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第二次シュレージエン戦争 - Wikipedia コンテンツにスキップ

だいシュレージエン戦争せんそう

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シュレージエン戦争せんそう > だいシュレージエン戦争せんそう
だいシュレージエン戦争せんそう
シュレージエン戦争せんそう、およびオーストリア継承けいしょう戦争せんそうなか

ホーエンフリートベルクのたたかにて前進ぜんしんするプロイセンぐん(カール・レヒリング (enさく)
とき1744ねん8がつ15にち – 1745ねん12月25にち
場所ばしょシュレージエン, ボヘミア, うえザクセン (en
結果けっか プロイセン王国おうこく勝利しょうり
領土りょうど
変化へんか
現状げんじょう維持いじ
衝突しょうとつした勢力せいりょく
プロイセンの旗 プロイセン ハプスブルク君主国の旗 ハプスブルク君主くんしゅこく
ザクセン選帝侯領の旗 ザクセンせんみかどほうりょう
指揮しきかん

プロイセンの旗 フリードリヒ2せい

ハプスブルク君主国の旗 マリア・テレジアおんな大公たいこう

ザクセン選帝侯領の旗 フリードリヒ・アウグストせんみかどこう

だいシュレージエン戦争せんそうどく: Zweiter Schlesischer Krieg)は、1744ねんから1745ねんにかけてシュレージエン帰属きぞくめぐっておこなわれたプロイセンオーストリア戦争せんそうオーストリア継承けいしょう戦争せんそう構成こうせいする戦役せんえきひとつで、2度目どめシュレージエン戦争せんそうである。

序章じょしょう

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マリア・テレジア

1742ねん6月11にちブレスラウ条約じょうやくによってだいいちシュレージエン戦争せんそうわらせたオーストリアは、その戦力せんりょくフランスバイエルン連合れんごう集中しゅうちゅうできるようになった。オーストリアは条約じょうやく締結ていけつから攻勢こうせいて、なつからふゆにかけての戦役せんえきベーメン奪回だっかいし、1743ねんはるにはバイエルン本領ほんりょうふたた占領せんりょうした。そのオーストリアぐんは、大陸たいりく上陸じょうりくしてきたイギリスぐんともライン右岸うがん活発かっぱつ活動かつどうし、フランスぐん後退こうたいさせて戦況せんきょうおおいに優位ゆういなものとし、ヴォルムス条約じょうやくによってオランダサルデーニャくわえてザクセン味方みかたれた。

このような状況じょうきょうフリードリヒ大王だいおうおおきな危機ききかんたせた。大王だいおう自国じこく戦線せんせん離脱りだつによって戦況せんきょうきゅうにオーストリア優位ゆういかたむくとは予測よそくしておらず、オーストリアを過小かしょう評価ひょうかしていたかたちとなった。大王だいおうマリア・テレジアがシュレージエンの強奪ごうだつふかうらみにおもっていることをっており、もしオーストリア優位ゆういのまま戦争せんそうすすめば、とおざからずシュレージエンの奪回だっかいもとめてプロイセンに報復ほうふく戦争せんそう仕掛しかけてくるだろうことは容易ようい予想よそうされた。大王だいおう芸術げいじゅつ活動かつどうんだり、フランスからヴォルテールまねいて歓談かんだんするなどして平素へいそかぜよそおいつつ、オーストリアの戦況せんきょう油断ゆだんなく見張みはつづけ、ぐん増強ぞうきょう余念よねんがなかった。とくだいいちシュレージエン戦争せんそう脆弱ぜいじゃくせい露呈ろていした騎兵きへい改善かいぜんにはちからそそがれ、くわえて1743ねんあきにはだい規模きぼ軍事ぐんじ演習えんしゅうおこなった。

1743ねんふゆからプロイセンはフランスおよびバイエルンと交渉こうしょうはじめ、同盟どうめいさい構築こうちくけてうごした。1744ねん5がつ22にちにはプロイセン、バイエルンにプファルツヘッセン=カッセルくわえたドイツ4りょうくにによるフランクフルト同盟どうめいむすばれ、ハプスブルクにされている皇帝こうていカール7せい勢力せいりょく回復かいふくさせることを確認かくにんした。このときバイエルンとのあいだでは、皇帝こうていのためにベーメン王国おうこくもど代償だいしょうとして、プロイセンにきたベーメンを、具体ぐたいてきにはエルベがわ北岸ほくがん領域りょういきおよび対岸たいがんケーニヒグレーツパルドビッツコリン割譲かつじょうすることをめていた。同様どうように6月5にちにはフランスとのあいだパリ条約じょうやく[よう曖昧あいまい回避かいひ]成立せいりつし、両国りょうこくふたた協力きょうりょくしてオーストリアとたたかうことになった。

並行へいこうして大王だいおうは、背後はいごかためるために2つの縁組えんぐみ成立せいりつさせた[1]ひとつはスウェーデン自家じかとのあいだ縁組えんぐみで、このころロシアとの戦争せんそうやぶれたスウェーデンでは後継こうけい問題もんだいとなっていたのが、ホルシュタイン=ゴットルプアドルフ・フレドリク王位おうい継承けいしょうしゃまったことをけていもうとルイーゼ・ウルリーケとつがせ、スウェーデンを縁戚えんせきとした。もうひとつはロシアとの縁組えんぐみで、女帝にょていエリザヴェータ皇太子こうたいしピョートル(ピョートル3せい)のに、プロイセンにつかえるアンハルト=ツェルプストこうクリスティアン・アウグストむすめゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ(エカチェリーナ2せい)を希望きぼうしているのを熱心ねっしん仲介ちゅうかいして、彼女かのじょサンクトペテルブルクおくとどけた。大王だいおうはこれによって女帝にょてい歓心かんしんうとともに、ロシア帝室ていしつ自国じこくいきのかかった人物じんぶつおくむことでロシアの外交がいこう政策せいさく影響えいきょうあたえることを期待きたいしていた。

このようにプロイセンが準備じゅんびまんはしととのえるなかロートリンゲン公子こうしカール皇帝こうていフランツ1せいおとうとひきいるオーストリアぐん主力しゅりょく部隊ぶたいはラインがわえてエルザス進出しんしゅつし、フランスりょう侵入しんにゅうした。オーストリアの目的もくてきはシュレージエンにおとらぬ因縁いんねんであるロートリンゲン(ロレーヌ)をフランスからうばかえすことであったが、オーストリアがロートリンゲン目指めざしてラインの彼方かなた深入ふかいりするであろうことを大王だいおう予測よそくしていた。プロイセンがふたた戦争せんそうくわわることに重臣じゅうしん一同いちどうつよ反対はんたいしたが、大王だいおうはオーストリアにシュレージエンをあきらめさせるにはいまいち参戦さんせんして徹底的てっていてきはたき、戦意せんい勢力せいりょくうしなわせるしかないと主張しゅちょうしてこれを退しりぞけた。7月12にち、プロイセンにオーストリアぐんライン渡河とからせがとどくと、大王だいおうはフランスに近日きんじつちゅう参戦さんせんのベーメンりを通告つうこくし、どおりフランスぐんはオーストリアぐんって東西とうざいからこれを挟撃きょうげきすることをもとめ、連絡れんらく武官ぶかんとしてシュメッタウ派遣はけんした。大王だいおうはオーストリアぐん主力しゅりょく不在ふざいとき見計みはからって攻撃こうげきすることによって1740ねんふゆ戦略せんりゃくてき奇襲きしゅう再現さいげんしようとしていた。

1744ねん戦役せんえき

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プロイセンのベーメン侵攻しんこう

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1744ねんのベーメン地図ちず中央ちゅうおうがプラハ

戦争せんそう再開さいかいにあたって大王だいおうえがいていた計画けいかくつぎのようなものであった。すなわち、プロイセンぐんはベーメンを占領せんりょうして冬営とうえいとするとともに一気いっきドナウがわまで南進なんしんし、バイエルンと連絡れんらくをつけ、かつウィーンとカール公子こうしぐん連絡れんらくつ。フランスぐん皇帝こうていぐん急遽きゅうきょ撤退てったいするオーストリアぐん追撃ついげきして、迅速じんそく撤退てったいさまたげつつライン右岸うがん冬営とうえいる。イギリスぐん応援おうえんけつけるようなら、フランスぐん一部いちぶハノーファー攻撃こうげきし、これを阻止そしする。ふゆ、すみやかにりょうぐんはベーメン西部せいぶかバイエルンにおいて進退しんたいきわまったオーストリアぐん挟撃きょうげき殲滅せんめつしてウィーンに降伏ごうぶくせまり、戦争せんそう終結しゅうけつむ。

8がつ2にち動員どういんされたプロイセンぐん9まんあまり進軍しんぐん開始かいしした。プロイセンぐんは4つにかれ、うち3つがベーメンに侵入しんにゅうした。大王だいおうぐん4まんはザクセンのなか横断おうだんし、ピルナエルベ左岸さがんわたり、以後いごエルベがわ沿いに南下なんかしてロボジッツ経由けいゆプラハ目指めざした。わかデッサウひきいる1まん5せんナイセがわ沿いにザクセン東部とうぶ南下なんかし、ラウジッツツィッタウからベーメンにはいると一旦いったん西南せいなんかってエルベがわライトメリッツから大王だいおうぐん並行へいこうしてエルベがわ右岸うがんくだり、さらに東進とうしんしてアルト・ブンツラウブランダイス占領せんりょうしてきたからプラハにかう。シュレージエンのグラッツから進発しんぱつするシュヴェリーンぐん1まん5せんはひたすら西進せいしんしてケーニヒグレーツからエルベ沿いにひがしからプラハに接近せっきんした。うえシュレージエンマルヴィッツぐん2まんは、メーレンオルミュッツ進出しんしゅつして主力しゅりょくのベーメン攻略こうりゃく援護えんごした。またエルベがわ水運すいうん利用りようして、各種かくしゅ物資ぶっしおよびプラハ攻略こうりゃくのためにもちいる重砲じゅうほうすうひゃくふね輸送ゆそうした。

迅速じんそくにベーメンに侵入しんにゅうするために大王だいおうはザクセン通過つうかえらんだ。ポーランドおうけんザクセンせんみかどこうアウグスト3せい圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいなプロイセンぐんまえ抵抗ていこうすることができず、プロイセンの通行つうこう許可きょか要求ようきゅうまざるをなかったが、プロイセンぐん通過つうかただちにザクセンぐんをオーストリアぐんとの合流ごうりゅうかわせた。

大王だいおう戦争せんそうさい参戦さんせんにあたって、オーストリアに不当ふとう迫害はくがいされている皇帝こうてい救援きゅうえんするとしょうし、帝国ていこく秩序ちつじょ平和へいわをもたらすためにオーストリアをつと宣言せんげんして、8がつ7にちドーナはくによってオーストリアに宣戦せんせん布告ふこくし、また国民こくみんけて同様どうようぬの告文こくぶんいた。オーストリアは、エルザスのカール公子こうしぐんにただちの撤退てったいめいずるとともに、バイエルンに駐屯ちゅうとんしていたバッチャーニぐん2まんをベーメンに急派きゅうはしてなんとか時間じかんかせごうとした。マリア・テレジアはふたたプレスブルクおもむいてハンガリー貴族きぞくにさらなるハンガリーぐん動員どういん要請ようせいした。

8がつ後半こうはんから9がつ初頭しょとうにかけてプロイセンぐん順次じゅんじベーメンに侵入しんにゅうしつつあり、8がつ28にちにはライトメリッツを占領せんりょうわかデッサウぐん大王だいおうぐん会同かいどうたし、9月2にちにはプロイセンぐんはプラハ郊外こうがい到着とうちゃくした。プラハは民兵みんぺいがその過半かはんめる1まん4せんへいによってまもられていた。オーストリアはテシェンにおいて、エルベがわくいぶねしずめて通行つうこう不可能ふかのうにしていたため、重砲じゅうほう到着とうちゃくおくれた。援護えんごのためにバッチャーニはぐん一部いちぶひきいてベラウン進出しんしゅつし、プラハへの接近せっきんはかったが、プロイセンも9がつ5にち部隊ぶたいおくってこれを攻撃こうげきさせ、バッチャーニはプラハ援護えんご断念だんねんしてピルゼン撤退てったいした。

