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姜维 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

きょう

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
重定しげさだこうきょう
きょう
曹魏ちゅうろうまいり天水てんすいぐん軍事ぐんじ
しょくかんくらじょうたてまつはたなかかんぐんせい西にし將軍しょうぐんみぎ监军辅汉はた军→司馬しば鎮西ちんぜい大將軍だいしょうぐんりょうりょうしゅう刺史ししまもる將軍しょうぐんくだり尚書しょうしょことかりふしとくこく內外軍事ぐんじ大將軍だいしょうぐん請貶ためこう將軍しょうぐんくだり大將たいしょう軍事ぐんじふくため大將軍だいしょうぐん
前任ぜんにん
つぎにんすえにん
姜维
きょう維畫ぞう
大將軍だいしょうぐんみやこただし
國家こっか曹魏しょくかん
時代じだいひがしかんまつねんさんこく時代じだい
主君しゅくん曹丕曹叡りゅうぜん
せいきょう
はくやく
しょくかんとくこく內外軍事ぐんじ
ふうとうちんこうたいらじょうほう
せきぬき凉州天水てんすいぐん冀县(いまあま肃省天水てんすいあまたに县)
出生しゅっしょうひがしかんたてやすしななねん202ねん
りょうしゅう天水てんすいぐん冀縣
逝世曹魏景元かげもとねん264ねん3月3にち)(62さい) 
えきしゅうしょくぐん成都せいとけん
谥号開明かいめいおう西にしたかしついふう
はかそうきょう維墓
おやぞく
父親ちちおやきょう

きょう(202ねん—264ねん3がつ3にち[1]はくやくりょうしゅう天水てんすいぐん冀縣いま甘肅かんせいしょう天水てんすいあまたにけんにんさんこく時期じきしょくかん著名ちょめい軍事ぐんじはら曹魏天水てんすいぐんちゅうろうしょうくだしょくかんふかしょかずらあきらうつわじゅう蒋琬先後せんご逝世きょう維總りょうしょくかんぐん权,なみ先後せんごじゅういち。其後,司馬しばあきらめつしょくかんきょう維在けんかくぼうもり鍾會鄧艾へいしたがえ陰平かげひら小路こうじれきけい艱辛,突然とつぜん現在げんざい成都せいと附近ふきんしょかずら亮子あきこしょかずら戰死せんしぬしりゅうぜんくだしょくかん滅亡めつぼう[2]:9きょう打算ださん利用りよう鍾會てき野心やしんふくこくとげ於鍾かいなみ共同きょうどう發動はつどう叛亂はんらんただしいんごとはい於亂ぐんなか享年きょうねんろくじゅうさい

生平おいだいら

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りょうしゅう異才いさい

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良田よしだひゃく顷,不在ふざいいち亩;ただしゆう远志不在ふざいとう
とく母親ははおやしょれいもとめとうきょう維覆母親ははおやしょ, 三国志さんごくし·きょう维传》ちゅう引《杂记》

きょう出生しゅっしょう于202ねん父親ちちおやきょう冏是天水てんすいぐんもりてき佐官さかん,曾任こおりいさお曹,早年そうねんえびす叛亂はんらんちゅう戰死せんしすなじょうきょう維與母親ははおやしょうためめいじ歡漢あさ學者がくしゃていげん學說がくせつときつねゆい交一些豪傑ごうけつ暗中あんちゅうやしなえりょう心中しんちゅうのゆう大志たいしはつため曹魏ちゅうろう[3]まいり天水てんすいぐん軍事ぐんじ[4]:1062けんろくねん(228ねん诸葛あきら出兵しゅっぺい祁山きょう維及こうりょうおも簿いんしゅりょうけんひとしただしあずか天水てんすい太守たいしゅ马遵、雍州刺史ししかく外出がいしゅつじゅん视,马遵听到しょく军将いたり诸县响应,怀疑其麾てききょう維等じんみなゆう异心,とげ趁夜逃到うえとうきょう維等じん察觉马遵やめ逃走とうそうそうかいただししろ门已关闭。冀城,也被こばめ門外もんがいとげ投降とうこうしょかずらあきらきょう维母亲则滞留たいりゅうこく[5]

颐和园长ろうじょうてきおさむきょう维”じょう

しょかずらあきらちょう辟姜維為くら曹掾,たてまつ义将军,ふうとうちんこうねん27岁。诸葛あきら曾與ちょう蔣琬しょしょう:「きょう忠勤ちゅうきん時事じじ思慮しりょ精密せいみつ考察こうさつ他所よそようゆう才能さいのううまりょううえ。此人,乃りょうしゅうこれ上等じょうとう人才じんさい。」(ゆう一說為涼州最傑出之人)またせつ:「きょう維在軍事ぐんじじょう很有見解けんかいすんでゆうきもしょくあきら義理ぎりふかかい兵法ひょうほう。此人しんそんかんしつ才能さいのう兼備けんび於人,須先きょうみさおねりちゅうとら步兵ほへいろくせんにんはた軍事ぐんじ全教ぜんきょうきゅうとうおびすすむみや,覲見天子てんし。」後來こうらいきょう維遷ためちゅうかんぐんせい西にし將軍しょうぐん

軍旅ぐんりょ生涯しょうがい

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234ねん,诸葛あきら五丈原ごじょうげんきさききょう維返かい成都せいとためみぎ监军、辅汉はた军,统率诸军,进封たいらじょうけんこう。238ねんずい大將軍だいしょうぐん蔣琬しょかずらあきら後繼こうけいしゃ)遷往かんちゅう蔣琬ひさますためだい司馬しば便びん以姜維為司馬しば數次すうじりつへんぐん西入にしいり。243ねんますため鎮西ちんぜい大將軍だいしょうぐんりょうりょうしゅう刺史しし。247ねんますまもる將軍しょうぐんあずか大將軍だいしょうぐん共同きょうどう行使こうし尚書しょうしょごとけんねん,汶山平やまひらやすし蠻人ばんじんはん叛,きょう維率眾討伐とうばつ平定へいていざい隴西みなみやす金城きんじょうぐんあたりかいあずかこくぜん將軍しょうぐんかくみぎ將軍しょうぐんなつこうとう於洮西にし交戰こうせん。249ねんりゅうぜん授姜維假ぶしきょう出兵しゅっぺい西平にしだいらきょう維每おもえだい舉出へい禕常したがえきりせいきゅう超過ちょうかいちまん名士めいしへいいん此沒ゆう重大じゅうだい[4]:1064

