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野村のむらつな

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野村のむら つな
のむら つな
生年月日せいねんがっぴ (1845-12-17) 1845ねん12月17にちひろし2ねん11月19にち
出生しゅっしょう 薩摩さつまこく鹿児島かごしまぐん鹿児島かごしまじょう下天神しもてんじん馬場ばばげん鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま東千石ひがしせんごくまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1906-05-17) 1906ねん5月17にち(60さいぼつ
称号しょうごう せいろく
親族しんぞく エツ子えつこ長女ちょうじょ松崎まつざき蔵之助くらのすけつま)、彦四郎ひこしろうおとうと)、八代やしろただしよし従兄弟いとこ)、田尻たじり稲次郎いねじろうどう

在任ざいにん期間きかん 1880ねん5月 - 1882ねん2がつ

鹿児島かごしまけん会議かいぎいん
選挙せんきょ 宮崎みやざきぐん那珂なかぐん宮崎みやざきぐん
当選とうせん回数かいすう 2かい
在任ざいにん期間きかん 1880ねん2がつ - 1882ねん
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野村のむら つな(のむら つな、1845ねん12月17にちひろし2ねん11月19にち) - 1906ねん明治めいじ39ねん5月17にち)は明治めいじ時代じだい日本にっぽん文部もんぶ官僚かんりょう教育きょういくしゃきゅう薩摩さつま藩士はんし旧名きゅうめい与八よはち左衛門さえもん[1]

宮崎みやざきけん学務がくむ課長かちょう県立けんりつ宮崎みやざき学校がっこうちょう鹿児島かごしまけんかい鹿児島かごしま県議会けんぎかい前身ぜんしん初代しょだい議長ぎちょう文部省もんぶしょう普通ふつう学務がくむきょく次長じちょう宮崎みやざきけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう宮崎みやざき大宮おおみや高等こうとう学校がっこう前身ぜんしん校長こうちょう歴任れきにんした。

来歴らいれき

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ひろし2ねん11月19にち1845ねん12月17にち)、砲術ほうじゅつ野村のむらこうよい別名べつめい彦兵衛ひこべえのべつな[2])のとして鹿児島かごしま天神てんじん馬場ばばまれる[3][4]幼少ようしょうより和学わがく漢学かんがくおさめ、のちあいでんりゅう兵学へいがく荻野おぎのりゅう砲術ほうじゅつ渋川しぶかわりゅう柔術じゅうじゅつ、さらに西洋せいよう兵学へいがくまなんだ。元治もとはる元年がんねん1864ねん)11月、ものあたまとして長州ちょうしゅう征討せいとう従軍じゅうぐんし、戊辰戦争ぼしんせんそうでは越後えちごから奥州おうしゅう転戦てんせん[3]明治めいじ4ねん1871ねん)、おやへい小隊しょうたいちょうとして東京とうきょう市ヶ谷いちがや駐留ちゅうりゅうし、廃藩置県はいはんちけん断行だんこうされた7がつには陸軍りくぐん中尉ちゅういにんじられたが、兵制へいせい改革かいかく異論いろんがあり辞任じにん[5][6]鹿児島かごしまかえり、ごうまなぶもうけて子弟してい教育きょういくたった[3]

明治めいじ6ねん1873ねん)7がつ宮崎みやざきけんだいだい区長くちょうとなり、同年どうねん9がつ宮崎みやざきけんじゅうさんとう出仕しゅっし、10月に宮崎みやざきけんちゅうぞく翌年よくねん9がつ宮崎みやざきけんはちとう出仕しゅっしすすんだ[3][5]。このあいだ明治めいじ6ねん10がつ学務がくむ専任せんにんとなり、翌年よくねん9がつ県立けんりつ教員きょういん養成ようせい中等ちゅうとう教育きょういく機関きかん宮崎みやざき学校がっこうもうけられると校長こうちょう兼務けんむ[7]。さらによく明治めいじ8ねん1875ねん)5がつからけん学務がくむ課長かちょうけん庶務しょむ課長かちょうつとめた[3]

