第 だい 二 に 次 じ シュレージエン戦争 せんそう (独 どく : Zweiter Schlesischer Krieg )は、1744年 ねん から1745年 ねん にかけてシュレージエン の帰属 きぞく を巡 めぐ って行 おこな われたプロイセン とオーストリア の戦争 せんそう 。オーストリア継承 けいしょう 戦争 せんそう を構成 こうせい する戦役 せんえき の一 ひと つで、2度目 どめ のシュレージエン戦争 せんそう である。
マリア・テレジア
1742年 ねん 6月11日 にち のブレスラウ条約 じょうやく によって第 だい 一 いち 次 じ シュレージエン戦争 せんそう を終 お わらせたオーストリアは、その戦力 せんりょく をフランス 、バイエルン 連合 れんごう に集中 しゅうちゅう できるようになった。オーストリアは条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご から攻勢 こうせい に出 で て、夏 なつ から冬 ふゆ にかけての戦役 せんえき でベーメン を奪回 だっかい し、1743年 ねん 春 はる にはバイエルン本領 ほんりょう を再 ふたた び占領 せんりょう した。その後 ご オーストリア軍 ぐん は、大陸 たいりく に上陸 じょうりく してきたイギリス 軍 ぐん と共 とも にライン 右岸 うがん で活発 かっぱつ に活動 かつどう し、フランス軍 ぐん を後退 こうたい させて戦況 せんきょう を大 おお いに優位 ゆうい なものとし、ヴォルムス条約 じょうやく によってオランダ 、サルデーニャ 、加 くわ えてザクセン を味方 みかた に引 ひ き入 い れた。
このような状況 じょうきょう はフリードリヒ大王 だいおう に大 おお きな危機 きき 感 かん を持 も たせた。大王 だいおう は自国 じこく の戦線 せんせん 離脱 りだつ によって戦況 せんきょう が急 きゅう にオーストリア優位 ゆうい に傾 かたむ くとは予測 よそく しておらず、オーストリアを過小 かしょう 評価 ひょうか していた形 かたち となった。大王 だいおう はマリア・テレジア がシュレージエンの強奪 ごうだつ を深 ふか く恨 うら みに思 おも っていることを知 し っており、もしオーストリア優位 ゆうい のまま戦争 せんそう が進 すす めば、遠 とおざ からずシュレージエンの奪回 だっかい を求 もと めてプロイセンに報復 ほうふく 戦争 せんそう を仕掛 しか けてくるだろうことは容易 ようい に予想 よそう された。大王 だいおう は芸術 げいじゅつ 活動 かつどう に取 と り組 く んだり、フランスからヴォルテール を招 まね いて歓談 かんだん するなどして平素 へいそ の風 かぜ を装 よそお いつつ、オーストリアの戦況 せんきょう を油断 ゆだん なく見張 みは り続 つづ け、軍 ぐん の増強 ぞうきょう に余念 よねん がなかった。特 とく に第 だい 一 いち 次 じ シュレージエン戦争 せんそう で脆弱 ぜいじゃく 性 せい を露呈 ろてい した騎兵 きへい の改善 かいぜん には力 ちから が注 そそ がれ、加 くわ えて1743年 ねん 秋 あき には大 だい 規模 きぼ な軍事 ぐんじ 演習 えんしゅう を行 おこな った。
1743年 ねん の冬 ふゆ からプロイセンはフランスおよびバイエルンと交渉 こうしょう を始 はじ め、同盟 どうめい の再 さい 構築 こうちく に向 む けて動 うご き出 だ した。1744年 ねん 5月 がつ 22日 にち にはプロイセン、バイエルンにプファルツ 、ヘッセン=カッセル を加 くわ えたドイツ4領 りょう 邦 くに によるフランクフルト同盟 どうめい が結 むす ばれ、ハプスブルクに押 お されている皇帝 こうてい カール7世 せい の勢力 せいりょく を回復 かいふく させることを確認 かくにん した。このときバイエルンとの間 あいだ では、皇帝 こうてい のためにベーメン王国 おうこく を取 と り戻 もど す代償 だいしょう として、プロイセンに北 きた ベーメンを、具体 ぐたい 的 てき にはエルベ川 がわ 北岸 ほくがん 領域 りょういき および対岸 たいがん のケーニヒグレーツ 、パルドビッツ 、コリン を割譲 かつじょう することを取 と り決 き めていた。同様 どうよう に6月5日 にち にはフランスとの間 あいだ にパリ条約 じょうやく [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] が成立 せいりつ し、両国 りょうこく は再 ふたた び協力 きょうりょく してオーストリアと戦 たたか うことになった。
並行 へいこう して大王 だいおう は、背後 はいご を固 かた めるために2つの縁組 えんぐみ を成立 せいりつ させた[ 1] 。一 ひと つはスウェーデン と自家 じか との間 あいだ の縁組 えんぐみ で、この頃 ころ ロシア との戦争 せんそう に敗 やぶ れたスウェーデンでは後継 こうけい が問題 もんだい となっていたのが、ホルシュタイン=ゴットルプ家 か のアドルフ・フレドリク が王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ に決 き まったことを受 う けて妹 いもうと ルイーゼ・ウルリーケ を嫁 とつ がせ、スウェーデンを縁戚 えんせき とした。もう一 ひと つはロシアとの縁組 えんぐみ で、女帝 にょてい エリザヴェータ が皇太子 こうたいし ピョートル(後 ご のピョートル3世 せい )の妃 ひ に、プロイセンに仕 つか えるアンハルト=ツェルプスト侯 こう クリスティアン・アウグスト の娘 むすめ ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ(後 ご のエカチェリーナ2世 せい )を希望 きぼう しているのを熱心 ねっしん に仲介 ちゅうかい して、彼女 かのじょ をサンクトペテルブルク に送 おく り届 とど けた。大王 だいおう はこれによって女帝 にょてい の歓心 かんしん を買 か うとともに、ロシア帝室 ていしつ に自国 じこく の息 いき のかかった人物 じんぶつ を送 おく り込 こ むことでロシアの外交 がいこう 政策 せいさく に影響 えいきょう を与 あた えることを期待 きたい していた。
このようにプロイセンが準備 じゅんび 万 まん 端 はし 整 ととの える中 なか 、ロートリンゲン公子 こうし カール (後 ご の皇帝 こうてい フランツ1世 せい の弟 おとうと )率 ひき いるオーストリア軍 ぐん 主力 しゅりょく 部隊 ぶたい はライン川 がわ を越 こ えてエルザス に進出 しんしゅつ し、フランス領 りょう に侵入 しんにゅう した。オーストリアの目的 もくてき はシュレージエンに劣 おと らぬ因縁 いんねん の地 ち であるロートリンゲン(ロレーヌ) をフランスから奪 うば い返 かえ すことであったが、オーストリアがロートリンゲン目指 めざ してラインの彼方 かなた に深入 ふかい りするであろうことを大王 だいおう は予測 よそく していた。プロイセンが再 ふたた び戦争 せんそう に加 くわ わることに重臣 じゅうしん 一同 いちどう は強 つよ く反対 はんたい したが、大王 だいおう はオーストリアにシュレージエンを諦 あきら めさせるには今 いま 一 いち 度 ど 参戦 さんせん して徹底的 てっていてき に叩 はた き、戦意 せんい と勢力 せいりょく を失 うしな わせるしかないと主張 しゅちょう してこれを退 しりぞ けた。7月12日 にち 、プロイセンにオーストリア軍 ぐん ライン渡河 とか の知 し らせが届 とど くと、大王 だいおう はフランスに近日 きんじつ 中 ちゅう の参戦 さんせん のベーメン入 い りを通告 つうこく し、取 と り決 き め通 どお りフランス軍 ぐん はオーストリア軍 ぐん を追 お って東西 とうざい からこれを挟撃 きょうげき することを求 もと め、連絡 れんらく 武官 ぶかん としてシュメッタウ を派遣 はけん した。大王 だいおう はオーストリア軍 ぐん の主力 しゅりょく が不在 ふざい の時 とき を見計 みはか らって攻撃 こうげき することによって1740年 ねん 冬 ふゆ の戦略 せんりゃく 的 てき 奇襲 きしゅう を再現 さいげん しようとしていた。
1744年 ねん のベーメン地図 ちず 。中央 ちゅうおう がプラハ
戦争 せんそう 再開 さいかい にあたって大王 だいおう が描 えが いていた計画 けいかく は次 つぎ のようなものであった。すなわち、プロイセン軍 ぐん はベーメンを占領 せんりょう して冬営 とうえい 地 ち とするとともに一気 いっき にドナウ川 がわ まで南進 なんしん し、バイエルンと連絡 れんらく をつけ、かつウィーン とカール公子 こうし 軍 ぐん の連絡 れんらく を断 た つ。フランス軍 ぐん と皇帝 こうてい 軍 ぐん は急遽 きゅうきょ 撤退 てったい するオーストリア軍 ぐん を追撃 ついげき して、迅速 じんそく な撤退 てったい を妨 さまた げつつライン右岸 うがん に冬営 とうえい 地 ち を得 え る。イギリス軍 ぐん が応援 おうえん に駆 か けつけるようなら、フランス軍 ぐん の一部 いちぶ でハノーファー を攻撃 こうげき し、これを阻止 そし する。冬 ふゆ 明 あ け後 ご 、すみやかに両 りょう 軍 ぐん はベーメン西部 せいぶ かバイエルンにおいて進退 しんたい 窮 きわ まったオーストリア軍 ぐん を挟撃 きょうげき 殲滅 せんめつ してウィーンに降伏 ごうぶく を迫 せま り、戦争 せんそう 終結 しゅうけつ に持 も ち込 こ む。
8月 がつ 2日 にち 、動員 どういん されたプロイセン軍 ぐん 9万 まん 余 あまり は進軍 しんぐん を開始 かいし した。プロイセン軍 ぐん は4つに分 わ かれ、うち3つがベーメンに侵入 しんにゅう した。大王 だいおう 軍 ぐん 4万 まん はザクセンの真 ま ん中 なか を横断 おうだん し、ピルナ でエルベ 左岸 さがん に渡 わた り、以後 いご エルベ川 がわ 沿 ぞ いに南下 なんか してロボジッツ 経由 けいゆ でプラハ を目指 めざ した。若 わか デッサウ率 ひき いる1万 まん 5千 せん はナイセ川 がわ 沿 そ いにザクセン東部 とうぶ を南下 なんか し、ラウジッツ のツィッタウ からベーメンに入 はい ると一旦 いったん 西南 せいなん に向 む かってエルベ川 がわ に出 で 、ライトメリッツ から大王 だいおう 軍 ぐん と並行 へいこう してエルベ川 がわ 右岸 うがん を下 くだ り、さらに東進 とうしん してアルト・ブンツラウ 、ブランダイス を占領 せんりょう して北 きた からプラハに向 む かう。シュレージエンのグラッツ から進発 しんぱつ するシュヴェリーン 軍 ぐん 1万 まん 5千 せん はひたすら西進 せいしん してケーニヒグレーツからエルベ沿 ぞ いに東 ひがし からプラハに接近 せっきん した。上 うえ シュレージエン のマルヴィッツ 軍 ぐん 2万 まん は、メーレン のオルミュッツ に進出 しんしゅつ して主力 しゅりょく のベーメン攻略 こうりゃく を援護 えんご した。またエルベ川 がわ の水運 すいうん を利用 りよう して、各種 かくしゅ 物資 ぶっし およびプラハ攻略 こうりゃく のために用 もち いる重砲 じゅうほう を数 すう 百 ひゃく の舟 ふね で輸送 ゆそう した。
迅速 じんそく にベーメンに侵入 しんにゅう するために大王 だいおう はザクセン通過 つうか を選 えら んだ。ポーランド王 おう 兼 けん ザクセン選 せん 帝 みかど 侯 こう アウグスト3世 せい は圧倒的 あっとうてき に優勢 ゆうせい なプロイセン軍 ぐん の前 まえ に抵抗 ていこう することができず、プロイセンの通行 つうこう 許可 きょか の要求 ようきゅう を呑 の まざるを得 え なかったが、プロイセン軍 ぐん の通過 つうか 後 ご ただちにザクセン軍 ぐん をオーストリア軍 ぐん との合流 ごうりゅう に向 む かわせた。
大王 だいおう は戦争 せんそう 再 さい 参戦 さんせん にあたって、オーストリアに不当 ふとう に迫害 はくがい されている皇帝 こうてい を救援 きゅうえん すると称 しょう し、帝国 ていこく に秩序 ちつじょ と平和 へいわ をもたらすためにオーストリアを討 う つと宣言 せんげん して、8月 がつ 7日 にち 、ドーナ伯 はく によってオーストリアに宣戦 せんせん 布告 ふこく し、また国民 こくみん に向 む けて同様 どうよう の布 ぬの 告文 こくぶん を書 か いた。オーストリアは、エルザスのカール公子 こうし 軍 ぐん にただちの撤退 てったい を命 めい ずるとともに、バイエルンに駐屯 ちゅうとん していたバッチャーニ 軍 ぐん 2万 まん をベーメンに急派 きゅうは してなんとか時間 じかん を稼 かせ ごうとした。マリア・テレジアは再 ふたた びプレスブルク に赴 おもむ いてハンガリー貴族 きぞく にさらなるハンガリー軍 ぐん の動員 どういん を要請 ようせい した。
8月 がつ 後半 こうはん から9月 がつ 初頭 しょとう にかけてプロイセン軍 ぐん は順次 じゅんじ ベーメンに侵入 しんにゅう しつつあり、8月 がつ 28日 にち にはライトメリッツを占領 せんりょう 、若 わか デッサウ軍 ぐん と大王 だいおう 軍 ぐん は会同 かいどう を果 は たし、9月2日 にち にはプロイセン軍 ぐん はプラハ郊外 こうがい に到着 とうちゃく した。プラハは民兵 みんぺい がその過半 かはん を占 し める1万 まん 4千 せん の兵 へい によって守 まも られていた。オーストリアはテシェン において、エルベ川 がわ に杭 くい を打 う ち込 こ み舟 ぶね を沈 しず めて通行 つうこう を不可能 ふかのう にしていたため、重砲 じゅうほう の到着 とうちゃく が遅 おく れた。援護 えんご のためにバッチャーニは軍 ぐん の一部 いちぶ を率 ひき いてベラウン に進出 しんしゅつ し、プラハへの接近 せっきん を図 はか ったが、プロイセンも9月 がつ 5日 にち 、部隊 ぶたい を送 おく ってこれを攻撃 こうげき させ、バッチャーニはプラハ援護 えんご を断念 だんねん してピルゼン に撤退 てったい した。
9月8日 にち に遅 おく れていた重砲 じゅうほう が到着 とうちゃく し、本格 ほんかく 的 てき なプラハ攻 おさむ 城 しろ 戦 せん が開始 かいし された。途中 とちゅう 12日 にち にはオーストリアの砲撃 ほうげき により王族 おうぞく の一人 ひとり フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート(1714年 ねん - 1744年 ねん 、フリードリヒ2世 せい の義弟 ぎてい ブランデンブルク=シュヴェート 辺境 へんきょう 伯 はく フリードリヒ・ヴィルヘルム の同名 どうめい の従弟 じゅうてい )が戦死 せんし するアクシデントがあったものの、9月16日 にち 、プロイセン軍 ぐん の猛 もう 砲撃 ほうげき に抵抗 ていこう しかねてプラハは降伏 ごうぶく した。プラハ市 し は改 あらた めて皇帝 こうてい に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか わせられ、軍 ぐん 税 ぜい が課 か せられた。