きた中原なかはら

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五丈原ごじょうげんたけこうほこら内的ないてききょう维塑ぞう

253ねんはるくだはたかくおさむ刺殺しさつ而亡。三月さんがつふとしでんしょかずらつとむさいつぎきょうおさむはつへい20まん進攻しんこう淮南ワイナンきょう維率すうまんにん出石いずし營(こん甘肅かんせいしょう西和せいわけん西北せいほく),けいただしていこん甘肅かんせいしょう天水てんすい西南せいなん),包圍ほういみなみやすたかし雍州刺史ししちんやすしりつぐんかいかこえしんいたりらくもんそくらくもん聚,こん甘肅かんせいあまたに西にし),きょう維糧つき退ずさかえ

254ねんきょう維加とくこく內外軍事ぐんじがつたかし中書ちゅうしょれいゆたかあずか皇后こうごうこれちちひかり祿ろく大夫たいふちょうとう密謀みつぼうはいえき大臣だいじんよくふとしつねなつほうげん代替だいたい司馬しばため大將軍だいしょうぐんこと泄,司馬しばころせゆたかなつほうげんとうはいちょう皇后こうごうこくいちおちい混亂こんらん狄道ちょうみつこうしょくかん請降。六月ろくがつきょう維復隴西おさむ簡獻じょうくだ占據せんきょ狄道こん甘肅かんせい臨洮)。じゅうがつきょう維率ぐんしんかこえじょうたけ西郡にしごおりおさむこん甘肅かんせい西南せいなん),あずかしょうじょただし交鋒,其首きゅうぐん戰敗せんぱい撤退てったいしょくかんまえぐんとろけ寇將ぐんちょう戰死せんしきょう維乘しょう進擊しんげき,拔河せきこん甘肅かんせい臨夏西北せいほく)、臨洮こん甘肅かんせい岷縣狄道)さん縣民けんみんかいしょくかん

しょくのべじゅうはちねんせいもとねん,255ねんなながつきょう維乘大將軍だいしょうぐん司馬しばびょうほろびこれさい再度さいどきたせい西にし大將軍だいしょうぐんちょうつばさ反對はんたいきた表示ひょうじ國家こっか弱小じゃくしょう人民じんみんつかれ敝,おうきゅうへい黷武[6]きょう維不聽。於是あずかくるま將軍しょうぐんなつこうちょうつばさとうすうまんにんおさむはちがつはつ到達とうたつならこん甘肅かんせい臨夏東北とうほく),とげむかい狄道進軍しんぐんせい西にし將軍しょうぐんちんやすしいのち雍州刺史ししおうけいりつ所部ところぶ進駐しんちゅう狄道,まちりつ主力しゅりょくちんくら到達とうたつさい鉗擊しょくかんぐんおうけい俟陳たいぐんいたりそく擅擊しょくかんぐんきょう維率ぐん先後せんごかんこん甘肅かんせい臨洮きた)、洮西大破たいはおうけいおうけい部下ぶか死者ししゃすうまんにんおう退ずさ狄道,きょう維乘かつすすむかこえ大將軍だいしょうぐん司馬しばあきらいのちちょうすいこうじょう鄧艾にん安西あんざい將軍しょうぐんあずかちんやすししんへいかいかこえなみふとしじょう司馬しばまことため後援こうえんちんやすしあずか鄧艾ぐん會合かいごうふん三路進至隴西,避開しょくぐん其不意地いじにょう高城たかぎみねこん甘肅かんせい渭源西北せいほく),しんいたり狄道東南とうなん山上さんじょうもえげきあずかしろ聯絡れんらくもりぐん援軍えんぐんいたり士氣しきだいきょう維即とくぐん沿山進攻しんこうぐん擊退げきたい。這時ちんやすし揚言ようげん截斷せつだんしょくぐん退路たいろきょう維遂於きゅうがつ廿にじゅうにち(11月11にち退すさ卻,ちゅうかねだいこん甘肅かんせい臨洮みなみ)。

きょう

256ねん正月しょうがつきょう維在ちゅうはいため大將軍だいしょうぐん六月ろくがつきょう維與鎮西ちんぜい大將軍だいしょうぐんえびすずみやく於上邽(こん甘肅かんせい天水てんすい會合かいごうなながつきょう維率さき出兵しゅっぺい祁山,聞鄧あいゆう備,乃改したがえただしていこん甘肅かんせい武山たけやまみなみおさむみなみやすこん甘肅かんせい隴西東南とうなん)。鄧艾ぐん搶佔たけ城山しろやまこん甘肅かんせい武山たけやま西南せいなんよりどころけんこばめもりきょう維見やめしつ強攻きょうこうなんかつ,乃夜わたり渭水東進とうしん,沿山進取しんしゅじょう邽。りょうぐんせんえびすずみしついたりしょくかんぐんため鄧艾しょやぶ于段だにこん甘肅かんせい天水てんすい西南せいなん)。士卒しそつつぶせ死傷ししょう甚眾。百姓因此埋怨姜維,而隴やま以西いせいまた騷動そうどう不安ふあんきょう維謝引疚せめもとめそぎ貶為將軍しょうぐんぎょう大將たいしょう軍事ぐんじ

