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阿桂 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

おもねかつら

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おもねかつら
阿桂

おもねかつらぞう

だいきよし太子たいしふとし保正やすまさ红旗满洲武英たけひで殿どのだい學士がくし首席しゅせき軍機ぐんき大臣だいじん
爵位しゃくい 一等诚谋英勇公
ぞく 满洲
はたせき せい蓝旗
きさきあらためせい白旗はっき
ごう 广廷、ごううんがけ
諡號しごう 文成ふみなり
出生しゅっしょう かんじゅうろくねんはちがつはつさんにち
(1717-09-07)1717ねん9がつ7にち
きょう顺天
逝世 よしみねんはちがつじゅういちにち
1797ねん10がつ10日とおか(1797さい—10—10)(80さい
きょう顺天
おやぞく 祖父そふおもねおもえ、(ちちおもねかつあつし
おもねすすむおもね必达
おんなたてまつおん辅国こうひろしとおる嫡妻
著作ちょさく
  • 《军需则例》じゅうかん

おもねかつら满语ᠠᡤᡡᡳ转写agūi;1717ねん9がつ7にち—1797ねん10がつ10日とおか),广廷あきらけいはつためきよし满洲せいあいはたひと以平いたいらかいちゅう犁治ごとゆうろうあらためせい白旗はっきひと[1][2]かんいたり武英たけひで殿どのだい学士がくしけん首席しゅせき軍機ぐんき大臣だいじん

いえ

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おもねかつらななせいきよしともえがおはやさき居住きょじゅうざいちょう白山はくさんにわかきよしかず[3]いまにわか罗斯滨海边疆そうしろいち[4]),兵部ひょうぶ尚書しょうしょおもねおもえこれまごだい学士がくしおもねかつあつし之子ゆきこ[5]

生平おいだいら

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おもねかつら出生しゅっしょうかんじゅうろくねんはちがつはつさんにち(1717ねん9がつ7にち),早年そうねんしたがえ沈彤いぬいたかしさんねん(1738ねんちゅう举人はつ以父廕授だいてらすすむいぬいたかしはちねん(1743ねん)以郎中身なかみ份充にん军机あきらきょう,此后いん为库项被窃,以失察之ざいくだ调为吏部员外郎ういろう[6]

いぬいたかしじゅうさんねん(1748ねん),清朝せいちょう用兵ようへい大小だいしょう金川かながわおもねかつらずい兵部ひょうぶなおはんだい四川しせん办事。たけ鍾琪告發こくはつおもねかつら“勾結ちょうひろこうむ訥親”。而後皇帝こうていねん其父ただゆうおもねかつら一子かずこ,而阿かつら办事勤勉きんべんまたいん为阿かつら罪状ざいじょうあずか贻误军机不同ふどう,而特别宣布せんぷ赦免しゃめん。此后いのちため江西えにし按察使ひさまた擔任たんにん內閣侍讀じどく學士がくし[7]いぬいたかしじゅうねん,擢內閣學士がくしとう时适逢清廷出兵しゅっぺいじゅん噶爾おもねかつら乌里みやび苏台管理かんりだい站。其间,おもねかつらちちおもねかつあつしびょうおもねかつらじゅんかいきょう办理丧事。为时ひさそくたてまついのちかえしかい西北せいほくにんまいりさん大臣だいじん命令めいれい驻防ぬのおお,授蒙いにしえ鑲紅はたふくみやこみつるいぬいたかしじゅうねんあき,授工さむらいろうさきりつ军策应清军から喀禄つい击图谋遁にゅうにわかこくてき辉特部首ぶしゅしゃきさきまたあずか副将ふくしょうとみとく一起追捕其余人员,たまものはな[8][2]

いぬいたかしじゅうよんねんしたがえちょうめぐみ平定へいていだい小和おわたくみだれじゅうよんねん(1759ねんふゆてん,从おもねかつ移駐いちゅう[9],筹办屯田とんでん[10]じゅうろくねんそう报曰:“いまおもねこうしげ萨呈たたえこん岁种かいじんはちひゃく户,かくこう种小むぎいちせきたにきび。”[11]いぬいたかしじゅうななねんかいきょうますにん軍機ぐんき大臣だいじんせいべに滿まんしゅうみやこみつる太子たいしふとしたもてなみたまものじょうしょくたまものむらさき禁城きんじょう騎馬きば[12][2]

