曾国はん

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重定しげさだこう曾國はん
曾國はん
曾国藩


だいきよしおくふとでん武英たけひで殿どのだい學士がくしりょうこう總督そうとく一等いっとうあつしいさみこう
爵位しゃくい 一等いっとうあつしいさみこう
せきぬき 湖南こなんしょう湘乡县
ぞく かんぞく
原名げんめい はつ,谱名传豫
ごう はくごう涤生
諡號しごう 文正ふみまさ
出生しゅっしょう よしみけいじゅうろくねんじゅうがつじゅういちにち
(1811ねん11月26にち
湖南こなんしょうちょうすな湘乡县
逝世 どうじゅういちねんがつはつよんにち
(1872ねん3がつ12にち
江蘇ちぁんすーしょうこう宁县
はかそう 曾国はんはか
配偶はいぐう おう
おやぞく ちち)曾麟しょ
おとうと曾國荃 曾國葆(曾貞みき)
曾紀さわ曾紀おおとり
おんな曾纪芬
出身しゅっしん
  • みちこうじゅう四年湖南鄉試三十六名舉人
  • みちこうじゅう八年戊戌科三甲第四十二名同进士出身
著作ちょさく
  • 《曾文せいおおやけ全集ぜんしゅう

曾国はん(1811ねん11月26にち—1872ねん3がつ12にち),原名げんめいじょうはくごう涤生湖南こなん湘乡ひと[1]:702なま清朝せいちょう长沙しろ杨坪(现属湖南こなんしょう婁底そうみねかのう天子てんしつぼ),谱名传豫そう曾子ななじゅうせい孙(けい曾氏みなみむね[2]ばんきよし時期じきてき重臣じゅうしんめいしん功臣こうしん,湘軍創始そうしじん領袖りょうしゅう,也是中國ちゅうごく近代きんだい重要じゅうよう政治せいじ军事理学りがく書法しょほう思想家しそうか文學ぶんがく詩人しじん外交がいこう實業じつぎょう改革かいかく儒生じゅせいあずかえびすはやしつばさ並稱へいしょう曾胡あずかばんきよし另一重臣じゅうしん鴻章こうしうゆう關係かんけいみちこう進士しんし,曾任四川鄉試正考官、翰林院かんりんいん侍講じこう學士がくし、內閣學士がくしとう,擢禮みぎさむらいろうれきしょへい、吏部さむらいろう[1]:702。1852ねんたてまつむねぐみ辦湘ぐん以平いたいらてい太平たいへい天國てんごくみだれ,其所創立そうりつてき湘軍さらなりためばんきよしてきはた,曾國はんまたいん此地大幅おおはばじょうますなりためかんしんくび同時どうじまた擴大かくだいりょう地方ちほう權力けんりょく,其門せい朋友ほうゆうさらあまねぬの天下でんか勢力せいりょくはば及整かんじょう。1860ねん8がつ,授曾りょうこう總督そうとく欽差大臣だいじんとく辦江みなみ軍務ぐんむ[1]:703ひろ太子たいしふとしふう一等いっとう侯爵こうしゃく[1]:703翌年よくねん開始かいし曾國はん支持しじきょう親王しんのう奕訢主持しゅうもちてきようつとむ運動うんどう大力だいりき支持しじ地方ちほうきょう辦實ぎょうつつみ倡以平等びょうどう外交がいこう方式ほうしきたいまちようじんしたがえ而成ため慈禧ふとしきさきてき重臣じゅうしん。1871ねんたてまつむね處理しょり天津てんしん教案きょうあん」,ただしいんあずかようじんふく而遭到天下でんかつばののし,甚至諷為「曾國賊こくぞく」,いん此積ろうなりやまし結果けっか翌年よくねん3がつ病死びょうし南京なんきん享年きょうねん61さい,谥文正ふみまさ[3]。曾國はんあずか徒弟とてい鴻章こうしうひだりはじめちょうほら并稱「ばんきよよん大名だいみょうしん」,かんいたり武英たけひで殿どのだい学士がくしどう年間ねんかんふう一等いっとうあつしいさみこうまた袭罔がえゆう曾文せいおおやけ全集ぜんしゅう[1]:703

1864ねん7がつ,曾国はんかず曾国荃りつ湘军おさむやぶとう时的太平たいへい天国てんごく首都しゅとてんきょういま南京なんきんきさきほふしろ伤无すう南京なんきん百姓ひゃくしょういたりこん仍以“曾剃头”、“曾屠户”とう称呼しょうこ曾国はん、曾国荃兄弟きょうだいまたゆう一說いっせつ,“曾剃头”此一外號來自曾國藩治軍極嚴,しょうそくごうしょう「以霹靂へきれき手段しゅだんあらわ菩薩ぼさつこころちょう」。

中国ちゅうごく近代きんだいうえ两位著名ちょめい人物じんぶつ中正ちゅうせいもう泽东高度こうど评价过曾こくはん青年せいねん时代てき泽东曾说“しょ谓本げんしゃ,倡学而已矣。博学はくがく如基础,こんひと无学,もと础不あつ,进惧倾记。于近じんどくふく曾文ただし,观其收拾しゅうしゅうひろしいちやくかん满无かけ使つかい以今じんえき其位,其能如彼かん满乎[4]?”そく使つかいざい晚年ばんねん还曾说:「曾国はんただし地主じぬし阶级さい厉害てき人物じんぶつ。」蔣中せい对曾こくはんさら顶礼まくはい,认为曾国はん为人みち,“あし为吾じん师资”,“其著作ちょさく为任なん政治せいじしょ必读”。曾胡へい语录とうさくきょう导高级将领的教科きょうか[5]自己じこまたはた《曾文せいおおやけ全集ぜんしゅう常置じょうちあんつくり,终生はい读不辍。

生平おいだいら[编辑]

早年そうねん[编辑]

曾国はんきょ

よしみけいじゅうろくねんじゅうがつじゅういち(1811ねん11月26にち),曾国はんせい湖南こなんしょうちょうすな湘鄉けんちちめい寬一かんいち祖父そふ曾玉へい(1774—1849)雖少文化ぶんかただし阅历丰富。父親ちちおや曾麟しょ(1790—1857)長子ちょうし母親ははおやこう(1785—1852),そだてゆう54じょ,其中四子先后参军,とめいちざい家事かじ农,ただしまいり军四兄弟きょうだい也有やゆう二人ふたり殉职。曾国はんはいぎょうだい長子ちょうし上面うわつらゆういちあねあね。曾麟しょじゅく,屢試だいねんきん50ぽうざいちゅう秀才しゅうさいなりためなまいん[註 1]。曾麟しょ忖功めい僅能及此,したがえ此在家鄉かきょう一心一意栽培長子曾國藩科考。