プロイセンフザール
ベーメンにおける戦争 せんそう は大王 だいおう の計画 けいかく 通 どお りに進 すす んでいたが、すでにこの時点 じてん で重大 じゅうだい な誤算 ごさん が生 しょう じつつあった。8月8日 にち 、出征 しゅっせい していたルイ15世 せい がメッツ で急病 きゅうびょう に倒 たお れ、一時 いちじ 危篤 きとく に陥 おちい って終 おわり 油 ゆ の秘跡 ひせき を受 う けるほどであったため、フランス軍 ぐん 全体 ぜんたい の指揮 しき が混乱 こんらん し、撤退 てったい を図 はか るオーストリア軍 ぐん へ有効 ゆうこう な追撃 ついげき も妨害 ぼうがい も行 おこな うことができなかったのである。王 おう はまもなく回復 かいふく したが、戦争 せんそう への興味 きょうみ を失 うしな い帰国 きこく してしまった。8月23日 にち から24日 にち にかけてオーストリア軍 ぐん はライン川 がわ の逆 ぎゃく 渡河 とか に成功 せいこう し、ハイルブロン で態勢 たいせい を整 ととの えたのちベーメンに急行 きゅうこう しつつあった。
このような状況 じょうきょう の中 なか で、プラハ制圧 せいあつ 後 ご のプロイセン軍 ぐん には、ピルゼンのバッチャーニ軍 ぐん を駆逐 くちく してベーメン内 ない のオーストリアの反撃 はんげき 拠点 きょてん を無 な くし、ベーメン北半 きたはん の占領 せんりょう を確 たし かなものにして冬営 とうえい の準備 じゅんび を整 ととの え、次 つぎ の季 き 節 ぶし を待 ま つという選択肢 せんたくし もあった。しかし大王 だいおう はこの策 さく を取 と らなかった。大王 だいおう はフランス軍 ぐん によるオーストリア軍 ぐん 足止 あしど めが失敗 しっぱい したことは知 し っていたが、フランス軍 ぐん も遠 とおざ からずこれを追 お って来 く ると期待 きたい していた。
ところが大王 だいおう の期待 きたい に反 はん して、フランス軍 ぐん はその後 ご も消極 しょうきょく 的 てき な作戦 さくせん に終始 しゅうし し、シュメッタウの執拗 しつよう な要請 ようせい にもかかわらず、せいぜいフライブルク への攻撃 こうげき のみを行 おこな ってオーストリア軍 ぐん を追撃 ついげき しなかった。もう一 ひと つの味方 みかた であるゼッケンドルフ の皇帝 こうてい 軍 ぐん も、戦力 せんりょく を賭 と してオーストリア軍 ぐん への実効 じっこう ある妨害 ぼうがい を行 おこな うようなことはせず、むしろオーストリア軍 ぐん が去 さ るのを待 ま ってからバイエルンを回復 かいふく するのを喜 よろこ ぶような状態 じょうたい であった。
大王 だいおう はプラハ占領 せんりょう から時 とき を置 お かず、ただちに南下 なんか を開始 かいし した。プラハ守備 しゅび のためにアインジーデル と5千 せん 人 にん を残 のこ し、残 のこ りの全 ぜん 軍 ぐん でターボル を、そこからフラウエンベルク 、さらにはブトヴァイス を目指 めざ した。前衛 ぜんえい はナッサウ が務 つと め、大王 だいおう とシュヴェリーン率 ひき いる本隊 ほんたい はプラハから東南 とうなん のピシェリュ でサザワ川 がわ を渡 わた ってターボルに直進 ちょくしん 、若 わか デッサウの部隊 ぶたい は本隊 ほんたい の側面 そくめん を援護 えんご してモルダウ川 がわ 沿 ぞ いを行進 こうしん し、ポサドフスキー が本隊 ほんたい に続 つづ いて後衛 こうえい と補給 ほきゅう 部隊 ぶたい を率 ひき いた。補給 ほきゅう 部隊 ぶたい はモルダウ東岸 とうがん の起伏 きふく の多 おお い地形 ちけい と貧弱 ひんじゃく な道路 どうろ に悩 なや まされることになった。
強力 きょうりょく なナッサウの前衛 ぜんえい 部隊 ぶたい は9月23日 にち にターボルを占領 せんりょう し、30日 にち にはブトヴァイスを占領 せんりょう 、翌 よく 10月 がつ 1日 にち には抵抗 ていこう していたフラウエンベルクも陥落 かんらく した。大王 だいおう の本隊 ほんたい も27日 にち にターボルに到着 とうちゃく し、プロイセン軍 ぐん の進軍 しんぐん は非常 ひじょう に順調 じゅんちょう なように思 おも われたが、すでに破局 はきょく の前兆 ぜんちょう が現 あらわ れ始 はじ めていた。
プロイセン軍 ぐん は千 せん 数 すう 百 ひゃく 両 りょう の荷馬 にうま 車 しゃ と数 すう 千 せん 頭 とう の馬 うま および牛 うし を用意 ようい して戦争 せんそう に臨 のぞ んだが、それでも必要 ひつよう な分 ぶん の食糧 しょくりょう を用意 ようい することはできず、当時 とうじ の戦争 せんそう ではいつもそうだったように現地 げんち 調達 ちょうたつ に多 おお くを頼 たよ っていた。ところがプラハから南下 なんか を始 はじ めて間 あいだ もなく、現地 げんち における物資 ぶっし 調達 ちょうたつ が著 いちじる しく困難 こんなん であることが明 あき らかになった。
理由 りゆう の第 だい 一 いち は、この地域 ちいき が1741年 ねん から1743年 ねん まで戦場 せんじょう となっていたことから、もともと調達 ちょうたつ できるような余剰 よじょう の物資 ぶっし が少 すく なかったことである。オーストリア継承 けいしょう 戦争 せんそう 前半 ぜんはん においてモルダウ川 がわ はフランス軍 ぐん 、バイエルン軍 ぐん 、オーストリア軍 ぐん の攻防 こうぼう の焦点 しょうてん となり、彼 かれ らによって現地 げんち 調達 ちょうたつ が繰 く り返 かえ された結果 けっか 、麦 むぎ や飼葉 かいば の貯蔵 ちょぞう がもともと無 な かったのである。
理由 りゆう の第 だい 二 に は、オーストリアのベーメンにおける統制 とうせい 強化 きょうか である。継承 けいしょう 戦争 せんそう 初期 しょき にベーメン貴族 きぞく たちがオーストリアを見限 みかぎ ってカール・アルブレヒト支持 しじ に走 はし ったことを忘 わす れなかったマリア・テレジアは、1743年 ねん にベーメンを奪還 だっかん した後 のち 、占領 せんりょう 軍 ぐん に協力 きょうりょく した現地 げんち 貴族 きぞく を裁 さば く裁判 さいばん を行 おこな い、ベーメン貴族 きぞく に対 たい する統制 とうせい を大幅 おおはば に強化 きょうか した。この結果 けっか 、1744年 ねん にプロイセン軍 ぐん が侵攻 しんこう した際 さい 、多 おお くの貴族 きぞく が馬車 ばしゃ を連 つら ねてウィーンに逃亡 とうぼう し、残 のこ った貴族 きぞく もプロイセンへの協力 きょうりょく を拒否 きょひ して、通常 つうじょう 行 おこな われる手段 しゅだん である、在地 ざいち 貴族 きぞく に協力 きょうりょく を要求 ようきゅう することによって円滑 えんかつ に物資 ぶっし を調達 ちょうたつ するということが出来 でき なかったのである。
理由 りゆう の第 だい 三 さん は、ベーメンでは三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 後 ご 、住民 じゅうみん の再 さい カトリック 化 か が成功 せいこう しており、シュレージエンの時 とき のように現地 げんち 住民 じゅうみん の協力 きょうりょく を得 え ることが出来 でき なかったことである。第 だい 一 いち 次 じ シュレージエン戦争 せんそう においてプロイセン軍 ぐん はシュレージエンで解放 かいほう 者 しゃ として歓迎 かんげい され、各面 かくめん での支援 しえん を受 う けることが出来 でき たが、ベーメンではそれがなく、かえって貴族 きぞく たちの指導 しどう により、プロイセン軍 ぐん が接近 せっきん するや農民 のうみん たちは食料 しょくりょう を埋 う め、干 ほ し草 くさ に火 ひ をかけて逃亡 とうぼう した。これに対 たい してフス派 は の流 なが れを汲 く む隠 かく れプロテスタント がプロイセン軍 ぐん に協力 きょうりょく を申 もう し出 で ることもあったが、あまりにも数 かず が少 すく なく、補給 ほきゅう 面 めん での頼 たよ りにはならなかった。
理由 りゆう の第 だい 四 よん は、オーストリアの展開 てんかい した軽 けい 騎兵 きへい フザール と軽 けい 歩兵 ほへい パンドゥール によるプロイセン軍 ぐん への波状 はじょう 攻撃 こうげき である。第 だい 一 いち 次 じ シュレージエン戦争 せんそう でプロイセン軍 ぐん を苦 くる しめた彼 かれ らは、より大 だい 規模 きぼ に展開 てんかい してプロイセン軍 ぐん の補給 ほきゅう 部隊 ぶたい を襲 おそ い、また神出鬼没 しんしゅつきぼつ の彼 かれ らの存在 そんざい は、各 かく 部隊 ぶたい の指揮 しき 官 かん に徴発 ちょうはつ 部隊 ぶたい を出 だ すことについて二 に の足 あし を踏 ふ ませ、食糧 しょくりょう 不足 ふそく をより深刻 しんこく 化 か させた。
これらの結果 けっか 、モルダウ川 がわ を南下 なんか しているこの時点 じてん で早 はや くもプロイセン軍 ぐん の食糧 しょくりょう 事情 じじょう は急速 きゅうそく に悪化 あっか した。まず飼葉 かいば 不足 ふそく から輸送 ゆそう 部隊 ぶたい の牛馬 ぎゅうば が多数 たすう 衰弱 すいじゃく 、病死 びょうし し始 はじ め、次 つ いで兵 へい の食糧 しょくりょう が不足 ふそく した。策 さく 源 げん であるプラハからの輸送 ゆそう で急場 きゅうば を凌 しの ごうにも車両 しゃりょう 不足 ふそく と牛馬 ぎゅうば の喪失 そうしつ 、そして輸送 ゆそう 部隊 ぶたい への襲撃 しゅうげき のためにそれは不可能 ふかのう となっていた。9月末 まつ から10月 がつ にかけてプロイセン軍 ぐん には飢餓 きが 状態 じょうたい が出現 しゅつげん し、それはベーメンからの完全 かんぜん 撤退 てったい まで解決 かいけつ することがなかった。軍 ぐん 中 ちゅう に疾病 しっぺい 者 しゃ が溢 あふ れ、脱走 だっそう 兵 へい の数 かず は日増 ひま しに多 おお くなった。士気 しき は底 そこ なしに下 さ がり、11月に入 はい るころには、プロイセン軍 ぐん は崩壊 ほうかい に瀕 ひん していた。
カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン
エルザスからの転進 てんしん を成功 せいこう させたオーストリア軍 ぐん 主力 しゅりょく 部隊 ぶたい は、9月 がつ 後半 こうはん から順次 じゅんじ ベーメンに入 はい り、バッチャーニ軍 ぐん が受 う け入 い れ準備 じゅんび を整 ととの えていたピルゼンに集結 しゅうけつ しつつあった。オーストリア軍 ぐん には最高 さいこう 指揮 しき 官 かん であるカール公子 こうし の後見 こうけん 役 やく として老練 ろうれん なトラウン がおり、実質 じっしつ 的 てき には彼 かれ が作戦 さくせん の指導 しどう を行 おこな っていた。このオーストリア軍 ぐん にはバッチャーニやフランツ・レオポルト・ナーダジュディ といったハンガリー貴族 きぞく に率 ひき いられた多数 たすう の軽 けい 騎兵 きへい 、軽 けい 歩兵 ほへい がいた。トラウンは本隊 ほんたい の到着 とうちゃく に先行 せんこう して彼 かれ らをモルダウ流域 りゅういき に展開 てんかい させ、プロイセン軍 ぐん への攻撃 こうげき を行 おこな わせていた。
プロイセン軍 ぐん はオーストリア軍 ぐん がベーメンに到着 とうちゃく しつつあると気付 きづ いてはいたが、具体 ぐたい 的 てき な所在 しょざい については情報 じょうほう を得 え ることが出来 でき なかった。オーストリア軍 ぐん の展開 てんかい した濃密 のうみつ な阻止 そし 線 せん のため、大王 だいおう は皇帝 こうてい 軍 ぐん ともフランス軍 ぐん とも全 まった く連絡 れんらく が取 と れない状態 じょうたい に陥 おちい った。直近 ちょっきん のオーストリア軍 ぐん の行軍 こうぐん についての皇帝 こうてい 軍 ぐん の通報 つうほう は大王 だいおう の元 もと に届 とど くことがなく、プロイセン軍 ぐん の斥候 せっこう 部隊 ぶたい も優勢 ゆうせい な敵 てき の前 まえ に偵察 ていさつ 行動 こうどう が制限 せいげん され、モルダウ西岸 せいがん の南北 なんぼく 各地 かくち で有力 ゆうりょく なオーストリア軍 ぐん 部隊 ぶたい を見 み たという不確 ふたし かな情報 じょうほう しかもたらされることがなかった。大王 だいおう はこの状況 じょうきょう に「この四 よん 週間 しゅうかん 私 わたし には情報 じょうほう も手紙 てがみ もない。良 よ い(現地 げんち 人 じん )協力 きょうりょく 者 しゃ を見 み つけることもできない。カール公子 こうし は、バッチャーニは、ザクセン軍 ぐん は、ベーメンにいるのかそれとも北京 ぺきん にいるのかも判 わか らない」と吐露 とろ した[ 2] 。
ザクセン軍 ぐん についてはエーガー川 がわ 方面 ほうめん の部隊 ぶたい から彼 かれ らが接近 せっきん しつつあるとの報告 ほうこく がもたらされていたが、オーストリア軍 ぐん については異 こと なる複数 ふくすう の情報 じょうほう が寄 よ せられていた。大王 だいおう はオーストリア軍 ぐん はモルダウ上流 じょうりゅう ブトヴァイスを目指 めざ していると判断 はんだん した。ターボルに到着 とうちゃく した大王 だいおう は主力 しゅりょく を西南 せいなん に転 てん じ、10月4日 にち モルダウタイン でモルダウ川 がわ を渡 わた った。そして西進 せいしん しながら捜索 そうさく 隊 たい を派出 はしゅつ し、こちらに向 む かって行軍 こうぐん してきているはずのオーストリア軍 ぐん を会戦 かいせん によって撃破 げきは することを目指 めざ した。
