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こごめはら

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こごめはら
ひだりさん大夫たいふ
清殿本屈原畫像
きよし殿どのほんこごめ原畫げんがぞう
はら
本名ほんみょうせい:羋
こごめ
たいら
出生しゅっしょうおおやけもとまえ342ねん2がつ17にち
逝世おおやけもとまえ278ねん6がつ6にち享年きょうねん65さい
国籍こくせきすわえこく
かつ跃时戰國せんごく時代じだい
知名ちめい作品さくひんはなれ》《てんとい》《きゅううた
きゅうしょう》《だい》《とおゆう
卜居ぼっきょ》《漁父ぎょふ
父母ちちははちちはくいさお
こごめ大夫たいふぞうきよしいぬい隆年たかとしあいだ歷代れきだいめいしんぞうかい》)

こごめはらぜん342ねん2がつ17にち[1]まえ278ねん6がつ6にち),せいこごめひらたはら以字ぎょうすわえこく丹陽たんよういま湖北こほくしょう秭归县,一說湖北荊州紀南[2]にん自稱じしょう上古じょうこみかどいちこうようてき後裔こうえい[3]ため中國ちゅうごく戰國せんごく時期じき詩人しじん政治せいじ,其先祖せんぞこごめきずすわえたけおうふう於屈いん以屈ためかんはいひだりためすわえおう近臣きんしん[4]

こごめげんすわえふところおう信任しんにん,且有すわえこくだいいち詩人しじんてき美稱びしょうにんさん大夫たいふつねあずかすわえふところおう商議しょうぎ國事こくじ主張しゅちょうすわえひとし兩國りょうこく聯合れんごう共同きょうどうこう衡秦こくつぎ反對はんたいすわえふところおうあずかしん國交こっこうこのみてき舉動。ざいはたあきらおう扣留すわえふところおうこれこごめげん繼續けいぞく輔佐ほさすわえごろじょうおう[5]すわえごろじょうおうろくねんぜん293ねんすわえごろじょうおうはかりごと劃再あずかしんこく講和こうわこごめげん斥責すわえごろじょうおうかずらんすわえごろじょうおうだいいか上官じょうかん大夫たいふ靳尚ざいごろじょうおう面前めんぜん说屈ばらてき坏话,こごめ原因げんいん此被驅逐くちくすわえこくてき都城みやこのじょうながれ於更へんとおてき江南えな地區ちくれきじゅうはちねんしか而,せいいんためながれ使つかいとくこごめはらひろ泛地接觸せっしょくりょうそこそうてき人民じんみんぐん眾,也接觸せっしょくりょう豐富ほうふ生動せいどうてきすわえ國民こくみんあいだ文化ぶんかとめりょう千古せんこ絕唱ぜっしょうはなれ》。[6]

すわえごろじょうおうじゅういちねんぜん278ねんはた武安たけやすくんしろおこりりつぐんおさむやぶ郢都,すわえごろじょうおうせり遷都せんとこごめげん雖日よる思念しねん郢都,卻因放逐ほうちく不能ふのうかいあさ效力こうりょく祖國そこくじゅうふん痛苦つうく悲傷ひしょう[7]したがえくだりいたり長江ちょうこうさくふところすないち懷抱かいほういちせき投入とうにゅう汨羅こう而死[8]後世こうせい端午たんごぶしどもちまきそくためねんこごめばら

いえ

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こごめはらぞうあきら陈洪绶

こごめげん出自しゅつじすわえこくおおやけぞくこごめこごめあずかあきらけい并称王族おうぞくさんせいこごめげん曾任さん大夫たいふよりどころせつ就是てのひらかんあきらこごめけいさんてき事務じむこごめあきらけい为楚国大こくだいせい[9][10]こごめ子孫しそんこごめおもこごめかんこごめいたこごめけんひとしざいすわえこく擔任たんにん要職ようしょくこごめばらてき父親ちちおやさけべはくいさおいたりょうこごめげんいちだいこごめ高官こうかんてきじんただゆうこごめはらかず後來こうらいかむはたこく俘虜ふりょてき大將たいしょうこごめこごめはらすわえきゅうしょうちゅうてき惜誦》曾說どう[11]ゆるがせ忘身賤貧」。可能かのうとう貴族きぞく家庭かていやめおとろえ落。

出生しゅっしょう

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生地きじ

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こごめばらてき生平おいだいらあずかこと迹主よう见于つかさ马迁ふみ·こごめげん贾生れつ传》てき记载,ただしよし于列传未记载こごめばらてき出生しゅっしょう,以至こごめ原籍げんせき贯众说纷纭,莫衷いち

  • 秭歸せつ

现存てきさきしん史籍しせきちゅうひとし找不いた关于こごめばらてき记载。而最早もはや记载こごめばらてき出生しゅっしょうざい秭归てきとうぞく东晋袁山まつ一作いつさく袁崧)てきむべ山川やまかわ记》(またたたえむべ记》)かず南朝なんちょうそうもり弘之ひろゆきてき《荆州记》。うんこごめげん故里ふるさと秭归乐平さと犹存ゆうきゅうたく石屋いしやもとたま禾田及屈げん贤姊てきおんな媭庙、捣衣せきとう遗迹。すえきた郦道もとみず经注·すいちゅう》引袁やままつむべ山川やまかわ记》うん:“秭归,盖楚ぐま绎之はじめこく,而屈原之はらの乡里也。原田はらだたく于今そん。”また说:“(秭归)县北いちひゃくろく十里有屈原故宅,るいせき为室もとめい其地曰乐平里ひらさとたく东北ろくじゅうゆうおんな媭庙,捣衣せき扰存。”すすむ庾仲雍《荆州记》またゆうこん其地めい乐平。”あいどう记载。(“乐”读yuè乃“せい,引东汉高诱注释《淮南ワイナン?ほん经》“てんくつがえ以德,载以乐”うん:“乐,なま也。”;“たいらそくゆびこごめはら,《ふみ记·こごめげんれつ传》:“こごめはらしゃ名平なびろう。”;“さとそくゆび,《说文》曰:“さときょ也。”そく“乐平さと”为“こごめげん诞生。)ややきさきとうだい归州刺史ししおうしげるもと于元じゅうねん(820ねんざいしろ东五里首建屈原祠,さくすわえ三闾大夫屈先生祠堂铭并序》,しょうこごめはら“秭归じん也”,またげんこごめはら旧宅きゅうたくこれそん焉”。きたそう邵博《闻见きさき录》また载:“归州こごめ沱,こごめはらきょ也。うえゆうこごめげんほこらはか。”しゅ熹注こごめはらゆう鸟自みなみ兮,来集らいしゅう汉北”说:“鸟盖喻,こごめ原生げんせい于夔かい,而仕于鄢郢,みなみ而集于汉きた也。”しゅ此注いち,“こごめげん出生しゅっしょう秭归”便びんなりりょうてい论。きよしかん字典じてんまたおさむ录“こごめげん出生しゅっしょう秭归”说。郭沫若かくまつじゃくざいこごめげん研究けんきゅう》一文中考证也肯定屈原“せいざい秭归县的じん”。

