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如山

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如山(1811ねん—?),赫舍さと诗臣ごうかんむりきゅう,别号如道じんうつしあきのき寿ことぶきみなみ古稀こき外史がいし古稀こき男子だんし[1]满洲镶蓝はたひと清朝せいちょうかん员,进士出身しゅっしん,书画ぜん词。

生平おいだいら

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みちこうじゅうねん(1835)乙未おとみおん顺天乡试举人,じゅうはちねんつちのえいぬ进士。初任しょにん起居ききょちゅう笔帖しき,擢詹ごとみぎはるぼうみぎ赞善みちこうじゅうさんねん,缘事かわ职。きさき历任咸丰七年湖北汉阳府知府、たけあきら浙江せっこうきむ衢嚴どうどうろくねん(1867)浙江せっこうとく粮道、ひかりさんねん长芦盐运使浙江せっこう按察使[2]ひかりきゅうねん四川しせん按察使[3]ぞくよんがわぬのせい使ひかりじゅういちねん(1885ねん),如山召回北京ぺきんかんちょく隶按察使。

ぜん诗词,こう书画,ゆう其擅长指头画。“书宗きた,苍劲浑厚。ぜんさら矜重,えきとく也”(すえじょ珂,《きよしひえ类钞选》)。山水さんすい苍浑淹润,善用ぜんよう泼墨ほう花卉かき竹石たけいしぼくゆう致。ところ兰花,あわ雅秀まさひで润,向背こうはい俯仰ふぎょうきょくつき其态。ゆび苍莽,ちょくおいこう其佩[4] 。书画作品さくひん载《かんまつ阁谈艺琐录》、《历代汇传录》、《海上かいじょうすみりん》。ざいはちはた录》ちゅう评如やまてき“设色あわ冶,风致嫣然えんぜん”。现代美学びがくむねしろ华曾引用いんよう如山(かんむりきゅうてき转心あん词序》ちゅうてき话来かい释艺术的さかいあずかぜんさかいすえそうしろ华《中国ちゅうごく艺术さかい诞生》)。そん作品さくひんゆうあきりん读画图》(くら湖南こなみしょう博物はくぶつ馆)、《せきたて轴(1883)、《观音たからしょう》图等。てき一幅书法对联写道:“とも作画さくが须求あわぶんやま喜平きへい”,其中隐含自己じこてき名字みょうじ“如山”。

如山潜心せんしん内典ないてんうつしさくてき小品文しょうひんぶんあずかぜん门佛つくえゆう关。ざい湖北こほくにんじょう时,重刻じゅうこくだまじゃくほう师注《阿弥陀あみだ注解ちゅうかい》(翻刻ほんこくばん一副保存在武汉归元てら)。闻其きさき以僧そうそう于西すえたかしつねみち以来いらい朝野ちょうや杂记》)。如山あずか夫人ふじんそうきゅうふつ经。夫人ふじんほうごう善一ぜんいち”,时以修行しゅぎょう闻名杭州こうしゅうすえたいしゅう大礼たいれい“书善一事いちじしょ记),こう布施ふせおさむ经书,辑《あま烛坤しゅう》(ため佛教ぶっきょうおんな修行しゅぎょうじんしょへんてき修行しゅぎょうようしょ,其现だいばんゆうひもやく美國びくに佛教ぶっきょうかいしるし,1972),そう於杭州法しゅうほうしょう寺東てらひがし今寺いまでらやめ无存,现存树“法相ほうしょうからくすのき”;俞樾曾题杭州こうしゅう法相ほうしょうてら对联,并在てらきさき石壁いしかべじょうたてゆう自己じこてき书藏;法相ほうしょうてらきたゆうろくつうてら,曾住ゆうそうまつもとはつ禅僧ぜんそう画家がかまき谿)。