257ねんがつせい東大とうだい將軍しょうぐんしょかずら聯合れんごうひがしざい淮南ワイナンおこりへいはん司馬しばあきら司馬しばあきらぶん調ちょうせきちゅうへい東下ひがししも討伐とうばつしょかずら誕。きょう維欲じょうおさむむかいしんがわ(渭水流域りゅういき),於じゅう二月率兵數萬出駱谷(こん陝西せんせいしゅういたる西南せいなん),到達とうたつ沈嶺(こん陝西せんせいしゅういたりみなみ)。當時とうじざい長城ちょうじょうこん陝西せんせいしゅういたりみなみせきそん大量たいりょうぐんかて,且防もり薄弱はくじゃく。聞姜維至,眾皆惶懼。せい西にし將軍しょうぐん司馬しばのぞむ安西あんざい將軍しょうぐん鄧艾こわきょう維襲だつ長城ちょうじょうたてそくごうぐんよりどころもりきょう維軍しんいたりすすきすいこん陝西せんせいしゅういたり黑水くろみず),やまため營。司馬しばのぞむ鄧艾はた渭水堅守けんしゅちく寨。きょう維多挑戰ちょうせん司馬しばのぞむ、鄧艾于回おう

258ねんさんよんがつあいだきょう聽聞ちょうもんしょかずら誕被やぶ失敗しっぱい,乃退かえ成都せいとふくさいはいため大將軍だいしょうぐん[4]:1065

けい耀年間ねんかんきょう更改こうかいりょう從前じゅうぜんのべにんかんちゅう太守たいしゅ期間きかんじつへいしょかこえてき策略さくりゃく大量たいりょうかこえもり撤兵てっぺいいたりかんらくしろ,僅剩西安しーあんたてたけしたけまもる石門せきもんたけしろたてあきら、臨遠とう設立せつりつかこえもりきょう維認為之ためゆきぜんのべてきぼうもり策略さくりゃくただのう禦敵,不能ふのう殲敵。きょう提出ていしゅつ如撤かこえかんぐんただちゅうもりせき隘,けんかべ清野きよの,僅派出はしゅつ騷擾そうじょうてきゆうげきたいゆずるてきじん深入ふかいりかんちゅうてきじん遠道とおみち而來,補給ほきゅう困難こんなんまた無法むほう掠奪りゃくだつ糧食りょうしょく自然しぜん撤退てったい。此時かんぐん出城でしろかずゆうげきたいいちどうつつみ夾,就可以消滅しょうめつてきじん[7]ただしゆるがせりょう前漢ぜんかんちゅう太守たいしゅのべおうたいらたい陽平ようへいせきてきぼうもり

262ねんじゅうがつきょう維起へい再度さいどおさむおさむにゅう洮陽さかいせい西にし將軍しょうぐん鄧艾りつへいむかえせん。鄧艾つめじゅうきょう維懸遠征えんせい戰線せんせんちょう給養きゅうよう困難こんなんなん持久じきゅうてき弱點じゃくてん。搶佔有利ゆうり地勢ちせいざい洮陽以東いとうほうかずこんたくあま東北とうほくしつらえじん,以逸まちろう,阻擊しょくぐん雙方そうほう激戰げきせんぐん發起ほっき反擊はんげきしょくぐん击破,損失そんしつ嚴重げんじゅうしょかずらただしとうひとみとめためきょう維連ねん出兵しゅっぺいぼつゆうりつ功績こうせき,而國家こっかまたつかれ敝,要求ようきゅう罢免きょう维的へい[8],而姜维又厌恶宦官かんがんあきら专权,甚至上表じょうひょうよう刘禅杀死あきら,刘禅こばめ绝。あきら伺机报复,じゅん备说ふく刘禅让自己じここうともみぎ大將軍だいしょうぐん閻宇代替だいたいきょう维,きょう維害怕,ただとく藉口しゃこう屯田とんでん退すさ往沓ちゅうこん甘肅かんせいふねきょく西北せいほく),實際じっさいじょうとおはなれ成都せいと以避[9]

いきおいへんつぶせしつ

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けい耀ろくねん(263ねん),こく將領しょうりょう鍾會せきなか練兵れんぺいきょう維上ひょうおも:「聽聞ちょうもん鍾會へいせきちゅうよくただししん一步拓取土地之意,むべ一併派遺張翼、廖化とくりつかくぐん分別ふんべつまもるやすせきくち陰平かげひらはしあたま,以防患於未然みぜん」。あきら徵求ちょうきゅうおにみこしんいきいいてきじんおわりきわむかい,稟告しゅゆう其事,而群臣ぐんしん不知ふち所以ゆえん。及後だいとく司馬しばあきらへいぶん三路大舉進伐蜀漢:鎮西ちんぜい將軍しょうぐん鍾會りょうじゅうあまりまん大軍たいぐん將兵しょうへいこう駱谷,みなみただしかんちゅうせい西にし將軍しょうぐん鄧艾りょう隴右ぐんさんまんおさむいれくつちゅう牽制けんせいきょう維;雍州刺史しししょかずらいとぐちりょうへいさんまんいたり陰平かげひらはしあたま阻止そしきょう維回すくいしょくちゅうきょう維立こくりつぐんよしくつ中南なかみなみ撤,のこみぎくるま將軍しょうぐん廖化往沓ちゅうため援軍えんぐんひだりしゃ將軍しょうぐんちょうつばさ、輔國大將軍だいしょうぐんただしとう往陽やす關口せきぐち以為しょかこえ外相がいしょうすけきょう維奮りょく擺脫鄧艾追擊ついげきなみ且用けいかたりょうしょかずらいとぐち,以阻擋魏ぐん。而鍾かいかこえおさむかんらくしろのこべつしょう進攻しんこうやす關口せきぐちたけきょうとく蔣舒開城かいじょうでんかく鬥而。鍾會不能ふのうおさむかつらくじょう聽聞ちょうもんやす關口せきぐちやめおさむ便びん長驅ちょうく前進ぜんしんちょうつばさただし厥甫いたりかんことぶききょう維、廖化またしゃ陰平かげひら而退,みな退すさけんかく以拒鍾會,雙方そうほう僵持した。鍾會不能ふのうおさむかつけんかく糧食りょうしょく運送うんそう遙遠ようえんはたかえかえりこく。而鄧もぐさ陰平かげひらよしけいだにみちはたいれとげやぶ绵竹しょくしょうしょかずらしょかずらひさしたかしちょうたまとう戰死せんしりゅうぜん請降於鄧もぐさ,鄧艾ぜん往佔よりどころ成都せいと[4]:1066