いぬいたかしじゅうきゅうねん調しらべしょ四川しせん總督そうとく[13]さんじゅうねんにんとうなんじともえ哈臺さんさん大臣だいじんちく綏靖じょういぬい隆三りゅうぞうじゅうねん,授伊犁將ぐん[14]いぬい隆三りゅうぞうじゅうさんねん,授兵尚書しょうしょうん總督そうとく参加さんかせい[15];并多视察黄河こうが决口、こう浙海塘工ほど[16][17][18][19]いぬい隆三りゅうぞうじゅうななねんだいさん出征しゅっせい金川かながわ事件じけん[20][21][22][2]

いぬいたかしよんじゅういちねん(1776ねん),大小だいしょうきん川平かびらいぬいたかしみかどみことのりふうため一等誠謀英勇公,しんきょう辦大學士がくし吏部尚書しょうしょ軍機ぐんきしょくだりはしたまものむらさきよんひらく褉袍[23]いぬいたかしよんじゅうねん,授武英たけひで殿どのだい學士がくし[24]いぬいたかしよんじゅうろくねん甘肅かんせいよんじゅうさんおこりよしあずかかずとくぐん鎮壓ちんあつ[25]歷任れきにんすき将軍しょうぐん兵部ひょうぶ尚書しょうしょ、吏部尚書しょうしょかんいたり武英たけひで殿どのだい学士がくしけん首席しゅせき軍機ぐんき大臣だいじん,“还领枢密すうみつ,决疑てい计,瞻言ひゃくどう时诸大臣だいじんしょのう及”[26][27][28][2]よしみけいねんはちがつじゅういちにち(1797ねん10がつ10日とおか)於北京ぺきんびょうそつ。谥文成ふみなり[29][30]

へんゆう軍需ぐんじゅそくれい》15かんにん欽定きんてい滿まんしゅう源流げんりゅうこう》(1789)编撰总裁かん

家庭かてい

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  • 始祖しそともえがお
  • 先祖せんぞかつたんともみがお
  • 祖父そふおもねおもえ哈。
  • ちちやすし熙四じゅうはちねん(1709ねんおのれうし联捷進士しんし刑部おさかべしょう书文つとむおおやけおもねかつあつし;庶母かん
  • つまふりしかけい,其父せい白旗はっき满洲、かん熙己うし進士しんしふさが楞額またいろ楞額)。

子女しじょ

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  • 長子ちょうしおもねすすむ[2]察院ひだり成都せいと將軍しょうぐん世襲せしゅう一等誠謀英勇公。
    • まごおんなあきらけい固山こやまかい綿めん溥嫡つまゆう:奕灝(うけたまわおんあつしいさむ公惠きみえりん女婿じょせい)、奕魁(彥保女婿じょせい[31]
  • 次子じし阿彌あみたち御前ごぜんさむらいまもるまもるぐんすべりょうつまぼたん祜祿(胞叔一等果毅繼勇公おもねさと祖父そふ一等いっとうこういんいさおしゅうとははふうやすし熙帝孝昭たかあきじん皇后こうごう)。
  • 三子みつごおもねおもえ[2][32]にん诸部なお书与诸总とくつまひしげちち刑部おさかべ尚書しょうしょ、荊州將軍しょうぐんおさめ喇氏德福とくふく)。
  • おんな儿章けいよめたてまつおん輔國こうひろ(其父そうつとむ親王しんのうまこと祿ろくかん熙帝だいじゅうろく)。

孫子まごこ

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  • 彥瞻(おもねすすむ長子ちょうし
  • 彥柱(おもねすすむ次子じし
  • 彥福(おもねすすむさん
  • 彥堪(おもねすすむよん)。つまさく綽絡ちちない务府せい白旗はっき满洲、ちょうあししおせいこうやすしみやつこかん祖父そふいぬいたかし二年丁巳恩科进士かん)。
  • 彥成おもねおもえたち之子ゆきこ[33]いぬいたかしじゅうよんねん联捷進士しんし。胞姊あきらけいよめさかえつとむぐんおう綿めんおくちちさかえじゅん親王しんのうえいいぬいたかしみかどだいはは侧福すすむさく綽羅ない务府せい白旗はっき满洲、いぬいたかしちょうおん進士しんしかんこれおんな)。
  • 彥寶[34]

