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シレジア

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シュレージエンから転送てんそう
シレジア

Ślōnsk  (シレジア)
Śląsk  (ポーランド)
Schlesien  (ドイツ)
Slezsko  (チェコ)
Schläsing  (ていシレジア)
Silesia  (ラテン語らてんご)
{{{official_name}}}の旗
はた

紋章もんしょう
  オーストリア領シュレージエン   プロイセン領シュレージエン   オーデル川 基本地図は現代の国境を示す
  オーストリアりょうシュレージエン
  プロイセンりょうシュレージエン
基本きほん地図ちず現代げんだい国境こっきょうしめ
ポーランド地図上のシレジア
ポーランド地図ちずじょうのシレジア
座標ざひょう北緯ほくい5136ふん 東経とうけい1712ふん / 北緯ほくい51.6 東経とうけい17.2 / 51.6; 17.2座標ざひょう: 北緯ほくい5136ふん 東経とうけい1712ふん / 北緯ほくい51.6 東経とうけい17.2 / 51.6; 17.2
くに
最大さいだい都市とし ヴロツワフ
面積めんせき
 • 合計ごうけい 40,400 km2
人口じんこう
 • 合計ごうけい やく8,000,000にん
族称ぞくしょう Silesian
ひとしときおび UTC+1 (中央ちゅうおうヨーロッパ時間じかん)
 • 夏時間なつじかん UTC+2 (中央ちゅうおうヨーロッパ夏時間なつじかん)

シレジアは、現在げんざいポーランド南西なんせいからチェコ北東ほくとうプロイセン王国おうこく時代じだい行政ぎょうせい区画くかくふくめればドイツ東部とうぶのごく一部いちぶも)にぞくする地域ちいき歴史れきしてき名称めいしょう交易こうえき要衝ようしょうであり、石炭せきたんてつどう資源しげんなど様々さまざま天然てんねん資源しげん豊富ほうふ穀倉こくそう地帯ちたいつことから、支配しはいしゃ様々さまざま変化へんかしてきた。

呼称こしょう[編集へんしゅう]

この地域ちいき各国かっこく表記ひょうきすると、以下いかとおりとなる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

シレジアはヨーロッパかく地方ちほうのうちでもとく複雑ふくざつ歴史れきしっている。とくだい炭田たんでん発見はっけんされてからは争奪そうだつ対象たいしょうになった。

中世ちゅうせい前期ぜんき[編集へんしゅう]

シレジア地方ちほう歴史れきし記録きろくされはじめた中世ちゅうせいには、シレジアの住民じゅうみんだい多数たすうスラヴ民族みんぞくけいしょ部族ぶぞくであった。古代こだいから中世ちゅうせい初期しょきにかけて、シレジアからヴィエルコポルスカにかけての一帯いったいプシェヴォルスク文化ぶんかさかえ、そのになヴァンダルぞくであった。ヴァンダルぞく一部いちぶ南方なんぽう遠征えんせいし、シチリアとうきたアフリカヴァンダル王国おうこくきずいていたが、王国おうこくひがしマ帝国まていこくほろぼされた534ねんごろからかれらは大挙たいきょしてもどってきたという。7世紀せいきにはフランク王国おうこくピピン1せいがこの地方ちほうでヴァンダルぞく遭遇そうぐうしているが、そののヴァンダルぞくについての記録きろくはない。この7世紀せいきにスラヴ民族みんぞく部族ぶぞく連合れんごう国家こっかとして成立せいりつしたサモ王国おうこく623ねん-658ねん)の一部いちぶであった。9世紀せいきになるとシレジアはモラヴィア王国おうこくぞくした。845ねんころ氏名しめいしょう人物じんぶつ「バイエルンじん地理ちり学者がくしゃ」(Geographus Bavarus)によるドナウがわ以北いほく地名ちめい都市としめいしるした書物しょもつによれば、この地方ちほうにはシレジアじん(Silesians)、ダドシャニじん(Dadoshanie)、オポーレひと(Opolanians)、ルピグラアじん(Lupiglaa)、ゴレンシツェじん(Golenshitse)が、下流かりゅう西にしポメラニアにはヴォリニアじん(Wolinians)やピジカンじん(Pyrzycans)がんでいたとある。プラハ司教しきょう管区かんく文書ぶんしょ1086ねん)には、シレジアにむ Zlasane, Trebovyane, Poborane, Dedositze などの民族みんぞくしるされている。