9月8にちおくれていた重砲じゅうほう到着とうちゃくし、本格ほんかくてきなプラハおさむしろせん開始かいしされた。途中とちゅう12にちにはオーストリアの砲撃ほうげきにより王族おうぞく一人ひとりフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート(1714ねん - 1744ねん、フリードリヒ2せい義弟ぎていブランデンブルク=シュヴェート辺境へんきょうはくフリードリヒ・ヴィルヘルム同名どうめい従弟じゅうてい)が戦死せんしするアクシデントがあったものの、9月16にち、プロイセンぐんもう砲撃ほうげき抵抗ていこうしかねてプラハは降伏ごうぶくした。プラハあらためて皇帝こうてい忠誠ちゅうせいちかわせられ、ぐんぜいせられた。

大王だいおう作戦さくせんとその齟齬そご

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プロイセンフザール

ベーメンにおける戦争せんそう大王だいおう計画けいかくどおりにすすんでいたが、すでにこの時点じてん重大じゅうだい誤算ごさんしょうじつつあった。8月8にち出征しゅっせいしていたルイ15せいメッツ急病きゅうびょうたおれ、一時いちじ危篤きとくおちいっておわり秘跡ひせきけるほどであったため、フランスぐん全体ぜんたい指揮しき混乱こんらんし、撤退てったいはかるオーストリアぐん有効ゆうこう追撃ついげき妨害ぼうがいおこなうことができなかったのである。おうはまもなく回復かいふくしたが、戦争せんそうへの興味きょうみうしな帰国きこくしてしまった。8月23にちから24にちにかけてオーストリアぐんはラインがわぎゃく渡河とか成功せいこうし、ハイルブロン態勢たいせいととのえたのちベーメンに急行きゅうこうしつつあった。

このような状況じょうきょうなかで、プラハ制圧せいあつのプロイセンぐんには、ピルゼンのバッチャーニぐん駆逐くちくしてベーメンないのオーストリアの反撃はんげき拠点きょてんくし、ベーメン北半きたはん占領せんりょうたしかなものにして冬営とうえい準備じゅんびととのえ、つぎぶしつという選択肢せんたくしもあった。しかし大王だいおうはこのさくらなかった。大王だいおうはフランスぐんによるオーストリアぐん足止あしどめが失敗しっぱいしたことはっていたが、フランスぐんとおざからずこれをってると期待きたいしていた。

ところが大王だいおう期待きたいはんして、フランスぐんはその消極しょうきょくてき作戦さくせん終始しゅうしし、シュメッタウの執拗しつよう要請ようせいにもかかわらず、せいぜいフライブルクへの攻撃こうげきのみをおこなってオーストリアぐん追撃ついげきしなかった。もうひとつの味方みかたであるゼッケンドルフ皇帝こうていぐんも、戦力せんりょくしてオーストリアぐんへの実効じっこうある妨害ぼうがいおこなうようなことはせず、むしろオーストリアぐんるのをってからバイエルンを回復かいふくするのをよろこぶような状態じょうたいであった。

大王だいおうはプラハ占領せんりょうからときかず、ただちに南下なんか開始かいしした。プラハ守備しゅびのためにアインジーデルと5せんにんのこし、のこりのぜんぐんターボルを、そこからフラウエンベルク、さらにはブトヴァイス目指めざした。前衛ぜんえいナッサウつとめ、大王だいおうとシュヴェリーンひきいる本隊ほんたいはプラハから東南とうなんピシェリュサザワがわわたってターボルに直進ちょくしんわかデッサウの部隊ぶたい本隊ほんたい側面そくめん援護えんごしてモルダウがわ沿いを行進こうしんし、ポサドフスキー本隊ほんたいつづいて後衛こうえい補給ほきゅう部隊ぶたいひきいた。補給ほきゅう部隊ぶたいはモルダウ東岸とうがん起伏きふくおお地形ちけい貧弱ひんじゃく道路どうろなやまされることになった。

強力きょうりょくなナッサウの前衛ぜんえい部隊ぶたいは9月23にちにターボルを占領せんりょうし、30にちにはブトヴァイスを占領せんりょうよく10がつ1にちには抵抗ていこうしていたフラウエンベルクも陥落かんらくした。大王だいおう本隊ほんたいも27にちにターボルに到着とうちゃくし、プロイセンぐん進軍しんぐん非常ひじょう順調じゅんちょうなようにおもわれたが、すでに破局はきょく前兆ぜんちょうあらわはじめていた。

プロイセンぐん補給ほきゅう問題もんだい

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プロイセンぐんせんすうひゃくりょう荷馬にうましゃすうせんとううまおよびうし用意よういして戦争せんそうのぞんだが、それでも必要ひつようぶん食糧しょくりょう用意よういすることはできず、当時とうじ戦争せんそうではいつもそうだったように現地げんち調達ちょうたつおおくをたよっていた。ところがプラハから南下なんかはじめてあいだもなく、現地げんちにおける物資ぶっし調達ちょうたついちじるしく困難こんなんであることがあきらかになった。

理由りゆうだいいちは、この地域ちいきが1741ねんから1743ねんまで戦場せんじょうとなっていたことから、もともと調達ちょうたつできるような余剰よじょう物資ぶっしすくなかったことである。オーストリア継承けいしょう戦争せんそう前半ぜんはんにおいてモルダウがわはフランスぐん、バイエルンぐん、オーストリアぐん攻防こうぼう焦点しょうてんとなり、かれらによって現地げんち調達ちょうたつかえされた結果けっかむぎ飼葉かいば貯蔵ちょぞうがもともとかったのである。

理由りゆうだいは、オーストリアのベーメンにおける統制とうせい強化きょうかである。継承けいしょう戦争せんそう初期しょきにベーメン貴族きぞくたちがオーストリアを見限みかぎってカール・アルブレヒト支持しじはしったことをわすれなかったマリア・テレジアは、1743ねんにベーメンを奪還だっかんしたのち占領せんりょうぐん協力きょうりょくした現地げんち貴族きぞくさば裁判さいばんおこない、ベーメン貴族きぞくたいする統制とうせい大幅おおはば強化きょうかした。この結果けっか、1744ねんにプロイセンぐん侵攻しんこうしたさいおおくの貴族きぞく馬車ばしゃつらねてウィーンに逃亡とうぼうし、のこった貴族きぞくもプロイセンへの協力きょうりょく拒否きょひして、通常つうじょうおこなわれる手段しゅだんである、在地ざいち貴族きぞく協力きょうりょく要求ようきゅうすることによって円滑えんかつ物資ぶっし調達ちょうたつするということが出来できなかったのである。

理由りゆうだいさんは、ベーメンではさんじゅうねん戦争せんそう住民じゅうみんさいカトリック成功せいこうしており、シュレージエンのときのように現地げんち住民じゅうみん協力きょうりょくることが出来できなかったことである。だいいちシュレージエン戦争せんそうにおいてプロイセンぐんはシュレージエンで解放かいほうしゃとして歓迎かんげいされ、各面かくめんでの支援しえんけることが出来できたが、ベーメンではそれがなく、かえって貴族きぞくたちの指導しどうにより、プロイセンぐん接近せっきんするや農民のうみんたちは食料しょくりょうめ、くさをかけて逃亡とうぼうした。これにたいしてフスながれをかくれプロテスタントがプロイセンぐん協力きょうりょくもうることもあったが、あまりにもかずすくなく、補給ほきゅうめんでのたよりにはならなかった。

理由りゆうだいよんは、オーストリアの展開てんかいしたけい騎兵きへいフザールけい歩兵ほへいパンドゥールによるプロイセンぐんへの波状はじょう攻撃こうげきである。だいいちシュレージエン戦争せんそうでプロイセンぐんくるしめたかれらは、よりだい規模きぼ展開てんかいしてプロイセンぐん補給ほきゅう部隊ぶたいおそい、また神出鬼没しんしゅつきぼつかれらの存在そんざいは、かく部隊ぶたい指揮しきかん徴発ちょうはつ部隊ぶたいすことについてあしませ、食糧しょくりょう不足ふそくをより深刻しんこくさせた。

これらの結果けっか、モルダウがわ南下なんかしているこの時点じてんはやくもプロイセンぐん食糧しょくりょう事情じじょう急速きゅうそく悪化あっかした。まず飼葉かいば不足ふそくから輸送ゆそう部隊ぶたい牛馬ぎゅうば多数たすう衰弱すいじゃく病死びょうしはじめ、いでへい食糧しょくりょう不足ふそくした。さくげんであるプラハからの輸送ゆそう急場きゅうばしのごうにも車両しゃりょう不足ふそく牛馬ぎゅうば喪失そうしつ、そして輸送ゆそう部隊ぶたいへの襲撃しゅうげきのためにそれは不可能ふかのうとなっていた。9月まつから10がつにかけてプロイセンぐんには飢餓きが状態じょうたい出現しゅつげんし、それはベーメンからの完全かんぜん撤退てったいまで解決かいけつすることがなかった。ぐんちゅう疾病しっぺいしゃあふれ、脱走だっそうへいかず日増ひましにおおくなった。士気しきそこなしにがり、11月にはいるころには、プロイセンぐん崩壊ほうかいひんしていた。

オーストリアの反撃はんげき

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カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン

エルザスからの転進てんしん成功せいこうさせたオーストリアぐん主力しゅりょく部隊ぶたいは、9がつ後半こうはんから順次じゅんじベーメンにはいり、バッチャーニぐん準備じゅんびととのえていたピルゼンに集結しゅうけつしつつあった。オーストリアぐんには最高さいこう指揮しきかんであるカール公子こうし後見こうけんやくとして老練ろうれんトラウンがおり、実質じっしつてきにはかれ作戦さくせん指導しどうおこなっていた。このオーストリアぐんにはバッチャーニやフランツ・レオポルト・ナーダジュディといったハンガリー貴族きぞくひきいられた多数たすうけい騎兵きへいけい歩兵ほへいがいた。トラウンは本隊ほんたい到着とうちゃく先行せんこうしてかれらをモルダウ流域りゅういき展開てんかいさせ、プロイセンぐんへの攻撃こうげきおこなわせていた。

プロイセンぐんはオーストリアぐんがベーメンに到着とうちゃくしつつあると気付きづいてはいたが、具体ぐたいてき所在しょざいについては情報じょうほうることが出来できなかった。オーストリアぐん展開てんかいした濃密のうみつ阻止そしせんのため、大王だいおう皇帝こうていぐんともフランスぐんともまった連絡れんらくれない状態じょうたいおちいった。直近ちょっきんのオーストリアぐん行軍こうぐんについての皇帝こうていぐん通報つうほう大王だいおうもととどくことがなく、プロイセンぐん斥候せっこう部隊ぶたい優勢ゆうせいてきまえ偵察ていさつ行動こうどう制限せいげんされ、モルダウ西岸せいがん南北なんぼく各地かくち有力ゆうりょくなオーストリアぐん部隊ぶたいたという不確ふたしかな情報じょうほうしかもたらされることがなかった。大王だいおうはこの状況じょうきょうに「このよん週間しゅうかんわたしには情報じょうほう手紙てがみもない。い(現地げんちじん協力きょうりょくしゃつけることもできない。カール公子こうしは、バッチャーニは、ザクセンぐんは、ベーメンにいるのかそれとも北京ぺきんにいるのかもわからない」と吐露とろした[2]