曾國はん5さい啓蒙けいもうねんいれじゅく见斋”。みちこうろくねん(1826ねんはるおうちょうすな童子どうじこころみめいれつだいななめいみちこうじゅうねん(1830ねん),ぜん衡陽とうむねほこら讀書どくしょ,一年後轉入湘鄉漣濱書院。みちこうじゅうさんねん(1833ねんあきおう湘鄉けんこころみかんがえ秀才しゅうさいみちこうじゅうよんねん(1834ねん),曾國はん進入しんにゅうちょうすな著名ちょめいてきたけふもと書院しょいん演習えんしゅう同年どうねん參加さんか南鄉なんごうためしちゅうだいさんじゅうろくめい舉人,并動いれ京師けいし準備じゅんび來年らいねんてきかいためしみちこうじゅうねん(1835ねん),曾國はんかいこころみなか寓居ぐうきょ京師けいしちょうすな會館かいかん讀書どくしょつぎねんおんかいこころみさいつぎ落第らくだい,於是かえしかいちょうすな,於同鄉どうきょうりゅうかくたかしとうきょ於湘きょう會館かいかん

はついれつかまつ[编辑]

みちこうじゅうはちねん(1838ねん),曾國はんさいつぎ參加さんかかいこころみおわり於中こころみ殿しんがりためしくらいれつ三甲さんこうだいよんじゅうめいたまものどう進士しんし出身しゅっしん,并成ためはやしのりじょ政敵せいてき主張しゅちょう鴉片あへんうえぜいめんきんてき满人軍機ぐんき大臣だいじんきよしあきらおもねてき得意とくい門生もんせい[註 2]あさこうれつ一等いっとうだいさんめいみちこうみかどしん拔為だいせんため翰林院かんりんいん庶吉みちこうじゅうねん(1840ねんかん考試こうしめいれつとうじゅうきゅうめい,授翰林院かんりんいん檢討けんとうみちこうじゅうさんねん(1843ねんます侍講じこう同年どうねんにん四川鄉試正考官。としそこたかしぶん渊阁こうみちこうじゅうねん(1845ねん),ます侍講じこう學士がくしひさ同年どうねん進士しんしぶんやす之子ゆきこ鴻章こうしう入京にゅうきょうかいこころみとう門下もんか補習ほしゅう受業じゅぎょうなみ投宿とうしゅく曾国はん北京ぺきんたくていいたりしょういちねんみちこうじゅうななねん(1847ねん),ますにん內閣學士がくしれいさむらいろう銜。みちこうじゅうきゅうねん(1849ねん)授れいみぎさむらいろうひさしょ兵部ひょうぶみぎさむらいろうため軍機ぐんき大臣だいじんきよしあきらおもね門生もんせいまたしたがえやまとひとしから講習こうしゅうほどしゅ道學どうがく[1]:702

かこえ太平たいへいぐん[编辑]

みちこうさんじゅうねん正月しょうがつじゅうよんにち(1850ねん2がつ25にち),みちこうみかどざい圓明えんめいえんみちこうさんじゅうねん正月しょうがつじゅうろくにち(1850ねん3がつ9にち咸豐みかど即位そくい同年どうねんじゅうがつじゅうにち(1851ねん1がつ11にち),洪秀全こうしゅうぜんざい廣西ひろせ發動はつどう金田かねだおこりよし太平たいへい天國てんごく運動うんどう正式せいしき爆發ばくはつ

咸豐つぎはつため塑造けんみかどてき形象けいしょうした文廣あやひろひらきげんつづみ大臣だいじん直言ちょくげんしん諫,みちこうさんじゅうねん(1850ねん)よんがつ,曾國はんじょうけい陈圣とく三端预防流弊疏》,指出さしで咸豐さんけん,咸豐みかどはたかなでいか掷於さいわいよしみ軍機ぐんき大臣だいじん祁雋かいかこえたい咸豐せつ:「しゅせいしん啊,。」 せっちょざいいちねんあいだれんじょう《应诏陈言疏》、《じょう陈日讲事むべ疏》、《议汰へい书》、《备陈みん间疾疏》かずひら银价疏》とうみちそう疏,全面ぜんめん深入ふかいり指出さしでりょう清朝せいちょうめん临的种种危机问题,建議けんぎ咸豐大刀たち阔斧,彻底改革かいかく。1852ねんちょうははかいせき[1]:702生母せいぼこう。此時太平たいへいぐんやめ经攻にゅう湖南こなん氣勢きせいせいもり

咸豐ねんそこ(1853ねん1がつ),曾國はんせっいた幫辦湖南こなんだんねりむねけいかくたかしちから劝,はなれぜんちょうすなあずか湖南こなんめぐ张亮もとしょうだんねりことよろし。曾奉いのち幫辦だんねり擴編ため湘軍[1]:702いちがつ太平たいへいぐんおさむこうやすしいま江蘇こうそ南京なんきん),てい於此,改稱かいしょうてんきょう

曾國はんもたれ师徒、亲戚、こうともとう复杂てきじん际关けい,以湖南こなん同鄉どうきょうためぬし,仿傚やめけいなりぐんてきすわえいさむ建立こんりゅうりょういちささえ地方ちほう团练,并整合せいごう湖南こなん各地かくち武裝ぶそうしょう湘军

咸豐さんねん(1853ねんはちがつ,曾國はんじゅんざい衡州練兵れんぺい,“凡枪炮刀锚之しき樯桨橹之位置いち,无不躬自演じえん试,殚竭おもえりょく”,[6]并派じん廣東かんとん購買こうばい西洋せいよう,籌建みず

咸豐よんねん(1854ねん)2がつ,湘軍ねりなりかいしゅう湘潭,曾發布はっぷ《討粤匪檄》,攻擊こうげき太平たいへい天國てんごく運動うんどうひらき以來いらいめい教之のりゆきへん」,開始かいしりょうへい進攻しんこう太平たいへいぐん[1]:702-703;4がつ24にち太平たいへいぐんはやし紹璋ぶんへいけいやすしきょうおさむよりどころ湘潭,なずらえ南北なんぼく夾擊きょうげきちょうすな。4月25にちおこりゆかりとうひとしぬのおびたいりつ陸軍りくぐん彭玉麟おびたいりつみず,一齊攻打湘潭的はやし紹璋,湘潭戰役せんえき正式せいしきひびき期間きかん,曾則おやりつ40じょうせんせんあずか800めい湘軍出征しゅっせい,卻在やすしこうみず戰中せんちゅうふく太平たいへい军石さちただしだい败,曾国はん悲憤ひふんかおとうすいひろ幕僚ばくりょうあきらことぶき麟救おこりただしこう其部とうひとしぬの彭玉麟於4がつ27いたり30にちざい湘潭大敗たいはいはやし紹璋太平たいへいぐん水陸すいりくみなくじけ損失そんしつ將士しょうしきんまんめい。湘潭戰役せんえき太平たいへい天國てんごく西にしせいちゅう太平たいへいぐんあずか湘軍てきくび戰略せんりゃく決戰けっせんすんで湘軍なりぐん出兵しゅっぺいてきくび大捷たいしょう,也是太平たいへいぐん西にしせい以來いらいくび嚴重げんじゅうつぶせはい湖南こなん戰局せんきょく於是逆轉ぎゃくてん,湘軍氣勢きせい大盛おおもりとげよし防禦ぼうぎょてんため進攻しんこうまたうらないたけしゅうそくさかい作戰さくせん [1]:703。10月,曾攻おちい湖北こほく武漢ぶかん[1]:703咸豐みかど大喜だいぎもちたい曾國はんおん免罪めんざいなみれい曾署湖北こほくじゅんなでますとうひとしぬのため湖南こなみ提督ていとくしか而,だい學士がくし祁隽進言しんげんしょう“曾国はん以侍ろう在籍ざいせき,犹匹夫ひっぷみみ匹夫ひっぷきょ闾里,いちよび蹶起けっき从之しゃまん餘人よにんこわ国家こっかぶく也。”咸豐みかどおさむかいなりいのち接着せっちゃく兵部ひょうぶさむらいろうりつ東下ひがししもやぶ田家たや[1]:703

