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英西戦争 (1727年-1729年) - Wikipedia コンテンツにスキップ

えい西にし戦争せんそう (1727ねん-1729ねん)

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えい西にし戦争せんそう

ジブラルタル包囲ほういせんジブラルタル博物館はくぶつかん所蔵しょぞう
戦争せんそうえい西にし戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1727ねん2がつ11にち - 1729ねん11月9にち
場所ばしょカリブ海かりぶかいジブラルタル
結果けっかセビリア条約じょうやくにより講和こうわ
交戦こうせん勢力せいりょく
スペイン スペイン王国おうこく グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
スペイン フェリペ5せい
スペイン エリザベッタ・ファルネーゼ
スペイン デ・ラス・トーレス伯爵はくしゃく英語えいごばん
スペイン アントニオ・カスタネータ英語えいごばん
グレートブリテン王国の旗 ジョージ1せい
グレートブリテン王国の旗 ジョージ2せい
グレートブリテン王国の旗 チャールズ・ウェージャー英語えいごばん
グレートブリテン王国の旗 フランシス・ホジアー英語えいごばん

えい西にし戦争せんそう(えいせいせんそう、英語えいご: Anglo-Spanish War)は、グレートブリテン王国おうこくスペイン王国おうこくあいだ戦争せんそう戦闘せんとうは1726ねんなつカリブ海かりぶかいはじまったが、戦争せんそう全面ぜんめん勃発ぼっぱつヨーロッパでも戦闘せんとうはじまる1727ねんであった。正式せいしき宣戦せんせん布告ふこくのないままはじまったこの戦争せんそうではぜんヨーロッパがヘレンハウゼン同盟どうめいウィーン条約じょうやく締結ていけつこくという2つの陣営じんえいけられ、大戦たいせん前夜ぜんやといえるほどの緊張きんちょうしたが、外交がいこう努力どりょくにより全面ぜんめん戦争せんそう回避かいひされた。えい西にし戦争せんそうおも戦闘せんとうカリブ海かりぶかいにおける海戦かいせんかぎられ、だい規模きぼ海戦かいせんはなく、ヨーロッパでも失敗しっぱいわったジブラルタル包囲ほういせん英語えいごばん以外いがいとく戦闘せんとうもなかった。えい西にしあいだ戦争せんそうは1729ねん11月9にちセビリア条約じょうやく締結ていけつされ、戦争せんそうまえ原状げんじょう回復かいふくするということで正式せいしき終結しゅうけつしたが、紛争ふんそう原因げんいん解決かいけつされることはなく、わずか10ねんジェンキンスのみみ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。

原因げんいん[編集へんしゅう]

スペインおうフェリペ5せいジャン・ランク英語えいごばんさく、1723ねん

スペイン王国おうこくは18世紀せいきヨーロッパの勢力せいりょく均衡きんこう一角いっかくだった[1]。1701ねんから1714ねんまでのスペイン継承けいしょう戦争せんそうによりスペイン・ブルボンあさ成立せいりつ、フランスおうルイ14せいまごフェリペ5せいがスペイン国王こくおう即位そくいした。そのすうじゅう年間ねんかん、フェリペ5せい衰弱すいじゃくしたスペインのくにせい軍制ぐんせい改革かいかくした。しかし、フェリペ5せい性格せいかく精力せいりょくてきではなく、外交がいこう政策せいさくについては野心やしん王妃おうひエリザベッタ・ファルネーゼまかせきりにすることもおおかった[2]。スペインは1713ねんユトレヒト条約じょうやくと1714ねんラシュタット条約じょうやくにより、イタリアとスペインりょうネーデルラントハプスブルク帝国ていこく割譲かつじょうされ、ジブラルタルミノルカとうグレートブリテン王国おうこく割譲かつじょうされるなどおおくの領地りょうちうしなった。さらに、スペイン政府せいふはイギリスとのアシエント締結ていけつみとめて、イギリス商人しょうにん毎年まいとしみなみアメリカのスペイン植民しょくみん貿易ぼうえきおこなうことを承認しょうにんしなければならなかった。スペインはこれらの失地しっち回復かいふくするために四国しこく同盟どうめい戦争せんそうはじめたが、一時いちじサルデーニャを占領せんりょうするものの結果けっかてきにはスペインが孤立こりつするという結果けっかのみもたらして失敗しっぱい、サルデーニャは返還へんかんされた[3]。にもかかわらず、エリザベッタ・ファルネーゼは息子むすこたちのためにイタリアでの領地りょうち追求ついきゅう、ヨーロッパ外交がいこうにおける問題もんだいとなっていた。

