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石戸いしどはん

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石戸いしどはん(いしとはん)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき武蔵むさしこく足立あだちぐん石戸いしどりょう現在げんざい埼玉さいたまけん北本きたもと石戸宿いしとしゅく中心ちゅうしんとする地域ちいき)にかれたはん陣屋じんや川田谷かわたやむら現在げんざい桶川おけがわ川田谷かわたや)にかれた。

1633ねん牧野まきの信成のぶなりが1まん1000せき加増かぞうされて大名だいみょうれつしたものの、1644ねん関宿せきやどはんおも転出てんしゅつしたため、「石戸いしとはん」としての存続そんぞく期間きかんやく10ねんである。ただし、本領ほんりょうにあたる石戸いしどりょう5000せきは、徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入国にゅうこく信成のぶなりちち牧野まきの康成やすなりあたえられて以来いらい牧野ぼくや知行ちぎょうであり、はいはんもそのだい部分ぶぶん幕末ばくまついたるまで信成のぶなり子孫しそんにあたる旗本はたもと牧野ぼくや知行ちぎょうであった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

石戸藩の位置(埼玉県内)
松山
松山まつやま
岩槻
岩槻いわつき
浦和
浦和うらわ
川越
川越かわごえ
鴻巣
鴻巣こうのす
関宿
関宿せきやど
川田谷
川田谷かわたや
関連かんれん地図ちず埼玉さいたまけん[注釈ちゅうしゃく 1]
地図
1.川田谷かわたや陣屋じんや所在地しょざいち) 2.石戸いしどしろ 3.滝馬室たきまむろ石戸いしどりょう北端ほくたん) 4.小敷谷こしきや石戸いしどりょう南端なんたん

前史ぜんし[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい、この地域ちいき石戸いしどさとばれた[1]戦国せんごく初期しょき築城ちくじょうされたとされる石戸いしどしろ現在げんざい北本きたもと石戸宿いしとしゅくいしとしゅく)は[2][3]北足立きたあだちぐんいき最大さいだいとされるだい規模きぼしろ[3]岩槻いわつきじょういわづけじょう)と武蔵むさし松山まつやまじょうむす[4]大宮おおみや台地だいち北部ほくぶ戦略せんりゃく拠点きょてんであった[5]石戸宿いしとしゅくという地名ちめいは、戦国せんごく石戸いしど主要しゅよう交通こうつう路上ろじょうにあったことをしめすものである[6][7][注釈ちゅうしゃく 2]石戸いしどいわづけ太田おおた支配しはいにあった[6]

牧野まきの石戸いしどりょうにゅうふう[編集へんしゅう]

天正てんしょう18ねん(1590ねん)、徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入国にゅうこくすると、牧野まきのはんみぎ衛門えもん讃岐さぬきもり康成やすなり[注釈ちゅうしゃく 3]石戸いしどりょう5000せきあたえられた[8][9]。「石戸いしどりょう」は、滝馬室たきまむろ現在げんざい鴻巣こうのす南部なんぶ)から小敷谷こしきや上尾あげお西部せいぶ)にかけての地域ちいきであり[10]荒川あらかわ左岸さがん台地だいちじょうむら々である[5]

牧野まきの陣屋じんや川田谷かわたやむら現在げんざい桶川おけがわ川田谷かわたやかわたや)にかれ[11][注釈ちゅうしゃく 4]、「牧野まきの本陣ほんじんあと[11]ばれる。にゅうふう当時とうじ旧来きゅうらい土豪どごうそう勢力せいりょく依然いぜんとしてつよく、牧野まきの陣屋じんや居住きょじゅうして知行ちぎょう支配しはいおこなったとかんがえられる[11]

ぶんろく元年がんねん(1592ねん)、家康いえやすいのちにより、浄土宗じょうどしゅう古刹こさつである勝願寺しょうがんじ現在げんざい鴻巣こうのす本町ほんちょう)が牧野ぼくや檀那寺だんなでらとなったという[8]勝願寺しょうがんじ鎌倉かまくら時代じだい登戸のぶとむら現在げんざい鴻巣こうのす登戸のぶと付近ふきん)で創建そうけんされたが、戦乱せんらんのために荒廃こうはいし、天正てんしょう年中ねんじゅう鴻巣こうのす宿やど再建さいけんされた[13][注釈ちゅうしゃく 5]勝願寺しょうがんじ浄土宗じょうどしゅう関東かんとうじゅうはち檀林だんりんの1つにかぞえられる。

