陈仲金 きん (越 えつ 南 みなみ 语 :Trần Trọng Kim /陳 ちん 仲 なか 金 きん [ 1] [ 2] [ 3] [ 4] ;1883年 ねん —1953年 ねん 12月2日 にち ),一 いち 译陈重金 きん [ 5] ,別 べつ 號 ごう 隸臣 (Lệ Thần )。越 こし 南 みなみ 历史学 がく 家 か 和 わ 政治 せいじ 人物 じんぶつ 。1945年 ねん 曾任保 ほ 大帝 たいてい 的 てき 越 えつ 南 みなみ 帝国 ていこく 内 うち 阁总长 (首相 しゅしょう )。同年 どうねん 由 よし 于印度 いんど 支 ささえ 那 な 共 ども 产党 领导人 じん 胡志明 ほうちみん 发动的 てき 八 はち 月 がつ 革命 かくめい 下台 しもだい 。其主要 よう 著作 ちょさく 《越 えつ 南 みなみ 史 し 略 りゃく 》、《儒教 じゅきょう 》等 とう ,都 みやこ 是 ただし 用 よう 國語 こくご 字 じ 寫 うつし 成 なり ,為 ため 越 えつ 南國 なんごく 語 ご 字 じ 文化 ぶんか 作出 さくしゅつ 了 りょう 巨大 きょだい 貢獻 こうけん 。
陳 ちん 仲 なか 金 きん 於1883年 ねん 出生 しゅっしょう 在 ざい 越 こし 南 みなみ 河 かわ 靜 せい 省 しょう 宜 むべ 春 はる 縣 けん 丹 に 海 うみ 總 そう 丹 に 浦 うら 社 しゃ (今 こん 属 ぞく 河 かわ 静 せい 省 しょう 宜 むべ 春 はる 县春浦 うら 社 しゃ )。[ 6] [ 7] 在 ざい 他 た 出生 しゅっしょう 的 てき 時候 じこう ,法 ほう 蘭 らん 西 にし 第 だい 三 さん 共和 きょうわ 國 こく 已 やめ 經 けい 將 はた 越 えつ 南 みなみ 變 へん 為 ため 其殖民 しょくみん 地 ち 的 てき 一 いち 部分 ぶぶん ;河 かわ 靜 せい 省 しょう 位 い 於中 ちゅう 圻 ,處 しょ 於法屬 ぞく 安 やす 南 みなみ 保護 ほご 國 こく 的 てき 統治 とうち 之 の 下 した 。在 ざい 不 ふ 久 ひさ 的 てき 十 じゅう 年 ねん 以後 いご ,潘 はん 廷逢發動 はつどう 了 りょう 遊 ゆう 擊 げき 戰 せん ,試 ためし 圖 ず 驅逐 くちく 法 ほう 國 こく 勢力 せいりょく 。這場運動 うんどう 在 ざい 乂安 和 かず 河 かわ 靜 せい 兩省 りょうしょう 影響 えいきょう 尤 ゆう 為 ため 巨大 きょだい ,卷 かん 起 おこり 了 りょう 長期 ちょうき 的 てき 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 熱 ねつ 潮 しお 。[ 8] 不 ふ 過 か ,這場運動 うんどう 被 ひ 粉碎 ふんさい 了 りょう 。[ 8]
1897年 ねん ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 進入 しんにゅう 南 みなみ 定法 じょうほう 越 えつ 場 じょう 學習 がくしゅう 法語 ほうご ,1900年 ねん ,進入 しんにゅう 河 かわ 內通言 つうげん 場 じょう (翻譯 ほんやく 學校 がっこう )學習 がくしゅう ,並 なみ 於1903年 ねん 畢業。1904年 ねん ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 在 ざい 寧 やすし 平 たいら 省 しょう 擔任 たんにん 通事 つうじ (翻譯 ほんやく )。1905年 ねん ,赴法留學 りゅうがく 。