ザクセンぐんについてはエーガーがわ方面ほうめん部隊ぶたいからかれらが接近せっきんしつつあるとの報告ほうこくがもたらされていたが、オーストリアぐんについてはことなる複数ふくすう情報じょうほうせられていた。大王だいおうはオーストリアぐんはモルダウ上流じょうりゅうブトヴァイスを目指めざしていると判断はんだんした。ターボルに到着とうちゃくした大王だいおう主力しゅりょく西南せいなんてんじ、10月4にちモルダウタインでモルダウがわわたった。そして西進せいしんしながら捜索そうさくたい派出はしゅつし、こちらにかって行軍こうぐんしてきているはずのオーストリアぐん会戦かいせんによって撃破げきはすることを目指めざした。

3にち空費くうひののち、大王だいおうはようやくオーストリアぐん本当ほんとう位置いちった。すなわち、10月2にち時点じてんでオーストリアぐんはプロイセンぐんのずっときたミロティッツにあり、そこから北東ほくとう進出しんしゅつしつつあったのである。トラウンは、オーストリアぐんがピルゼンに集結しゅうけつしているにもかかわらずプロイセンぐん南下なんかつづける様子ようすて、プロイセンぐんはこちらの行動こうどう把握はあくできていないことをった。トラウンはモルダウを渡河とかして、プラハとターボルの中間ちゅうかん位置いちし、プロイセンぐん中継ちゅうけい基地きちのあるベネシャウかい、プラハからプロイセンぐん切断せつだんしようとはかったのである。

マルショヴィッツのじん

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10月はこの戦役せんえき転換てんかんてんであり、戦場せんじょう主導しゅどうけん圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいだったはずのプロイセンぐんからオーストリアぐんうつった。危機ききひんしたプロイセンぐん急遽きゅうきょ反転はんてんし、オーストリアぐんがベネシャウに到着とうちゃくするまえにそこに急行きゅうこうしなければならなかった。10月8にち、モルダウをさい渡河とかしたプロイセンぐんはすぐにまたベヒンでモルダウ支流しりゅうルシュニッツ渡河とかして北進ほくしんした。

10月9にち本隊ほんたいつづいて車両しゃりょう部隊ぶたい通過つうかつづけるモルダウタインをすうせんのパンドゥール部隊ぶたい襲撃しゅうげきし、ツィーテン指揮しきするフザール連隊れんたいおよび擲弾へい2大隊だいたいとのあいだはげしい戦闘せんとうおこなわれた。殺到さっとうするパンドゥールにたいし、プロイセンぐん葡萄ぶどうだんかれらの突撃とつげき粉砕ふんさいし、フザールで果敢かかんむことでてきくずした。プロイセンぐんはモルダウタインをまもり、車両しゃりょう部隊ぶたい通過つうかませた。

大王だいおうはオーストリアぐんがモルダウ東岸とうがんわたったのちでも依然いぜんとして会戦かいせんによってかれらを撃退げきたいし、モルダウのせん維持いじするつもりだった。モルダウ上流じょうりゅう地域ちいきには輸送ゆそうできなかった物資ぶっし多数たすう傷病しょうびょうへいのこっており、大王だいおうはブトヴァイス、フラウエンベルクにかれらを集結しゅうけつさせ、守備しゅびへいいて保持ほじしようとした。しかしこの方面ほうめん進出しんしゅつしたトレンクひきいるパンドゥール部隊ぶたいによってフラウエンベルクはみずたれて降伏ごうぶく、ブトヴァイスも攻撃こうげきいちかえしたものの結局けっきょく陥落かんらくしてしまった。同様どうようにターボルもオーストリアぐんによって占領せんりょうされた。

モルダウを北上ほくじょうする行軍こうぐん兵士へいしにとってより一層いっそうつらいものとなった。トラウンは自軍じぐん投降とうこうした脱走だっそうへい供述きょうじゅつによって、プロイセンぐん食糧しょくりょうきゅうしていることをっており、ハンガリーぜいにより精力せいりょくてきにプロイセンぐん補給ほきゅうせん攻撃こうげきするようにめいじていた。プラハとの連絡れんらくせんはパンドゥールの浸透しんとうによって途絶とぜつしつつあり、携帯けいたいする食糧しょくりょうがほとんどないなかで、ふゆ到来とうらいかれらの体力たいりょく士気しきうばい、脱走だっそうへいかずはよりいっそうぞうした。フザールの襲撃しゅうげきとパンドゥールの浸透しんとうへい投降とうこう助長じょちょうし、伝令でんれい捕縛ほばくによる命令めいれいいたる分遣ぶんけんたい孤立こりつ徴発ちょうはつ部隊ぶたいへの襲撃しゅうげき全滅ぜんめつなど、プロイセンぐんかれた状況じょうきょうをますます困難こんなんなものとした。おまけに住民じゅうみん一部いちぶパルチザンとしてプロイセンぐんへの武力ぶりょく抵抗ていこうまではじめていた。

10月17にち、プロイセンぐん主力しゅりょく先鋒せんぽうがベネシャウに到着とうちゃくよく18にちには大王だいおうもベネチャウにはいり、ひとまずプラハとの連絡れんらくたもたれた。プラハとの距離きょり短縮たんしゅくされたことによって補給ほきゅう状態じょうたい一時いちじ好転こうてんし、プロイセンぐん接近せっきんするオーストリアぐんたいするべく西南せいなんけてじんいた。この時点じてんでの大王だいおう計画けいかくは、オーストリアぐん会戦かいせんによってモルダウ西岸せいがんかえしたら、モルダウ‐サザワ、もしくはルシュニッツ‐サザワあいだ地域ちいき確保かくほして冬営とうえいはいり、戦争せんそう仕切しきなおしをおこなうというものだった。

10月22にち、オーストリアぐんはザクセンぐん合流ごうりゅうし、これによって兵力へいりょくもオーストリアが優勢ゆうせいとなった。23にち連合れんごうぐんはプロイセンぐんのすぐちかく、マルショヴィッツ堅陣けんじんいた。24にち大王だいおうはただちに会戦かいせんおこなうつもりでマルショヴィッツに接近せっきんし、連合れんごうぐん陣地じんち偵察ていさつした。連合れんごうぐんはベーメンの湖沼こしょうおからばる地形ちけいたくみにかし、非常ひじょう攻撃こうげき困難こんなん陣地じんち構築こうちくしていた。25にち一昼夜いっちゅうや偵察ていさつ検討けんとうののち、大王だいおう会戦かいせん断念だんねんして撤退てったいせざるをなかった。

このマルショヴィッツのじんにおいて、のちのななねん戦争せんそうではいつも果敢かかん会戦かいせん仕掛しかけた大王だいおうがなぜ攻撃こうげき断念だんねんしたかについて[3]理由りゆうだいいちはその地形ちけいにあり、なるほど有利ゆうり位置いちめるオーストリアぐん攻撃こうげきをかけて勝利しょうり事例じれいおおいけれども、もしこのとき攻撃こうげきおこなえばそれはプラハトルガウではなくコリンクーネルスドルフのような結果けっかとなっただろうとされる。まただいぐん状態じょうたいにあり、このときのプロイセンぐん兵士へいしさきの1カ月かげつ行軍こうぐんとそのあいだ食糧しょくりょう不足ふそくによりいちじるしく消耗しょうもう衰弱すいじゃくしており、士気しき沈滞ちんたいして通常つうじょう戦闘せんとう能力のうりょく期待きたいできる状態じょうたいではなかったのである。

プロイセンぐん撤退てったい

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フランツ・フォン・デア・トレンク

10月26にち、プロイセンぐんはモルダウ以東いとう確保かくほすることをあきらめ、サザワがわきたえた。大王だいおうはまだサザワ以北いほく確保かくほする可能かのうせい追求ついきゅうしていたが、オーストリアぐん進撃しんげきはその希望きぼう早々そうそううしなわせた。トラウンの戦略せんりゃく会戦かいせん機動きどうによってプロイセンぐん撃退げきたいすることであり、北上ほくじょうするプロイセンぐん主力しゅりょくたいしては自軍じぐん主力しゅりょくでもって追撃ついげきすることをせず、パンドゥールによってつね圧迫あっぱくすることのみをおこなった。トラウンは勢力せいりょくいてプラハにたいする圧力あつりょくつよめるとともにぐん主力しゅりょく依然いぜんとして北東ほくとうけ、ベネシャウからさらにひがしかって行軍こうぐんした。

プロイセンぐんもとめるものはすみやかな今年ことし戦役せんえきりと冬営とうえいだった。サザワがわえたのち、プロイセンぐんにはもうエルベがわしかのこされていなかったが、それについて大王だいおうにはふたつの選択肢せんたくしがあった。ひとつはプラハ周辺しゅうへんとどまってプラハを援護えんごしつつベーメン北西ほくせい冬営とうえいはいること。もうひとつは東方とうほうのエルベがわ屈折くっせつ後退こうたいし、ベーメン北東ほくとう冬営とうえいはいることだった。ひがし撤退てったいした場合ばあい、プラハとの連絡れんらくたれてプラハが孤立こりつするが、かといってプラハに固執こしつするとシュレージエンとの連絡れんらくたれるおそれがあった。

すでに浸透しんとうしつつあるパンドゥールを排除はいじょし、シュレージエンとの連絡れんらく確保かくほする目的もくてきで、大王だいおうはナッサウの部隊ぶたいひがし派遣はけんしてエルベ南岸なんがんのコリン‐パルドビッツのせん保持ほじさせた。しかしオーストリアぐん意図いと不明ふめいで、大王だいおう両者りょうしゃ選択せんたくまよい、しばらく決断けつだんくださないまま北上ほくじょうつづけていた。せるオーストリアぐん部隊ぶたいによってプロイセンぐん本隊ほんたいはプラハとの連絡れんらくもナッサウの先遣せんけんたいとの連絡れんらく途切とぎ気味ぎみで、ぐんにはふたた飢餓きが状態じょうたい出現しゅつげんした。首脳しゅのうじんからはシュヴェリーンが脱落だつらくした[4]

オーストリアぐんはサザワをえなお東進とうしんちゅうとの報告ほうこくけると、大王だいおう決断けつだんくださざるをなかった。トラウンの目的もくてきあきらかであり、それはプロイセンぐんがベーメンから撤退てったいしないようならかれらをシュレージエンから分断ぶんだんすることであった。プラハにとどまった場合ばあい、プロイセンぐん本国ほんごくとの連絡れんらくたれるうえに、オーストリアぐんにシュレージエンを攻撃こうげきすることをゆるすことになるのである。プロイセンぐんベーミッシュブロート東南とうなん方向ほうこうてんじ、11月8にちから9にちにかけてコリンでエルベがわ北岸ほくがん渡河とかし、冬営とうえいはいった。

プロイセンぐん南岸なんがん西にしのコリンにナッサウを、ひがしのパルドビッツにデュ・ムーランれてまもらせ、エルベがわ防衛ぼうえいせんとして哨兵しょうへいせんり、冬営とうえいまもりとしていた。無論むろん大王だいおうもオーストリアぐんがすんなりと攻撃こうげきあきらめるとはおもっていなかったが、オーストリアぐん通常つうじょうなら冬営とうえいうつはじめる時期じきで、いますこしの時間じかんエルベがわまもりきることならば充分じゅうぶん可能かのうかんがえた。実際じっさいにもオーストリアぐんのコリンへの攻撃こうげき撃退げきたい成功せいこうしていた。しかしオーストリアぐんはプロイセンぐんをベーメンにのこしたままつぎ戦役せんえきすつもりはなかった。11月19にち深夜しんやのうちにひそかにふねかべて擲弾へい対岸たいがんわたすことで連合れんごうぐん渡河とか成功せいこうした。早朝そうちょう突如とつじょ出現しゅつげんしたてき部隊ぶたい遭遇そうぐうしたヴェーデル大隊だいたい圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいてきまえによくたたかい、ヴェーデルは大王だいおうからレオニダスばれるほどであったが、結局けっきょく後退こうたいせざるをず、川岸かわぎし占領せんりょうされてオーストリアぐん渡河とかゆるすこととなった。

