英 えい 西 にし 戦争 せんそう (えいせいせんそう、英語 えいご : Anglo-Spanish War )は、グレートブリテン王国 おうこく とスペイン王国 おうこく の間 あいだ の戦争 せんそう 。戦闘 せんとう は1726年 ねん 夏 なつ 、カリブ海 かりぶかい で始 はじ まったが、戦争 せんそう の全面 ぜんめん 勃発 ぼっぱつ はヨーロッパ でも戦闘 せんとう が始 はじ まる1727年 ねん であった。正式 せいしき な宣戦 せんせん 布告 ふこく のないまま始 はじ まったこの戦争 せんそう では全 ぜん ヨーロッパがヘレンハウゼン同盟 どうめい とウィーン条約 じょうやく の締結 ていけつ 国 こく という2つの陣営 じんえい に分 わ けられ、大戦 たいせん 前夜 ぜんや といえるほどの緊張 きんちょう を生 う み出 だ したが、外交 がいこう 努力 どりょく により全面 ぜんめん 戦争 せんそう は回避 かいひ された。英 えい 西 にし 戦争 せんそう の主 おも な戦闘 せんとう はカリブ海 かりぶかい における海戦 かいせん に限 かぎ られ、大 だい 規模 きぼ な海戦 かいせん はなく、ヨーロッパでも失敗 しっぱい に終 お わったジブラルタル包囲 ほうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) 以外 いがい は特 とく に戦闘 せんとう もなかった。英 えい 西 にし 間 あいだ の戦争 せんそう は1729年 ねん 11月9日 にち にセビリア条約 じょうやく が締結 ていけつ され、戦争 せんそう 前 まえ の原状 げんじょう を回復 かいふく するということで正式 せいしき に終結 しゅうけつ したが、紛争 ふんそう の原因 げんいん が解決 かいけつ されることはなく、わずか10年 ねん 後 ご にジェンキンスの耳 みみ の戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。
スペイン王 おう フェリペ5世 せい 、ジャン・ランク (英語 えいご 版 ばん ) 作 さく 、1723年 ねん 。
スペイン王国 おうこく は18世紀 せいき のヨーロッパの勢力 せいりょく 均衡 きんこう の一角 いっかく だった[1] 。1701年 ねん から1714年 ねん までのスペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう によりスペイン・ブルボン朝 あさ が成立 せいりつ 、フランス王 おう ルイ14世 せい の孫 まご フェリペ5世 せい がスペイン国王 こくおう に即位 そくい した。その後 ご の数 すう 十 じゅう 年間 ねんかん 、フェリペ5世 せい は衰弱 すいじゃく したスペインの国 くに 制 せい と軍制 ぐんせい を改革 かいかく した。しかし、フェリペ5世 せい の性格 せいかく は精力 せいりょく 的 てき ではなく、外交 がいこう 政策 せいさく については野心 やしん 家 か の王妃 おうひ エリザベッタ・ファルネーゼ に任 まか せきりにすることも多 おお かった[2] 。スペインは1713年 ねん のユトレヒト条約 じょうやく と1714年 ねん のラシュタット条約 じょうやく により、イタリアとスペイン領 りょう ネーデルラント がハプスブルク帝国 ていこく に割譲 かつじょう され、ジブラルタル とミノルカ島 とう がグレートブリテン王国 おうこく に割譲 かつじょう されるなど多 おお くの領地 りょうち を失 うしな った。さらに、スペイン政府 せいふ はイギリスとのアシエント 締結 ていけつ を認 みと めて、イギリス商人 しょうにん が毎年 まいとし 南 みなみ アメリカ のスペイン植民 しょくみん 地 ち と貿易 ぼうえき を行 おこな うことを承認 しょうにん しなければならなかった。スペインはこれらの失地 しっち を回復 かいふく するために四国 しこく 同盟 どうめい 戦争 せんそう を始 はじ めたが、一時 いちじ サルデーニャを占領 せんりょう するものの結果 けっか 的 てき にはスペインが孤立 こりつ するという結果 けっか のみもたらして失敗 しっぱい 、サルデーニャは返還 へんかん された[3] 。にもかかわらず、エリザベッタ・ファルネーゼは息子 むすこ たちのためにイタリアでの領地 りょうち を追求 ついきゅう 、ヨーロッパ外交 がいこう における問題 もんだい となっていた。
オーストリアも同 おな じく神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール6世 せい の政策 せいさく により孤立 こりつ していた。彼 かれ はユトレヒト条約 じょうやく によりスペインの王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を放棄 ほうき しなければならないことに納得 なっとく せず、スペインとの和解 わかい を頑 かたく なに拒否 きょひ していた。イギリスやオランダなどの海洋 かいよう 国家 こっか とも1722年 ねん にオステンド会社 かいしゃ (英語 えいご 版 ばん ) を設立 せつりつ して競争 きょうそう に参入 さんにゅう 、さらにハプスブルク家 か 領 りょう の女子 じょし 継承 けいしょう を認 みと める国事 こくじ 詔書 しょうしょ の承認 しょうにん も要求 ようきゅう した[3] 。この2つの要求 ようきゅう により、オーストリアの外交 がいこう 政策 せいさく は不安定 ふあんてい となった。歴史 れきし 家 か のハインツ・ドゥフハート (ドイツ語 ご 版 ばん ) によると、「四国 しこく 同盟 どうめい が活動 かつどう を停止 ていし した後 のち 、ヨーロッパは常 つね に全面 ぜんめん 戦争 せんそう の瀬戸際 せとぎわ にあった。ウィーンとマドリードの間 あいだ の古 ふる く未 み 解決 かいけつ の問題 もんだい に新 あたら しい問題 もんだい (オステンド会社 かいしゃ 、国事 こくじ 詔書 しょうしょ )が加 くわ わり、『冷戦 れいせん 』といういつでも爆発 ばくはつ しそうな雰囲気 ふんいき を生 う み出 だ した」[4] 。
