わらわたけし

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わらわ たけし(どう もう)は、中国ちゅうごく小説しょうせつよんだい奇書きしょひとつである『みず滸伝』の登場とうじょう人物じんぶつ

梁山泊りょうざんぱくだいろくじゅうきゅう好漢こうかん退すさほしまれわり。渾名あだなこぼしこう(ほんこうしん)で、長江ながえれさせるミズチ意味いみし、およぎが達者たっしゃなのとこんこうりゅうしゅん腹心ふくしんであるため名付なづけられたとおもわれる。わらわとは兄弟きょうだいでともにしゅんしたい、しゅん梁山泊りょうざんぱくへの入山にゅうざん離脱りだつさいにもこれにしたがった。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

わらわたけししゅう掲陽みね兄貴あにきぶんしゅんあにわらわ一緒いっしょらしており、しゅんしお密売みつばい手伝てつだっていた。

あるときしゅん義士ぎしとして名高なだかそうこうためつみおかしゅうながされてくるとき、しゅんわらわ兄弟きょうだいはこれを出迎でむかえようとしていたが、それをらないだてそういちぎょうしびやくりのさけりつぶしてしまう。これをったしゅんあわててそうこうたちを介抱かいほうさせ、わらわ兄弟きょうだいもこれをきっかけにそういになった。しばらくしてしゅう労役ろうえきいていたそうこう無実むじつつみせられて、労役ろうえきじんの戴宗とともに処刑しょけいされるというらせがはいる。しゅんたちはきよしひろしきよしはる兄弟きょうだいちょうよこちょうじゅん兄弟きょうだいとともに縄張なわば一体いったい船乗ふなのりを動員どういんしてにん救出きゅうしゅつするべく長江ながえくだり、わらわ兄弟きょうだいもこれにしたがう。一行いっこうが、しゅうくとあきらぶたはじめとする梁山泊りょうざんぱくぜい二人ふたり救出きゅうしゅつしており官軍かんぐんわれていたためすかさず全員ぜんいんふねせて退避たいひきよしひろ屋敷やしき逗留とうりゅうしたのち二人ふたりつみせたぶん炳に制裁せいさいくわえたのち、そのまま梁山泊りょうざんぱく合流ごうりゅうした。

わらわ兄弟きょうだいははじめ梁山泊りょうざんぱく西にしあらたにもうけられた居酒屋いざかやまかされ、ここで情報じょうほう収集しゅうしゅう見張みはりを担当たんとうしゅくそうせん終了しゅうりょう直後ちょくご水軍すいぐん異動いどうとなる。よびのべとのたたかいや、せきまさるらえられたちょうよこ阮小なな救出きゅうしゅつしたりと、しゅんしたがって活躍かつやくひゃくはちほし集結しゅうけつつづ水軍すいぐんしょうとして活躍かつやくした。官軍かんぐんとのたたかいでもしゅんとともに官軍かんぐん水軍すいぐん散々さんざんやぶり、わらわ兄弟きょうだいてきしょう一人ひとりりにした。梁山泊りょうざんぱく朝廷ちょうてい帰順きじゅんしたのちしゅんしたがって活躍かつやくするが、あくまで自由じゆうもとめるしゅん水軍すいぐんしゅ次第しだい梁山泊りょうざんぱく徹底てっていした官軍かんぐんへの恭順きょうじゅん方針ほうしん懐疑かいぎてきになってき、とく二人ふたりおもしゅん反発はんぱつつよかった。

ほうめのさいしゅんとともにたい周辺しゅうへんむ、4にん緑林りょくりん好漢こうかんらにかた臘軍のしょう勘違かんちがいされらえられてしまうが、わらわ兄弟きょうだいしゅんに「兄貴あにき一緒いっしょぬなら本望ほんもうです。けれどもこのまま兄貴あにき名前なまえうずもれてしまうことだけが残念ざんねんでなりません」と心情しんじょう吐露とろする。しかし誤解ごかいけたのちかれらとけ、二人ふたりしゅんとともに義兄弟ぎきょうだいちぎりをむすぶ。このときしゅんは4にん自由じゆうのままにきるかんがえにおおきく共感きょうかんし、ほうろうめがわったのち開封かいふうへの凱旋がいせん途中とちゅう病気びょうきりをして、梁山泊りょうざんぱくいちぎょうから離脱りだつ、このときしゅんわらわ兄弟きょうだい看病かんびょうためのこしてしいともうれたので、二人ふたりいちぎょうから離脱りだつした。そのしゅんらとともに暹羅しゃむ(ただし、これは現在げんざいタイ王国おうこく位置いちではない。『みず滸後でん』には澎湖列島れっとうかいの島々しまじまとある)に出航しゅっこうして、そこでおうになるが、わらわ兄弟きょうだいもそこで高官こうかんとなった。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]