大王だいおう計画けいかくはまたしてもやぶれ、もはやプロイセンぐんには全面ぜんめん撤退てったいみちしかのこされていなかった。大王だいおうはただちに物資ぶっし傷病しょうびょうへいのケーニヒグレーツへの輸送ゆそう着手ちゃくしゅし、ぜん部隊ぶたい撤退てったい準備じゅんびめいじるとともに、フェルトイェーガーてきちゅう突破とっぱさせてプラハのアインジーデルに撤退てったいめいじた。大王だいおうぐんふたつにけ、ひとつはわかデッサウの指揮しきにより物資ぶっしたずさえてグラッツに撤退てったいさせ、もうひとつは大王だいおうひきいて、ケーニヒグレーツで殿しんがりつとめたナッサウを収容しゅうようし、わかデッサウぐん撤退てったい援護えんごしつつその西にしブラウナウ経由けいゆでシュレージエンに撤退てったいした。ゆきふゆ山地さんち充分じゅうぶん食糧しょくりょうのないまま撤退てったいするプロイセンぐんを、さらにオーストリアぐん追撃ついげきおそい、撤退てったい成功せいこうするにしても多数たすうの、戦闘せんとうによる死傷ししょうしゃえとさむさによる病死びょうししゃ、そして逃亡とうぼうしゃさざるをなかった。かれらは12月はじめにはシュレージエンに到着とうちゃくした。

プラハ守備しゅびたい撤退てったいぎょうはより悲惨ひさんであった。大王だいおう撤退てったい命令めいれいったアインジーデルは、ごくわずかな時間じかんで、重砲じゅうほう予備よび銃器じゅうき破壊はかいしてかわしずめ、可能かのうかぎりの牛馬ぎゅうば徴発ちょうはつし、食糧しょくりょうをかきあつめることのすべてをおこない、11月26にち撤退てったい開始かいしした。すでにプラハはオーストリアへいかこまれており、もんてすぐパンドゥールから狙撃そげきけ、それでいてもんまえから市民しみんによって狙撃そげきされる有様ありさまだった。パンドゥールはりくだけでなくモルダウにもふねかべてプロイセンぐん銃撃じゅうげきし、街道かいどうじょうてられた荷馬にうましゃ死傷ししょうしゃ散乱さんらんする悲惨ひさん光景こうけいとなった。

アインジーデルは一旦いったん北西ほくせい行軍こうぐんしてライトメリッツにたっし、そこから北東ほくとうてんじてザクセンの南端なんたんとおり12がつ中旬ちゅうじゅんにシュレージエンにたっした。しかしこの過程かていでのかれぐん損害そんがいはあまりにもおおく、アインジーデルは譴責けんせきされて軍法ぐんぽう会議かいぎにかけられ、1745ねんさびしくった。

オーストリアぐんのシュレージエン侵入しんにゅう撤退てったい

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プロイセンぐんをベーメンから駆逐くちくしたオーストリアぐんは、そこで冬営とうえいはいるのではなく、つづいてただちにシュレージエンの奪回だっかいにとりかかるようマリア・テレジアから命令めいれいされた。グラッツぐんではオーストリアぐん全域ぜんいき侵入しんにゅうしてプロイセンが保持ほじするのはフーケまもるグラッツ要塞ようさいのみとなり、一方いっぽうでオーストリアぐん主力しゅりょくうえシュレージエンにかっていた。うえシュレージエンではメーレンさかいまで後退こうたいしたマルヴィッツぐん抵抗ていこうこころみていた。パンドゥールはすでにうえシュレージエンに侵入しんにゅうはじめていた。

シュレージエンに到着とうちゃくした大王だいおう本国ほんごくからろうデッサウんでシュレージエン防衛ぼうえい指揮しきたくし、シュレージエンしゅう行政ぎょうせい長官ちょうかんミュンヒョウぐんへの補給ほきゅう手配てはい冬営とうえい準備じゅんびめいじた。大王だいおう自身じしんぐん再建さいけんのため12がつ12にちにベルリンに帰還きかんしたものの、シュレージエンの状況じょうきょう緊迫きんぱくしていたためすぐ現地げんちもどらねばならなかった。

オーストリアぐん目的もくてきはシュレージエンないんでそこで冬営とうえいすることで、それをゆるせばつぎ戦役せんえきがプロイセンぐんにとっていちじるしく不利ふりになることはあきらかだった。大王だいおうてき侵入しんにゅうゆるすな、断固だんこ撃退げきたいせよとめいじたものの、マルヴィッツぐん優勢ゆうせいなオーストリアぐん前進ぜんしんしてくるとトロッパウからラティボル後退こうたいせざるをなかった。マルヴィッツが心臓しんぞう発作ほっさ急死きゅうししたためろうデッサウの息子むすこ一人ひとりディートリヒ指揮しきいだが、うえシュレージエンのプロイセンぐんはさらにコーゼル後退こうたいしてオーストリアぐんうえシュレージエン南部なんぶ着実ちゃくじつ進出しんしゅつし、ノイシュタット占領せんりょうした。これに対応たいおうして年明としあけ1がつ9にちろうデッサウと不十分ふじゅうぶんながらさい編成へんせいあいだわせたプロイセンぐんナイセがわわたり、オーストリアぐん撃退げきたいするべくみなみけて前進ぜんしんした。

このときうえシュレージエンにいたオーストリアぐん疲労ひろうきょくたっしていた。かれらははるにラインがわわたり、なつはエルザスにいてそこからドイツを横断おうだんしてベーメンでたたかい、ふゆになってもまだたたかつづけているという状態じょうたいで、物資ぶっし兵員へいいん欠乏けつぼうはなはだしく、真冬まふゆ作戦さくせんはさらにかれらを消耗しょうもうさせ、シュレージエンにはいったことで補給ほきゅうなんしょうじていた。またプロイセンぐんをベーメンから撃退げきたいしたのちはバイエルンにぐん勢力せいりょくかれていた。プロイセンぐんしてくるとオーストリアぐん後退こうたいした。

1がつ16にち、プロイセンぐんイェーゲルンドルフたっしてオーストリアぐん接近せっきんしたが、上記じょうきのような理由りゆうがあってトラウンは会戦かいせん回避かいひし、シュレージエンでの冬営とうえいあきらめて撤退てったいうつった。プロイセンぐんはさらに追撃ついげきして2がつにはうえシュレージエンを回復かいふくした。並行へいこうして2がつ14にち、グラッツにおいてレーヴァルトひきいるプロイセンぐんハーベルシュヴァルツヴァリスのオーストリアぐん撃破げきはし、グラッツからもオーストリアぐん駆逐くちくした。戦局せんきょく膠着こうちゃくしてようやく両者りょうしゃとも冬営とうえいはいり、大王だいおうはまた本国ほんごくもどった。

1744ねん戦役せんえきでプロイセンぐんった損害そんがいじつ甚大じんだいであった。オーストリアぐん投降とうこうしたプロイセン兵士へいしは1まん7せんにんおよぶとされ、一説いっせつによればベーメンからシュレージエンにかえくことのできた兵士へいしかずもと半分はんぶんの3まん6せんにんほどだったという[5]いちぐんちゅうひろまった疫病えきびょうはなかなかおさまることなく、依然いぜんとして多数たすう傷病しょうびょうへいかかえており、装備そうび弾薬だんやく損失そんしつかんがわせると、1745ねんはじめのプロイセンぐん戦闘せんとう能力のうりょく喪失そうしつしかけていた。

損害そんがい物的ぶってきめんまらず精神せいしんてきめんにもおよんでいた。大王だいおう将兵しょうへい信頼しんらいうしないつつあり、将校しょうこうげやりになり、兵士へいしたちのあいだでも規律きりつ団結だんけつうしなわれようとしていた。プロイセンの支配しはいらいでいることをかんじたシュレージエンの住民じゅうみんには公然こうぜんとした反抗はんこうられた。1744ねん敗北はいぼくから1745ねんはるまでのプロイセンは、おおいなる危機ききなかにあった。

大王だいおうはのちの著作ちょさくにおいてこのとし戦役せんえき記述きじゅつ以下いかのようにめくくり、またいち会戦かいせんおよばすしてプロイセンぐん勝利しょうりしたトラウンをたたえた[6]

どの将軍しょうぐんもこの戦役せんえきわたし以上いじょう失敗しっぱいをしなかった。まずなによりの失敗しっぱいは、ベーメンにおいてすくなくとも6かげつあいだ活動かつどう維持いじするのに必要ひつようりょう物資ぶっし準備じゅんびしてかなかったことだ。我々われわれぐんというものが胃袋いぶくろによってっていることをっている。しかしそれがすべてではない。ザクセンに侵入しんにゅうするときにわたしは、ザクセンがすでにヴォルムス条約じょうやく加盟かめいしていることをっていた。わたしはザクセンにその所属しょぞくする同盟どうめいえさせるか、さもなくばベーメンにはいまえかれらをたおしておくべきだった。プラハ包囲ほういちゅう、ベラウンでバッチャーニ元帥げんすいたいして不十分ふじゅうぶん規模きぼ支隊したいしかおくらなかったとき 、かれらが非凡ひぼん勇気ゆうきぬしでなかったらかれらはうしなわれていただろう。プラハを占領せんりょうしたのちには、ぜんぐん半分はんぶん戦力せんりょくでもってバッチャーニ元帥げんすい攻撃こうげきし、ロートリンゲン公子こうし到着とうちゃくするまえかれ撃破げきはしてピルゼンの集積しゅうせき物資ぶっしうばうのが良策りょうさくであったろう。オーストリアぐんのベーメンでの活動かつどうのために準備じゅんびされていたその物資ぶっし損失そんしつは、かれらにあらためて物資ぶっし集積しゅうせきさせることによって時間じかんついやさせ、それはかれらをしてこの地方ちほううしなわしめることになっただろう。もしだれかが、なんとかプロイセンの物資ぶっしたそうとするのにはらわれた充分じゅうぶん熱意ねついかんじることがなかったというのなら、わたしはそのことについて非難ひなんされるべきであろう。しかし補給ほきゅう要員よういんたいしてそれは無用むようである。かれらはかれ自身じしんのための物資ぶっしそらにして補給ほきゅうとどけたのだ。わたしに、君主くんしゅとしてベル=イル元帥げんすいとのあいだに、ターボルおよびブトヴァイスに進出しんしゅつするというかれ提案ていあんした計画けいかく了承りょうしょうしたというよわみがあったとしてもしかし、計画けいかく困難こんなんもしくは危険きけんであることをみとめたときには、それ(協定きょうていかかわること)は重要じゅうようでもないし戦争せんそう原理げんりにもはんしていた。そこ(戦争せんそう原理げんり)からはなれることはゆるされない。そのあやまりののちにすべての失敗しっぱいつづくことになった。最終さいしゅうてきに、ぐんはターボル方面ほうめん行軍こうぐんすることによっててきのベーメンへの行軍こうぐん宿営しゅくえいゆるした。この地方ちほうのすべての好意こういはオーストリアぐんのためにあった。トラウン元帥げんすいはセルトリウスの役割やくわりたし、わたしはポンペイウスだった。トラウン元帥げんすい指揮しき完璧かんぺきせんれいであり、職務しょくむあい才能さいのうあるすべての軍人ぐんじんはこれを研究けんきゅう模範もはんとすべきである。わたしは、この戦役せんえきわたしにとって戦争せんそうじゅつについての学校がっこうであったとなしており、そしてトラウン元帥げんすいわたし教師きょうしであったことをはっきりとみとめたい。君主くんしゅにとって幸運こううんはしばしば不運ふうんよりも致命ちめいてきでありうる。前者ぜんしゃは(自身じしんのなした)推測すいそくわせるが、後者こうしゃ慎重しんちょうかつ謙虚けんきょうようにさせる。

1745ねん戦役せんえき

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戦役せんえき開始かいしにおける状況じょうきょう

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1745ねんはる各国かっこく外交がいこうは、プロイセンにとって大変たいへんきびしい状況じょうきょうに、一方いっぽうのオーストリアにとってはシュレージエンを奪回だっかいするのに大変たいへん都合つごう状況じょうきょうになっていた。