1724年 ねん 、ヨーロッパ諸国 しょこく はカンブレー会議 かいぎ (スペイン語 ご 版 ばん ) を開 ひら いて、カール6世 せい とフェリペ5世 せい の最終 さいしゅう 的 てき な和解 わかい を実現 じつげん しようとした[3] 。
マックス・インミッヒによると、「全 ぜん ヨーロッパは2つの陣営 じんえい に分 わ けられ、サヴォイア公国 こうこく を除 のぞ く主要 しゅよう な国 くに 全 すべ てがどちらかの陣営 じんえい に属 ぞく した。一方 いっぽう が疑 うたが う余地 よち のない海上 かいじょう の覇権 はけん を有 ゆう し、もう一方 いっぽう は陸上 りくじょう の覇権 はけん を有 ゆう した」[5] 。地図 ちず は1725年 ねん から1730年 ねん にかけてのヨーロッパ。
スペインではカンブレー会議 かいぎ (スペイン語 ご 版 ばん ) に対 たい する期待 きたい が大 おお きかった。イギリスのスタンホープ伯爵 はくしゃく はスペインとの交渉 こうしょう 中 ちゅう にジブラルタルの返還 へんかん を提案 ていあん しており、1721年 ねん にはイギリス王 おう ジョージ1世 せい も私的 してき な文通 ぶんつう でジブラルタル返還 へんかん を提案 ていあん したが、これが議会 ぎかい で同意 どうい される見通 みとお しはなかった。同年 どうねん には英 えい 仏 ふつ 墺 おう の防御 ぼうぎょ 同盟 どうめい が締結 ていけつ された。これらの提案 ていあん によりスペインの会議 かいぎ への期待 きたい が増 ま したが[6] 、カンブレー での会議 かいぎ はオステンド会社 かいしゃ の解散 かいさん 、スペインのイタリア領 りょう への請求 せいきゅう 、ジブラルタル返還 へんかん などの調整 ちょうせい に失敗 しっぱい 、スペイン政府 せいふ は目的 もくてき を達成 たっせい するにはウィーンの宮廷 きゅうてい と直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう するしかないと考 かんが えた。オーストリアはスペインの官僚 かんりょう でオランダ出身 しゅっしん のフアン・グリェルモ・リッペルダ との秘密 ひみつ 交渉 こうしょう により、スペインとの合意 ごうい を形成 けいせい 、1725年 ねん 5月 がつ 1日 にち のウィーン条約 じょうやく につなげた。ウィーン条約 じょうやく によりスペインはイタリアとネーデルラントにおける領土 りょうど 割譲 かつじょう 、および国事 こくじ 詔書 しょうしょ を承認 しょうにん 、カール6世 せい はスペインのイタリア領 りょう とジブラルタル回復 かいふく を承認 しょうにん した。またスペイン政府 せいふ はオステンド会社 かいしゃ の貿易 ぼうえき 権利 けんり について大 おお きく譲歩 じょうほ した。スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう で敵対 てきたい したカール6世 せい とフェリペ5世 せい がようやく和解 わかい したのはウィーン条約 じょうやく が締結 ていけつ されたときだった[3] 。条約 じょうやく 締結 ていけつ の報 しら せによりカンブレー会議 かいぎ は「爆 ばく 弾 だん を落 お とされたように」解体 かいたい した[7] 。
ロンドン において、ウィーンの同盟 どうめい はイギリスの貿易 ぼうえき とジブラルタルの脅威 きょうい とみなされ、首相 しゅしょう ロバート・ウォルポール は対応 たいおう 策 さく を打 う ち出 だ した。彼 かれ はフランス宮廷 きゅうてい からの支持 しじ を期待 きたい したのであった。フランスではフェリペ5世 せい がフランス王位 おうい の継承 けいしょう 権 けん を主張 しゅちょう することを恐 おそ れていたし、伝統 でんとう 的 てき にオーストリアとも敵対 てきたい していた。プロイセン王国 おうこく もシャルロッテンブルク条約 じょうやく で1723年 ねん 以降 いこう イギリスと同盟 どうめい しており[8] 、ユーリヒ=ベルク公国 こうこく (ドイツ語 ご 版 ばん ) をめぐってオーストリアと断交 だんこう していた。プロイセン王 おう フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 せい はロシア皇帝 こうてい ピョートル1世 せい の死 し (1725年初 ねんしょ )により重要 じゅうよう な同盟 どうめい 国 こく を失 うしな っており、西欧 せいおう の同盟 どうめい 国 こく を探 さが していた[9] 。これにより、三 さん 国 こく は1725年 ねん 9月 がつ 3日 にち にハノーファー条約 じょうやく を締結 ていけつ してヘレンハウゼン同盟 どうめい を成立 せいりつ させ、同盟 どうめい 国 こく の安全 あんぜん を保障 ほしょう するとともにスペインとオーストリアの強国 きょうこく 化 か を防 ふせ ごうとした。目標 もくひょう としてはオステンド会社 かいしゃ の解散 かいさん 、ドイツにおけるプロテスタントの保護 ほご 、そしてプロイセンのユーリヒ=ベルクへの請求 せいきゅう の3点 てん があった[10] 。
フアン・グリェルモ・リッペルダ の肖像 しょうぞう 画 が 、1740年 ねん 作 さく 。
両 りょう 同盟 どうめい の成立 せいりつ により、ヨーロッパの情勢 じょうせい は一層 いっそう 悪化 あっか した。1725年 ねん 11月5日 にち 、オーストリアとスペインは開戦 かいせん した場合 ばあい の軍事 ぐんじ 協定 きょうてい を締結 ていけつ した。両国 りょうこく とも軍隊 ぐんたい の提供 ていきょう を約束 やくそく したほか、フランスの分割 ぶんかつ を取 と り決 き め、政略 せいりゃく 結婚 けっこん まで合意 ごうい した[11] 。ヘレンハウゼン同盟 どうめい のほうも軍事 ぐんじ 協定 きょうてい を締結 ていけつ 、プロイセン軍 ぐん がハノーファー大隊 だいたい とともにシュレージエン に侵攻 しんこう すること、フランスがイタリアかライン川 がわ 流域 りゅういき を攻撃 こうげき すること、イギリスが海戦 かいせん を担当 たんとう することが取 と り決 き められた。
