集へんしゅう]

大蔵省おおくらしょう[編集へんしゅう]

竹下たけした内閣ないかく時代じだい小沢おざわ一郎いちろう内閣ないかく官房かんぼうふく長官ちょうかん出会であい、ちか関係かんけいとなる。「デンさん」ないし「デンスケ」などとばれたが、その猪突猛進ちょとつもうしん言動げんどうから大宮おおみやさとしたかしえんじるキャラクターにせられたとも、麻雀まーじゃんがるときにデーンとごえはっしたためともわれる。だい2海部かいふ改造かいぞうないかく時代じだいの1991ねん1がつ24にち決定けっていされた湾岸わんがん戦争せんそうへの90おくドルの資金しきん供出きょうしゅつには、小沢おざわ自民党じみんとう幹事かんじちょうともに、石油せきゆぜい法人ほうじんぜい一時いちじてき増税ぞうぜいまかなったのにはじまり、主計しゅけい局長きょくちょう在任ざいにんちゅう宮沢みやざわ内閣ないかく時代じだいに、小沢おざわ牧野まきのとおる建設けんせつ事務次官じむじかん(のちに小泉こいずみ内閣ないかく内閣ないかく総理そうり大臣だいじん補佐ほさかん)らとげた「国際こくさい貢献こうけんぜい構想こうそうし、その自民じみん連立れんりつ細川ほそかわ内閣ないかく時代じだいにおいても、連立れんりつ政権せいけんのエンジンやくつとめた小沢おざわとも国民こくみん福祉ふくしぜい構想こうそうをぶちげた。

これは1994ねん2がつ2にち深夜しんや細川ほそかわ護煕もりひろ首相しゅしょうみずからテレビで発表はっぴょうしたもので、消費しょうひぜいを3%から7%に増税ぞうぜい使途しと福祉ふくし目的もくてきとするものであった。名称めいしょう国民こくみん世論せろん反発はんぱつ考慮こうりょした細川ほそかわ政権せいけんささえた当時とうじ自民じみん各党かくとう意向いこうまえたものであったが、国際こくさい貢献こうけんぜい国民こくみん福祉ふくしぜい両方りょうほうとも、大蔵省おおくらしょう裁量さいりょうによる増税ぞうぜい可能かのうだったことや、ほとんどの国民こくみん寝静ねしずまった深夜しんや不意打ふいうちのようなテレビ会見かいけんでの増税ぞうぜい構想こうそう表明ひょうめいしたことへの反発はんぱつ相俟あいまって内外ないがいから激烈げきれつ非難ひなんびてわずか数日すうじつ白紙はくし撤回てっかいとなった。このような強引ごういん政治せいじ手法しゅほう閣僚かくりょうからも批判ひはんされ、国民こくみん福祉ふくしぜいでは武村たけむら正義まさよし官房かんぼう長官ちょうかんなど連立れんりつ政権せいけん内部ないぶでの合意ごういられていなかったことから、その細川ほそかわ連立れんりつ政権せいけん崩壊ほうかいがねとなった。一方いっぽうで、大蔵省おおくらしょうでは「10ねん1人ひとり大物おおもの次官じかん」とばれた[5]

1994ねん自社じしゃ連立れんりつ政権せいけん村山むらやま内閣ないかく誕生たんじょうし、自民党じみんとう与党よとう復帰ふっき斎藤さいとう次官じかん主計しゅけいきょく増減税ぞうげんぜい一体いったいあん提出ていしゅつ。これにたいして、ときの蔵相ぞうしょう武村たけむら正義まさよし分離ぶんりあん固持こじ新党しんとうさきがけ税制ぜいせい大綱たいこうへの行財政ぎょうざいせい改革かいかく明記めいきによる改革かいかくあん提示ていじ対立たいりつ斎藤さいとうともに「SKコンビ」と呼称こしょうされた通産つうさん事務次官じむじかん熊野くまの英昭ひであきともに、両省りょうしょう思惑おもわくからみながらきょうはたらかしておもだった政界せいかい関係かんけいしゃあいだうご[6]が、ときのじゅうせん処理しょりなど一連いちれんの「大蔵おおくらスキャンダル」も噴出ふんしゅつし、村山むらやま内閣ないかく時代じだい次官じかん辞任じにんした。とき加藤かとう紘一こういち自民党じみんとう幹事かんじちょうらは増減税ぞうげんぜい一体いったいあん維持いじするも、国民こくみん福祉ふくしぜい構想こうそうのぶちかたなど一連いちれん小沢おざわ斎藤さいとうらの強引ごういん手法しゅほう危惧きぐし、小沢おざわ路線ろせんっかると国民こくみん世論せろん反発はんぱつうとして篠沢しのざわつぎ次官じかん国税庁こくぜいちょう長官ちょうかんだった小川おがわただし後押あとおししたとされている。