1744ねんのベーメン侵攻しんこう完全かんぜん失敗しっぱいわると、大王だいおうはすぐイギリスにはたらきかけて和平わへい可能かのうせいさぐはじめた。もちろんシュレージエンはプロイセンが保持ほじしたままというのが大王だいおう条件じょうけんだったが、プロイセンからやくやぶっておいて、戦況せんきょうがオーストリア優位ゆういかたむいている状況じょうきょうでのこの交渉こうしょう当然とうぜんうまくいかなかった。それどころか1がつ8にちには、イギリス、オランダ、ザクセン、オーストリアのよんカ国かこくによるワルシャワ条約じょうやく成立せいりつし、プロイセンを包囲ほうい攻撃こうげきする態勢たいせいつくられていた。この条約じょうやくは、ザクセンを完全かんぜんにオーストリアの味方みかたにし、オーストリアのがわってたたかわりにイギリスとオランダから資金しきん援助えんじょあたえられるという内容ないようだった。ただよんカ国かこく同盟どうめいとはってもイギリスとオランダにたいプロイセンせん兵力へいりょくまわかんがえはなく、実質じっしつてきにはザクセンの戦力せんりょくくわわることがはっきりしたことだけが成果せいかだった。

1がつ20日はつか、かねてより健康けんこうがいしていた皇帝こうていカール7せいもどったばかりのミュンヘンで死去しきょした。神聖しんせいローマ皇帝こうてい援助えんじょするというのがプロイセンとフランスが戦争せんそうかかげていた題目だいもくで、両国りょうこく大義名分たいぎめいぶんうしなうとともに、皇帝こうてい後継あとつマクシミリアン・ヨーゼフがまだ幼少ようしょうであり、戦況せんきょう不利ふりであることをかんがわせると、皇帝こうていがハプスブルクもど公算こうさんおおきくなった。ハプスブルク皇帝こうていからきずりろして帝国ていこくへの影響えいきょうりょくうしなわせるのがフランスのそもそもの戦争せんそう目的もくてきであり、それがもともどってしまうのをしんだフランスはザクセンにはたらきかけてアウグスト3せい皇帝こうていし、あわせてザクセンを味方みかたれようとした。しかしこの計画けいかくはすぐに失敗しっぱいした。プロイセンもこれを機会きかいにイギリスにフランツ・シュテファンへの投票とうひょうやくするという条件じょうけん和平わへい斡旋あっせん依頼いらいしたが、やはりことわられた。

オーストリアはバイエルンを早期そうき戦争せんそうから脱落だつらくさせるためにふゆあいだから部隊ぶたいうごかしており、はるになると強力きょうりょく攻勢こうせい連合れんごうぐん後退こうたいさせミュンヘンを占領せんりょうした。その結果けっか、バイエルンはオーストリアへの請求せいきゅうけんすべ放棄ほうきして単独たんどく講和こうわであるフュッセン条約じょうやく成立せいりつし、オーストリアはプロイセンに戦力せんりょく集中しゅうちゅうさせることができるようになった。フランクフルト同盟どうめい雲散霧消うんさんむしょうし、プロイセンはドイツに友邦ゆうほうひとつもなくなった。

フランスは、すでに1743ねんごろから皇帝こうていへの支援しえんりたいとかんがえるようになっており、ドイツ方面ほうめんでの活動かつどう消極しょうきょくてきになっていた。1744ねん12月に、ミュンヘンからベルリンへ作戦さくせん調整ちょうせいのためかっていたベル=イル元帥げんすいがイギリスぐんによって拘束こうそくされ、イギリス本島ほんとう護送ごそうされる事件じけん発生はっせいしており、継承けいしょう戦争せんそう立案りつあんしゃ帝国ていこくへのぐん派遣はけんつようったえてきたかれ不在ふざいは、フランス宮廷きゅうていがドイツ方面ほうめん作戦さくせんについて消極しょうきょくろんまるのをさらに助長じょちょうした。そこへバイエルンの戦争せんそう脱落だつらくまったために、フランスはドイツへの興味きょうみをほとんどうしない、フランドルやイタリア方面ほうめん注力ちゅうりょくする姿勢しせいしめしていた。これは事実じじつじょう、プロイセン単独たんどくでオーストリアとたたかわなければならないということだった。

さらにプロイセンにとってわるいことに、ロシアがオーストリアがわ支持しじせる姿勢しせいをだんだんとあきらかにしはじめていた。大王だいおうはロシアの好意こういてき中立ちゅうりつ獲得かくとくするために工作こうさくかさねてきたが、オーストリア、イギリスともにロシアを味方みかたれることりょくれており、後者こうしゃった結果けっかとなった。大王だいおうはこのような状態じょうたい戦役せんえきはじめたのである。

プロイセン竜騎兵りゅうきへい

もしプロイセンがオーストリアとの和平わへい実現じつげんさせたいなら、シュレージエンの返還へんかんみとめるしかなかった。しかし大王だいおうはあくまでシュレージエンを領有りょうゆうつづける姿勢しせい内外ないがいしめし、断固だんことしてたたかいをえらんだ。宮廷きゅうていでは銀製ぎんせいひん銀貨ぎんかえて資金しきん捻出ひねりだし、ぐん再建さいけんとうじられた。再建さいけんには550まんターラーようしたとされる。プロイセンぐんはドイツちゅう募兵ぼへいかん派遣はけんして傭兵ようへいやとれるとともにカントン制度せいど登録とうろくしゃをかきあつめ、脱走だっそうへいには逃亡とうぼうつみわないことを約束やくそくし、臨時りんじボーナスもして帰還きかんけた。損害そんがいおおきい部隊ぶたい回復かいふくおそ兵士へいし要塞ようさい守備しゅびたいえ、シュレージエンではろうデッサウが訓練くんれんして士気しきたび回復かいふくつとめた。

全般ぜんぱんてき不利ふり情勢じょうせいなか、プロイセンにとって都合つごういことがひとつあった。それは前年ぜんねん戦役せんえきが2がつまでして冬営とうえいりがおくれたことと、1745ねん戦役せんえきはじまりでバイエルンへの攻撃こうげき優先ゆうせんしたことから、シュレージエン方面ほうめんにおけるオーストリアぐん主力しゅりょく部隊ぶたい行動こうどう開始かいしが5がつまでばされたことだった。これで大王だいおうはプロイセンぐん再建さいけん余裕よゆうた。

オーストリアぐん作戦さくせんは、主力しゅりょく先駆さきがけてうえシュレージエンにハンガリーぜい主体しゅたいエステルハージぐん進出しんしゅつさせてプロイセンぐん注意ちゅういきつつ、本隊ほんたいはザクセンぐん合流ごうりゅうしてベーメンから山越やまごえで直接ちょくせつしもシュレージエンはいり、ブレスラウ目指めざすというものだった。オーストリアぐん指揮しきつづきカール公子こうしによっておこなわれたが、前年ぜんねんにプロイセンをくるしめたトラウンはライン方面ほうめん転出てんしゅつしていた。

3月15にち大王だいおうはベルリンをはなれ、シュレージエンにもどって指揮しき掌握しょうあくした。ろうデッサウをマクデブルクいてハノーファーとザクセンの両方りょうほうたいするそなえとし、自身じしんナイセからしばらくオーストリアぐん動向どうこう観察かんさつしていた。メーレンでの冬営とうえいえてオルミュッツに集結しゅうけつしつつあるオーストリアぐん主力しゅりょく部隊ぶたいが、すでに活動かつどうはじめているエステルハージぐんつづいてうえシュレージエンにはいるのか、それともベーメンに移動いどうして山越やまごえをはかるのかが最初さいしょ問題もんだいだった。大王だいおうはオーストリアぐん将校しょうこう自軍じぐんくことで、オーストリアぐんがベーメンからシュレージエンに侵入しんにゅうすることをはや段階だんかいった。オーストリアぐんがベーメンで物資ぶっし集積しゅうせきおこなっていることを大王だいおう把握はあくしており、これは上記じょうき情報じょうほう裏付うらづけた。

5月にはいると、オーストリアぐんはメーレンからベーメンに移動いどうした。大王だいおう主力しゅりょく部隊ぶたいを、ナイセ、シュヴァイトニッツ、グラッツの3要塞ようさいのおおよそのなかあいだてんにあるフランケンシュタイン集結しゅうけつさせてうごかさず、うえシュレージエンのエステルハージぐんたいしてはへいすうおとカール辺境へんきょうはくぐんのみで遅滞ちたい戦術せんじゅつ終始しゅうしさせた。大王だいおうじゅうスパイをもちいて、プロイセンぐん損害そんがいおおきすぎてなおれず、国境こっきょう周辺しゅうへんでの抵抗ていこうあきらめてブレスラウへ撤退てったいするとのにせ情報じょうほうおくらせた。大王だいおう意図いとはオーストリアぐん積極せっきょくてきにシュレージエンない誘引ゆういんし、平地ひらちして一大いちだい決戦けっせん仕掛しかけ、戦局せんきょくをひっくりかえすことだった。

オーストリアぐんではプロイセンぐんたいする楽観らっかんてき見通みとおしが支配しはいてきで、スパイの報告ほうこく容易たやすしんじ、うえシュレージエンでのプロイセンぐん消極しょうきょくてき抵抗ていこう国境こっきょう周辺しゅうへんからの部隊ぶたいげはこれを裏付うらづけるものとかんがえられた。シュレージエンではブレスラウへつながるみち工兵こうへいにより急遽きゅうきょ補修ほしゅうされているとのらせもオーストリアの認識にんしき強化きょうかしたが、これも大王だいおう欺瞞ぎまんさくひとつだった。大王だいおうはオーストリアぐん予想よそう進路しんろから、ランデスフートヴィンターフェルトを、シュヴァイトニッツにデュ・ムーランをいてなおしばらくてきうごきをった。

5月19にち、ケーニヒグレーツのカール公子こうしぐん行軍こうぐんはじめたとった大王だいおうは、決戦けっせん兵力へいりょく集中しゅうちゅうするためにうえシュレージエンからカール辺境へんきょうはくぐんをもげることにした。すでにナイセかわ以南いなん地域ちいきはパンドゥールがすっかり占拠せんきょしてしまっており、大王だいおうはツィーテンの騎兵きへい部隊ぶたい派遣はけんしてイェーゲルンドルフに命令めいれい伝達でんたつさせた。カール辺境へんきょうはく現地げんち少数しょうすう守備しゅびたいのこしてすぐ行動こうどううつり、22にちには攻撃こうげきしてきた優勢ゆうせいなオーストリアぐん撃退げきたいし、そのままてきちゅうとおって27にちにフランケンシュタインに到着とうちゃくした。

おなじ22にち、オーストリアぐんのナドシュディひきいる前衛ぜんえい部隊ぶたいはランデスフートにたっしてヴィンターフェルトを攻撃こうげきし、ヴィンターフェルトはすみやかに後退こうたいして大王だいおうてき到着とうちゃく報告ほうこくした。オーストリアぐん本隊ほんたいは26にちから順次じゅんじとうげえてランデスフートに到着とうちゃくし、ザクセン=ヴァイセンフェルスこうのザクセンぐん合流ごうりゅうして、31にちまで一旦いったん同地どうち停止ていしして陣容じんようととのえた。

5月30にち大王だいおうひきいるプロイセンぐんはいよいよ決戦けっせんけて行軍こうぐん開始かいしした。同日どうじつちゅうライヘンバッハまで進出しんしゅつ、31にちにはシュヴァイトニッツに到着とうちゃくし、同地どうちからアルト・ヤウエルニッヒにかけて宿営しゅくえいした。ヤウエルニッヒに本営ほんえいかまえた大王だいおうはデュ・ムーランに、シュヴァイトニッツのきたシュトリーガウにあって偵察ていさつもう展開てんかいするようにめいじ、自身じしんはシュトリーガウ西方せいほう土地とち偵察ていさつしててき到着とうちゃくった。