3日 にち の空費 くうひ ののち、大王 だいおう はようやくオーストリア軍 ぐん の本当 ほんとう の位置 いち を知 し った。すなわち、10月2日 にち の時点 じてん でオーストリア軍 ぐん はプロイセン軍 ぐん のずっと北 きた のミロティッツ にあり、そこから北東 ほくとう に進出 しんしゅつ しつつあったのである。トラウンは、オーストリア軍 ぐん がピルゼンに集結 しゅうけつ しているにもかかわらずプロイセン軍 ぐん が南下 なんか し続 つづ ける様子 ようす を見 み て、プロイセン軍 ぐん はこちらの行動 こうどう を把握 はあく できていないことを知 し った。トラウンはモルダウを渡河 とか して、プラハとターボルの中間 ちゅうかん に位置 いち し、プロイセン軍 ぐん の中継 ちゅうけい 基地 きち のあるベネシャウ に向 む かい、プラハからプロイセン軍 ぐん を切断 せつだん しようと図 はか ったのである。
10月はこの戦役 せんえき の転換 てんかん 点 てん であり、戦場 せんじょう の主導 しゅどう 権 けん は圧倒的 あっとうてき に優勢 ゆうせい だったはずのプロイセン軍 ぐん からオーストリア軍 ぐん の手 て に移 うつ った。危機 きき に瀕 ひん したプロイセン軍 ぐん は急遽 きゅうきょ 反転 はんてん し、オーストリア軍 ぐん がベネシャウに到着 とうちゃく する前 まえ にそこに急行 きゅうこう しなければならなかった。10月8日 にち 、モルダウを再 さい 渡河 とか したプロイセン軍 ぐん はすぐにまたベヒン でモルダウ支流 しりゅう ルシュニッツ を渡河 とか して北進 ほくしん した。
10月9日 にち 、本隊 ほんたい に引 ひ き続 つづ いて車両 しゃりょう 部隊 ぶたい が通過 つうか し続 つづ けるモルダウタインを数 すう 千 せん のパンドゥール部隊 ぶたい が襲撃 しゅうげき し、ツィーテン の指揮 しき するフザール連隊 れんたい および擲弾兵 へい 2個 こ 大隊 だいたい との間 あいだ に激 はげ しい戦闘 せんとう が行 おこな われた。殺到 さっとう するパンドゥールに対 たい し、プロイセン軍 ぐん は葡萄 ぶどう 弾 だん で彼 かれ らの突撃 とつげき を粉砕 ふんさい し、フザールで果敢 かかん に斬 き り込 こ むことで敵 てき を追 お い崩 くず した。プロイセン軍 ぐん はモルダウタインを守 まも り切 き り、車両 しゃりょう 部隊 ぶたい の通過 つうか を済 す ませた。
大王 だいおう はオーストリア軍 ぐん がモルダウ東岸 とうがん に渡 わた った後 のち でも依然 いぜん として会戦 かいせん によって彼 かれ らを撃退 げきたい し、モルダウの線 せん を維持 いじ するつもりだった。モルダウ上流 じょうりゅう 地域 ちいき には輸送 ゆそう できなかった物資 ぶっし 、多数 たすう の傷病 しょうびょう 兵 へい も残 のこ っており、大王 だいおう はブトヴァイス、フラウエンベルクに彼 かれ らを集結 しゅうけつ させ、守備 しゅび 兵 へい を置 お いて保持 ほじ しようとした。しかしこの方面 ほうめん に進出 しんしゅつ したトレンク 率 ひき いるパンドゥール部隊 ぶたい によってフラウエンベルクは水 みず の手 て を断 た たれて降伏 ごうぶく 、ブトヴァイスも攻撃 こうげき を一 いち 度 ど は跳 は ね返 かえ したものの結局 けっきょく 陥落 かんらく してしまった。同様 どうよう にターボルもオーストリア軍 ぐん によって占領 せんりょう された。
モルダウを北上 ほくじょう する行軍 こうぐん は兵士 へいし にとってより一層 いっそう 辛 つら いものとなった。トラウンは自軍 じぐん に投降 とうこう した脱走 だっそう 兵 へい の供述 きょうじゅつ によって、プロイセン軍 ぐん が食糧 しょくりょう に窮 きゅう していることを知 し っており、ハンガリー勢 ぜい により精力 せいりょく 的 てき にプロイセン軍 ぐん の補給 ほきゅう 線 せん を攻撃 こうげき するように命 めい じていた。プラハとの連絡 れんらく 線 せん はパンドゥールの浸透 しんとう によって途絶 とぜつ しつつあり、携帯 けいたい する食糧 しょくりょう がほとんどない中 なか で、冬 ふゆ の到来 とうらい が彼 かれ らの体力 たいりょく と士気 しき を奪 うば い、脱走 だっそう 兵 へい の数 かず はよりいっそう増 ぞう した。フザールの襲撃 しゅうげき とパンドゥールの浸透 しんとう は兵 へい の投降 とうこう を助長 じょちょう し、伝令 でんれい の捕縛 ほばく による命令 めいれい の未 み 達 いたる 、分遣 ぶんけん 隊 たい の孤立 こりつ 、徴発 ちょうはつ 部隊 ぶたい への襲撃 しゅうげき と全滅 ぜんめつ など、プロイセン軍 ぐん の置 お かれた状況 じょうきょう をますます困難 こんなん なものとした。おまけに住民 じゅうみん の一部 いちぶ がパルチザン としてプロイセン軍 ぐん への武力 ぶりょく 抵抗 ていこう まで始 はじ めていた。
10月17日 にち 、プロイセン軍 ぐん 主力 しゅりょく 先鋒 せんぽう がベネシャウに到着 とうちゃく 、翌 よく 18日 にち には大王 だいおう もベネチャウに入 はい り、ひとまずプラハとの連絡 れんらく は保 たも たれた。プラハとの距離 きょり が短縮 たんしゅく されたことによって補給 ほきゅう 状態 じょうたい も一時 いちじ 好転 こうてん し、プロイセン軍 ぐん は接近 せっきん するオーストリア軍 ぐん に対 たい するべく西南 せいなん に向 む けて陣 じん を敷 し いた。この時点 じてん での大王 だいおう の計画 けいかく は、オーストリア軍 ぐん を会戦 かいせん によってモルダウ西岸 せいがん に追 お い返 かえ したら、モルダウ‐サザワ、もしくはルシュニッツ‐サザワ間 あいだ の地域 ちいき を確保 かくほ して冬営 とうえい に入 はい り、戦争 せんそう の仕切 しき り直 なお しを行 おこな うというものだった。
10月22日 にち 、オーストリア軍 ぐん はザクセン軍 ぐん と合流 ごうりゅう し、これによって兵力 へいりょく もオーストリアが優勢 ゆうせい となった。23日 にち 、連合 れんごう 軍 ぐん はプロイセン軍 ぐん のすぐ近 ちか く、マルショヴィッツ に堅陣 けんじん を敷 し いた。24日 にち 、大王 だいおう はただちに会戦 かいせん を行 おこな うつもりでマルショヴィッツに接近 せっきん し、連合 れんごう 軍 ぐん の陣地 じんち を偵察 ていさつ した。連合 れんごう 軍 ぐん はベーメンの湖沼 こしょう と丘 おか の散 ち らばる地形 ちけい を巧 たく みに生 い かし、非常 ひじょう に攻撃 こうげき の困難 こんなん な陣地 じんち を構築 こうちく していた。25日 にち 、一昼夜 いっちゅうや の偵察 ていさつ と検討 けんとう ののち、大王 だいおう は会戦 かいせん を断念 だんねん して撤退 てったい せざるを得 え なかった。
このマルショヴィッツの陣 じん において、のちの七 なな 年 ねん 戦争 せんそう ではいつも果敢 かかん に会戦 かいせん を仕掛 しか けた大王 だいおう がなぜ攻撃 こうげき を断念 だんねん したかについて[ 3] 、理由 りゆう の第 だい 一 いち はその地形 ちけい にあり、なるほど有利 ゆうり な位置 いち を占 し めるオーストリア軍 ぐん に攻撃 こうげき をかけて勝利 しょうり を得 え た事例 じれい は多 おお いけれども、もしこのとき攻撃 こうげき を行 おこな えばそれはプラハ やトルガウ ではなくコリン やクーネルスドルフ のような結果 けっか となっただろうとされる。また第 だい 二 に は軍 ぐん の状態 じょうたい にあり、このときのプロイセン軍 ぐん 兵士 へいし は先 さき の1カ月 かげつ の行軍 こうぐん とその間 あいだ の食糧 しょくりょう 不足 ふそく により著 いちじる しく消耗 しょうもう 衰弱 すいじゃく しており、士気 しき も沈滞 ちんたい して通常 つうじょう の戦闘 せんとう 能力 のうりょく が期待 きたい できる状態 じょうたい ではなかったのである。
フランツ・フォン・デア・トレンク
10月26日 にち 、プロイセン軍 ぐん はモルダウ以東 いとう を確保 かくほ することを諦 あきら め、サザワ川 がわ を北 きた に越 こ えた。大王 だいおう はまだサザワ以北 いほく を確保 かくほ する可能 かのう 性 せい を追求 ついきゅう していたが、オーストリア軍 ぐん の進撃 しんげき はその希望 きぼう を早々 そうそう に失 うしな わせた。トラウンの戦略 せんりゃく は会戦 かいせん を避 さ け機動 きどう によってプロイセン軍 ぐん を撃退 げきたい することであり、北上 ほくじょう するプロイセン軍 ぐん 主力 しゅりょく に対 たい しては自軍 じぐん 主力 しゅりょく でもって追撃 ついげき することをせず、パンドゥールによって常 つね に圧迫 あっぱく することのみを行 おこな った。トラウンは勢力 せいりょく を割 さ いてプラハに対 たい する圧力 あつりょく を強 つよ めるとともに軍 ぐん 主力 しゅりょく を依然 いぜん として北東 ほくとう に向 む け、ベネシャウからさらに東 ひがし に向 む かって行軍 こうぐん した。
プロイセン軍 ぐん の求 もと めるものはすみやかな今年 ことし の戦役 せんえき の打 う ち切 き りと冬営 とうえい だった。サザワ川 がわ を越 こ えた後 のち 、プロイセン軍 ぐん にはもうエルベ川 がわ しか残 のこ されていなかったが、それについて大王 だいおう には二 ふた つの選択肢 せんたくし があった。一 ひと つはプラハ周辺 しゅうへん に留 とど まってプラハを援護 えんご しつつベーメン北西 ほくせい 部 ぶ で冬営 とうえい に入 はい ること。もう一 ひと つは東方 とうほう のエルベ川 がわ 屈折 くっせつ 部 ぶ に後退 こうたい し、ベーメン北東 ほくとう 部 ぶ で冬営 とうえい に入 はい ることだった。東 ひがし に撤退 てったい した場合 ばあい 、プラハとの連絡 れんらく を絶 た たれてプラハが孤立 こりつ するが、かといってプラハに固執 こしつ するとシュレージエンとの連絡 れんらく が断 た たれる恐 おそ れがあった。
すでに浸透 しんとう しつつあるパンドゥールを排除 はいじょ し、シュレージエンとの連絡 れんらく を確保 かくほ する目的 もくてき で、大王 だいおう はナッサウの部隊 ぶたい を東 ひがし に派遣 はけん してエルベ南岸 なんがん のコリン‐パルドビッツの線 せん を保持 ほじ させた。しかしオーストリア軍 ぐん の意図 いと が不明 ふめい で、大王 だいおう は両者 りょうしゃ の選択 せんたく で迷 まよ い、しばらく決断 けつだん を下 くだ さないまま北上 ほくじょう を続 つづ けていた。押 お し寄 よ せるオーストリア軍 ぐん 部隊 ぶたい によってプロイセン軍 ぐん 本隊 ほんたい はプラハとの連絡 れんらく もナッサウの先遣 せんけん 隊 たい との連絡 れんらく も途切 とぎ れ気味 ぎみ で、軍 ぐん には再 ふたた び飢餓 きが 状態 じょうたい が出現 しゅつげん した。首脳 しゅのう 陣 じん からはシュヴェリーンが脱落 だつらく した[ 4] 。
オーストリア軍 ぐん はサザワを越 こ えなお東進 とうしん 中 ちゅう との報告 ほうこく を受 う けると、大王 だいおう も決断 けつだん を下 くだ さざるを得 え なかった。トラウンの目的 もくてき は明 あき らかであり、それはプロイセン軍 ぐん がベーメンから撤退 てったい しないようなら彼 かれ らをシュレージエンから分断 ぶんだん することであった。プラハに留 とど まった場合 ばあい 、プロイセン軍 ぐん は本国 ほんごく との連絡 れんらく を絶 た たれるうえに、オーストリア軍 ぐん にシュレージエンを攻撃 こうげき することを許 ゆる すことになるのである。プロイセン軍 ぐん はベーミッシュブロート で東南 とうなん に方向 ほうこう を転 てん じ、11月8日 にち から9日 にち にかけてコリンでエルベ川 がわ 北岸 ほくがん に渡河 とか し、冬営 とうえい に入 はい った。
プロイセン軍 ぐん は南岸 なんがん 西 にし のコリンにナッサウを、東 ひがし のパルドビッツにデュ・ムーラン を入 い れて守 まも らせ、エルベ川 がわ を防衛 ぼうえい 線 せん として哨兵 しょうへい 線 せん を張 は り、冬営 とうえい の守 まも りとしていた。無論 むろん 大王 だいおう もオーストリア軍 ぐん がすんなりと攻撃 こうげき を諦 あきら めるとは思 おも っていなかったが、オーストリア軍 ぐん も通常 つうじょう なら冬営 とうえい に移 うつ り始 はじ める時期 じき で、いま少 すこ しの時間 じかん エルベ川 がわ を守 まも りきることならば充分 じゅうぶん 可能 かのう と考 かんが えた。実際 じっさい にもオーストリア軍 ぐん のコリンへの攻撃 こうげき は撃退 げきたい に成功 せいこう していた。しかしオーストリア軍 ぐん はプロイセン軍 ぐん をベーメンに残 のこ したまま次 つぎ の戦役 せんえき に持 も ち越 こ すつもりはなかった。11月19日 にち 、深夜 しんや のうちにひそかに舟 ふね を浮 う かべて擲弾兵 へい を対岸 たいがん に渡 わた すことで連合 れんごう 軍 ぐん は渡河 とか に成功 せいこう した。早朝 そうちょう 、突如 とつじょ 出現 しゅつげん した敵 てき 部隊 ぶたい と遭遇 そうぐう したヴェーデル の大隊 だいたい は圧倒的 あっとうてき に優勢 ゆうせい な敵 てき の前 まえ によく戦 たたか い、ヴェーデルは大王 だいおう からレオニダス と呼 よ ばれるほどであったが、結局 けっきょく は後退 こうたい せざるを得 え ず、川岸 かわぎし を占領 せんりょう されてオーストリア軍 ぐん の渡河 とか を許 ゆる すこととなった。
大王 だいおう の計画 けいかく はまたしても破 やぶ れ、もはやプロイセン軍 ぐん には全面 ぜんめん 撤退 てったい の道 みち しか残 のこ されていなかった。大王 だいおう はただちに物資 ぶっし と傷病 しょうびょう 兵 へい のケーニヒグレーツへの輸送 ゆそう に着手 ちゃくしゅ し、全 ぜん 部隊 ぶたい に撤退 てったい 準備 じゅんび を命 めい じるとともに、フェルトイェーガー に敵 てき 中 ちゅう を突破 とっぱ させてプラハのアインジーデルに撤退 てったい を命 めい じた。大王 だいおう は軍 ぐん を二 ふた つに分 わ け、一 ひと つは若 わか デッサウの指揮 しき により物資 ぶっし を携 たずさ えてグラッツに撤退 てったい させ、もう一 ひと つは大王 だいおう が率 ひき いて、ケーニヒグレーツで殿 しんがり を務 つと めたナッサウを収容 しゅうよう し、若 わか デッサウ軍 ぐん の撤退 てったい を援護 えんご しつつその西 にし をブラウナウ 経由 けいゆ でシュレージエンに撤退 てったい した。雪 ゆき の降 ふ る冬 ふゆ の山地 さんち を充分 じゅうぶん な食糧 しょくりょう のないまま撤退 てったい するプロイセン軍 ぐん を、さらにオーストリア軍 ぐん の追撃 ついげき が襲 おそ い、撤退 てったい は成功 せいこう するにしても多数 たすう の、戦闘 せんとう による死傷 ししょう 者 しゃ 、飢 う えと寒 さむ さによる病死 びょうし 者 しゃ 、そして逃亡 とうぼう 者 しゃ を出 だ さざるを得 え なかった。彼 かれ らは12月始 はじ めにはシュレージエンに到着 とうちゃく した。