そのも、篠沢しのざわ恭助きょうすけ戦後せんご2番目ばんめみじかさで次官じかん辞任じにんするなど、「斎藤さいとうぐみ」らの主計しゅけい人脈じんみゃく冷遇れいぐうをかこった。

次官じかん退任たいにん財政ざいせい金融きんゆう研究所けんきゅうじょ顧問こもん研究けんきゅう情報じょうほう基金ききん理事りじちょう国際こくさい金融きんゆう情報じょうほうセンター顧問こもんなどをて、2000ねん東京とうきょう金融きんゆう先物さきもの取引とりひきしょ理事りじちょう(2004ねん民営みんえい社長しゃちょうとなる)に就任しゅうにんしたが、「10ねん1人ひとり大物おおもの次官じかん」にふさわしい天下あまくださき用意よういされなかった。大蔵省おおくらしょうないでは斎藤さいとう部下ぶかつみかぶせたときびしく批判ひはんされたことや、自民党じみんとう政権せいけん復帰ふっきしたことが背景はいけいにあった。

だい連立れんりつ構想こうそう[編集へんしゅう]

2007ねん11月、自民党じみんとう福田ふくだ康夫やすお民主党みんしゅとう小沢おざわ一郎いちろうあいだ沙汰ざたされた、だい連立れんりつないかくだい連立れんりつ構想こうそうにおいて、渡辺わたなべ恒雄つねおとともに仲立なかだちした一人ひとりとしてあん名前なまえがあがった[7]。その2021ねんおこなわれた渡辺わたなべたいするインタビューで、渡辺わたなべ斎藤さいとう関与かんよ明言めいげんした。

日本にっぽん郵政ゆうせい社長しゃちょう[編集へんしゅう]

2009ねん10月21にち辞任じにん表明ひょうめいした日本にっぽん郵政ゆうせい西川にしかわ善文よしふみ社長しゃちょう後任こうにん起用きようすることが内定ないていした。起用きよう理由りゆうについて亀井かめい静香しずか郵政ゆうせい担当たんとうしょうは、「しん政権せいけん郵政ゆうせい民営みんえい抜本ばっぽん見直みなおしについて、ほぼおなかんがえをっている」とべた。民主党みんしゅとう政権せいけん焦点しょうてん日本にっぽん郵政ゆうせい社長しゃちょう起用きようされた[8]。この天下あまくだ人事じんじについては小沢おざわ民主党みんしゅとう幹事かんじちょうつよ意向いこうはたらいたとの見方みかたがある[9]国会こっかい同意どうい人事じんじにおいて、けい6にん人事じんじにおいて官僚かんりょうOBの起用きようたいし、民主党みんしゅとう天下あまくだりを理由りゆうつよ反対はんたいして実現じつげんしなかったことや、官僚かんりょうOBの独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじんへのさい就職しゅうしょくについて9がつまつ原則げんそく禁止きんしまったことを理由りゆうに、衆院しゅういんせんのマニフェスト「天下あまくだ根絶こんぜつ」の方針ほうしん矛盾むじゅんすると批判ひはんされた[10][11][12]2012ねん12月16にちだい46かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ自民党じみんとう圧勝あっしょうし、政権せいけん与党よとう復帰ふっきだい2安倍あべ内閣ないかく発足ほっそく12月26にち)をむかえようとしているところ、12月19にち突如とつじょ斎藤さいとう記者きしゃ会見かいけんひらき、任期にんきを6かげつのこしているなかでの社長しゃちょう退任たいにん次期じき社長しゃちょうさか篤郎とくろう大蔵省おおくらしょうOB)が就任しゅうにんするむね発表はっぴょうおこなった[13]一部いちぶからは政権せいけん間隙かんげきねらったものとみられ[14]与党よとう幹部かんぶからもつよ批判ひはんがなされた[15][16]