如山あずか同年どうねん进士鑲白滿まんしゅうたから曾国はん交友こうゆう。胞弟湖北こほく按察使おおさん,于1855ねん太平たいへい军攻おちいたけあきら时阵ほろび,如山おかせ险赴南方なんぽう为弟せっ灵,ざい收拾しゅうしゅうおとうとあまりぶつ时,竟发现巡抚、はん、臬各官印かんいんろく颗,おく往曾こくはん湘军大本おおもと营,いん此获こうすえたかしつねみち以来いらい朝野ちょうや杂记》)。胞弟おおさんあずかみちこうじゅういちねん(1841ねんからしうしおん进士、苏州怡园主人しゅじん顾文あきら交友こうゆう,如山为顾ぶんあきらてきまゆ绿楼词》(1884ねんこくほんちゅうてきひゃく衲琴げんぶん章作しょうさくじょ。如山曾为どうこうさんじゅうねん(1850ねんかのえいぬ进士、苏州きょく园主じん俞樾作山さくやまみずりつ轴《访友图》并款识”六如居士天目访云帧子博荫甫尊兄一咲“。あずかみちこうじゅうろくねん(1846)举人、湖北こほくやす县知けんしゅすず綬(嘯篔,ごう弇山くさころもゆう诗歌唱和しょうわ(载朱すず綬,《疏蘭僊館詩集ししゅう》,ひかりさんねん(1877)こくほんまた有光ありみつ绪16ねん(1890)じゅう刊本かんぽんぞう哈佛大学だいがく图书馆;しゅすず綬师从嘉庆ねん(1800)举人、诗画盛大せいだいしゅすず綬的《かそけ梦续かげ》(1878ねんゆかり门生咸豐ねん(1852ねんみずのえおん进士はん编辑并序)。为こう顺诒てきねがいため明鏡めいきょうしつ稿こうさくじょきよしどうはちねん(1869)こくほんこう另有しょう说评论《读〈红楼梦〉杂记》とう)。为もりぶんてきさい词》さくじょもりぶん澜在其《いこいえんばなしまき五中评论如山的词作:“轉落てんらく落寡交,けんきよしぜんえつちゅう解脫げだつ。曾葬其夫じん於杭州法しゅうほうしょう寺東てらひがし自營じえいせい壙,さくそうとぎとう,曠達如此”。どうねんよんがつ,如山せんきょう师《清重きよしげけん吕祖ほこら》,いんあきらしゅうしょどうはちねん(1869)おのれ画家がかひろし琯(西にしだま)为如やまさくひゃくねん长寿图》扇面せんめんどうきゅうねん(1870)庚午こうご,如山じゅうおさむ葺杭しゅう西にしけい交芦あん及庵ちゅうてききよしだい文学ぶんがく厲鶚はか

しるゆううつしあき轩诗そん》、《药弹しつずい笔》、《かんむり九廉坊延揽胜》。さく钤印ゆう:“如山”、“かんむりきゅう”、“かんむりきゅう如山”、“赫舍さと”。

如山てき学生がくせいゆう:镶蓝はたこうむ鄂觉とく松年しょうねんしょう梦,ごう颐园,1837ねん—1906ねん),やま东知县,画工がこう山水さんすい人物じんぶつ花卉かき、翎毛、兰竹,よう笔豪爽,りゅうぐう济南创办まくらりゅうしゃちょゆう《颐园论画》(1897);こういとぐちきゅうねん(1883ねんみずのと进士严修

