こうてき

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こうてき
誕生たんじょう 渤海ぐん蓨県
死没しぼつ 765ねん2がつ17にち
長安ながやす
職業しょくぎょう 詩人しじん
ジャンル
代表だいひょうさく こうつねさむらいしゅう
ウィキポータル 文学ぶんがく
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こうてき
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ こうてき
簡体字かんたいじ こう
拼音 Gāo Shì
ちゅう音符おんぷごう ㄍㄠ ㄕˋ
広東かんとん発音はつおん Gou1 Sik1
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こう てき(こう せき、? - えいやすし元年がんねん1がつ23にち765ねん2がつ17にち))は、中国ちゅうごくとう詩人しじん達夫たつお[1]ほんぬき渤海ぐん蓨県[2]おくりなちゅう

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

こうたかしぶんこうただし)のとしてまれた。李白りはく親交しんこうがあり磊落らいらく性質せいしつ家業かぎょうおこたり、ちぶれてそうしゅう食客しょっきゃくとなっていたが、発憤はっぷんしてげんむねとき有道ありみちげられ、ふうおかけんじょう役職やくしょくさづけられた。その官職かんしょくててかわみぎ遊歴ゆうれきし、河西かさい節度せつど使哥舒翰いだされて幕僚ばくりょうとなった。またさむらいとなり、やすろくやまらんしょく避難ひなんしたげんむね随行ずいこうした。粛宗いのちで、江西えにし採訪さいほう使すめらぎはじめとともにすめらぎおとうとであるながおうぐん討伐とうばつ平定へいていした。のちしょくみだれるにおよしょくしゅう刺史ししとなり、西川にしかわ節度せつど使となった。長安ながやすかえって刑部おさかべさむらいろうつねさむらいとなり、だいむねだいに渤海こうふうぜられ、そのぼっした。

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50さいはじめてこころざし、たちまちだい詩人しじん名声めいせいて、1へんぎんずるごとに好事家こうずかつたえるところとなった。吐蕃とのたたかいに従事じゅうじしたのであたりふさがおおい。ふうは「こう豪壮ごうそう」とされる。はやしはじめまれてしょく左遷させんされて汴州とおったときに李白りはくもりはじめい、悲歌慷慨ひかこうがいしたことがある。しかし、そのはやしはじめささげたのこされており、「このんで天下てんか治乱ちらんだんずれども、ことにおいてせつならず」とひょうされた。『こうつねさむらいしゅう』8かんがある。

邯鄲かんたん少年しょうねんぎょう
原文げんぶん くだぶん
邯鄲かんたん城南しろみなみ遊侠ゆうきょう  邯鄲かんたん(かんたん)城南じょうなん 遊侠ゆうきょう
生長せいちょう邯鄲かんたんうら  みずから矜(ほこ)る 邯鄲かんたんうら生長せいちょうするを
千場縦博家仍富  せんじょう はくたてにしていえ仍ほ
幾度いくどほう讐身不死ふし  幾度いくどか讐(しゅう)にむくいひて せず
たく中歌なかうたわらい紛紛ふんぷん  たくちゅううたわらい 紛紛ふんぷん
門外もんがい車馬しゃばつね如雲  門外もんがい車馬しゃば つねくもごと
未知みち肝膽かんたんこうだれこれ いまらず 肝胆かんたん だれかってこれなるかを
れいじん却憶平原ひらはらくん ひとをしてかえって 平原ひらはらくんを憶はしむ
きみこんひと交態うす  きみずや いまじん 交態うす
黄金おうごんようつきかえうとさく  黄金おうごんもちくさば かえうとさく(そさく)たるを
以茲感嘆かんたんきゅうゆう  茲(ここ)をもっ感嘆かんたんして きゅうゆう
さら時事じじところもとむ  さら時事じじおいて もとむるところ
且與少年しょうねんいん美酒びしゅ  且らく少年しょうねん美酒びしゅ
往来おうらいりょう西山にしやまあたま  往来おうらいりょうせん 西山にしやまあたま(ほとり)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ こおりひとし読書どくしょこころざし』や『から才子さいしでん』になかたけしとあるのは、別人べつじんだかなかたけし混同こんどうしたあやま
  2. ^ しんとうしょまき143による

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]