はかりごとはい

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ねがい陛下へいかにん數日すうじつはずかしめしんほっ使社稷しゃしょく危而ふくやす日月じつげつかそけ而復あかり
きょう維與おもしょ, 三国志さんごくし·きょう维传》ちゅう引《華陽かようこくこころざし

きょう維等じんおこりはつ聽聞ちょうもん鄧艾おさむやぶしょかずら瞻於綿めんちくまた聽到許多きょたせき於劉ぜんてき傳言でんごんゆうある聽聞ちょうもんりゅうぜんよく固守こしゅ成都せいとある聽聞ちょうもんよく往東にゅうこくある聽聞ちょうもんよく往南いれたてやすし,於是引軍棄劍かく往成ひさせっいた刘禅投降とうこう命令めいれいきょう維乃とうほこかぶとしょくかん將士しょうし非常ひじょう憤怒ふんぬ紛紛ふんぷん拔刀ばっとう砍石らいはつ。於是きょう維便決定けっていかりくだ於鍾かいなみ信任しんにんしかこう挑撥ちょうはつ鄧艾これあいだてき關係かんけい,慫恿其叛へん意圖いと趁亂杀鍾かい,夺其军权,復興ふっこうしょくかんただし最後さいご眾將ぼつゆうひびきおう鍾會てき叛亂はんらんしょくてきぐん發生はっせいへいへん兵士へいし憤怒ふんぬかくころせ鍾會、きょう維及ちょうつばさきょう維時ねんろくじゅうさい司馬しばあきらさんぐんまもるねん其忠しんあつそうきょう[2]:9すえ三国志さんごくし·きょう维传》ちゅう引《》记载,きょう维死腹部ふくぶ剖开,きも跟斗いち样大[4]:1068(「きもだい如斗」一說いっせつ學術がくじゅつかいゆうおうさくきもだい如升」てき說法せっぽう[10]),所以ゆえんきさきゆう大胆だいたんきょうはく约”てき说法。

西にしたかしとし间,きょう维被权臣宇文うぶんたいついふう开明おう[11] いま台灣たいわん台北たいぺい大稻おおいね中有ちゅうういちびょうめいため天水てんすいみや,該廟てき主神しゅしんきょうおうじいそくきょう[12]

評價ひょうか

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後世こうせいたい於姜維的評價ひょうか,頗具爭議そうぎ有史ゆうしがくみとめため出兵しゅっぺいしるべ致國りょく疲弊ひへい間接かんせつ使しょくかん亡國ぼうこくゆう另一些學者認為並不盡然。