慶長けいちょう4ねん(1599ねん)3がつ8にち康成やすなり京都きょうとぼっし、牧野まきの信成のぶなりが15さい家督かとくいだ[8][14]信成のぶなり翌年よくねん関ヶ原せきがはらたたかいに従軍じゅうぐん[8]幕府ばくふ役職やくしょくだい番頭ばんがしら小姓こしょうぐみ番頭ばんがしら書院しょいん番頭ばんがしらすす[8][14]両度りょうどだいさかじんにも出陣しゅつじん[8]軍功ぐんこうがあった[14]寛永かんえい3ねん(1626ねん)に留守居るすいやくとなり2000せき加増かぞうされた[14]

石戸いしどはんやく10ねん[編集へんしゅう]

寛永かんえい10ねん(1633ねん)4がつ23にち信成のぶなりは4000せき加増かぞうけて合計ごうけい1まん1000せき知行ちぎょうし、大名だいみょうれつした[8][14]。これにより石戸いしどはんたてはんする[8]

寛永かんえい18ねん(1641ねん)、徳川とくがわ家綱いえつな出生しゅっしょうすると、信成のぶなりでん(かしづき)ににんじられた[8][15]正保まさやす元年がんねん1644ねん)3がつ18にち信成のぶなり下総しもうさこく関宿せきやどはん1まん7000せき加増かぞううつりふうされた[8]。これにより石戸いしどはんはいはんとなったとみなされる[注釈ちゅうしゃく 6]。ただし、後述こうじゅつとお石戸いしとりょう5000せきつづ牧野ぼくや一族いちぞくおさめることになる。

こう[編集へんしゅう]

勝願寺しょうがんじ鴻巣こうのす本町ほんちょう)。

信成のぶなり関宿せきやどうつりふうされたさい石戸いしどりょう5000せき信成のぶなり嫡男ちゃくなんである牧野まきのちかしなりちちとはべつ幕府ばくふ出仕しゅっしし、当時とうじ書院しょいん番頭ばんがしらつとめていた[15])の知行ちぎょうとしてあたえられた[8][15]正保しょうほう4ねん1647ねん)11月26にち信成のぶなり致仕ちしするとおやなり家督かとくぐが、おやなり知行ちぎょうであった石戸いしどりょう5000せきはそのまま信成のぶなり隠居いんきょりょうとしてあたえられた[8][15]

慶安けいあん3ねん(1650ねん)4がつ11にち信成のぶなりぼっし、鴻巣こうのす宿やど勝願寺しょうがんじほうむられた[15]石戸いしどりょう5000せきは、信成のぶなり庶子しょしおやなりおとうと)であるはち太夫たゆういんしげる(2000せき)、太郎左衛門たろうざえもんえいしげる(1500せき)、兵部ひょうぶなりぼうちょくなり。1500せき)の3にんによってけられた[8][16]以後いご、この3いえ末裔まつえい幕末ばくまつまで石戸いしどりょう領主りょうしゅつとめた[8]

大名だいみょうとしての牧野ぼくやは、おやなり丹後たんご田辺たなべはんうつりふうされて幕末ばくまつまでつづくが、歴代れきだい藩主はんしゅ勝願寺しょうがんじほうむられた[8][15]

歴代れきだい藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

牧野まきの

譜代ふだい。1まん1000せき

  1. 牧野まきの信成のぶなり(のぶしげ)

領地りょうち[編集へんしゅう]

石戸いしどりょう[編集へんしゅう]

石戸いしどがまかばザクラ北本きたもと石戸宿いしとしゅく)。東光寺とうこうじ境内けいだいにある、樹齢じゅれい800ねん以上いじょうとされる古木ふるき天然記念物てんねんきねんぶつ)。がま冠者かんじゃ源範頼みなもとののりよりゆかりとの伝承でんしょうゆうし、江戸えど時代じだい後期こうき曲亭馬琴きょくていばきん随筆ずいひつ玄同げんどう放言ほうげん』でげるなど、高名こうみょうであった[17][18][19]