両 りょう 同盟 どうめい ともさらなる同盟 どうめい 国 こく を探 さが し、ここにロシア帝国 ていこく が大 だい 北方 ほっぽう 戦争 せんそう 以来 いらい 再 ふたた び重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たすこととなった。1724年 ねん 以降 いこう 、ロシア王家 おうけ であるロマノフ家 か はホルシュタイン=ゴットルプ家 か と姻戚 いんせき 関係 かんけい を結 むす んでおり、ホルシュタイン=ゴットルプ家 か 領 りょう のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン が大 だい 北方 ほっぽう 戦争 せんそう でデンマーク=ノルウェー に併合 へいごう されたため、ロシアはシュレースヴィヒ=ホルシュタインを請求 せいきゅう していた。英 えい 仏 ふつ 両国 りょうこく がロシアにバルト海 ばるとかい 西部 せいぶ への進出 しんしゅつ を許 ゆる したくなかったためデンマークを支持 しじ 、結果 けっか としてはロシア皇帝 こうてい エカチェリーナ1世 せい は1726年 ねん 8月 がつ 6日 にち にオスマン帝国 ていこく という共通 きょうつう した敵 てき を有 ゆう するオーストリアと同盟 どうめい した[12] 。
神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく においてはザクセン選 せん 帝 みかど 侯 ほう 領 りょう (と同君 どうくん 連合 れんごう であるポーランド=リトアニア共和 きょうわ 国 こく )とバイエルン選 せん 帝 みかど 侯 ほう 領 りょう がウィーン条約 じょうやく に加入 かにゅう した。ザクセン選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ・アウグスト1世 せい は皇帝 こうてい を支持 しじ したことで後 のち に見返 みかえ りとして息子 むすこ フリードリヒ・アウグスト2世 せい のポーランド王位 おうい 請求 せいきゅう への支持 しじ を受 う けた。またネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく はオステンド会社 かいしゃ との競合 きょうごう を消 け すためにヘレンハウゼン同盟 どうめい に加入 かにゅう した。英 えい 仏 ふつ はオスマン帝国 ていこく とも同盟 どうめい しようとしたが失敗 しっぱい した[5] 。フランツ・ドミニク・ヘーベルリン(Franz Dominc Häberlin )は後 のち に「年末 ねんまつ にはどんなことでも血 ち なまぐさい戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ につながる可能 かのう 性 せい があった」と記述 きじゅつ した[13] 。
イギリスでも戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ が近 ちか いと予想 よそう され、慌 あわ ただしく戦争 せんそう の準備 じゅんび を進 すす めた。1725年 ねん 8月 がつ 以降 いこう 、ジブラルタル総督 そうとく リチャード・ケイン (英語 えいご 版 ばん ) はジブラルタルの防御 ぼうぎょ 工事 こうじ を補強 ほきょう しており、1726年 ねん には首相 しゅしょう ロバート・ウォルポールが海軍 かいぐん を外交 がいこう カードとして使 つか った。これにより、イギリスの地中海 ちちゅうかい 艦隊 かんたい が増強 ぞうきょう され、チャールズ・ウェージャー (英語 えいご 版 ばん ) 提督 ていとく 率 ひき いるイギリス艦隊 かんたい がバルト海 ばるとかい に派遣 はけん されて1726年 ねん 5月 がつ から9月 がつ までレヴァル 港 みなと を封鎖 ふうさ 、ロシア艦隊 かんたい の出撃 しゅつげき を阻止 そし した。フランシス・ホジアー (英語 えいご 版 ばん ) 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 率 ひき いるイギリス艦隊 かんたい はカリブ海 かりぶかい に派遣 はけん され、スペインの貿易 ぼうえき を妨害 ぼうがい しつつポルトベロ を封鎖 ふうさ した。ウォルポールはスペインのインディアス艦隊 かんたい がヨーロッパに到着 とうちゃく できなくなることでその同盟 どうめい 国 こく の財政 ざいせい を悪化 あっか させるほか、スペインとその植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく の生存 せいぞん がイギリスの慈悲 じひ に依存 いぞん することをフェリペ5世 せい に示 しめ そうとした。
しかし、スペインとオーストリアはそれまで戦争 せんそう について合意 ごうい していなかった。戦争 せんそう の準備 じゅんび はしたが、ウィーンの宮廷 きゅうてい ではただの防衛 ぼうえい 同盟 どうめい とみなされ、全面 ぜんめん 戦争 せんそう で得 とく するのはスペインのみだった。オーストリアとの同盟 どうめい で守備 しゅび を強化 きょうか できたと考 かんが えたフェリペ5世 せい とエリザベッタ・ファルネーゼは新 あたら しい宰相 さいしょう ホセ・パティーニョ・イ・ロサレス の提言 ていげん に反 はん し、イギリスのカリブ海 かりぶかい における軍事 ぐんじ 行動 こうどう についての報 しら せが届 とど くと1726年 ねん 12月に一方 いっぽう 的 てき にイギリスの貿易 ぼうえき 権 けん を中止 ちゅうし した[14] 。