オーストリアもおなじく神聖しんせいローマ皇帝こうていカール6せい政策せいさくにより孤立こりつしていた。かれはユトレヒト条約じょうやくによりスペインの王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうきしなければならないことに納得なっとくせず、スペインとの和解わかいかたくなに拒否きょひしていた。イギリスやオランダなどの海洋かいよう国家こっかとも1722ねんオステンド会社かいしゃ英語えいごばん設立せつりつして競争きょうそう参入さんにゅう、さらにハプスブルクりょう女子じょし継承けいしょうみとめる国事こくじ詔書しょうしょ承認しょうにん要求ようきゅうした[3]。この2つの要求ようきゅうにより、オーストリアの外交がいこう政策せいさく不安定ふあんていとなった。歴史れきしハインツ・ドゥフハートドイツばんによると、「四国しこく同盟どうめい活動かつどう停止ていししたのち、ヨーロッパはつね全面ぜんめん戦争せんそう瀬戸際せとぎわにあった。ウィーンとマドリードのあいだふる解決かいけつ問題もんだいあたらしい問題もんだい(オステンド会社かいしゃ国事こくじ詔書しょうしょ)がくわわり、『冷戦れいせん』といういつでも爆発ばくはつしそうな雰囲気ふんいきした」[4]

1724ねん、ヨーロッパ諸国しょこくカンブレー会議かいぎスペインばんひらいて、カール6せいとフェリペ5せい最終さいしゅうてき和解わかい実現じつげんしようとした[3]

ヨーロッパの危機きき[編集へんしゅう]

マックス・インミッヒによると、「ぜんヨーロッパは2つの陣営じんえいけられ、サヴォイア公国こうこくのぞ主要しゅようくにすべてがどちらかの陣営じんえいぞくした。一方いっぽううたが余地よちのない海上かいじょう覇権はけんゆうし、もう一方いっぽう陸上りくじょう覇権はけんゆうした」[5]地図ちずは1725ねんから1730ねんにかけてのヨーロッパ。

スペインではカンブレー会議かいぎスペインばんたいする期待きたいおおきかった。イギリスのスタンホープ伯爵はくしゃくはスペインとの交渉こうしょうちゅうにジブラルタルの返還へんかん提案ていあんしており、1721ねんにはイギリスおうジョージ1せい私的してき文通ぶんつうでジブラルタル返還へんかん提案ていあんしたが、これが議会ぎかい同意どういされる見通みとおしはなかった。同年どうねんにはえいふつおう防御ぼうぎょ同盟どうめい締結ていけつされた。これらの提案ていあんによりスペインの会議かいぎへの期待きたいしたが[6]カンブレーでの会議かいぎはオステンド会社かいしゃ解散かいさん、スペインのイタリアりょうへの請求せいきゅう、ジブラルタル返還へんかんなどの調整ちょうせい失敗しっぱい、スペイン政府せいふ目的もくてき達成たっせいするにはウィーンの宮廷きゅうてい直接ちょくせつ交渉こうしょうするしかないとかんがえた。オーストリアはスペインの官僚かんりょうでオランダ出身しゅっしんフアン・グリェルモ・リッペルダとの秘密ひみつ交渉こうしょうにより、スペインとの合意ごうい形成けいせい、1725ねん5がつ1にちウィーン条約じょうやくにつなげた。ウィーン条約じょうやくによりスペインはイタリアとネーデルラントにおける領土りょうど割譲かつじょう、および国事こくじ詔書しょうしょ承認しょうにん、カール6せいはスペインのイタリアりょうとジブラルタル回復かいふく承認しょうにんした。またスペイン政府せいふはオステンド会社かいしゃ貿易ぼうえき権利けんりについておおきく譲歩じょうほした。スペイン継承けいしょう戦争せんそう敵対てきたいしたカール6せいとフェリペ5せいがようやく和解わかいしたのはウィーン条約じょうやく締結ていけつされたときだった[3]条約じょうやく締結ていけつしらせによりカンブレー会議かいぎは「ばくだんとされたように」解体かいたいした[7]

ロンドンにおいて、ウィーンの同盟どうめいはイギリスの貿易ぼうえきとジブラルタルの脅威きょういとみなされ、首相しゅしょうロバート・ウォルポール対応たいおうさくした。かれはフランス宮廷きゅうていからの支持しじ期待きたいしたのであった。フランスではフェリペ5せいがフランス王位おうい継承けいしょうけん主張しゅちょうすることをおそれていたし、伝統でんとうてきにオーストリアとも敵対てきたいしていた。プロイセン王国おうこくもシャルロッテンブルク条約じょうやくで1723ねん以降いこうイギリスと同盟どうめいしており[8]ユーリヒ=ベルク公国こうこくドイツばんをめぐってオーストリアと断交だんこうしていた。プロイセンおうフリードリヒ・ヴィルヘルム1せいはロシア皇帝こうていピョートル1せい(1725年初ねんしょ)により重要じゅうよう同盟どうめいこくうしなっており、西欧せいおう同盟どうめいこくさがしていた[9]。これにより、さんこくは1725ねん9がつ3にちハノーファー条約じょうやく締結ていけつしてヘレンハウゼン同盟どうめい成立せいりつさせ、同盟どうめいこく安全あんぜん保障ほしょうするとともにスペインとオーストリアの強国きょうこくふせごうとした。目標もくひょうとしてはオステンド会社かいしゃ解散かいさん、ドイツにおけるプロテスタントの保護ほご、そしてプロイセンのユーリヒ=ベルクへの請求せいきゅうの3てんがあった[10]