くにあきら

ポーランド王国おうこく黎明れいめい[編集へんしゅう]

10世紀せいきまつのポーランド一帯いったいかんしてしるした古文書こもんじょ断章だんしょう「Dagome iudex」では、990ねんころミェシュコ1せいとその養女ようじょで2番目ばんめつまであるオーダ・フォン・ハルデンスレーベン(Oda von Haldensleben)の領地りょうちグニェズノピャストあさ支配しはい地域ちいき)はオドラがわ(オーデルがわからモラヴィアクラクフプロシアへとひろがっていたという。

ポーランド王国おうこく成立せいりつ空位くうい時代じだい[編集へんしゅう]

12世紀せいきになるとミェシュコ1せい長男ちょうなんで、ポーランド王国おうこく正式せいしき初代しょだい国王こくおうとなったボレスワフ1せいは、戴冠たいかん以前いぜんすうじゅう年間ねんかんを、各地かくちをまとめる天下てんか統一とういつ事業じぎょう尽力じんりょくした。王国おうこく成立せいりつするととも神聖しんせいローマ皇帝こうていおよカトリック教会きょうかいとのあいだでシレジアのポーランド王国おうこく帰属きぞく正式せいしき画定かくていした。王位おうい継承けいしょう問題もんだいはしはっした政争せいそうによって、ポーランドで国王こくおう不在ふざい空位くうい時代じだいになると、ポーランド王国おうこく王家おうけであるピャストおおやけによっておおきく7つの地方ちほう分割ぶんかつ相続そうぞくされ、シレジア地方ちほうはそのうちシレジア公国こうこくぐんとして統治とうちされた。

モンゴル襲来しゅうらいによる荒廃こうはい復興ふっこうのための移民いみん奨励しょうれい[編集へんしゅう]

ポーランド王国おうこく空位くうい時代じだいはまだつづき、12世紀せいきシレジアこう継承けいしょうけんめぐってシレジアのピャストあいだでおいえ騒動そうどうきると、ポーランド大公たいこうヴワディスワフ2せいおとうとたちにやぶれてドイツへ亡命ぼうめい支援しえんける見返みかえりに当時とうじローマおうコンラート3せい臣従しんじゅう、ポーランドへもどれないまま1159ねんんだが、息子むすこボレスワフ1せいはコンラート3せいおい神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ1せい支援しえん1163ねん帰国きこく、シレジアこう即位そくいした。しかしこれはポーランドでは国家こっかたいする違法いほう反逆はんぎゃく行為こういとみなされ、以後いごシレジアの継承けいしょうけんはポーランド王国おうこくかみきよしマ帝国まていこくとの確執かくしつ根源こんげんとなり、だい世界せかい大戦たいせんまでつづいたシレジアをめぐるポーランドとドイツとのあいだ近代きんだい紛争ふんそう遠因えんいんとなる。

13世紀せいきモンゴルのポーランド侵攻しんこうきたレグニツァのたたかによって、ヨーロッパ連合れんごうぐんそう大将たいしょうであった、ボレスワフ1せいまごでシレジアこうけんクラクフこう)のヘンリク2せい戦死せんしし、シレジア全土ぜんど荒廃こうはいすると、それ以降いこう復興ふっこうのためこののピャスト諸侯しょこうはヨーロッパ各地かくちからの移民いみん入植にゅうしょく奨励しょうれいし、農民のうみん都市としみん坑夫こうふとしてドイツ(かみきよしマ帝国まていこくにん移民いみんとく積極せっきょくてき誘致ゆうちした。この移民いみん奨励しょうれいさく結果けっか、シレジアは徐々じょじょにドイツじん文化ぶんか影響えいきょうけるようになった。

帰属きぞく問題もんだい[編集へんしゅう]