6月3にち連合れんごうぐん山地さんちりてシュトリーガウ西方せいほうホーエンフリートベルク到着とうちゃくした。連合れんごうぐんは、プロイセンぐん決戦けっせん意図いとしての計画けいかくてき行軍こうぐんを、ナイセやグラッツをにらんでいた大王だいおうきたからの侵入しんにゅうおどろいて急遽きゅうきょ転進てんしんしてきたものとなし、ブレスラウにまわまれ本国ほんごくとの連絡れんらくたれるのおそれてすぐにも撤退てったいするであろうと推測すいそくした。よく6がつ4にちおこなわれたホーエンフリートベルクのたたかはプロイセンぐん大勝たいしょうとなった。

ハノーファー協定きょうてい

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大王だいおうにとって、1745ねん以降いこうこの戦争せんそう目的もくてきはシュレージエン領有りょうゆう保障ほしょうされた和平わへい獲得かくとくすることにあった。ゆえに以後いごのプロイセンぐん行動こうどうすべ和平わへい交渉こうしょう影響えいきょうあたえようという目的もくてき沿っておこなわれた。会戦かいせん勝利しょうりしたのち大王だいおうふたたびデュ・ムーランやヴィンターフェルトの部隊ぶたいおくって国境こっきょう山地さんち回復かいふくさせたが、主力しゅりょくでもって敗走はいそうした連合れんごうぐん追撃ついげき撃滅げきめつしようとはしなかった。これはのちの軍事ぐんじ史家しかからはしばしば批判ひはんされたことであるが、大王だいおう追撃ついげき見送みおくったその理由りゆうは、ひとつにはこの時代じだい戦争せんそうそれ自体じたいナポレオン戦争せんそうころとはことなり、追撃ついげき重視じゅうししなかった(できなかった)ことにあり、いまひとつはプロイセンぐん兵站へいたん整備せいびいま前年ぜんねん損害そんがい回復かいふくしておらず、準備じゅんびなくベーメンにめば前年ぜんねんまいになりかねなかったからである。

補給ほきゅう態勢たいせいととのえたプロイセンぐんは、6がつ中旬ちゅうじゅんからやまえてベーメン北東ほくとうエルベじょう流域りゅういき進出しんしゅつし、ケーニヒグレーツで連合れんごうぐん対峙たいじした。会戦かいせん敗北はいぼくケーニヒグレーツまで撤退てったいし、そこにとどまっていたカール公子こうしは、自軍じぐんをケーニヒグレーツのみなみ、エルベがわ東岸とうがんのエルベとオドラはさまれた要害ようがいいて防御ぼうぎょかためていた。たいする大王だいおうも6がつ18にち、オドラ北岸ほくがん、ケーニヒグレーツ北東ほくとうじんかまえた。りょうぐん陣地じんちはすぐに会戦かいせんてんじることのできるほど接近せっきんしていたが、カール公子こうし会戦かいせんうったえるような戦意せんいはなく、大王だいおう意図いともあくまでオーストリアぐんにプレッシャーをかけることにあった。このため戦闘せんとうこらなかった。

大王だいおうはホーエンフリートベルクのたたかいののち、さっそくイギリスに和平わへい交渉こうしょうはじめるようはたらきかけていた。ホーエンフリートベルクよりさきの5がつ11にちにはフォントノワのたたかにおいてイギリス、オーストリア、オランダ連合れんごうぐんがフランスぐん敗北はいぼくしており、イタリア方面ほうめんにおいてもフランス・スペイン連合れんごう優勢ゆうせいで、1745ねんなつ戦況せんきょうはるとはおおきくわってはんオーストリアがわぶんがあった。ケーニヒグレーツでにらみあいをつづけてイギリスとの交渉こうしょう進展しんてんつそのあいだに、大王だいおうはナッサウをうえシュレージエンに増派ぞうはしてエステルハージぐんもどすようめいじ、一方いっぽうでマクデブルクのろうデッサウぐんにはザクセン国境こっきょう示威じい行動こうどうおこなわせ、ザクセンを戦争せんそうから離脱りだつさせようとはかった。

ケーニヒグレーツで対陣たいじんして1カ月かげつつと、プロイセンぐん土地とち周辺しゅうへん物資ぶっし消費しょうひしつくしてしまい、あたらしいべつ土地とちうつらなければならなかった。7がつ20日はつか、プロイセンぐんはエルベ左岸さがん渡河とかしてクルムを中心ちゅうしんピストリッツからエルベまでの領域りょういき占領せんりょう[7]、なお交渉こうしょう進展しんてんった。このあいだザクセンぐん本国ほんごく状況じょうきょう危機ききかんじ、部隊ぶたいおおくを帰還きかんさせたが、オーストリアぐんにはなおしばらくうごきはなかった。

このころフランスは、プロイセンの要求ようきゅうこたえることなくドイツの戦局せんきょくについて関心かんしんしめすことがなかった。神聖しんせいローマ皇帝こうてい選出せんしゅつ会議かいぎひらくフランクフルトは当時とうじフランスのコンティぐんさえていたが、このフランクフルト確保かくほのためにオーストリアのトラウンぐん前進ぜんしんしてくると、コンティぐん戦闘せんとう回避かいひしてライン左岸さがん撤退てったいしてしまった。当時とうじ両国りょうこくあいだではもうほとんど連携れんけいおこなわれなかった。

一方いっぽうイギリスは、ネーデルラント方面ほうめんでの戦況せんきょう劣勢れっせいくわえて、フランスがチャールズわか僭王上陸じょうりく支援しえん画策かくさくちゅうとの報告ほうこくせられていたことから、プロイセンとオーストリアの講和こうわ斡旋あっせんすることにふたた前向まえむきになっていた。8月26にち、ハノーファーでの最終さいしゅう交渉こうしょう結果けっか和平わへいは1742ねんのブレスラウ条約じょうやくもとにすること、和平わへい成立せいりつさいにはプロイセンはフランツ・シュテファンの皇帝こうてい即位そくいみとめることを条件じょうけんに、イギリスはオーストリアとの講和こうわ斡旋あっせんおこなうという内容ないようハノーファー協定きょうていむすんだ。

ゾーアのたたか

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プロイセンの兵士へいしたち

マリア・テレジアは、大王だいおう期待きたいはんして戦意せんい旺盛おうせいであり、プロイセンからシュレージエンをうばかえすためにさらなるたたかいをのぞんでいた。よって女王じょおうはイギリスの大使たいしトマス・ロビンソン提案ていあんした講和こうわ拒否きょひした。イギリスとオランダはオーストリアが西方せいほう兵力へいりょくまわさないのが不満ふまんでザクセンへの資金しきん援助えんじょしぶっており、今年ことし1がつむすばれたばかりのワルシャワ条約じょうやくはやくも空文くうぶんしていた。このためオーストリアはザクセンを自国じこくがわつなぎとめるためにケーフェンヒュラーおくり、8がつ29にちにドレスデンで自国じこくとの同盟どうめいさい確認かくにんした。さらに女王じょおうはロシアに参戦さんせんけてさんカ国かこくによるプロイセン攻撃こうげき計画けいかく構想こうそうした。

近日きんじつちゅうおっと皇帝こうてい即位そくい予定よていされるなか女王じょおうはカール公子こうしぐん兵士へいし補充ほじゅうおこなわせるとともに、ロプコヴィッツダレンベルクりょう将軍しょうぐんおくって補佐ほさやくとし、カール公子こうし断固だんことしてプロイセンぐんへの攻撃こうげきめいじた。カール公子こうしは、ぐん一部いちぶにエルベ東岸とうがん北上ほくじょうさせてプロイセンぐんのシュレージエンとの連絡れんらくせん攻撃こうげきしてこれをち、一方いっぽう主力しゅりょくはエルベ西岸せいがんわたって大王だいおうぐん圧迫あっぱくし、きたいやってベーメンから撤退てったいさせることを目指めざした。

オーストリアぐん北上ほくじょう開始かいししたとき、プロイセンぐん部隊ぶたい占領せんりょう物資ぶっし調達ちょうたつ容易よういにするためにひろ分散ぶんさんしており、まずは集結しゅうけつはからなければならなかった。大王だいおうはオーストリアぐん行動こうどうによって女王じょおう戦争せんそう継続けいぞくえらんだことをり、和平わへいへの見通みとおしがうまかったことをさとった。うえシュレージエンの回復かいふくやザクセン牽制けんせいのために部隊ぶたい派遣はけんしてベーメンのプロイセンぐんかずらしていたため、大王だいおうはベーメンでの交戦こうせんはせずにシュレージエンへ撤退てったいすることにし、オーストリアぐんはこれをった。

プロイセンぐん補給ほきゅうではれいによってトレンク、フランキーニといった指揮しきかんひきいられたオーストリアぐんけい歩兵ほへい部隊ぶたいによる攻撃こうげきおこなわれた。プロイセンぐんかれらへの対処たいしょ方法ほうほう経験けいけんによってまなび、複数ふくすうのルートをもうけて補給ほきゅう部隊ぶたいおおきな護衛ごえい部隊ぶたいけ、中継ちゅうけい基地きち守備しゅびかためていたが、グラッツ方面ほうめん連絡れんらくせん度重たびかさなる攻撃こうげきによって放棄ほうきせざるをなかった。大王だいおう随行ずいこうしていたフランスの大使たいしヴァロリーは、フランキーニによる退却たいきゃくへの先回さきまわりした攻撃こうげきによってあやうく捕虜ほりょになりかけ、秘書ひしょダルジェ機転きてんかせてみずか身代みがわりとなることで危機ききだっしたこともあった。食糧しょくりょう不足ふそくくるしむようなことはなかったが、この攻撃こうげきはプロイセンぐんたいしておおきな圧力あつりょくとなり、また警備けいび兵力へいりょくかねばならなくなった。

9月18にち、プロイセンぐんヤロミッツでエルベがわ東岸とうがんわたり、北上ほくじょうしてシュレージエンを目指めざした。退却たいきゃく進路しんろをオーストリアぐんからまもるためにデュ・ムーラン、ヴィンターフェルト、レーヴァルトらを次々つぎつぎおくしたことで、もともとすくなくなっていた大王だいおうぐん戦力せんりょくは2まん程度ていどにまでんでいた。これにたいして4まん兵力へいりょくつカール公子こうしぐん積極せっきょくてきてきい、9月29にちよるゾーアにおいてプロイセンぐん会戦かいせん仕掛しかけるため接近せっきんした。このとき大王だいおうは、あくまでてき行動こうどう自軍じぐん機動きどうによって撤退てったいさせることにあるとかんがえててき戦意せんい過小かしょう評価ひょうかし、警戒けいかいおこたってその接近せっきんゆるした。よく30にち早朝そうちょうてきのすぐそこにせまっていることに気付きづいた大王だいおう兵力へいりょく半分はんぶんながら攻撃こうげきゾーアのたたか勝利しょうりした。

ゾーアのたたかいののち大王だいおうぐん同地どうちに5日間にちかんめ、内外ないがい勝利しょうり印象いんしょうけてから10がつ6にち撤退てったい再開さいかいし、19にち国境こっきょうえてシュレージエンにもどった。大王だいおうはこの戦勝せんしょうによってオーストリアに講和こうわれさせることができるとかんがえており、今年ことし戦役せんえきわりと判断はんだんしてシュレージエンのぐんおよびザクセン国境こっきょうぐん冬営とうえいはいらせた。