フアン・グリェルモ・リッペルダ肖像しょうぞう、1740ねんさく

りょう同盟どうめい成立せいりつにより、ヨーロッパの情勢じょうせい一層いっそう悪化あっかした。1725ねん11月5にち、オーストリアとスペインは開戦かいせんした場合ばあい軍事ぐんじ協定きょうてい締結ていけつした。両国りょうこくとも軍隊ぐんたい提供ていきょう約束やくそくしたほか、フランスの分割ぶんかつめ、政略せいりゃく結婚けっこんまで合意ごういした[11]。ヘレンハウゼン同盟どうめいのほうも軍事ぐんじ協定きょうてい締結ていけつ、プロイセンぐんがハノーファー大隊だいたいとともにシュレージエン侵攻しんこうすること、フランスがイタリアかラインがわ流域りゅういき攻撃こうげきすること、イギリスが海戦かいせん担当たんとうすることがめられた。

りょう同盟どうめいともさらなる同盟どうめいこくさがし、ここにロシア帝国ていこくだい北方ほっぽう戦争せんそう以来いらいふたた重要じゅうよう役割やくわりたすこととなった。1724ねん以降いこう、ロシア王家おうけであるロマノフホルシュタイン=ゴットルプ姻戚いんせき関係かんけいむすんでおり、ホルシュタイン=ゴットルプりょうシュレースヴィヒ=ホルシュタインだい北方ほっぽう戦争せんそうデンマーク=ノルウェー併合へいごうされたため、ロシアはシュレースヴィヒ=ホルシュタインを請求せいきゅうしていた。えいふつ両国りょうこくがロシアにバルト海ばるとかい西部せいぶへの進出しんしゅつゆるしたくなかったためデンマークを支持しじ結果けっかとしてはロシア皇帝こうていエカチェリーナ1せいは1726ねん8がつ6にちオスマン帝国ていこくという共通きょうつうしたてきゆうするオーストリアと同盟どうめいした[12]

かみきよしマ帝国まていこくにおいてはザクセンせんみかどほうりょう(と同君どうくん連合れんごうであるポーランド=リトアニア共和きょうわこく)とバイエルンせんみかどほうりょうがウィーン条約じょうやく加入かにゅうした。ザクセンせんみかどこうフリードリヒ・アウグスト1せい皇帝こうてい支持しじしたことでのち見返みかえりとして息子むすこフリードリヒ・アウグスト2せいのポーランド王位おうい請求せいきゅうへの支持しじけた。またネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこくはオステンド会社かいしゃとの競合きょうごうすためにヘレンハウゼン同盟どうめい加入かにゅうした。えいふつはオスマン帝国ていこくとも同盟どうめいしようとしたが失敗しっぱいした[5]。フランツ・ドミニク・ヘーベルリン(Franz Dominc Häberlin)はのちに「年末ねんまつにはどんなことでもなまぐさい戦争せんそう勃発ぼっぱつにつながる可能かのうせいがあった」と記述きじゅつした[13]

戦争せんそう経過けいか[編集へんしゅう]

イギリスでも戦争せんそう勃発ぼっぱつちかいと予想よそうされ、あわただしく戦争せんそう準備じゅんびすすめた。1725ねん8がつ以降いこうジブラルタル総督そうとくリチャード・ケイン英語えいごばんはジブラルタルの防御ぼうぎょ工事こうじ補強ほきょうしており、1726ねんには首相しゅしょうロバート・ウォルポールが海軍かいぐん外交がいこうカードとして使つかった。これにより、イギリスの地中海ちちゅうかい艦隊かんたい増強ぞうきょうされ、チャールズ・ウェージャー英語えいごばん提督ていとくひきいるイギリス艦隊かんたいバルト海ばるとかい派遣はけんされて1726ねん5がつから9がつまでレヴァルみなと封鎖ふうさ、ロシア艦隊かんたい出撃しゅつげき阻止そしした。フランシス・ホジアー英語えいごばん海軍かいぐん少将しょうしょうひきいるイギリス艦隊かんたいカリブ海かりぶかい派遣はけんされ、スペインの貿易ぼうえき妨害ぼうがいしつつポルトベロ封鎖ふうさした。ウォルポールはスペインのインディアス艦隊かんたいがヨーロッパに到着とうちゃくできなくなることでその同盟どうめいこく財政ざいせい悪化あっかさせるほか、スペインとその植民しょくみん帝国ていこく生存せいぞんがイギリスの慈悲じひ依存いぞんすることをフェリペ5せいしめそうとした。

