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傅恒 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

でんひさし

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
重定しげさだこうでんひさし
でんひさし
傅恒像
でんひさしぞう
だいきよしふとしかず殿どのだい學士がくし一等忠勇公赠嘉勇郡王
爵位しゃくい一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう→赠郡おう
ぞく满洲
はたせき镶黄はた
ごうはる
諡號しごう文忠ふみただ
出生しゅっしょうかんろくじゅういちねん正月しょうがつじゅういちにち(1722ねん3がつ8にち)
だいきよし顺天
逝世いぬいたかしさんじゅうねんなながつじゅうさんにち
(1770ねん9がつ2にち)(48さい
きょう顺天
配偶はいぐうひしげ
おやぞく先祖せんぞ旺吉つとむ、(曾祖そうそ哈什たむろ
祖父そふこめおもえ、(ちち荣保
あねこう贤纯皇后こうごう、薩喇善之よしゆきつま
あにこうなりでんきよしでんでんあやでんでんしんでんたまでん
つまひしげ
ぶく灵安ぶくりゅうやすしぶくかんやすしぶく长安(养子)
おんななりあきら亲王えい嫡福すすむ、睿恭親王しんのうじゅん嫡福すすむ
著作ちょさく
  • たてまつ敕撰《しゅうえきじゅつよしじゅうかん
  • たてまつ敕撰《春秋しゅんじゅうちょくかいじゅうろくかん
  • たてまつ敕撰《西域せいいき同文どうぶんこころざしじゅうよんかん
  • たてまつ敕撰《ぞうてい清文せいぶんあきらさんじゅうかん、〈へんよんかん、〈そうつなはちかん、〈そうつなかん
  • たてまつ敕撰《つけあきらからかつら二王におう本末ほんまつさんかん
  • たてまつ敕撰《平定へいていじゅん噶爾方略ほうりゃく》〈前編ぜんぺんじゅうよんかん、〈正編せいへんはちじゅうかん、〈續編ぞくへんさんじゅうさんかん
  • たてまつ敕撰《すめらぎあさしょくみつぎきゅうかん
  • たてまつ敕撰《吏部そくれいろくじゅうろくかん
  • たてまつ敕撰《欽定きんてい折中せっちゅうじゅうかん
  • たてまつ敕撰《欽定きんていだいしんかいてんいちひゃくかん

でんひさし满语ᡶᡠᡥᡝᠩ转写fuhengはる甸語ဖူဟင်း;1722ねん3がつ8にち—1770ねん9がつ2にち),一作いっさくとみつね[1]はるとみ察氏こうけんじゅん皇后こうごうこれおとうと满洲镶黄はたひと清朝せいちょう大臣だいじん軍事ぐんじ人物じんぶつかんいたり軍機ぐんき大臣だいじんだい學士がくしおくりな文忠ふみただ

でんひさし歷任れきにんさむらい、总管うち务府大臣だいじん户部なお軍機ぐんき大臣だいじんかず殿どのだい学士がくしとう职,いぬいたかしじゅうよんねん(1749)授一等いっとう忠勇ちゅうゆうこうれき太子たいしふとしふとしいぬいたかしじゅうさんねん(1748ねん),とく师指挥大金おおがねがわいぬい隆三りゅうぞうじゅうよんねんでんひさし经略せい缅甸さん师,しんへいいん適應てきおう當地とうち瘴癘しょうれいこれやまし伤惨じゅうおもねさとやまいほろびでんひさし本人ほんにん也病たおせ三月さんがつかいきょうなながつそくびょう逝。いぬいたかしみかどおやいたり其府たくさい奠,赐文忠ふみただ”。よし儿子ぶくかんやすしついふうよしみいさむぐんおう本人ほんにん也获つい赠郡おう

生平おいだいら

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出生しゅっしょう名門めいもん

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でんひさし出身しゅっしん於名もん,其先祖せんぞ旺吉つとむざいつとむなんじ哈赤おこりへい便びんりつぞくじん曾祖父そうそふ哈什たむろざいふとしむねあずか兩朝りょうちょうれつせい大臣だいじん[2],躋入當時とうじ清朝せいちょう最高さいこうけつさく中樞ちゅうすう祖父そふこめおもえ受知於康熙皇帝こうていなみ擢為戶部とべ尚書しょうしょれつせい大臣だいじんけんてい支持しじかん皇帝こうていぬし撤藩,たいかん熙朝恢復かいふく發展はってん社會しゃかい生產せいさん平定へいてい三藩之亂都起了積極作用,せいたたえほまれでんひさしてき伯父おじ斯喀、うまひとし和馬かずまたけやすし、雍兩あさ非常ひじょうあらわ赫的人物じんぶつでんひさしてき父親ちちおやさかえたもてかんいたり察哈しかそうかん[3]でんひさしてきあねあねそくこう贤纯皇后こうごう[4]

早年そうねん经历

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かんろくじゅういちねん正月しょうがつじゅういちにちでんひさし出生しゅっしょう,为李荣保幼子おさなご幼年ようねん丧父。でんひさしいぬいたかしねん(1740ねんにん蓝翎さむらいひさますにん头等さむらいいぬいたかしななねんろくがつゆかり御前ごぜんさむらいますにんためうち务府そうかん[5]管理かんり圆明园こと[6]いぬいたかし八年十月由內務府總管改任户部みぎさむらいろう[7][8]いぬいたかしきゅうねん生母せいぼ[9]いぬいたかしじゅういちねん担任たんにん军机大臣だいじん、户部みぎさむらいろう内大臣ないだいじんひさきさき转任户部ひだりさむらいろう[10]いぬいたかしじゅうねんますにん户部なお[11]兼任けんにん銮仪卫てのひら大臣だいじん、议政大臣だいじん殿しんがり试读まきかんかいてん馆副总裁、せい总裁[12]いぬいたかしじゅうさんねん(1748ねんさんがつこう贤纯皇后こうごう跟从いぬいたかしみかど东巡,かえしかい至德しとくしゅう时去でんひさし扈从随行ずいこう,办理丧葬ごと务。よんがついぬいたかしみかどよしみ奖其つとむ奋并つとむつき职守,太子たいしふとしとう时,首席しゅせき军机大臣だいじん讷亲りつ军进おさむ大小だいしょう金川かながわいぬいたかしみかど解除かいじょおもねかつあつし协办だい学士がくし职务授给でんひさしなみ让他けんかん吏部[13]