  • 紀南きなんせつ

もち紀南きなん说则认为こごめはらじゅつあい郢》一文いちぶん中有ちゅうう乡而就远”,“终古これしょきょ表明ひょうめい郢都(こん荆州纪南镇纪南城なんじょうこごめげん终古これしょさらなん况也考古こうこ发现纪南じょう为楚さんだい贵族(こごめけいあきらてき居住きょじゅう。另从こごめげん家族かぞく袭三闾大夫之职看,こごめげん出生しゅっしょう于郢可能かのうせい较大。其实はやざい西にし汉东かたついたちなな谏·はつまた载有“平生ひらお于国兮,长于原野げんや”,くにゆびこく郢,こごめげん当然とうぜんこん荆州じん。遗憾てきなな谏·はついちへん文学ぶんがく作品さくひん,其可しんだいおり扣。こと实上きたたかし郦道もとみず经注ざい引用いんよう袁山まつむべ山川やまかわ记》うん:“こごめはらゆう贤姊,闻原放逐ほうちくまた归,喻令宽全。乡人つばさ其见从。いんめい曰秭归。そく《离骚》しょ谓女媭媛以詈あまり也。”遗憾てききさきじん引用いんよう秭归县命名めいめい时,ただ对郦道元どうげん谓山まつ此言,谓因ごと而立じりつ证,こわめい县之本旨ほんし矣”引用いんよう,难免ゆう断章だんしょう义之いや。值得いちひさげてき,郦道もと曾任过东荆州刺史しし,其《みず经注》つぎ引用いんようこごめげん诗赋,ただし却没ゆうこごめ原生げんせい于秭归的记载。明成めいせいねん间编纂的《みずうみ广图经志》ちゅうこごめげんあずか其父はくいさおれつ为江りょうこん荆州荆州名人めいじんきよしむべじん杨守敬作けいさくみず注疏ちゅうそまた对“こごめげん出生しゅっしょう秭归”也是谨慎态度てき,对郦道元どうげん谓山まつ此言,谓因ごと而立じりつ证,こわめい县之本旨ほんし矣”一句没作任何注释。こうりょうじんひろしひろしざいこごめ原籍げんせき贯考》一文いちぶんざいこうりょう县志·人物じんぶつこころざし》)ちゅう则明确指こごめげん乃是こうりょう县纪みなみ镇松かしわむらいち带人。中国ちゅうごくこごめげん学会がっかい名誉めいよ理事りじ张世はる认为,こごめげん遗迹传说げんそうたまてきこうから赋》あずかかみおんな赋》,说屈げん出生しゅっしょう于秭归难めんゆう牵强附会ふかいこれかん

  • 西にしかいせつ

生年せいねん

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はなれ騷》

みかどだか苗裔びょうえい兮,ちん皇考こうこう曰伯いさお
ひさげさだ於孟陬兮,おもんみかのえとらわれ以降いこう
すめらぎらん揆余初度しょど兮,はじめすずあまり以嘉めい
あまり正則せいそく兮,あまり曰靈ひとし
まがえわれすんでゆう此內兮,また重之しげゆき以脩のう
扈江はなれあずか闢芷兮,紉秋らん以為佩。
汩余わかはた及兮,おそれねん歲之としゆきわれあずか
あさ搴阰木蘭もくれん兮,ゆう攬洲宿やど莽。
日月じつげつゆるがせ其不淹兮,はるあずかあき其代じょ
おもんみ草木くさきれい落兮,おそれ美人びじんおそくれ
なでたけし而棄けがれ兮,なにあらため乎此也?
……

こごめばらてき出生しゅっしょうよりどころ近代きんだい許多きょたじん研究けんきゅうてき結果けっか[12]大概たいがい不出ふしゅつすわえせんおうじゅうななねんぜん342ねんいたさんじゅうねんぜん339ねんあいだこごめげんざいはなれちゅうせつ

ひさげさだ于孟陬兮,おもんみかのえとらわれ以降いこう」。

這句せつふとしとしぼし逢寅。[13]

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こごめはら

こごめはらさとしとく自己じこてき生辰せいしんゆう些與眾不同ふどう所以ゆえんざいはなれ騷》ちゅうせつ

すめらぎらん揆余初度しょど兮,はじめすずあまり以嘉めいめいあまり正則せいそく兮,あまり曰靈ひとし」。

這4せつ父親ちちおやいたわが生辰せいしん凡,きゅうわがおこりりょうこう名字みょうじ名字みょうじさけべ做「たいら[14]めいさけべ做「はら[14]。而ひがしかんおういつざいすわえ章句しょうくちゅう解釋かいしゃくこごめばらてき名字みょうじせつ

ただしひら也;そくほう也」,「れいかみ也;ひとし調しらべ也。げん正平しょうへいほうしゃ,莫過於天,やしなえぶつひとし調ちょうしゃ,莫神於地。」[15]

所以ゆえんめいひら以法てん」,はら以法」。どうてき生年月日せいねんがっぴ配合はいごうおこりらいあきら字面じめんうえこう,「たいら公正こうせいてき意思いしたいらただし就是てんてき象徵しょうちょう;「ばらこれまたひろしまたたいらてき地形ちけい[16],就是てき象徵しょうちょうこごめばらてき生辰せいしん和名わみょうせい符合ふごう天開てんかい於子,辟於うし人生じんせい於寅」[17]てき天地人てんちじんさんみつる