しかし、スペインとオーストリアはそれまで戦争せんそうについて合意ごういしていなかった。戦争せんそう準備じゅんびはしたが、ウィーンの宮廷きゅうていではただの防衛ぼうえい同盟どうめいとみなされ、全面ぜんめん戦争せんそうとくするのはスペインのみだった。オーストリアとの同盟どうめい守備しゅび強化きょうかできたとかんがえたフェリペ5せいとエリザベッタ・ファルネーゼはあたらしい宰相さいしょうホセ・パティーニョ・イ・ロサレス提言ていげんはんし、イギリスのカリブ海かりぶかいにおける軍事ぐんじ行動こうどうについてのしらせがとどくと1726ねん12月に一方いっぽうてきにイギリスの貿易ぼうえきけん中止ちゅうしした[14]

1727ねん1がつ1にち、フェリペ5せいはイギリス政府せいふ親書しんしょおくり、ジブラルタルをイギリスに割譲かつじょうしたユトレヒト条約じょうやくだい10じょう無効むこう宣告せんこくした。その理由りゆうとしてはイギリスの駐留ちゅうりゅうぐんがジブラルタルの要塞ようさい拡張かくちょうしたこと、密輸みつゆ支持しじしたこと、そしてジブラルタルのカトリック教会きょうかい弾圧だんあつされたことがげられた。これらの理由りゆうまったくのでたらめではなく、いまとなっては開戦かいせん事由じゆうてきする理由りゆうとなっていた。そのため、この親書しんしょ宣戦せんせん布告ふこくひとしかった[15]。1727ねん2がつ11にちにはジブラルタルへの攻撃こうげき開始かいしされ、正式せいしき宣戦せんせん布告ふこくはなかったもののえい西にしあいだ戦争せんそうおそくともこの時点じてん開始かいしした。

カリブ海かりぶかい戦闘せんとう[編集へんしゅう]

1726ねんから1728ねんまでイギリスとスペイン艦隊かんたいカリブ海かりぶかいにおける行動こうどう

ホジアー少将しょうしょう艦隊かんたいカリブ海かりぶかい到着とうちゃくした時点じてんで、えい西にし戦争せんそう実質じっしつてきはじまった。1726ねん6がつ16にち、イギリスせん15せき兵士へいし4,750にんバスティメントスとう英語えいごばん到着とうちゃくした。ホジアーはウォルポールの命令めいれいしたがい、ポルトベロを封鎖ふうさ英語えいごばんしつつ占領せんりょうしないことで、インディアス艦隊かんたい新大陸しんたいりくからのぎんをヨーロッパに輸送ゆそうすることをふせごうとした[16]

インディアス艦隊かんたいはこのとき、ポルトベロこうにいたが、ポルトベロ総督そうとくはイギリス艦隊かんたい警戒けいかいしてホジアーにあらわれた理由りゆういただした。ホジアーはそのとしにスペイン植民しょくみん貿易ぼうえきしていたイギリスせんロイヤル・ジョージ(Royal George)を護衛ごえいするためだとこたえたが、ロイヤル・ジョージがポルトベロから出港しゅっこうしたのちとどまったためスペインはぎんせたインディアス艦隊かんたい出港しゅっこうさせず、わりにぎんろして陸路りくろベラクルスはこんだ。ホジアーは封鎖ふうさ継続けいぞく、6かげつあいだとどまったがねつ蔓延まんえんしたため艦隊かんたいはだんだんと衰弱すいじゃくし、ホジアーはジャマイカにある基地きちもどって船員せんいん徴募ちょうぼするとともに船員せんいん病気びょうきなおそうとし、1726ねん12月24にち到着とうちゃくした。一方いっぽうのスペインはその間隙かんげきじょうじて、小規模しょうきぼ艦隊かんたいにポルトベロからのぎんせてベラクルスから出航しゅっこうさせ、ハバナまで航行こうこうすることに成功せいこうした。また1726ねん8がつ13にちにはアントニオ・カスタネータ英語えいごばんひきいるスペイン艦隊かんたい兵士へいし2せんにんせてヨーロッパからハバナに到着とうちゃくした。かれはベラクルスからの艦隊かんたい合流ごうりゅう、イギリス艦隊かんたいづかないうちに1727ねん1がつ24にちにハバナをはなれた[16]。1727ねん3がつ8にち、3,100まんペソをせたカスタネータ艦隊かんたいはスペイン本土ほんど到着とうちゃくした[17]