せい讨金かわ

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とう时,讷亲主持しゅうもち进攻金川かながわ,劳师无功。九月くがついぬいたかしみかど另遣でんひさし暂管かわ陕总とく,经略军务,旋即授かず殿どのだい学士がくし[12]。以户库房及诸ぎょうしょう银四ひゃくまんたかし军饷,また内帑ないどじゅうまん筹备犒赏。十一月じゅういちがつでんひさし启行,いぬいたかしみかど赐宴じゅう华宫,亲至どうぎょう告祭こくさい典礼てんれい,并命皇子おうじ及大学士がくしらいひとしおくいたりりょう[14]ずいきさきいぬいたかしみかど以傅恒行つねゆき军迅そく,纪律严明,いのち议叙,议加太子たいしふとしでん特命とくめいふとし[12]でんひさし固辞こじいぬいたかしみかど同意どうい[15]

さきまえ小金おがねがわしゃりょう尔吉诈降充当じゅうとう莎罗奔てき间谍。张广泗听从おうあきこれげん,让他带领少数しょうすう民族みんぞく军队,きよし军一ゆう举动,金川かながわ军立そく得知とくちでんひさし途中とちゅうじょう疏请もとめ诛杀りょう尔吉とうじんはたいた达军队时,副将ふくしょう马良ばしら招良尔吉ぜんらい迎接げいせついたくに噶山,せんしめせてきざいぎょう并诛杀了いぬいたかしみかど赞扬でんひさし英明えいめい果断かだん命令めいれいさいつぎ给双孔雀くじゃく翎,まこと许推[16]十二月じゅうにがつでんひさしいた达卡撒,はた军营うつり动到昔日せきじつ堡垒まえれい总兵冶大ゆう监视金川かながわ军营垒。いぬいたかしじゅうよんねん(1749ねん正月しょうがつでんひさしじょう分析ぶんせきさきぜん战败原因げんいんしゅ张分どう进攻[17]

いぬいたかしみかど认为金川かながわ并非だい敌,いたり此听说其地形ちけい险要难以おさむ,于是以孝圣宪皇后こうごう命令めいれいはん师,而傅恒正つねまさとくりつ总兵哈攀龙哈尚とくとうおさむすう碉堡。いぬいたかしみかど金川かながわすい险恶,赐给でんひさし人参にんじんさんきん屡次るじ诏召でんひさしかえしかいまた以孝圣宪皇后こうごう谕封でんひさし一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう,赐给宝石ほうせき顶、よん团龙补服[12]でんひさし上奏じょうそう坚决はん撤兵てっぺい,并力ふう赏,いぬいたかしみかど同意どうい[18]。此时,でんひさし及提とくたけ锺琪决策深入ふかいり,莎罗奔派头人乞降,でんひさし命令めいれい莎罗奔自缚前らい军营投降とうこう。莎罗奔又绰斯かぶととうはい访岳锺琪请求めんたけ锺琪亲自进入勒乌围,携莎罗奔及其ろうぜん往军营。でんひさし于是接受せつじゅ莎罗奔父子ふし投降とうこう[19]。莎罗奔献佛像ぶつぞう一座いちざ白金はっきんまん两,でんひさし退すさかい其金,莎罗奔请もとめよう金子かねこ为傅つねけんほこら[20]つぎでんひさしりつ军返かいいぬいたかしみかどよう励的诏书よしみ奖,按照扬古てき旧例きゅうれい,赐豹杆、亲军めい三月さんがつ,军队到达京师,いぬいたかしみかどいのちすめらぎ长子えい及裕亲王广禄ひとしいた郊外こうがい迎接げいせつひさきさきいぬいたかしみかど还为とみ察氏建立こんりゅうむねほこら祭祀さいしでんひさしてき曾祖そうそ祖父そふちちさんだい[21][22],并为でんひさし建造けんぞうだい东安门うち[23]

ひらじゅん噶尔

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いぬいたかしじゅうきゅうねん(1754ねん),じゅん噶尔内乱ないらんいぬいたかしみかど打算ださん对其用兵ようへい,询问群臣ぐんしん见,ただゆうでんひさし支持しじいぬいたかしじゅうねん(1755ねん),きよし军攻うらない犁,俘获达瓦齐いぬいたかしみかど诏再ふうでんひさし一等いっとうこうでんひさしじょう书坚ちょくいたりゅうなみだいぬいたかしみかど于是批准ひじゅんひさいぬいたかしみかどしょう百名功臣画像陈列于紫光阁,でんひさし荣居首位しゅい[24]いぬいたかしじゅういちねん(1756ねん),はたさくついおもねむつみ尔撒纳いぬいたかしみかどいのちでんひさし外出がいしゅつゆび挥军队,ぜんがくりん哈畢なんじ召集しょうしゅうこうむもろだいよしせい軍事ぐんじでんひさし发后,さく楞疏报到达,しょうやめりつへい深入ふかいりいぬいたかしみかど于是はたでんひさし召回[25]

せい讨缅甸

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いぬい隆三りゅうぞうじゅうさんねん(1768ねん),はたあかりみず进攻缅甸しつ败。がついぬいたかしみかど任命にんめいでんひさし为经りゃくおもねさとおもねかつらにんふく將軍しょうぐん舒赫とくにんさんさん大臣だいじん,进攻缅甸[26]つぎねんがつでんひさしりつ军出发,さんがついれうんみなみ。四月抵达边城腾越。いた达边さかいきさきでんひさし发现おう古山ふるやまゆう许多さんてんだい树,其中ひるくすのきよるえんじゅ两种树木造船ぞうせんてき上等じょうとう材料ざいりょう附近ふきん野牛やぎゅう凉爽无瘴,造船ぞうせんいち边命でんりつきよしさんせんみずうみ广工匠こうしょうよんひゃくろく十余人秘密赶造战船,一边制定水陆并进、ちょく捣缅甸都じょうおもねかわらてき军事计划。いぬいたかしみかど给予充分じゅうぶん肯定こうてい[27]