明治めいじ9ねん1876ねん)8がつ宮崎みやざきけん鹿児島かごしまけん合併がっぺいされ、11月に宮崎みやざき学校がっこう廃止はいしされると、もと生徒せいと9にんともなって上京じょうきょう修学しゅうがくこうじている[8]西南せいなん戦争せんそう勃発ぼっぱつ直前ちょくぜん翌年よくねん2がつ内務ないむきょう大久保おおくぼ利通としみちいのちにより密偵みっていとして鹿児島かごしまけんしたものの、けん当局とうきょく拘束こうそくされ、西郷さいごう隆盛たかもり暗殺あんさつ計画けいかくへの大久保おおくぼ関与かんよにおわせる口供こうきょうしょられることになった [4][6][9]

明治めいじ13ねん1880ねん)2がつだい1かい鹿児島かごしまけんかい議員ぎいん選挙せんきょ宮崎みやざき那珂なかぐん選挙せんきょから立候補りっこうほ当選とうせん。5月にひらかれた通常つうじょうけんかい初代しょだいけんかい議長ぎちょう選出せんしゅつされた。選挙せんきょすう変更へんこうにともなう翌年よくねん3がつ選挙せんきょでは宮崎みやざきぐんから立候補りっこうほ再選さいせん。4月の臨時りんじけんかいふたた議長ぎちょうげられ、さらに常置じょうち委員いいん選出せんしゅつされたが、明治めいじ15ねん1882ねん)3がつ通常つうじょうけんかい野村のむら賛同さんどうする日向ひなたこくぶんけん建議けんぎあん否決ひけつされると議長ぎちょうした[10]。またこのあいだ明治めいじ13ねん7がつから翌年よくねんまで宮崎みやざきぐん上別府かみべっぷむらがいじゅうはっ町村ちょうそん学務がくむ委員いいんつとめている[11]

明治めいじ15ねん4がつ文部省もんぶしょうじゅんばんにん御用ごようかけとなり、同年どうねん12がつじゅんそうにん御用ごようかけ明治めいじ17ねん1884ねん)2がつ文部もんぶけんしょう書記官しょきかん昇任しょうにん普通ふつう学務がくむきょく(のち学務がくむきょく)に勤務きんむし、明治めいじ16ねん1883ねん)6がつから明治めいじ18ねん1885ねん)1がつまで体操たいそう伝習でんしゅうしょにも兼勤けんきんした[5][12]。また明治めいじ18ねん9がつから学事がくじ巡視じゅんしのためだいいち地方ちほう関東かんとう地方ちほうおよ中部ちゅうぶ地方ちほう東部とうぶの110けん)に派遣はけんされたのち、12月にもり有礼ありのり初代しょだい文部もんぶ大臣だいじん就任しゅうにんすると視学しがく勤務きんむとなってだいいち地方ちほう部長ぶちょう心得こころえめいじられ、翌年よくねん3がつ官制かんせい改革かいかくさい文部省もんぶしょう視学しがくかんさらにんあらためてだいいち地方ちほう担当たんとうめいじられた[13]明治めいじ20ねん1887ねん)12月には普通ふつう学務がくむきょく次長じちょうすすみ、局長きょくちょう不在ふざい同局どうきょく統括とうかつ。その明治めいじ21ねん1888ねん)9がつ文部省もんぶしょう参事官さんじかんてんじ、明治めいじ24ねん1891ねん)3がつ非職ひしょくとなるまで同省どうしょう勤務きんむした[14]。なお、野村のむら渋川しぶかわりゅう柔術じゅうじゅつ7代目だいめ渋川しぶかわ英実ひでみ門人もんじんであり、明治めいじ16ねん1がつ英実ひでみぼつ途絶とだえていた道場どうじょう東京とうきょう本郷ほんごう元町もとまち再興さいこう多数たすう門下生もんかせいようしたという[15]

明治めいじ27ねん1894ねん)3がつ非職ひしょく満期まんきとなり退官たいかん宮崎みやざき江平えひらうつり、同月どうげつ実施じっしだい3かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ宮崎みやざきけんだいいちから立候補りっこうほしたが次点じてん落選らくせんした[3][16]同年どうねん8がつ学校がっこう騒動そうどうのため辞任じにんした校長こうちょう後任こうにんとして宮崎みやざきけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこうまねかれ、明治めいじ29ねん1896ねん)2がつまで在職ざいしょく[17]以後いご同地どうち晩年ばんねんおくり、明治めいじ39ねん1906ねん5月17にちやまいのため死去しきょした。享年きょうねん62[4]