1908年 ねん ,獲得 かくとく 殖民 しょくみん 學校 がっこう (École Coloniale)的 てき 獎學金 きん ,開始 かいし 了 りょう 在 ざい 默 だま 倫 りん 殖民 しょくみん 學校 がっこう (位 い 於塞 ふさが 納 おさめ -馬 うま 恩 おん 省 しょう )的 てき 實習 じっしゅう 教師 きょうし 生涯 しょうがい 。1911年 ねん 9月 がつ ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 回 かい 到 いた 越 えつ 南 みなみ 並 なみ 成 なり 為 ため 一 いち 名 めい 教師 きょうし ,逐漸在 ざい 教育 きょういく 界 かい 嶄露頭角 とうかく 。到 いた 了 りょう 1942年 ねん ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 已 やめ 被 ひ 提 ひさげ 升 ます 為 ため 北 きた 圻的小學 しょうがく 教育 きょういく 機構 きこう 的 てき 一 いち 名 めい 巡視 じゅんし 員 いん 。[ 7] 他 た 撰 せん 寫 うつし 了 りょう 許多 きょた 教育 きょういく 學 がく 著作 ちょさく 並 なみ 開始 かいし 檢討 けんとう 越 えつ 南 みなみ 的 てき 教育 きょういく 問題 もんだい 。[ 6] 同時 どうじ ,他 た 也是共濟 きょうさい 會 かい 會員 かいいん 。[ 9]
陳 ちん 仲 なか 金 きん 作為 さくい 教育 きょういく 界 かい 官員 かんいん 的 てき 經歷 けいれき 鮮為人知 じんち ,但 ただし 他 た 卻以學者 がくしゃ 而聞名 めい 於世。他 た 出版 しゅっぱん 的 てき 一 いち 系列 けいれつ 使用 しよう 國語 こくご 字 じ 書寫 しょしゃ 的 てき 教科書 きょうかしょ (尤 ゆう 其是關 せき 於儒學 じゅがく 、佛教 ぶっきょう 和 わ 越 えつ 南 みなみ 歷史 れきし 方面 ほうめん 的 てき 教科書 きょうかしょ )尤 ゆう 為 ため 出 で 名 めい 。[ 7]
陳 ちん 仲 なか 金 きん 最 さい 著名 ちょめい 的 てき 兩部 りょうぶ 書籍 しょせき 是 ぜ 出版 しゅっぱん 於1920年 ねん 的 てき 《越 えつ 南 みなみ 史 し 略 りゃく 》和 かず 出版 しゅっぱん 於1929年 ねん 至 いたり 1933年 ねん 的 てき 《儒教 じゅきょう 》。[ 10] 在 ざい 《越 えつ 南 みなみ 史 し 略 りゃく 》中 ちゅう ,他 た 強調 きょうちょう 了 りょう 中國 ちゅうごく 對 たい 越 えつ 南 みなみ 社會 しゃかい 的 てき 影響 えいきょう 。[ 11] 在 ざい 《儒教 じゅきょう 》裡 うら ,他 た 研究 けんきゅう 了 りょう 中國 ちゅうごく 儒學 じゅがく 及其對 たい 越 えつ 南 みなみ 的 てき 影響 えいきょう ,該書引起了 りょう 越 えつ 南 みなみ 社會 しゃかい 對 たい 知行 ちぎょう 在 ざい 哲學 てつがく 中 ちゅう 地位 ちい 的 てき 辯論 べんろん 。[ 12] 這本書 しょ 是 ぜ 連接 れんせつ 在 ざい 受中國 こく 儒家 じゅか 思想 しそう 影響 えいきょう 的 てき 越 えつ 南 みなみ 知識 ちしき 份子一代和在法國統治之下長大的一代之間的橋樑。[ 13] 2009年 ねん ,《越 えつ 南 みなみ 史 し 略 りゃく 》被 ひ 再 さい 次 つぎ 印刷 いんさつ 出版 しゅっぱん 。[ 6]