外孫そとまご

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  • えいしげるえいがく[35]

でんげき

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注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“おもねかつらこうにわしょうけいはつため滿まんしまただしあいはたじん,以阿桂平かつらがひらかいちゅう犁治ごとゆうろうあらため隸正白旗はっき。”
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 きよし)(あきらけいおもねかつらなまそつかん熙56ねんよしみけい2ねん页面そん档备份そん互联网档あん),中央ちゅうおう研究けんきゅういん歷史れきしげん研究所けんきゅうじょしげるたいちゅうぶん
  3. ^ 《八旗滿洲氏族通譜》まきよんじゅう
  4. ^ 孙文 1990だい276ぺーじ
  5. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“ちちだい學士がくしおもねかつあつしゆうでん。”
  6. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“おもねかつらいぬいたかしさんねん舉人はつ以父廕授だいてらすすむるい遷吏員外いんがいろうたかし軍機ぐんきしょあきらきょう。”
  7. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“じゅうさんねんしたがえ兵部ひょうぶ尚書しょうしょはんだいまいり金川かながわ軍事ぐんじ。訥親、ちょうひろ泗以こうつみたけ鍾琪劾阿かつらゆいちょうひろ泗蔽訥親,逮問。じゅうよんねんうえおもねかつあつしとしおい次子じしごと勤勉きんべんおもねかつらざいあずか貽誤軍事ぐんじ不同ふどう特旨とくしなだめこれひろふくかん,擢江西えにし按察使,召補內閣侍讀じどく學士がくし。”
  8. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“じゅうねん,擢內閣學士がくしどきかたせいじゅん噶爾いのちおもねかつらがらすさとみやびだいとくだい站。逾年,ちちかえきょう。旋復赴軍,授まいりさん大臣だいじんいのちちゅうぬのおお,授鑲紅はたこうむふくみやこみつるじゅうねんあき,授工さむらいろうてるとくあたまじんしゃ楞約くだから喀祿以兵往會,為所しどころかさねおもねかつらりつへい策應さくおううえ嘉之よしゆきたまものはな翎。うえいのちおもねかつらあずかさくぬのとう扎布ごうぐんげきしゃ楞,毋使逃入にわかおもねかつらげん:「ぞくいいしゃ楞將逃土なんじ扈特;あるいたる,且復かいじゅん噶爾。邀之中路なかじとりこけんじ。」じょうせめ觀望かんぼう召還しょうかんきょうねんじゅんひらめ復命ふくめい赴西あずかふく將軍しょうぐんとみとくついぞく。”
  9. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“霍集うらない叛,じゅうよんねんいのち霍斯魯克したがえとみとくしん討。はちがつ,逐賊いたりおもね勒楚なんじまたいたり伊西いにし洱庫なんじ淖爾かい眾降。霍集うらない走拔はしりぬけたちかつさんねんかいたいらうえおもねかつ新附しんぷためかい要地ようちいのちおもねかつらちゅうぐん綏撫。じゅうねん移駐いちゅう。おもねかつらうえげん屯田とんでんおもねかつ調ちょうへい諸事しょじうえよしみ勇往ゆうおういのちせん耕作こうさく營造えいぞうつとむ使つかいぐんかいみんみならく從事じゅうじとき西域せいいきはつじょう地方ちほうまんあまりさとふく莽尚,あずかにわか斯鄰。うえみことのりすべへいしょ大臣だいじん,咸謂沙漠さばく遼遠りょうえん,牲畜凋耗,なんちゅうもりおもねかつら疏言:「もり駐兵ちゅうへいためさき駐兵ちゅうへい以軍しょくためようかわ以南いなんうみつとむかつとうしょみず沃衍,むべ屯田とんでん。請增かいみん嫺耕作者さくしゃ往屯;增派ぞうはかんへいちゅうぼう協同きょうどうこうしゅ次第しだいけんおけじょう邑;あずか籌馬駝,おけだい站;うん沿邊まい赴伊;簡各しょう流人るにん嫺工藝者げいしゃはつ備任使。」またそうてい山川やまかわこくしょまつてんうえよう其議。おもねかつらみやつこのうとくしょたむろたがやせさい大豐たいほう。”