天正てんしょう18ねん(1590ねん)8がつ1にち家康いえやす関東かんとう入国にゅうこくからあいだもない9がつ7にち代官だいかんあたま伊奈いな忠次ただつぐから牧野まきの康成やすなりに「知行ちぎょうしょりつ」という文書ぶんしょされている[10]。これによって康成やすなりに、畔吉あぜよし領家りょうけ小敷谷こしきや藤波ふじなみ以上いじょう現在げんざい上尾あげお)、日出谷ひでや川田谷かわたや現在げんざい桶川おけがわ)、石戸いしど八幡原はちまんぱら現在げんざい北本きたもと)、うましつ現在げんざい鴻巣こうのす)の石戸いしどりょうぜん8かそん5000せきわたされた[10][5]。5000せきという知行ちぎょうだかは、迅速じんそく知行ちぎょうわりおこなうために北条ほうじょう時代じだいぬきだかいだもので、天正てんしょう19ねん(1591ねん)に実際じっさいなわち(検地けんち)をおこない、過不足かふそく調整ちょうせいおこなわれたとられる[10][5]元和がんわ6ねん(1620ねん)の元和がんわ検地けんちころにはむら[注釈ちゅうしゃく 7]おこなわれ、たとえば「石戸いしとむら」は石戸宿いしとしゅくむらした石戸いしとむら荒井あらいむら高尾たかおむら分割ぶんかつされた(そのした石戸いしとむら下石戸上しもいしとかみむら下石戸下しもいしとしもむらけられた)[10]

江戸えど時代じだい後期こうきの『新編しんぺん武蔵むさしこく風土記ふどき稿こう』では、武蔵むさしこく足立あだちぐん区分くぶんとして「石戸いしどりょう」がげられ、以下いかの21かそんかぞえられる。石戸いしどりょうしょむらはおおむね牧野まきの一族いちぞく幕末ばくまつまで知行ちぎょうした[20][5]。ただしかくむらもち新田しんでんについては幕府ばくふりょうまれ[21]小林こばやしむらのように他家たけ知行ちぎょうとなったむらもある[22]

石戸いしどりょうむらのうち、下石戸上しもいしとかみむら下石戸下しもいしとしもむら石戸宿いしとしゅくむら高尾たかおむら荒井あらいむら近世きんせい初頭しょとうむらりまでの石戸いしとむら相当そうとうする)は、1889ねん町村ちょうそんせい施行しこうさいして石戸いしとむら編成へんせいした。

川田谷かわたや陣屋じんや[編集へんしゅう]

石戸いしどりょうの「本村もとむら」となされたのは石戸宿いしとしゅくむらであったが[11]牧野まきの陣屋じんや川田谷かわたやむらかれた[27][11][28]川田谷かわたやむらには平安へいあん時代じだい創建そうけんつたえる天台宗てんだいしゅう古刹こさつ泉福寺せんふくじがあり、中世ちゅうせいには三ツ木みつぎじょう城山しろやま公園こうえんのこす)やたけじょうなどのしろきずかれた[5]

近世きんせい川田谷かわたやむら東西とうざい14まち南北なんぼく1さとあまりむらいきゆうし、むらだか1200せきえる比較的ひかくてきおおきなむらで(元禄げんろくきょうちょう[28]陣屋じんやかれたのはむら北西ほくせい天沼あまぬまであった[注釈ちゅうしゃく 13]。なお、陣屋じんや所在地しょざいち現在げんざい地名ちめい桶川おけがわ川田谷かわたや大平おおひらであるが[31]大平おおひらは「土地とち台帳だいちょうじょうめい」で、自治じちかいなどのコミュニティの基盤きばんとなる「行政ぎょうせいうえ」としては天沼あまぬま地区ちくにあたる[32]