ホジアー提督ていとくは1727ねん2がつまつ航行こうこう再開さいかい、4がつ2にちにハバナに到着とうちゃくしたが、ぎんせたスペイン艦隊かんたいげおおせたのちであったためわりにカルタヘナ巡航じゅんこうするも、なん成果せいかられなかった。ねつ蔓延まんえんつづき、ホジアー自身じしんも1727ねん8がつ23にち病死びょうしした。わって指揮しきったスーパーブ英語えいごばん艦長かんちょうエドワード・セントロー英語えいごばんはそのすう週間しゅうかん、ジャマイカにもどった。1728ねん1がつ29にちエドワード・ホプソン英語えいごばん中将ちゅうじょう指揮しきり、2がつ艦隊かんたい中央ちゅうおうアメリカ海岸かいがんもどしたが、ホプソンもねつ病死びょうししたためセントローはふたた指揮しきった。暫定ざんてい講和こうわが1729ねん3がつ締結ていけつされ、セントローも4がつ14にち病死びょうしすると、艦隊かんたいはイギリスにもどった[18]。ホジアーの遠征えんせいにより海員かいいん兵士へいしやく4せん死亡しぼう、その大半たいはんねつによる病死びょうしだった[19]

ジブラルタル包囲ほういせん[編集へんしゅう]

1727年初ねんしょ、フェリペ5せいはスペインぐん首脳しゅのうにジブラルタルについて助言じょげんもとめた。1704ねんから1705ねんにかけてのジブラルタル包囲ほういせん英語えいごばん参加さんかしたビリャダリアス侯爵こうしゃく英語えいごばん以前いぜん制海権せいかいけんがないかぎ攻撃こうげきすべきではないと進言しんげんしていたが、スペイン海軍かいぐんは1718ねんパッサロみさき海戦かいせん以降いこう貧弱ひんじゃくなままだった。今回こんかいぐん首脳しゅのうのほとんどが攻撃こうげき反対はんたいしたが、デ・ラス・トーレス伯爵はくしゃく英語えいごばんはジブラルタル占領せんりょう可能かのうであるとかんがえたため、かれサン・ロケ歩兵ほへい18,500、騎兵きへい700、大砲たいほう100もん指揮しきった[20]。スペインぐん内訳うちわけはオランダじん、イタリアじん、コルシカじん、シチリアじん、アイルランドじん、フランスじん、スイスじんなどけい19大隊だいたい様々さまざまであり、そのおおくがマラガけん出身しゅっしんだった。そのうちスペインの正規せいきぐんであったのは10大隊だいたいだけだった。大砲たいほうカディス要塞ようさいからはこばれてきたが、その輸送ゆそう困難こんなんきわめた。デ・ラス・トーレス伯爵はくしゃく平民へいみん3せんにん塹壕ざんごうりとランパートきずきをめいじたが、冬季とうき気候きこう補給ほきゅう不足ふそくによりスペインぐん状況じょうきょうきわめてきびしいものとなった[21]。イギリスがわでは包囲ほういせん準備じゅんびすうげつまえからすすめられており、チャールズ・ウェージャー提督ていとくひきいる艦隊かんたいがイギリスから派遣はけんされてジブラルタルを支援しえんした。あたらしく任命にんめいされたジブラルタル要塞ようさい指揮しきかんジャスパー・クレイトン英語えいごばん将軍しょうぐんのほか、イギリス艦隊かんたいには3連隊れんたい一部いちぶ乗船じょうせんしており、すでに上陸じょうりくしていた4連隊れんたい増援ぞうえんしていた。そのため、イギリスの軍勢ぐんぜい合計ごうけい3,206にんだった[22]

包囲ほういせんは1727ねん2がつ11にちはじまったが、スペインぐん不利ふりがすぐにあきらかになった。イギリス艦隊かんたい妨害ぼうがいにより侵攻しんこう使つかえる通路つうろせまみちいちほんであり、しかもそのみち要塞ようさいからの砲火ほうかさらされていた。そのため、デ・ラス・トーレス伯爵はくしゃく砲撃ほうげきだけで要塞ようさい破壊はかいして、つづいて歩兵ほへい強襲きょうしゅう仕掛しかけることにした。スペインぐんはまず塹壕ざんごうって要塞ようさい接近せっきんした。このときの戦闘せんとう砲撃ほうげきせんのほかには哨戒しょうかい小競こぜいのみだった。3月24にちにはスペインぐん前進ぜんしんにより要塞ようさい大砲たいほう射程しゃていはいったため、デ・ラス・トーレス伯爵はくしゃく砲撃ほうげき開始かいしめいじた。10日間にちかんつづいた砲撃ほうげきでイギリスの防御ぼうぎょ工事こうじおおきく損傷そんしょうし、要塞ようさいないにいるすべての平民へいみんたすけをりても修復しゅうふくできなかった。しかし、天候てんこうが4がつ2にちよりわるくなったことでりょうぐんとも行動こうどう阻害そがいされた。このとき、2.5連隊れんたい増援ぞうえんけたことで駐留ちゅうりゅうぐんが5,481にんふくがった。デ・ラス・トーレス伯爵はくしゃくは5月7にちから20日はつかにかけて2度目どめ砲撃ほうげき敢行かんこうしたが、その火薬かやく砲弾ほうだん補給ほきゅうかなかった。外交がいこう交渉こうしょうにより直接ちょくせつ対決たいけつあきらめられ、1727ねん6がつ23にちにはジブラルタルをめぐる停戦ていせん協定きょうてい締結ていけつされた[23]