親族しんぞく

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長女ちょうじょエツ子えつこ法学ほうがくしゃ松崎まつざき蔵之助くらのすけ夫人ふじん[18]実弟じってい彦四郎ひこしろう官吏かんり教育きょういくしゃで、だいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこうおよびだい高等こうとう中学校ちゅうがっこう初代しょだい校長こうちょう歴任れきにん異母弟いぼてい官吏かんりみちすすんでいる。野村のむらはは薩摩さつまはん京都きょうと留守居るすいやく田尻たじり兵衛ひょうえ先妻せんさいいもうとであり、田尻たじり次男じなん京都きょうと学務がくむ課長かちょうつとめた八代やしろただし三男さんなん東京とうきょう市長しちょうつとめた田尻たじり稲次郎いねじろうよし従兄弟いとこにあたる[19]

著作ちょさく

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  • 鹿児島かごしまけんだい一大区二小区十番地居住士族野村好酔嫡子 野村のむらつな」(国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう公文こうぶんろく明治めいじじゅうねんだいひゃくきゅうじゅうななかん」 11-14コマ)
    • 小寺こでら鉄之助てつのすけ編纂へんさん西南せいなんやく薩軍口供こうきょうしょ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1967ねん6がつ、18-19ぺーじ
    • 野村のむらつな口供こうきょうしょ」(鹿児島かごしまけん維新いしん史料しりょうへんさんしょへん鹿児島かごしまけん史料しりょう 西南せいなん戦争せんそうだい1かん鹿児島かごしまけん、1977ねん12がつ
    • 野村のむらつな口供こうきょうしょ」(宮崎みやざきけんへん宮崎みやざきけん 史料しりょうへん きん現代げんだい2』 宮崎みやざきけん、1993ねん3がつ
  • 始末しまつしょ」(国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう単行たんこうしょ鹿児島かごしま征討せいとう始末しまつべつろく」 13-21コマ) - アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A04017196000
    • 前掲ぜんけい鹿児島かごしまけん史料しりょう 西南せいなん戦争せんそうだい1かん
  • 神奈川かながわ埼玉さいたまりょうけん学事がくじ巡視じゅんしこうほど(『文部省もんぶしょうだいじゅう年報ねんぽう附録ふろく』)
  • 学校がっこう生徒せいと体勢たいせいろんス」(『だい日本にっぽん教育きょういくかい雑誌ざっしだい19ごう、1885ねん5がつ
  • 長野ながのけん上田うえだ有志ゆうじ教育きょういくかいニ於テノ演説えんぜつ」(『だい日本にっぽん教育きょういくかい雑誌ざっしだい23ごう、1885ねん9がつ
  • 野村のむら視学しがくかん談話だんわ」(『だい日本にっぽん教育きょういくかい雑誌ざっしだい45ごう、1886ねん12がつ
  • だいいち地方ちほう部内ぶない学事がくじ状況じょうきょう」(『だい日本にっぽん教育きょういくかい雑誌ざっしだい51ごう、1887ねん3がつ
  • 明治めいじ廿にじゅうねんはちがつじゅうにち西にし山梨やまなしぐん衙ニ於テ野村のむら視学しがくかんえんじじゅつ大意たいい」(『だい日本にっぽん教育きょういくかい雑誌ざっしだい63ごう、1887ねん9がつ
  • 野村のむら視学しがくかん演説えんぜつ」(『教育きょういく報知ほうちだい100ごう、1888ねん1がつ
  • 明治めいじ廿にじゅうねんじゅういちがつじゅういちにち長野ながのけん下高井しもたかいぐん中野なかの学校がっこうニ於テ戸長こちょう小学しょうがく校長こうちょう集会しゅうかいづけ野村のむら視学しがくかん演説えんぜつ」(『教育きょういく報知ほうちだい105ごう、1888ねん2がつ