1727年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、フェリペ5世 せい はイギリス政府 せいふ に親書 しんしょ を送 おく り、ジブラルタルをイギリスに割譲 かつじょう したユトレヒト条約 じょうやく 第 だい 10条 じょう の無効 むこう を宣告 せんこく した。その理由 りゆう としてはイギリスの駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん がジブラルタルの要塞 ようさい を拡張 かくちょう したこと、密輸 みつゆ を支持 しじ したこと、そしてジブラルタルのカトリック教会 きょうかい が弾圧 だんあつ されたことが挙 あ げられた。これらの理由 りゆう は全 まった くのでたらめではなく、今 いま となっては開戦 かいせん 事由 じゆう に適 てき する理由 りゆう となっていた。そのため、この親書 しんしょ は宣戦 せんせん 布告 ふこく に等 ひと しかった[15] 。1727年 ねん 2月 がつ 11日 にち にはジブラルタルへの攻撃 こうげき が開始 かいし され、正式 せいしき な宣戦 せんせん 布告 ふこく はなかったものの英 えい 西 にし 間 あいだ の戦争 せんそう は遅 おそ くともこの時点 じてん で開始 かいし した。
カリブ海 かりぶかい の戦闘 せんとう [ 編集 へんしゅう ]
1726年 ねん から1728年 ねん までイギリスとスペイン艦隊 かんたい のカリブ海 かりぶかい における行動 こうどう 。
ホジアー少将 しょうしょう の艦隊 かんたい がカリブ海 かりぶかい に到着 とうちゃく した時点 じてん で、英 えい 西 にし 戦争 せんそう は実質 じっしつ 的 てき に始 はじ まった。1726年 ねん 6月 がつ 16日 にち 、イギリス船 せん 15隻 せき と兵士 へいし 4,750人 にん はバスティメントス島 とう (英語 えいご 版 ばん ) に到着 とうちゃく した。ホジアーはウォルポールの命令 めいれい に従 したが い、ポルトベロを封鎖 ふうさ (英語 えいご 版 ばん ) しつつ占領 せんりょう しないことで、インディアス艦隊 かんたい が新大陸 しんたいりく からの銀 ぎん をヨーロッパに輸送 ゆそう することを防 ふせ ごうとした[16] 。
インディアス艦隊 かんたい はこのとき、ポルトベロ港 こう にいたが、ポルトベロ総督 そうとく はイギリス艦隊 かんたい を警戒 けいかい してホジアーに現 あらわ れた理由 りゆう を問 と いただした。ホジアーはその年 とし にスペイン植民 しょくみん 地 ち と貿易 ぼうえき していたイギリス船 せん ロイヤル・ジョージ(Royal George )を護衛 ごえい するためだと答 こた えたが、ロイヤル・ジョージがポルトベロから出港 しゅっこう した後 のち も留 とど まったためスペインは銀 ぎん を載 の せたインディアス艦隊 かんたい を出港 しゅっこう させず、代 か わりに銀 ぎん を下 お ろして陸路 りくろ でベラクルス へ運 はこ んだ。ホジアーは封鎖 ふうさ を継続 けいぞく 、6か月 げつ 間 あいだ 留 とど まったが黄 き 熱 ねつ が蔓延 まんえん したため艦隊 かんたい はだんだんと衰弱 すいじゃく し、ホジアーはジャマイカ にある基地 きち に戻 もど って船員 せんいん を徴募 ちょうぼ するとともに船員 せんいん の病気 びょうき を治 なお そうとし、1726年 ねん 12月24日 にち に到着 とうちゃく した。一方 いっぽう のスペインはその間隙 かんげき に乗 じょう じて、小規模 しょうきぼ な艦隊 かんたい にポルトベロからの銀 ぎん を載 の せてベラクルスから出航 しゅっこう させ、ハバナ まで航行 こうこう することに成功 せいこう した。また1726年 ねん 8月 がつ 13日 にち にはアントニオ・カスタネータ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いるスペイン艦隊 かんたい が兵士 へいし 2千 せん 人 にん を載 の せてヨーロッパからハバナに到着 とうちゃく した。彼 かれ はベラクルスからの艦隊 かんたい と合流 ごうりゅう 、イギリス艦隊 かんたい が気 き づかないうちに1727年 ねん 1月 がつ 24日 にち にハバナを離 はな れた[16] 。1727年 ねん 3月 がつ 8日 にち 、3,100万 まん ペソを載 の せたカスタネータ艦隊 かんたい はスペイン本土 ほんど に到着 とうちゃく した[17] 。
ホジアー提督 ていとく は1727年 ねん 2月 がつ 末 まつ に航行 こうこう を再開 さいかい 、4月 がつ 2日 にち にハバナに到着 とうちゃく したが、銀 ぎん を載 の せたスペイン艦隊 かんたい が逃 に げおおせた後 のち であったため代 か わりにカルタヘナ を巡航 じゅんこう するも、何 なん の成果 せいか も得 え られなかった。黄 き 熱 ねつ の蔓延 まんえん は続 つづ き、ホジアー自身 じしん も1727年 ねん 8月 がつ 23日 にち に病死 びょうし した。代 か わって指揮 しき を執 と ったスーパーブ (英語 えいご 版 ばん ) の艦長 かんちょう エドワード・セントロー (英語 えいご 版 ばん ) はその数 すう 週間 しゅうかん 後 ご 、ジャマイカに戻 もど った。1728年 ねん 1月 がつ 29日 にち 、エドワード・ホプソン (英語 えいご 版 ばん ) 中将 ちゅうじょう が指揮 しき を執 と り、2月 がつ に艦隊 かんたい を中央 ちゅうおう アメリカ海岸 かいがん に戻 もど したが、ホプソンも黄 き 熱 ねつ で病死 びょうし したためセントローは再 ふたた び指揮 しき を執 と った。暫定 ざんてい 講和 こうわ が1729年 ねん 3月 がつ に締結 ていけつ され、セントローも4月 がつ 14日 にち に病死 びょうし すると、艦隊 かんたい はイギリスに戻 もど った[18] 。ホジアーの遠征 えんせい により海員 かいいん と兵士 へいし 約 やく 4千 せん が死亡 しぼう 、その大半 たいはん が黄 き 熱 ねつ による病死 びょうし だった[19] 。