他 た 在 ざい 文壇 ぶんだん 的 てき 聲譽 せいよ 使 し 他 た 成 なり 為 ため 了 りょう 越 えつ 南 みなみ 儒學 じゅがく 界 かい 和 わ 佛教 ぶっきょう 界 かい 的 てき 領 りょう 軍 ぐん 人物 じんぶつ 。1939年 ねん 被 ひ 任命 にんめい 為 ため 北 きた 圻的 てき 國民 こくみん 小學 しょうがく 署 しょ 署長 しょちょう ,[ 7] 同時 どうじ 受封為 ため 騎士 きし 並 なみ 獲得 かくとく 了 りょう 法 ほう 國 こく 榮譽 えいよ 軍團 ぐんだん 勳章 くんしょう 。1943年 ねん ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 作為 さくい 法 ほう 屬 ぞく 印度 いんど 支 ささえ 那 な 的 てき 知名 ちめい 人物 じんぶつ ,登 のぼり 上 うえ 了法 りょうほう 國 こく 一家 いっか 刊 かん 物 ぶつ 版 ばん 面 めん 。[ 6]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戰 たいせん 爆發 ばくはつ 後 ご ,大日本帝國 だいにっぽんていこく 繼續 けいぞく 向 こう 亞 あ 洲 しゅう 大陸 たいりく 擴張 かくちょう 之 の 間 あいだ 的 てき 勢力 せいりょく 。日本 にっぽん 趁法 ほう 蘭 らん 西 にし 第 だい 三 さん 共和 きょうわ 國 こく 被 ひ 納 おさめ 粹 いき 德 とく 國 こく 擊 げき 败後 のち 入 にゅう 侵 おかせ 了 りょう 中南 なかみなみ 半島 はんとう ,並 なみ 在 ざい 1940年 ねん 至 いたり 1941年 ねん 之 の 間 あいだ 將 はた 其納入 のうにゅう 大 だい 東亞 とうあ 共榮 きょうえい 圈 けん 之 これ 內。
第 だい 二次貢比涅停戰協定 簽訂之 これ 後 ご ,控 ひかえ 制 せい 著 ちょ 崩潰 ほうかい 中 ちゅう 的 てき 第 だい 三 さん 共和 きょうわ 國 こく 的 てき 貝 かい 當 とう 元帥 げんすい 成立 せいりつ 了 りょう 親 おや 德 とく 維希法 ほう 國 こく 。維希法 ほう 國 こく 派遣 はけん 讓 ゆずる 德 とく 句 く 出 で 任 にん 印度 いんど 支 ささえ 那 な 總督 そうとく 。維希法 ほう 國 こく 因 いん 為 ため 德 とく 意 い 日 び 軸 じく 心 しん 國 こく 所以 ゆえん 同 どう 日本 にっぽん 只 ただ 是 ぜ 名義 めいぎ 上 じょう 的 てき 同盟 どうめい 關係 かんけい ,日本 にっぽん 卻十分期望得到法屬印度支那的土地,因 いん 此法國 こく 殖民 しょくみん 政府 せいふ 對 たい 越 えつ 南 みなみ 的 てき 親日 しんにち 派 は 十 じゅう 分 ふん 警惕。
在 ざい 20世紀 せいき 初期 しょき ,許多 きょた 越 えつ 南 みなみ 人 じん 視 し 日本 にっぽん 為 ため 亞 あ 洲 しゅう 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき 推動者 しゃ ,不 ふ 少 しょう 越 えつ 南 みなみ 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ 流亡 りゅうぼう 到 いた 日本 にっぽん ,試 ためし 圖 ず 推動越 こし 南 みなみ 脫 だつ 離 はなれ 法 ほう 國 こく 獨立 どくりつ 。在 ざい 這段時期 じき 裡 うら ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 同 どう 一些研究越南的日本學者走得很近。