成都せいとたけしこうほこら内的ないてききょう维塑ぞう
  • しょく丞相じょうしょうしょかずらあきら:“きょうはくやく忠勤ちゅうきん時事じじ思慮しりょ精密せいみつこう所有しょゆうえいみなみつね諸人もろびと如也。其人,りょうしゅう上士じょうし也。”またせつ:“きょうはくやく甚敏於軍事ぐんじすんでゆうきもよしふかかいへい。此人しんそんかんしつ而才けん於人,畢教軍事ぐんじとうまいみや,覲見主上しゅじょう。”
  • こくつかさ鍾會:“おおやけこう以文武之たけゆきとくふところ邁世ほぼこうずみともえかんこえとおるはななつ遠近えんきん莫不めいまいおもんみ疇昔,嘗同大どうだいさつていたかしのう喻斯このみ。”またせつ:“以伯やく中土なかつち名士めいし公休こうきゅう太初たいしょ不能ふのう勝也かつや。”[4]:1067
  • こく邓艾:“きょう维,いち时雄儿也。しかあずかぼうあい值,穷耳。”(《三国志さんごくし·书·おう毌丘诸葛邓钟传第じゅうはち》)
  • しょく汉官员郤正きさきざい西にしすすむかんいたり太守たいしゅちょろん评論きょう維,しょう:「きょうはくやくよりどころうえすすむこれじゅうしょ群臣ぐんしんみぎたくしゃへいうす資財しざいあまり側室そくしつわらわ媵之にわ聲樂せいがく娛。衣服いふくきょう輿こし備,飲食いんしょく節制せっせいおごやく官給かんきゅう費用ひようずいしゅ消盡しょうじん;察其しょ以然しゃ以激むさぼ厲濁,そもそもじょうわり也。ちょくいい如是にょぜためあし不在ふざいもとめ凡人ぼんじんだんつねほまれなり毀敗,扶高そもそも,咸以きょう維投厝無しょむねほろび,以是貶削,ふくりょう擿,乎《春秋しゅんじゅう褒貶ほうへん矣。如姜維之らくがく倦,きよし節約せつやくいち儀表ぎひょう也。」[4]:1068(「きょうえ將之まさゆきじゅうくらいしょ群臣ぐんしんくびたくいんしゃ簡陋,ぼつゆうあまり資財しざいわらわしつ家中かちゅうぼつゆう聲樂せいがく娛樂ごらくもの穿ほじころもいでゆき日用にちよう飲食いんしょくじょう也有やゆう節制せっせい薪水しんすい也都ずいしゅようこうきょう維之所以ゆえん這樣,なみこく表現ひょうげん清廉せいれん高尚こうしょう,而是滿足まんぞく於這さまてき待遇たいぐうぼつゆうあまりおごもとめ常人じょうじんほまれなり毀敗,扶高そもそもみとめためきょう投降とうこう於蜀,最後さいごそう家族かぞく滅亡めつぼう失敗しっぱい作為さくい,而不ふく探索たんさく其他方面ほうめん,這有春秋しゅんじゅう褒貶ほうへん人物じんぶつ本義ほんぎぞうきょう維這さま好學こうがく倦,清廉せいれんしらきもと節儉せっけん簡約かんやくせついち模範もはん。」)
  • かく:「时蜀かんぞくみな天下でんか英俊えいしゅん,无出维右。」
  • 曹奂:「しょくしょ恃赖,ただ维而やめ。」
  • たから:「きょう维为しょくしょうくにほろびしゅはずかしめどる,而死于钟かいみだれ,惜哉!难,处死难也。以古烈士れっし,见危授命,とう节如归,爱死也,かた知命ちめい长而惧不とく其所也。」
  • ひだりおもえ:「にわ扣钟かおるどう琴瑟きんしつ。匪葛匪姜,畴能恤?」
  • つね:「きょう维才あきらひきこころざし继洪轨,みんいや其劳,いえこくまた丧矣。」
  • しょく汉將りょう廖化於景耀ねん(262ねんきょう出兵しゅっぺい狄道どき表示ひょうじ:「『へい戢,必自焚』,はくやくこれいい也。さとし不出ふしゅつてき,而力しょう於寇,よういやなに以能りつうん自我じがさき自我じが』,今日きょうこと也。」[13]てんりょう廖化たいきょう維連ねん用兵ようへい,耗損しょくかん國力こくりょくてき擔憂。
  • ちんひさし於《三國志さんごくしちゅう評論ひょうろん:「きょう維粗ゆう文武ぶんぶこころざしりつ功名こうみょう,而玩眾黷たび明斷めいだんしゅうおわり致隕斃。老子ろうしゆううん:‘大国たいこくしゃ犹烹しょう鲜’况于区区まちまち蕞尔,而可しばしば扰乎哉。」[4]:1069
  • でんげんでん》:「維為じんこうたて功名こうみょうかげやしなえおさむ布衣ふいこれぎょう。」「きょう维欲そくたて其功,いさむ而无决也。」[4]:1063
  • あずますすむまごもり对姜维评价很:「哉郤ろん也!おっとひゃくぎょう操業そうぎょうまんこといたり於忠孝義たかよしぶしひゃくぎょうかんむり冕也。きょう維策めいしつ,而外奔蜀あさたがえきみ徇利,不可ふかいいちゅう;捐親苟免,不可ふかいいこうがいきゅうくに不可ふかいいはい不死ふしなん不可ふかいいぶし;且德政とくせいじき而疲みん以逞,きょ禦侮にん而致てきもり,於夫智勇ちゆう,莫可うん也:凡斯ろくしゃ,維無いち焉。じつゆう逋臣,亡國ぼうこくみだれしょう,而云じん儀表ぎひょう,斯亦惑矣。たて維好しょ而微きよしあにおっとぬすめしゃぶんざいよし,而程、ていくだかいぜん也?」[4]:1068-1069(「大夫たいふ雖有ひゃくしゅ德行とっこう,做まんしゅ不同ふどう作業さぎょうただし忠孝ちゅうこうぶしひゃくぎょうちゅうさい重要じゅうようひんとくきょう維求功名こうみょう於魏しつ,而外奔蜀かん違背いはい主君しゅくん而徇わたし不可ふかいいただし』;ため苟且めん,捐棄母親ははおや不可ふかいいこう』;加害かがい於舊祖國そこく不可ふかいいよし』;戰敗せんぱい而不於難,不可ふかいいふし』;而且ぼつゆう德政とくせい而疲憊人民じんみん以逞きょうきょ抵禦外侮がいぶ責任せきにん引致いんち喪失そうしつ國土こくど於敵じん不可ふかいい智勇ちゆう』。這ろくよう美德びとくきょういちこう也沒ゆうじつゆう叛臣,ほろびしょくかんみだれしょう,而說他人たにん儀表ぎひょうたて使きょう維好讀書どくしょ而自たてまつ卑微、文藻ぶんそう高潔こうけつあにあずか強盜ごうとう富貴ふうきすすむこう嬖程ていくだとい降下こうか偽善ぎぜん道理どうりいちよう?」)「もり以为古人こじんうんしょこま而困焉名必辱,しょすえ而据焉身必危,すんではずかしめ且危,其将いたり,其姜维之谓乎!邓艾入江いりえ众鲜しょう,维进不能ふのう奋节绵竹之下たけのした退すさ不能ふのう总帅しょう,拥卫しょくぬしおもえきさき图之计,而乃反覆はんぷく于逆顺之间,まれ违情于难冀之かい,以衰じゃくくに,而屡观兵于三しんやめ灭之くに,冀理がい举,またくら哉!」
