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じゅん

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じゅん
だい清道きよみちいんはてあつし营統りょう
せきぬき 江西えにししょう鄱陽けん
ぞく かんぞく
ごう はる
諡號しごう ちゅうたけし
出生しゅっしょう やくよしみけいじゅうねん(1820ねん
江西えにししょう鄱陽けん豐田とよだむら
逝世 咸豐じゅういちねんがつじゅうにち(1861ねん6がつ22にち
四川しせんていとお二郎にろうじょう
出身しゅっしん
  • みちこうじゅうろくねん丙午ひのえうま舉人
  • みちこうじゅうななねん丁未ていみどう進士しんし出身しゅっしん
經歷けいれき
  • 湖南こなんそくようけんみちこうじゅうななねん
  • しょ會同かいどうけん
  • しょ綏寧けん
  • 以疾辭職じしょくかいきょう
  • しょ湘鄉けん(咸豐ななねん
  • ちょうゆうおろしにんあいだきょ湘鄉
  • 以剿太平たいへいぐんこうます候補こうほ(咸豐きゅうねん
  • 擢升どういん(咸豐じゅうねん
  • すべりょうはてあつしさんせんにん(咸豐じゅうねん
  • ぬのせい使銜(追贈ついぞう
  • 內閣學士がくし追贈ついぞう

じゅんやく1820ねん[1]—1861ねん6がつ22にち),はる[2]江西えにししょうにょうしゅう鄱陽けん豐田とよだ村人むらびと清朝せいちょう政治せいじ人物じんぶつ湘軍人物じんぶつみちこう丁未ていみ進士しんし,以知けんそくよういんざい湖南こなんかこえ太平たいへいぐん有功ゆうこう,擢升みちいんずい駱秉あきら四川しせん鎮壓ちんあつ永和えいわ蓝朝かなえはんきよしおこりごと咸豐じゅういちねん(1861ねんざい二郎じろう场之せんちゅうぐうふくほろび朝廷ちょうてい追贈ついぞうぬのせい使銜,おくりなちゅうたけし[3][4]

生平おいだいら

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にゅうつかまつ

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じゅん熙於みちこうじゅうろくねん(1846ねんこうちゅう丙午ひのえうま舉人ねんれんとしなる丁未ていみ進士しんしれつちょうまん三甲さんこうだいじゅうろくめい。以即ようけんぶんはつ湖南こなん先後せんご代理だいり會同かいどう綏寧とうけん縣令けんれい

あいだきょ及復

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じゅん熙為じん剛直ごうちょく言笑げんしょういんぐうごとよりどころりょくそう肯屈就,なんごう於時,しょうびょう辭職じしょくあいだ閉門へいもん讀書どくしょ咸豐さんねん(1853ねん),湖南こなんじゅんなで駱秉あきら其賢のうつよ使出仕しゅっし。咸豐ななねん(1857ねん),代理だいり湖南こなん湘鄉けんせい績卓ちょひさいんちちおろしにんよし鄱陽やめかむ太平たいへい天國てんごく佔據,舉家うつりきょ湘鄉。曾國はん籌辦浙江せっこう軍務ぐんむ,曾親とうもん,請其參與さんよ軍事ぐんじ,婉辭就。

軍旅ぐんりょ

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咸豐きゅうねん(1859ねんはる太平たいへいぐんいしたちひらくしんへい湖南こなみあつし熙應駱秉あきらちょう召,募集ぼしゅうきょういさみいちせんろくひゃくにんきょうぼうちょうすないしたちひらきゆかりたからけい轉戰てんせんみねひがしふんへいおさむこうはなあつし熙赴援,げきはい太平たいへいぐん將領しょうりょうなんぶんぴょうとうしん而追げきいたりこうあいちょう敵營てきえい同年どうねんきゅうがつはせぐんひゃくあまりさとざい湖南こなん廣東かんとん交界てき牛尾うしのおみねすぎ木根きね寨等焚毀敵營てきえい殲滅せんめつよりゆきひろししんよしこうすすむますとう候補こうほかけ。咸豐じゅうねん(1860ねん),りつぼうながしゅうどうしゅう綏寧やすししゅう等地とうち連戰れんせんれんとし十一月じゅういちがつつい彭大じゅんおさむふくむべあきらかつらよう兩城りょうじょうけい新任しんにん湖南こなんじゅんなで翟誥そう,擢升どういん所部ところぶぞういたりさんせんにんごうはてあつし營”。[4]

前任ぜんにん湖南こなんじゅんなで駱秉あきらやめ同年どうねん七月奉旨前往四川督辦軍務,鎮壓ちんあつ永和えいわ蓝朝かなえはんきよしおこりごとなみちょう調ちょうあつし熙隨どうぜん往。ひさ湖南こなん撤防,あつし熙即りつりょうしょさんせんにん入川いりかわ[3]