由 よし 於這層 そう 關係 かんけい 以及陳 ひね 仲 なか 金 きん 同 どう 河 かわ 內的 いくわ 越 えつ 南 みなみ 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 組織 そしき 有 ゆう 著 ちょ 聯 れん 繫,因 いん 此受到了 りょう 殖民 しょくみん 政府 せいふ 的 てき 懷疑 かいぎ 。1943年 ねん 秋 あき ,讓 ゆずる 德 とく 句 く 決定 けってい 展開 てんかい 第 だい 二次大規模剷除親日派人士時,陳 ひね 仲 なか 金 きん 被 ひ 列 れつ 入 にゅう 了 りょう 印度 いんど 支 ささえ 那 な 安全 あんぜん 局 きょく (Sûreté)的 てき 黑 くろ 名 めい 單 たん 中 ちゅう 。同年 どうねん 10月 がつ 28日 にち ,日本 にっぽん 特務 とくむ 將 はた 其帶到 いた 設 しつらえ 在 ざい 河 かわ 內的憲兵 けんぺい 隊 たい 總 そう 部 ぶ 並 なみ 保護 ほご 起 おこり 來 らい 。在 ざい 那 な 裡 うら 陳 ひね 仲 なか 金 きん 遇 ぐう 到 いた 了 りょう 楊伯濯 。在 ざい 楊伯濯的說 せつ 服 ふく 下 か ,兩人 りょうにん 共同 きょうどう 寫 うつし 信 しんじ 到 いた 新 しん 加 か 坡尋 ひろ 求 もとめ 庇護 ひご 。11月初 はつ ,日本人 にっぽんじん 將 はた 他 た 們帶到 いた 了 りょう 西 にし 貢 みつぐ 。在 ざい 當地 とうち 憲兵 けんぺい 隊 たい 總 そう 部 ぶ 住 じゅう 了 りょう 很短的 てき 一 いち 段 だん 時間 じかん 後 ご ,兩人 りょうにん 搭上了 りょう 日本人 にっぽんじん 經營 けいえい 的 てき 大南 おおみなみ 公司 こうじ 的 てき 船 せん 。[ 7]
1944年 ねん 1月 がつ 1日 にち ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 等 とう 二人乘坐日本船隻來到了新 しん 加 か 坡 。[ 7] 根據 こんきょ 美國 びくに 歷史 れきし 學 がく 家 か 埃 ほこり 倫 りん ·哈默的 てき 說法 せっぽう ,法 ほう 國 こく 殖民 しょくみん 政府 せいふ 對 たい 於陳仲 なか 金 きん 「已 やめ 經 けい 是 ぜ 完全 かんぜん 不 ふ 存在 そんざい 的 てき 威 い 脅 おびえ 」。[ 9] 在 ざい 僅僅 きんきん 度 ど 過 か 一 いち 年 ねん 之 これ 後 ご ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 來 らい 到 いた 曼谷 。三 さん 個月 かげつ 後 ご ,也就是 ぜ 1945年 ねん 3月 がつ 30日 にち ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 意外 いがい 地 ち 接 せっ 到 いた 了 りょう 來 らい 自 じ 日本人 にっぽんじん 的 てき 電話 でんわ ,請他回 かい 到 いた 西 にし 貢 みつぎ 探 さがせ 討「歷史 れきし 問題 もんだい 」。[ 7] 西 にし 貢 みつぐ 的 てき 日 び 軍 ぐん 特務 とくむ 久家 くが 道夫 みちお 大佐 たいさ (音譯 おんやく 自 じ Captain Michio Kuga)隨 ずい 即 そく 來 らい 到 いた 曼谷同 どう 他 た 談話 だんわ 。[ 14]