いぬい隆三りゅうぞうじゅうよんねん(1769ねんなながつでんひさしへい发腾えつ,对缅发动突袭,はつ战告とし[28]九月くがつ野牛やぎゅう坝战せん造成ぞうせいきよし军水陆并进,击溃缅甸すい军。じゅうがつおさむかつぜん缅军おさむうらないてき军事じゅうしんまち十一月じゅういちがつ,进攻ろうかんたむろろうかんたむろよしきた往南すい交通こうつう咽喉いんこうえきもり难攻,缅军设立木たちき寨、みず寨,すえ险坚こうきよし军未のうおさむかつ。且这一带烟雾缭绕,湿度しつど很大,みず恶劣,きよし军特别是久居ひさい北方ほっぽうてき满洲へい身体しんたい很不适应,かんへいしみじょう瘴疠やまし纷纷びょうたおせ[29]きよし军原有水ありみず陆军さんまんいちせん余人よにん死亡しぼう过半,遭受じゅう创。こげうん總督そうとくでん显、总兵吴士胜副将ふくしょうおもねさとふくえいみずほ提督ていとく五福ごふくかのうしょうとくとうしょう领均いんびょう逝世。しゅ帅傅恒也つねやしみじょう恶疾,いちびょうおこりいぬいたかしみかど获悉,颁谕れいいのちおもねかつら主持しゅうもち军事,でんひさしたてそくはん师回きょう[30]。适逢缅甸国王こくおう、缅军ぬし帅慑于清军兵也有やゆう罢兵乞和いぬいたかしみかどつくえ同意どうい前方ぜんぽうきよし军与缅方议和いき[31]

えいねんはや

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でんひさしざいせっいた缅甸国王こくおう乞降かたぶつきさき宣布せんぷ撤军,于乾隆三りゅうぞうじゅうよんねん(1769ねんかい驻虎うずくま关,いぬいたかしみかどいのちあずかうん贵总とくあきらしょう议裁减云みなみ总兵、员缺,りんじょうしゅう县旧せい[32]いぬい隆三りゅうぞうじゅうねん(1770ねんがつはん师回あさ三月さんがついぬいたかしみかどぜん天津てんしんでんひさしぜんあさ见。これきさき,缅甸国王こくおう谢罪ひょう长期未到みとういぬいたかしみかど说傅恒正つねまさざいやまいちゅうにんしん缅甸国王こくおうつみ。两个がつきさきでんひさしびょうじょう恶化。なながつじゅうさんにちでんひさしびょう逝,满五じゅう[6]いぬいたかしみかど对傅つね一生いっしょう以充ぶん肯定こうてい,亲登其府ざい灵前さいしゅ,并谕しめせ丧礼按宗しつ镇国こう规格办理,赐谥ごう文忠ふみただ”,せいだい学士がくしでんひさし碑文ひぶん》(翰林かんりん曹仁とらきょうせん),にゅう贤良ほこら[33]きさきらいいぬいたかしみかど赋诗悼念でんひさしよしみ许他为“社稷しゃしょくしん”。

よしみ庆元ねん(1796ねん),ぶくかんやすしほろびついふうためぐんおう連帶れんたい推恩赠傅つねぐんおう衔,并配とおるふとし[34]

成就じょうじゅ

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軍事ぐんじ

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いぬいたかしじゅうさんねん(1748ねんきゅうがつでんひさし以戶尚書しょうしょきょう辦大學士がくししょかわ陝總とく[35]さん個月かげつおさむ金川かながわ[36]いぬいたかしじゅうきゅうねん(1754ねん),ざいはりたいじゅん噶爾內亂朝廷ちょうていいやよう派兵はへい鎮壓ちんあつてき問題もんだいじょうただゆうでんひさしけんけつ站在いぬいたかしみかどいちへんもち支持しじ態度たいど[37]いぬいたかしじゅうねん(1755ねんろくがつじゅん噶爾みだれせい軍平ぐんぺいいきでんひさし眼光がんこう獨特どくとくいぬい隆三りゅうぞうじゅうよんねん(1769ねんでんひさしとくはる[38]前期ぜんき取得しゅとく階段かいだんせい勝利しょうりただし後期こうきよし於清軍水ぐんすい不服ふふくてき原因げんいん造成ぞうせい大量たいりょう人員じんいん減損げんそんしゅそちでんひさしまた染上そめあが惡疾あくしついちねん

不可ふか否認ひにんてきでんひさし頗具軍事ぐんじ眼光がんこう,也確ぞく軍事ぐんじ人才じんさい。其指揮しき平準へいじゅん噶爾、大金おおがねがわはる甸戰やくひとしためいぬいたかし十全じゅうぜん武功ぶこう”做出重要じゅうよう貢獻こうけん

文化ぶんか

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でんひさし文武ぶんぶそうぜん,其作品さくひん範圍はんい較廣,あるじへん參與さんよりょうしゅうえきじゅつよし》、《春秋しゅんじゅうちょくかい》、《西域せいいき同文どうぶんこころざし》、《ぞうてい清文せいぶんあきら》、《つけあきらからかつら二王におう本末ほんまつ》、 《平定へいていじゅん噶爾方略ほうりゃく》、《すめらぎあさしょくみつぎ》、《吏部そくれい》、《欽定きんてい折中せっちゅう》、《欽定きんていだいしんかいてん》、《欽定きんていつとむのりれい》、《西域せいいき》、 《批歷だいどおりかん輯覽》てきせんうつし工作こうさくふか受乾たかしみかどたたえほまれ[39]