包囲ほういは17週間しゅうかんほどつづいた。艦隊かんたい保護ほごもありイギリスの駐留ちゅうりゅうぐん補給ほきゅうることができたが、スペインぐん補給ほきゅうかなかった。このことは脱走だっそうしゃかずにもあらわれ、4がつ16にち捕虜ほりょ交換こうかんおこなったときにはイギリスじん捕虜ほりょが24にんだったのにたいしスペインじん捕虜ほりょが400にんもいた。イギリスぐんにとってよりきびしい問題もんだいアルコール依存いぞんだった[24]。イギリスぐん損害そんがい死者ししゃ107にん負傷ふしょう208にん脱走だっそう17にんで、スペインぐん損害そんがい死者ししゃ700にん負傷ふしょう825にん脱走だっそう875にんだった[25]

ヨーロッパ危機きき解決かいけつ[編集へんしゅう]

ドン・カルロスのスペインおうカルロス3せいジャン・ランク英語えいごばんさく、1725ねん

えい西にし戦争せんそうがヨーロッパの全面ぜんめん戦争せんそう発展はってんすることはのぞまれていなかった。カール6せいはたかがオステンド会社かいしゃのために戦争せんそうするつもりはなく、しかもスペインからの援助えんじょきんとどこおっている状況じょうきょうではなおさらだった。フランスでも1726ねん7がつ以降いこう実質じっしつてき宰相さいしょうくらいにいたフルーリー枢機卿すうききょう戦争せんそうけようとしており、かれえい西にし戦争せんそうがフランスの貿易ぼうえき阻害そがいするとかんがえ、スペインと和解わかいしようとした[26]。そのため、かれはイギリスとオーストリアが戦争せんそう状態じょうたいはい直前ちょくぜん仲介ちゅうかいはいった。イギリスはすでにオステンド会社かいしゃふね攻撃こうげきしており、かみきよしマ帝国まていこくぐん派遣はけんする準備じゅんびすすめていた。一方いっぽうのオーストリアもイギリスと断交だんこうした。それでもフルーリーは仲介ちゅうかい成功せいこう、1727ねん5がつ31にちパリでイギリスとオーストリアが和解わかいした[3]。カール6せいはオステンド会社かいしゃを7年間ねんかん活動かつどう停止ていしさせるとともにウィーン条約じょうやくさだめられたスペインとの貿易ぼうえき関係かんけいった。のこ紛争ふんそう会議かいぎ解決かいけつするとした[27]。スペイン政府せいふ唯一ゆいいつ同盟どうめいこくオーストリアをうしなったのち外交がいこうでの孤立こりつけるべくフルーリーの仲介ちゅうかいれた。しかし、直後ちょくごにイギリス国王こくおうジョージ1せい死去しきょすると、スペインはジャコバイト支持しじ交渉こうしょう有利ゆうりすすもうとした。とりあえずジブラルタル包囲ほうい継続けいぞくして交渉こうしょうめたが、ジョージ2せいがスムーズに即位そくいしたこと、ジブラルタル包囲ほうい失敗しっぱいしたこと、そしてスペインの財政ざいせいつぎせんゆるさなかったことによりスペインは包囲ほうい中止ちゅうし、イギリスの貿易ぼうえきけんさい確認かくにんした。1728ねん3がつ6にち、スペインはエル・パルド条約じょうやく署名しょめい、イギリスとの海戦かいせん終結しゅうけつさせた[28]

1728ねん6がつ14にちソワソン会議かいぎ開催かいさいされたが進展しんてんがなかった[3]。しかし、ヨーロッパ諸国しょこくあいだ同盟どうめい徐々じょじょ崩壊ほうかいしていった。プロイセンはヘレンハウゼン同盟どうめい加入かにゅうしてユーリヒ=ベルクの請求せいきゅうへの支持しじようとしたが、オランダが同盟どうめい加入かにゅうしてプロイセンの請求せいきゅう異議いぎとなえ、えいふつからの支持しじもなかった。そのため、プロイセンは1726ねんにオーストリアとの秘密ひみつ条約じょうやく締結ていけつ、ソワソン会議かいぎちゅうの1728ねん12月23にちベルリン条約じょうやくでウィーン条約じょうやく同盟どうめい加入かにゅうした[29]一方いっぽうのエリザベッタ・ファルネーゼもカール6せい圧力あつりょくをかけて自分じぶん息子むすこドン・カルロスとカール6せい長女ちょうじょマリア・テレジア結婚けっこんさせようとした。これがウィーンの宮廷きゅうてい拒絶きょぜつされたため、エリザベッタ・ファルネーゼはえいふつ支持しじけてせめて次男じなんフィリッポのイタリアりょうだけでも確保かくほしようとした。その結果けっか、1729ねん11月9にちセビリア条約じょうやく締結ていけつされた。条約じょうやくによりスペインはオーストリアとの同盟どうめい正式せいしき解消かいしょう、ジブラルタルへの請求せいきゅうげ、さらにスペインりょうにおけるイギリスの貿易ぼうえきけん承認しょうにんした。そのわり、えいふつはスペインのパルマ・ピアチェンツァトスカーナ三公みつきみりょう継承けいしょうけんみとめ、三公みつきみりょう継承けいしょう保証ほしょうするためにスペインぐん6せん公国こうこく派遣はけんすることもみとめた[30]