1855年初ねんしょ,曾攻江西えにしきゅうみずうみこうひさすいはい績,武漢ぶかんため太平たいへいぐん克復こくふくとげこまもりみなみあきら[1]:703

咸丰ろくねん(1856ねんあき太平たいへい天國てんごく發生はっせい楊韋事變じへん,曾乘指揮しき湘軍はんなぐ,12月さいおさむおちい武漢ぶかん[1]:703

咸豐ななねん(1857ねん),ちち亲曾麟书去ちょうゆうかいせき

咸豐はちねん(1858ねん)5がつ,曾国はん占領せんりょうきゅう[1]:703曾国はんざい太平たいへいぐん將士しょうし17000にん戰死せんしうらない领九こうつきほふ城中じょうちゅうのこみん2まん[らいみなもと請求せいきゅう]。11月,曾所ぞくまろうどざい安徽あんき三河そうご鎮被殲[1]:703こう一度受困於安徽祁門[1]:703

咸丰じゅうねん(1860ねん),湘軍围困やす。1861ねん9がつ,曾国はんとく其弟曾國荃おさむおちいやすけい[1]:703やすけいやぶしろ劫掠ごうりゃく殆盡,ほふよんまんあまり[7][8]。1861ねん9がつ,湘军顺江而下。11月,曾奉いのち統轄とうかつ江蘇ちぁんすー安徽あんき江西えにし浙江せっこうよんしょう軍務ぐんむじゅんなでつつみ鎮以悉歸節制せっせい[1]:703。1862ねんはる,曾為きょう辦大學士がくしひだりむね棠與外國がいこくじん進攻しんこう浙江せっこう鴻章こうしう勾結外國がいこくじんおさむみなみ地區ちく,曾國荃部かこえおさむてんきょう[1]:703おさむやぶ芜湖。1863ねん11月25にち,曾国荃进扎城てんきょう东孝りょう卫。

どうさんねん(1864ねん)7がつ,曾破てんきょう[1]:703。19にち,湘軍おさむやぶてんきょうたい無辜むこ平民へいみん展開てんかい屠殺とさつあずか搶掠當時とうじてき南京なんきんじょうやき毀,平民へいみん死傷ししょう無數むすう南京なんきんじん咸恨湘軍,しょう曾國はんため“曾剃あたま”、“曾屠”,曾國荃被喚為“曾老饕”。[9]

中央ちゅうおう研究けんきゅういんいん中央ちゅうおう研究けんきゅういん近代きんだい研究所けんきゅうじょそうしょ所長しょちょうかく廷以ざい其所ちょ近代きんだい中國ちゅうごくつな》引ちょうれつぶんのうせいきょ日記にっき記載きさい曾國はんおとうと曾國荃率湘軍おさむにゅう南京なんきんじょうてき情景じょうけい:「湘軍『むさぼ掠奪りゃくだつ,頗亂ちゅうぐんかくいさみとめ營者みなさがせくく』,……『沿街死屍ししじゅうきゅうみなろうしゃ。其幼孩未滿みまん、三歲者亦被戳以為戲,匍匐ほふくどうじょう婦女ふじょよんじゅうさい以下いかしゃいちにん俱無(ひとしとりこ),ろうしゃ負傷ふしょうあるじゅうあまりがたなすうじゅうがたなあいごうこえたち四方しほう。』凡此ひとしため曾國荃幕ともちょうれつぶん目睹もくとしょ總計そうけい死者ししゃやくさんじゅうまんにん。」[10][11][12][13][14]

7がつ,曾国荃赏太子たいししょう一等いっとう伯爵はくしゃく,此起曾與平定へいてい太平たいへい天國てんごく戰功せんこうきょみずうみこう總督そうとくかんぶん雙方そうほう形成けいせい集團しゅうだん政爭せいそう白熱はくねつ。8月,そうじゅんさい撤湘军25000にん

曾国はんおさむ南京なんきんきさきひだりはじめえびすはやしつばさ彭玉麟おう闿运曾国荃鲍超とうひと曾劝曾国はん造反ぞうはんただし曾国はん一概いちがいこばめ绝,还写对联“倚天あきらうみはな无数,流水りゅうすい高山こうざんこころ表明ひょうめいりつ[15]

つよ運動うんどう[编辑]

曾國はん畫像がぞう

咸豐じゅうねんじゅうがつ,曾国はんせっいたみつむねにわか罗斯使臣ししんかい见恭親王しんのう奕訢ときたたえ太平たいへいぐん在江あるえみなみ等地とうち橫行おうこうにわかこくねがい出兵しゅっぺいさんひゃくにんざい水路すいろ與清ともきよちょう陸軍りくぐん聯合れんごう作戰さくせんなみしたがえ南方なんぽう辦米かてうん抵京。咸豐みかど舉棋不定ふてい特發とくはつろく百里快遞徵求曾国藩等大臣意见。咸豐じゅういちねんじゅういちがつはつはちにち(1861ねん12月19にち),曾国はんじょうてい《遵旨ふくそうにわかへいじょ剿逆以代うんみなみこげおり》,みとめ为俄こく派兵はへい帮忙这一点要断然拒绝,いたり於帮せわしうん输米かて接受せつじゅけん议可以暂时借藉洋じんちから引用いんようげんてきえびす长技以制えびす思想しそう」,つつみ醒「将来しょうらいえびすさとし以造炮製せんゆうなが远之」。

咸豐みかど连下两道聖旨せいしいち在京ざいきょう城新じょうしん總理そうり各国かっこく事務じむ衙门同意どうい曾国はんじん外国がいこく購买つくえよう枪洋ほう,以便がく习。1861ねん,曾国はんざい安徽あんき创办やすけいない军械しょ自主じしゅ製造せいぞうよう枪洋ほう。1863ねん,曾国はんあずかようしょう议创办机厂事よろしゆだね派出はしゅつこく購买つくえ。创办学堂がくどう派遣はけん幼童ようどう赴美留学りゅうがくとうようつとむうん[16]。1865ねんいたり1866ねん,曾與鴻章こうしうもたれ外國がいこくじんざい上海しゃんはいそう江南こうなんせいづくり總局そうきょくとう軍事ぐんじ工業こうぎょう[1]:703

ちょく隸總とく[编辑]

1865ねん5がつ,曾奉いのちとく辦直隸、山東さんとう河南かなん三省みつよし軍務ぐんむ鎮壓ちんあつねじぐん[1]:703。7月,曾進ちゅう安徽あんき臨淮,旋移ちゅう江蘇こうそじょしゅう[1]:703。曾先提出ていしゅつ以靜制動せいどうざい臨淮、すみやすししゅうこうじょしゅうとう重點じゅうてん地區ちく駐兵ちゅうへいしつらえぼうれい地主じぬししん修築しゅうちく圩寨,實行じっこうけんかべ清野きよの徹底てっていしん查;建立こんりゅうたいとう策略さくりゃく[1]:703。1866ねんなつ主張しゅちょうひがし運河うんが西にし以沙かわ、賈魯かわみなみ以淮かわためぼうせんきたしゅせん鎮至汴梁黃河こうが南岸なんがん挖濠しつらえぼう,以圍こまねじぐん[1]:703。9月,開封かいふう南面なんめんあし花岡はなおかつつみ墻為ねじぐん衝破,かわぼうけい破滅はめつ;12がつかいりょうこう總督そうとくはらつとむ[1]:703

