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浦和うらわ画家がか

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浦和うらわ画家がか(うらわがか)は、埼玉さいたまけんきゅう浦和うらわげんさいたま)におお居住きょじゅうしていた文化ぶんかじん芸術げいじゅつ総称そうしょうである。浦和うらわにはとく画家がかおお居住きょじゅうアトリエかまえたことから、文学ぶんがくしゃおお鎌倉かまくらならんで「鎌倉かまくら文士ぶんし浦和うらわ画家がか」としょうされた。画家がか以外いがいにも彫刻ちょうこく詩人しじん居住きょじゅうし、文化ぶんかじん同士どうし交流こうりゅうさかんであった。人数にんずうすくなくなったが、2000年代ねんだい以降いこう画家がか居住きょじゅうしている。

概要がいよう

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浦和うらわ画家がかという言葉ことばひろまったのは、1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさい以降いこうである。震災しんさい以前いぜん著名ちょめい画家がかんでいたが、震災しんさい以降いこう増加ぞうかしたため、鎌倉かまくら文士ぶんしたいになるものとして浦和うらわ画家がかという言葉ことばまれた。

大震災だいしんさいによって東京とうきょう横浜よこはま壊滅かいめつてき被害ひがいけたが、台地だいち南端なんたん位置いちする浦和うらわ当時とうじ浦和うらわまち)は倒壊とうかい家屋かおくすくなく、東京とうきょう至近しきんわりには被害ひがいちいさかった(おおむね現在げんざい浦和うらわ区域くいきにあたる浦和うらわまち死者ししゃは3にん[1])。そのため大震災だいしんさい被災ひさいした東京とうきょう横浜よこはま文化ぶんかじんおおくが、県庁けんちょう所在地しょざいちであるがいた雰囲気ふんいきのこし、別荘べっそう住宅じゅうたくとしても人気にんきのあがりつつあった浦和うらわ移住いじゅうし、住居じゅうきょやアトリエを官公庁かんこうちょうからはややはなれた鹿島台かしまだい別所べっしょから常盤ひたちにかけての、別所べっしょぬまのぞ高台たかだい[2])にかまえた。昭和しょうわ初期しょきには40にん以上いじょう画家がかしゅうじゅうし、絵描えかむらのようだと報道ほうどうされ、浦和うらわアトリエむらともしょうされた[3]

最寄もよえき浦和うらわえき日本にっぽん鉄道てつどう東北本線とうほくほんせん)が開通かいつうした当初とうしょからあるえきで、出版しゅっぱん業者ぎょうしゃなどがある東京とうきょうにもちか便利べんりだったことから、その定住ていじゅうする傾向けいこうつよかった。また美術びじゅつ学校がっこう美術館びじゅつかんのある上野うえのえきへの利便りべんせい[2]理由りゆうげる画家がかおおかった。

浦和うらわ区内くないには埼玉さいたま県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかんうらわ美術館びじゅつかん所在しょざいし、浦和うらわ画家がかについての展示てんじおこなわれていた。2016ねんには、市内しないさいたまトリエンナーレ開催かいさいされた。

人物じんぶつ

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関東大震災かんとうだいしんさい以降いこう別所べっしょぬま周辺しゅうへん移住いじゅうしてきた画家がかたちを代表だいひょうてき浦和うらわ画家がかとみなすほか、震災しんさいまえから浦和うらわ居住きょじゅうしていた画家がか戦後せんご居住きょじゅうしていた画家がか広義こうぎ浦和うらわ画家がかとしてつらねている。

洋画ようが[4]
日本にっぽん画家がか

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 浦和うらわ通史つうしへんIII[ようページ番号ばんごう]
  2. ^ a b 安野やすのあきら, 渡邊わたなべあい, 窪田くぼた美穂子みほこ戦前せんぜん浦和うらわにおける宅地たくち進捗しんちょくとアトリエむら形成けいせい」『学術がくじゅつ講演こうえん梗概こうがいしゅう. 計画けいかくけいだい2002かん、2002ねん6がつ、339-340ぺーじCRID 1050001338039177984hdl:10457/1045 
  3. ^ 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん 昭和しょうわ6ねん8がつ18にち[ようページ番号ばんごう]
  4. ^ 浦和うらわ画家がかとその時代じだい うらわ美術館びじゅつかんへん[ようページ番号ばんごう]

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 青木あおきよしおさむ『さいたま歴史れきし文化ぶんかほん』さきたま出版会しゅっぱんかい、2014ねんISBN 4878914106 

関連かんれん項目こうもく

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