  • ただし裴松为《三国志さんごくしさくちゅう则不同意どうい孙盛批评:「しんまつ以為もりそし維,またため不當ふとう。于時鍾會だい眾既づくりけんかく,維與しょしょうれつ營守けわしかいとくすすむやめかえけいぜんしょくこういく乎立矣。ただし鄧艾詭道はたいれ於其しょかずら瞻既はい成都せいとつぶせ。維若かいぐんすくい內,のりかいじょう其背。當時とうじいきおい,焉得りょうすみ?而責維不能ふのう奮節緜竹,ようまもるしょくぬし其理也。かいよくつきあなしょう以舉大事だいじ,授維じゅうへい使つかいため前驅ぜんくわかれいしょうみな兵事へいじざい維手,ころせかいふくしょく不為ふためなん矣。おっとこうなり理外りがいしかこうため不可ふか以事ゆうきば,而抑いいしかしつらえ使たんこれけい邂逅かいこうかいふくいい愚闇ぐあん哉!」[4]:1068(「しん裴松以為まごもりそしひょうきょう維,またため不當ふとう。于時鍾會だい眾既づくりけんかくきょう維與しょしょうれつ營守けわし,鍾會とくすすむやめしょう退すさかえこれけいいく建立こんりゅう保全ほぜんしょくかんこうただし鄧艾ぎょうけん詭道はたいれ於其しょかずら瞻既はい成都せいとくだり投降とうこうきょう維若かいぐんすくい成都せいと,必被前後ぜんこう夾擊きょうげき,如果這就批評ひひょうきょう守備しゅび綿めんちくちから不能ふのうじゅうしょくこくなみぼつゆう道理どうり,及後鍾會謀反ぼうほん企圖きとつきころせしょうなみ授大けんあずかきょう維,わかしょうみなきょう維殺鍾會以復こくけいだいゆう可能かのう成功せいこうけいはかりごときもりょうしょうため,雖然最後さいご失敗しっぱいただし不能ふのうせつきょう維只いさおざいいちめいわか當年とうねんたんふくひとしこくなりわが們又よう說田せつだたんただいさおじんいちめい?」)「郤正此论,其可たたえ谓维はじめ行事ぎょうじみなじゅん则也。ところうんいち时仪ひょう』,とめざい好学こうがくあずか俭素みみほん传及りゃくみなうん维本无叛しん,以急逼归しょくもりしょう讥贬,おもんみ责其はは。馀既过苦,また所以ゆえん难郄正也まさや。」「あきらゆう吞魏志久しく矣,はじめ于此众人かた知也ともや,且于时师无成,伤缺而反しゃ众,三郡归降而不能有。きょう维,天水てんすい匹夫ひっぷみみ,获之则于なん损?」
  • せつ新語しんご》:「しょくかんぞくみな天下でんか英俊えいしゅん維右。」[4]:1067
  • 范缜:「これこころなな窍列かくはく约之きも,其大わかこぶし,此心こと也。人定じんていぶんまい绝常おもんみどうかわ群生ぐんせい,乃亦がたちょう万有ばんゆう。」
  • 陈普:「くにしょうみん劳事やめしろきつね斩愈危机。却屯やめとりこ钟会,邓艾无翎どくかい飞。」「无德こらえりょくにんじゅう关如てのひら寇戎ふか幽冥ゆうめいけい枭钟かい,犹有区区まちまちいちへんしん。」(《陈普诗选》)
  • そうだいりゅうかつそうろくきょうはくやく遺言ゆいごん》:「ことあるむずかしはるかにんことえきだれうん卧龍ふくゆういちきょう維!」[14]
  • えびすさんしょう:「维之さとしかたあし玩弄がんろう钟会于股てのひらうえさこ于时、せい于命,奈之なん哉!?きょう维之しんはじめ终为汉,せん载之,炳炳如丹,陈寿、孙盛贬,也。」「しばしば败而とめ,为亡しょく张本。」
  • 罗贯ちゅう:「天水てんすい英俊えいしゅん,凉州产异ざいけい从尚ちち,术奉たけこうらい大胆だいたん应无惧,雄心ゆうしんちかいかい成都せいと,汉将有余ゆうよあい。」
  • :「またいち孔明こうめい。」
  • むね:「主上しゅじょう忠臣ちゅうしんきさき仗我,わが所以ゆえん栖栖しのべ也;こん方寸ほうすんらん矣,われ不能ふのう为姜はく约矣。」
  • しんだい史学しがくおうもり赞姜维「きょう维志ざい复蜀,なり杀,其赤心せきしん则千载如せい,维之于蜀,犹张杰、陆秀おっと于宋みみ。」「ただし讥其玩众黩旅,以致陨毙,寿ことぶき不知ふち贼王业亦ほろびおもんみすわ而待ほろび,孰与これ?」[15]
  • しんだい翰林かんりん侍讀じどく學士がくし鞏建ゆたかざい其主おさむてきふく羌縣こころざししょう:「おっとふか天下でんかこと不可ふかため而為これしゃ孔明こうめい是也これやふか國事こくじ不可ふかため而為これしゃきょうはくやく是也これや[14]
  • 蔡东はん:「きょう维才逮诸かずら,而欲あずかそう胜,连岁师,致民劳苦,不可ふか谓非しつ计。しか如后ぬし昏愚,亲小じん,远贤しん,就使维不しょくまた宁能ひさそん乎?况维闻魏じん窥蜀,そくおもて请遣しょうもり险,而为一黄皓所误,そついたりへいさん,长驱直入なおいりとがめざいあきら,于维无尤也。剑阁もり险,钟会しばしばおさむかつ,而邓もぐさ从阴ひら进兵,ちょく趋涪じょう,诸葛瞻不崇之たかゆき议,让敌深入ふかいり,猝至战死,とがめざい诸葛瞻,于维また无尤也。成都せいと虽危,なおこらえじょういちきさきぬし宁从谯周,从北おう谌,めん缚出くだすわ丧蜀とがめざいきさきぬし,于维さら无尤也。至大しだい势已,维尚诈降钟会,图规复,乃不幸ふこうしつ败,一死いっし谢国,维之报主,いたり矣尽矣!てん祚蜀,なに维之あしゆう乎?」
  • 近代きんだい史学しがくりょおもえつとむざいさん國史こくしばなしちゅう分析ぶんせき:「……しょかずらあきらしょくかんかえゆうじゅうきゅうねんてき命運めいうん。這じゅうきゅうねんなかぜんじゅうねん總統そうとう國事こくじてき蔣琬;ちゅうななねん褘;じゅうねんきょう維。蔣琬、褘手うら出兵しゅっぺいきょう維屢おもえだい舉,總裁そうさいせい肯多きゅう兵馬へいば褘死きょう維做ごとざい些,しか而亦大功たいこう,而自己じここくうらはんいん此而ゆう疲弊ひへい當時とうじ很有反對はんたいてきじん後來こうらい讀史どくしてきじんまたゆう以蜀ほろびとがめ於姜維的用兵ようへいてき,其實また不盡ふじんしか。」[16]:110-111またうん:「したがえたかしひとしおうかおるこれりついたり高貴こうきごうこうてき弒,其間どもけいじゅういちねんそくがかりいれさんこくだいじゅういちねんいたりだいよんじゅういちねんせいこく多事たじあきしょくかんわかようきた,其機かいだんざい此間,而其機會きかいまたこれいよいよはやいよいよみょういんためいよいよはやすなわちこくてき政局せいきょくいよいよ不安定ふあんていしか此中きょうはんてき時間じかんざい蔣琬、褘秉政之まさゆきいたきょう掌握しょうあく兵權へいけんやめけいしつふとばんりょう所以ゆえんしょくこくてき滅亡めつぼうかえりとがめいたきょう維,實在じつざい冤枉えんおうてきたおせ蔣琬、褘,おうとうまけ較大てき責任せきにん。」[16]:111
  • 曾任ちんぬのかみなり秘書ひしょ台灣たいわん政治せいじ大學だいがく教授きょうじゅてき蔣君あきら,欽敬きょう維「あかりべんちゅう奸」、「うつり孝作こうさくただし」、「好學こうがく倦」,したがえはいこころ奮鬥,「そくざい奈何いかんちゅうかえそう辦法たちいたひかりふく社稷しゃしょく」,奮鬥精神せいしん,值得佩服。[17]:267
  • 成海なるみおう:「孔明こうめい奇才きさい也, 而六こう. 孔明こうめいすんで歿之, てん人事じんじ, ただとう修好しゅうこうたかし, 以安みん, せい以待てん而已. きょう維乃きゅう中原なかはら, 其心なん曾以かんぞく兩立りょうりつよし, ふくだかこう舊物きゅうぶつ哉. ただざい矜, 僥倖ぎょうこうまれ覬, よう于前じんしゃ也. 孔明こうめいろく, くだり以所當爲とうい, 便びん有生ゆうせいどう殺人さつじんよし, 故國ここくなお瘁. 維之きゅう, 必於まんいちこれこう, みん以自たくまし, すう千里せんりやめ氓, なに以堪いのち哉. 凡人ぼんじんしん以此しん從事じゅうじしゃ, もりぶし義之よしゆきこころ, 維之くだかた其所也. せつしゃある以爲維欲有爲ゆうい而降, 知之ともゆきろん也.」(󰡔そんときしゅう󰡕 まき14, ざつちょ, かくぶつせつ