どうななねん(1868ねん)8がつ,曾改にんちょく隶总とく[1]:703どうきゅうねん(1870ねん)6がつ天津てんしん教案きょうあん,曾奉いのちぜん往查辦,屈從くつじゅうほう國人くにびと殺害さつがい良民りょうみん20にんたかしぐん25にん,受到社會しゃかい輿論よろん譴責けんせき[1]:703。曾國はんじゅうふんおどろきおそれ,甚至出發しゅっぱつぜんだてのこしょくふかとう时中國遠くにとお西方せいほう列强れっきょうたいいん主張しゅちょう對外たいがい讓步じょうほ

曾國はん發布はっぷさとし天津てんしん士民しみんてき告示こくじたい天津てんしん人民じんみんおおかたゆびせめ,誡其勿再起さいき事端じたんずい釋放しゃくほうはんほうきょうみんかずわたるあん拐犯,引起天津てんしんしんみんてき不滿ふまん處理しょり天津てんしん教案きょうあん”,しょうひとののしうり國賊こくぞく全國ぜんこく輿論よろんだい嘩,“京師けいし及各しょうみな斥為謬論,けん肯信”,朝廷ちょうてい官吏かんり及民眾輿ろんひとし甚為不滿ふまん,「詬詈こえ大作たいさく賣國ばいこくぞく徽號竟加於國はん京師けいし湖南こなみ同鄉どうきょうゆう引為きょうじんだいはじ」,甚至直接ちょくせつしょう其為「曾國賊こくぞく」。

かいにんりょうこう[编辑]

どうきゅうねん(1870ねん)9がつ,曾調にんりょうこう總督そうとく[1]:703りょうこう總督そうとくうましん平民へいみんちょう汶祥刺殺しさつ於後,慈禧ふとしきさきいのち曾國はん再任さいにんりょうこう總督そうとくぜん南京なんきん審理しんり該案。

逝世[编辑]

どうじゅういちねん(1872ねん正月しょうがつ,腳部抽筋なみ且有失語しつご異狀いじょう自覺じかくだいかぎりはたいたり”,がつはつよん(3がつ12にち)曾國はんざいきむりょう總督そうとくながえもんやまい逝,とおることぶきろくじゅういちさい[17]がつじゅうにち朝廷ちょうていたてまつ上諭じょうゆついふとしでん谥号文正ふみまさ [3]。其家族かぞくきさきだいだしかん宦,如曾纪泽曾广钧ひとし

曾国はん善用ぜんよう人才じんさいばんきよし一些名臣如ひだりはじめ鸿章あずかゆうみつきり关系。鸿章とう称呼しょうころう。曾國はん曾說“しょう拚命さくかん俞蔭はじめ拚命著書ちょしょ”。

儒学じゅがく[编辑]

曾国はん一生いっしょう奉行ぶぎょうほどしゅ理学りがくただしまたしょ汲取くみとそうあきら儒学じゅがく其他ささえてき思想しそうそうあきら理学りがく实际上分かみぶん气学理学りがく心学しんがく三个学术派别。

曾国はんざいしたがえ政和せいわしたがええびす生涯しょうがい中也ちゅうや渐渐いたりょうほどしゅ理学りがく指示しじ语,あるしつ于隘”、あるやまい于琐”、あるへん于静”てき局限きょくげんうたて比較ひかく接受せつじゅ心學しんがく。对于ほどしゅ理学りがくあずか陆王心学しんがくこれがく术争べん认为应取其同,避其异,扬其长,けんおさむ并蓄,あげちょう避短,推进儒学じゅがくてき发展。

曾国はん还以气学ざい生成せいせい方面ほうめんてき资源らいわたる补理がく局限きょくげん,谓“张子これせいこうむ》,あつしあつ正大せいだい,邈焉寡俦”。ちゃく气学てきおもえ,曾国はん认为,天地てんち万物均因禀气而生,构成天地てんちまん物的ぶってきさい终基もとざい禀气而生这个义上,天地てんち万物ばんぶつ同体どうたいてき

过,曾国はんどう时认为,虽太絪緼流行りゅうこうとめ天地てんち万物最初所得之气“ひとしみみ”,ただしひとあずかもの圣人あずか常人じょうじん实所禀有气并あいどう。就人あずか物相もっそう对而げんにんとく气之ぜんぶつ却仅とく气之へん故人こじんゆう知性ちせい,而物仅得物性ぶっせい。就ひと而言,圣人しょ禀之气清且厚,常人じょうじんしょ禀之气却浊而うす

其初而言ふとし絪緼流行りゅうこう而不いきにん也,もの也,圣人也,常人じょうじん也,はじめ所得しょとくしゃひとしみみひととく其全,ものとく其偏,圣人しゃ既得きとく其全,而其气质またさいきよし且厚……”

文學ぶんがく[编辑]

湘鄉[编辑]

曾國はん繼承けいしょうきりじょうほうつと姚鼐自立じりつ風格ふうかく創立そうりつばんきよし古文こぶんてき湘鄉」。

くにはんろん古文こぶんこうもとめ聲調せいちょう鏗鏘,以包蘊不盡ふじんため能事のうじ所為しょい古文こぶんふかひろし駿しゅん邁,のううん以漢氣象きしょうゆう一種雄奇瑰瑋的意境,のう一振桐城派枯淡之弊,ため後世こうせいしょしょう。曾氏宗法しゅうほうきりじょうただしゆうしょ變化へんか發展はってんまたせんへんりょう一部いちぶけいひゃくいえざつ》以作為さくいぶんてき典範てんぱんきり城所きどころ囿,せいたたえため湘鄉

清末きよすえ及民はついむふくはやし,以至たん嗣同りょうあきらちょうとうひとし受其ぶんふう影響えいきょう著作ちょさくおさむ於《曾文せいおおやけ全集ぜんしゅうちゅう

著作ちょさく[编辑]

生前せいぜん出版しゅっぱん曾国はん》,另还ちょゆうてい》、《冰鉴》、《こころけいとう書籍しょせき

書法しょほう[编辑]