ジブラルタル包囲 ほうい 戦 せん [ 編集 へんしゅう ]
1727年初 ねんしょ 、フェリペ5世 せい はスペイン軍 ぐん の首脳 しゅのう 部 ぶ にジブラルタルについて助言 じょげん を求 もと めた。1704年 ねん から1705年 ねん にかけてのジブラルタル包囲 ほうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) に参加 さんか したビリャダリアス侯爵 こうしゃく (英語 えいご 版 ばん ) は以前 いぜん 、制海権 せいかいけん がない限 かぎ り攻撃 こうげき すべきではないと進言 しんげん していたが、スペイン海軍 かいぐん は1718年 ねん のパッサロ岬 みさき の海戦 かいせん 以降 いこう 、貧弱 ひんじゃく なままだった。今回 こんかい も軍 ぐん の首脳 しゅのう 部 ぶ のほとんどが攻撃 こうげき に反対 はんたい したが、デ・ラス・トーレス伯爵 はくしゃく (英語 えいご 版 ばん ) はジブラルタル占領 せんりょう が可能 かのう であると考 かんが えたため、彼 かれ はサン・ロケ で歩兵 ほへい 18,500、騎兵 きへい 700、大砲 たいほう 100門 もん の指揮 しき を執 と った[20] 。スペイン軍 ぐん の内訳 うちわけ はオランダ人 じん 、イタリア人 じん 、コルシカ人 じん 、シチリア人 じん 、アイルランド人 じん 、フランス人 じん 、スイス人 じん など計 けい 19個 こ 大隊 だいたい と様々 さまざま であり、その多 おお くがマラガ県 けん の出身 しゅっしん だった。そのうちスペインの正規 せいき 軍 ぐん であったのは10個 こ 大隊 だいたい だけだった。大砲 たいほう はカディス の要塞 ようさい から運 はこ ばれてきたが、その輸送 ゆそう が困難 こんなん を極 きわ めた。デ・ラス・トーレス伯爵 はくしゃく は平民 へいみん 3千 せん 人 にん に塹壕 ざんごう 掘 ほ りとランパート築 きず きを命 めい じたが、冬季 とうき の気候 きこう と補給 ほきゅう の不足 ふそく によりスペイン軍 ぐん の状況 じょうきょう は極 きわ めて厳 きび しいものとなった[21] 。イギリス側 がわ では包囲 ほうい 戦 せん の準備 じゅんび が数 すう か月 げつ 前 まえ から進 すす められており、チャールズ・ウェージャー提督 ていとく 率 ひき いる艦隊 かんたい がイギリスから派遣 はけん されてジブラルタルを支援 しえん した。新 あたら しく任命 にんめい されたジブラルタル要塞 ようさい の指揮 しき 官 かん ジャスパー・クレイトン (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん のほか、イギリス艦隊 かんたい には3個 こ 連隊 れんたい の一部 いちぶ が乗船 じょうせん しており、すでに上陸 じょうりく していた4個 こ 連隊 れんたい を増援 ぞうえん していた。そのため、イギリスの軍勢 ぐんぜい は合計 ごうけい 3,206人 にん だった[22] 。
包囲 ほうい 戦 せん は1727年 ねん 2月 がつ 11日 にち に始 はじ まったが、スペイン軍 ぐん の不利 ふり がすぐに明 あき らかになった。イギリス艦隊 かんたい の妨害 ぼうがい により侵攻 しんこう に使 つか える通路 つうろ は狭 せま い道 みち 一 いち 本 ほん であり、しかもその道 みち は要塞 ようさい からの砲火 ほうか に晒 さら されていた。そのため、デ・ラス・トーレス伯爵 はくしゃく は砲撃 ほうげき だけで要塞 ようさい を破壊 はかい して、続 つづ いて歩兵 ほへい で強襲 きょうしゅう を仕掛 しか けることにした。スペイン軍 ぐん はまず塹壕 ざんごう を掘 ほ って要塞 ようさい に接近 せっきん した。このときの戦闘 せんとう は砲撃 ほうげき 戦 せん のほかには哨戒 しょうかい の小競 こぜ り合 あ いのみだった。3月24日 にち にはスペイン軍 ぐん の前進 ぜんしん により要塞 ようさい が大砲 たいほう の射程 しゃてい に入 はい ったため、デ・ラス・トーレス伯爵 はくしゃく は砲撃 ほうげき の開始 かいし を命 めい じた。10日間 にちかん 続 つづ いた砲撃 ほうげき でイギリスの防御 ぼうぎょ 工事 こうじ が大 おお きく損傷 そんしょう し、要塞 ようさい 内 ない にいる全 すべ ての平民 へいみん の助 たす けを借 か りても修復 しゅうふく できなかった。しかし、天候 てんこう が4月 がつ 2日 にち より悪 わる くなったことで両 りょう 軍 ぐん とも行動 こうどう を阻害 そがい された。このとき、2.5個 こ 連隊 れんたい の増援 ぞうえん を受 う けたことで駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん が5,481人 にん に膨 ふく れ上 あ がった。デ・ラス・トーレス伯爵 はくしゃく は5月7日 にち から20日 はつか にかけて2度目 どめ の砲撃 ほうげき を敢行 かんこう したが、その後 ご は火薬 かやく と砲弾 ほうだん の補給 ほきゅう が追 お い付 つ かなかった。外交 がいこう 交渉 こうしょう により直接 ちょくせつ 対決 たいけつ が諦 あきら められ、1727年 ねん 6月 がつ 23日 にち にはジブラルタルをめぐる停戦 ていせん 協定 きょうてい が締結 ていけつ された[23] 。