  10. ^ ひかり绪年间《しん疆伊犁府绥定县乡こころざし》载:“じゅうねん(1760ねん),特旨とくしいのちおもねかつら为参赞大臣だいじんねんおもねかつらそう设绥ていたむろ镇总へい,开办たむろ务,诏从”。”
  11. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“じゅうろくねん,疏言:「犁牧ぐんしげるいき,請停內地購馬駝。ぞう招葉なんじ羌、喀什噶爾、おもねかつがらす什回みんまい犁,こう屯田とんでん。」みなしょうむね。迭授大臣だいじんこう尚書しょうしょ、鑲藍はたかんぐんみやこみつる,仍駐犁。そう瑪納斯庫なんじ喀喇がらすあきらかわさん屯田とんでんにんじゅううね。”
  12. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“じゅうななねん,疏定約束やくそく章程しょうていけん綏定やすとおしろへいみんぼう次第しだいりつ一如いちにょ內地,すう千里せんり行旅こうりょ晏然,じょうしょく召還しょうかんたまものむらさき禁城きんじょう騎馬きばいのち軍機ぐんきしょくだりはし調しらべせいべに滿まんしゅうみやこみつる太子たいしふとし。”
  13. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“じゅうきゅうねんいのちしょ犁將ぐんひろ調ちょうしょ四川しせん總督そうとくとき金川かながわろうあずか綽斯かぶとぬのとうきゅう搆釁,おもねかつらじゅんあたりつきろう卡狡獪怙あくじょうなみ悉其山川やまかわ形勢けいせいにゅうそうふゆ召還しょうかんきょうさんじゅうねん上南かみなじゅんいのちとめ京治きょうじごと。”
  14. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“がらす什回よりゆき黑木くろきひしげさくみだれみことのりはせがらすあずか將軍しょうぐんあかりみずおさむよりゆき黑木くろきひしげ中矢なかやはくかつふくがくしょくひしげこうさんがついたりはちがつおさむじょうしたあかりみずぐん其北,おもねかつらぐん其南,さくちょうかこえこまこれぜっ其水きすいどうぞくかてつき,內訌,すなぬの勒者とりこがくしょくひしげ以獻,がらす什平。うえせめ遲延ちえんしめせおびえそんだつかんいのち留任りゅうにんちゅうまさなんじじょう。旋復だつ尚書しょうしょいのちかえじょあかり瑞治みずはるごとおもねかつら疏請うつりみやびなんじじょうすわえよびすわえしたがえこれさんじゅうねん,授伊將軍しょうぐん。請自すわえよびすわえいたりがらすなんじぬのひしげかつしつらえさんだい,以通みやびしか下部しもべこう。”
  15. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“はる甸擾あたり總督そうとくりゅう楊應琚先後せんごとくざいうえいのちあかりみずりつ討之,いたりもうそだてかてつき戰沒せんぼつだい學士がくしでんひさし請行,さんじゅうさんねん,以傅つねため經略けいりゃくおもねかつらおもねさとためふく將軍しょうぐん,仍授阿かつら兵部ひょうぶ尚書しょうしょくも總督そうとくさんじゅうよんねん,以明德めいとくため總督そうとくれいおもねかつら專治せんじ軍事ぐんじおもねかつら請由どうかべせき抵蠻くれ伐木ばつぼくづくりふね,俟經略けいりゃくいたりぐん進攻しんこうろうかんたむろ,且言ぐんかてきゅううえ以為かしこおびえやめふく將軍しょうぐんあらため授參さん大臣だいじん九月くがつふねなりでんひさしまたいたりふんさんすすむでんひさしまん仞關よしだい金沙江きむしゃこう西經せいけいもう拱、くれ魯至ろうかんたむろおもねさと袞率ふね循江おもねかつらりつ蠻暮しん舟出ふなでかいさき伏兵ふくへいあまたて寨。はるじんしたがえもうらいこばめ,寨兵出擊しゅつげき,沉三ぶねふね噪應はるじんだいつぶせ,殲其みぞとげあずか西岸せいがんぐんあいろうかんたむろもり禦堅,ぐん多病たびょう瘴,おもねさと袞卒於軍,ふく授阿かつらふく將軍しょうぐんでんひさしまたやめうえいのちはん,而緬酋懵駁亦懲甘りつ寨之はい使つかい約束やくそく,乃召でんひさしかえいのちおもねかつらとめ辦善,授禮尚書しょうしょ。”
