もりきょう

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もりきょう

もり きょう(と こう)は、中国ちゅうごく小説しょうせつよんだい奇書きしょひとつである『みず滸伝』にてくる登場とうじょう人物じんぶつ梁山泊りょうざんぱくだいはちじゅうきゅう好漢こうかんで、ぜんほしまれわり。かおおおきく、あご角張かくばり、つきがするどみみくちおおきいという強面こわおもて巨漢きょかんで、おにのようにおそろしいかおをしているということからおに臉児(きれんじ)と渾名あだなされた。棒術ぼうじゅつ拳法けんぽう使つかだがうでほうではなく、容姿ようしとは裏腹うらはら真面目まじめ義理堅ぎりがた常識じょうしきじんであり、前述ぜんじゅつ堅実けんじつ性格せいかくおうした執事しつじつとめていた前歴ぜんれきわれ、梁山泊りょうざんぱくでは裏方うらかたでの事務じむてき作業さぎょう従事じゅうじした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

中山ちゅうざん出身しゅっしん行商ぎょうしょうじんで、あざみしゅう商売しょうばい仲間なかまといざこざをこしてあやまってなぐころしてしまうが、牢役人ろうやくにん楊雄弁護べんご釈放しゃくほうされた。その鄆州どく竜岡たつおかさんいえそうひとつ、そう庄屋しょうやおう見込みこまれて屋敷やしき使用人しようにんとなり、最終さいしゅうてき主管しゅかん執事しつじ)をまかされるほどの信頼しんらいけた。ある荘内そうない居酒屋いざかや使つかいにさい恩人おんじん・楊雄とその義弟ぎていいししゅうおもいがけず再会さいかい2人ふたりあざみしゅう殺人さつじんおか逃亡とうぼうしていたが、しゅくそうかれらの仲間なかまどきらわれたということで、もりきょう以前いぜんおんむくいようと、2人ふたり主人しゅじんおう紹介しょうかいした。そうしゅくそう同盟どうめい関係かんけいにあったため、おうとき釈放しゃくほうもとめる手紙てがみき、もりきょうがこれをとどけにくが、しゅくさん兄弟きょうだいっぱねられ、つぎおうみずか出向でむくが、かけられて怪我けがった。楊雄といししゅう梁山泊りょうざんぱくのがれ、これがきっかけで梁山泊りょうざんぱくしゅくそうこうそう勃発ぼっぱつするが、おう山賊さんぞく仲間なかまだとおもわれることをおそれて、屋敷やしきもどって静観せいかんたもち、もりきょうもこれにしたがった。しかし、しゅくそう梁山泊りょうざんぱくたたかいがわるとしゅう知事ちじともあらわれ、梁山泊りょうざんぱく内通ないつうしたとしておうもりきょう逮捕たいほされた。じつはこれは2人ふたり梁山泊りょうざんぱくくわえようとするよう計略けいりゃくで、いちぎょう梁山泊りょうざんぱく一味いちみ変装へんそうした偽物にせものであった。2人ふたりされているあいだに、屋敷やしきかれてしまい、一族郎党いちぞくろうとうすで梁山泊りょうざんぱくまれていたので、しぶしぶながら梁山泊りょうざんぱくせた。

梁山泊りょうざんぱく入山にゅうざん什器じゅうき管理かんりしゃという事務じむかた職務しょくむまかされ、ひゃくはちほし集結しゅうけつしゅたか相役あいやくとして、みなみさけてん勤務きんむ情報じょうほう収集しゅうしゅう来客らいきゃく応対おうたい従事じゅうじした。官軍かんぐんとのたたかいでは水夫すいふ変装へんそうしててき潜入せんにゅうし、てきしょうっている。梁山泊りょうざんぱく朝廷ちょうてい帰順きじゅんしたのちは、後方こうほう守備しゅびたいくわわったり、おう配下はいかゆうげきたいくわわるなどしたが、てて手柄てがらてなかった。ほう戦後せんごたけ奕郎・みやこみつるりょう官職かんしょくさずかるが、おうしょくしたのにしたがってどく竜岡たつおかもどり、もとのように富豪ふごうになったおうつかえて余生よせいごした。