经历

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初任しょにんひだり

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こごめはらただしすわえこく貴族きぞく精通せいつう歷史れきし文學ぶんがくあずか神話しんわほら各國かっこくがた勢和せいわ治世ちせいみちじん聰明そうめい口才こうさいこのみ司馬しば遷《史記しきせつ博聞はくぶん強志つよし」、「嫻於辭令じれい」,20とし就做りょうすわえふところおうてきひだりただすわえこくてき宰相さいしょうれいいんていいちきゅうたい內和すわえおう討論とうろん國家こっか大事だいじはつ佈號れい對外たいがい接待せったい賓客ひんきゃくおうづけ諸侯しょこうすわえおう信任しんにんかえゆずるくさなずらえ法令ほうれいまたゆずる他出たしゅつ使ひとしこくれんひとしこうしん足見たるみこごめげん曾是すわえ國兼くにかねかん內政外交がいこうてき重要じゅうよう官員かんいんただしてき改革かいかく精神せいしん措施,卻招來しょうらいりょうすわえこく貴族きぞく大臣だいじん們的反對はんたい嫉妒。反對はんたいしゃてき代表だいひょう就是すわえふところおうてきちょうていそでらん和上わじょうかん大夫たいふ靳尚。這批じんただそう維護自己じこてき貴族きぞく特權とっけん,而忽りゃくりょう國家こっかてきちょうどお利益りえき。这批じんせいてんかこえざいすわえふところおう身邊しんぺん左右さゆうふところおうてき言行げんこうすわえふところおう听信りょう谗言,やややや疏遠りょうこごめばら

だいいちりゅうかん北地きたじ

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荊州てきこごめげんきょがた雕像

すわえふところおうじゅうろくねんぜん313ねん),ためりょうやぶすわえひとし聯盟れんめいしんこくちょうただしおびりょう很多ぎんぜにいたすわえこく活動かつどうちょうただし賄賂わいろりょうすわえこくてきいち批權寵臣ちょうしんまた欺騙すわえおうせつ:「すわえこく如果のうかずひとしこく絕交ぜっこうしんこく願意がんいけんじしょう、於一帶いったいろくひゃく多里たり土地とち[18]れいさとし昏的すわえふところおう聽信りょうちょうただしてきばなし,就把しょうしるし授予ちょうただしふうちょうただし為相ためすけむさぼろくひゃくさとてきしょう、於之しんてきかずひとしこく斷絕だんぜつりょうあいたてめいかえじん跟張しんこく受地。ちょうただしかいはた國後くなしりそうびょうさん個月かげつすわえ使ふところおうかえ以為ちょうただしかいぜっひとし夠堅けつまたじんはずかしめののしひとしおういちつうひとしおうだいいか斷絕だんぜつりょうすわえてきごうたてはん而和しんこく聯合れんごうおこりらいりょう。這時ちょうただしざい出面でづらたいすわえ使せつ:「您為什麼いんも接受せつじゅ土地とち呢?したがえぼういたぼうちょうひろしろくさと[19]ろくひゃくさと變成へんせいりょうろくすわえ使很生ほうふところおうふところおうだいいか先後せんご兩次りょうじきょうはた結果けっかしんはい喪失そうしつはちまん軍隊ぐんたい大將軍だいしょうぐんこごめ裨將ぐん逢侯うしとう70餘人よにんしんぐん俘虜ふりょかえ佔去かんちゅうだいかた土地とち

這時ふところおうややゆう醒悟,「悔不ようこごめ原之はらのさく」,於是ふくようこごめはらゆずる他出たしゅつ使ひとしこくじゅうおさむすわえひとしこれめいしんこく兩次りょうじ大敗たいはいすわえぐんこれ,也怕ひとしすわえ復交ふっこう,於是主動しゅどう提出ていしゅつ退すさかえかん中之なかのてき一半いっぱん以求すわえふところおう恨透りょうちょうただし提出ていしゅつ不要ふようかん中地なかじただようちょうただしあたまはためぐみおうほん同意どういちょうただし卻胸ゆう成竹なるたけせつ:「以我ちょうただし一個人就能抵得上漢中的土地,しん願意がんいいたすわえこく[20]ちょうただしいたすわえ以後いご賄賂わいろりょうていそで、靳尚ながれざいすわえふところおう面前めんぜん一番花言巧語之後,すわえふところおうまたちょうただしきゅうりょうかえしんおうゆいりょう婚姻こんいん關係かんけいひとしいたこごめげん使つかいひとしかいらい說明せつめい利害りがいふところおうそうおいかいちょうただしやめ及,すわえ國對こくたいひとしこくまたいちしつ信用しんようすわえふところおうじゅうよんねんぜん305ねん),すわえまた一次背齊合秦,はたむかいちかしだいねんぜん304ねん),ふところおうかえあずかしんおうかいとげいま河南かなん新野あらたのけん東北とうほく)、接受せつじゅりょうはた退すさかえてきうえいさおこれいま湖北こほく竹山たけやまけん)。當時とうじこごめげん雖竭りょく反對はんたい結果けっかただし無效むこうはん而遭到りょうだいいちりゅうながれいたりょうかん北地きたじいま安康あんこう一帶いったいかんすいうえゆう地區ちく)。

すわえふところおうじゅうろくねんぜん303ねん),ひとしかんたかし三國みくにおさむすわえこえ討楚違背いはいたてやくすわえこうはたもとむすくえかえ太子たいしおくいたしん國作こくさく人質ひとじちだいねんすわえ太子たいしころせりょうはた大夫たいふ逃回にげまわすわえこくぜん301ねんすわえふところおうじゅうはちねんはた以此ためくち聯合れんごうひとしかんおさむすわえころせすわえしょうから,佔領りょうじゅうおかこん河南かなん泌陽けん東北とうほく)。だいねんまたおさむすわえ消滅しょうめつすわえぐん2まんまたころせすわえしょうけいかけ。這時ふところおうざいまた想起そうきひとしすわえ聯盟れんめいてき重要じゅうようゆずる太子たいししつ於齊おさい以求ひとしすわえ聯盟れんめいはんしんぜん299ねんはたまたおさむすわえすわえ八城やしろ。趁這形勢けいせいはたあきらじょうおう「邀請」ふところおうざいたけせきいま陝西せんせいしょうしょうらくしょうしゅうひがししょうかい