  • 明治めいじじゅうねんじゅういちがつじゅうにち長野ながのけん上高井かみたかいぐん須坂すざか学校がっこうニ於テどうぐん戸長こちょう小学しょうがく校長こうちょうたい野村のむら文部省もんぶしょう視学しがくかんえんじじゅつ筆記ひっき」(『教育きょういく報知ほうちだい106ごう、1888ねん2がつ
  • 野村のむらつなくん演説えんぜつ速記そっき」(『東京とうきょう茗渓かい雑誌ざっしだい67ごう、1888ねん8がつ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 田尻たじり先生せんせい伝記でんき遺稿いこう編纂へんさんかい編纂へんさんきたかみなり田尻たじり先生せんせい伝記でんき 上巻じょうかん田尻たじり先生せんせい伝記でんき遺稿いこう編纂へんさんかい、1933ねん10がつ、16-17ぺーじ
  2. ^ 前掲ぜんけい田尻たじり先生せんせい伝記でんき遺稿いこう編纂へんさんかい、358ぺーじ
  3. ^ a b c d e f 日向ひなた郷土きょうど事典じてん』。
  4. ^ a b c 明治めいじ見聞けんぶん』。
  5. ^ a b c 公文こうぶんろく明治めいじじゅうねんだいひゃくななかん」。
  6. ^ a b 単行たんこうしょ鹿児島かごしま征討せいとう始末しまつべつろく」。
  7. ^ 宮崎みやざきけんへん宮崎みやざきけん 通史つうしへん きん現代げんだい1』 宮崎みやざきけん、2000ねん5がつ、242ぺーじかく大学だいがく府県ふけん学事がくじ景況けいきょう」(『文部省もんぶしょうだいいち年報ねんぽう』)102ちょうひょうとくがくきょく年報ねんぽう 」(『文部省もんぶしょうだいさん年報ねんぽう附録ふろく だいいち』)115ぺーじ
  8. ^ 前掲ぜんけい宮崎みやざきけん、262ぺーじ蛯原えびはらあきらちょ宮崎みやざきけん教育きょういく小史しょうし II』 鉱脈社こうみゃくしゃ〈みやざき文庫ぶんこ〉、2014ねん9がつ、134ぺーじ
  9. ^ 鹿児島かごしまけん だいさんかん鹿児島かごしまけん、1941ねん9がつ、919-923ぺーじくろりゅうかい本部ほんぶ編輯へんしゅう西南せいなんでん ちゅう巻一けんいちくろりゅうかい本部ほんぶ、1909ねん11月、69-94ぺーじ徳富とくとみいの一郎いちろうちょ近世きんせい日本にっぽん国民こくみん だいきゅうじゅうかん 西南せいなんやくいとぐちへん近世きんせい日本にっぽん国民こくみん刊行かんこうかい、1962ねん3がつ、337-353ぺーじ
  10. ^ 鹿児島かごしま県議会けんぎかいへんさん 『鹿児島かごしま県議会けんぎかい だいいちかん鹿児島かごしま県議会けんぎかい、1971ねん3がつ、54-56ぺーじ、119-120ぺーじ、139ぺーじ、102-109ぺーじどう鹿児島かごしま県議会けんぎかい 別巻べっかん鹿児島かごしま県議会けんぎかい、1971ねん3がつ、1-4ぺーじ、53ぺーじ、56ぺーじ
  11. ^ 前掲ぜんけい蛯原えびはら、135-136ぺーじ
  12. ^ 官報かんぽうだい183ごう、1884ねん2がつ12にち、4ぺーじ同誌どうしだい482ごう、1885ねん2がつ12にち、7ぺーじ。「体操たいそう伝習でんしゅうしょだい年報ねんぽう」(『文部省もんぶしょうだいじゅういち年報ねんぽう附録ふろく』)。官報かんぽうだい465ごう、1885ねん1がつ21にち、2ぺーじ
  13. ^ 伊藤いとうみのるあきら1886ねん埼玉さいたまけん小学校しょうがっこう教則きょうそく小学校しょうがっこう小学しょうがく教場きょうじょう教則きょうそく綱領こうりょう」(『人間にんげん発達はったつがく研究けんきゅうだい7ごう愛知県立大学あいちけんりつだいがく、2016ねん3がつNAID 120005820293)22ぺーじ官報かんぽう号外ごうがい、1885ねん12月29にち、3ぺーじ同誌どうしだい798ごう、1886ねん3がつ4にち、40ぺーじ同誌どうしだい802ごう、1886ねん3がつ9にち、98ぺーじかけもと勲夫いさお文部省もんぶしょう視学しがくかん制度せいど成立せいりつ過程かてい」(鈴木すずき博雄ひろおへん日本にっぽん近代きんだい教育きょういく研究けんきゅうがく出版しゅっぱん、1990ねん10がつISBN 4795285888)49ぺーじ。「学事がくじ地方ちほう」(『官報かんぽうだい802ごう、1886ねん3がつ9にち教育きょういく事項じこうらん)。