この陣屋じんやは「牧野まきの本陣ほんじん[11]、あるいは「牧野まきの陣屋じんや」「川田谷かわたや陣屋じんや[注釈ちゅうしゃく 14]ばれる。慶安けいあん3ねん(1650ねん)に信成のぶなりのこりょう隠居いんきょりょう)が3にん兄弟きょうだいにより分割ぶんかつされたさい川田谷かわたやむらも3分割ぶんかつされ、陣屋じんや牧野まきのひさしなり太郎左衛門たろうざえもん)の所領しょりょうふくまれることとなった[11]陣屋じんやがいつごろまであったかは不明ふめいであるが[11]元禄げんろく(1688ねん - 1704ねん)には旗本はたもと知行ちぎょうはなれて江戸えど常住じょうじゅうするようになっており[11]、このころまでに(領主りょうしゅ在住ざいじゅうして知行ちぎょう支配しはいおこなうという意味いみでの)陣屋じんや廃止はいしされたとられる[11]江戸えど時代じだい後期こうき文化ぶんか文政ぶんせい編纂へんさんされた『新編しんぺん武蔵むさしこく風土記ふどき稿こう』には、川田谷かわたやむらに「陣屋じんや」があることがしるされており[27]編纂へんさんには牧野まきのひさしなり子孫しそんである牧野まきのしげるすぐる大和やまともり長崎ながさき奉行ぶぎょうなどをつとめた人物じんぶつ)のものであるという[27][8]

日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい』によれば、陣屋じんや跡地あとち明治めいじ初年しょねんにおおむねそぎたいらされた[29]。21世紀せいきはいり、陣屋じんやあと付近ふきんには首都しゅとけん中央ちゅうおう連絡れんらく自動車じどうしゃどうけんひさしどう桶川おけがわ北本きたもとインターチェンジ建設けんせつされた[34][35]。2007ねん国道こくどう17ごう上尾あげお道路どうろ)の建設けんせつ工事こうじ先立さきだち、陣屋じんやあと周辺しゅうへんは「大平おおひら遺跡いせき」として発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれており[31][36]陣屋じんや関連かんれんする区画くかくみぞと、じゅいん後述こうじゅつ)に関連かんれんする遺構いこうなどが確認かくにんされている[37]

川田谷かわたや薬師堂やくしどうは、川田谷かわたや陣屋じんや所在しょざいしたことをしめ名残なごりで、「牧野まきのゆかり」の堂宇どううとも説明せつめいされる[34]。ただし、『新編しんぺん武蔵むさしこく風土記ふどき稿こう』には川田谷かわたや陣屋じんやないに「ふと神宮じんぐう八幡やはたごうしゃ」と「稲荷いなり弁天べんてんごうしゃ」の2つのしゃ鎮守ちんじゅとしてまつられていたとしるすものの[27]薬師堂やくしどうはこれとは直接ちょくせつむすびつかない。牧野まきの康成やすなりおとうとで、関ケ原せきがはら合戦かっせんでの負傷ふしょう契機けいき僧侶そうりょとなったえきしかいねん陣屋じんやちかくに「じゅいん」というてら建立こんりゅうしており(「じゅいん」は康成やすなり院号いんごう由来ゆらいする)[注釈ちゅうしゃく 15]、このじゅいん跡地あとちに、江戸えど時代じだい後期こうき建立こんりゅうされたのが川田谷かわたや薬師堂やくしどうであるという[40][注釈ちゅうしゃく 16]

石戸いしど御茶屋おちゃや[編集へんしゅう]