マリア・テレジア秘策ひさく

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このような精神せいしんてき影響えいきょう顧慮こりょする勝利しょうりとく重要じゅうようであることを注意ちゅういするために、ゾールの会戦かいせんだけを指摘してきしておく。この会戦かいせん戦利せんりひんはさほどだいではなかった(捕虜ほりょすうせん火砲かほうじゅうもん)。しかしフリードリヒ大王だいおうは、すでにシュレージエンへの退却たいきゃく決意けついし、またぐん情況じょうきょうからしてこの退却たいきゃく十分じゅうぶん根拠こんきょゆうしたにもかかわらず、かれはなお日間にちかん戦場せんじょう保持ほじしてはじめて戦勝せんしょう布告ふこくした。フリードリヒがみずからかたっているように、かれはこの戦勝せんしょうによる精神せいしんてき圧力あつりょくをもって講和こうわ招来しょうらいるとかんがえたのである。もっともこの講和こうわ実現じつげんするにはなおかい戦勝せんしょう必要ひつようであった。すなわちラウジッツ地方ちほうのカトーリッシュ‐ヘンネルスドルフの戦闘せんとうとケッセルスドルフの会戦かいせんとにおける勝利しょうりである。しかしなんびとといえども、ゾールの会戦かいせんあたえた精神せいしんてき効果こうかれいであった、とることはできまい。

クラウゼヴィッツ解説かいせつするように[8]大王だいおう期待きたいはずれた。いまや女帝にょてい皇后こうごう)となったマリア・テレジアは、ロシアの参戦さんせん承諾しょうだくて、プロイセンにたいさん方向ほうこうからのだい規模きぼ攻撃こうげき企図きとしていたからである。

その内容ないようは、まずだいいちに、カール公子こうしぐんラウジッツれてザクセンぐん一部いちぶ合流ごうりゅうさせ、そこから北東ほくとう進出しんしゅつしてオーデルがわて、プロイセン本国ほんごくとシュレージエンのプロイセンぐん連絡れんらくち、そのうえでひがしからベルリンをねらう。だいに、ザクセンからザクセンぐん主力しゅりょく部隊ぶたいであるルトフスキーぐんをマクデブルクに進出しんしゅつさせて冬営とうえいちゅうのマクデブルクぐん攻撃こうげき敗走はいそうさせ、そのあとブランデンブルクに直進ちょくしんさせて西にしからベルリンをねらう。このふたつの攻撃こうげき応援おうえんするためにオーストリアぐんは、ライン方面ほうめんからグリュネ部隊ぶたいをザクセンに転進てんしんさせてルトフスキーぐんとカール公子こうしぐん東西とうざい間隔かんかくめ、ハンガリーぜい一部いちぶしもシュレージエンへの侵入しんにゅうこころみさせることでプロイセンの注意ちゅういをそちらにきつける。だいさんに、ロシアぐん応援おうえんのためにポーランド経由けいゆでザクセン本国ほんごく部隊ぶたい進出しんしゅつさせ、同時どうじひがしプロイセン攻撃こうげきする。

この構想こうそうはオーストリア継承けいしょう戦争せんそうにおいてオーストリアが企図きとした作戦さくせんなかでもっともだい規模きぼなもので、もしこれが成功せいこうしたならば、今年ことし戦役せんえきわったものとおもんで冬営とうえいはいっていたプロイセンぐんてき侵入しんにゅうへの対応たいおうおくれ、プロイセンの主要しゅようぐん勢力せいりょくであるシュレージエンぐんとマクデブルクぐんはそれぞれベルリンから分断ぶんだんされた状態じょうたい各個かっこ撃破げきはされ、ベルリンはわずかな守備しゅびたいだけでてき直面ちょくめんすることになり、そこへさらにロシアの攻撃こうげきかさなることになったであろう。プロイセンとのたたかいに戦力せんりょく集中しゅうちゅうさせたい女帝にょていは、もしこの作戦さくせん成功せいこうするようなら、かなりの譲歩じょうほおこなってでもフランスとただちに講和こうわしようともかんがえていた。もっともこの作戦さくせんは、プロイセンぐんがこちらの攻撃こうげきにすばやく反応はんのうした場合ばあい、ルトフスキーぐんはマクデブルクぐんと、カール公子こうしぐんはシュレージエンぐんとそれぞれ本格ほんかくてき会戦かいせんおこなわざるをず、カール公子こうし自軍じぐん敗戦はいせんつづきでいちじるしく消耗しょうもうしており、士気しき沈滞ちんたいして、装備そうび補充ほじゅうすすんでいないことからそのリスクをおそれてこの作戦さくせん反対はんたいだった。

さんカ国かこくによるプロイセン攻撃こうげき計画けいかくは、ザクセンの宰相さいしょうブリュールがスウェーデン大使たいしにその存在そんざいらしたことから[9]ちゅうベルリン・スウェーデン大使たいしつうじてただちに大王だいおう報告ほうこくされた。これをいて大王だいおうはポデヴィルスとろうデッサウを招集しょうしゅうして検討けんとう会議かいぎひらいた。両者りょうしゃはともに作戦さくせん実施じっし困難こんなんさとザクセンの戦意せんいうたがってこの情報じょうほう懐疑かいぎてきで、しばらく様子ようするよう大王だいおう提案ていあんしたが、大王だいおうてき意図いとただしく判断はんだんしただちに対抗たいこう作戦さくせん立案りつあんして2にんにその準備じゅんびめいじた。

大王だいおうかく部隊ぶたいにひそかに戦闘せんとう準備じゅんびととのえさせることだけをさせて、自軍じぐんをすぐにうごかすことはしなかった。大王だいおう作戦さくせんは、まず、自国じこくがオーストリアぐん行動こうどうにはいていないようにせかけることによって、ラウジッツにけて行軍こうぐんちゅうのカール公子こうしぐん国境こっきょうちかくまできつけ、そこで大王だいおうひきいる主力しゅりょく部隊ぶたい強襲きょうしゅうをかける。つぎハレ集結しゅうけつしたろうデッサウぐんがザクセンに進出しんしゅつし、ザクセンぐん撃破げきはする、というものであった。ベルリン防衛ぼうえいにはハッケ少数しょうすう部隊ぶたいあたえるだけにめ、大王だいおう野戦やせんによってすみやかにてき主戦しゅせんりょく無力むりょくし、ロシアの介入かいにゅうまえ決着けっちゃくをつけることをねらっていた。

アンハルト=デッサウこうレオポルト1せい

11月、大王だいおうはシュレージエンにうつるとヴィンターフェルトに3せんへいあたえてザクセンとの国境こっきょうであるボーベアかわクヴァイスがわ地域ちいき展開てんかいさせ、てき斥候せっこう侵入しんにゅう阻止そしするとともにてきぐん行動こうどう偵察ていさつさせた。またうえシュレージエンからナッサウをもどしてしもシュレージエンとベーメンとの国境こっきょうまもらせ、みずからは主力しゅりょくとともにうごくことなく時期じきった。カール公子こうしぐんはヴィンターフェルトによって視界しかいふさがれたまま、フランクフルト・アン・デア・オーデルへの進軍しんぐん目指めざしてラウジッツにはいった。連合れんごうぐんはナイセがわとクヴァイスがわあいだ展開てんかいし、右翼うよくのクヴァイスがわをザクセンぐんまもっていた。

11月23にち、プロイセンぐん強行きょうこうぐんでもって一気いっきてき接近せっきんナウムブルクでクヴァイスがわ左岸さがんわたるとヘンネルスドルフのたたかでザクセンぐん急襲きゅうしゅうしてこれを敗走はいそうさせた。25にちにはオーストリアぐん物資ぶっし集積しゅうせき基地きちとしていたゲルリッツ攻撃こうげきして占領せんりょうした。てき行動こうどうまった把握はあくしていなかったカール公子こうしぐんはプロイセンぐん攻撃こうげき対応たいおうできず、ザクセンぐん援護えんごすることもゲルリッツをすくうこともできなかった。大王だいおうはゲルリッツをとしたのちすぐオーストリアぐん主力しゅりょく撃滅げきめつしようとしたが、カール公子こうしはゲルリッツ陥落かんらく作戦さくせん必要ひつようだった物資ぶっしうしない、うかうかしているとツィッタウに先回さきまわりされて補給ほきゅうせん完全かんぜんたれるため、当初とうしょ目的もくてき早々そうそう放棄ほうきしてベーメンへ退却たいきゃくした。この一連いちれん戦闘せんとうで、プロイセンぐんがごくわずかの損害そんがい目的もくてき達成たっせいしたのにたいし、オーストリアぐん大量たいりょう物資ぶっしくわえて5せんへいうしなったとされる。

ラウジッツにおいててきぐんくだしたのち、ゲルリッツに本営ほんえいいた大王だいおうはしばらくへいやすめて強行きょうこうぐんによってみだれたぐんととのえるあいだに、ヴィンターフェルトをシュレージエンのナッサウの援護えんごまわし、レーヴァルトぐん本隊ほんたい先駆さきがけて西進せいしんさせた。ナイセとエルベのあいだをつないでいたグリュネぐんは、カール公子こうしぐん敗北はいぼくとレーヴァルトぐん接近せっきんって西にし撤退てったいし、ルトフスキーぐん合流ごうりゅうした。

そのころハレを進発しんぱつしたろうデッサウぐんライプツィヒ占領せんりょう、エルベがわ転進てんしんしてトルガウ攻略こうりゃくしていた。ロシア介入かいにゅうまえにザクセンを戦争せんそうから脱落だつらくさせたい大王だいおうろうデッサウにすみやかに進撃しんげきせよとめいじていたのに、ろうデッサウはいちいち補給ほきゅう倉庫そうこパン焼ぱんやかま設置せっちしてからでないとぐんすすませなかった。大王だいおう度重たびかさなる速戦即決そくせんそっけつ命令めいれいたいし、長老ちょうろうたるろうデッサウは容易よういしたがわず、自分じぶんりゅう戦争せんそうのやりかたかかわった。

しかしこのあいだガベルからリトメリッツでエルベがわたカール公子こうしぐんがザクセンに急行きゅうこうしつつあり、はやくルトフスキーぐん撃破げきはしなければカール公子こうしぐん合流ごうりゅうされてしまう可能かのうせいがあった。てき戦力せんりょく各個かっこ撃破げきはのぞ大王だいおうみずからもバウツェンてドレスデンにかう一方いっぽうろうデッサウにただちにドレスデンをめるようかさねて命令めいれいした。

12月12にちゴルツ先鋒せんぽうとするろうデッサウぐんマイセン占領せんりょうし、マイセンのはしわたってきたレーヴァルトぐん合流ごうりゅうした。13にちには一旦いったんドレスデンにけて行進こうしんしかけたところ、ロエルひきいるザクセン竜騎兵りゅうきへい部隊ぶたい襲撃しゅうげきけ、これを退しりぞけた。翌日よくじつふたたびドレスデンにけて行軍こうぐん開始かいししたプロイセンぐんは15にち、ドレスデンのきたけていたルトフスキーぐん会戦かいせんいどみ、ケッセルスドルフのたたか勝利しょうりした。

ドレスデン条約じょうやく

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1748ねんのドレスデン

ケッセルスドルフのたたかいはタイミングに着目ちゃくもくすればじつきわどいものであった。たたかいのあった15にちにはすでにカール公子こうしぐん先鋒せんぽうがドレスデン郊外こうがい到着とうちゃくしつつあり、ルトフスキーが会戦かいせんおよまえにカール公子こうし強行きょうこうぐん要請ようせいするか、あるいはルトフスキーがドレスデンのみなみじんげていれば、またちがった結果けっかになったかもしれないとされる[10]。もっとも同様どうよう大王だいおうぐんも15にちにはマイセンでエルベがわ渡河とかしているわけで、この場合ばあい、ドレスデン前面ぜんめんでホーエンフリートベルクのたたかいに匹敵ひってきする規模きぼ大会たいかいせんおこなわれた可能かのうせいもあった。ルトフスキーが上記じょうき選択肢せんたくしらなかった理由りゆうについては、ルトフスキーがケッセルスドルフの地形ちけい自信じしんっていたためとも、功名こうみょうしんのためともわれる。カール公子こうしほうも、状況じょうきょう切迫せっぱくしているにもかかわらず強行きょうこうぐんおこなわなかった。