こごめげん此時やめしたがえかんきたてきりゅうかえしかい担任たんにんさん大夫たいふてのひらかんこごめけい昭三しょうぞう谱牒,主持しゅうもち祭典さいてん管理かんりこうぞく教育きょういくあきらとう一起かずきちからすすむふところおう不要ふよう赴會,せつ:「はた虎狼ころうくに不可ふかしんじ如無ぎょう。」ふところおうてき幼子おさなごらん怕失しんおう歡心かんしん,竭力慫恿ふところおうまえ結果けっかふところおう一入ひとしおたけせき,就被しんぐん扣留,こう咸陽ようおびえ割讓かつじょうみこぐん黔中ぐんすわえふところおうこう往咸すわえよしひとしむかいかえり太子たいしよこりつためころじょうおう公子こうしらんためれいいん肯向しん割讓かつじょう土地とちはたまたはつへいおさむすわえ大敗たいはいすわえぐん斬首ざんしゅ5まんじゅうろくしろぜん296ねんごろじょうおうさんねんふところおう于秦こくしんこくはたてき屍體したいおくかいすわえ國安くにやすそうすわえ國人くにびと憐憫れんびん,如同哀悼あいとう自己じこてき父母ちちはは兄弟きょうだい諸侯しょこうよし此認ためしんこく不義ふぎしんこくすわえこく斷絕だんぜつ交往。

だいりゅう江南こうなん地區ちく

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こごめはら

ぜん293ねんごろじょうおうろくねんしんこくしろおこりぜんおさむ韓國かんこく取得しゅとく重大じゅうだい勝利しょうり斬首ざんしゅ24まんしんこく於是おくきゅうすわえおう書信しょしんせつ:“すわえこく背叛はいはんしんこくしんこく準備じゅんびりつりょう諸侯しょこう討伐とうばつすわえこくけついち勝負しょうぶ希望きぼう整頓せいとん士卒しそつとく痛快つうかいいちせん。”すわえごろじょうおう憂慮ゆうりょ,就謀劃再あずかしんこく講和こうわ。這對こごめばららいせつ絕對ぜったい不能ふのうようにんてきすわえこく人民じんみんいちよう,一方面責怪子蘭不該勸懷王入秦,以至使ふところおうざいしんこくまたせめかい該慫恿頃じょうおうこうしんこくこごめひざ投降とうこううつし抒情じょじょうひょうたちりょう眷顧けんこすわえこく,繫心ふところおう忘欲はんてき感情かんじょうまた指出さしでふところおう最後さいご落到客死かくし他國たこくてき下場げば,就是いんため「其所謂いわゆるちゅうしゃ不忠ふちゅう,而所謂いわゆる賢者けんじゃ賢也けんや」。這對らん形成けいせいりょうおびえ,於是らんゆび使靳尚いたころじょうおうめん前進ぜんしん讒,使つかいこごめげんだい二次被流放到南方的荒僻地區。這次りゅうてき路線ろせん,按《あい分析ぶんせきしたがえ郢都(湖北こほくしょうこうりょうけん出發しゅっぱつさき往東みなみじゅんこう而下經過けいかなつくび湖北こほくしょう荆州すな市区しく東南とうなん)、はるかのぞむりゅうもん(郢都てき東門ひがしもん經由けいゆほらにわみずうみ進入しんにゅう長江ながえしかまたはなれひらきりょうなつうら湖北こほくかんこう),最後さいごいたりょうりょうよりどころせついま安徽あんきあおようけんみなみ)。

うつしさく

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したがえごろじょうおうろくねんいたじゅうはちねんすわえこく基本きほんじょうしんこく掌握しょうあく,俯首聽命,敢動だんこごめげんたい此痛こころやましくび,卻又無能むのうためりょくちょ國勢こくせいじゃく民生みんせい艱,ただこう以詩らい抒發自己じこ憂國ゆうこくゆうみんてき心情しんじょう[21]

自盡じじん

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陈洪绶こごめぎょうぎん图》

はたあきらじょうおうたいすわえごろじょうおうてき妥協だきょう退すさゆずるなみ滿足まんぞくすわえごろじょうおうじゅうきゅうねんぜん280ねん),はたすすむ司馬しばおさむすわえすわえ割讓かつじょううえいさおかんきただいねんはたしろおこりおさむすわえよこしま西陵せいりょうごろじょうおうじゅういちねんぜん278ねんしろおこり更進こうしん一步攻下了郢都,ごろじょうおうただこう跟那些執政しっせいてき貴族きぞく們一おこり狼狽ろうばい不堪ふかん逃難いたりちんみやこ,「ひねじょういま河南かなん淮陽けん)」。《あい郢》所說しょせつ

すめらぎてん不純ふじゅんいのち兮,なに百姓ひゃくしょうふるえ愆?みん離散りさん而相しつ兮,ぽう仲春ちゅうしゅう東遷とうせん。」

就是描述這一片倉惶混亂的狀況。こごめはらざい這前,曾沿江西えにしじょうかえそう一看這滿身瘡痍的祖國和他終身輔佐的楚王。結果けっかただいたつよはたてき步步ほほすすむ逼、すわえこく朝廷ちょうていてき腐敗ふはい昏庸。そうためすわえおう奔走ほんそう以先」,「雖九死其猶未悔」てきこごめはらちょ祖國そこくいち步步ほほはしこう滅亡めつぼう自己じこ不能ふのうゆういちてん作為さくい,就埋りょう以身殉國じゅんこくてき思想しそう鄂渚湖北こほくたけあきら),いれほらにわさかのぼ沅水けい枉陼湖南こなん常德じょうとくたけりょうけんいたりたつ湖南こなんたつけい),またおり向東むかいひがしみなみにゅう溆浦暫時ざんじ停留ていりゅうらいひさまたした沅江にゅうほらにわわたり湘水いたりょうちょうすな附近ふきんてき汨羅こうすわえはたおさむやぶのちざい極度きょくど苦悶くもん完全かんぜん絕望ぜつぼうてき心情しんじょう,於のうれきがつにちとうこう自盡じじんりょうやくためまえ278ねん6がつ6にちごろじょうおうじゅういちねん當時とうじこごめげん62さい左右さゆうちょくいたり55ねんてきまえ223ねんすわえこくしんしょめつ

こごめ原作げんさく漁父ぎょふ》,藉與いちめい道家みちや思想しそうてき漁夫ぎょふてきたいこたえ表明ひょうめい自己じこあずか沉浮てき決心けっしん:

こごめげんすんでゆう於江潭,ぎょうぎんさわほとり顏色かおいろ憔悴しょうすい形容けいよう枯槁。漁父ぎょふ而問曰:“三閭大夫與!何故なぜいたり於斯?”こごめげん曰:“舉世みなにごわがどくしん,眾人みなよいわがどく醒,以見。”漁父ぎょふ曰:“聖人せいじん凝滯ぎょうたい於物,而能あずか推移すいい世人せじんみなにごなに淈其どろ而揚其波?眾人みなよいなに餔其かす而歠其釃?何故なぜふかおもえだか舉,れいため?”こごめげん曰:“われ聞之,しん沐者必彈かんむりしんよくしゃ必振ころもやすのう以身察察,受物汶汶しゃ乎?やすし赴湘りゅうそう於江ぎょ腹中ふくちゅうやすのう皓皓こうこうしろ,而蒙世俗せぞく塵埃じんあい乎!”漁父ぎょふ莞爾かんじ而笑,つづみ枻而,乃歌曰:“滄浪みずきよし兮,以濯われえい;滄浪みずにご兮,以濯われあし。”とげふくあずかげん[22]

作品さくひん

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こごめはらただし詩人しじんしたがえ開始かいし中國ちゅうごくざいゆうりょう以文がく著名ちょめい於世てき作家さっか創立そうりつりょうすわえ」這種文體ぶんたいほまれためころもじんいちだい[23]」。とめてき作品さくひんよりどころ漢書かんしょ·藝文げいぶんこころざし記錄きろくども25へん。雖然ゆうてき篇章へんしょうためこごめげん所作しょさかえゆううたぐただし確定かくていこごめげん作品さくひんてきかえ佔多すう。如《はなれ》,就是こごめはらさい主要しゅようてき代表だいひょう作品さくひん描寫びょうしゃすわえこくてき特殊とくしゅ名物めいぶつこごめげん作品さくひん充滿じゅうまん濃厚のうこうてき浪漫ろうまん主義しゅぎあずか地方ちほう色彩しきさい,「しょすわえさくすわえごえきのすわえめいすわえぶつ」,吸收きゅうしゅう神話しんわ傳說でんせつ素材そざい感情かんじょう激越げきえつ熱烈ねつれつ奔放ほんぽううつし人情にんじょうこころざしあずか想像そうぞう想像そうぞう豐富ほうふ善用ぜんようきょうあずか誇張こちょう手法しゅほうかたりげん運用うんようじょうこごめげん作品さくひん突破とっぱ詩經しきょう格式かくしき運用うんよう「兮」、「些」、「ただとうきょ助詞じょしきょう節奏せっそうかん音樂おんがくかんなみ常見つねみそうこえ疊韻じょういんたいあずか疊字じょうじ

《离骚》

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はなれ》訴說こごめばらてき政治せいじ理想りそう批評ひひょう群小ぐんしょうてき誹謗ひぼう打擊だげきあずかすわえおうてき妄信もうしん讒言ざんげん理想りそう雖遭破壞はかいただし自己じこけつ妥協だきょう。《はなれ騷》しつらえそう上天じょうてん下地したじうえ叩帝閽,ただしてんもんひらけこごめげんひねこころざしみち,於是ゆう國遠くにとお逝之おもえまた望見ぼうけん自己じこてき故鄉こきょう最後さいご決定けってい以身殉國じゅんこく

はなれ騷》こごめげんざいりゅうなかてき代表だいひょう作品さくひん也是一生いっしょうちゅうさい偉大いだいてき詩篇しへんぜんへんさんひゃくななじゅうさんぎょうきょうせんよんひゃくきゅうじゅうこごめはらすすむてき思想しそう感情かんじょう想像そうぞう人格じんかく融合ゆうごうためいち通過つうか綺麗きれい絢爛けんらんてきぶんさい高度こうどてき藝術げいじゅつ手法しゅほうかたぶけ自己じこてき歷史れきし遠大えんだいてき政治せいじ理想りそうひょうたちたい於昏いさお王室おうしつ腐敗ふはい貴族きぞくてきいきどお恨,也表たちりょうあずかけん妥協だきょうてき意志いし流露りゅうろあい國家こっかあい人民じんみんてき深厚しんこう感情かんじょう。《はなれ騷》具有ぐゆう浪漫ろうまん主義しゅぎ色彩しきさいゆう其是はんへん表現ひょうげんどくさられつ。它採用さいようりょうきょう手法しゅほう,以生動的どうてき喻,營造えいぞういちしゅ幽遠ゆうえんてきさかい詩人しじんかえ大量たいりょう利用りよう神話しんわ傳說でんせつ歷史れきし人物じんぶつ日月じつげつ風雲ふううん山川やまかわりゅうすなとう構成こうせい一幅異常雄奇壯麗的圖畫。《はなれ騷》ぶんさい絢爛けんらん結構けっこうひろしえら形式けいしきおおへん敘事、抒懷幻想げんそう交織こうしょくざい一起かずきたい後世こうせい文學ぶんがくてき藝術げいじゅつ技巧ぎこう啟發けいはつ甚多。

きゅうしょう

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きゅうしょう包含ほうがんふところすな》、《惜誦》、《わたるこう》、《あい郢》、《抽思》、《おもえ美人びじん》、《惜往》、《たちばな颂》かず《悲回ふう》。其中《惜往いちへんそうりょうおうきよし曾國はんなんじとう懷疑かいぎこごめげん所作しょさ[24]

あい郢》

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あいかたぶけ訴他たいこく淪陷國家こっか前途ぜんとてき無限むげん哀傷あいしょうたい人民じんみんてき顛沛流離りゅうりそくよせ深厚しんこうてき同情どうじょうなみゆび出國しゅっこくやぶいえほろびてき原因げんいんほんへんさく於秦はたしろおこりやぶ郢,すわえおう遷陳これねん,敘述はるてんはなれひらき郢都,經過けいかなつくびほらにわ而至なつうら路程ろていとお悲痛ひつうふかへん中有ちゅうう百姓ひゃくしょうふるえ愆,人民じんみん離散りさんだいなつためおか東門ひがしもん荒蕪こうぶてきばなし確實かくじつゆうこくやぶいえほろびこれつうへんちゅう強烈きょうれつ表示ひょうじあまねがい故鄉こきょうかずきず悼鄉故國ここくてき深厚しんこう情感じょうかんよし此在《あい郢》ちゅうしょ表現ひょうげんてき感情かんじょうさいため憂鬱ゆううつさいためあい

《怀沙》

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ほんへん敘述こごめげんしたがえ西南せいなんてき漵浦いた東北とうほくてき汨羅てき作品さくひんこごめげん絕命ぜつめいぜん久之ひさゆきさく表現ひょうげん情感じょうかんごくため沉痛。

《抽思》

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うつし放逐ほうちく異域いいき伶仃てきじょうふところこごめげん一面追念北上的君王,一面又懷戀南方的故都。よしため心中しんちゅうのせきあつ國家こっか鄉愁きょうしゅう種種しゅじゅ痛苦つうくてき感情かんじょう所以ゆえんさんせい一股難以排遣的哀怨。