プラハ守備 しゅび 隊 たい の撤退 てったい 行 ぎょう はより悲惨 ひさん であった。大王 だいおう の撤退 てったい 命令 めいれい を受 う け取 と ったアインジーデルは、ごくわずかな時間 じかん で、重砲 じゅうほう と予備 よび 銃器 じゅうき を破壊 はかい して川 かわ に沈 しず め、可能 かのう な限 かぎ りの牛馬 ぎゅうば を徴発 ちょうはつ し、食糧 しょくりょう をかき集 あつ めることの全 すべ てを行 おこな い、11月26日 にち に撤退 てったい を開始 かいし した。すでにプラハはオーストリア兵 へい に囲 かこ まれており、市 し 門 もん を出 で てすぐパンドゥールから狙撃 そげき を受 う け、それでいて市 し 門 もん を出 で る前 まえ から市民 しみん によって狙撃 そげき される有様 ありさま だった。パンドゥールは陸 りく だけでなくモルダウにも舟 ふね を浮 う かべてプロイセン軍 ぐん を銃撃 じゅうげき し、街道 かいどう 上 じょう は打 う ち捨 す てられた荷馬 にうま 車 しゃ と死傷 ししょう 者 しゃ が散乱 さんらん する悲惨 ひさん な光景 こうけい となった。
アインジーデルは一旦 いったん 北西 ほくせい に行軍 こうぐん してライトメリッツに達 たっ し、そこから北東 ほくとう に転 てん じてザクセンの南端 なんたん を通 とお り12月 がつ 中旬 ちゅうじゅん にシュレージエンに達 たっ した。しかしこの過程 かてい での彼 かれ の軍 ぐん の損害 そんがい はあまりにも多 おお く、アインジーデルは譴責 けんせき されて軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ にかけられ、1745年 ねん に寂 さび しく世 よ を去 さ った。
オーストリア軍 ぐん のシュレージエン侵入 しんにゅう と撤退 てったい [ 編集 へんしゅう ]
プロイセン軍 ぐん をベーメンから駆逐 くちく したオーストリア軍 ぐん は、そこで冬営 とうえい に入 はい るのではなく、引 ひ き続 つづ いてただちにシュレージエンの奪回 だっかい にとりかかるようマリア・テレジアから命令 めいれい された。グラッツ郡 ぐん ではオーストリア軍 ぐん が全域 ぜんいき に侵入 しんにゅう してプロイセンが保持 ほじ するのはフーケ の守 まも るグラッツ要塞 ようさい のみとなり、一方 いっぽう でオーストリア軍 ぐん 主力 しゅりょく は上 うえ シュレージエンに向 む かっていた。上 うえ シュレージエンではメーレン境 さかい まで後退 こうたい したマルヴィッツ軍 ぐん が抵抗 ていこう を試 こころ みていた。パンドゥールはすでに上 うえ シュレージエンに侵入 しんにゅう を始 はじ めていた。
シュレージエンに到着 とうちゃく した大王 だいおう は本国 ほんごく から老 ろう デッサウ を呼 よ んでシュレージエン防衛 ぼうえい の指揮 しき を託 たく し、シュレージエン州 しゅう 行政 ぎょうせい 長官 ちょうかん ミュンヒョウ に軍 ぐん への補給 ほきゅう 手配 てはい と冬営 とうえい 準備 じゅんび を命 めい じた。大王 だいおう 自身 じしん は軍 ぐん 再建 さいけん のため12月 がつ 12日 にち にベルリンに帰還 きかん したものの、シュレージエンの状況 じょうきょう が緊迫 きんぱく していたためすぐ現地 げんち に戻 もど らねばならなかった。
オーストリア軍 ぐん の目的 もくてき はシュレージエン内 ない に喰 く い込 こ んでそこで冬営 とうえい することで、それを許 ゆる せば次 つぎ の戦役 せんえき がプロイセン軍 ぐん にとって著 いちじる しく不利 ふり になることは明 あき らかだった。大王 だいおう は敵 てき の侵入 しんにゅう を許 ゆる すな、断固 だんこ 撃退 げきたい せよと命 めい じたものの、マルヴィッツ軍 ぐん は優勢 ゆうせい なオーストリア軍 ぐん が前進 ぜんしん してくるとトロッパウ からラティボル に後退 こうたい せざるを得 え なかった。マルヴィッツが心臓 しんぞう 発作 ほっさ で急死 きゅうし したため老 ろう デッサウの息子 むすこ の一人 ひとり ディートリヒ が指揮 しき を引 ひ き継 つ いだが、上 うえ シュレージエンのプロイセン軍 ぐん はさらにコーゼル に後退 こうたい してオーストリア軍 ぐん は上 うえ シュレージエン南部 なんぶ に着実 ちゃくじつ に進出 しんしゅつ し、ノイシュタット を占領 せんりょう した。これに対応 たいおう して年明 としあ け1月 がつ 9日 にち 、老 ろう デッサウと不十分 ふじゅうぶん ながら再 さい 編成 へんせい を間 あいだ に合 あ わせたプロイセン軍 ぐん はナイセ川 がわ を渡 わた り、オーストリア軍 ぐん を撃退 げきたい するべく南 みなみ に向 む けて前進 ぜんしん した。
このとき上 うえ シュレージエンにいたオーストリア軍 ぐん は疲労 ひろう の極 きょく に達 たっ していた。彼 かれ らは春 はる にライン川 がわ を渡 わた り、夏 なつ はエルザスにいてそこからドイツを横断 おうだん してベーメンで戦 たたか い、冬 ふゆ になってもまだ戦 たたか い続 つづ けているという状態 じょうたい で、物資 ぶっし と兵員 へいいん の欠乏 けつぼう は甚 はなは だしく、真冬 まふゆ の作戦 さくせん はさらに彼 かれ らを消耗 しょうもう させ、シュレージエンに入 はい ったことで補給 ほきゅう 難 なん も生 しょう じていた。またプロイセン軍 ぐん をベーメンから撃退 げきたい した後 のち はバイエルンに軍 ぐん の勢力 せいりょく を割 さ かれていた。プロイセン軍 ぐん が押 お し出 だ してくるとオーストリア軍 ぐん は後退 こうたい した。
1月 がつ 16日 にち 、プロイセン軍 ぐん はイェーゲルンドルフ に達 たっ してオーストリア軍 ぐん に接近 せっきん したが、上記 じょうき のような理由 りゆう があってトラウンは会戦 かいせん を回避 かいひ し、シュレージエンでの冬営 とうえい を諦 あきら めて撤退 てったい に移 うつ った。プロイセン軍 ぐん はさらに追撃 ついげき して2月 がつ には上 うえ シュレージエンを回復 かいふく した。並行 へいこう して2月 がつ 14日 にち 、グラッツにおいてレーヴァルト 率 ひき いるプロイセン軍 ぐん がハーベルシュヴァルツ でヴァリス のオーストリア軍 ぐん を撃破 げきは し、グラッツからもオーストリア軍 ぐん を駆逐 くちく した。戦局 せんきょく は膠着 こうちゃく してようやく両者 りょうしゃ とも冬営 とうえい に入 はい り、大王 だいおう はまた本国 ほんごく に戻 もど った。
1744年 ねん の戦役 せんえき でプロイセン軍 ぐん の負 お った損害 そんがい は実 じつ に甚大 じんだい であった。オーストリア軍 ぐん に投降 とうこう したプロイセン兵士 へいし は1万 まん 7千 せん 人 にん に及 およ ぶとされ、一説 いっせつ によればベーメンからシュレージエンに帰 かえ り着 つ くことのできた兵士 へいし の数 かず は元 もと の半分 はんぶん の3万 まん 6千 せん 人 にん ほどだったという[ 5] 。一 いち 度 ど 軍 ぐん 中 ちゅう に広 ひろ まった疫病 えきびょう はなかなか収 おさ まることなく、依然 いぜん として多数 たすう の傷病 しょうびょう 兵 へい を抱 かか えており、装備 そうび 弾薬 だんやく の損失 そんしつ も考 かんが え合 あ わせると、1745年 ねん 初 はじ めのプロイセン軍 ぐん は戦闘 せんとう 能力 のうりょく を喪失 そうしつ しかけていた。
損害 そんがい は物的 ぶってき な面 めん に留 と まらず精神 せいしん 的 てき な面 めん にも及 およ んでいた。大王 だいおう は将兵 しょうへい の信頼 しんらい を失 うしな いつつあり、将校 しょうこう は投 な げやりになり、兵士 へいし たちの間 あいだ でも規律 きりつ と団結 だんけつ は失 うしな われようとしていた。プロイセンの支配 しはい が揺 ゆ らいでいることを感 かん じたシュレージエンの住民 じゅうみん には公然 こうぜん とした反抗 はんこう が見 み られた。1744年 ねん の敗北 はいぼく から1745年 ねん 春 はる までのプロイセンは、大 おお いなる危機 きき の中 なか にあった。
大王 だいおう はのちの著作 ちょさく においてこの年 とし の戦役 せんえき の記述 きじゅつ を以下 いか のように締 し めくくり、また一 いち 会戦 かいせん に及 およ ばすしてプロイセン軍 ぐん に勝利 しょうり したトラウンを讃 たた えた[ 6] 。
どの将軍 しょうぐん もこの戦役 せんえき で私 わたし 以上 いじょう の失敗 しっぱい をしなかった。まずなによりの失敗 しっぱい は、ベーメンにおいて少 すく なくとも6か月 げつ 間 あいだ の活動 かつどう を維持 いじ するのに必要 ひつよう な量 りょう の物資 ぶっし を準備 じゅんび して行 い かなかったことだ。我々 われわれ は軍 ぐん というものが胃袋 いぶくろ によって成 な り立 た っていることを知 し っている。しかしそれが全 すべ てではない。ザクセンに侵入 しんにゅう するときに私 わたし は、ザクセンがすでにヴォルムス条約 じょうやく に加盟 かめい していることを知 し っていた。私 わたし はザクセンにその所属 しょぞく する同盟 どうめい を変 か えさせるか、さもなくばベーメンに入 はい る前 まえ に彼 かれ らを打 う ち倒 たお しておくべきだった。プラハ包囲 ほうい 中 ちゅう 、ベラウンでバッチャーニ元帥 げんすい に対 たい して不十分 ふじゅうぶん な規模 きぼ の支隊 したい しか送 おく らなかったとき 、彼 かれ らが非凡 ひぼん な勇気 ゆうき の持 も ち主 ぬし でなかったら彼 かれ らは失 うしな われていただろう。プラハを占領 せんりょう した後 のち には、全 ぜん 軍 ぐん の半分 はんぶん の戦力 せんりょく でもってバッチャーニ元帥 げんすい を攻撃 こうげき し、ロートリンゲン公子 こうし が到着 とうちゃく する前 まえ に彼 かれ を撃破 げきは してピルゼンの集積 しゅうせき 物資 ぶっし を奪 うば うのが良策 りょうさく であったろう。オーストリア軍 ぐん のベーメンでの活動 かつどう のために準備 じゅんび されていたその物資 ぶっし の損失 そんしつ は、彼 かれ らに改 あらた めて物資 ぶっし を集積 しゅうせき させることによって時間 じかん を費 つい やさせ、それは彼 かれ らをしてこの地方 ちほう を失 うしな わしめることになっただろう。もし誰 だれ かが、なんとかプロイセンの物資 ぶっし を満 み たそうとするのに払 はら われた充分 じゅうぶん な熱意 ねつい を感 かん じることがなかったというのなら、私 わたし はそのことについて非難 ひなん されるべきであろう。しかし補給 ほきゅう 要員 よういん に対 たい してそれは無用 むよう である。彼 かれ らは彼 かれ ら自身 じしん のための物資 ぶっし を空 そら にして補給 ほきゅう を届 とど けたのだ。私 わたし に、君主 くんしゅ としてベル=イル元帥 げんすい との間 あいだ に、ターボルおよびブトヴァイスに進出 しんしゅつ するという彼 かれ の提案 ていあん した計画 けいかく を了承 りょうしょう したという弱 よわ みがあったとしてもしかし、計画 けいかく が困難 こんなん もしくは危険 きけん であることを認 みと めたときには、それ(協定 きょうてい に拘 かかわ ること)は重要 じゅうよう でもないし戦争 せんそう の原理 げんり にも反 はん していた。そこ(戦争 せんそう の原理 げんり )から離 はな れることは許 ゆる されない。その誤 あやま りの後 のち にすべての失敗 しっぱい が続 つづ くことになった。最終 さいしゅう 的 てき に、我 わ が軍 ぐん はターボル方面 ほうめん に行軍 こうぐん することによって敵 てき のベーメンへの行軍 こうぐん と宿営 しゅくえい を許 ゆる した。この地方 ちほう のすべての好意 こうい はオーストリア軍 ぐん のためにあった。トラウン元帥 げんすい はセルトリウスの役割 やくわり を果 は たし、私 わたし はポンペイウスだった。トラウン元帥 げんすい の指揮 しき は完璧 かんぺき な戦 せん 例 れい であり、職務 しょくむ を愛 あい し才能 さいのう ある全 すべ ての軍人 ぐんじん はこれを研究 けんきゅう し模範 もはん とすべきである。私 わたし は、この戦役 せんえき が私 わたし にとって戦争 せんそう 術 じゅつ についての学校 がっこう であったと見 み なしており、そしてトラウン元帥 げんすい が私 わたし の教師 きょうし であったことをはっきりと認 みと めたい。君主 くんしゅ にとって幸運 こううん はしばしば不運 ふうん よりも致命 ちめい 的 てき でありうる。前者 ぜんしゃ は(自身 じしん のなした)推測 すいそく に酔 よ わせるが、後者 こうしゃ は慎重 しんちょう かつ謙虚 けんきょ に振 ふ る舞 ま うようにさせる。
1745年 ねん 春 はる の各国 かっこく の外交 がいこう は、プロイセンにとって大変 たいへん 厳 きび しい状況 じょうきょう に、一方 いっぽう のオーストリアにとってはシュレージエンを奪回 だっかい するのに大変 たいへん 都合 つごう の良 よ い状況 じょうきょう になっていた。