大蔵省おおくらしょう同期どうき[編集へんしゅう]

同期どうき土田つちたただしあきら東証とうしょう初代しょだい社長しゃちょう国税庁こくぜいちょう長官ちょうかん)、大須おおす敏生としお理財りざい局長きょくちょう)、公文くもんひろし国土こくど事務次官じむじかん内閣ないかく官房かんぼう内閣ないかく内政ないせい審議しんぎ室長しつちょう)、日吉ひよしあきらAJDA理事りじちょう防衛ぼうえい事務次官じむじかん)、岩崎いわさきぶん印刷いんさつ局長きょくちょう)、米倉よねくらあきら東大とうだい法学部ほうがくぶ名誉めいよ教授きょうじゅ)、永谷ながたに敬三けいぞうブリティッシュコロンビア大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)ら。

親族しんぞく[編集へんしゅう]

稲垣いながき光隆みつたか国税庁こくぜいちょう長官ちょうかんむすめ婿むこ[17]

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

学歴がくれき[編集へんしゅう]

職歴しょくれき[編集へんしゅう]

  • 1959ねん4がつ - 大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう主計しゅけいきょく総務そうむ
  • 1961ねん6がつ - 近畿財務局きんきざいむきょく理財りざい
  • 1962ねん6がつ - 東京とうきょう国税局こくぜいきょく調査ちょうさ査察ささつ
  • 1963ねん4がつ - 大臣だいじん官房かんぼう調査ちょうさ
  • 1964ねん4がつ - 関税かんぜいきょく総務そうむ係長かかりちょう
  • 1965ねん2がつ - 国際こくさい観光かんこう振興しんこうかい出向しゅっこう フランクフルト駐在ちゅうざい
  • 1968ねん8がつ - 主計しゅけいきょく法規ほうき課長かちょう補佐ほさ
  • 1970ねん7がつ - 主計しゅけいきょく主計しゅけいかん補佐ほさ建設けんせつがかり
  • 1972ねん6がつ - 主計しゅけいきょく総務そうむ課長かちょう補佐ほさ歳入さいにゅう企画きかく[18]
  • 1973ねん7がつ - 主計しゅけいきょく総務そうむ課長かちょう補佐ほさ企画きかく[19]
  • 1974ねん7がつ - 理財りざいきょく資金しきんだいいち課長かちょう補佐ほさ総括そうかつ企画きかく調査ちょうさ[20]
  • 1975ねん7がつ - 外務省がいむしょう研修けんしゅうしょ
  • 1976ねん7がつ - ざいドイツ連邦れんぽう大使館たいしかん参事官さんじかん
  • 1979ねん7がつ10日とおか - 主計しゅけいきょく主計しゅけいかんけん主計しゅけいきょく総務そうむ企画きかく
  • 1982ねん - 主計しゅけいきょく主計しゅけいかん建設けんせつ公共こうきょう事業じぎょう担当たんとう
  • 1983ねん6月7にち - 主計しゅけいきょく総務そうむ課長かちょう
  • 1983ねん6月16にち - 主計しゅけいきょく総務そうむ課長かちょうけん主計しゅけいきょく調査ちょうさ課長かちょう
  • 1983ねん6月21にち -主計しゅけいきょく総務そうむ課長かちょう
  • 1984ねん6月22にち - 大臣だいじん官房かんぼう文書ぶんしょ課長かちょうけん会計かいけい事務じむ職員しょくいん研修けんしゅう所長しょちょう[21]
  • 1985ねん6月28にち - 近畿財務局きんきざいむきょくちょう
  • 1986ねん6がつ10日とおか - 主計しゅけいきょく次長じちょう次席じせき)(地方ちほう財政ざいせい農林のうりん公共こうきょう事業じぎょう担当たんとう[22]
  • 1987ねん8がつ5にち - 主計しゅけいきょく次長じちょう筆頭ひっとう
  • 1988ねん6月15にち - 経済企画庁けいざいきかくちょう官房かんぼうちょう
  • 1990ねん6月29にち - 大臣だいじん官房かんぼうちょう
  • 1991ねん6月11にち - 主計しゅけい局長きょくちょう
  • 1993ねん6月25にち - 事務次官じむじかん
  • 1995ねん5月26にち - 退任たいにん[23]
  • 1995ねん5がつ26にち - きゅう大蔵省おおくらしょう 財政ざいせい金融きんゆう研究所けんきゅうじょ 顧問こもん
  • 1995ねん - 社団しゃだん法人ほうじん研究けんきゅう情報じょうほう基金ききん 理事りじちょう
  • 1995ねん - 財団ざいだん法人ほうじん国際こくさい金融きんゆう情報じょうほうセンター 顧問こもん
  • 2000ねん5月 - 東京とうきょう金融きんゆう先物さきもの取引とりひきしょ理事りじちょう就任しゅうにん[23]
  • 2004ねん4がつ - 東京とうきょう金融きんゆう先物さきもの取引とりひきしょ株式会社かぶしきがいしゃともな社長しゃちょう[23]
  • 2009ねん10月 - 日本にっぽん郵政ゆうせい代表だいひょう執行しっこうやく社長しゃちょう[23]
  • 2012ねん12月 - 日本にっぽん郵政ゆうせい社長しゃちょう退任たいにん
  • 2018ねん11月 - みずたから重光しげみつあきら受章じゅしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽん官庁かんちょう,そのひと組織そしき大蔵省おおくらしょう経済企画庁けいざいきかくちょう政策せいさく時報じほうしゃ、1991ねん発行はっこう、91ぺーじ
  2. ^ 倉重くらしげ篤郎とくろう秘録ひろく 齋藤さいとう次郎じろう 最後さいご大物おおもの官僚かんりょう戦後せんご経済けいざい光文社こうぶんしゃ、2022ねん7がつ12にち発行はっこう、86・87ぺーじ
  3. ^ 倉重くらしげ篤郎とくろう秘録ひろく 齋藤さいとう次郎じろう 最後さいご大物おおもの官僚かんりょう戦後せんご経済けいざい光文社こうぶんしゃ、2022ねん7がつ12にち発行はっこう、88ぺーじ
  4. ^ 出身しゅっしん官庁かんちょうである財務省ざいむしょう所管しょかんする外郭がいかく団体だんたいであり、いわゆる「天下あまくだ」と指摘してきされる。