此時正 せい 值維希法 ほう 國 こく 政權 せいけん 的 てき 垮臺和 わ 巴 ともえ 黎 はじむ 的 てき 解放 かいほう ,這意味 あじ 著 ちょ 日本 にっぽん 不能 ふのう 再 さい 同 どう 法 ほう 國 こく 殖民 しょくみん 政府 せいふ 合作 がっさく 。1945年 ねん 3月 がつ 9日 にち ,越 こし 南 みなみ 在 ざい 日本 にっぽん 的 てき 支持 しじ 下 か 發動 はつどう 三 さん 九 きゅう 政變 せいへん ,推翻了法 りょうほう 國 こく 殖民 しょくみん 政府 せいふ ,宣 せん 佈越南 みなみ 脫 だつ 離 はなれ 法 ほう 國 こく 獨立 どくりつ 。日本人 にっぽんじん 在 ざい 越 えつ 南 みなみ 建立 こんりゅう 了 りょう 越 えつ 南 みなみ 帝國 ていこく 傀儡 かいらい 政權 せいけん ,扶持 ふち 保 ほ 大帝 たいてい 為 ため 皇帝 こうてい 。雖然越 えつ 南 みなみ 帝國 ていこく 名義 めいぎ 上 じょう 是 ぜ 獨立 どくりつ 國家 こっか ,實際 じっさい 上 じょう 處 しょ 在 ざい 日本 にっぽん 的 てき 軍事 ぐんじ 佔領之 の 下 した 。日本人 にっぽんじん 要求 ようきゅう 保 ほ 大帝 たいてい 任命 にんめい 一 いち 位 い 首相 しゅしょう 並 なみ 組 ぐみ 建 けん 內閣。保 ほ 大帝 たいてい 曾向居住 きょじゅう 在 ざい 西 にし 貢 みつぎ 的 てき 吳 ご 廷琰寫 うつし 信 しんじ ,邀請他出 たしゅつ 任 にん 首相 しゅしょう ,但 ただし 由 よし 於日本人 にっぽんじん 擔心吳 くれ 廷琰會 かい 尋 ひろ 求 もとめ 越 えつ 南 みなみ 的 てき 獨立 どくりつ ,因 いん 此將該信扣留,這封信 しん 最終 さいしゅう 沒 ぼつ 有 ゆう 到達 とうたつ 吳 ご 廷琰的 てき 手 て 裡 うら 。[ 15]
到達 とうたつ 西 にし 貢 みつぎ 後 ご ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 會見 かいけん 了 りょう 日本 にっぽん 駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん (第 だい 38軍 ぐん )指揮 しき 官 かん 川村 かわむら 將軍 しょうぐん 和 わ 中尉 ちゅうい 大佐 たいさ 林 はやし 秀 しげる 澄 きよし 。川村 かわむら 告訴 こくそ 他 た ,保 ほ 大帝 たいてい 邀請他出 たしゅつ 任 にん 新 しん 成立 せいりつ 的 てき 越 えつ 南 みなみ 帝國 ていこく 的 てき 要職 ようしょく 。[ 7] 在 ざい 此期間 あいだ ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 第 だい 一 いち 次 じ 同 どう 吳 ご 廷琰會 かい 面 めん ,發現 はつげん 吳 ご 廷琰並 なみ 未 み 被 ひ 日本人 にっぽんじん 列 れつ 入 にゅう 越 えつ 南 みなみ 帝國 ていこく 要員 よういん 的 てき 名 めい 單 たん 中 ちゅう 。[ 14]
通過 つうか 另一位入圍的年輕朋友黃 き 春 はる 瀚的 てき 關係 かんけい ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 獲 え 准 なぞらえ 同 どう 保 ほ 大帝 たいてい 見 み 面 めん 。4月2日 にち 離 はなれ 開西 かいせい 貢 みつぎ ,三天后來到順化 じゅんか 。4月7日 にち 保 ほ 大帝 たいてい 私 わたし 下 か 會見 かいけん 陳 ひね 仲 なか 金 きん ,[ 7] 最初 さいしょ 陳 ひね 仲 なか 金 きん 拒絕 きょぜつ 出 で 任 にん 總理 そうり 職位 しょくい 。