家庭かてい

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  • 始祖しそ薩珠瑚。つまふりしかけいすえ八旗滿洲氏族通譜まききゅう,“薩珠瑚,鑲藍はたじんあまおんとう哈(せい黄旗きはたつつみころもじんせいきょ哈達地方ちほうくにはつらいゆかりつつみころもたすくりょうていかなえつばめきょう,授一等輕車都尉)同族どうぞくせいきょ哈達地方ちほうらいねんぶんこう”。
  • ふとし高祖こうそ薩漢,にんきょうりょうふと高祖母こうそぼ鄂卓。胞兄まれふつ訥,はらつとむ䕶軍叅領;赫臣,にんきょうりょう滿まん丕,はらつとむ闗口もり禦;やまと赫,はらつとむ䕶軍こう赫,はらつとむひつじょうしき
  • 高祖こうそたけしかく高祖母こうそぼ瑚爾罕氏。嫡堂けいつばめぬのはらつとむみやこみつる
  • 曾祖そうそぶくもりがくまたぶくますがく),ちょく隶多伦诺尔(いまないこうむ伦县)理事りじどう曾祖母そうそぼ喀爾ひしげ。胞姊赫舍さとよめ鑲藍滿まんしゅう、四川保寧府知府鄂卓氏德昌;其子ながしゅうどおりばんぶく舒(胞兄ちょうすな湖南こなんただし糧道りょうどうぶくじゅん);孙儿どうこうみずのえうまおん進士しんしよしいたるぜん又吉またよし珩。其子浙江せっこう绍兴うみ霈,孙女鄂卓よめ镶白はたこうむ举人、こう苏东だい县知县巴まいるかつ彭年(其父どうじゅうさんねん(1874ねんきのえいぬ进士延清のぶきよ)),みちこうみずのえうまおん進士しんし吉年よどし
  • 祖父そふぜんけい浙江せっこうしゅう祖母そぼさとし;其父ふく统觉罗图ひしげまた喇),ははふり尔佳先祖せんぞつとむきょう贝勒とう察篇いにしえ;胞兄さとしやまときょうがくまたやまとすず渾),其子うんみなみ镇南しゅうしゅう觉罗毓秀,孙儿两浙盐运运判さとし熙霖(また西林にしばやし,1840-1891)[5];曾孙おんなさとし氏原うじはらはいよめ镶蓝はた汉军なお其源(ちちせいべにまもるぐんすべりょうなおあきら懋;继妻えびすけいせい蓝旗汉军、ひかりいとぐち二年丙子恩科進士えびす俊章としあきこれ胞侄おんな;嫡堂けいこういとぐちじゅうはちねん(1892ねんみずのえたつ进士なお其亨)。如山あずかえびす俊章としあきこれちちきち谦系どうこうじゅうねん(1835)乙未おとみおん顺天乡试どう榜。
  • ちちよううみ,广东按察使生母せいぼなんじさとし,其父せい白旗はっき满洲、ちょく隸熱かわどうちょく隸古北道ほくどうあきら,胞叔奉天ほうてんいん景明かげあき祖父そふ河南かなんじゅん抚榮ばしら曾祖そうそ刑部おさかべ尚書しょうしょつとむ肅公德福とくふく (清朝せいちょう)。继母ひろしきちひしげとく(胞侄おんなひろしきちひしげとくよめせいべに滿まんしまさとしたかしたもて,其祖ちち三等侍卫覺羅舒敦,祖母そぼ佟佳ちちせい蓝旗满洲、れい尚書しょうしょきょう簡公つねあお (清朝せいちょう)),曾祖そうそ閩浙總督そうとく觉罗ひしげおさめ)。
  • 胞兄:
    • 愛山あいざん,广东琼州
    • 丰山,みちこうからし举人。つま范氏(ちち镶黄はた汉军领范けんこころざし祖父そふ范宜僖,曾祖そうそ范時もち高祖こうそたすく领范承荫(镶黄はた汉军だい二参领第五佐领、户部さむらいろう袭三等轻车都尉),高祖こうそはく順治じゅんじきゅうねん(1652)みずのえたつ進士しんしただしさだおおやけ范承謨ふとし高祖こうそぶん肅公范文ほど)。
    • りゅうやまつま薩爾かつ(胞兄せい白旗はっきこうむ、內務大臣だいじん麟翔,祖父そふ陝甘總督そうとくつとむじょうおおやけめぐみよわい,叔祖ちち一等いっとういさむこうちょうよわい)。其女赫舍さとよめせい白旗はっき满洲、ちょく隶总とくとう腊氏ひろしろく(胞兄こうねん(1876ねんおん进士ひろしとく)。
    • 寶山たからやま。其女赫舍さとよめせい黄旗きはたこうむたくかつたく莫特常安つねやすちちよしみけいおのれ進士しんしつとむはてこうあかりよしみ,胞叔よしみけいかのえたつ進士しんしあかりくん)。