カール6せいはイタリアにおけるスペインりょう成立せいりつなにとしてもふせごうとした。そのため、パルマこうアントニオが1731ねん1がつ死去しきょすると、カール6せい軍勢ぐんぜい3まん派遣はけんしてパルマ公国こうこく占領せんりょうした。これによりウィーン条約じょうやく同盟どうめい(オーストリア、ロシア、プロイセン)とセビリア条約じょうやく同盟どうめい(スペイン、フランス、イギリス、オランダ)のあいだ戦争せんそうこるようにおもえたが、1731ねん3がつ16にちウィーン条約じょうやく締結ていけつされ、スペインが国事こくじ詔書しょうしょ承認しょうにんするわりにスペインの三公みつきみりょう継承けいしょうみとめた。かれ自軍じぐん撤収てっしゅうさせ、イギリスせんでイタリアに到着とうちゃくしたスペインへいわってイタリアにはいった。1732ねん3がつ、ドン・カルロスがパルマ・ピアチェンツァ公国こうこくはいった。これにより外交がいこう努力どりょく全面ぜんめん戦争せんそう回避かいひされた[31]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

リチャード・グロヴァー英語えいごばんホジアー提督ていとくれい挿画そうが、1740ねん

セビリア条約じょうやくはあくまでも原状げんじょう回復かいふくであり、優位ゆういったくにはいなかった。この状況じょうきょうはイギリスにおいてもっとあきらかであり、イギリス議会ぎかい戦争せんそう費用ひように3ひゃくまんポンドを承認しょうにんしたものの、そのだい部分ぶぶんがジブラルタル包囲ほういせんついやされ[32]、ホジアー提督ていとく艦隊かんたいカリブ海かりぶかい派遣はけんした結果けっか海員かいいんすうせんにん提督ていとく3にんだけだった。この災難さいなんてき結果けっかにより、ウォルポール政府せいふへの批判ひはんこった[33]。しかしウォルポールはイギリスの外交がいこう政策せいさく厳正げんせい中立ちゅうりつであるべきだとして、全面ぜんめん戦争せんそう回避かいひしたから成功せいこうであるとした。1733ねん勃発ぼっぱつしたポーランド継承けいしょう戦争せんそうでも外交がいこうてき孤立こりつえらんででも中立ちゅうりつ堅持けんじしたが、スペインとイギリスの紛争ふんそう解決かいけつしたわけではなかったため、セビリア条約じょうやくから10ねんにはあたらしいえい西にし戦争せんそう勃発ぼっぱつした。ジェンキンスのみみ戦争せんそうばれたこの戦争せんそう当時とうじのイギリス大衆たいしゅうからのぞまれてこした戦争せんそうであり、やがてウォルポールの失脚しっきゃくにつながった[34]