1744年 ねん のベーメン侵攻 しんこう が完全 かんぜん な失敗 しっぱい に終 お わると、大王 だいおう はすぐイギリスに働 はたら きかけて和平 わへい の可能 かのう 性 せい を探 さぐ り始 はじ めた。もちろんシュレージエンはプロイセンが保持 ほじ したままというのが大王 だいおう の条件 じょうけん だったが、プロイセンから和 わ 約 やく を破 やぶ っておいて、戦況 せんきょう がオーストリア優位 ゆうい に傾 かたむ いている状況 じょうきょう でのこの交渉 こうしょう は当然 とうぜん うまくいかなかった。それどころか1月 がつ 8日 にち には、イギリス、オランダ、ザクセン、オーストリアの四 よん カ国 かこく によるワルシャワ条約 じょうやく が成立 せいりつ し、プロイセンを包囲 ほうい 攻撃 こうげき する態勢 たいせい が作 つく られていた。この条約 じょうやく は、ザクセンを完全 かんぜん にオーストリアの味方 みかた にし、オーストリアの側 がわ に立 た って戦 たたか う代 か わりにイギリスとオランダから資金 しきん 援助 えんじょ が与 あた えられるという内容 ないよう だった。ただ四 よん カ国 かこく 同盟 どうめい とは言 い ってもイギリスとオランダに対 たい プロイセン戦 せん に兵力 へいりょく を回 まわ す考 かんが えはなく、実質 じっしつ 的 てき にはザクセンの戦力 せんりょく が加 くわ わることがはっきりしたことだけが成果 せいか だった。
1月 がつ 20日 はつか 、かねてより健康 けんこう を害 がい していた皇帝 こうてい カール7世 せい が戻 もど ったばかりのミュンヘンで死去 しきょ した。神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい を援助 えんじょ するというのがプロイセンとフランスが戦争 せんそう で掲 かか げていた題目 だいもく で、両国 りょうこく は大義名分 たいぎめいぶん を失 うしな うとともに、皇帝 こうてい の後継 あとつ ぎマクシミリアン・ヨーゼフ がまだ幼少 ようしょう であり、戦況 せんきょう 不利 ふり であることを考 かんが え合 あ わせると、皇帝 こうてい 位 い がハプスブルク家 か に戻 もど る公算 こうさん が大 おお きくなった。ハプスブルク家 か を皇帝 こうてい 位 い から引 ひ きずり降 お ろして帝国 ていこく への影響 えいきょう 力 りょく を失 うしな わせるのがフランスのそもそもの戦争 せんそう 目的 もくてき であり、それが元 もと に戻 もど ってしまうのを惜 お しんだフランスはザクセンに働 はたら きかけてアウグスト3世 せい を皇帝 こうてい に推 お し、あわせてザクセンを味方 みかた に引 ひ き入 い れようとした。しかしこの計画 けいかく はすぐに失敗 しっぱい した。プロイセンもこれを機会 きかい にイギリスにフランツ・シュテファン への投票 とうひょう を約 やく するという条件 じょうけん で和平 わへい 斡旋 あっせん を依頼 いらい したが、やはり断 ことわ られた。
オーストリアはバイエルンを早期 そうき に戦争 せんそう から脱落 だつらく させるために冬 ふゆ の間 あいだ から部隊 ぶたい を動 うご かしており、春 はる になると強力 きょうりょく に攻勢 こうせい に出 で て連合 れんごう 軍 ぐん を後退 こうたい させミュンヘンを占領 せんりょう した。その結果 けっか 、バイエルンはオーストリアへの請求 せいきゅう 権 けん を全 すべ て放棄 ほうき して単独 たんどく 講和 こうわ であるフュッセン条約 じょうやく が成立 せいりつ し、オーストリアはプロイセンに戦力 せんりょく を集中 しゅうちゅう させることができるようになった。フランクフルト同盟 どうめい は雲散霧消 うんさんむしょう し、プロイセンはドイツに友邦 ゆうほう が一 ひと つも居 い なくなった。
フランスは、すでに1743年 ねん 頃 ごろ から皇帝 こうてい への支援 しえん を打 う ち切 き りたいと考 かんが えるようになっており、ドイツ方面 ほうめん での活動 かつどう に消極 しょうきょく 的 てき になっていた。1744年 ねん 12月に、ミュンヘンからベルリンへ作戦 さくせん 調整 ちょうせい のため向 む かっていたベル=イル 元帥 げんすい がイギリス軍 ぐん によって拘束 こうそく され、イギリス本島 ほんとう へ護送 ごそう される事件 じけん が発生 はっせい しており、継承 けいしょう 戦争 せんそう の立案 りつあん 者 しゃ で帝国 ていこく への軍 ぐん 派遣 はけん を強 つよ く訴 うった えてきた彼 かれ の不在 ふざい は、フランス宮廷 きゅうてい がドイツ方面 ほうめん 作戦 さくせん について消極 しょうきょく 論 ろん に染 そ まるのをさらに助長 じょちょう した。そこへバイエルンの戦争 せんそう 脱落 だつらく が決 き まったために、フランスはドイツへの興味 きょうみ をほとんど失 うしな い、フランドル やイタリア方面 ほうめん に注力 ちゅうりょく する姿勢 しせい を示 しめ していた。これは事実 じじつ 上 じょう 、プロイセン単独 たんどく でオーストリアと戦 たたか わなければならないということだった。
さらにプロイセンにとって悪 わる いことに、ロシアがオーストリア側 がわ に支持 しじ を寄 よ せる姿勢 しせい をだんだんと明 あき らかにし始 はじ めていた。大王 だいおう はロシアの好意 こうい 的 てき 中立 ちゅうりつ を獲得 かくとく するために工作 こうさく を重 かさ ねてきたが、オーストリア、イギリスともにロシアを味方 みかた に引 ひ き入 い れること力 りょく を入 い れており、後者 こうしゃ が勝 か った結果 けっか となった。大王 だいおう はこのような状態 じょうたい で戦役 せんえき を始 はじ めたのである。
プロイセン竜騎兵 りゅうきへい
もしプロイセンがオーストリアとの和平 わへい を実現 じつげん させたいなら、シュレージエンの返還 へんかん を認 みと めるしかなかった。しかし大王 だいおう はあくまでシュレージエンを領有 りょうゆう し続 つづ ける姿勢 しせい を内外 ないがい に示 しめ し、断固 だんこ として戦 たたか いを選 えら んだ。宮廷 きゅうてい では銀製 ぎんせい 品 ひん を銀貨 ぎんか に変 か えて資金 しきん を捻出 ひねりだ し、軍 ぐん 再建 さいけん に投 とう じられた。再建 さいけん には550万 まん ターラー を要 よう したとされる。プロイセン軍 ぐん はドイツ中 ちゅう に募兵 ぼへい 官 かん を派遣 はけん して傭兵 ようへい を雇 やと い入 い れるとともにカントン制度 せいど の登録 とうろく 者 しゃ をかき集 あつ め、脱走 だっそう 兵 へい には逃亡 とうぼう を罪 つみ に問 と わないことを約束 やくそく し、臨時 りんじ ボーナスも出 だ して帰還 きかん を呼 よ び掛 か けた。損害 そんがい の大 おお きい部隊 ぶたい や回復 かいふく の遅 おそ い兵士 へいし は要塞 ようさい 守備 しゅび 隊 たい と入 い れ替 か え、シュレージエンでは老 ろう デッサウが訓練 くんれん を課 か して士気 しき と錬 ね 度 たび の回復 かいふく に努 つと めた。
全般 ぜんぱん 的 てき に不利 ふり な情勢 じょうせい の中 なか 、プロイセンにとって都合 つごう の良 よ いことが一 ひと つあった。それは前年 ぜんねん の戦役 せんえき が2月 がつ まで押 お して冬営 とうえい 入 い りが遅 おく れたことと、1745年 ねん 戦役 せんえき の始 はじ まりでバイエルンへの攻撃 こうげき を優先 ゆうせん したことから、シュレージエン方面 ほうめん におけるオーストリア軍 ぐん 主力 しゅりょく 部隊 ぶたい の行動 こうどう 開始 かいし が5月 がつ まで延 の ばされたことだった。これで大王 だいおう はプロイセン軍 ぐん の再建 さいけん に余裕 よゆう を得 え た。
オーストリア軍 ぐん の作戦 さくせん は、主力 しゅりょく に先駆 さきが けて上 うえ シュレージエンにハンガリー勢 ぜい 主体 しゅたい のエステルハージ 軍 ぐん を進出 しんしゅつ させてプロイセン軍 ぐん の注意 ちゅうい を引 ひ きつつ、本隊 ほんたい はザクセン軍 ぐん と合流 ごうりゅう してベーメンから山越 やまご えで直接 ちょくせつ 下 しも シュレージエン に入 はい り、ブレスラウ を目指 めざ すというものだった。オーストリア軍 ぐん の指揮 しき は引 ひ き続 つづ きカール公子 こうし によって行 おこな われたが、前年 ぜんねん にプロイセンを苦 くる しめたトラウンはライン方面 ほうめん に転出 てんしゅつ していた。
3月15日 にち 、大王 だいおう はベルリンを離 はな れ、シュレージエンに戻 もど って指揮 しき を掌握 しょうあく した。老 ろう デッサウをマクデブルク に置 お いてハノーファーとザクセンの両方 りょうほう に対 たい する備 そな えとし、自身 じしん はナイセ からしばらくオーストリア軍 ぐん の動向 どうこう を観察 かんさつ していた。メーレンでの冬営 とうえい を終 お えてオルミュッツに集結 しゅうけつ しつつあるオーストリア軍 ぐん 主力 しゅりょく 部隊 ぶたい が、すでに活動 かつどう を始 はじ めているエステルハージ軍 ぐん に続 つづ いて上 うえ シュレージエンに入 はい るのか、それともベーメンに移動 いどう して山越 やまご えを図 はか るのかが最初 さいしょ の問題 もんだい だった。大王 だいおう はオーストリア軍 ぐん の将校 しょうこう を自軍 じぐん に引 ひ き抜 ぬ くことで、オーストリア軍 ぐん がベーメンからシュレージエンに侵入 しんにゅう することを早 はや い段階 だんかい で知 し った。オーストリア軍 ぐん がベーメンで物資 ぶっし の集積 しゅうせき を行 おこな っていることを大王 だいおう は把握 はあく しており、これは上記 じょうき の情報 じょうほう を裏付 うらづ けた。
5月に入 はい ると、オーストリア軍 ぐん はメーレンからベーメンに移動 いどう した。大王 だいおう は主力 しゅりょく 部隊 ぶたい を、ナイセ、シュヴァイトニッツ 、グラッツの3要塞 ようさい のおおよその中 なか 間 あいだ 点 てん にあるフランケンシュタイン に集結 しゅうけつ させて動 うご かさず、上 うえ シュレージエンのエステルハージ軍 ぐん に対 たい しては兵 へい 数 すう に劣 おと るカール辺境 へんきょう 伯 はく 軍 ぐん のみで遅滞 ちたい 戦術 せんじゅつ に終始 しゅうし させた。大王 だいおう は二 に 重 じゅう スパイを用 もち いて、プロイセン軍 ぐん は損害 そんがい が大 おお きすぎて立 た ち直 なお れず、国境 こっきょう 周辺 しゅうへん での抵抗 ていこう を諦 あきら めてブレスラウへ撤退 てったい するとの偽 にせ 情報 じょうほう を送 おく らせた。大王 だいおう の意図 いと はオーストリア軍 ぐん を積極 せっきょく 的 てき にシュレージエン内 ない に誘引 ゆういん し、平地 ひらち に引 ひ っ張 ぱ り出 だ して一大 いちだい 決戦 けっせん を仕掛 しか け、戦局 せんきょく をひっくり返 かえ すことだった。
オーストリア軍 ぐん ではプロイセン軍 ぐん に対 たい する楽観 らっかん 的 てき な見通 みとお しが支配 しはい 的 てき で、スパイの報告 ほうこく を容易 たやす く信 しん じ、上 うえ シュレージエンでのプロイセン軍 ぐん の消極 しょうきょく 的 てき な抵抗 ていこう や国境 こっきょう 周辺 しゅうへん からの部隊 ぶたい の引 ひ き揚 あ げはこれを裏付 うらづ けるものと考 かんが えられた。シュレージエンではブレスラウへ繋 つな がる道 みち が工兵 こうへい により急遽 きゅうきょ 補修 ほしゅう されているとの知 し らせもオーストリアの認識 にんしき を強化 きょうか したが、これも大王 だいおう の欺瞞 ぎまん 策 さく の一 ひと つだった。大王 だいおう はオーストリア軍 ぐん の予想 よそう 進路 しんろ から、ランデスフート にヴィンターフェルト を、シュヴァイトニッツにデュ・ムーランを置 お いてなおしばらく敵 てき の動 うご きを待 ま った。
5月19日 にち 、ケーニヒグレーツのカール公子 こうし 軍 ぐん が行軍 こうぐん を始 はじ めたと知 し った大王 だいおう は、決戦 けっせん に兵力 へいりょく を集中 しゅうちゅう するために上 うえ シュレージエンからカール辺境 へんきょう 伯 はく 軍 ぐん をも引 ひ き上 あ げることにした。すでにナイセ川 かわ 以南 いなん の地域 ちいき はパンドゥールがすっかり占拠 せんきょ してしまっており、大王 だいおう はツィーテンの騎兵 きへい 部隊 ぶたい を派遣 はけん してイェーゲルンドルフに命令 めいれい を伝達 でんたつ させた。カール辺境 へんきょう 伯 はく も現地 げんち に少数 しょうすう の守備 しゅび 隊 たい を残 のこ してすぐ行動 こうどう に移 うつ り、22日 にち には攻撃 こうげき してきた優勢 ゆうせい なオーストリア軍 ぐん を良 よ く撃退 げきたい し、そのまま敵 てき 中 ちゅう を押 お し通 とお って27日 にち にフランケンシュタインに到着 とうちゃく した。
同 おな じ22日 にち 、オーストリア軍 ぐん のナドシュディ率 ひき いる前衛 ぜんえい 部隊 ぶたい はランデスフートに達 たっ してヴィンターフェルトを攻撃 こうげき し、ヴィンターフェルトは速 すみ やかに後退 こうたい して大王 だいおう に敵 てき の到着 とうちゃく を報告 ほうこく した。オーストリア軍 ぐん 本隊 ほんたい は26日 にち から順次 じゅんじ 峠 とうげ を越 こ えてランデスフートに到着 とうちゃく し、ザクセン=ヴァイセンフェルス公 こう のザクセン軍 ぐん も合流 ごうりゅう して、31日 にち まで一旦 いったん 同地 どうち に停止 ていし して陣容 じんよう を整 ととの えた。
5月30日 にち 、大王 だいおう 率 ひき いるプロイセン軍 ぐん はいよいよ決戦 けっせん に向 む けて行軍 こうぐん を開始 かいし した。同日 どうじつ 中 ちゅう にライヘンバッハ まで進出 しんしゅつ 、31日 にち にはシュヴァイトニッツに到着 とうちゃく し、同地 どうち からアルト・ヤウエルニッヒ にかけて宿営 しゅくえい した。ヤウエルニッヒに本営 ほんえい を構 かま えた大王 だいおう はデュ・ムーランに、シュヴァイトニッツの北 きた のシュトリーガウ にあって偵察 ていさつ 網 もう を展開 てんかい するように命 めい じ、自身 じしん はシュトリーガウ西方 せいほう の土地 とち を偵察 ていさつ して敵 てき の到着 とうちゃく を待 ま った。
6月3日 にち 、連合 れんごう 軍 ぐん は山地 さんち を降 お りてシュトリーガウ西方 せいほう ホーエンフリートベルク に到着 とうちゃく した。連合 れんごう 軍 ぐん は、プロイセン軍 ぐん の決戦 けっせん を意図 いと しての計画 けいかく 的 てき 行軍 こうぐん を、ナイセやグラッツを睨 にら んでいた大王 だいおう が北 きた からの侵入 しんにゅう に驚 おどろ いて急遽 きゅうきょ 転進 てんしん してきたものと見 み なし、ブレスラウに回 まわ り込 こ まれ本国 ほんごく との連絡 れんらく を起 た たれるの恐 おそ れてすぐにも撤退 てったい するであろうと推測 すいそく した。翌 よく 6月 がつ 4日 にち に行 おこな われたホーエンフリートベルクの戦 たたか い はプロイセン軍 ぐん の大勝 たいしょう となった。