  14. ^ 官報かんぽう号外ごうがい、1887ねん12月29にち、15ぺーじ金井かないきょうほかども纂 『明治めいじ史料しりょう 顕要けんよう職務しょくむ補任ほにんろく 下巻げかん成章せいしょうどう、1903ねん5がつ増補ぞうほ再版さいはん、321ぺーじ官報かんぽうだい1574ごう、1888ねん9がつ26にち、258ぺーじ同誌どうしだい2321ごう、1891ねん3がつ30にち、320ぺーじ
  15. ^ 綿谷わたやゆきちょ完本かんぽん 日本にっぽん武芸ぶげい小伝しょうでん国書刊行会こくしょかんこうかい、2011ねん2がつISBN 9784336053459、346ぺーじ大沢おおさわ由也よしやちょ青雲せいうん時代じだい : 芥舟かいしゅうろくいち明治めいじじん私記しきぶんいち総合そうごう出版しゅっぱん、1978ねん4がつ、203-204ぺーじ
  16. ^ 官報かんぽうだい3220ごう、1894ねん3がつ28にち、301ぺーじ前掲ぜんけい宮崎みやざきけん、487-488ぺーじ
  17. ^ 宮崎みやざき県立けんりつ宮崎みやざき大宮おおみや高等こうとう学校がっこう創立そうりつひゃく周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう委員いいんかい大宮おおみや高校こうこうひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかいへん大宮おおみや高校こうこうひゃくねん宮崎みやざき県立けんりつ宮崎みやざき大宮おおみや高等こうとう学校がっこう弦月げんげつ同窓会どうそうかい、1991ねん11月、32-38ぺーじ
  18. ^ 法学ほうがく博士はかせ 松崎まつざき蔵之助くらのすけ」(井関いせき九郎くろう監修かんしゅうだい日本にっぽん博士はかせろく だいいちまき 法学ほうがく博士はかせ及薬がく博士はかせ発展はってんしゃ、1921ねん1がつ)。
  19. ^ 前掲ぜんけい田尻たじり先生せんせい伝記でんき遺稿いこう編纂へんさんかい、16-17ぺーじ358ぺーじ11-15ぺーじ前掲ぜんけい大沢おおさわ、604ぺーじ、98-100ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 始末しまつしょ」(前掲ぜんけい単行たんこうしょ鹿児島かごしま征討せいとう始末しまつべつろく」 ほか)
  • 文部省もんぶしょうじゅんばんにん御用ごようかけ木村きむら一歩外一名同省准奏任御用掛被仰付ノこと」(国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう公文こうぶんろく明治めいじじゅうねんだいひゃくななかん」)
  • 野村のむらつな」(松尾まつお宇一ういち編著へんちょ日向ひなた郷土きょうど事典じてんぶんはなどう、1954ねん7がつ
    • 松尾まつお宇一ういち編著へんちょ日向ひなた郷土きょうど事典じてん歴史れきし図書としょしゃ、1980ねん8がつ
  • 野村のむらつなおきなこと」(日高ひだか重孝しげたかちょ明治めいじ見聞けんぶん日向ひなた文化ぶんか談話だんわかい、1968ねん7がつ

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 野村のむらつな」(大植おおうえよんろうへん国民こくみん過去かこちょう 明治めいじまき尚古しょうこぼう、1935ねん12がつ
  • せいろく 野村のむらつな墓誌ぼし」(上村うえむらみゆきもりへん宮崎みやざき碑文ひぶんこころざし だいいちかん宮崎みやざき碑文ひぶんこころざし刊行かんこうかい、1939ねん11月)
  • 日野ひのつかさ野村のむらつな」(宮崎日日新聞社みやざきにちにちしんぶんしゃ宮崎みやざきけんだい百科ひゃっか事典じてん刊行かんこう委員いいんかいへん宮崎みやざきけんだい百科ひゃっか事典じてん宮崎日日新聞社みやざきにちにちしんぶんしゃ、1983ねん10がつ
公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
鹿児島かごしまけんかい議長ぎちょう
1880ねん - 1882ねん
次代じだい
宮里みやさと武夫たけお