戰歿せんぼつ

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咸豐じゅういちねん(1861ねん),永和えいわ部將ぶしょうちょうだいざいなにこくはりとうかこえおさむ順慶じゅんけいこんみなみたかし),じゅん熙奉いのち赴援,じゅんてんぐんうたて而攻じょうとおこん武勝むしょう)。五月ごがつじゅういちにち(6がつ18にちあつし熙率へいつい嚮定とお日在ひあり姚店遭遇そうぐうじゅんてんぐんだい全勝ぜんしょうなにこくはり戰死せんしつぎじゅんてんぐん餘部あまるべこうきた往潼かわ撤退てったいざい二郎場與援軍會合,并在此屯ちゅう[5]

じゅん熙立こうこころきり,於がつじゅうよんにち(6がつ21にちよる聽到じゅんてんぐんぎょう蹤,連夜れんやりつへいつい趕,黎明れいめい到達とうたつろうじょう附近ふきんへいぶんさんまえぎょう進入しんにゅうじゅんてんぐん埋伏まいふく兵士へいし大亂たいらんあつし熙縱突圍馬匹ばひつおちいにゅう泥沼どろぬまじゅん熙坐在地ざいちじょう,以佩がたなしゅすうにん[6]最終さいしゅう受傷じゅしょう俘,すんで而被押至そらじょうてきじんれい其下跪,あつし熙罵どう:“逆賊ぎゃくぞくあにゆう堂堂どうどう太守たいしゅ肯為なんじこごめ以求苟活耶!”てきじんだいいかはた其肢かいなみはた遺體いたい焚毀。[4]

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其事上聞じょうぶん朝廷ちょうてい追贈ついぞうぬのせい使銜,じょうしょくまたおく內閣學士がくしざい順慶じゅんけいぐすく及遇なんしょ建立こんりゅうせんほこら祭祀さいし。《清史きよし稿こう》及同《鄱陽けんこころざしみなゆう其傳。[3][4]