评价

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でんひさしいぬいたかしみかどてき寵臣ちょうしんざい軍機ぐんきしょ23ねん,“にちさむらい左右さゆう”,たいまいけんおき”,“毫無おご汰之じょう”。

清史きよし稿こう》:“でんひさし以受くだかえとくこころまことちぎり以其謹慎きんしん藉貴戚功ばつ重也しげや。”[40]

いぬいたかしみかど:“胄元しん与国よこく休戚きゅうせき早年そうねん金川かながわまたけんこと绩。じょうさく西にし师,ただなんじどう酇侯战,むべきょくびこう。”[41]

いちやま曾说:“いぬいたかしちゅう,满大学士がくしこえたくちょ,备蒙おん眷者,ぜんゆうでんひさしきさきゆうおもねかつら,而中かのういん继善、舒赫とくまた并以阃外こうにゅう赞纶つくえみな满人ちゅう佼佼しゃ也。”“いぬい隆之たかゆきもり,斯亦用人ようにんこうやめ初年しょねんゆうちょう廷玉つとむまき,鄂爾泰之やすゆき練達れんたつ中年ちゅうねんゆうりゅうみつるくんみきずみでんひさしちょうめぐみ勳功くんこう,其餘嵇氏父子ふしちん倌、ふみ貽直、ちんだい受、ひろしゆかりあつしりょうただしいんつぎぜんまごよしみあかちんひろしはかりごとりゅう綸等,またみな忠正ただまさ有為ゆういそくばんかずせんせいあさつなだい壞,またなおゆうおもねかつらおう杰之ただしおもね人才じんさい濟濟せいせいとくあかりどう,而後乃有政治せいじげん。”[42]

蔡東はん:“でんひさしおもねかつらけいいぬいたかしちょう名將めいしょうそもそもまたいぬいたかしちょうぶくしょう有明ありあけみずしょうもうそだて,而後でんひさし慎重しんちょうはたことゆうゆたかぶく戰死せんしはて,而後おもねかつら乃堅にん成功せいこう天下てんかごとけいいち失敗しっぱいはじめぞういちばん懲創,あきらみずゆたかぶく不幸ふこうそく所以ゆえんなりでんおもねにんこうみみでんおもねにん歿,嗣後ゆう名將めいしょうしょうぶくはたいぬいたかしちょうためきよししつごく盛時せいじだいまたそくしんしつちゅうおとろえ時代じだい。”[43]

家族かぞくなり

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たく恩多おんた一族於乾隆24ねん抬入满洲鑲紅いぬいたかし33ねんたく恩多おんたよしよしみすめらぎ贵妃けいきむまいり劾革职,ゆかりぶくりゅうやすしせっがえたく恩多おんたいぬいたかし34ねんたく恩多おんたたくゆかり罗愉きょうぐんおうひろし庆三女及其額駙景亮认买[46]

爵承かさね[47]

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一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう
でんひさし
いぬいたかしじゅうよんねん正月しょうがつはじめふう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう
ぶくりゅうやすし
いぬい隆三りゅうぞうじゅうねんうるうさんがついちかさね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう
ゆたかしんずみりん
いぬいたかしよんじゅうきゅうねんかさね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう
とみ勒琿しこりたま
よしみけいじゅうねん十二月じゅうにがつさんかさね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう
けいきょう
みちこうきゅうねん十二月じゅうにがつよんかさね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう
はてひとしへりくだ
咸豐ろくねんかさね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一等いっとう忠勇ちゅうゆうこう
まつ椿つばき
ひかりいとぐちじゅうななねんろくかさね
はてひとしへりくだ嗣子しし
 
 

かげ作品さくひん

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出品しゅっぴん時間じかん かげ作品さくひん かざりえんじえんじいん
1985 すめらぎ上保かみのほじゅう こく
1988 滿まんきよしじゅうさんすめらぎあさ2 くまとくまこと
1997 かえたまかくかく ちょうたかし
2001 才子さいし佳人かじんいぬいたかしすめらぎ 維德
2005 まもるかん 楊俊あつし
2011 しんかえたまかくかく 邢瀚きょう
2018 のべ攻略こうりゃく もと
2018 如懿でん 賈延りゅう

注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ いち农记じょ[44]萧猛えい宪录·まきさんしょうでんひさし为“あきら婿むこ”。《钦定だいしんかいてん事例じれい·まきさんろくろく·まきななきゅうきゅうしょうでんひさし夫人ふじん为“ひしげ”。
  2. ^ 2.0 2.1 いち农记じょ[44]永寿えいじゅ为揆かたてき嫡长永寿えいじゅ为次庶子しょし伯父おじ揆叙逝世きさき永寿ながとし过继于他,ねん永福えいふくさい过继于揆じょ

延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:清史きよし稿こう·まき301》,出自しゅつじちょうなんじたつみ清史きよし稿こう