おもえ美人びじん

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またため思念しねんふところおうさくさく《抽思》ふところおうゆう「惸獨ぐんなかだちざいがわ歎;いたりょうおもえ美人びじん》,ふところおう可能かのうやめゆうなかだちぜっ阻」これそう抒發あいじょうただこうよせげん於浮くも,致辭於歸とりりょう

たちばな頌》

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通過つうか描寫びょうしゃたちばなてき形態けいたい,以歲さむ凋的けんさだ品格ひんかくなずらえ自己じこ秉承天賦てんぷ美好みよしてき本質ほんしつ堅守けんしゅしんだかてき立場たちば,而不かいずい逐流。

てん问》

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たい自然しぜん現象げんしょう神話しんわ傳說でんせつ古代こだいごと提出ていしゅついちひゃく問題もんだいこごめげん放逐ほうちく以後いご憂鬱ゆううつ徬徨,精神せいしん上起かみおこしりょう劇烈げきれつてき動搖どうようきゅう信仰しんこう完全かんぜん崩潰ほうかいたい自然しぜんかい現象げんしょう古代こだいてき歷史れきしせい績,宗教しゅうきょう信仰しんこう,以及自己じこてき人生じんせいかんおこしりょう懷疑かいぎいん發出はっしゅつ種種しゅじゅ問題もんだいせい司馬しば遷所せつてきごくよびてんひときゅうはんほんてき意思いしざいへんちゅうこごめげん提出ていしゅつりょう百多個關於自然現象、神話しんわ傳說でんせつ古代こだいごとてき問題もんだいざい古史こし神話しんわがくてき研究けんきゅうじょうごく有價ゆうか值。

ほんへん無論むろん內容形式けいしきあずか情調じょうちょうあずかこごめげん其他てき作品さくひん不同ふどう顾頡つよしとう懷疑かいぎこごめばらてき作品さくひん[25]

きゅううた

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つてため宋朝そうちょうちょうあつしれい所作しょさてききゅううた局部きょくぶ

きゅううた一套祭祀神鬼的舞曲。它的原始げんし材料ざいりょう大部おおぶ份是すわえ國民こくみんあいだてき祭神さいじん歌曲かきょく南方なんぽう各地かくち流行りゅうこうてきみこさい編成へんせいらくまい合一ごういつてき祭祀さいし鬼神きじんてき舞曲ぶきょくごくとみ浪漫ろうまん色彩しきさい中國ちゅうごく歌舞かぶてき雛形ひながた。內容包括ほうかつひがしすめらぎ太一たいち》(みこととうとてき天神てんじん)、《くもちゅうくん》(くもしん一說いっせつため雷神らいじん[26])、《湘君かず湘夫じん》(あいしん)、《だいつかさいのちかずしょうつかさいのち》(いのちしん)、《ひがしくん》(にちしん)、《かわはく》(かわしん)、《やまおに》、《くに》、《れいたましい》(歌劇かげきてきごえ)。

やまおにぜんへん山間さんかん女神めがみてき獨白どくはく,訴說自己じこ思慕しぼ戀人こいびとたい愛情あいじょうてきちゅうさだせんちゅう。《くに殤》追悼ついとう為國ためくに犧牲ぎせいてき將士しょうしうつし戰爭せんそう場面ばめんてき慘烈さんれつあずか戰士せんしてき勇敢ゆうかんころせてき悲壯ひそう成仁しげひと

そう

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こごめはらただし存在そんざい

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1906ねん廖平さくすわえしんかい其他则为“こごめしょ传”,而“《すわえ》为孔てんがく,《诗》传记,あずか道家みちや别为一派いっぱ”。1918ねん平又ひらまたさく变记》しょうすわえ》“辞意じいじゅう复,いちにん著述ちょじゅつ,乃なな十博士为始皇所作仙真人诗,さい风雅ほろげん,以应时君いのち”。

1922ねんえびすてきざい《讀楚ちゅうせんしょう︰“《きゅううたあずかこごめばらてき傳說でんせつ絕無ぜつむ關係かんけいほそ內容,這九篇大概是最古之作,當時とうじ湘江民族みんぞくてき宗教しゅうきょう歌舞かぶ。……こごめはらただしだれ?這個問題もんだいぼつ有人ゆうじんはつといてきわが現在げんざいただしようといこごめはらただし什麼いんもじんなみ且要もんこごめげん這個じん究竟くっきょうゆうぼつゆう?”[27]

曾在台湾たいわん辅仁大学だいがくにんきょうてき学者がくしゃ卫聚贤则认为“こごめばら”实际じょう西にし汉名しん贾谊认的“冤屈”颠倒うつしほう所以ゆえんぼつゆうこごめげん这个じん

地位ちいあずか評價ひょうか

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司馬しばひかりみとめためこごめはら沉汨罗江ぶしいん此《どおりかんうらなみぼつゆう記載きさいこごめばらてき事蹟じせき[28]

きよしみちこう年間ねんかん思想家しそうか文学ぶんがく汤鹏:“ゆえつばめめぐみおうゆう乐毅不能ふのうようすわえ怀王ゆうこごめひら不能ふのうよう项羽ゆう范增不能ふのうよう汉文ゆう贾谊不能ふのうようからとくむねゆう陆贽不能ふのうようそうかみはじめゆう苏轼不能ふのうよう,此左右さゆう谮愬つみ也,此乾坤けんこん憾事也。”

ちゅう人民じんみん共和きょうわこくつよし成立せいりつひさためりょう呼應こおう世界せかい和平わへい理事りじかいそう國際こくさい地位ちい中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく文化ぶんか決定けっていよし郭沫若かくまつじゃくゆうこくおんていとうひと組成そせいこごめげん研究けんきゅうしょうぐみ」,なみはたこごめばらてき作品さくひん整理せいりなりしゅう,以白話はくわぶんてき形式けいしき出版しゅっぱん發行はっこう[29]