包囲 ほうい は17週間 しゅうかん ほど続 つづ いた。艦隊 かんたい の保護 ほご もありイギリスの駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん は補給 ほきゅう を受 う け取 と ることができたが、スペイン軍 ぐん の補給 ほきゅう は追 お い付 つ かなかった。このことは脱走 だっそう 者 しゃ の数 かず にも表 あらわ れ、4月 がつ 16日 にち に捕虜 ほりょ 交換 こうかん が行 おこな ったときにはイギリス人 じん 捕虜 ほりょ が24人 にん だったのに対 たい しスペイン人 じん 捕虜 ほりょ が400人 にん もいた。イギリス軍 ぐん にとってより厳 きび しい問題 もんだい はアルコール依存 いぞん だった[24] 。イギリス軍 ぐん の損害 そんがい は死者 ししゃ 107人 にん 、負傷 ふしょう 208人 にん 、脱走 だっそう 17人 にん で、スペイン軍 ぐん の損害 そんがい は死者 ししゃ 700人 にん 、負傷 ふしょう 825人 にん 、脱走 だっそう 875人 にん だった[25] 。
ヨーロッパ危機 きき の解決 かいけつ [ 編集 へんしゅう ]
ドン・カルロス 、後 ご のスペイン王 おう カルロス3世 せい 。ジャン・ランク (英語 えいご 版 ばん ) 作 さく 、1725年 ねん 。
英 えい 西 にし 戦争 せんそう がヨーロッパの全面 ぜんめん 戦争 せんそう に発展 はってん することは望 のぞ まれていなかった。カール6世 せい はたかがオステンド会社 かいしゃ のために戦争 せんそう するつもりはなく、しかもスペインからの援助 えんじょ 金 きん が滞 とどこお っている状況 じょうきょう ではなおさらだった。フランスでも1726年 ねん 7月 がつ 以降 いこう 実質 じっしつ 的 てき に宰相 さいしょう の位 くらい にいたフルーリー枢機卿 すうききょう が戦争 せんそう を避 さ けようとしており、彼 かれ は英 えい 西 にし 戦争 せんそう がフランスの貿易 ぼうえき を阻害 そがい すると考 かんが え、スペインと和解 わかい しようとした[26] 。そのため、彼 かれ はイギリスとオーストリアが戦争 せんそう 状態 じょうたい に入 はい る直前 ちょくぜん に仲介 ちゅうかい に入 はい った。イギリスはすでにオステンド会社 かいしゃ の船 ふね を攻撃 こうげき しており、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく へ軍 ぐん を派遣 はけん する準備 じゅんび を進 すす めていた。一方 いっぽう のオーストリアもイギリスと断交 だんこう した。それでもフルーリーは仲介 ちゅうかい に成功 せいこう 、1727年 ねん 5月 がつ 31日 にち にパリ でイギリスとオーストリアが和解 わかい した[3] 。カール6世 せい はオステンド会社 かいしゃ を7年間 ねんかん 活動 かつどう 停止 ていし させるとともにウィーン条約 じょうやく で定 さだ められたスペインとの貿易 ぼうえき 関係 かんけい を断 た ち切 き った。残 のこ る紛争 ふんそう は会議 かいぎ で解決 かいけつ するとした[27] 。スペイン政府 せいふ は唯一 ゆいいつ の同盟 どうめい 国 こく オーストリアを失 うしな った後 のち 、外交 がいこう での孤立 こりつ を避 さ けるべくフルーリーの仲介 ちゅうかい を受 う け入 い れた。しかし、直後 ちょくご にイギリス国王 こくおう ジョージ1世 せい が死去 しきょ すると、スペインはジャコバイト 支持 しじ で交渉 こうしょう を有利 ゆうり に進 すす もうとした。とりあえずジブラルタル包囲 ほうい を継続 けいぞく して交渉 こうしょう を止 と めたが、ジョージ2世 せい がスムーズに即位 そくい したこと、ジブラルタル包囲 ほうい が失敗 しっぱい したこと、そしてスペインの財政 ざいせい が継 つぎ 戦 せん を許 ゆる さなかったことによりスペインは包囲 ほうい を中止 ちゅうし 、イギリスの貿易 ぼうえき 権 けん を再 さい 確認 かくにん した。1728年 ねん 3月 がつ 6日 にち 、スペインはエル・パルド条約 じょうやく に署名 しょめい 、イギリスとの海戦 かいせん も終結 しゅうけつ させた[28] 。
1728年 ねん 6月 がつ 14日 にち 、ソワソン会議 かいぎ が開催 かいさい されたが進展 しんてん がなかった[3] 。しかし、ヨーロッパ諸国 しょこく の間 あいだ の同盟 どうめい は徐々 じょじょ に崩壊 ほうかい していった。プロイセンはヘレンハウゼン同盟 どうめい に加入 かにゅう してユーリヒ=ベルクの請求 せいきゅう への支持 しじ を得 え ようとしたが、オランダが同盟 どうめい に加入 かにゅう してプロイセンの請求 せいきゅう に異議 いぎ を唱 とな え、英 えい 仏 ふつ からの支持 しじ もなかった。そのため、プロイセンは1726年 ねん にオーストリアとの秘密 ひみつ 条約 じょうやく を締結 ていけつ 、ソワソン会議 かいぎ 中 ちゅう の1728年 ねん 12月23日 にち にベルリン条約 じょうやく でウィーン条約 じょうやく の同盟 どうめい に加入 かにゅう した[29] 。一方 いっぽう のエリザベッタ・ファルネーゼもカール6世 せい に圧力 あつりょく をかけて自分 じぶん の息子 むすこ ドン・カルロス とカール6世 せい の長女 ちょうじょ マリア・テレジア を結婚 けっこん させようとした。これがウィーンの宮廷 きゅうてい に拒絶 きょぜつ されたため、エリザベッタ・ファルネーゼは英 えい 仏 ふつ の支持 しじ を受 う けてせめて次男 じなん フィリッポ のイタリア領 りょう だけでも確保 かくほ しようとした。その結果 けっか 、1729年 ねん 11月9日 にち にセビリア条約 じょうやく が締結 ていけつ された。条約 じょうやく によりスペインはオーストリアとの同盟 どうめい を正式 せいしき に解消 かいしょう 、ジブラルタルへの請求 せいきゅう も取 と り下 さ げ、さらにスペイン領 りょう におけるイギリスの貿易 ぼうえき 権 けん を承認 しょうにん した。その代 か わり、英 えい 仏 ふつ はスペインのパルマ・ピアチェンツァ ・トスカーナ 三公 みつきみ 領 りょう の継承 けいしょう 権 けん を認 みと め、三公 みつきみ 領 りょう の継承 けいしょう を保証 ほしょう するためにスペイン軍 ぐん 6千 せん を公国 こうこく に派遣 はけん することも認 みと めた[30] 。