  16. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“よんじゅうよんねんかわけつふうらんたてまついのち往按。おもねかつられいひらけかくそう引河,ちく攔黃壩;また於下おしたりゅう王家おうけそうちくじゅん壩:蓄水ぜい,逼溜直入なおいり引河。よんじゅうねんさんがつ,隄工蕆,かえきょうけん翰林院かんりんいんてのひらいん學士がくし。旋命かん浙江せっこうかい塘,ちく魚鱗ぎょりんせき塘、しば塘,及范公塘よんじゅうろくねんこうなりいのちじゅんどうかん清江きよえすえそうかわどうだかせき石工せっこう。”
  17. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“あきかわ決河けっかみなみあお龍岡たつおかいのち甘肅かんせい河南かなんかいかわどう總督そうとくたてまつとくふさがかわ故事こじかわけつとうけつしょりょうはしちく壩,漸近ぜんきんややごういいごうりゅう」。十二月じゅうにがつりょう壩將あい副將ふくしょう榮吉えいきちいい水勢すいせいもりむべなるおもねかつらとくきゅうすんであいぞく吏入榮吉えいきちどくいたり,召之,のりたい使者ししゃ曰:「ため榮吉えいきちしゃしょうおおやけ,壩不可ふか恃,敢離也。」えつにちはてふくけつおもねかつらはせ榮吉えいきちやめ墮水,かかせん金賞きんしょうすくいおこりかいたまものくろきつねはしくつがえこれいんじょう疏自劾,請別簡大臣だいじんただし其役,うえみことのりこたえりゃく曰:「近年きんねんしょしんちゅうのう勝治かつじかわにんしゃしゃおもねかつらあにふく有人ゆうじんおもんみとう安心あんしんせい鎮,べつもとめぜんさく。」よんじゅうななねん奏請そうせい於下おしたゆう疏引かわうえゆうちくだい隄,なみ於北きしけん壩,さこためみなみ趨。よんじゅうはちねんこうはじめ竟,まいねつかわぎょうざい復命ふくめい仍赴こうしんてい章程しょうてい。”
  18. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“浙江せっこうぬのせい使盛住もりずみ疏論總督そうとくちんあきらせきおう亶望ゆうしょわたしいのちおもねかつら浙江せっこう按治。かえまたいのちかん江南えな鹽河しゅうが水道すいどうまたいのちかん河南かなんらんじゅう堡隄こうなみ於戴むらけん閘。よんじゅうきゅうねん甘肅かんせいしおちゃちょうかいみんはりおもね渾據せき堡以叛。うえぶくかんやすしうみらんとう討之,復命ふくめいおもねかつらりょう月餘げつよやぶ堡,戮張おもね渾等,一等いっとうけいくるまじょうしょくまたいのちとく河南かなん睢州隄工。じゅうねん,舉せん叟宴おもねかつらりょうはんまたいのちかん河南かなん睢州かわこうなみ察洪さわしんこう形勢けいせいじゅういちねんまたいのちかんきよしこうつつみこうなみ浙江せっこう按倉虧缺,かんうみ塘;またいのちかん江南こうなん桃源とうげん安東あんどうかわけつさい浙江せっこう按治たいらようけん黃梅おうばいじゅうちょうろん如律。”
  19. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“じゅうねんまたいのちとくふさが睢州じゅうさん堡河けつとき臺灣たいわんみんはやし爽文叛うえいのちぶくかんやすし討之,はかおもねかつら軍事ぐんじおもねかつら疏論とう要害ようがいふんどう並進へいしんさきどおりしょみち廓清かくせいだいきのえけいすすむへいさとし曰:「所見しょけんあずかちんりゃくどうやめさとしぶくかんやすしたてまつ方略ほうりゃく。」睢州こう竟,またいのちかん江南えな臨湖いし隄工。じゅうさんねんまたいのち湖北こほく荊州みずわざわい。請疏あなぐらきんしゅう導水どうすいおさむ萬城隄以護城。じゅうよんねんいのちさいかん荊州隄工。”
  20. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“さんじゅうはちねん正月しょうがつついたちおかせ大雪おおゆきしんだつとうこう噶爾ひしげしょ碉,而ゆたかぶくいたりはてさくだくさそえばん叛襲ぐんだんとうはる糧道りょうどうわがつぶせゆたかぶく小金おがねがわあずかだくひとしあいまましおちいおもねかつら悉收くだばん械,毀碉寨,ふんおけ其人あきらたに其桀驁者,おや殿軍でんぐん退すさちゅういたるかわこと聞,うえいか甚,いのちはつけんするど火器かきりょう營,黑龍江こくりゅうこうよしりんがく魯特へいせん,授阿かつらじょう西にし將軍しょうぐんあきらあきら豐昇ほうしょうがくふく將軍しょうぐん舒常まいりさん大臣だいじんせいさいだしじゅうがつおさむまいるよう番人ばんにんとうなんじさくふんよしちゅうみなみりょうみちすすむせんぐんのぼり北山ほくざん巔,とげだくあきらあきらとうまたかつそうかくむね來會らいかい,凡ななにち小金こがね川平かびら。”