石戸宿いしとしゅくには徳川とくがわ御茶屋おちゃや石戸いしど御茶屋おちゃや)がかれていた[7]。この「御茶屋おちゃや」は、家康いえやすらが鴻巣こうのす御殿ごてんでのたかさいあしばしたり、にん川越かわごえでのたか往復おうふく途次とじ休憩きゅうけいしたりする場所ばしょであり、また主君しゅくんまねいて催行さいこうする遊猟ゆうりょうでもあった[7][8]御茶屋おちゃやあと北本きたもと石戸宿いしとしゅくろく丁目ちょうめ)には「御殿ごてん稲荷いなり」がある[7][41]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい
  2. ^ 戦国せんごくには石戸いしどしろ中心ちゅうしん各地かくちとをむす交通こうつうがあった[6]小田原おだわら北条ほうじょう勢力せいりょくでは、相模さがみこく武蔵むさしこくとをむす伝馬てんませい規定きていなかに、石戸いしどまれている[6]江戸えど時代じだいはい中山道なかせんどう整備せいびされるにつれて、石戸いしどとおみち広域こういき交通こうつうにな重要じゅうようせい低下ていかさせ、地域ちいき人々ひとびと生活せいかつのためのみち変化へんかしていった[6]
  3. ^ 牧野まきの一族いちぞくには康成やすなり」を名乗なのった人物じんぶつ複数ふくすういる。はんみぎ衛門えもん康成やすなりどう時代じだいには、もと三河みかわ牛久保うしくぼ城主じょうしゅで、関東かんとううつって以降いこう上野うえのこく大胡おおごで2まんせきりょうした牧野まきの新次郎しんじろうみぎうままこと康成やすなりがおり、しばしば混同こんどうされる。
  4. ^ はん城下町じょうかまち事典じてん』は、石戸いしどじょう天神山てんじんやまじょう)に入城にゅうじょうして陣屋じんやかまえたとする[12]
  5. ^ 登戸のぼりとには真言宗しんごんしゅう豊山とよやまてらとして勝願寺しょうがんじ再建さいけんされている。
  6. ^ はん城下町じょうかまち事典じてん』は、石戸いしどりょう牧野ぼくや知行ちぎょうとしてのこったことをまえつつ、「石戸いしとはん事実じじつじょう、ここではいはんとなった」と表現ひょうげんしている[12]
  7. ^ 中世ちゅうせいてきごうむらさい編成へんせいし、むらさかいむらいきさだめて近世きんせいてき行政ぎょうせいむら創出そうしゅつすること。
  8. ^ 明治めいじ初年しょねん原馬室はらまむろむら編入へんにゅう[23]
  9. ^ 北袋きたふくろむら江戸えど時代じだいさとちょうなどで荒井あらいむら枝郷えだごうとしてしるされるが、「きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう」ではえなくなっている[24]
  10. ^ 明治めいじ初年しょねん川田谷かわたやむら編入へんにゅう[25]
  11. ^ 小林こばやしむら牧野ぼくやりょうであったが、『新編しんぺん武蔵むさしこく風土記ふどき稿こう編纂へんさんには松平まつだいら2いえ松平まつだいら大和やまとまもる松平まつだいら十蔵じゅうぞう)の知行ちぎょうとある。江戸えど末期まっき明治めいじ初期しょき小敷谷こしきやむら編入へんにゅうされたとられる。現在げんざい小敷谷こしきや西端せいたんにある小林こばやしてらは、小林こばやしむら所在しょざいするてらであった[22]
  12. ^ 明治めいじ初年しょねん領家りょうけむら編入へんにゅう[26]
  13. ^ 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい』は「川田谷かわたやむら」のこうで「北西ほくせい天沼あまぬま」に陣屋じんやかまえたとする[29]。『新編しんぺん武蔵むさしこく風土記ふどき稿こう』では川田谷かわたやむらの「小名しょうみょう」が列挙れっきょされるなかに「天沼あまぬま」がげられている[30]
  14. ^ 埼玉さいたま中世ちゅうせいじょうかんあと』(埼玉さいたまけん教育きょういく委員いいんかい)では「牧野まきの陣屋じんや」、別名べつめい川田谷かわたや陣屋じんや」でせられているという[33]
  15. ^ えきしかについては『寛政かんせい』にも記載きさいがあるが、住職じゅうしょくとなったみるじゅいん所在地しょざいちを「足立あだちぐん天沼あまぬまむら」としている[14]足立あだちぐんない天沼あまぬまむら公称こうしょうしたむら大宮おおみやりょう天沼あまぬまむら現在げんざいのさいたま大宮おおみや天沼あまぬままち)があるのみであるが、ここでの「天沼あまぬまむら」は川田谷かわたやむらないの「天沼あまぬま」とられる。「大平おおひら遺跡いせき発掘はっくつでは、じゅいん関連かんれんする遺構いこう検出けんしゅつされた[37]。なお、牧野まきのちかしなり康成やすなりの50回忌かいきさいして関宿せきやどで「じゅてら」というてら創建そうけん[38]、さらにうつった丹後たんご田辺たなべ舞鶴まいづる)ではぜん領主りょうしゅ京極きょうごく菩提寺ぼだいじとして建立こんりゅうした瑞泰寺ずいたいじいでじゅてら改称かいしょうしている[39][38]
  16. ^ 新編しんぺん武蔵むさしこく風土記ふどき稿こう』には薬師堂やくしどう記載きさいがない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 二木ふたき謙一けんいち監修かんしゅう工藤くどうひろしただしへんはん城下町じょうかまち事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2004ねん 
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 埼玉さいたまけん地名ちめい平凡社へいぼんしゃ、1993ねん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]