曾國はんざい書法しょほうじょうてき突出とっしゅつ成就じょうじゅ一直為他歷史上的重大影響所掩蓋。曾國はんたい於書ほう理論りろんてき闡述,ひとし其《日記にっきかずいえしょ》。くびさきたい當時とうじ阮元拋出てき南北なんぼくしょろんゆうどくいたてき認識にんしきすんで贊成さんせいまた提出ていしゅつ批評ひひょう主張しゅちょう南北なんぼくけん而有たい書法しょほうてき本源ほんげん提出ていしゅつ乾坤けんこんだいげんせつ:“天下てんか萬事萬理皆出於乾坤二卦。そく以作ろんじゅん以神ぎょう大氣たいき盪,脈絡みゃくらくしゅうどおり潛心せんしん內轉,此乾道也みちや結構けっこう精巧せいこう向背こうはいゆうほうおさむたんごう,此坤道也みちや;凡乾以神ごと,凡坤以形質けいしつごと禮樂れいがくひつじさるさく而化ゆう自得じとく力彌りきや滿まんろうそくらく也;いと絲入いといり扣轉折合おれあいほうそく利之としゆき也。”[18] ざい用筆ようひつじょう強調きょうちょういぬいみち”,そくごうせつ:“ろん古文こぶんそう須有倔強馴之……ろんまた傲兀ぐんしゃろんまたしか。”[19] またせつ:“さくそう須得ぜいつとむ使いちぴつ以走千里せんり。”[20] ざいゆいじょう,曾國はんちゅうじゅうひつじさるどう”,そくかげやわらよしせつ: “無論むろん古今ここん何等なんら書家しょか,其落筆らくひつゆいたいまた以珠えんだまじゅんよんためぬし。”[21] またせつ:“さくさきもとめえん勻。”[22] なみみとめため:“剛健ごうけん婀娜あだしゃかけいち不可ふか。”[23] よし此可,曾國はん書法しょほうてき整體せいたい風格ふうかくつよしあずかかげやわらなみずみ概括がいかつせつ就是“ぐうえんじゅん於秀勁,ごうゆう於淡とお”。[24] とめりょうきん130まんてき日記にっき中國ちゅうごく古代こだい罕見てき一部いちぶきょがた書法しょほう作品さくひんてき楷書かいしょ勁健つよし拔,つよしやわらしょうずみてき行書ぎょうしょ勁健遒俊而華てきしょう楷與しょう行書ぎょうしょせいきよしだいてき典範てんぱんおうあずかどうだいつつみしんなに紹基ひとしめいてき大書たいしょ

輓聯[编辑]

曾国はんてき挽联,其用てん贴切,じょうぶん并茂,颇为时人しょ推重すいちょう

  • 挽乳はは联:“いち饭尚铭恩,况负だき提携ていけいただしょう怀胎じゅうがつ;千金せんきん难报とく,论人情にんじょう物理ぶつり,也应泣血さんねん。”
  • 莫友しば联:“きょう华一见便倾心,とう时书肆订交,はや钦宿がくひょうじゅうねんつね聚首,今日きょう酒樽さかだるなみだらいつるし诗魂。”
  • 挽汤うみあき联:“ちょ书成じゅうまんことざいつき也;とく谤遍九州きゅうしゅう四海しかいめいまたずい”。曾与诗人汤海あき曾为莫逆ばくぎゃく交,いん"せい輓"事件じけん(就是さき给身边的かつじんあずかうつし挽联),あずか絕交ぜっこう

軍事ぐんじ[编辑]

曾家よん兄弟きょうだい

咸豐ねん(1852ねんじゅういちがつ太平たいへいぐん湖南こなん北出きたいでおさむかつかん。1853ねん曾國はん建立こんりゅう地方ちほうだんねり,仿傚ぜんえびすはやしつばさけん湖北こほく团练そくすわえいさむ湖南こなんそくしょうため湘軍,ふん陸軍りくぐんみずりょうたねへいそく招募湘鄉一帶いったい農民のうみんためぬしがつ军饷朝廷ちょうてい约每へいさん两半银,湘军そく两半,湘军採用さいようへい员自つの、权归主将しゅしょうてき做法,はたへい国有こくゆう」变为「へい为将ゆう」,たきぎ俸為一般いっぱんみどりてきさんばい左右さゆうぜんぐんただ服從ふくじゅう曾國はんいちにん

1854ねん總計そうけいゆう陸軍りくぐんじゅうさんろくせんひゃくにんみずじゅう營五せんにんかいしゅう湘潭ちかい出征しゅっせい初戰しょせんざいたけしゅうやすしこうはい太平たいへいぐんせっ連戰れんせんはい,曾國はんいくとべすい自盡じじんざい上書うわがきただのう以“屢敗屢戰”自嘲じちょう

こうじゅうせいぐん备,ふく佔岳しゅうたけあきら太平たいへいぐん勢力せいりょく退出たいしゅつ两湖。1858ねん5がつおさむ佔九こう氣勢きせい很盛;1860ねん曾国荃つつみやす,以“扎硬寨,ほけ仗”[25]聞名。1864ねん,湘軍おさむやぶてんきょうじょうこう宁府しろ)。

太平たいへいぐん抵抗ていこう湘軍,ゆずる湘軍どもあしあたまてんきょうじょうやぶとき,曾國はんせつ:“こん粵匪へん,蹂躪竟及じゅうろくしょう,淪陷いたりろくひゃくあまりじょう,而其ちゅう兇酋悍黨,如ひらくかおるもり馮官たむろはやしあきらさかえもりきゅうげいらいもりあんけいみな堅忍けんにん不屈ふくつ。此次きんりょうじょうやぶじゅう萬餘賊無一降者,いたり聚眾焚而悔,じつため古今ここん罕見げき寇”[註 3]

曾國はんいれ南京なんきん湘军だい肆焚かすめ,“……分段ぶんだんさがせころせさんにちあいだ斃賊どもじゅうあまりまんにんはたちょうかわかばねくび如麻,……さんにちよるこういき。”南京なんきん文士ぶんしけいみち:“いたり官軍かんぐんいちめんのりつぶせはいとりこかすめある戰勝せんしょう焚殺,ゆうみみにん聞,にん睹,其慘どくじつ較‘ぞくまたゆうこれ及,よくごとまた敢言也。”[26]太平たいへい天国てんごくきょうもり时,南京なんきん最多さいたゆうひゃくまんにんほふしろきさきじゅう多年たねんはし逃亡とうぼういたひかり绪帝のぼりはじめ时,南京なんきんただあまいたじゅうまんにん

おさむおちいてんきょうきさき,曾国はんたくみ言上ごんじょう书“にせみやぞくかんいち炬成はい並無ならびな所謂いわゆるしゃしか克復こくふくろう而全貨物かもつじつほろしんけいこれがいまたため從來じゅうらい罕見こと”。

曾國はん就地しょ太平たいへいぐんくだはた秀成ひでなり原因げんいん可能かのう秀成ひでなりそうこうほうきょういつわりくだ,也不そう押解北京ぺきん以遭受酷けいちょうれつぶん記述きじゅつ秀成ひでなりざい臨死りんし前說ぜんせつ中堂なかどうあつしとくめいこく忘,こんやめあやま來生きすぎほう”。すえ说曾さき要求ようきゅううつし太平たいへい军失败原因げんいん一周いっしゅううつしまん,曾再给李いち小瓶こびんどく药,请李たっ,也因此曾抗拒こうきょ交押いたる北京ぺきん受极けいとくざい慈禧ふとしきさき立大りつだいこうただし官途かんと并不顺遂。