こううらら文人ぶんじん奎報ざい東國とうごく相國しょうこくしゅうちゅうさくこごめはらむべろん”以評價ひょうか:“ゆうころせ以成じんわかしゃやめゆうころせ以成ぶししゃわかはくえびす叔齊やめとう紂時。其惡不可ふか諫。諫而其誅。其所而成其仁也。とらおう紂。なおゆう慙德。凡在義士ぎし不可ふかにんちく。扣馬而諫。諫而聽。はじしょく其粟而死。またとく其所而成其節也せつやわかすわえこごめばらきょ於是。とく其所。祇以あらわくんあくみみおっと讒說蔽明。よこしま諂之がいただし而然。すわえこく君臣くんしん而已。はら以方せいはし直之なおゆきこころざしためおうちょうぐう專任せんにん國政こくせいむべ乎見同列どうれつ妬嫉也。ため上官じょうかん大夫たいふしょ譖。疏於おう。此固つね不足ふそく以爲恨者也。はら於此むべおう寤。めつ迹遠遁。こん于常りゅう。庶使其王あくややひさ而稍めつ也。はらしかふくよくよう於襄おうはんためれいいんらんしょ讒。放逐ほうちくこう潭。さく湘之纍囚。いたり雖欲遁去。其可とく乎。ゆえ憔悴しょうすい其容。くだりぎんさわほとり作爲さくいはなれ騷。ゆう怨曠譏とげのりまたあし以顯くんあく。而乃ふくとうすい而死。使つかい天下でんかひとふかとがめ其君。乃至ないしすわえぞくためきおいわたりきょく。以慰其溺。賈誼さくとうすいぶん。以弔其冤。えき使おうあくだい暴於まんせい矣。湘水ゆうつき。此惡なんめつ。且紂あくひさやめ浮於天下でんか。雖比不死ふしめんためどくおっと而取とげまんせい矣。とらおうきょ大義たいぎ忘小いやそつおう天下でんか功業こうぎょうほどこせまんせい矣。のり其德以二子之死大損也。きょう二子非虎王之臣也。乃紂しん。諫伐其君而死。以成其節也せつやなにあずか於虎おう哉。わかふところおうそく聽讒疏賢而已。當時とうじ此事。くにこれはらわか不死ふしのりおうあくそう至大しだい甚。われ曰。はら其所。以顯其君あくみみ此論。乃所以ゆえん雪原せつげん冤。而益貶其くんあく。庶以諷後しんじ讒斥けんみみかたそしげん也。惜也其死其所むべ也。嗚戲。”

こう世紀せいきねん

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きのねんこごめはらただし華人かじん端午たんごぶし特有とくゆう習俗しゅうぞく,图中为しん四马路的端午节灯饰
纪念邮票:中国ちゅうごく诗人こごめはら

每年まいとしてきのうれきがつはつため端午たんごぶし,东亚各地かくちてきじん們會ざい这天ねんこごめばら

すわえこく人民じんみんじゅうふん想念そうねんこごめはら民間みんかん流傳りゅうでんどもちまきさいりゅうぶねてき習俗しゅうぞく都和つわこごめはらゆうせきさいりゅうぶね相傳そうでんためりょう撈屈ばらてき屍體したいある以鼓ごえ嚇走どもこごめげん遺體いたいてきさかな。(一說是為了紀念越王勾踐みさおねりすい[30]另說そくねん[31]仍然充分じゅうぶん反映はんえいりょうじん們對こごめばらてき熱愛ねつあい,也說明せつめいりょうこごめはらざいひと們心ちゅうてき地位ちい

吴钧ぞくひとし諧記記載きさいよりどころせつこごめげん死後しごにん們投さいこごめばらてき食品しょくひん蛟龍こうりょう搶走りょう,而蛟りゅう忌憚きたんおうちじゅしょくいとせん所以ゆえんじん們就まいつつみなりちまき子來こらい祭祀さいしこごめはら[32]。另說そくねん[33]

這些傳說でんせつ不可ふかもたれよりどころ聞一おお端午たんごこう考證こうしょうざいこごめげんとうまええつ一帶已有端午節存在,ただししたがえこごめげん2200多年たねんぜん逝世一直到今天,中國ちゅうごく社會しゃかい主流しゅりゅうしょ公認こうにんてき一直是端午節祭祀屈原。[34]

よし於屈はらただしくん愛國あいこく,卻不とく自殺じさつ於江あたり後人こうじんはた其奉ためもろ水仙すいせんおういちみとめためこごめげん在天ざいてんれい以保たすく漁民ぎょみん船員せんいん及水じょう貿易ぼうえきしょうたび

中国ちゅうごく火星かせいさがせ测任务命名めいめい为“てん问一ごう”,「てんとい」一詞即取材自《すわえちゅうこごめはらしょ創作そうさくてきちょうてんとい》,以此提出ていしゅつ自己じこてき疑問ぎもんひょうたちりょうたい真理しんりしるてき追求ついきゅう。此命名めいめいなみため火星かせい任務にんむてき專屬せんぞく命名めいめい,其他てきぎょうほし任務にんむはた也會以此ため命名めいめい方向ほうこうただへんごう不同ふどう[35]