  21. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“さんじゅうきゅうねん正月しょうがつついたちおもねかつらぬのろうかくはじめにんじゅうにちかてふんさんたいすすむ轉戰てんせん以前いぜんかつ喇穆左右さゆうやまさんともえひしげかつさんいろ谷山たにやまがつかつひろしかわらさん,勒烏かこえ門戶もんこ也。ぞく退すさもり喇穆やま部將ぶしょううみらん察從あいだ道破どうはしょく漰普寨,にょう出山でやまぞく退すさもり薩甲やまみねうみらん察奪其峭かべだい碉,しょ寨奪どう時下じかじょうかちへりくだかつなんじむねそうかくくわ於金がわ金川かながわ酋獻其尸,而死守ししゅへりくだかつなんじむねじゅうがつおもねかつらようさくさきかつだまかくなんじやま及凱立葉たてば,於是しかともえとう噶諸碉反ざいとげ悉平ぞく退すさもりかん薩爾やまどき豐昇ほうしょうがく出北いできたいたり凱立望見ぼうけん煙火えんか,以師來會らいかい;而明あきらみなみ,阻於かのえがくやまおもねかつられいうつりぐんおかせやぶむべあずかあきらあきらぐんへだた河相かあいのぞむ十一月じゅういちがつかつかく魯克丫口,金川かながわ東北とうほくぞく殆盡。”
  22. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“よんじゅうねん正月しょうがつかつかん薩爾やまはりがつかつ沿河斯莫おもえたち寨。よんがつかつおもえこう噶克丫口。五月ごがつかつともえ木通あけび及勒きちなんじはくやまはりしんよりどころとくしきはしごふくかつ噶爾てら、噶明噶等寨。進攻しんこうともえうらない,屢攻したぶんへいしたがえしゃ枉卡にょうげき,牽賊ぜいなながつかつこんしょくしか及果かつやましんかつひしげ栝寺、菑則大海山おおみやまはり,旋克あきら噶。はちがつかつたかし斯得寨,とげかつ勒烏かこえとし聞,うえおもね桂子けいこおもね必達べに寶石ほうせきいただきたまもの九月くがつかつとう噶克そこしょ寨。じゅうがつかつたち噶。十一月じゅういちがつかつ西里にしさとさんみやび瑪朋寨。十二月じゅうにがつかつ薩爾いびつしょ寨,しんよりどころ噶占。”
  23. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“よんじゅういちねん正月しょうがつかつ瑪爾とう噶碉寨五ひゃくあまりとげかこえ噶拉さくだくははさき赴河西にししゅうあまり眾,大兵だいひょうごうかこえあずか其子ぜっとげおもねかつられいさくしょ招索だく,而其頭目とうもくくだしゃしょうつぎさくだく乃率眾降。かね川平かびら安置あんちくだつがえしつらえ副將ふくしょうどうぶんちゅう其地。みことのりふう一等誠謀英勇公,しんきょう辦大學士がくし、吏部尚書しょうしょ軍機ぐんきしょぎょうはしよんがつはんうえみゆき良鄉よしさと城南じょうなんこう郊勞れいたまもの御用ごよう鞍馬あんばかえきょうけんじ俘,むらさきひかりかくぎょういんいたりれいたまものむらさき韁、よんひらき褉袍。”
  24. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“はつおもねかつら雲南うんなんはる甸遣使入貢にゅうこう,械送京師けいし下獄げごくいたり誅索だく母子ぼしあたまじんうえいのちしゃくはる使令しれいかんわけつげ以故,たて,冀以威武いぶふうどうよんじゅうねんしょくも總督そうとくおもえとくそう:「懵駁ぜいかくきばだて,輸誠おさめみつげねがい中國人ちゅうごくじん。請開せきとおり。」じょう以事じゅうとうゆう重臣じゅうしんしょう受成,いのちおもねかつら往蒞。五月ごがつ,授武英たけひで殿どのだい學士がくし管理かんり吏部,けんせいべに滿まんしゅうみやこみつるいのちかず督戰とくせんしつぞくよりどころ龍虎りゅうこはなりん諸山しょざんみちけん隘。おもねかつらいたるしつらえかこえぜっ其水きすいどう進攻しんこうぞくだいつぶせ。殲蘇よんじゅうさんあまりとうはな林寺はやしじ,焚之,いちくだしゃ甘肅かんせいおかせにぎわいごとはついのち按治,つき大小だいしょう官吏かんりまいへいぶん賕狀,讞定,疏請增設ぞうせつくら廒,こうもうかかてせき,以濟みんしょく。”
