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新田にったよしぼう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
新田にったよしぼう
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん おう2ねん1162ねん
死没しぼつ たてひさ6ねん11月6にち1195ねん12月9にち
別名べつめい 太郎たろう
墓所はかしょ 群馬ぐんまけん太田おおた円福寺えんぷくじ
氏族しぞく 河内かわうちはじめ義国よしくにながれ新田にった
父母ちちはは ちち新田にった義兼よしかねははしょう
兄弟きょうだい ぼう足利あしかがよしじゅんしつ
政義まさよし新井あらいさとしよし甘粕あまかすしげるけん
テンプレートを表示ひょうじ

新田にった よしぼう(にった よしふさ)は鎌倉かまくら時代ときよ武将ぶしょうで、新田にったほん宗家そうけの3だい総領そうりょう新田にった蔵人くろうど新田にった義兼よしかね長男ちょうなん一人ひとり息子むすこわかいころは上西かみにしもんいんつかえた。 新田にった義貞よしさだらいまごたる。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

たてひさ6ねん1195ねん)にちち義兼よしかね先立さきだって34さいぼっした。そのため、祖父そふ新田にった義重よししげちちのこりょう継承けいしょうしたばかりの幼少ようしょうだった政義まさよし共同きょうどう後見こうけんやくとなった。

一方いっぽう元久もとひさ2ねん1205ねん)にちち義兼よしかね上野うえのこく新田にったそう12ヶきょう地頭じとう承認しょうにんされており、祖父そふ義重よししげが3ねんまえたてひとし2ねん1202ねん)に老衰ろうすいのため死去しきょし、本来ほんらいならば新田にったそう義兼よしかねのものになっているはずなので、よしぼう以前いぜん死没しぼつし、隠居いんきょしていた義兼よしかねがふたたび地頭じとうになり、まご政義まさよし後見人こうけんにんになったと、「将軍家しょうぐんけ政所まんどころしもぶん」(正木まさき文書ぶんしょ)にしるされてある。

なお、江戸えど時代じだい学者がくしゃ新井あらい白石はくせきぼう新井あらいさとし末裔まつえいとされ、新井あらい発祥はっしょう新田にったぐん新井あらいむら群馬ぐんまけん太田おおた)とされる。

先代せんだい
新田にった義兼よしかね
新田にった歴代れきだい当主とうしゅ
次代じだい
新田にった政義まさよし