当時とうじイギリス政府せいふ政策せいさくもっとつよ批判ひはんしたのがエドワード・ヴァーノン英語えいごばん海軍かいぐん中将ちゅうじょうであった。かれバルト海ばるとかいとジブラルタルに派遣はけんされた艦隊かんたい従軍じゅうぐんしており、戦争せんそう終結しゅうけつしたのちには議会ぎかいカリブ海かりぶかい遠征えんせい拙劣せつれつ計画けいかく暴露ばくろ、ホジアー提督ていとく海員かいいんたちのについて演説えんぜつした。そのかれは1738ねんから1739ねんにかけてたいスペイン強硬きょうこうろんつよ支持しじ、その直後ちょくご戦列せんれつかん6せきひきいて1739ねん11月23にちポルトベロの海戦かいせん勝利しょうりしてポルトベロを占領せんりょう、ホジアーの雪辱せつじょくたした[35]当時とうじ流行りゅうこう文化ぶんかでもホジアーのカリブ海かりぶかい遠征えんせいあらわれていた。ヴァーノンの勝利しょうりへのいわいとして、詩人しじんリチャード・グロヴァー英語えいごばんは「ホジアー提督ていとくれい」(Admiral Hosier's Ghost)というバラッドいた。このバラッドの内容ないようはホジアーのれいがヴァーノンのまえあらわれ、ヴァーノンの成功せいこういわうとともに死者ししゃ名誉めいよ回復かいふくもとめた、というものだった。当時とうじ、ウォルポールが紛争ふんそう拡大かくだいけるべくホジアーにポルトベロへの直接ちょくせつ攻撃こうげき厳禁げんきんしたため、このバラッドはウォルポールの政策せいさく批判ひはんしたものになっている[36]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785, Paderborn/München 1997, p. 166.
  2. ^ Grundsätzlich zu Spanien in diesem Zeitalter, vgl. Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785, Paderborn/München 1997, pp. 166-172.
  3. ^ a b c d e f 友清ともきよ. “スペイン継承けいしょう戦争せんそう戦後せんご20ねん――ユトレヒト条約じょうやく国際こくさい関係かんけいとハノーヴァーちょうのイギリス――”. 2017ねん7がつ17にち閲覧えつらん
  4. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785, Paderborn/München 1997, p. 272.
  5. ^ a b Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789, München/Berlin 1905, p. 262.
  6. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, pp. 267, 269.
  7. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785, Paderborn/München 1997, pp. 267, 273.
  8. ^ Mckay, Derek; Scott, H.M. (2014) (英語えいご). The Rise of the Great Powers 1648 - 1815. Routledge. p. 124. ISBN 9781317872849. https://books.google.com/books?id=OaiQBAAAQBAJ&pg=PA124 
  9. ^ Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789, München/Berlin 1905, p. 260f.
  10. ^ Charles Arnold-Baker: The Companion to British History, London 1996, p. 560.
  11. ^ Mckay, Derek; Scott, H.M. (2014) (英語えいご). The Rise of the Great Powers 1648 - 1815. Routledge. p. 129. ISBN 9781317872849. https://books.google.com/books?id=OaiQBAAAQBAJ&pg=PA129 
  12. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 275f.
  13. ^ Franz Dominc Häberlin: Vollständiger Entwurf einer Politischen Historie des XVIII. Jahrhunderts, Teil 1, Hannover 1748, p. 447.
  14. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785, Paderborn/München 1997, pp. 274, 278.
  15. ^ Zu den genauen britischen Vertragsverstößen, vgl. William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar, Rutherford 1987, pp. 124-127.
  16. ^ a b David Marley: Wars of the Americas – A Chronology of Armed Conflict in the New World 1492 to the Present, Santa Barbara 1999, p. 375.
  17. ^ N.A.M. Rodger: The Command of the Sea – A Naval History of Britain 1649–1815. Band 2, London 2004, p. 232.
  18. ^ St. Loe, Edward, in: John Knox Laughton: Dictionary of National Biography, Bd. 50, 1885/1900, p. 172.
  19. ^ Charles Phillips, Alan Axelrod: Encyclopedia of Wars. Band 1, New York 2005, p. 91.
  20. ^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 124.
  21. ^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 127f.
  22. ^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 128.
  23. ^ Für eine detailliertere Abhandlung der Belagerung, vgl. William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, pp. 129-132.
  24. ^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 129.
  25. ^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 132.
  26. ^ Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789. München/Berlin 1905, p. 263.
  27. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 278f.
  28. ^ Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789. München/Berlin 1905, p. 264; Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 279.
  29. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 276f.
  30. ^ Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789. München/Berlin 1905, p. 265.
  31. ^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 281f.
  32. ^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 127.
  33. ^ Alfred T. Mahan: Der Einfluss der Seemacht auf die Geschichte. Herford 1967, p. 98.
  34. ^ Zur Politik Walpoles im Einzelnen, vgl. Jeremy Black: Walpole in Power. Stroud 2001.
  35. ^ David Marley: Wars of the Americas – A Chronology of Armed Conflict in the New World 1492 to the Present. Santa Barbara 1999, p. 383.
  36. ^ Vgl. Richard Glover: Admiral Hosier’s Ghost. Auf: www.traditionalmusic.co.uk (Stand: 18. März 2011).

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Schöningh, Paderborn 1997 (= Handbuch der Geschichte der internationalen Beziehungen. Band 4), ISBN 3-506-73724-4.
  • Richard Glover: Admiral Hosier’s Ghost, auf: www.traditionalmusic.co.uk (Stand: 18. März 2011).
  • Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789., Band 2, München/Berlin 1905.
  • William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Fairleigh Dickinson University Press, Rutherford 1987, ISBN 0-8386-3237-8.
  • Alfred Thayer Mahan: Der Einfluss der Seemacht auf die Geschichte. Koehlers Verlagsgesellschaft, Herford 1967 (dt. Ausg. des 1890 erstmals im engl. Original erschienenen Werkes).
  • David Marley: Wars of the Americas – A Chronology of Armed Conflict in the New World 1492 to the Present. ABC-Clio, Santa Barbara 1999, ISBN 0-87436-837-5.
  • N.A.M. Rodger: The Command of the Ocean – A Naval History of Britain 1649–1815. Band 2, Allen Lane, London 2004, ISBN 0-7139-9411-8.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]