かみきよしマ帝国まていこくでは14世紀せいきはじめにシレジアのボヘミア王国おうこくへの帰属きぞくめられ、帝国ていこくりょうくにとされることになった。神聖しんせいローマ皇帝こうていにもなったボヘミアおうカレル1せい皇帝こうていカール4せい)は、「せいヴァーツラフ王冠おうかんしょくに」(ボヘミア王冠おうかんりょう)としてシレジアをボヘミア王国おうこくなか統合とうごうした。シレジアの帰属きぞくめぐってボヘミア王国おうこくなが断続だんぞくてき戦争せんそうをしていたポーランド王国おうこくは、カジミェシュ3せい大王だいおう)が外国がいこくとの紛争ふんそうよりも国内こくない経済けいざい発展はってん重視じゅうししたため、カレル1せい休戦きゅうせん協定きょうていむすび、シレジアの神聖しんせいマ帝国まていこくへの帰属きぞく承認しょうにんした。シレジアのドイツじん移民いみんつづけ、もとからいたポーランドけい住民じゅうみん徐々じょじょにドイツ文化ぶんか同化どうかしていった。16世紀せいきハプスブルクがボヘミア王位おうい獲得かくとくすると、シレジアもハプスブルク君主くんしゅこくれられることとなった。

ただし、かみきよしマ帝国まていこくにおける封建ほうけん領主りょうしゅとしてシレジアの各地かくち実際じっさい統治とうちしていたのは、ポーランド王家おうけピャストのシレジアにおける複数ふくすう分家ぶんけであるシロンスク・ピャストで、このシロンスク・ピャスト家系かけいについては、本家ほんけであるシレジア(=シロンスク)公家くげが16世紀せいきまで、そののシロンスク・ピャスト一部いちぶ男系だんけい17世紀せいきまでつづき、傍系ぼうけい18世紀せいきまでつづいた。

オーストリアとプロイセン王国おうこくによる争奪そうだつせん[編集へんしゅう]

シレジアの地図ちず(1905ねん現在げんざいチェコ北東ほくとうのわずかな領域りょういきのぞくと、だい部分ぶぶんポーランド南西なんせいひろがる。地図ちず中央ちゅうおう中心ちゅうしん都市としヴロツワフえる

シロンスク・ピャスト断絶だんぜつしたのち1740ねんハプスブルク家督かとくマリア・テレジア継承けいしょうすると、プロイセンおうフリードリヒ2せい継承けいしょう承認しょうにんする見返みかえりに、ボヘミア王国おうこくりょうくにとしてハプスブルク領有りょうゆうしていたシレジアの割譲かつじょうをマリア・テレジアに要求ようきゅうした。マリア・テレジアはこれをれなかったので、12月16にちプロイセンは宣戦せんせん布告ふこくもせずにシレジアのだい部分ぶぶんのちプロイセンりょうシュレージエン地方ちほう英語えいごばん1815ねん - 1919ねん)を占領せんりょうした(だいいちシュレージエン戦争せんそう1740ねん - 1742ねん)。このとき占領せんりょうされずにハプスブルクりょうとしてのこったのが、1918ねんまで存続そんぞくしたオーストリアりょうシュレージエン英語えいごばん1742ねん - 1918ねん)である。

オーストリア継承けいしょう戦争せんそう1740ねん - 1748ねん)がはじまり、ザクセンバイエルンフランス領土りょうど分割ぶんかつもとめててきまわったため、プロイセンとはシレジアの領有りょうゆうみとめたうえ講和こうわせざるをなかった。だいシュレージエン戦争せんそう1744ねん - 1745ねん)にも失敗しっぱいしてシレジアをうばわれたマリア・テレジアは非常ひじょういきどおり、フリードリヒ2せいを「シュレージエン(シレジア)泥棒どろぼう」とののしったうえでプロイセンへの復讐ふくしゅうちかった。マリア・テレジアは当時とうじ犬猿けんえんなかとされていたフランスと同盟どうめい締結ていけつ外交がいこう革命かくめい)、シレジアの奪回だっかいをかけて1756ねん、プロイセンとの戦争せんそう再開さいかいした。これがななねん戦争せんそうだいさんシュレージエン戦争せんそう1756ねん - 1763ねん)である。結局けっきょくさんわたシュレージエン戦争せんそうでもシレジアの奪回だっかいには成功せいこうせず、シレジアのプロイセンによる領有りょうゆう決定けっていした。

プロイセンによる領有りょうゆう[編集へんしゅう]

シレジアはハプスブルクりょうだった時代じだいにも独立どくりつせいのあった地域ちいきで、ハプスブルクによるさいカトリック努力どりょくにもかかわらず、すくなからぬ住民じゅうみんプロテスタント教徒きょうととなっていた。そのため、プロイセンぐんはハプスブルクのカトリック支配しはいからの解放かいほうぐんとしてシレジアのプロテスタントけい住民じゅうみんから歓迎かんげいされ、プロイセンによる領有りょうゆう恒久こうきゅうする一因いちいんとなった。