  25. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“甘肅かんせい撒拉なんじ新教しんきょう四十三與老教仇殺,戕官吏かんり總督そうとく勒爾謹捕きょうくびうまあきらこころ下獄げごくどうきょうかいみん千餘夜濟洮河犯蘭州,噪索あかりしんぬのせい使おう廷贊誅明しんぞくいよいよおきうえいのちおもねかつらおもねかつらなおざいこういのちかず督戰とくせんしつぞくよりどころ龍虎りゅうこはなりん諸山しょざんみちけん隘。おもねかつらいたるしつらえかこえぜっ其水きすいどう進攻しんこうぞくだいつぶせ。殲蘇よんじゅうさんあまりとうはな林寺はやしじ,焚之,いちくだしゃ甘肅かんせいおかせにぎわいごとはついのち按治,つき大小だいしょう官吏かんりまいへいぶん賕狀,讞定,疏請增設ぞうせつくら廒,こうもうかかてせき,以濟みんしょく。”
  26. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“こうはじめ功臣こうしん於紫こうかく前後ぜんご凡四舉,れつ於前しゃおや為之ためゆきさん。”
  27. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“こうややつぎしゃれつ於後,儒臣為之ためゆきさんおもんみおもねかつらあずかうみらんよんみな前列ぜんれつおもねかつらじょうきむ川元かわもといさおてい臺灣たいわんくび輔,みなだいいちじょうくるわなんじ以爵ふくだいいちゆずるぶくかんやすしみちこうさんねんがつせんむねいのちはいきょうふとしびょうおもねすすむおもね必達。”
  28. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“ろん曰:しょうしゃこく輔,智信とものぶじんいさみごうさくちから冶而よういい大將たいしょうよし道也みちや天子てんしべんあきら國政こくせいあにゆうじゅつ哉?いぬいたかしあいだ國軍こくぐん屢出,くまひぐまこれいんごと有功ゆうこうしかひらけまことぬのこうはかりごとてい而後どう士民しみんつかさいのちこれじゅうかた如阿かつらしゃかえりょう樞密すうみつけつうたぐていけい,瞻言ひゃく同時どうじしょ大臣だいじんしょのう及,あにえら歟?”
  29. ^ 清高きよたかそう实录·まき1497》
  30. ^ 清史きよし稿こう》(まき318):“よしみけい元年がんねんこうはじめ內禪,おもねかつらたてまつさつたからさい舉千叟宴,仍領はん,於是おもねかつらねんはちじゅう矣,疏辭りょう兵部ひょうぶねんはちがつそつじんむね臨其おくふとしまつ賢良けんりょうほこらおくりな文成ふみなり。”
  31. ^ あいしんさとしはじめもうhttp://www.axjlzp.com/clan112239.html (页面そん档备份そん互联网档あん
  32. ^ よしみけいみかど起居ききょちゅうよんだい291ぺーじ
  33. ^ http://122.200.75.13/ぞう/别史/きよし实录よしみ庆朝实录-99.html页面そん档备份そん互联网档あん) (まきろくさんおもねすすむ斯长三等侍卫兼头等轻车都尉那彦瞻、次子じしこう补中书那彦柱、三子みつご彦福、四子六品荫生那彦堪、ほん应革职发往伊犁。从前おもねかつらざいうんみなみ军营获罪。おもねすすむ斯弟けいそく曾发遣。宁不记忆。ただしねんおもねかつらしばしばしるいさお动。ひさにん纶扉。恪勤かっきんきょう职。认将孙多じんひとしれい戍。且那彦成ひこなり现在军营出力しゅつりょくこん彦瞻とうそくけい彦成ひこなり嫡堂兄弟きょうだいよし此格がいおんめん其发遣。俱著かわ职在闲住。
  34. ^ よしみけいあさ實錄じつろくまき44 みずのえさる。谕内阁、はらつとむだい学士がくしこうおもねかつらぜんざいしん疆。しるゆう劳绩。曾赏给骑じょう职。嗣因せい剿缅甸。获罪かわ职。とげはた职注销。兹据该旗查明そうおんはた此世职。ちょおもねかつら三房孙那彦宝承袭。以示ちん优眷勋旧孙之いたり
  35. ^ そん副本ふくほん. [2019-02-24]. (原始げんし内容ないようそん于2021-05-15). 