敗走はいそうしたルトフスキーぐんはドレスデンのみなみですぐカール公子こうしぐん合流ごうりゅうすることになるが、両者りょうしゃはともにドレスデン防衛ぼうえいあきらめてピルナまで後退こうたいした。せんみかどこうとブリュールもプラハに避難ひなんした。12月17にち、ドレスデン守備しゅびたい降伏ごうぶくしてプロイセンぐんはドレスデンに入城にゅうじょうし、よく18にち大王だいおうもドレスデンに到着とうちゃくした。大王だいおうろうデッサウにうとかれぐんれき最後さいご勝利しょうりたたえ、会戦かいせんまえのいざこざをみずながした。

一方いっぽうおなじドレスデンで、カール公子こうしぐんとほぼ同時どうじ到着とうちゃくしたオーストリア特命とくめい大使たいしハラッハちゅうドレスデン・フランス大使たいしヴォルグナン会見かいけんし、フランスのいいぶんをかなりんだうえでの単独たんどく講和こうわもうれていたが、いままえでザクセンぐん敗走はいそうし、プロイセンぐん勝利しょうりいわっている状況じょうきょう交渉こうしょう成功せいこうするはずもなかった。ピルナの連合れんごうぐんはプロイセンぐん圧迫あっぱくされてベーメンにがっていたが、ザクセンはすでにぐん半数はんすううしなっており、プロイセンとの講和こうわおうじる姿勢しせいしめしていた。かねてよりのイギリスの圧力あつりょくもあって、女帝にょていはついに講和こうわれ、ハラッハに予定よてい変更へんこうしてプロイセンとの交渉こうしょうせきくようめいじた。

交渉こうしょうは、ベルリンからてきたプロイセンの外務がいむ大臣だいじんポデヴィルス、イギリスちゅうドレスデン大使たいしトマス・ヴィラーズ、ザクセンの大臣だいじんザウル、そしてオーストリアの大使たいしハラッハのよんしゃによっておこなわれた。

この時点じてん戦況せんきょうかぎってみれば、プロイセンがすこぶる優勢ゆうせいであったが、しかしもし戦争せんそう続行ぞっこうすれば、ロシアの参戦さんせんけねばならず、またこのときのプロイセンは戦争せんそう継続けいぞくするのに必要ひつよう資金しきんきていた。このため大王だいおうは、よくして戦争せんそう長引ながびかせるようなことをせず、戦況せんきょうらして些少さしょうともおもえる条件じょうけん満足まんぞくした。12月25にちドレスデン条約じょうやく締結ていけつされ、ここにだいシュレージエン戦争せんそう終結しゅうけつした。

フランス大使たいしのヴァロリーは当時とうじベルリンにいて条約じょうやく交渉こうしょう蚊帳かやそとかれており、プロイセンが単独たんどく講和こうわ方針ほうしんであるのをってあわてて抗議こうぎしたがおそかった。ヴァロリーの部下ぶかダルジェがドレスデンに派遣はけんされてきて、大王だいおう会見かいけんして翻意ほんい可能かのうせいさぐった[11]。ダルジェは、ドイツの英雄えいゆうとなられたあなたは今度こんどはヨーロッパに平和へいわをもたらす役割やくわりになはありませんか、といういいかた大王だいおう自国じこくへの協力きょうりょくもとめたが、大王だいおうは、それはあまりに危険きけん役割やくわりであり、このあいだベルリンからってたようなときのような気分きぶんにはもうなれないとってことわった。オーストリアがシュレージエンをあきらめるとはおもえませんが、とダルジェはがったが、大王だいおうは、さきのことはわからないが、わがまもるとき以外いがいにはわたしはもうねこおそわない、とこたえるのみであった。

条約じょうやく締結ていけつされると大王だいおうはすぐドレスデンをり、としわるまえにベルリンに帰還きかんしたが、このとき市民しみん宮廷きゅうていじんは「フリードリヒ大王だいおうまんさい」のこえむかえた。「大王だいおう」の尊称そんしょうはホーエンフリートベルクの戦勝せんしょうわれたのが初出しょしゅつとされるが、そのいくつもの戦闘せんとう勝利しょうりおさめ、戦争せんそう終結しゅうけつさせたこのとき以来いらい一般いっぱんられるようになった。

結果けっか

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プロイセンはバイエルンを利用りようしてオーストリアを弱体じゃくたいさせ、ベーメンに領地りょうち獲得かくとくすることはできなかったものの、シュレージエンの領有りょうゆうふたたみとめさせることには成功せいこうした。一方いっぽうのオーストリアは、プロイセンの攻撃こうげきしのぐことはできたが、シュレージエンの回復かいふくには失敗しっぱいした。プロイセンのシュレージエン領有りょうゆうはオーストリア継承けいしょう戦争せんそうにおける講和こうわ条約じょうやくであるアーヘン条約じょうやくにおいても諸国しょこく承認しょうにんけ、プロイセンはヨーロッパの主要しゅよう勢力せいりょくひとつとしてたしかな地位ちい獲得かくとくすることに成功せいこうした。プロイセンは他国たこく尻目しりめにいちはや平和へいわ享受きょうじゅするが、オーストリアはまだイタリアとネーデルラントの2つの戦場せんじょうでフランスとたたかわねばならなかった。

この戦争せんそうではプロイセンはフランスと、オーストリアはイギリスと、それぞれ同盟どうめいんでたたかっていたが、経緯けいいればわかるようにフランスとプロイセンとのあいだ連携れんけいつことなく、一方いっぽうのイギリスもオーストリアにたいして、どちらの味方みかたかわからないくらい熱心ねっしんにプロイセンとの講和こうわすすめていた。またもうひとつのくにロシアは参戦さんせん機会きかいいっしたが、プロイセンを仮想かそう敵国てきこくなす姿勢しせいわらなかった。イギリスがプロイセンの外交がいこう戦略せんりゃく熱心ねっしん協力きょうりょくしていたこと、戦争せんそう終盤しゅうばんでオーストリアがフランスに単独たんどく講和こうわちかけたこと、ロシアがオーストリアがわ参戦さんせんしようとしていたことなど、戦争せんそうちゅうしょうじた諸国しょこくあいだ関係かんけいはそのままななねん戦争せんそうつながっていくのである。

1744ねんのベーメン攻撃こうげき失敗しっぱいのあと、女帝にょてい攻勢こうせいたいして大王だいおうてき占領せんりょうではなく、機動きどうによるてきぐんへの退却たいきゃく強要きょうようでもなく、強力きょうりょく会戦かいせん指向しこうしててき野戦やせんぐん打倒だとうすることにより戦争せんそう勝利しょうりみちびいた。6月のシュレージエンにおける作戦さくせんと、11月および12月におけるザクセンでの作戦さくせんれば、当時とうじ戦争せんそう一般いっぱん常識じょうしきになおしばられつつも、大王だいおう作戦さくせん間違まちがいなく殲滅せんめつせん戦略せんりゃくのはしりであり、それはななねん戦争せんそうさいによりいっそうあきらかとなるであろう[12]

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 村岡むらおか晢『フリードリヒ大王だいおう 啓蒙けいもう専制せんせい君主くんしゅとドイツ』(清水しみず書院しょいん、1984ねん
  • 飯塚いいづか信雄のぶお『フリードリヒ大王だいおう 啓蒙けいもう君主くんしゅのペンとけん』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1993ねん
  • S.フィッシャー=ファビアン ちょ/尾崎おざき賢治けんじ やくひとはいかにしておうとなるか』I、II(日本工業新聞社にほんこうぎょうしんぶんしゃ、1981ねん
  • アン・ティツィア・ライティヒ ちょ/江村えむらひろし やく女帝にょていマリア・テレジア』(谷沢たにさわ書房しょぼう、1984ねん
  • ゲオルク・シュライバー ちょ/高藤たかとう直樹なおき やく偉大いだいつまのかたわらで フランツ1せい・シュテファンでん』(谷沢たにさわ書房しょぼう、2003ねん
  • ゲオルク・シュタットミュラー ちょ/丹後たんごあんずいち やく『ハプスブルク帝国ていこく 人間にんげん科学かがく叢書そうしょ15』(かたなすい書房しょぼう、1989ねん
  • クラウゼヴィッツ ちょ/篠田しのだ英雄ひでおわけ戦争せんそうろん』(岩波いわなみ文庫ぶんこ、1968ねん
  • はやし健太郎けんたろう堀米ほりごめやといさん へん世界せかい戦史せんし6 ルイじゅうよんせいとフリードリヒ大王だいおう』(人物じんぶつ往来おうらいしゃ、1966ねん
  • 四手よつでつなただし戦争せんそう概観がいかん』(岩波いわなみ文庫ぶんこ、1943ねん
  • 伊藤いとう政之助まさのすけ世界せかい戦争せんそう6』(戦争せんそう刊行かんこうかい、1939ねん
  • 久保田くぼたただしこころざし『ハプスブルクかくせんえり ヨーロッパ軍事ぐんじいち断面だんめん』(にしきせいしゃ、2001ねん
  • 歴史れきしぐんぞうグラフィック戦史せんしシリーズ『戦略せんりゃく戦術せんじゅつ兵器へいき辞典じてん3 ヨーロッパ近代きんだいへん』 (学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1995ねん
  • Reed Browning『The War of the Austrian Succession』 (New York: St Martin's Press, 1993)
  • Christopher Duffy『Frederick the Great A Military Life』 (New York: Routledge, 1985)
  • Dennis E.Showalter『The War of Frederick the Great』 (New York: LONGMAN, 1996)
  • Robert B. Asprey『Frederick the Great The Magnificent Enigma』 (New York: Ticknor & Fields, 1986)
  • Thomas Carlyle History of Friedrich II
  • preussenweb [1]
  • de:Zweiter Schlesischer Krieg (22:56, 27. Jan. 2009 UTC)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ アドルフ・フレドリク、ピョートル、エカチェリーナはいずれもホルシュタイン=ゴットルプいており親戚しんせき関係かんけいにある。
  2. ^ Robert B. Asprey『Frederick the Great The Magnificent Enigma』 297ぺーじ
  3. ^ Christopher Duffy『Frederick the Great A Military Life』 54ぺーじ
  4. ^ 健康けんこうがいしていたためと、このころ作戦さくせん方針ほうしんめぐってわかデッサウと意見いけん衝突しょうとつし、大王だいおうわかデッサウの意見いけんもちいたのを不服ふふくとしたため。Robert B. Asprey『Frederick the Great The Magnificent Enigma』 302ぺーじ
  5. ^ Christopher Duffy『Frederick the Great A Military Life』 56ぺーじ
  6. ^ 時代じだい歴史れきし』から。『HISTOIRE DE MON TEMPS.』CHAPITRE X。またRobert B. Asprey『Frederick the Great The Magnificent Enigma』 307-308ぺーじセルトリウスの反乱はんらん英語えいごばん紀元前きげんぜん80ねん - 紀元前きげんぜん72ねん)においてクィントゥス・セルトリウスポンペイウス優勢ゆうせいぐんたいして現地げんち住民じゅうみん支持しじたたかった。
  7. ^ この地域ちいきは、ひゃくねんひろしおう戦争せんそうにおけるケーニヒグレーツのたたか舞台ぶたいである。
  8. ^ クラウゼヴィッツ『戦争せんそうろんちゅう 28ぺーじ
  9. ^ これを否定ひていする意見いけんもある。飯塚いいづか信雄のぶお『フリードリヒ大王だいおう 啓蒙けいもう君主くんしゅのペンとけん』 104ぺーじ
  10. ^ Reed Browning『The War of the Austrian Succession』 248-250ぺーじ。また大王だいおう著作ちょさくにもこのけんについて言及げんきゅうられる。『Frederick the Great Instructions for His Generals』 51ぺーじ
  11. ^ Thomas Carlyle 『History of Friedrich II』 PEACE OF DRESDEN: FRIEDRICH DOES MARCH HOME。ダルジェは捕虜ほりょになったのち大王だいおう手配てはい釈放しゃくほうされた。かれはこのいちけんのために大王だいおうられていた。
  12. ^ 四手よつでつなただし戦争せんそう概観がいかん』 24ぺーじ