どうよんねん(1865ねんがつそうかくりんねじ击毙,慈禧ふとしきさきれい曾國はん剿捻。曾國はんさい“以有定之さだゆきへいせい无定寇,专事きん剿,ことおいてき方針ほうしんざい河南かなんしゅうこう山東さんとうわたるやすし江蘇こうそじょしゅう安徽あんき臨淮せきぶんおけよん鎮,ちゅう淮軍かず湘軍はちまんはたねじ包圍ほういざい、皖邊またざい淮北ねじぐんてき根據地こんきょち修築しゅうちく墟寨,きよし查戶こう實行じっこうかぶと連坐れんざほうただしねじぐん突破とっぱ湘軍、淮軍てき包圍ほうい進入しんにゅう湖北こほくまた突破とっぱ開封かいふうしゅせん鎮間てき賈魯かわぼうせんひがしはし山東さんとう。曾國はん撤欽大臣だいじん鴻章こうしうつぎにん

曾國はん剿捻以來いらい,屢受慈禧てきゆびせめなりため晚年ばんねんてき一大いちだいしんびょう事實じじつじょう,這時湘軍大部たいぶ份裁撤,曾國はんただのうよう鴻章こうしうてき淮軍,如湘ぐん容易ようい差遣さけん各部かくぶ协调ちから张宗禹りつねじ军在贾鲁かわいち突破とっぱ,进入山にゅうざん东。

修身しゅうしん[编辑]

曾国はんうつし过很关于为人处世てき书,てき部分ぶぶん书得いた很多读者てきあお睞。

ため自己じこりつ課程かていじゅうじょう

  1. しゅけい整齊せいせい嚴肅げんしゅく清明せいめいざい躬,如日ます
  2. 靜坐せいざ每日まいにちかかわなん靜坐せいざよんこくせいしこりいのち,如鼎鎮。
  3. おこり黎明れいめいそくおこり,醒後勿沾こい
  4. 讀書どくしょ不二ふじいちしょ未完みかんしょ
  5. 讀史どくしねんさんゆび史記しき》、《漢書かんしょ》、《こう漢書かんしょ》),每日まいにち圈點けんてんじゅうぺーじ,雖有事ゆうじ間斷かんだん
  6. 謹言きんげん刻刻こくこくとめしんだいいち工夫くふう
  7. やしなえぞう丹田たんでん不可ふか對人たいじんごとこと
  8. 保身ほしんふしろうふしよくふし飲食いんしょく
  9. にち其所每日まいにち讀書どくしょ記錄きろく心得こころえ
  10. つき忘其しょのう每月まいつき作詩さくしぶんすうしゅ,以驗せきてき多寡たかやしなえもり
  11. さくめし寫字しゃじ半時はんとき
  12. よる不出ふしゅつもん

[らいみなもと請求せいきゅう]

评价[编辑]

正面しょうめん[编辑]

曾国はん一生笃好学问,作文さくぶん每日まいにち辍,めいふく其實てき儒家じゅか大夫たいふ[註 4]おう阳兆ぐま说曾こくはん一生いっしょうさん变:早年そうねん理学りがく;办理团练军务时讲さるきさきがくろうしょう[27]

曾国はん處理しょり天津てんしん教案きょうあんちから,曾被からし革命かくめいきさきてき部分ぶぶん革命かくめいとうひと斥为“开就地正法しょうぼうこれさきかわ”。ちゅう人民じんみん共和きょうわこく成立せいりつきさきゆかり于各种政治せいじ原因げんいん,对曾こくはんとう封建ほうけん时期てき人物じんぶつだい斥责。ただし文化ぶんかだい革命かくめいきさきがく术界政治せいじ气氛下降かこうきさき,对曾こくはんてき评价趋活跃,とぼし赞誉こえ天津てんしん教案きょうあん發生はっせいとき,曾國はんやめ患重びょうようみとめため“曾國はん實際じっさいうえ處理しょり天津てんしん教案きょうあんしるべ致的精神せいしん打擊だげきざい如履うす冰的對外たいがい關係かんけい處理しょりちゅうてきちゅうしんじあつしけいよん秘訣ひけつのう挽救自己じこてき名聲めいせい乃至ないし生命せいめい。”[28]

りょうあきらちょうざい《曾文せいおおやけ嘉言かげん鈔》じょ內指曾國はんあにおもんみ近代きんだいぶた有史ゆうし以來いらい一二睹之大人也已;あにおもんみ我國わがくにそもそもぜん世界せかいいち睹之大人おとな也已。しか而文ただしかたゆうちょうぐん絕倫ぜつりん天才てんさいざいなみ諸賢しょけんすぐるちゅうたたえさいどんつたな;其所遭值ごとかいまた終生しゅうせいざいゆびぎゃくちゅうしか乃立とくたてこう立言りつげんさん不朽ふきゅうしょ成就じょうじゅふるえ鑠今而莫與きょうしゃ,其一生得力在立志自拔於流俗,而困而知,而勉而行,れきひゃく千艱阻而不挫屈,もとめきんこう,銖積すんるい,受之以虛,將之まさゆき以勤,うえ以剛,貞之さだゆき以恆,そち以誠,勇猛ゆうもう精進しょうじんけん卓絕たくぜつ。”[29]

ひだりはじめ对曾こくはんてき挽联:“知人ちじんあきら,谋国ちゅう愧不如元辅;同心どうしんわかきんこう错若せきそう无负平生へいぜい[30]。”

みんこく著名ちょめいてききよし史学しがくいちやまはた曾国はんあずかひだりむね棠对:“くにはん以谨まき胜,そう棠以ごう迈胜。”[31]

雲南うんなんてき蔡锷はた军对曾氏以爱へいらいづくりじん义之师的へい思想しそう推崇备至:“带兵如带子弟していいち语,さい为慈じん贴切。のう以此そんしん,则古今ここん带兵格言かくげん,千言万语皆付之一炬。”[32]

じょちゅうざい中国ちゅうごく近代きんだいちゅう如此评价曾:“曾国はんてき政治せいじ风度、品格ひんかく及个じんおさむ养很しょう有人ゆうじんのうひき敌。ある许是じゅう九世纪中国最受人敬仰、さい伟大てき学者がくしゃがたかん员”,ずいきさき说到“ただし却被马克おもえしゅ义学しゃ斥责为汉奸刽しゅ,为了满清异族统治しゃてき利益りえき背叛はいはん及屠杀了同胞どうほう。”[33]じょ评论どう“曾国はん虽然并非才ひさい横溢おういつただし却是いち坚持信念しんねん孜孜しし倦的士人しじん”,“ざい居留きょりゅうきょうじょう其间,あずか一些宋派理学的首要人物交友,并从们那さと获取りょう对“せい”、“たいかず“约”てき领悟,这些信念しんねん运用いた实际ごと务中,そく意味いみ处变惊、临危惧和务实克己こっき在日ざいにちきさきてき生涯しょうがい中将ちゅうじょうだいだい利益りえき于这些品格ひんかく。”[34]

中国ちゅうごく现代うえ两位著名ちょめい人物じんぶつ中正ちゅうせいもう泽东高度こうど评价过曾こくはん青年せいねん时代てき泽东曾说“しょ谓本げんしゃ,倡学而已矣。博学はくがく如基础,こんひと无学,もと础不あつ,进惧倾记。于近じんどくふく曾文ただし,观其收拾しゅうしゅうひろしいちやくかん满无かけ使つかい以今じんえき其位,其能如彼かん满乎[4]?”そく使つかいざい晚年ばんねん还曾说:「曾国はんただし地主じぬし阶级さい厉害てき人物じんぶつ。」蒋中せい对曾こくはんさら顶礼まくはい,认为曾国はん为人みち,“あし为吾じん师资”,“其著作ちょさく为任なん政治せいじしょ必读”。曾胡へい语录とうさくきょう导高级将领的教科きょうか[5]自己じこまたはた《曾文せいおおやけ全集ぜんしゅう常置じょうちあんつくり,终生はい读不辍。