参考さんこう文献ぶんけん

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引用いんよう

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  1. ^ ひろしひるひとし. 《八旗满洲氏族通谱》. 辽海出版しゅっぱんしゃ. 2002: 326. ISBN 9787806691892. 
  2. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき268):“こめおもえ翰,とみ察氏,滿まんしゅう鑲黃はたじんさききょすなずみ曾祖そうそ旺吉つとむとうふとしりつぞくらい,授牛ろくがくしんちち哈什たむろことふとそう,以侍まもるかさねかんうしろく。擢禮參政さんせいあらためふく理事りじかん。討瓦なんじ喀,招明そうへい沈志さちしたがえおさむにしきしゅうあきらそう兵曹へいそうへんみずち夜襲やしゅう營,さき眾扞禦,そう力戰りきせん卻之。順治じゅんじはつ,授內大臣だいじんせい大臣だいじんせいしょく屢進一等阿達哈哈番兼拖沙喇哈番。”
  3. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき268):“さかえたもてかさねしょくけんかんうしろくるい遷至察哈しかそうかんそついぬいたかしねんさつさかえおんなため皇后こうごうついふう一等いっとうこうじゅうさんねんさつおくりなこうけん皇后こうごう,推恩さきしんふうまいおもえ一等いっとうこうじゅうよんねん,以李さかえ保子やすこだい學士がくしでんひさし經略けいりゃく金川かながわいさお,敕建むねほこらまつ哈什たむろべいおもえ翰、さかえたもてなみついおくりなさかえ曰莊愨。”
  4. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“でんひさしはるとみ察氏,滿まんしゅう鑲黃はたじんこうけんじゅん皇后こうごうおとうと也。”
  5. ^ いぬいたかしちょう實錄じつろくまき169 ○谕曰。つね明年みょうねんろう。现今患病不能ふのう办事。其领さむらい卫内だい臣事しんじ务。しるたいりょう总管ない务府大臣だいじんふつ伦署ふつ伦所遗陵总管ない务府大臣だいじん员缺。ちょまき场总かん觉和たく补授。其牧场总かん员缺。ちょない务府总管とうあきられい拣选应升じん员。带领引见。觉和たくしょ遗员かけそくちょ协理だい站事务总かんはくやすしけんだい站事务。俟牧场总かん员缺补授じん员时。应否れい其兼だい站事务之处。另降谕旨。さいうち务府总管とうかくゆうけん理之まさゆきごとまたゆうひとすんで无专办人员。ちょ御前ごぜんさむらい卫。でんひさし、补授ない务府总管。がく习办
  6. ^ 6.0 6.1 清史きよしれつ传》さんさつ,まきじゅう
  7. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“でんひさしさむらいまもる洊擢戶部とべさむらいろう。”
  8. ^ いぬいたかしちょう實錄じつろくまき203 ○以山西にしじゅん抚刘于义、为户なお书。户部みぎさむらいろうおもねさと衮、为山西にしじゅん抚。うち务府总管でんひさし、为户みぎさむらいろう。以吏ひだりさむらいろう蒋溥、实授湖南こなんじゅん抚。はらつとむ户部みぎさむらいろう归宣こう、为吏ひだりさむらいろう。以刑ひだりさむらいろうしゅうがくけん、实授福建ふっけんじゅん抚。うち阁学けんれいさむらいろう彭启丰、为刑ひだりさむらいろう
  9. ^ そん副本ふくほん. [2020-12-18]. (原始げんし内容ないようそん于2020-07-21). 
  10. ^ くにあさ耆献类征はつ编》さつ,2801-2808
  11. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“いぬいたかしじゅうねんろくがついのちざい軍機ぐんきしょぎょうはしじゅうねん,擢戶尚書しょうしょ。”
  12. ^ 12.0 12.1 12.2 12.3 清國きよくにかんでん稿こう,5730ごう
  13. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“じゅうさんねんさんがつこうけんじゅん皇后こうごうしたがえ上南かみなじゅんかえ至德しとくしゅうくずれでんひさし扈行,てんよんがつ,敕獎其勤つとむ太子たいしふとしとき訥親金川かながわかい尚書しょうしょおもねかつあつしきょう辦大學士がくし以授でんひさしなみけんりょう吏部。”
  14. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“訥親すんでこうきゅうがついのちでんひさし暫管かわ陝總とく經略けいりゃく軍務ぐんむひろ授保かず殿どのだい學士がくしはつ京師けいし諸行しょぎょうしょう滿みつるかんへいさんまんせん,以部諸行しょぎょうしょうぎんよんひゃくまんきょうぐんもうかまた內帑じゅうまん備犒しょう十一月じゅういちがつもろゆきうえまいどうつげ察,皇子おうじ及大學士がくしらいとうおくいたり良鄉よしさと。”
  15. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“でんひさしすんでぎょううえくだみことのり褒勉。でんひさし互道陝西せんせいげんえきせいおさむあやまぐんきょううえいのちきょう辦大學士がくし尚書しょうしょいんつぎぜん陝西せんせい總督そうとくしゅ饋運。にゅう四川しせんさかいうまきゅううえまたいのちいんつぎぜん往來おうらいがわ、陝督察。旋以でんひさしぎょう甚速,紀律きりついむあきらいのち敘,太子たいしふとしでん特命とくめい加太かだ固辭こじまことはつ京師けいし及山西にし湖北こほくななせんぐん。”