後人こうじん

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三国志さんごくしちゅう记载,きょう维谋复蜀汉事败,“將士しょうしいきどおはつころせかい及維,維妻子さいしみなふく誅”。ただしすえしんから书·宰相さいしょうけいひょうちゅう记载,きょう维仍ゆうきさきだいとめそん世代せだいきょ于上邽,可能かのうきょう维归汉以ぜんとめらいてき嗣。

  • きょうあきらきょう维裔孙。きた时官员,兖州刺史しし天水てんすいぐんおおやけ
  • きょう远,きょう明子あきこきたしゅう时官员,荆秦しゅう刺史ししあさ邑县こう
  • きょうたからよしみきょう远子。から高祖こうそ时將りょうみぎたけまもる大將軍だいしょうぐん永安えいあん县公。あずかそう金剛こんごう作戰さくせん不屈ふくつ追贈ついぞうひだりまもる大將軍だいしょうぐんかそけしゅう总管。
  • きょうつとむきょうたからよしみとうだかむねどき將領しょうりょうさむらいちゅう永安えいあんぐんおおやけよし戰功せんこうかんいたりひだりしょうあずか阎立ほんどう时为しょう人称にんしょうひだりしょうせん沙漠さばくみぎしょう驰誉丹青たんせい”。
  • きょうきょうきょうたからよしみから时官员,つばめしかみやこまもるなつ州都しゅうととく成紀しげのりけんこうぜん篆籀。
  • きょう琇,きょう協子きょうこから时官员,なつ州都しゅうととく法曹ほうそう
  • きょうのぼるきょう琇子。から时官员,あさ大夫たいふまえくだりなお书司勋郎ちゅううえばしらこく
  • きょうかえきょうのぼる孙。から时官员,けんしゅう刺史ししはたつくしょうかん