参考さんこう资料

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  2. ^ そん副本ふくほん. [2021-02-23]. (原始げんし内容ないようそん于2021-03-13). 
  3. ^ こごめはらはなれ騷》页面そん档备份そん互联网档あん),「みかどだか苗裔びょうえい兮,ちん皇考こうこう曰伯いさお。」
  4. ^ はやしほうこごめはらしょにんてきひだり到底とうてい什麼いんもかん?》2006/11. [2017-10-18]. (原始げんし内容ないようそん档于2017-10-12). 
  5. ^ 史記しき-こごめげん列傳れつでん. [2017-10-18]. (原始げんし内容ないようそん于2017-10-19). 
  6. ^ 郝永娟《史記しき-たいおおやけ自序じじょ. [2017-10-18]. (原始げんし内容ないようそん于2017-10-19). 
  7. ^ すわえ-きゅううた-あい郢》. [2017-10-18]. (原始げんし内容ないようそん于2017-10-07). 
  8. ^ 怀沙. so.gushiwen.org. [2020-10-24]. (原始げんし内容ないようそん于2020-08-12). 
  9. ^ こごめせい起源きげん》2011/10. [2017-10-18]. (原始げんし内容ないようそん于2017-10-19). 
  10. ^ かいめぐみぜん/张德萍《ふみ记-项羽ほん纪》. [2017-10-18]. (原始げんし内容ないようそん于2017-10-19). 
  11. ^ しゅうけんちゅう/鸟瞰すわえ研究けんきゅうてきひゃくねんもり 互联网档あんてきそんそん档日2007-08-16.
  12. ^ こごめ原生げんせい於楚せんおうおつねんそくぜん366ねんなつれき正月しょうがつ。(きよしだいりゅうゆめおおとりこごめりゃく》)こごめ原生げんせい於楚せんおうじゅうよんねんへいとらそくぜん355ねんなつれき正月しょうがつ。(きよしだいりゅう耀湘《こごめへんねん》)こごめ原生げんせい於楚せんおうつちのえとらねんそくぜん343ねんなつれき正月しょうがつじゅういちにちかのえとらてき。(きよしだい鄒漢くんこごめ子生こなじそつ年月日ねんがっぴこう》、りゅうつちかえこよみかん窺》及今じんゆうこくおんすわえ概論がいろん》、せんきよしさきしん諸子しょしけいねんかずちょうなんじぶね《二毋室古代天文曆法論叢》とうこごめ原生げんせい於楚せんおうじゅうろくねんつちのえとらそくぜん343ねんなつれき正月しょうがつじゅうにちかのえとらてき。(きよしだいひね瑒《こごめ子生こなじそつ年月としつきこう》)こごめ原生げんせい於楚せんおうじゅうななねんおのれねんそくぜん342ねんなつれき正月しょうがつじゅうろくにちかのえとらてき。(炳正)こごめ原生げんせい於楚せんおうじゅうきゅうねんからしそくぜん340ねんなつれき正月しょうがつはつななかのえとらてき。(郭沫若かくまつじゃくこごめげん研究けんきゅう》)こごめ原生げんせい於楚おうみずのえうまねんそくぜん339ねん正月しょうがつじゅうよんにちかのえとらてき。(浦江うらえきよしこごめげん生年月日せいねんがっぴてき推算すいさん問題もんだい》)こごめ原生げんせい於楚おうへい戌年いぬどしそくぜん335ねんなつれき正月しょうがつはつななにちかのえとらてき。(はやしかのえこごめげん生年せいねんそつこんこう》)こごめ原生げんせい於楚せんおうじゅうはちねんそくぜん341ねん)“しゅうただし正月しょうがつかのえとら。(ちんひさきんこごめげん生年せいねんこう》)こごめ原生げんせい於楚せんおうじゅうはちねんそくぜん341ねん)“しゅうただし正月しょうがつはつまたそくなつただしぜん342ねんじゅうがつはつ。(はん嘯龍《ろんとしぼし紀年きねん”及屈原生げんせいねん研究けんきゅう》)
    こごめ原生げんせい於前352ねんのうれき正月しょうがつじゅうななにちかのえとら。(高正たかまさこごめ原生げんせいそつねん考證こうしょう》)こごめ原生げんせい於前353ねんのうれき正月しょうがつじゅうさんにちかのえとら。(えびすねん贻《こごめげん生年せいねんしんこう》)
  13. ^ そくひさげかくはなれ騷中簡稱「ひさげ」)
  14. ^ 14.0 14.1 ひらめ正則せいそく)、はられいひとし),請參考さんこう正則せいそくあずかれいひとしこごめばらてきめい和字わじ嗎? Archive.isてきそんそん档日2007-09-01
  15. ^ すわえ補註ほちゅう 互联网档あんてきそんそん档日2007-05-05.
  16. ^ しかみやびしゃく》:「廣平ひろへい曰原」
  17. ^ 四書ししょあきら句集くしゅう註/論語ろんごしゅう註捲はち/まもるれいこうだいじゅう. [2007-07-17]. (原始げんし内容ないようそん于2016-10-01). 
  18. ^ すわえまことのうぜっひとししんねがいけんじしょう於之ろくひゃくさと
  19. ^ なん受地?したがえぼういたりぼうこうろくさと
  20. ^ 以一儀而當漢中地,しん請往如楚。
  21. ^ こごめ原因げんいん而而きん千年的谜底终于要揭开了!ただいん这件ごとしょ. www.sohu.com. [2024-01-26]. (原始げんし内容ないようそん于2018-06-04). 
  22. ^ すわえ補註ほちゅうまきなな漁父ぎょふ
  23. ^ りゅう勰在《ぶんこころ雕龍·べん騷》ちゅう所說しょせつ:"ころもじんいちだい也!",ほまれこごめげんたい中國ちゅうごく文學ぶんがくてき貢獻こうけん
  24. ^ きむひらくまことこごめげん研究けんきゅう》。
  25. ^ 顾頡つよし中國ちゅうごく上古じょうこ講義こうぎ》。
  26. ^ でんすずみずのえ註譯. 新譯しんやくすわえ讀本とくほん. 臺北たいぺいさんみんしょきょくだいきゅうはん,1992ねん:59. ISBN 957-14-0739-9
  27. ^ 努力どりょくしゅう报》《读书杂志》1922ねんだい
  28. ^ あきら公武こうぶぐん斋读书志》评《つう鉴》说: “大抵たいていさいしゅん伟卓异之ごと,如屈げん怀沙自沈じちん,四皓羽翼嗣君,严光あしみかどはら,姚崇十事开说之类,みなそぎ录。”
  29. ^ 文化ぶんか人物じんぶつぶんふところすな:“えついち騷客そうかく. [2007-07-21]. (原始げんし内容ないようそん于2007-08-21). 
  30. ^ 事物じぶつ原始げんし·はし》:「越地こえちでんうんきおいわたりことおこり於越おう勾踐,こんりゅうぶね是也これや。」
  31. ^ 荊楚歲時記さいじき》:按,五月ごがつにちきおいわたりぞくためこごめげんとう汨羅きず其死しょなみいのちぶねかじ以拯邯鄲かんたんじゅん曹娥うん五月ごがつにちむかえくん……斯又ひがしくれぞくことざい胥,せきこごめひら也。
  32. ^ 《续齐谐记》记载:“こごめげん以五月五日投汨罗而死,すわえあいまい于此,以竹とう贮米とうすいさい”。
  33. ^ 蘇州そしゅうこころざし》.增補ぞうほ:“さとぞくうま以粽たてまつ大夫たいふこごめげん也。”
  34. ^ ほど蔷. 民俗みんぞく文化ぶんか资源あずかじゅう铸民ぞくたましい———闻一多论端午的启示. 《人民じんみん论坛》. [2015-08-09]. (原始げんし内容ないようそん于2016-03-04). 
  35. ^ 中國ちゅうごく火星かせい探測たんそく任務にんむ 命名めいめいてんといいちごう. 中央ちゅうおうどおり訊社. 2020-04-24 [2020-04-24]. (原始げんし内容ないようそん于2020-04-24). 

參考さんこう書目しょもく

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延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:史記しき/まき084》,出自しゅつじ司馬しば史記しき