まけめん[编辑]

曾國はんきょかん、统军时心狠手辣[註 5],其指挥下てき湘军烧杀抢掠とう情事じょうじしばしば见不鲜。

曾國荃おさむかつあんけいときいちにち屠殺とさついちまんめいせん平民へいみんこときさき曾国荃颇ゆう顾虑,うつししんきゅう其兄曾國はん。曾國はん竟回书称“以杀贼为こころざしなに必以杀为悔。”[35]

曾國はんてき幕僚ばくりょうちょうれつぶんざいのうせいきょ日記にっきちゅう詳細しょうさい記載きさい,曾国荃率湘军おさむやぶ太平たいへい天国てんごく都城みやこのじょうてんきょう南京なんきんきさきだい肆杀かすめ:“……沿街死屍ししじゅうきゅうみなろうしゃ。其幼孩未滿みまん三歲者亦斫戮以為戲,匍匐ほふくどうじょう婦女ふじょよんじゅうさい以下いかしゃいちにん俱無,ろうしゃ負傷ふしょうあるじゅうあまりがたなすうじゅうがたな……”。湘軍大將たいしょう彭玉麟じょう不滿ふまん先後せんご(1861ねんあん慶之よしゆきかこえあずか1864ねんかねりょうかこえ)致函曾國はん要求ようきゅう大義たいぎめつおや當時とうじきむりょう大夫たいふゆう隱語いんご:「昨夜さくや諸侯しょこうこん庶人,こうやすし民家みんかつき死人しにん!」[註 6][36][37]南京なんきん百姓ひゃくしょういたりこん仍以「曾剃あたま」、「曾屠[註 7]とう稱呼しょうこ曾國はん曾國荃兄弟きょうだい太平たいへい天國てんごくてんきょうしろやぶさんじゅうねんたん嗣同ざい南京なんきん仍聽當地とうちじんせつ:“(湘軍)いちやぶしろじんそくころせそくしょう子女しじょだま帛掃すうにゅう於湘ぐん,而金りょうとげえいきゅう矣。いたりいま父老ふろうごとなおふかいきどお恨。”[38]

1870ねん爆發ばくはつ天津てんしん教案きょうあん,曾氏處理しょり失當しっとう,一味指責天津民眾,しょうはん法的ほうてききょうみん釋放しゃくほうなみ且親こうほう国道こくどう歉,全國ぜんこく輿論よろんだい嘩,“京師けいし及各しょうみな斥為謬論,けん肯信”,輿論よろん甚為不滿ふまんしょう其為國賊こくぞく使つかい曾國はんてき聲譽せいよだい影響えいきょう,曾國はんただこう屢屢どう歉,自稱じしょう:“そと慚清,內疚神明しんめい”,曾國はん後來こうらい隱蔽いんぺい不出ふしゅつ,避免ちょく人民じんみん詬罵。此事ゆずるいきどおなりやまし身體しんたい江河こうが日下くさか,两年そく病死びょうし

歷史れきしがく范文瀾しょう其為屠殺とさつ同胞どうほうこび滿まんこびがいてき漢奸かんかん劊子しゅ[39]

纪念けん[编辑]

逸事いつじ[编辑]

  • 曾国はん全身ぜんしん患有嚴重げんじゅうてき牛皮ぎゅうひ[40]傳說でんせつ蟒蛇うわばみ转世。[41]曾国はんさい爱吃ただしまたさい怕鸡曾國はんいた“雞毛れいそうこつ悚然しょうぜん[らいみなもと請求せいきゅう]よりどころせつへび很怕焚燒雞毛てきあじどう[42]ただし曾喜爱吃鸡屁またつねざい胜战时或せい时,厨房ちゅうぼうかいうずたか鸡屁,一盘如寿桃今蛋糕供他享用,しょ以曾しょいたこれ处,太平たいへい军没头,鸡没またおもむき谈,以致曾之めい学生がくせい鸿章协助曾平太平たいへい不学ふがく曾赶つき杀绝作法さほう俘虜ふりょれつ出自しゅつじ挑选成清なりきよしん军,そく淮军はじめただし曾吃鸡屁てきかい嗜好しこうきさきらい曾直きょうつとむ大官たいかん,竟授与じゅよ西にしふとしきさきども,胶脂养颜美容びよう
  • かん场现がた记》てき作者さくしゃはくもとざいみなみてい笔记》まき八记载了一则关于曾国藩的趣事:曾与诗人汤海秋原あきばる为莫ぎゃく交。ぼうとし元旦がんたん,汤去曾国はん处拜ねん,见曾书房てき书桌砚下压纸いち张。汤阅はららい曾国はん闲暇时举其平ともみなあずかさく輓联(此為せい輓),汤亦ざい其中。汤大いかはらいころも而去。两人从此断交だんこう

曾氏家族かぞく[编辑]

先祖せんぞ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふ曾辅しん
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふ曾竟まれ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふ曾玉へい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼ彭氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちち曾麟书
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曾国はん(1811-1872)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふこう庆邻
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふこうひろし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふこう霈霖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ははこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母がいそぼくま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

长辈[编辑]

  • ちち:曾麟しょ(1790—1857)
  • ははこう
  • 岳父がくふおう阳凝祉(1784—1869),原名げんめい鳌,まためい沧溟,福田ふくだ
  • たけはは:邱氏
  • なか叔:曾鼎みこと
  • さん叔:曾骥うん

同輩どうはい[编辑]

  • 长姊:曾国兰,长姊おっとおう鹏远
  • いもうと曾国蕙おっとおうまちそうとう书吏なり
  • いもうと曾国しばおっとしゅひさしはる
  • 满妹:痘殇。
  • おとうと曾国潢(1820-1886),原名げんめいこくえいきよしこう,曾麟书次子じしぞくちゅうはいぎょうだいよんいん此被曾国はんしょう为四おとうと,曾氏兄弟きょうだい间皆以族ちゅうはいぎょう相称そうしょう
  • さんおとうと曾国华(1822-1858),ぬるはじめ,曾麟书第さんぞくちゅうはいぎょうだいろく。镇压太平たいへい天国てんごく时战三河みかわ
  • よんおとうと曾国荃(1824-1890),沅甫,曾麟书第よんぞくちゅうはいぎょうだいきゅうにんたたえ“曾老きゅう”。镇压太平たいへい天国てんごくまとようりょくはたかんいたり两江总督
  • ようおとうと曾國葆(1829-1862),ひろしきさきさらめい贞幹,ごとつねざい兄弟きょうだいにん中年ちゅうねん纪最しょう病死びょうしあめ花臺かだい
  • おもておとうと彭毓たちばな
  • つまおう阳氏
  • わらわちんはるつばめこうやすしひと嗣。

めいやから[编辑]