大王 だいおう にとって、1745年 ねん 以降 いこう この戦争 せんそう の目的 もくてき はシュレージエン領有 りょうゆう の保障 ほしょう された和平 わへい を獲得 かくとく することにあった。ゆえに以後 いご のプロイセン軍 ぐん の行動 こうどう は全 すべ て和平 わへい 交渉 こうしょう へ良 よ い影響 えいきょう を与 あた えようという目的 もくてき に沿 そ って行 おこな われた。会戦 かいせん に勝利 しょうり した後 のち 、大王 だいおう は再 ふたた びデュ・ムーランやヴィンターフェルトの部隊 ぶたい を送 おく って国境 こっきょう の山地 さんち を回復 かいふく させたが、主力 しゅりょく でもって敗走 はいそう した連合 れんごう 軍 ぐん を追撃 ついげき し撃滅 げきめつ しようとはしなかった。これはのちの軍事 ぐんじ 史家 しか からはしばしば批判 ひはん されたことであるが、大王 だいおう が追撃 ついげき を見送 みおく ったその理由 りゆう は、一 ひと つにはこの時代 じだい の戦争 せんそう それ自体 じたい がナポレオン戦争 せんそう の頃 ころ とは異 こと なり、追撃 ついげき を重視 じゅうし しなかった(できなかった)ことにあり、いま一 ひと つはプロイセン軍 ぐん の兵站 へいたん 整備 せいび が未 いま だ前年 ぜんねん の損害 そんがい を回復 かいふく しておらず、準備 じゅんび なくベーメンに踏 ふ み込 こ めば前年 ぜんねん の二 に の舞 まい になりかねなかったからである。
補給 ほきゅう 態勢 たいせい を整 ととの えたプロイセン軍 ぐん は、6月 がつ 中旬 ちゅうじゅん から山 やま を越 こ えてベーメン北東 ほくとう 部 ぶ エルベ上 じょう 流域 りゅういき へ進出 しんしゅつ し、ケーニヒグレーツで連合 れんごう 軍 ぐん と対峙 たいじ した。会戦 かいせん 敗北 はいぼく 後 ご ケーニヒグレーツまで撤退 てったい し、そこに留 とど まっていたカール公子 こうし は、自軍 じぐん をケーニヒグレーツの南 みなみ 、エルベ川 がわ 東岸 とうがん のエルベとオドラ に挟 はさ まれた要害 ようがい の地 ち に置 お いて防御 ぼうぎょ を固 かた めていた。対 たい する大王 だいおう も6月 がつ 18日 にち 、オドラ北岸 ほくがん 、ケーニヒグレーツ北東 ほくとう に陣 じん を構 かま えた。両 りょう 軍 ぐん の陣地 じんち はすぐに会戦 かいせん に転 てん じることのできるほど接近 せっきん していたが、カール公子 こうし に会戦 かいせん に訴 うった えるような戦意 せんい はなく、大王 だいおう の意図 いと もあくまでオーストリア軍 ぐん にプレッシャーをかけることにあった。このため戦闘 せんとう は起 お こらなかった。
大王 だいおう はホーエンフリートベルクの戦 たたか いの後 のち 、さっそくイギリスに和平 わへい 交渉 こうしょう を始 はじ めるよう働 はたら きかけていた。ホーエンフリートベルクより先 さき の5月 がつ 11日 にち にはフォントノワの戦 たたか い においてイギリス、オーストリア、オランダ連合 れんごう 軍 ぐん がフランス軍 ぐん に敗北 はいぼく しており、イタリア方面 ほうめん においてもフランス・スペイン連合 れんごう が優勢 ゆうせい で、1745年 ねん 夏 なつ の戦況 せんきょう は春 はる とは大 おお きく変 か わって反 はん オーストリア側 がわ に分 ぶん があった。ケーニヒグレーツで睨 にら みあいを続 つづ けてイギリスとの交渉 こうしょう 進展 しんてん を待 ま つその間 あいだ に、大王 だいおう はナッサウを上 うえ シュレージエンに増派 ぞうは してエステルハージ軍 ぐん を押 お し戻 もど すよう命 めい じ、一方 いっぽう でマクデブルクの老 ろう デッサウ軍 ぐん にはザクセン国境 こっきょう で示威 じい 行動 こうどう を行 おこな わせ、ザクセンを戦争 せんそう から離脱 りだつ させようと図 はか った。
ケーニヒグレーツで対陣 たいじん して1カ月 かげつ も経 た つと、プロイセン軍 ぐん は土地 とち 周辺 しゅうへん の物資 ぶっし を消費 しょうひ しつくしてしまい、新 あたら しい別 べつ の土地 とち に移 うつ らなければならなかった。7月 がつ 20日 はつか 、プロイセン軍 ぐん はエルベ左岸 さがん に渡河 とか してクルムを中心 ちゅうしん にピストリッツ からエルベまでの領域 りょういき を占領 せんりょう し[ 7] 、なお交渉 こうしょう の進展 しんてん を待 ま った。この間 あいだ ザクセン軍 ぐん は本国 ほんごく の状況 じょうきょう に危機 きき を感 かん じ、部隊 ぶたい の多 おお くを帰還 きかん させたが、オーストリア軍 ぐん にはなおしばらく動 うご きはなかった。
この頃 ころ フランスは、プロイセンの要求 ようきゅう に応 こた えることなくドイツの戦局 せんきょく について関心 かんしん を示 しめ すことがなかった。神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい の選出 せんしゅつ 会議 かいぎ を開 ひら くフランクフルトは当時 とうじ フランスのコンティ 軍 ぐん が押 お さえていたが、このフランクフルト確保 かくほ のためにオーストリアのトラウン軍 ぐん が前進 ぜんしん してくると、コンティ軍 ぐん は戦闘 せんとう を回避 かいひ してライン左岸 さがん に撤退 てったい してしまった。当時 とうじ 両国 りょうこく の間 あいだ ではもうほとんど連携 れんけい は行 おこな われなかった。
一方 いっぽう イギリスは、ネーデルラント方面 ほうめん での戦況 せんきょう 劣勢 れっせい に加 くわ えて、フランスがチャールズ若 わか 僭王 の上陸 じょうりく 支援 しえん を画策 かくさく 中 ちゅう との報告 ほうこく も寄 よ せられていたことから、プロイセンとオーストリアの講和 こうわ を斡旋 あっせん することに再 ふたた び前向 まえむ きになっていた。8月26日 にち 、ハノーファーでの最終 さいしゅう 交渉 こうしょう の結果 けっか 、和平 わへい は1742年 ねん のブレスラウ条約 じょうやく を元 もと にすること、和平 わへい 成立 せいりつ の際 さい にはプロイセンはフランツ・シュテファンの皇帝 こうてい 即位 そくい を認 みと めることを条件 じょうけん に、イギリスはオーストリアとの講和 こうわ 斡旋 あっせん を行 おこな うという内容 ないよう のハノーファー協定 きょうてい を結 むす んだ。
プロイセンの兵士 へいし たち
マリア・テレジアは、大王 だいおう の期待 きたい に反 はん して戦意 せんい 旺盛 おうせい であり、プロイセンからシュレージエンを奪 うば い返 かえ すためにさらなる戦 たたか いを望 のぞ んでいた。よって女王 じょおう はイギリスの大使 たいし トマス・ロビンソン が提案 ていあん した講和 こうわ を拒否 きょひ した。イギリスとオランダはオーストリアが西方 せいほう に兵力 へいりょく を回 まわ さないのが不満 ふまん でザクセンへの資金 しきん 援助 えんじょ を渋 しぶ っており、今年 ことし 1月 がつ に結 むす ばれたばかりのワルシャワ条約 じょうやく は早 はや くも空文 くうぶん 化 か していた。このためオーストリアはザクセンを自国 じこく 側 がわ に繋 つな ぎとめるためにケーフェンヒュラー を送 おく り、8月 がつ 29日 にち にドレスデンで自国 じこく との同盟 どうめい を再 さい 確認 かくにん した。さらに女王 じょおう はロシアに参戦 さんせん を呼 よ び掛 か けて三 さん カ国 かこく によるプロイセン攻撃 こうげき の計画 けいかく を構想 こうそう した。
近日 きんじつ 中 ちゅう の夫 おっと の皇帝 こうてい 即位 そくい が予定 よてい される中 なか 、女王 じょおう はカール公子 こうし 軍 ぐん に兵士 へいし の補充 ほじゅう を行 おこな わせるとともに、ロプコヴィッツ とダレンベルク の両 りょう 将軍 しょうぐん を送 おく って補佐 ほさ 役 やく とし、カール公子 こうし に断固 だんこ としてプロイセン軍 ぐん への攻撃 こうげき を命 めい じた。カール公子 こうし は、軍 ぐん の一部 いちぶ にエルベ東岸 とうがん を北上 ほくじょう させてプロイセン軍 ぐん のシュレージエンとの連絡 れんらく 線 せん を攻撃 こうげき してこれを断 た ち、一方 いっぽう で主力 しゅりょく はエルベ西岸 せいがん に渡 わた って大王 だいおう 軍 ぐん を圧迫 あっぱく し、北 きた に追 お いやってベーメンから撤退 てったい させることを目指 めざ した。
オーストリア軍 ぐん が北上 ほくじょう を開始 かいし したとき、プロイセン軍 ぐん 部隊 ぶたい は占領 せんりょう 地 ち で物資 ぶっし 調達 ちょうたつ を容易 ようい にするために広 ひろ く分散 ぶんさん しており、まずは集結 しゅうけつ を図 はか らなければならなかった。大王 だいおう はオーストリア軍 ぐん の行動 こうどう によって女王 じょおう が戦争 せんそう 継続 けいぞく を選 えら んだことを知 し り、和平 わへい への見通 みとお しが甘 うま かったことを悟 さと った。上 うえ シュレージエンの回復 かいふく やザクセン牽制 けんせい のために部隊 ぶたい を派遣 はけん してベーメンのプロイセン軍 ぐん は数 かず を減 へ らしていたため、大王 だいおう はベーメンでの交戦 こうせん はせずにシュレージエンへ撤退 てったい することにし、オーストリア軍 ぐん はこれを追 お った。
プロイセン軍 ぐん の補給 ほきゅう 路 ろ では例 れい によってトレンク、フランキーニ といった指揮 しき 官 かん に率 ひき いられたオーストリア軍 ぐん 軽 けい 歩兵 ほへい 部隊 ぶたい による攻撃 こうげき が行 おこな われた。プロイセン軍 ぐん も彼 かれ らへの対処 たいしょ 方法 ほうほう を経験 けいけん によって学 まな び、複数 ふくすう のルートを設 もう けて補給 ほきゅう 部隊 ぶたい に大 おお きな護衛 ごえい 部隊 ぶたい を付 つ け、中継 ちゅうけい 基地 きち の守備 しゅび も固 かた めていたが、グラッツ方面 ほうめん の連絡 れんらく 線 せん は度重 たびかさ なる攻撃 こうげき によって放棄 ほうき せざるを得 え なかった。大王 だいおう に随行 ずいこう していたフランスの大使 たいし ヴァロリー は、フランキーニによる退却 たいきゃく 路 ろ への先回 さきまわ りした攻撃 こうげき によって危 あや うく捕虜 ほりょ になりかけ、秘書 ひしょ ダルジェ が機転 きてん を利 き かせて自 みずか ら身代 みが わりとなることで危機 きき を脱 だっ したこともあった。食糧 しょくりょう 不足 ふそく に苦 くる しむようなことはなかったが、この攻撃 こうげき はプロイセン軍 ぐん に対 たい して大 おお きな圧力 あつりょく となり、また警備 けいび に兵力 へいりょく を割 さ かねばならなくなった。
9月18日 にち 、プロイセン軍 ぐん はヤロミッツ でエルベ川 がわ 東岸 とうがん に渡 わた り、北上 ほくじょう してシュレージエンを目指 めざ した。退却 たいきゃく 進路 しんろ をオーストリア軍 ぐん から守 まも るためにデュ・ムーラン、ヴィンターフェルト、レーヴァルトらを次々 つぎつぎ に送 おく り出 だ したことで、もともと少 すく なくなっていた大王 だいおう 軍 ぐん の戦力 せんりょく は2万 まん 程度 ていど にまで落 お ち込 こ んでいた。これに対 たい して4万 まん の兵力 へいりょく を持 も つカール公子 こうし 軍 ぐん は積極 せっきょく 的 てき に敵 てき を追 お い、9月29日 にち 夜 よる 、ゾーア においてプロイセン軍 ぐん に会戦 かいせん を仕掛 しか けるため接近 せっきん した。このとき大王 だいおう は、あくまで敵 てき の行動 こうどう は自軍 じぐん を機動 きどう によって撤退 てったい させることにあると考 かんが えて敵 てき の戦意 せんい を過小 かしょう 評価 ひょうか し、警戒 けいかい を怠 おこた ってその接近 せっきん を許 ゆる した。翌 よく 30日 にち 早朝 そうちょう 、敵 てき のすぐそこに迫 せま っていることに気付 きづ いた大王 だいおう は兵力 へいりょく 半分 はんぶん ながら攻撃 こうげき に出 で 、ゾーアの戦 たたか い に勝利 しょうり した。
ゾーアの戦 たたか いの後 のち 、大王 だいおう は軍 ぐん を同地 どうち に5日間 にちかん 留 と め、内外 ないがい に勝利 しょうり を印象 いんしょう 付 つ けてから10月 がつ 6日 にち に撤退 てったい を再開 さいかい し、19日 にち に国境 こっきょう を越 こ えてシュレージエンに戻 もど った。大王 だいおう はこの戦勝 せんしょう によってオーストリアに講和 こうわ を受 う け入 い れさせることができると考 かんが えており、今年 ことし の戦役 せんえき は終 お わりと判断 はんだん してシュレージエンの軍 ぐん およびザクセン国境 こっきょう の軍 ぐん を冬営 とうえい に入 はい らせた。
このような精神 せいしん 的 てき 影響 えいきょう を顧慮 こりょ する勝利 しょうり が特 とく に重要 じゅうよう であることを注意 ちゅうい するために、ゾールの会戦 かいせん だけを指摘 してき しておく。この会戦 かいせん の戦利 せんり 品 ひん はさほど大 だい ではなかった(捕虜 ほりょ 数 すう 千 せん と火砲 かほう 二 に 十 じゅう 門 もん )。しかしフリードリヒ大王 だいおう は、すでにシュレージエンへの退却 たいきゃく を決意 けつい し、また軍 ぐん の情況 じょうきょう から推 お してこの退却 たいきゃく は十分 じゅうぶん な根拠 こんきょ を有 ゆう したにも拘 かかわ らず、彼 かれ はなお五 ご 日間 にちかん 戦場 せんじょう を保持 ほじ して初 はじ めて戦勝 せんしょう を布告 ふこく した。フリードリヒがみずから語 かた っているように、彼 かれ はこの戦勝 せんしょう による精神 せいしん 的 てき 圧力 あつりょく をもって講和 こうわ を招来 しょうらい し得 え ると考 かんが えたのである。尤 もっと もこの講和 こうわ が実現 じつげん するにはなお二 に 回 かい の戦勝 せんしょう が必要 ひつよう であった。即 すなわ ちラウジッツ地方 ちほう のカトーリッシュ‐ヘンネルスドルフの戦闘 せんとう とケッセルスドルフの会戦 かいせん とにおける勝利 しょうり である。しかし何 なん びとといえども、ゾールの会戦 かいせん の与 あた えた精神 せいしん 的 てき 効果 こうか は零 れい であった、と言 い い切 き ることはできまい。