カール6世 せい はイタリアにおけるスペイン領 りょう の成立 せいりつ を何 なに としても防 ふせ ごうとした。そのため、パルマ公 こう アントニオ が1731年 ねん 1月 がつ に死去 しきょ すると、カール6世 せい は軍勢 ぐんぜい 3万 まん を派遣 はけん してパルマ公国 こうこく を占領 せんりょう した。これによりウィーン条約 じょうやく の同盟 どうめい (オーストリア、ロシア、プロイセン)とセビリア条約 じょうやく の同盟 どうめい (スペイン、フランス、イギリス、オランダ)の間 あいだ で戦争 せんそう が起 お こるように思 おも えたが、1731年 ねん 3月 がつ 16日 にち にウィーン条約 じょうやく が締結 ていけつ され、スペインが国事 こくじ 詔書 しょうしょ を承認 しょうにん する代 か わりにスペインの三公 みつきみ 領 りょう 継承 けいしょう を認 みと めた。彼 かれ は自軍 じぐん を撤収 てっしゅう させ、イギリス船 せん でイタリアに到着 とうちゃく したスペイン兵 へい が代 か わってイタリアに入 はい った。1732年 ねん 3月 がつ 、ドン・カルロスがパルマ・ピアチェンツァ公国 こうこく に入 はい った。これにより外交 がいこう 努力 どりょく で全面 ぜんめん 戦争 せんそう が回避 かいひ された[31] 。
リチャード・グロヴァー (英語 えいご 版 ばん ) のホジアー提督 ていとく の霊 れい の挿画 そうが 、1740年 ねん 。
セビリア条約 じょうやく はあくまでも原状 げんじょう 回復 かいふく であり、優位 ゆうい に立 た った国 くに はいなかった。この状況 じょうきょう はイギリスにおいて最 もっと も明 あき らかであり、イギリス議会 ぎかい が戦争 せんそう 費用 ひよう に3百 ひゃく 万 まん ポンドを承認 しょうにん したものの、その大 だい 部分 ぶぶん がジブラルタル包囲 ほうい 戦 せん に費 つい やされ[32] 、ホジアー提督 ていとく の艦隊 かんたい をカリブ海 かりぶかい に派遣 はけん した結果 けっか も海員 かいいん 数 すう 千 せん 人 にん と提督 ていとく 3人 にん の死 し だけだった。この災難 さいなん 的 てき な結果 けっか により、ウォルポール政府 せいふ への批判 ひはん が巻 ま き起 お こった[33] 。しかしウォルポールはイギリスの外交 がいこう 政策 せいさく が厳正 げんせい 中立 ちゅうりつ であるべきだとして、全面 ぜんめん 戦争 せんそう を回避 かいひ したから成功 せいこう であるとした。1733年 ねん に勃発 ぼっぱつ したポーランド継承 けいしょう 戦争 せんそう でも外交 がいこう 的 てき 孤立 こりつ を選 えら んででも中立 ちゅうりつ を堅持 けんじ したが、スペインとイギリスの紛争 ふんそう が解決 かいけつ したわけではなかったため、セビリア条約 じょうやく から10年 ねん 後 ご には新 あたら しい英 えい 西 にし 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。ジェンキンスの耳 みみ の戦争 せんそう と呼 よ ばれたこの戦争 せんそう は当時 とうじ のイギリス大衆 たいしゅう から望 のぞ まれて起 お こした戦争 せんそう であり、やがてウォルポールの失脚 しっきゃく につながった[34] 。
当時 とうじ イギリス政府 せいふ の政策 せいさく を最 もっと も強 つよ く批判 ひはん したのがエドワード・ヴァーノン (英語 えいご 版 ばん ) 海軍 かいぐん 中将 ちゅうじょう であった。彼 かれ はバルト海 ばるとかい とジブラルタルに派遣 はけん された艦隊 かんたい に従軍 じゅうぐん しており、戦争 せんそう が終結 しゅうけつ した後 のち には議会 ぎかい でカリブ海 かりぶかい 遠征 えんせい の拙劣 せつれつ な計画 けいかく を暴露 ばくろ 、ホジアー提督 ていとく と海員 かいいん たちの死 し について演説 えんぜつ した。その後 ご 、彼 かれ は1738年 ねん から1739年 ねん にかけて対 たい スペイン強硬 きょうこう 論 ろん を強 つよ く支持 しじ 、その直後 ちょくご に戦列 せんれつ 艦 かん 6隻 せき を率 ひき いて1739年 ねん 11月23日 にち のポルトベロの海戦 かいせん に勝利 しょうり してポルトベロを占領 せんりょう 、ホジアーの雪辱 せつじょく を果 は たした[35] 。当時 とうじ の流行 りゅうこう 文化 ぶんか でもホジアーのカリブ海 かりぶかい 遠征 えんせい が現 あらわ れていた。ヴァーノンの勝利 しょうり への祝 いわ いとして、詩人 しじん のリチャード・グロヴァー (英語 えいご 版 ばん ) は「ホジアー提督 ていとく の霊 れい 」(Admiral Hosier's Ghost )というバラッド を書 か いた。このバラッドの内容 ないよう はホジアーの霊 れい がヴァーノンの前 まえ に現 あらわ れ、ヴァーノンの成功 せいこう を祝 いわ うとともに死者 ししゃ の名誉 めいよ 回復 かいふく を求 もと めた、というものだった。当時 とうじ 、ウォルポールが紛争 ふんそう 拡大 かくだい を避 さ けるべくホジアーにポルトベロへの直接 ちょくせつ 攻撃 こうげき を厳禁 げんきん したため、このバラッドはウォルポールの政策 せいさく を批判 ひはん したものになっている[36] 。
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785 , Paderborn/München 1997, p. 166.