家庭かてい

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参考さんこう资料

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  1. ^ 《鄱陽けんこころざししょう其“としじゅう七由道光丙午科連捷成進士。”
  2. ^ 《鄱陽けんこころざしさくじゅん熙,ごうはる”。
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 清史きよし稿こうまきよんひゃくさんじゅうさん·列傳れつでんひゃくじゅう·じゅん熙傳
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 4.3 《鄱陽けんこころざし·まきじゅう·人物じんぶつこころざしいち·忠節ちゅうせつぺーじじゅう:“じゅん熙,ごうはる豐田とよだじんせいつよし寡言かげんわらいねんじゅう七由道光丙午科連捷成進士,以知けんぶんはつ湖南こなみれきしょ會同かいどう、綏甯とうけんせいごえたくちょ。嘗因ぼうへいさく餉,屢請きゅう上書うわがきゆうけんれいただおう于賊,おう于兵’とう上臺うわだい悚然しょうぜんぐうごとよりどころちょくそうややこごめ,頗不あい于時,以是引疾もりもんひろしわたるしょけんもとむぐん國利こくり獘,于方輿こしけわしやすほら悉。かい駱秉あきららいなで湖南こなん其才こらえ大用おおゆうつよおこり。咸豐ななねんしょ湘鄉けんがつ教化きょうかだいぎょうぽうなずらえせん疏薦たち,以父解任かいにん。湘民ため立去たちさおもえなみじゅんじょう、臨鄉、しるし輸、ますどう四圖以頌其德。ときりょうせいぐん曾國はんとく浙江せっこう軍務ぐんむおや顧其いおりもとめいち,以母いくおう秉章召,つのいさみせんろくひゃくにんまもるしょう屹然きつぜんためちょうすな保障ほしょうきゅうねんはるせきぎゃくたちひらけおさむたからけいじゅん熙赴援,旋剿ぞくなんぶんあや于江はなけんふく追擊ついげき于江あいちょうみな大破たいは九月くがつじょうよるだいきりはせひゃくあまりさと,焚賊しがらみ于楚粵交かい牛尾うしおみねすぎ木根きね寨等しょ,殲せん餘人よにん,斃逆くびよりゆきひろししんこうはな肅清しゅくせいそう以知とめみなみようしょう戴花翎。貽書れい添慕推獎甚至。じゅうねんりつぼうながしゅうどうしゅう、綏甯、やすししゅういたりじゅういちがつつい剿逆くび彭大じゅんれんふくむべあきらかつらよう兩城りょうじょうしんなで翟誥そう以道いんようさき,七月駱秉章奉旨督辦四川軍務,そう調ちょうじゅん熙隨せいすんで而楚さかい撤防,どくみつる所部ところぶさんせんにん趨蜀。じゅういちねんがつじゅういちにちやぶぞく于定どお城下じょうかぎゃくくびにせそうへいなんこくはり,俘馘以まんけいとし聞,たてまつむね以道いんちょ交軍しょ記名きめいぐう湖南こなんかけそくおぎなえ,并賞按察銜。ちゅうじょうとおにち,以餘孽未つき窮追きゅうついいたりろうじょう四山よつやまかべりつ地勢ちせいけんぜっゆるがせぞくふくよんおこりじゅん熙慮ぜんきゅうとく將士しょうし竭蹶力戰りきせんよこ衝直突,ころせさんよんひゃくにんぞくやや卻即あいいよいよだかいよいよみつ,乃解せきぼう授親へい使つかいほういいぞくわがそくとめ。揮會こころざしともひのと九祥等退,さく赴敵,おちい泥沼どろぬまとくおこりなお奮步大呼たいこじゅうすうぞくみつるほうそできずじゅうかさ仆。羣逆よういたり場所ばしょややよみがえおびえ跪,瞋目しかこれ曰:‘逆賊ぎゃくぞくあにゆう堂堂どうどう太守たいしゅ肯為なんじこごめ以求苟活耶!’ののしやめぞくいかささえかい,并燔其屍。ゆうげき以下いか死者ししゃいちひゃくいちじゅうにんぞくまた以大そうよい遁。じゅん熙駢おびえちからあずか士卒しそつどう甘苦かんく臨機應變りんきおうへんえい鷙無まえところとう輒破。さくれいすうねんしょところただしみなため久遠くどおはかる,而不苟且邀譽于いちおろしごとあいだきょそくあおほうぬのふく徒步とほ往來おうらいしゃ識其ため長官ちょうかん也。すんで軍民ぐんみん莫不痛惜つうせきこと聞,おくぬの政司せいじ銜,じょうしょくみことのり順慶じゅんけいぐすく及殉なんしょしょ建立こんりゅうせんほこら。駱秉あきらげんそう交國かんにゅう列傳れつでんおくりなちゅうたけし。”
  5. ^ 《湘軍かわ陝篇だいじゅうさん:“ときじゅん熙將所部ところぶ先發せんぱつじゅん熙將兵務へいむ推鋒,ゆうはじげんじゅう,聞寇かたかこえおさむ順慶じゅんけいのりしたがえまんけん出山でやまどう赴之。五月さつき戊子ぼしついたちいたりじょう。寇先みなみはしていとお乙未おとみあつし熙率ぐん趨定とおおのれぐう寇姚てん。寇聚たむろじょう西南せいなんれんじゅうあまりさと官軍かんぐん逼壘,ぜん寇遽奔。湘軍しんしたがえ郴、かつらついいし大開おおひらき,習寇ぜい寇若摧枯くち士氣しき奮踔,推鋒直前ちょくぜん。寇無敢迎こばめある憑壘がたなほこややはつしょうやり官軍かんぐんえきわらい,拋之寇屯。寇大みだれそう奔走ほんそうすうまんいちせん而潰,蹂死しゃせんすうとし聞,さとみん及群寇轉しょうつげ以為かみへいかのえ,寇北はし潼川,いたり二郎場遇援寇,ごうたむろはたわたり涪,涪漲わたり。”
  6. ^ 《湘軍かわ陝篇だいじゅうさん:“からしうしあつし熙軍いたり自軍じぐんごとおこり也,將帥しょうすいごといたりいちしろ輒留とめごうため休息きゅうそくしんぜい後進こうしん。湘軍ぎょう雖速,嘗肯連日れんじつぎょうせんじゅん熙新したがえ大將たいしょうぞくむべ援寶けい其行,つねいきどおはじ其行ぐん晝夜ちゅうや赴利。……あつし熙遣そつさんやから偵寇しょきょう土人どじんかちちょう軍勢ぐんぜいみなほう曰:‘どお矣,不可ふか及矣。’最後さいごはじめなおたむろじょうちゅうかえむくいやめかぶとよるあつし熙先おそれしつ寇,れいぐんちゅう蓐食ぎょうれいおそあきらもちほこ、扣槍戒備以待寇。傳令でんれい後者こうしゃさきいたりさきしゃはんぐんしつゆびぜんたいけいぎょう突前,あつし熙領おやへいさん哨繼。寇前たい聞軍いたりまたよる各行かくこうななはちぐう於燕窩,交綏,寇退。じゅん熙比いたりじょう寇分したがえりょうつくり登山とざん以待官軍かんぐんちゅうふくぎょうやめしょうそくぶん所部ところぶためさんひだりみぎさがせ寇伏,ちゅうぐん直進ちょくしん。於是よんやま寇盡,而前ぐんおどろきつぶせじゅん熙所ぶんさんしつぜいまたおどろきじゅん熙驟りつ退すさしゃうまおちいどろ,棄馬すすむ,眾潰不可ふかとめじゅん熙坐地上ちじょう,拔佩がたな,瞋目直視ちょくし,寇或とげある斫之,かい其頭ひじこうぐん聞敗引退いんたい。其後たいとげ不發ふはつゆいたむろかた,惴惴終夜しゅうやしょ俘馬よる嘶,おそれ寇聞,悉屠。而寇懾湘ぐんじょうかちきゅうわたり涪北じゅん熙猝いたり而猝ほろびかちかちはいはい。”
  7. ^ 7.0 7.1 たけすすむ西にし營劉まきさん·ぺーじいちひゃくきゅうじゅうはちまきろく·ぺーじいちひゃくさんじゅうきゅう
  • ちょうなんじたつみ ひとし清史きよし稿こう
  • おう闿运《湘军こころざし
  • 中國ちゅうごく國家こっか圖書館としょかんぞう)项珂、陈志つちかえおう廷鉴.《鄱陽けんこころざし》. きよしどうじゅうねん(1871ねんこくほん.