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维基文库中的相关文本:清史きよし稿こう·まき318》,出自しゅつじちょうなんじたつみ清史きよし稿こう
ざい维基どもとおる资源阅览影像えいぞう

參考さんこう書目しょもく

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  • 清史きよし稿こう·おもねかつらつたえ
  • 清史きよし列傳れつでん·おもねかつらつたえ
  • 彥成《おもね文成ふみなりおおやけ年譜ねんぷ
かん
前任ぜんにん
あかりみず
犁將ぐん
いぬい隆三りゅうぞうじゅういちねん(1766ねん十一月じゅういちがつしょにん

さんじゅうねん(1767ねんよんがつじつ授)
さんじゅうさんねんよんがつつちのえとら(1768ねん6がつ5にち

つぎにん
勒圖
前任ぜんにん
ぶくりゅうやすし
兵部ひょうぶ尚書しょうしょ
いぬい隆三りゅうぞうじゅうさんねんよんがつつちのえとら(1768ねん6がつ5にち
ろくがつみずのえうま(8がつ8にち
つぎにん
たくいさお
前任ぜんにん
えいたか
れい尚書しょうしょ
いぬい隆三りゅうぞうじゅうよんねんじゅうがつへいたつ(1770ねん1がつ4にち
さんじゅうねんはちがつつちのえとら(9がつ23にち
つぎにん
えいたか
前任ぜんにん
えいたか
れい尚書しょうしょ
いぬい隆三りゅうぞうじゅうはちねん正月しょうがつつちのえうま(1773ねん2がつ19にち
なながつ甲子きのえね(8がつ24にち
つぎにん
えいたか
前任ぜんにん
舒赫とく
戶部とべ尚書しょうしょ
いぬい隆三りゅうぞうじゅうはちねんなながつ甲子きのえね(1773ねん8がつ24にち
よんじゅういちねん正月しょうがつおのれうし(1776ねん3がつ6にち
つぎにん
豐昇ほうしょうがく
前任ぜんにん
かん
吏部尚書しょうしょ
いぬいたかしよんじゅういちねん正月しょうがつおのれうし(1776ねん3がつ6にち
よんじゅうねんがつちょう(1777ねん6がつ27にち
つぎにん
えいたか