  16. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“はつ小金おがねがわしゃりょうしかよしあいだ其兄さわ旺於莎羅奔,だつ其印,そく烝於あによめおもね扣。莎羅奔之はんあたり也,しかよしみのるしたがえこれこういつわりくだためぞく諜。ちょうひろ泗入奸民おうあきごと使つかいりょう蠻兵,わが舉動,ぞく輒知でんひさし途中とちゅう疏請誅良しかよしひとしはたいたりぐん使つかい副將ふくしょううまりょうばしら招良しかよし來迎らいごういたりくに噶山,せい其罪,なみおもね扣、おうあき悉誅こと聞,うえ褒傅つね明斷めいだんいのちはいぜんたまもの雙眼そうがん孔雀くじゃく翎,毋更固辭こじ。”
  17. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“じゅうがついたり卡撒,以屯ぐん狹隘きょうあいあずかぞくしょうもち,且雜しょばんみん肆中,乃相うつりきゅうるいまえれいそうへい冶大ゆうかん營壘。じゅうよんねん正月しょうがつうえ疏言:「しんいたりぐん,察用へい始末しまつとうやましん討之はじめうまりょうはしら轉戰てんせん而前,逾沃日收にっしゅうしょう金川かながわただし抵丹噶,其鋒甚銳。かれちょうひろ泗若そくしんぞく備未げん,殄滅なおえき;乃坐しつごとそうそうあきら宿やどとめ雜穀ざっこくもとおうとらはい衄於てき郊,ぞくとくつきよりどころ險要けんようぞう碉備禦。訥親はついたり督戰とくせん甚急,にん舉敗ぼつするどくじけさくぐん鬥志,一以軍事委張廣泗。こう泗又ため奸人しょせんぬしおさむ碉。先後せんご殺傷さっしょうすうせんにん,匿不以聞。しんおもんみおさむ碉最ため下策げさくやりほう不能ふのうほらけんかべ,於賊しょきずぞくすうにんくらげきあきらやりきょはつわがおもんみおさむせき,而賊じつおさむじんぞく於碉外為がいためほりへい不能ふのうえつぞくふく其中,したげきじょう。其碉するどりつこう浮屠ふとけんさく甚捷,數日すうじつなり,旋缺旋補。且眾こころ甚固,碉盡碎而ほうかた而復おこりきゃくぬしろう佚,形勢けいせい迥殊,おさむ一碉難於克一城。そくしんしょちゅう卡撒,左右山そやまさんひゃくあまり碉,けい以攻,すうねん不能ふのうつき。且得いち碉輒きずすうじゅうひゃくにんとくつぐなえしつ兵法ひょうほうおさむけんそくきずしゃけんおさむきずそくけんしゃきずおもんみ使ぞくしつしょ恃,わがへい乃可よう其所ちょうなずらえ俟諸ぐんだいしゅうふんどう而進。べつせんするどつくりさがせ間道かんどう,裹糧直入なおいり,逾碉勿攻,にょう其後。ばん眾不そと備既みつ,內守必虛。わがへいすんで捷徑しょうけい深入ふかいりもりしゃかくふところ內顧,にんかたこころざしひとしおさむつぶせ。卡撒ためしん噶拉正道せいどうみねだかみぞ窄,しんとう親任しんにん其難。とう壩隘けわしまたいくどう卡撒,しゃくえきしんぐん兩道りょうどう並進へいしんちょく搗巢あな其渠さきがけよんがつ間奏かんそうとし。」”
  18. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“うえ金川かながわ大敵たいてきろうりょう,誅大臣だいじんしつりょうはた,內不懌。及是聞其險難けんなんえきよく竟其ごととげ以孝ひじりけん皇后こうごうさとしいのちはん,而傅つねかたとくそうへい哈攀りゅう、哈尚とくとうおさむすう碉。うえ金川かながわすいあくたまものでん恆人つねとさんきんなみ及諸しょうゆう,屢詔召傅つねかえまた以孝ひじりけん皇后こうごうさとしふう一等いっとう忠勇ちゅうゆうこうたまもの寶石ほうせきいただきよんだんりゅうふくでんひさしそうごと:「金川かながわこといちあやまこんふく輕率けいそつ蕆事,ぞく焰愈はり。眾土みなかか其毒,へん宇將寧日ねいじつしん形勢けいせいぞく碉非つきとうみち,其巢みな老弱ろうじゃくわがへい且戰且前,むかしみね中峰なかみねちょく抵噶ひしげ破竹はちくけん瓴,いさおざいたれなり,棄之惜。且臣受詔出師すいしわか掃穴とりこみぞなにがおかえしいのち?」なみりょくふうしょううえまことみことのりいい:「匈奴きょうどほろび以家ため,乃驃姚武じんするど往之がいだい學士がくし抒誠さんあにあずかかぶと鍪閫そちそういちにち績? 」反覆はんぷくるいすう千言せんげんふくたまもの喻指。”
  19. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“ときでんひさし及提とくだけ鍾琪けつさく深入ふかいり,莎羅奔遣あたまじん乞降,でんひさしれい自縛じばくまい軍門ぐんもん。莎羅奔復かい綽斯かぶととうまいたけ鍾琪乞貸,鍾琪おやにゅう勒烏かこえ,挈莎奔及其子ろう卡詣軍門ぐんもんかたりしょう鍾琪でんでんひさしとげ受莎父子ふしくだ,莎羅奔等焚香作樂さくらちかいろくことはん鄰比しょつがえはん其侵きょうやくしょけんじしょ酋抗わがしゃかえところかすめ內地みんおさめぐん械槍ほう,乃承せい赦其ざい。”
  20. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“莎羅奔獻佛像ぶつぞういち白金しろがねよろずでんひさし卻其きん,莎羅奔請以金ためでんひさしけんほこら。”
  21. ^ 21.0 21.1 21.2 21.3 欽定きんていすめらぎあさどおりてん·まきじゅう功臣こうしんせんほこら[……]いぬいたかしねんいのちさいまつりひろしあつしおおやけがくまたほこらほこらざい安定あんてい門外もんがい春秋しゅんじゅう諏吉そく其本むねほこらかん致祭 じゅうよんねんさんがつさとしじんほうほんまこと必念なんじ國家こっかむくいいさおてん爰及所生しょせいだい學士がくしこうでんひさし夙夜せん猷贊じょうつとむ[……]せいほこらあいだ太子たいしふとし大臣だいじんせい大臣だいじん內務總督そうとく一等いっとうおとこついふう一等いっとうこうおくりなつとむ僖哈たむろ居中きょちゅういちひん夫人ふじんさとしはい戶部とべ尚書しょうしょ內務そうかん一等いっとうおとこついふう一等いっとうこうおくりなさとしひがしまいおもえ翰左以いちひん夫人ふじんきよしけいさとしはくなんじずみきちとくはい一等いっとうおとこけん察哈しかそうかん追贈ついぞう一等公諡壯愨李榮保右以一品夫人覺羅氏配[……]