クラウゼヴィッツ が解説 かいせつ するように[ 8] 、大王 だいおう の期待 きたい は外 はず れた。いまや女帝 にょてい (皇后 こうごう )となったマリア・テレジアは、ロシアの参戦 さんせん 承諾 しょうだく を得 え て、プロイセンに対 たい し三 さん 方向 ほうこう からの大 だい 規模 きぼ な攻撃 こうげき を企図 きと していたからである。
その内容 ないよう は、まず第 だい 一 いち に、カール公子 こうし 軍 ぐん をラウジッツ に入 い れてザクセン軍 ぐん の一部 いちぶ と合流 ごうりゅう させ、そこから北東 ほくとう に進出 しんしゅつ してオーデル川 がわ に出 で て、プロイセン本国 ほんごく とシュレージエンのプロイセン軍 ぐん の連絡 れんらく を断 た ち、そのうえで東 ひがし からベルリンを狙 ねら う。第 だい 二 に に、ザクセンからザクセン軍 ぐん 主力 しゅりょく 部隊 ぶたい であるルトフスキー 軍 ぐん をマクデブルクに進出 しんしゅつ させて冬営 とうえい 中 ちゅう のマクデブルク軍 ぐん を攻撃 こうげき 、敗走 はいそう させ、そのあとブランデンブルクに直進 ちょくしん させて西 にし からベルリンを狙 ねら う。この二 ふた つの攻撃 こうげき を応援 おうえん するためにオーストリア軍 ぐん は、ライン方面 ほうめん からグリュネ の部隊 ぶたい をザクセンに転進 てんしん させてルトフスキー軍 ぐん とカール公子 こうし 軍 ぐん の東西 とうざい の間隔 かんかく を埋 う め、ハンガリー勢 ぜい の一部 いちぶ に下 しも シュレージエンへの侵入 しんにゅう を試 こころ みさせることでプロイセンの注意 ちゅうい をそちらに惹 ひ きつける。第 だい 三 さん に、ロシア軍 ぐん は応援 おうえん のためにポーランド経由 けいゆ でザクセン本国 ほんごく に部隊 ぶたい を進出 しんしゅつ させ、同時 どうじ に東 ひがし プロイセン を攻撃 こうげき する。
この構想 こうそう はオーストリア継承 けいしょう 戦争 せんそう においてオーストリアが企図 きと した作戦 さくせん の中 なか でもっとも大 だい 規模 きぼ なもので、もしこれが成功 せいこう したならば、今年 ことし の戦役 せんえき は終 お わったものと思 おも い込 こ んで冬営 とうえい に入 はい っていたプロイセン軍 ぐん は敵 てき の侵入 しんにゅう への対応 たいおう が遅 おく れ、プロイセンの主要 しゅよう な軍 ぐん 勢力 せいりょく であるシュレージエン軍 ぐん とマクデブルク軍 ぐん はそれぞれベルリンから分断 ぶんだん された状態 じょうたい で各個 かっこ に撃破 げきは され、ベルリンはわずかな守備 しゅび 隊 たい だけで敵 てき に直面 ちょくめん することになり、そこへさらにロシアの攻撃 こうげき が重 かさ なることになったであろう。プロイセンとの戦 たたか いに戦力 せんりょく を集中 しゅうちゅう させたい女帝 にょてい は、もしこの作戦 さくせん が成功 せいこう するようなら、かなりの譲歩 じょうほ を行 おこな ってでもフランスとただちに講和 こうわ しようとも考 かんが えていた。もっともこの作戦 さくせん は、プロイセン軍 ぐん がこちらの攻撃 こうげき にすばやく反応 はんのう した場合 ばあい 、ルトフスキー軍 ぐん はマクデブルク軍 ぐん と、カール公子 こうし 軍 ぐん はシュレージエン軍 ぐん とそれぞれ本格 ほんかく 的 てき な会戦 かいせん を行 おこな わざるを得 え ず、カール公子 こうし は自軍 じぐん が敗戦 はいせん 続 つづ きで著 いちじる しく消耗 しょうもう しており、士気 しき も沈滞 ちんたい して、装備 そうび の補充 ほじゅう も進 すす んでいないことからそのリスクを恐 おそ れてこの作戦 さくせん に反対 はんたい だった。
三 さん カ国 かこく によるプロイセン攻撃 こうげき 計画 けいかく は、ザクセンの宰相 さいしょう ブリュール がスウェーデン大使 たいし にその存在 そんざい を漏 も らしたことから[ 9] 、駐 ちゅう ベルリン・スウェーデン大使 たいし を通 つう じてただちに大王 だいおう に報告 ほうこく された。これを聞 き いて大王 だいおう はポデヴィルスと老 ろう デッサウを招集 しょうしゅう して検討 けんとう 会議 かいぎ を開 ひら いた。両者 りょうしゃ はともに作戦 さくせん 実施 じっし の困難 こんなん さとザクセンの戦意 せんい を疑 うたが ってこの情報 じょうほう に懐疑 かいぎ 的 てき で、しばらく様子 ようす を見 み るよう大王 だいおう に提案 ていあん したが、大王 だいおう は敵 てき の意図 いと を正 ただ しく判断 はんだん しただちに対抗 たいこう 作戦 さくせん を立案 りつあん して2人 にん にその準備 じゅんび を命 めい じた。
大王 だいおう は各 かく 部隊 ぶたい にひそかに戦闘 せんとう 準備 じゅんび を整 ととの えさせることだけをさせて、自軍 じぐん をすぐに動 うご かすことはしなかった。大王 だいおう の作戦 さくせん は、まず、自国 じこく がオーストリア軍 ぐん の行動 こうどう には気 き が付 つ いていないように見 み せかけることによって、ラウジッツに向 む けて行軍 こうぐん 中 ちゅう のカール公子 こうし 軍 ぐん を国境 こっきょう 近 ちか くまで引 ひ きつけ、そこで大王 だいおう 率 ひき いる主力 しゅりょく 部隊 ぶたい が強襲 きょうしゅう をかける。次 つぎ にハレ に集結 しゅうけつ した老 ろう デッサウ軍 ぐん がザクセンに進出 しんしゅつ し、ザクセン軍 ぐん を撃破 げきは する、というものであった。ベルリン防衛 ぼうえい にはハッケ に少数 しょうすう の部隊 ぶたい を与 あた えるだけに留 と め、大王 だいおう は野戦 やせん によってすみやかに敵 てき 主戦 しゅせん 力 りょく を無力 むりょく 化 か し、ロシアの介入 かいにゅう 前 まえ に決着 けっちゃく をつけることを狙 ねら っていた。
アンハルト=デッサウ侯 こう レオポルト1世 せい
11月、大王 だいおう はシュレージエンに移 うつ るとヴィンターフェルトに3千 せん の兵 へい を与 あた えてザクセンとの国境 こっきょう であるボーベア川 かわ とクヴァイス川 がわ の地域 ちいき に展開 てんかい させ、敵 てき 斥候 せっこう の侵入 しんにゅう を阻止 そし するとともに敵 てき 軍 ぐん の行動 こうどう を偵察 ていさつ させた。また上 うえ シュレージエンからナッサウを呼 よ び戻 もど して下 しも シュレージエンとベーメンとの国境 こっきょう を守 まも らせ、自 みずか らは主力 しゅりょく とともに動 うご くことなく時期 じき を待 ま った。カール公子 こうし 軍 ぐん はヴィンターフェルトによって視界 しかい を塞 ふさ がれたまま、フランクフルト・アン・デア・オーデル への進軍 しんぐん を目指 めざ してラウジッツに入 はい った。連合 れんごう 軍 ぐん はナイセ川 がわ とクヴァイス川 がわ の間 あいだ に展開 てんかい し、右翼 うよく のクヴァイス川 がわ をザクセン軍 ぐん が守 まも っていた。
11月23日 にち 、プロイセン軍 ぐん は強行 きょうこう 軍 ぐん でもって一気 いっき に敵 てき に接近 せっきん 、ナウムブルク でクヴァイス川 がわ 左岸 さがん に渡 わた るとヘンネルスドルフの戦 たたか い でザクセン軍 ぐん を急襲 きゅうしゅう してこれを敗走 はいそう させた。25日 にち にはオーストリア軍 ぐん が物資 ぶっし 集積 しゅうせき 基地 きち としていたゲルリッツ を攻撃 こうげき して占領 せんりょう した。敵 てき の行動 こうどう を全 まった く把握 はあく していなかったカール公子 こうし 軍 ぐん はプロイセン軍 ぐん の攻撃 こうげき に対応 たいおう できず、ザクセン軍 ぐん を援護 えんご することもゲルリッツを救 すく うこともできなかった。大王 だいおう はゲルリッツを落 お とした後 のち すぐオーストリア軍 ぐん 主力 しゅりょく を撃滅 げきめつ しようとしたが、カール公子 こうし はゲルリッツ陥落 かんらく で作戦 さくせん に必要 ひつよう だった物資 ぶっし を失 うしな い、うかうかしているとツィッタウに先回 さきまわ りされて補給 ほきゅう 線 せん を完全 かんぜん に断 た たれるため、当初 とうしょ の目的 もくてき を早々 そうそう に放棄 ほうき してベーメンへ退却 たいきゃく した。この一連 いちれん の戦闘 せんとう で、プロイセン軍 ぐん がごくわずかの損害 そんがい で目的 もくてき を達成 たっせい したのに対 たい し、オーストリア軍 ぐん は大量 たいりょう の物資 ぶっし に加 くわ えて5千 せん の兵 へい を失 うしな ったとされる。
ラウジッツにおいて敵 てき 軍 ぐん を下 くだ した後 のち 、ゲルリッツに本営 ほんえい を置 お いた大王 だいおう はしばらく兵 へい を休 やす めて強行 きょうこう 軍 ぐん によって乱 みだ れた軍 ぐん を整 ととの える間 あいだ に、ヴィンターフェルトをシュレージエンのナッサウの援護 えんご に回 まわ し、レーヴァルト軍 ぐん を本隊 ほんたい に先駆 さきが けて西進 せいしん させた。ナイセとエルベの間 あいだ をつないでいたグリュネ軍 ぐん は、カール公子 こうし 軍 ぐん の敗北 はいぼく とレーヴァルト軍 ぐん の接近 せっきん を知 し って西 にし に撤退 てったい し、ルトフスキー軍 ぐん と合流 ごうりゅう した。
そのころハレを進発 しんぱつ した老 ろう デッサウ軍 ぐん はライプツィヒ を占領 せんりょう 、エルベ川 がわ に転進 てんしん してトルガウ を攻略 こうりゃく していた。ロシア介入 かいにゅう 前 まえ にザクセンを戦争 せんそう から脱落 だつらく させたい大王 だいおう は老 ろう デッサウに速 すみ やかに進撃 しんげき せよと命 めい じていたのに、老 ろう デッサウはいちいち補給 ほきゅう 倉庫 そうこ とパン焼 ぱんや き窯 かま を設置 せっち してからでないと軍 ぐん を進 すす ませなかった。大王 だいおう の度重 たびかさ なる速戦即決 そくせんそっけつ 命令 めいれい に対 たい し、長老 ちょうろう たる老 ろう デッサウは容易 ようい に従 したが わず、自分 じぶん 流 りゅう の戦争 せんそう のやり方 かた に拘 かかわ った。
しかしこの間 あいだ 、ガベル からリトメリッツでエルベ川 がわ に出 で たカール公子 こうし 軍 ぐん がザクセンに急行 きゅうこう しつつあり、はやくルトフスキー軍 ぐん を撃破 げきは しなければカール公子 こうし 軍 ぐん と合流 ごうりゅう されてしまう可能 かのう 性 せい があった。敵 てき 戦力 せんりょく の各個 かっこ 撃破 げきは を望 のぞ む大王 だいおう は自 みずか らもバウツェン を経 へ てドレスデンに向 む かう一方 いっぽう 、老 ろう デッサウにただちにドレスデンを攻 せ めるよう重 かさ ねて命令 めいれい した。
12月12日 にち 、ゴルツ を先鋒 せんぽう とする老 ろう デッサウ軍 ぐん はマイセン を占領 せんりょう し、マイセンの橋 はし を渡 わた ってきたレーヴァルト軍 ぐん と合流 ごうりゅう した。13日 にち には一旦 いったん ドレスデンに向 む けて行進 こうしん しかけたところ、ロエル 率 ひき いるザクセン竜騎兵 りゅうきへい 部隊 ぶたい の襲撃 しゅうげき を受 う け、これを退 しりぞ けた。翌日 よくじつ 再 ふたた びドレスデンに向 む けて行軍 こうぐん を開始 かいし したプロイセン軍 ぐん は15日 にち 、ドレスデンの北 きた で待 ま ち受 う けていたルトフスキー軍 ぐん に会戦 かいせん を挑 いど み、ケッセルスドルフの戦 たたか い で勝利 しょうり した。
1748年 ねん のドレスデン
ケッセルスドルフの戦 たたか いはタイミングに着目 ちゃくもく すれば実 じつ に際 きわ どいものであった。戦 たたか いのあった15日 にち にはすでにカール公子 こうし 軍 ぐん の先鋒 せんぽう がドレスデン郊外 こうがい に到着 とうちゃく しつつあり、ルトフスキーが会戦 かいせん に及 およ ぶ前 まえ にカール公子 こうし に強行 きょうこう 軍 ぐん を要請 ようせい するか、あるいはルトフスキーがドレスデンの南 みなみ に陣 じん を下 さ げていれば、また違 ちが った結果 けっか になったかもしれないとされる[ 10] 。もっとも同様 どうよう に大王 だいおう 軍 ぐん も15日 にち にはマイセンでエルベ川 がわ を渡河 とか しているわけで、この場合 ばあい 、ドレスデン前面 ぜんめん でホーエンフリートベルクの戦 たたか いに匹敵 ひってき する規模 きぼ の大会 たいかい 戦 せん が行 おこな われた可能 かのう 性 せい もあった。ルトフスキーが上記 じょうき の選択肢 せんたくし を取 と らなかった理由 りゆう については、ルトフスキーがケッセルスドルフの地形 ちけい の利 り に自信 じしん を持 も っていたためとも、功名 こうみょう 心 しん のためとも言 い われる。カール公子 こうし の方 ほう も、状況 じょうきょう が切迫 せっぱく しているにもかかわらず強行 きょうこう 軍 ぐん を行 おこな わなかった。
敗走 はいそう したルトフスキー軍 ぐん はドレスデンの南 みなみ ですぐカール公子 こうし 軍 ぐん と合流 ごうりゅう することになるが、両者 りょうしゃ はともにドレスデン防衛 ぼうえい を諦 あきら めてピルナまで後退 こうたい した。選 せん 帝 みかど 侯 こう とブリュールもプラハに避難 ひなん した。12月17日 にち 、ドレスデン守備 しゅび 隊 たい は降伏 ごうぶく してプロイセン軍 ぐん はドレスデンに入城 にゅうじょう し、翌 よく 18日 にち 大王 だいおう もドレスデンに到着 とうちゃく した。大王 だいおう は老 ろう デッサウに会 あ うと彼 かれ の軍 ぐん 歴 れき 最後 さいご の勝利 しょうり を讃 たた え、会戦 かいせん 前 まえ のいざこざを水 みず に流 なが した。
