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みやこりょう

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みやこりょう
菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』より
時代じだい 平安へいあん時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん うけたまわ元年がんねん834ねん
死没しぼつ もとけい3ねん2がつ25にち879ねん3月21にち
改名かいめい 言道ことみちはつ)→りょう
官位かんい したがえ文章ぶんしょう博士はかせ
主君しゅくん 文徳ふみのり天皇てんのう清和せいわ天皇てんのう陽成ようぜい天皇てんのう
氏族しぞく 宿禰すくね朝臣あそん
父母ちちはは ちちみやこ貞継さだつぐ
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みやこ りょう(みやこ の よしか)は、平安へいあん時代じだい前期ぜんき貴族きぞく文人ぶんじんせい宿禰すくねのち朝臣あそんはつ言道ことみち主計しゅけいあたまみやこ貞継さだつぐ官位かんいしたがえ文章ぶんしょう博士はかせ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

清和せいわちょう初頭しょとうさだかん2ねん860ねん文章ぶんしょうせいせられると、文章ぶんしょう得業とくぎょうせいさだかん11ねん869ねん対策たいさく及第きゅうだいし、よくさだかん12ねん870ねんしょう内記ないき任官にんかん同年どうねん菅原すがわら道真みちざね対策たいさく受験じゅけんしたさい、その問答もんどう博士はかせつとめる。また、よくさだかん13ねん871ねん太皇太后たいこうたいこう藤原ふじわら順子じゅんこ葬儀そうぎさいして、天皇てんのう祖母そぼである太皇太后たいこうたいこうふくすべき期間きかんについて疑義ぎぎしょうじて決定けっていできなかったために、儒者じゅしゃたちに議論ぎろんさせたが、りょう菅原すがわら道真みちざねとも日本にっぽん中国ちゅうごくしょあさ法律ほうりつ事例じれいもとづき、こころ5ヶ月かげつふくせい不要ふようむねべた[1]さだかん14ねん872ねん)には式部しきぶしょうすすむひらちょうともてのひら渤海きゃく使つとめる一方いっぽうみずかかいぶん作成さくせいして言道ことみち(ことみち)からりょうへの改名かいめいい、ゆるされている。

さだかん15ねん873ねんしたがえだい内記ないき叙任じょにんされ、さだかん17ねん875ねん以降いこう文章ぶんしょう博士はかせねた。さだかん18ねん876ねん)に大極殿たいきょくでん火災かさいったさい廃朝はいちょうおよ群臣ぐんしんせいしたがうことの是非ぜひについて、あかりけい紀伝きでん博士はかせらがわれたさいりょうおな文章ぶんしょう博士はかせきょぜい文雄ふみおともに、中国ちゅうごくしょあさにおいて宮殿きゅうでん火災かさいでのへんふく廃朝はいちょうれいはないが、春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだい諸侯しょこうでは火災かさいたいしてへんふく・致哭のれいがあることから、両者りょうしゃ折衷せっちゅうして廃朝はいちょうのみ実施じっしし、天皇てんのう群臣ぐんしん平常へいじょうふくえるべきでないことをそうし、採用さいようされている[2]陽成ようぜいあさ初頭しょとうもとけい元年がんねん877ねん)には一族いちぞくとりいんゆうきょうどうとも宿禰すくねせいから朝臣あそんせい改姓かいせいした。

詩歌しか作品さくひんつくかたわらで、おおくの詔勅しょうちょくかん起草きそうし、さだかん13ねん871ねん)より編纂へんさん開始かいしされた『日本にっぽん文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろく』にも関与かんよしたが、完成かんせいするまえもとけい3ねん879ねん)2がつ25にち卒去そっきょ享年きょうねん46。最終さいしゅう官位かんい文章ぶんしょう博士はかせしたがえ兼行けんこうだい内記ないき越前えちぜんけんかい

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

漢詩かんしひい歴史れきし伝記でんきにもくわしく、平安京へいあんきょうなか名声めいせいはくしていた。くわえて立派りっぱ体格たいかくをしており腕力わんりょくつよかった。一方いっぽうまずしくて財産ざいさんまったくなく、食事しょくじにもことくほどであったという[3]