近代きんだい住民じゅうみん[編集へんしゅう]

ハプスブルク時代じだいまでに、シレジアの住民じゅうみん半分はんぶん以上いじょうはドイツ教育きょういくによりドイツされていたとされるが、プロイセンりょうとなってからはさらに徹底てっていしたドイツ政策せいさくがとられた。また農民のうみん入植にゅうしょく鉱業こうぎょう発展はってんにも努力どりょくし、その結果けっか人口じんこう大幅おおはば増加ぞうかした。しかし、ポーランドやその方言ほうげん母語ぼごとする住民じゅうみん増加ぞうかは、ドイツけい言語げんご母語ぼごとする住民じゅうみん上回うわまわるものであった[1]1910ねんにはポーランド話者わしゃうえシレジア英語えいごばん人口じんこうの70%をめていた[2]。つまり、この住民じゅうみんの7わりはポーランドけいだったのである。しかし、当時とうじのこの地方ちほうでは民族みんぞくさい優先ゆうせん価値かちとする、いわゆる国民こくみん国家こっかというものにたいする意識いしき希薄きはくで、スラヴ母語ぼごとするにもかかわらず、国家こっかとしてはドイツへの帰属きぞく意識いしき住民じゅうみんすくなくなかった。

事実じじつだいいち世界せかい大戦たいせんのちポーランドだい共和きょうわこく成立せいりつすると、わずかにさい東部とうぶカトヴィッツ周辺しゅうへんのみがポーランドりょうとなったが、そのさいおこなわれた住民じゅうみん投票とうひょうでは、ドイツりょうにとどまるべきという意見いけん半数はんすうえていた。ただし、人口じんこう集中しゅうちゅうし、地元じもと住民じゅうみんのドイツ教育きょういくがよく浸透しんとうした大都市だいとしではドイツりょう選択せんたくするものおおかったものの、ほとんどの地域ちいきではポーランドりょう選択せんたくしたという、非常ひじょう複雑ふくざつなものであった。[よう出典しゅってん]

迫害はくがいだい蜂起ほうき[編集へんしゅう]

シレジアのほか地域ちいきヴァイマル共和きょうわこく時代じだいもドイツりょうにとどまった(en:Province of Lower Silesiaen:Province of Upper Silesia)。しかしドイツけい住民じゅうみんによるポーランドけい住民じゅうみんへの迫害はくがい激化げきかするにつれて、ドイツじん至上しじょう主義しゅぎ反発はんぱつしたポーランドけい住民じゅうみん民族みんぞく意識いしきたかまっていき、シレジアのポーランドりょうへの併合へいごうもとめる住民じゅうみんによる武装ぶそうだい蜂起ほうきが3発生はっせいした(シレジア蜂起ほうき1919ねん - 1921ねん)。1918ねんen:Cieszyn Silesiaのぞスレスコあらたに出来できチェコスロバキア一部いちぶ構成こうせいしていたが、1920ねんにチェコスロバキアとポーランドに分割ぶんかつされた。1920ねんヴェルサイユ条約じょうやくでプロイセンりょうシュレージエン地方ちほうだったen:Hlučín Regionもチェコスロバキアりょう編入へんにゅうされた。

ナチス・ドイツによる迫害はくがい[編集へんしゅう]

ナチス・ドイツポーランド侵攻しんこう開始かいししてだい世界せかい大戦たいせん発生はっせいすると、シレジアのポーランドけい住民じゅうみんはドイツけい住民じゅうみん民兵みんぺい組織そしきである「自衛じえいだん」(Selbstschutz)により虐殺ぎゃくさつされ、虐殺ぎゃくさつをまぬがれた住民じゅうみんは、ヒトラー命令めいれいけたナチス親衛隊しんえいたいにより、ポーランド東部とうぶ設置せっちされたポーランド総督そうとくばれる地域ちいき追放ついほうされた。