^ Grundsätzlich zu Spanien in diesem Zeitalter, vgl. Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785 , Paderborn/München 1997, pp. 166-172.
^ a b c d e f 友清 ともきよ 理 り 士 し . “スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう の戦後 せんご 20年 ねん ――ユトレヒト条約 じょうやく 後 ご の国際 こくさい 関係 かんけい とハノーヴァー朝 ちょう 下 か のイギリス―― ”. 2017年 ねん 7月 がつ 17日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785 , Paderborn/München 1997, p. 272.
^ a b Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789 , München/Berlin 1905, p. 262.
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, pp. 267, 269.
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785 , Paderborn/München 1997, pp. 267, 273.
^ Mckay, Derek; Scott, H.M. (2014) (英語 えいご ). The Rise of the Great Powers 1648 - 1815 . Routledge. p. 124. ISBN 9781317872849 . https://books.google.com/books?id=OaiQBAAAQBAJ&pg=PA124
^ Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789 , München/Berlin 1905, p. 260f.
^ Charles Arnold-Baker: The Companion to British History , London 1996, p. 560.
^ Mckay, Derek; Scott, H.M. (2014) (英語 えいご ). The Rise of the Great Powers 1648 - 1815 . Routledge. p. 129. ISBN 9781317872849 . https://books.google.com/books?id=OaiQBAAAQBAJ&pg=PA129
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 275f.
^ Franz Dominc Häberlin: Vollständiger Entwurf einer Politischen Historie des XVIII. Jahrhunderts , Teil 1, Hannover 1748, p. 447.
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785 , Paderborn/München 1997, pp. 274, 278.
^ Zu den genauen britischen Vertragsverstößen, vgl. William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar , Rutherford 1987, pp. 124-127.
^ a b David Marley: Wars of the Americas – A Chronology of Armed Conflict in the New World 1492 to the Present , Santa Barbara 1999, p. 375.
^ N.A.M. Rodger: The Command of the Sea – A Naval History of Britain 1649–1815. Band 2, London 2004, p. 232.
^ St. Loe, Edward , in: John Knox Laughton: Dictionary of National Biography , Bd. 50, 1885/1900, p. 172.
^ Charles Phillips, Alan Axelrod: Encyclopedia of Wars. Band 1, New York 2005, p. 91.
^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 124.
^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 127f.
^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 128.
^ Für eine detailliertere Abhandlung der Belagerung, vgl. William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, pp. 129-132.
^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 129.
^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 132.
^ Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789. München/Berlin 1905, p. 263.
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 278f.
^ Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789. München/Berlin 1905, p. 264; Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 279.
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 276f.
^ Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789. München/Berlin 1905, p. 265.
^ Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Paderborn/München 1997, p. 281f.
^ William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Rutherford 1987, p. 127.
^ Alfred T. Mahan: Der Einfluss der Seemacht auf die Geschichte. Herford 1967, p. 98.
^ Zur Politik Walpoles im Einzelnen, vgl. Jeremy Black: Walpole in Power. Stroud 2001.
^ David Marley: Wars of the Americas – A Chronology of Armed Conflict in the New World 1492 to the Present. Santa Barbara 1999, p. 383.
^ Vgl. Richard Glover: Admiral Hosier’s Ghost. Auf: www.traditionalmusic.co.uk (Stand: 18. März 2011).
Heinz Duchhardt: Balance of Power und Pentarchie – Internationale Beziehungen 1700–1785. Schöningh, Paderborn 1997 (= Handbuch der Geschichte der internationalen Beziehungen. Band 4), ISBN 3-506-73724-4 .
Richard Glover: Admiral Hosier’s Ghost , auf: www.traditionalmusic.co.uk (Stand: 18. März 2011).
Max Immich: Geschichte des europäischen Staatensystems von 1660 bis 1789. , Band 2, München/Berlin 1905.
William G.F. Jackson: The Rock of the Gibraltarians – A History of Gibraltar. Fairleigh Dickinson University Press, Rutherford 1987, ISBN 0-8386-3237-8 .
Alfred Thayer Mahan: Der Einfluss der Seemacht auf die Geschichte. Koehlers Verlagsgesellschaft, Herford 1967 (dt. Ausg. des 1890 erstmals im engl. Original erschienenen Werkes).
David Marley: Wars of the Americas – A Chronology of Armed Conflict in the New World 1492 to the Present. ABC-Clio, Santa Barbara 1999, ISBN 0-87436-837-5 .
N.A.M. Rodger: The Command of the Ocean – A Naval History of Britain 1649–1815. Band 2, Allen Lane, London 2004, ISBN 0-7139-9411-8 .