  5. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』2009ねん10がつ21にち
  6. ^ 当時とうじ通産省つうさんしょうは「しん社会しゃかい資本しほん整備せいび」、大蔵省おおくらしょうは「増税ぞうぜい」のてんで「共闘きょうとう関係かんけい」にあったといわれていた。
  7. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』2007ねん11月16にちごう
  8. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』2009ねん10がつ21にちあさ夕刊ゆうかん
  9. ^ 2009ねん10がつ22にち フジテレビ。番組ばんぐみめいなど詳細しょうさい不明ふめい
  10. ^ “【主張しゅちょう郵政ゆうせいしん社長しゃちょうだつ官僚かんりょう」の看板かんばんいつわりか”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2009ねん10がつ22にち). https://web.archive.org/web/20091024071425/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091022/stt0910220316004-n1.htm 2009ねん10がつ22にち閲覧えつらん 
  11. ^ 郵政ゆうせいしん社長しゃちょうみんからかんへ、逆流ぎゃくりゅうですか”. 朝日新聞あさひしんぶん. (2009ねん10がつ22にち). http://www.asahi.com/paper/editorial20091022.html 2009ねん10がつ22にち閲覧えつらん 
  12. ^ 社説しゃせつ郵政ゆうせい社長しゃちょう人事じんじだつ官僚かんりょう」と矛盾むじゅんしないか”. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2009ねん10がつ22にち). http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20091022k0000m070127000c.html 2009ねん10がつ22にち閲覧えつらん 
  13. ^ “(しん社長しゃちょう日本にっぽん郵政ゆうせい社長しゃちょうさか 斎藤さいとう退任たいにん. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2012ねん12月19にち). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS18030_Y2A211C1MM8000/ 2019ねん2がつ9にち閲覧えつらん 
  14. ^ 日本にっぽん郵政ゆうせい財務省ざいむしょうこの姑息こそく政権せいけん空白くうはくねらった社長しゃちょう人事じんじ「2だいつづけてOB」”. J-CAST. (2012ねん12月20にち). https://www.j-cast.com/tv/2012/12/20158943.html?p=all 2019ねん2がつ9にち閲覧えつらん 
  15. ^ 自民じみん幹事かんじちょう日本にっぽん郵政ゆうせい社長しゃちょう人事じんじ批判ひはん 「ゆるされない」”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2012ねん12月19にち). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS19032_Z11C12A2PP8000/ 2019ねん2がつ9にち閲覧えつらん 
  16. ^ 自民じみん幹事かんじちょう郵政ゆうせい人事じんじ政府せいふ意向いこうかなくていいのか」”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2012ねん12月21にち). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFL21077_R21C12A2000000/ 2019ねん2がつ9にち閲覧えつらん 
  17. ^ ガバナンス・こくうごかす:だい1せいかん/4(その1) 屈服くっぷくした農水のうすい次官じかん - 毎日まいにちjp(毎日新聞まいにちしんぶん)
  18. ^ 職員しょくいんろく だい1大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1973ねん発行はっこう、483ぺーじ
  19. ^ 職員しょくいんろく だい1大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1974ねん発行はっこう、489ぺーじ
  20. ^ 職員しょくいんろく だい1大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1975ねん発行はっこう、493ぺーじ
  21. ^ 人事じんじ興信録こうしんろく だい43はん上巻じょうかん』2005ねん3がつ発行はっこう、98ぺーじ
  22. ^ 月刊げっかん官界かんかい だい12かんだい5~8ごう』1976ねん発行はっこう、44ぺーじ
  23. ^ a b c d 郵政ゆうせい社長しゃちょう斎藤さいとうもと大蔵おおくら次官じかん. 読売新聞よみうりしんぶん. (2009ねん10がつ21にち). https://web.archive.org/web/20091024223318/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/enterprises/jinji/20091021-OYT8T00703.htm 2009ねん10がつ30にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]