藝術げいじゅつ形象けいしょう

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どう漫遊まんゆうおどけ

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かげ

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参考さんこう文献ぶんけん

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まいり

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ちゅう

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  1. ^ あずか鍾會於同がつ同日どうじつころせ
  2. ^ 2.0 2.1 嗚. 《さんこくてき碎屑》. 哈爾はま: 北方ほっぽう文藝ぶんげい出版しゅっぱんしゃ. 2007. ISBN 978-7-5317-2122-2. 
  3. ^ 太平たいへい览·まきひゃくいちじゅう·职官じゅうさん·总叙なお书郎》引《りゃく》:きょう维字はく约,ぐんほっひょう维以为将。维家ほん衣冠いかんすなお为将,ぐんいんひょうはいろうちゅう
  4. ^ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 ちんひさししる,《三國志さんごくし》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,1959ねん
  5. ^ 三国志さんごくしまき44:たてろくねん丞相じょうしょう诸葛あきら军向祁山,时天すい太守たいしゅ适出あんぎょう。维及こう曹梁绪、おも簿いん赏、しゅ记梁けんとう从行。太守たいしゅ闻蜀军垂いたり而诸县响应,うたぐ维等みなゆう异心,于是よるほろびじょう邽。维等觉太もりつい迟,いたりじょう门,しろ门已闭,纳。维等しょうりつ还冀,冀亦不入ふにゅう维。维等乃俱诣诸かずらあきらかい马谡败于がいていあきら拔将西にし县千余家及维等还,维遂あずかははしょうしつ
    裴松ちゅう引《りゃく》:天水てんすい太守たいしゅ马遵はた维及诸官ぞくずい雍州刺史ししかく淮偶西にしいたりらく门案ぎょうかい闻亮やめいた祁山,淮顾遵曰:“よく不善ふぜん!”とげ驱东还上邽。遵念しょ冀县かいざい西にしへんまたおそれ吏民乐乱,とげまたずい淮去。时维谓遵曰:“あきらとう还冀。”遵谓维等曰:“きょう诸人(かい)复信,みな贼也。”各自かくじぎょう。维亦无如遵何,而家ざい冀,とげあずかぐん吏上かんおさむとう还冀。冀中吏民见维とう大喜だいぎ便びん推令见亮。二人ふたり获已,乃共诣亮。あきら见,だいえつ及遣むかえ冀中じんかいあきらぜん锋为张郃、费繇とうしょやぶとげはた维等却缩。维不とく还,とげにゅうしょく。诸军おさむ冀,みなとく维母妻子さいしまた以维ほん无去ぼつ其家,ただしけいかん以延
  6. ^ 三国志さんごくし · しょくじゅう ·张翼传》:じゅうはちねんあずかまもるはた军姜维俱还成。维议复出军,ただつばさにわそう,以为こくしょうみん劳,むべ黩武。维不听。
  7. ^ 三國志さんごくしまき44:はつさきしゅとめのべ鎮漢ちゅう皆實みなみへいしょかこえ以御外敵がいてきてきわからいおさむ使つかいとくいれ。及興ぜいこれやくおうひら捍拒曹爽,みなうけたまわ此制。維建議けんぎ,以為錯守しょかこえ,雖合《しゅうえき》「じゅうもんよししかてき禦敵,大利おおとしわか使つかい聞敵いたりしょかこえみな斂兵聚谷,退すさ就漢、らくしろ使つかいてきとくいれひらめしんじゅうせき鎮守ちんじゅ以捍有事ゆうじにちれい遊軍ゆうぐん並進へいしん以伺其虛。てきおさむせきかつたに千里せんりけんかて自然しぜんつかれとぼし引退いんたいにちしかしょ城並じょうなみあずかゆうぐんなみりょく搏之,此殄てきじゅつ也。於是れいとくかんちゅうえびすずみ卻住かんことぶきかんぐんおう含守らくじょうまもるぐん蔣斌もりかんじょうまた於西やすたてたけしたけまもる石門せきもんたけしろたてあきら、臨遠みなりつかこえもり
  8. ^ 三国志さんごくしまき35ちゅう引《异同记》:(诸葛)瞻、(ただし)厥等以(きょう)维好战无こう国内こくない疲弊ひへいむべおもてきさきぬし,召还为益しゅう刺史しし,夺其へい权;しょく长老犹有瞻表以阎宇代うだい故事こじ
  9. ^ 三国志さんごくしまき44:維本羈旅たくこく累年るいねんおさむせん功績こうせきだて。而宦かんあきらとうろうけん於內,みぎ大將軍だいしょうぐん閻宇與あきらきょう,而皓かげよくはい維樹宇。維亦うたぐこれ危懼きくふくかえ成都せいと。 裴松ちゅう引《华阳こくこころざし》曰:维恶あきらほしいまま擅,启后ぬしよく杀之。きさきぬし曰:“あきら趋走しょうしんみみ,往董まこときり齿,われつね恨之,くんなんそく介意かいい!”维见あきらえだつけかのう连,惧於失言しつげん,逊辞而出。きさきぬし敕皓诣维陈谢。维说あきらもとめくつちゅう种麦,以避ない逼耳。
  10. ^ 苏杰. 异文あずか文字もじ研究けんきゅう. 《三国志さんごくし》异文研究けんきゅう. すみみなみ: ひとし魯書しゃ. 2006: 57–58. ISBN 7-5333-1612-6 ちゅうぶん中国ちゅうごくだい陆)). 
  11. ^ 明朝みょうちょう正德まさのりとしやまみやこつかさ邑人必钦《请建ほふほうほこら记》:西にしたかしふうきょうこう开明おう,……
  12. ^ 台灣たいわんせんぶん《【世界せかいびょう特輯とくしゅう大稻おおいね天水てんすいみやきょうおうじい》:大稻おおいね天水てんすいみやせい這樣一座被居民們借用,夜夜よよざい其間唱歌しょうかなみ且跳おこり交際こうさいまいてき場所ばしょ。雖然乍看した可能かのうかい以為它就一座いちざ普通ふつうてき廟宇びょうう可能かのう土地とちびょうある尋常じんじょう河邊かわべかい出現しゅつげんてき水仙すいせん尊王そんのうびょうただしあずか天水てんすいみやてき名稱めいしょう一般いっぱん,其中供奉ぐぶてき主神しゅしん也是ぜんたい罕見。祂是三國時代中諸葛孔明的弟子——きょう維姜おうじい
  13. ^ かんすすむ春秋しゅんじゅう
  14. ^ 14.0 14.1 ちょうめぐみ. 〈とうていこうきょう斷章だんしょう〉. 《明報めいほう》. 2016-08-15. 
  15. ^ じゅうななしょう榷·三国志さんごくしさん
  16. ^ 16.0 16.1 りょおもえつとむちょ,《さん國史こくしばなし》,上海しゃんはい開明かいめい書店しょてん,1943ねん
  17. ^ 蔣君あきらちょ,《しょくかん風雲ふううん人物じんぶつ》,台北たいぺいさんみんしょきょく,1983ねん

延伸えんしん阅读

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[ざい维基すうすえ]

维基文库中的相关文本:三國志さんごくし·まき44》,出自しゅつじちんひさし三國志さんごくし
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