  22. ^ 22.0 22.1 22.2 22.3 すめらぎあさ文獻ぶんけんどおりこう·まきいちひゃくじゅうさんいぬいたかしじゅうよんねんさんがつおつ夘立太子たいしふとし保内ほない大臣だいじんついふう一等いっとううけたまわおんこうおくりなつとむ僖哈たむろ户部尚書しょうしょ内務ないむそうかんついふう一等いっとううけたまわおんこうおくりなさとしはてまいおもえ翰一等男兼察哈爾總管追贈一等承恩公諡壯慤李榮保祠 すめらぎ上諭じょうゆじんほうほんまこと必念なんじ國家こっかむくいいさおてん爰及所生しょせい[……]ないしつらえさんあんつとむ僖公居中きょちゅういちひん夫人ふじんさとしはいさとはてこうひだりいちひん夫人ふじんきよしけいさとしはくなんじずみきちとくはいたけし慤公みぎいちひん夫人ふじんさとしはい嵗以春秋しゅんじゅうなかがつ諏吉ふとつねてらきょう致祭祝辭しゅくじ曰維ぼう年月日ねんがっぴ[……]
  23. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“翌日よくじつでんひさしりつかえうえゆうみことのりよしみ獎,いのちようあげ故事こじたまものひょうやり桿、おやぐんめい三月さんがついたり京師けいしいのちすめらぎ長子ちょうし及裕親王しんのうとう郊迎。うえ御殿ごてん受賀,ぎょういんいたりれいでんひさし疏辭よんだんりゅうふくうえいのちふく入朝にゅうちょう復命ふくめいようがくまた、佟國維故事こじたてはじめほこらまつ曾祖そうそ哈什たむろ以下いかなみついさかえおくりなたまものだいひがしやすもん內,以詩落其なり。”
  24. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“じゅうきゅうねんじゅん噶爾內亂,しょだいよし內附。うえすすむ用兵ようへいはか廷臣ていしんおもんみでんひさしさん其議。じゅうねんかつ犁,俘達かわらひとし以歸,さとしさいふう一等いっとうこうでんひさし固辭こじいたり泣下,乃允ひろ功臣こうしんぞうむらさきひかりかくうえおやせいさん,仍以ためかんむり,舉蕭なん不戰ふせんきょくびこうため。”
  25. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“じゅういちねんよんがつ將軍しょうぐんさく楞追おもねむつみなんじ撒納うえいのちでんひさし,赴額りん哈畢なんじ噶,しゅうこうむしょたいきち軍事ぐんじでん恆行つねゆきさく楞疏いたりやめりつへい深入ふかいりふく召傅つねかえ。”
  26. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“さんじゅうさんねん將軍しょうぐんあかりみずしるしはる甸敗績,がつ,授傅つね經略けいりゃくとくときおもねさと袞以ふく將軍しょうぐんぬし軍事ぐんじうえなみ授阿かつらふく將軍しょうぐん、舒赫とくさんさん大臣だいじんいのち舒赫とくさき赴雲みなみあずかおもねさと袞籌進軍しんぐん。”
  27. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“さんじゅうよんねんがつでんひさしぎょうはつ京師けいし及滿、こうむへいいちまんさんせんろくひゃくにんしたがえせいうえふとしかず殿どのたまもの敕,賚御よう甲冑かっちゅうよんがついたりあがえつでんひさしけつさく循戛ばとこう而進,大兵だいひょう江西えにしみちもう拱、もうやしなえちょく搗木くしけずみず沿江じゅん流下りゅうか水陸すいりく相應そうおうへん江東こうとうもうみつ夾擊きょうげきろうかんたむろ往歲おうさい以避瘴,きゅうがつ後進こうしんへいはる甸得ため備。でんひさし互議さきすうじゅうにち不意ふいおさむ其未備,みずとうぶねうえはついのちおもねさと袞造ふねずみおもねさと袞等げんがけけん澗窄むべふねはたこうまたみやつこふねしょうえまたいのちさんやすしでんあらわ往視,げんあずかおもねさと袞等どう。及傅つねいたりぐんはかつかさあたまじん蠻暮有山ありやま曰翁ふるつくりゆう曰野うし壩,野人やじんしょりょう爽無瘴。そく伐木ばつぼくづくりふね野人やじんらく受值,やく甚謹。でんひさしそく使つかいでんあらわ蒞事。ふねなりとく滿まんかんへいなみしたがえくだり奴僕どぼくさらばんうたて搬。またとくしげるたかししょう附近ふきんほうこうれいはんどうためほうじょう聞,輒降むねよしみ獎,ためづくり舟行しゅうこう焉。”
  28. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“でんひさしはつしょう九千三百人渡戛鳩而西,しゅうなながつはたよんせんにんはつあがこしうえ經略けいりゃくしょう寡,促諸ぐんそくしゅう如初はちがつでんひさしみなみ蚌趨戛鳩。そういたり上方かみがたこうかこえ木蘭もくれんにゅうかこえ狍,畀福たかしやす以賜でんひさしでんひさしどうみなみそこ壩至まことぼう,臨戛ばともう拱大あたまじんだつもうがらすたけしあたまじんへいとうまいでんひさし請降。いたりだつもうがらすもうしょう夾江しょえびす寨頭じん來迎らいごう與賀よかへいぶねでんひさしいのちぶんへいじょわたる,夾江ため寨猛拱后渾覺また請降,けんじ馴象よんうえさん孔雀くじゃく翎,でんひさし疏辭。ふくしんもうやしなえやぶ寨四,誅頭じんひしげ匿拉さいしつらえだい站,れい瑚爾おこりななひゃくにんちゅうもり。”
  29. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“とげいたりみなみただしみきおさむみなみじゅん寨,あたまじんたけしとうさんじゅうにんすすむくれ臘,さいすすむ次新つぎしんがいでんひさしわたり戛鳩こう嘗與はる甸兵せんかり禾為かてぎょう千里せんり,而士さわあつ疾病しっぺいかいおもねかつらすすむ萬餘人自虎踞關出野牛壩,みやつこぶね畢成,しるし廣東かんとんぶく建水けんすいまたいたり,乃合ぐん並進へいしん。哈國きょうはたみずおもねかつらおもねさと袞將りくおもねかつらいずる江東こうとうおもねさと袞出江西えにしはるへいるい金沙江きむしゃこうりょうきしまた以舟扼江こうおもねかつらさきあずかはるへいぐう,麾步へいはつじゅうまた以騎へいおちいじんはるへいつぶせ。哈國きょうとくぶねじょうふうてきはるへいふねしょうげき死者ししゃすうせんおもねさと袞亦やぶ西岸せいがんはるへいでんひさし以所纛進。うえふくためおもねさと袞感瘴而びょうあらためはたみず,旋卒。十一月じゅういちがつでんひさしふく進攻しんこうろうかんたむろろうかんたむろざい金沙江きむしゃこうひがしひがしもうみつ西にしたけし墅,きたたけし拱、もうやしなえみなみはるおもねかわらため水陸すいりくどおり衢。はるへい伐木ばつぼくりつ寨甚かた,哈國きょうとくしょぐんりょくおさむそくかつやぶ東南とうなん寨,はるへいよるみず寨出,でんひさしれいうみらん察御またれい勒圖とくぶね掩擊,ふくせん纛。はるへいせんいたりがんちくるいまたはやし箐中うみらん察擊,屢有くび。”