だい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1945ねんナチス・ドイツ敗北はいぼくソ連それん、アメリカ、イギリスがわしたヤルタ協定きょうていによって戦前せんぜんポーランドりょうであったガリツィア地方ちほうソ連それん占領せんりょう、そこにんでいたポーランドじん追放ついほうし、戦中せんちゅう総督そうとく追放ついほうされていたポーランドけいシレジアけい住民じゅうみんのこりの人々ひとびととともにひがしプロイセンやシレジアに移住いじゅうさせることにした。ソ連それん指導しどうしゃであったスターリン中世ちゅうせいポーランド王国おうこく初代しょだい国王こくおうボレスワフ1せい画定かくていしていた領土りょうど回復かいふく固執こしつし(回復かいふくりょう)、以後いごシレジアはポーランドりょうとされた。このためシレジアのドイツじんたちが戦後せんご東西とうざいドイツへ追放ついほうされていくことになったのである(ドイツじん追放ついほう)。このドイツじんたちは、ポーランド国籍こくせき公用こうようとしてのポーランド習得しゅうとくの2つを条件じょうけんに、ポーランドへまる自由じゆう選択せんたくけんあたえられていたが、ほとんどのドイツけい住民じゅうみんおおくのポーランドけいドイツじんはそれを拒否きょひしたため、実際じっさいのところはポーランドにまる決断けつだんをした一部いちぶ人々ひとびとおも現在げんざいオポレけん県民けんみん)をのぞいて大半たいはんがシレジアをはなれることになった。ポーランド・ドイツあいだあたらしい国境こっきょうオーデル・ナイセせんかれることになった。この国境こっきょうせん当時とうじひがしドイツ承認しょうにんしたが、ひがしドイツの国家こっか主権しゅけんみとめない西にしドイツ承認しょうにんしなかった。

修復しゅうふく復興ふっこう[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせんではシレジアのしょ都市としおおきく破壊はかいされた。とくにこの地方ちほう最大さいだい都市としヴロツワフ(ドイツめいブレスラウ)では都市とし産業さんぎょうのほとんどすべてが破壊はかいされまち全体ぜんたい廃墟はいきょしていた。ポーランド市民しみんみずからの住宅じゅうたく建設けんせつするかたわら、これら破壊はかいされたしょ都市とし歴史れきしてき建築けんちくぶつ修復しゅうふく開始かいしのこされた資料しりょうもとかく都市としきゅう市街しがいをはじめとした街並まちなみを戦前せんぜん姿すがた再建さいけん[3]産業さんぎょう復興ふっこうさせた。

ポーランド・ドイツにおける解決かいけつ[編集へんしゅう]

1990ねんドイツ統一とういつ実現じつげんすると、同年どうねん11月ドイツ・ポーランド国境こっきょう条約じょうやくオーデル・ナイセせんがポーランドと統一とういつドイツとのあいだ正式せいしき国境こっきょうであると確認かくにんされて領土りょうど問題もんだい解決かいけつ1999ねん1がつドルヌィ・シロンスクけんおよシロンスクけん設置せっち2008ねんには欧州おうしゅう人権じんけん裁判所さいばんしょによって私有しゆう財産ざいさんかんする問題もんだい解決かいけつ確認かくにんされ、これによってドイツとポーランドとのあいだのシレジアをめぐるさまざまな問題もんだい最終さいしゅう解決かいけつした。

チェコ・ドイツあいだのこ問題もんだい[編集へんしゅう]

戦争せんそう直後ちょくごドイツじん追放ついほう発令はつれいされた「ベネシュ布告ふこく」がいまだに有効ゆうこうであり、その内容ないよう変更へんこうをチェコ国会こっかい一切いっさい拒否きょひしていることもあって、ドイツけいのシレジアもと住民じゅうみんとチェコ共和きょうわこくとのあいだ現在げんざいでもさまざまな問題もんだいのこされている。

地誌ちし[編集へんしゅう]

地形ちけい所産しょさん[編集へんしゅう]

みなみズデーテン山地さんちベスキト山地さんちによってボヘミアモラヴィアせっし、西にしはクラクフ・チェンストホヴァ高地こうちさかいガリツィアせっしている。

オーデルがわヴロツワフ

中央ちゅうおう貫流かんりゅうするオドラがわがこの特徴とくちょうづけ、かわくだれば、かつてのカシューブひとのポモジェ公国こうこく港町みなとちょうシュチェチンることが出来できる。