一方 いっぽう 同 おな じドレスデンで、カール公子 こうし 軍 ぐん とほぼ同時 どうじ に到着 とうちゃく したオーストリア特命 とくめい 大使 たいし ハラッハ が駐 ちゅう ドレスデン・フランス大使 たいし ヴォルグナン と会見 かいけん し、フランスのい分 いぶん をかなり呑 の んだうえでの単独 たんどく 講和 こうわ を申 もう し入 い れていたが、いま目 め の前 まえ でザクセン軍 ぐん が敗走 はいそう し、プロイセン軍 ぐん が勝利 しょうり を祝 いわ っている状況 じょうきょう で交渉 こうしょう は成功 せいこう するはずもなかった。ピルナの連合 れんごう 軍 ぐん はプロイセン軍 ぐん に圧迫 あっぱく されてベーメンに引 ひ き下 さ がっていたが、ザクセンはすでに軍 ぐん の半数 はんすう を失 うしな っており、プロイセンとの講和 こうわ に応 おう じる姿勢 しせい を示 しめ していた。かねてよりのイギリスの圧力 あつりょく もあって、女帝 にょてい はついに講和 こうわ を受 う け入 い れ、ハラッハに予定 よてい を変更 へんこう してプロイセンとの交渉 こうしょう の席 せき に着 つ くよう命 めい じた。
交渉 こうしょう は、ベルリンから出 で てきたプロイセンの外務 がいむ 大臣 だいじん ポデヴィルス、イギリス駐 ちゅう ドレスデン大使 たいし トマス・ヴィラーズ 、ザクセンの大臣 だいじん ザウル 、そしてオーストリアの大使 たいし ハラッハの四 よん 者 しゃ によって行 おこな われた。
この時点 じてん の戦況 せんきょう に限 かぎ ってみれば、プロイセンがすこぶる優勢 ゆうせい であったが、しかしもし戦争 せんそう を続行 ぞっこう すれば、ロシアの参戦 さんせん を受 う けねばならず、またこの時 とき のプロイセンは戦争 せんそう を継続 けいぞく するのに必要 ひつよう な資金 しきん が尽 つ きていた。このため大王 だいおう は、欲 よく を出 だ して戦争 せんそう を長引 ながび かせるようなことをせず、戦況 せんきょう に照 て らして些少 さしょう とも思 おも える条件 じょうけん で満足 まんぞく した。12月25日 にち 、ドレスデン条約 じょうやく が締結 ていけつ され、ここに第 だい 二 に 次 じ シュレージエン戦争 せんそう は終結 しゅうけつ した。
フランス大使 たいし のヴァロリーは当時 とうじ ベルリンにいて条約 じょうやく 交渉 こうしょう の蚊帳 かや の外 そと に置 お かれており、プロイセンが単独 たんどく 講和 こうわ の方針 ほうしん であるのを知 し って慌 あわ てて抗議 こうぎ したが遅 おそ かった。ヴァロリーの部下 ぶか ダルジェがドレスデンに派遣 はけん されてきて、大王 だいおう と会見 かいけん して翻意 ほんい の可能 かのう 性 せい を探 さぐ った[ 11] 。ダルジェは、ドイツの英雄 えいゆう となられたあなたは今度 こんど はヨーロッパに平和 へいわ をもたらす役割 やくわり を担 にな う気 き はありませんか、というい方 いかた で大王 だいおう に自国 じこく への協力 きょうりょく を求 もと めたが、大王 だいおう は、それはあまりに危険 きけん な役割 やくわり であり、この間 あいだ ベルリンから打 う って出 で たようなときのような気分 きぶん にはもうなれないと言 い って断 ことわ った。オーストリアがシュレージエンを諦 あきら めるとは思 おも えませんが、とダルジェは食 く い下 さ がったが、大王 だいおう は、先 さき のことはわからないが、わが身 み を守 まも るとき以外 いがい には私 わたし はもう猫 ねこ を襲 おそ わない、と答 こた えるのみであった。
条約 じょうやく が締結 ていけつ されると大王 だいおう はすぐドレスデンを去 さ り、年 とし が変 か わる前 まえ にベルリンに帰還 きかん したが、このとき市民 しみん や宮廷 きゅうてい 人 じん は「フリードリヒ大王 だいおう 万 まん 歳 さい 」の声 こえ で迎 むか えた。「大王 だいおう 」の尊称 そんしょう はホーエンフリートベルクの戦勝 せんしょう 後 ご に言 い われたのが初出 しょしゅつ とされるが、その後 ご いくつもの戦闘 せんとう で勝利 しょうり を収 おさ め、戦争 せんそう を終結 しゅうけつ させたこの時 とき 以来 いらい 一般 いっぱん に知 し られるようになった。
プロイセンはバイエルンを利用 りよう してオーストリアを弱体 じゃくたい 化 か させ、ベーメンに領地 りょうち を獲得 かくとく することはできなかったものの、シュレージエンの領有 りょうゆう を再 ふたた び認 みと めさせることには成功 せいこう した。一方 いっぽう のオーストリアは、プロイセンの攻撃 こうげき を凌 しの ぐことはできたが、シュレージエンの回復 かいふく には失敗 しっぱい した。プロイセンのシュレージエン領有 りょうゆう はオーストリア継承 けいしょう 戦争 せんそう における講和 こうわ 条約 じょうやく であるアーヘン条約 じょうやく においても諸国 しょこく の承認 しょうにん を受 う け、プロイセンはヨーロッパの主要 しゅよう な勢力 せいりょく の一 ひと つとして確 たし かな地位 ちい を獲得 かくとく することに成功 せいこう した。プロイセンは他国 たこく を尻目 しりめ にいち早 はや く平和 へいわ を享受 きょうじゅ するが、オーストリアはまだイタリアとネーデルラントの2つの戦場 せんじょう でフランスと戦 たたか わねばならなかった。
この戦争 せんそう ではプロイセンはフランスと、オーストリアはイギリスと、それぞれ同盟 どうめい を組 く んで戦 たたか っていたが、経緯 けいい を見 み ればわかるようにフランスとプロイセンとの間 あいだ で連携 れんけい は成 な り立 た つことなく、一方 いっぽう のイギリスもオーストリアに対 たい して、どちらの味方 みかた かわからないくらい熱心 ねっしん にプロイセンとの講和 こうわ を進 すす めていた。またもう一 ひと つの国 くに ロシアは参戦 さんせん の機会 きかい を逸 いっ したが、プロイセンを仮想 かそう 敵国 てきこく と見 み なす姿勢 しせい は変 か わらなかった。イギリスがプロイセンの外交 がいこう 戦略 せんりゃく に熱心 ねっしん に協力 きょうりょく していたこと、戦争 せんそう 終盤 しゅうばん でオーストリアがフランスに単独 たんどく 講和 こうわ を持 も ちかけたこと、ロシアがオーストリア側 がわ で参戦 さんせん しようとしていたことなど、戦争 せんそう 中 ちゅう に生 しょう じた諸国 しょこく 間 あいだ の関係 かんけい はそのまま七 なな 年 ねん 戦争 せんそう に繋 つな がっていくのである。
1744年 ねん のベーメン攻撃 こうげき 失敗 しっぱい のあと、女帝 にょてい の攻勢 こうせい に対 たい して大王 だいおう は敵 てき 地 ち の占領 せんりょう ではなく、機動 きどう による敵 てき 軍 ぐん への退却 たいきゃく 強要 きょうよう でもなく、強力 きょうりょく に会戦 かいせん を指向 しこう して敵 てき 野戦 やせん 軍 ぐん を打倒 だとう することにより戦争 せんそう を勝利 しょうり に導 みちび いた。6月のシュレージエンにおける作戦 さくせん と、11月および12月におけるザクセンでの作戦 さくせん を見 み れば、当時 とうじ の戦争 せんそう 一般 いっぱん の常識 じょうしき になお縛 しば られつつも、大王 だいおう の作戦 さくせん は間違 まちが いなく殲滅 せんめつ 戦 せん 戦略 せんりゃく のはしりであり、それは七 なな 年 ねん 戦争 せんそう の際 さい によりいっそう明 あき らかとなるであろう[ 12] 。
村岡 むらおか 晢『フリードリヒ大王 だいおう 啓蒙 けいもう 専制 せんせい 君主 くんしゅ とドイツ 』(清水 しみず 書院 しょいん 、1984年 ねん )
飯塚 いいづか 信雄 のぶお 『フリードリヒ大王 だいおう 啓蒙 けいもう 君主 くんしゅ のペンと剣 けん 』(中公新書 ちゅうこうしんしょ 、1993年 ねん )
S.フィッシャー=ファビアン 著 ちょ /尾崎 おざき 賢治 けんじ 訳 やく 『人 ひと はいかにして王 おう となるか』I、II(日本工業新聞社 にほんこうぎょうしんぶんしゃ 、1981年 ねん )
アン・ティツィア・ライティヒ 著 ちょ /江村 えむら 洋 ひろし 訳 やく 『女帝 にょてい マリア・テレジア』(谷沢 たにさわ 書房 しょぼう 、1984年 ねん )
ゲオルク・シュライバー 著 ちょ /高藤 たかとう 直樹 なおき 訳 やく 『偉大 いだい な妻 つま のかたわらで フランツ1世 せい ・シュテファン伝 でん 』(谷沢 たにさわ 書房 しょぼう 、2003年 ねん )
ゲオルク・シュタットミュラー 著 ちょ /丹後 たんご 杏 あんず 一 いち 訳 やく 『ハプスブルク帝国 ていこく 史 し 人間 にんげん 科学 かがく 叢書 そうしょ 15 』(刀 かたな 水 すい 書房 しょぼう 、1989年 ねん )
クラウゼヴィッツ 著 ちょ /篠田 しのだ 英雄 ひでお 訳 わけ 『戦争 せんそう 論 ろん 』(岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 、1968年 ねん )
林 はやし 健太郎 けんたろう 、堀米 ほりごめ 雇 やとい 三 さん 編 へん 『世界 せかい の戦史 せんし 6 ルイ十 じゅう 四 よん 世 せい とフリードリヒ大王 だいおう 』(人物 じんぶつ 往来 おうらい 社 しゃ 、1966年 ねん )
四手 よつで 井 い 綱 つな 正 ただし 『戦争 せんそう 史 し 概観 がいかん 』(岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 、1943年 ねん )
伊藤 いとう 政之助 まさのすけ 『世界 せかい 戦争 せんそう 史 し 6』(戦争 せんそう 史 し 刊行 かんこう 会 かい 、1939年 ねん )
久保田 くぼた 正 ただし 志 こころざし 『ハプスブルク家 か かく戦 せん えり ヨーロッパ軍事 ぐんじ 史 し の一 いち 断面 だんめん 』(錦 にしき 正 せい 社 しゃ 、2001年 ねん )
歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう グラフィック戦史 せんし シリーズ『戦略 せんりゃく 戦術 せんじゅつ 兵器 へいき 辞典 じてん 3 ヨーロッパ近代 きんだい 編 へん 』 (学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ 、1995年 ねん )
Reed Browning『The War of the Austrian Succession』 (New York: St Martin's Press, 1993)
Christopher Duffy『Frederick the Great A Military Life 』 (New York: Routledge, 1985)
Dennis E.Showalter『The War of Frederick the Great』 (New York: LONGMAN, 1996)
Robert B. Asprey『Frederick the Great The Magnificent Enigma 』 (New York: Ticknor & Fields, 1986)
Thomas Carlyle History of Friedrich II
preussenweb [1]
de:Zweiter Schlesischer Krieg (22:56, 27. Jan. 2009 UTC)
^ アドルフ・フレドリク、ピョートル、エカチェリーナはいずれもホルシュタイン=ゴットルプ家 か の血 ち を引 ひ いており親戚 しんせき 関係 かんけい にある。
^ Robert B. Asprey『Frederick the Great The Magnificent Enigma 』 297頁 ぺーじ 。
^ Christopher Duffy『Frederick the Great A Military Life』 54頁 ぺーじ 。
^ 健康 けんこう を害 がい していたためと、このころ作戦 さくせん 方針 ほうしん を巡 めぐ って若 わか デッサウと意見 いけん 衝突 しょうとつ し、大王 だいおう が若 わか デッサウの意見 いけん を用 もち いたのを不服 ふふく としたため。Robert B. Asprey『Frederick the Great The Magnificent Enigma 』 302頁 ぺーじ 。
^ Christopher Duffy『Frederick the Great A Military Life』 56頁 ぺーじ 。
^ 『我 わ が時代 じだい の歴史 れきし 』から。『HISTOIRE DE MON TEMPS.』CHAPITRE X。またRobert B. Asprey『Frederick the Great The Magnificent Enigma 』 307-308頁 ぺーじ 。セルトリウスの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) (紀元前 きげんぜん 80年 ねん - 紀元前 きげんぜん 72年 ねん )においてクィントゥス・セルトリウス はポンペイウス の優勢 ゆうせい な軍 ぐん に対 たい して現地 げんち 住民 じゅうみん の支持 しじ を得 え て良 よ く戦 たたか った。
^ この地域 ちいき は、百 ひゃく 年 ねん 後 ご の普 ひろし 墺 おう 戦争 せんそう におけるケーニヒグレーツの戦 たたか い の舞台 ぶたい である。
^ クラウゼヴィッツ『戦争 せんそう 論 ろん 』中 ちゅう 28頁 ぺーじ 。
^ これを否定 ひてい する意見 いけん もある。飯塚 いいづか 信雄 のぶお 『フリードリヒ大王 だいおう 啓蒙 けいもう 君主 くんしゅ のペンと剣 けん 』 104頁 ぺーじ 。
^ Reed Browning『The War of the Austrian Succession』 248-250頁 ぺーじ 。また大王 だいおう の著作 ちょさく にもこの件 けん について言及 げんきゅう が見 み られる。『Frederick the Great Instructions for His Generals』 51頁 ぺーじ 。
^ Thomas Carlyle 『History of Friedrich II』 PEACE OF DRESDEN: FRIEDRICH DOES MARCH HOME。ダルジェは捕虜 ほりょ になった後 のち 大王 だいおう の手配 てはい で釈放 しゃくほう された。彼 かれ はこの一 いち 件 けん のために大王 だいおう に気 き に入 い られていた。
^ 四手 よつで 井 い 綱 つな 正 ただし 『戦争 せんそう 史 し 概観 がいかん 』 24頁 ぺーじ 。