  • 侄子:曾纪はりたかし)(1842—1925),曾国潢之子ゆきこ。「やから中年ちゅうねんことぶき最高さいこうしゃため湘鄉だいかい曾氏[44]族長ぞくちょう
    • めいまご:曾廣祚
      • めい曾孙:曾昭抡(1899-1967)。
  • 侄子:曾纪みぞしゅ
  • 侄子:曾纪みずこう),曾国荃之子ゆきこ兵部ひょうぶ外郎ういろう
  • 侄子:曾纪かんおう阳氏,刘氏),曾国荃之子ゆきこ戶部とべ外郎ういろう
    • めいまご:曾廣こう(1868—1921),安徽あんきこうどう,誥授つう大夫たいふすすむせい大夫たいふ
      • めい曾孙:曾昭和しょうわ(1888—1957),湖南こなん公立こうりつ法政ほうせい專門せんもん學校がっこう畢業。曾任湖北こほくなつこう地方ちほうほういん推事
  • 侄子:曾纪湘えき
  • 侄子:曾纪寿ことぶき,劳氏)(1855—1930),國華こっか次子じし
    • 侄孫:曾廣錡(1918—?)曾纪寿ことぶきだいなな著名ちょめい化學かがく中國科學院ちゅうごくかがくいん上海しゃんはい化學かがく研究所けんきゅうじょふく研究けんきゅういん

まごやから以下いか[编辑]

かげ形象けいしょう[编辑]

えんじいん 作品さくひん とし 类型
りゅうこう 太平たいへい天國てんごく 1988 でんげき
ちょうこくきょう じょうおうそうすぐる 1997
まごとら 太平たいへい天國てんごく 2000
もり雨露うろ 大国たいこくせん 2013

注釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ 此事つね歷史れきしがく拿來あずか洪秀全こうしゅうぜんてきよんだい對比たいひゆういちたいたからわらいがら
  2. ^ なにかつらきよし曾國はんとも同年どうねん进士名次なつぎりゃくきさき于曾こくはん,22ねんきさき贵为两江总督,却与太平たいへい军二破江南大营时躲至上海,清朝せいちょう处决,あらためはい曾國はんりょうこう總督そうとく
  3. ^ 歷史れきしがくはじむ東方とうほううつし此說出自しゅつじそうかくりんおうじいたてまつれい巡視じゅんし南京なんきんしるしおさむ戰果せんか嘆語,曾国はんしょ
  4. ^ 重光しげみつ《论曾こくはん》:“おっと近代きんだい中国ちゅうごくないかかかみねじこれみだれそと夷狄いてきおかせ此方こちら危急ききゅうあき也。一时豪杰并起,内乱ないらん迭生,天下てんか趋于不治ふちはじむみん现乎せいくにはん也,剿灭ひろしぎゃく,实安みんきゅう需;倡行よう,奠强こく根本こんぽん,此皆たれ勋功,历来世らいせ人称にんしょうしかひと以为曾国はんこう杀,とげ以『曾剃头』谓之,あきら以为しか也。なに也?盖曾こくはんいずる诸书せいゆう武将ぶしょう杀无以树杀无以慑ぎゃく,且髮ぎゃく太平たいへい不屈ふくつ杀等乎聚敌也。曾国はん善用ぜんようじん,其幕府ばくふ人才じんさい济济,如ひだりはじめえびすはやしつばさ彭玉嶙とう其步ひとしみないち代将だいしょうざい,曾国はんぐう子弟してい用人ようにんうたぐいたり于荡つきひろしぎゃく,拥精へいすうじゅうまんひかえ江山えやまきんはんかべ,苟听谋士げん,则可南面なんめんしょうおう朝廷ちょうてい莫能せい也。曾国はん耻曹莽之为,こばめ其教ごとはた湘军つきすう解散かいさん,乃成ちゅうめい。处世炼猾,城府じょうふいたりふか喜怒きどかたち于色,纷扰るい于怀,处,あずか发逆ごと战多きたすう殆覆军,さら朝臣あそん构怨,きみじょう猜测,此时也,曾国はん老子ろうしこれ术,清心せいしん寡欲かよくつとむ励,使つかい无此坚志,なんきさき时之いさお自律じりつ极严,ふけ声色こわいろ爱金钱,不逞ふていおご华,ぎょう起居ききょただ麻衣まいたけ也,为当だいかん罕见也,教子きょうこ以慈,とくおとうと以严,家法かほう缕析,虽行军匆せわしこれ间,ゆうわたる而不废一生笃好学问,作文さくぶん每日まいにち辍,其文也称于时也。”
  5. ^ 曾國はんてきこころ狠手辣還以從こく製造せいぞう冤案,濫殺無辜むこ充分じゅうぶん了解りょうかい性格せいかくはやしあきらこう冤案そく曾氏早年そうねん故意こい誤判ごはんてき冤案,曾国はんざい审理此案也知どう疑點ぎてん頗多,ただし仍將りん明光めいこうしょ晚年ばんねんてき曾國はん仍然惜犯錯,にん恆俊つねとし非常ひじょう规则:ばんきよし社会しゃかいてき实游戏》いちしょだいろくしょうつかれ軟的監督かんとくひさげいた曾國はんざいちょく隸總とくにんじょう,一位民婦的丈夫出外長期未歸,曾国はん按照はかりごとがい親夫ちかおていりょうあん最後さいごしょ以極けいだれみんりょうこれ丈夫じょうぶ竟然歸來きらい知道ともみち妻子さいしやめけいがえ自己じこつぐなえりょういのち憤然ふんぜんよう上訴じょうそ。其時曾国はんやめ经調にんりょうこう總督そうとく後任こうにんてきちょく隸總とく此事あつりょうらいせき於曾こくはんつとむちょく隶总とく间所せいづくりてき“谋害亲夫あん”,參考さんこうはやしかつこうおう道成みちなりあなさちよししゅ编:《近代きんだいきょう华史迹》,中国ちゅうごく人民じんみん大学だいがく出版しゅっぱんねんばんだい146-148页。
  6. ^ 昨夜さくや諸侯しょこうこん庶人,ゆび「曾經」擔任たんにんくにはん」,そく曾國はん
  7. ^ しばがくざい梵天ぼんてん庐丛录》記載きさい一日曾国藩路过,卖桃じんあずか顧客こきゃくそう吵,卖者说還ぼつづけ款,买者说付りょう後來こうらい证明卖者撒谎,曾国はんたてそくれいはた斩杀,“一时街市大哗,みん众惊よび:‘钦差杀人りょう!’いん而得めい曾屠户。”
  8. ^ えんうらない」 / 「煔」;「檆̣̪」,拼音shanちゅうおとㄕㄢおとどうすぎ

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

引用いんよう[编辑]

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らいみなもと[编辑]

まいり[编辑]

かん
前任ぜんにん
なにかつらきよし
りょうこう總督そうとく
咸豐じゅうねんどうななねん
(1860ねん-1868ねん
つぎにん
うましん
前任ぜんにん
賈楨
武英たけひで殿どのだい學士がくし
どうななねんどうじゅういちねん
(1868ねん-1872ねん
つぎにん
鴻章こうしう
前任ぜんにん
かんぶん
ちょく隸總とく
どうななねんどうきゅうねん
(1868ねん-1870ねん
つぎにん
鴻章こうしう
前任ぜんにん
うましん
りょうこう總督そうとく
どうきゅうねんどうじゅういちねん
(1870ねん-1872ねん
つぎにん
なに