チェコぞくするオドラ川上かわかみりゅう遡行そこうすれば、モラヴァがわオロモウツはじめとするモラヴィアのしょ都市としけることができ、「モラヴィアもん英語えいごばん」とばれている。古代こだいからシレジア・モラヴィアは琥珀こはく街道かいどう一環いっかんをなし、ヨーロッパ南北なんぼくむすぶ、通商つうしょうはじめとした交通こうつううえ要衝ようしょうであった。琥珀こはく街道かいどう主要しゅよう地点ちてんとしては、オーストリアカルヌントゥムブルゲンラントしゅうスロヴェニア西部せいぶルートではロマンティック街道かいどうなどがある。

産業さんぎょうめんでは、歴史れきしてき両国りょうこくにとって、経済けいざいとくこう工業こうぎょうだい中心ちゅうしん。しかしこの豊富ほうふ資源しげんだい繁栄はんえいは、ポーランドドイツプロイセン、ボヘミア、オーストリアなどの争奪そうだつせん対象たいしょうとなってきた。

資源しげん[編集へんしゅう]

農業のうぎょう牧畜ぼくちく
みず土壌どじょう天候てんこうから算出さんしゅつした農業のうぎょう適地てきち指標しひょうpl)がたか農業のうぎょう牧畜ぼくちくさかんである[2]
地下ちか資源しげん
石炭せきたんほか紀元前きげんぜん4世紀せいきから鉄鉱てっこうせき採掘さいくつされ、なまりどうぎんきむ亜鉛あえん岩塩がんえん、カドミウム、ヒ素ひそ、ウランなどを保有ほゆうする[3][4]石灰岩せっかいがん、セメントの材料ざいりょうどろはい大理石だいりせき玄武岩げんぶがんなどの採石さいせきじょうもある[5]
製鉄せいてつは、1980年代ねんだい経済けいざいせい環境かんきょうへの悪影響あくえいきょうから閉鎖へいさした。2021ねん、ポーランド政府せいふ石炭せきたん採掘さいくつ組合くみあいは2049ねんまでにすべての炭鉱たんこう閉鎖へいさする協定きょうてい草案そうあん合意ごういした[6]
Mysłowice-Wesoła
シレジアの炭田たんでん

文化ぶんか[編集へんしゅう]

建築けんちくものそのに、いまだドイツの影響えいきょうのこる。住民じゅうみん文化ぶんかはポーランドやチェコの文化ぶんかであるが、ポーランドのオポレけんはドイツの民俗みんぞく文化ぶんかのこっている。しかしこの文化ぶんかはドイツ本土ほんど民俗みんぞく文化ぶんかとはかなりことなり、ポーランドけいシレジア公国こうこくぐん時代じだいからの住民じゅうみん伝統でんとうてき地方ちほう文化ぶんかである。

ポーランドの前衛ぜんえいてき現代げんだい音楽おんがく牽引けんいんしたジェネレーション51は、シレジアらくばれることもある(ポーランドらく参照さんしょう)。

現在げんざい区域くいき[編集へんしゅう]

チェコりょうスレスコ位置いち

関係かんけいしゃ[編集へんしゅう]

出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)の解説かいせつ”. コトバンク. 2018ねん5がつ12にち閲覧えつらん
  2. ^ ROLNICTWO オポーレけん自治体じちたい
  3. ^ Natural Resources 出版しゅっぱん:ポーランド鉱業こうぎょうきょく(Wyższy Urząd Górniczy) 参照さんしょう:2021.9.25
  4. ^ 岡村おかむらひろしポーランドの鉱業こうぎょうについて:おとずれ鉱業こうぎょう研修けんしゅうだん報告ほうこく」『日本にっぽん鑛業こうぎょう會誌かいしだい95かんだい1101ごう資源しげん素材そざい学会がっかい、1979ねん、829-832ぺーじdoi:10.2473/shigentosozai1953.95.1101_829ISSN 0369-4194NAID 130007259826 
  5. ^ “The Geology of Prussian-Silesia”. Geological Magazine (Cambridge University Press) 8 (85): 322-324. (1871). doi:10.1017/S0016756800161539. https://doi.org/10.1017/S0016756800161539. 
  6. ^ ritzau (28. april 2021). “Polen lukker alle kulminer i 2049 og fjerner vigtig energikilde”. B.T.英語えいごばん. 1. maj 2021閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]