  30. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“ひさしおさむけん士卒しそつしみ瘴多物故ぶっこ水陸すいりくぐんさんまんいちせんいたり僅存いちまんさんせんでんひさし以入つげうえいのちやめへい,召傅つねかえきょうでんひさしにわかまたやめおもねかつら以聞。うえれいそくはせえきかえ,而以軍事ぐんじづけおもねかつら。”
  31. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“かいはる甸酋懵駁遣あたまじんだくなんじとう齎蒲葉書はがき乞罷へいでんひさしそういれうえもと其行なりでんひさし疏言:「用兵ようへいはじめ,眾以ためなんしん請行,委任いにん,請從重治しげはるざい。」上手じょうずみことのりいい:「用兵ようへいとくやめ,如以ためちんとうくびにん其過。皇祖こうそ三桂請撤籓,はか群臣ぐんしん撤者おもんみまいおもえ翰、あきらたますうにん。及三かつらはん,眾請誅議撤諸しん皇祖こうそふか闢其ちんおおせ紹祖くんでんひさし此事,援以しょうでんひさしおさむもう拱,とうたまものさん孔雀くじゃく翎,疏辭,俟功なりはいたまものこんすんでかつぞくとう繳進たまもの翎,以稱其請ざい。」懵駁遣あたまじんまいぐんけんじかたぶつ。”
  32. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“じゅうがつでんひさしかえちゅうとらうずくませきうえいのちでんひさしかいくも總督そうとくあきらたからげん雲南うんなんそうへいいんかけ,釐正しゅうけん舊制きゅうせい。”
  33. ^ 载《钦定はちはたどおりこころざしはちはたまつてんまき82。
  34. ^ みんこく·赵尔たつみひとし,《清史きよし稿こう》(まき301):“さんじゅうよんねんがつはん三月さんがつうえみゆき天津てんしんでんひさしあさゆきざいすんで而緬甸酋謝罪しゃざいひょうひさしいたりうえいいでんひさしかたびょうしのぶおさむ其罪。なながつそつうえ親臨しんりん其第酹酒,いのちそう宗室そうしつ鎮國こうおくりな文忠ふみただまたいのちいれまつぜんところたてはじめほこら。其後じょうふくこう天津てんしんねんでんひさし於此復命ふくめいまたけいでんひさしはかたまもの奠,みな以詩。及賦懷舊かいきゅうもとため社稷しゃしょくしん」。よしみけい元年がんねん,以福やすし安平あびらなえこうおくかいぶくかんやすしそつ,推恩おくぐんおう銜,旋並いのちはいとおるふとしびょう。”
  35. ^ 清史きよし稿こう·でんひさしでん》:とき訥親金川かながわかい尚書しょうしょおもねかつあつしきょう辦大學士がくし以授でんひさしなみけんりょう吏部。訥親すんでこうきゅうがついのちでんひさし暫管かわ陝總とく經略けいりゃく軍務ぐんむ
  36. ^ 清史きよし稿こう·でんひさしでん》:でんひさし及提とくだけ鍾琪けつさく深入ふかいり,莎羅奔遣あたまじん乞降,でんひさしれい自縛じばくまい軍門ぐんもんでんひさしとげ受莎父子ふしくだ
  37. ^ 清史きよし稿こう·でんひさしでん》:じゅうきゅうねんじゅん噶爾內亂,しょだいよし內附。うえすすむ用兵ようへいはか廷臣ていしんおもんみでんひさしさん其議。
  38. ^ 清史きよし稿こう·でんひさしでん》: さんじゅうさんねん將軍しょうぐんあかりみずしるしはる甸敗績,がつ,授傅つね經略けいりゃくとく
  39. ^ まいり清高きよたかそう實錄じつろくだいかん
  40. ^ 清史きよし稿こう· 列傳れつでんはちじゅうはち國學こくがくもう
  41. ^ むらさきひかり功臣こうしんぞう
  42. ^ きよしだい通史つうしだいかんだいいちへん
  43. ^ でん經略けいりゃく暫平みなみふくおもね將軍しょうぐんさいじょう金川かながわ國學こくがくしるべこう
  44. ^ 44.0 44.1 44.2 いち农. 《从纳兰氏四姊妹的婚姻析探〈红楼梦〉てきほんごと. 清史きよし研究けんきゅう (北京ぺきん: 中国ちゅうごく人民じんみん大学だいがく). 2012, (2012ねんだい04). ISSN 1002-8587. (原始げんし内容ないようそん于2018-11-15) (简体ちゅうぶん. 
  45. ^ おう怀琳. ぶくかんやすしいぬいたかしてき私生子しせいじ吗?. 凤凰网. 2018-08-28 [2018-11-13]. (原始げんし内容ないようそん于2018-11-13). 
  46. ^ だい一历史档案馆
  47. ^ 清史きよし稿こうまきいちひゃくろくじゅうはちひょうはちしょしんふう爵世ひょういち

书目

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まいり

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かん
前任ぜんにん
うみもち
清朝せいちょう戶部とべ滿みつる尚書しょうしょ
いぬいたかしじゅうねんさんがつ丙午ひのえうま - いぬいたかしじゅうさんねんじゅうがつちょう
1747ねん4がつ25にち-1748ねん11月26にち
つぎにん
いんつぎぜん

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