家集かしゅうに『みやこ文集ぶんしゅう』があり、詔勅しょうちょく対策たいさくさくといなどの名文めいぶんがおさめられている。漢詩かんし作品さくひんは『和漢わかん朗詠ろうえいしゅう』『新撰しんせん朗詠ろうえいしゅう』などにいれしゅうしている。勅撰ちょくせん歌人かじんでもあり、『古今ここん和歌集わかしゅう』に和歌わか作品さくひん1しゅおさめられている[4]

また、各種かくしゅ伝承でんしょうしるした『道場どうじょうほう師伝しでん』『富士山ふじさん』『吉野山よしのやまとう作品さくひんもある。『富士山ふじさん』には富士山ふじさん頂上ちょうじょう実情じつじょうちか風景ふうけい描写びょうしゃがある。これは、りょう本人ほんにん登頂とうちょう、または実際じっさい登頂とうちょうしたもの取材しゅざいしなければない記述きじゅつであり、富士ふじ登山とざん歴史れきしてき記録きろくとして重要じゅうようである。

説話せつわ[編集へんしゅう]

漢詩かんしにまつわる説話せつわ複数ふくすうつたえられており、後世こうせいにおいても、漢詩かんしじんとして評価ひょうかされていたことがうかがわれる。

  • りょう晩夏ばんか竹生島ちくぶしまあそんださいつくったという「三千世界さんぜんせかい眼前がんぜんき。じゅう因縁いんねん心裏しんりむなし。」のしも竹生島ちくぶしまおもである弁才天べんざいてんりょうおしえたものであるという(『こうだんしょう』)。

また、活躍かつやく時期じきがややことなるにもかかわらず、りょう菅原すがわら道真みちざね一緒いっしょ登場とうじょうする説話せつわ逸話いつわられる。

  • りょういえ門下生もんかせいゆみあそびをしていたさい普段ふだん勉学べんがくわれていることから、とうていうまくることはできないであろうと道真みちざねゆみさせてみたところ、百発百中ひゃっぱつひゃくちゅういきおいであった。りょうはこれは対策たいさく及第きゅうだい兆候ちょうこうであると予言よげんし、実際じっさい道真みちざね及第きゅうだいしたという(『北野きたの天神てんじん縁起えんぎ』)。
  • 菅原すがわら道真みちざね昇進しょうしんさきされたことから、りょうおこって官職かんしょくし、大峰山おおみねさんはいって消息しょうそくった。100ねんほど、あるひとやまにある洞窟どうくつこうったところ、容貌ようぼうむかしのままで、まるで壮年そうねんのようであったという(『本朝ほんちょう神仙しんせんでん』)。

かんれき[編集へんしゅう]

注記ちゅうきのないものは『日本にっぽんさんだい実録じつろく』による。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 渋谷しぶや栄一えいいちみやこりょうこうでんいち)」(高千穂たかちほ論叢ろんそう昭和しょうわ55年度ねんど1ごう
  • どうみやこりょうこうでん)」(高千穂たかちほ論叢ろんそう昭和しょうわ62年度ねんどいちごう
  • どうみやこりょうこうでんさん)」(高千穂たかちほ論叢ろんそう昭和しょうわ62年度ねんどごう
  • どうみやこりょうこうでんよん)」(高千穂たかちほ論叢ろんそう昭和しょうわ62年度ねんどさんごう
  • 中村なかむらあきらはち大塚おおつか雅司まさしみやこ文集ぶんしゅうぜんしゃく」汲古書院しょいん1988ねん発行はっこう ISBN 9784762931222
  • 武田たけだ祐吉ゆうきち佐藤さとう謙三けんぞうわけくだ日本にっぽんさんだい実録じつろく』(上下じょうげまき)、えびすひかりさち出版しゅっぱん、2009ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん13ねん10がつ5にちじょう
  2. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん18ねん4がつ10日とおかじょう
  3. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくもとけい3ねん2がつ25にちじょう
  4. ^ 勅撰ちょくせん作者さくしゃ部類ぶるい
  5. ^ 本朝ほんちょう神仙しんせんでん』では朱雀すざくもんとする。
  6. ^ a b c d e f g h i j 古今ここん和歌集わかしゅう目録もくろく
  7. ^ 中條ちゅうじょう順子じゅんこみやこりょうこうでんこう」『今井いまいみなもとまもる教授きょうじゅ退官たいかん記念きねん 文学ぶんがく論叢ろんそう九州大学きゅうしゅうだいがく文学部ぶんがくぶ国語こくごがく国文学こくぶんがく研究けんきゅうしつ、1982ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]