    • 胞弟ちゅうたけしおおやけおおさんうんしゃくごううん),みちこうじゅうよんねんかぶとうま(1834)举人,こう诗画,1855ねん太平たいへい军攻おちいたけあきら时阵ほろびつまがく勒圖とく山初やまはつつとむ刑部おさかべろうちゅう为襄阳府きさきにんたけあきらしょ湖北こほく按察使。时司どう驻城がいとく战,おもんみやまじょしろもりしろおちいちから战死骑都じょう职,谥忠たけしやま交友こうゆうどうこうじゅういちねん(1841ねんからしうしおん进士、湖北こほく汉阳顾文あきら,殉难きさき,顾文あきらさく悼亡诗。
      • おんだましょうしゃく)。つまちちない务府せい白旗はっき汉军さきがけじゅん,胞叔湖南こなみ按察使さきがけれん祖父そふない务府东陵ろうちゅうけいだま,胞侄河南かなんみなみ阳府たからつなつね),どう侄清政府せいふ驻日本学ほんがく监、词人画家がかたからたつみまた);胞姊,继配よめせい白旗はっき图们のべあきら(叔祖湖北こほくじゅんあお高祖こうそ浙江せっこうじゅん广玉);さきがけれん家族かぞくまたあずかせい蓝旗汉军进士えびす俊章としあき家族かぞくうち务府せい黄旗きはた汉军翰林かんりん楊鍾羲家族かぞく联姻)。
      • 璞玉;げんはいつまひしげ,继妻ひろし瑚魯。孙儿ぶんとしじょうせい)。
      • おんな赫舍さとよめ宗室そうしつはししゅうちち宗室そうしつたかしすず先祖せんぞこう畧貝勒褚英そくつとむ尔哈あか长子)。其子宗室そうしつこうひろしめと莫氏(其父せいあい滿まんしゅうはんいんひだりさむらいろうこころざしがお祖父そふ武英たけひで殿どのだい學士がくしぶんたちおおやけぶんはく祖父そふどうこうみずのと進士しんしぶん)。
  • 姊赫しゃさとふうどうこうみかどつね[6]
  • 姊赫しゃさとよめせい白旗はっきこうむたい宁镇总兵かん(驻扎こん河北かほくえき县)けんしん西陵せいりょう总管ない务府大臣だいじん薩爾かつ麟翔(祖父そふ陝甘總督そうとくつとむじょうおおやけめぐみよわい,叔祖ちち犁将军、一等いっとういさむこうちょうよわい)。
  • 嫡妻なんじさとし,继妻さとし
  • 綬玉。养孙ぶんとしじょうせいなまちち璞玉,なま祖父そふちゅうたけしおおやけおおさん)。
  • おんな儿赫しゃさとよめ主事しゅじせい蓝旗宗室そうしつたからあきら[7]たからあきらちち宗室そうしつまこと曾;胞叔宗室そうしつまことかおる,其妻だかけい(其胞姊高けいよめそうかん內務大臣だいじん宗室そうしつこころざしもと祖父そふ镶黄はた满洲、いぬいたかしよんじゅうさんねん進士しんしこうあつし曾祖そうそぶんはしこうこうすすむこうすすむ胞姊だかけいけいせい蓝旗汉军えびすよしめぐみ (みちこう进士)これ高祖母こうそぼせい蓝旗汉军进士えびす俊章としあきこれふとし高祖母こうそぼ);祖父そふ山東さんとう按察使宗室そうしつれい杰(如山にん浙江せっこうとく粮道时,宗室そうしつれい杰任两浙盐运使),叔祖ちちどうこうつちのえいぬ進士しんし殿しんがりためしかぶとだいいちめいつて臚)ぶんきょうおおやけ宗室そうしつれいかつら曾祖そうそどうこうへいいぬ進士しんし宗室そうしつ毓本またほん)。其中宗室そうしつれいかつらあずか山道さんどうこうじゅうはちねん(1838ねんつちのえいぬ进士どう榜。

参考さんこう资料

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  1. ^ 清人きよひとしつめい別稱べっしょうごう索引さくいん ,しもさつ ,904. 
  2. ^ 中國ちゅうごくだいいち歷史れきし檔案かんぞうきよし代官だいかんいん履歷りれき檔案全編ぜんぺん ,26さつ ,674. 
  3. ^ 中國ちゅうごくだいいち歷史れきし檔案かんぞうきよし代官だいかんいん履歷りれき檔案全編ぜんぺん ,3さつ ,2185-2187. 
  4. ^ 乔晓军. しんだい翰林かんりん传略. 陕西たびゆう出版しゅっぱんしゃ. 2002: 473. 
  5. ^ 载《りょう浙鹽つとむどうかんかん》,1886
  6. ^ じきしょう同年どうねん录(みちこう乙未おとみ). 
  7. ^ あいしんさとしはじめ》3さつかぶとさんだい1427ぺーじ.