ビジネス
先代せんだい
西川にしかわ善文よしふみ
日本にっぽん郵政ゆうせい株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょう
だい2だい:2009ねん - 2012ねん
次代じだい
さか篤郎とくろう
官職かんしょく
先代せんだい
尾崎おざきまもる
大蔵おおくら事務次官じむじかん
だい31だい:1993ねん - 1995ねん
次代じだい
篠沢しのざわ恭助きょうすけ
先代せんだい
保田やすだひろし
大蔵省おおくらしょう主計しゅけい局長きょくちょう
1991ねん - 1993ねん
次代じだい
篠沢しのざわ恭助きょうすけ
先代せんだい
保田やすだひろし
大蔵省おおくらしょう大臣だいじん官房かんぼうちょう
1990ねん - 1991ねん
次代じだい
篠沢しのざわ恭助きょうすけ
先代せんだい
保田やすだひろし
経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかん官房かんぼうちょう
1988ねん - 1990ねん
次代じだい
寺村てらむら信行のぶゆき
先代せんだい
保田やすだひろし
大蔵省おおくらしょう主計しゅけいきょく次長じちょう筆頭ひっとう
1987ねん - 1988ねん
次代じだい
篠沢しのざわ恭助きょうすけ
先代せんだい
角谷かどや正彦まさひこ
大蔵省おおくらしょう主計しゅけいきょく次長じちょう次席じせき
1986ねん - 1987ねん
次代じだい
篠沢しのざわ恭助きょうすけ
先代せんだい
尾崎おざきまもる
近畿財務局きんきざいむきょくなが
1985ねん - 1986ねん
次代じだい
千野ちの忠男ただお
先代せんだい
尾崎おざきまもる
大蔵省おおくらしょう大臣だいじん官房かんぼう文書ぶんしょ課長かちょう
1984ねん - 1985ねん
次代じだい
千野ちの忠男ただお
先代せんだい
角谷かどや正彦まさひこ
大蔵省おおくらしょう主計しゅけいきょく総務そうむ課長かちょう
1983ねん - 1984ねん
次代じだい
篠沢しのざわ恭助きょうすけ
先代せんだい
尾崎おざきまもる
大蔵省おおくらしょう主計しゅけいきょく主計しゅけいかん
大蔵省おおくらしょう主計しゅけいきょく総務そうむ企画きかく

1979ねん - 1982ねん
次代じだい
篠沢しのざわ恭助きょうすけ