他稱 たしょう 自己 じこ 太 ふと 老 ろう 且沒有 ゆう 黨派 とうは 基礎 きそ 、缺乏 けつぼう 政治 せいじ 經驗 けいけん 。[ 14] 然 しか 而,陳 ちん 仲 なか 金 きん 為 ため 了 りょう 進 しん 一步談判而拖延時間,最終 さいしゅう 同意 どうい 在 ざい 4月 がつ 16日 にち 成立 せいりつ 新 しん 政府 せいふ 。次 つぎ 日 び ,他 た 提 ひさげ 名 めい 了 りょう 內閣十 じゅう 名 めい 部長 ぶちょう 的 てき 名 めい 單 たん 。除 じょ 了 りょう 一 いち 人 にん 拒絕 きょぜつ 加入 かにゅう 內閣外 がい ,其他九人在四月底至五月初先後來到首都赴任。[ 7]
大 だい 多數 たすう 內閣成員 せいいん 曾在法 ほう 國 こく 學校 がっこう 接受 せつじゅ 教育 きょういく ,被 ひ 視 し 為 ため 並 なみ 不 ふ 反對 はんたい 法 ほう 國 こく 的 てき 越 えつ 南 みなみ 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ 。[ 9] 陳 ちん 仲 なか 金 きん 內閣立 りつ 即 そく 被 かむ 越 こし 南 みなみ 國民黨 こくみんとう 和 わ 越 えつ 南 みなみ 復 ふく 國 こく 同盟 どうめい 會 かい 這兩個 りゃんこ 民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政黨 せいとう 所 しょ 通過 つうか 。[ 9]
陳 ちん 仲 なか 金的 きんてき 內閣僅僅 きんきん 存在 そんざい 了 りょう 五 ご 個月 かげつ ,其大部分 ぶぶん 政策 せいさく 在 ざい 越 えつ 盟 めい 掌 てのひら 權 けん 和 わ 日本 にっぽん 戰敗 せんぱい 之 これ 前並 まえなみ 未 み 實行 じっこう [ 16] 。
在 ざい 內閣倒 たおせ 臺 だい 之 これ 後 ご ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 再 さい 次 つぎ 轉入 てんにゅう 學術 がくじゅつ 和 わ 教育 きょういく 研究 けんきゅう 上 じょう 。[ 7] 1953年 ねん 12月2日 にち ,陳 ちん 仲 なか 金 きん 以70歲 さい 高齡 こうれい 在 ざい 大 だい 叻 逝世。
陳 ちん 仲 なか 金 きむ 是 ただし 否 いや 是 ぜ 日本人 にっぽんじん 的 てき 傀儡 かいらい 目前 もくぜん 歷史 れきし 學界 がっかい 有 ゆう 爭論 そうろん 。米 べい 爾 なんじ 頓 ひたぶる ·薩克斯和約 やく 翰·T·麥 むぎ 卡利斯特等 とう 學者 がくしゃ ,認 みとめ 為 ため 陳 ひね 仲 なか 金 きん 及其內閣是 ぜ 中立 ちゅうりつ 的 てき 政治 せいじ 家 か 。[ 17]
^ 《河 かわ 城 じょう 雜事 ざつじ 》:“昨 さく 往莫磋城 じょう 鬭巧局 きょく 諸 しょ 工匠 こうしょう 中 ちゅう ,有 ゆう 嵌 はま 工 こう 陳 ちん 仲 なか 金 きん ,情 じょう 願 ねがい 留 とめ 住 じゅう 在 ざい 伊 い 城 じょう 肄業。初 はつ 陳 ちん 君 くん 在 ざい 本國 ほんごく 辰 たつ ,從 したがえ 役 やく 諸 しょ 商店 しょうてん ,得 とく 厚 あつし 俸矣。茲不安 ふあん 小 しょう 利 り ,翻然 ほんぜん 出 で 洋 よう ,願 ねがい 學 がく 外國 がいこく 諸 しょ 技藝 ぎげい ,以為將來 しょうらい 同胞 どうほう 之 の 一助 いちじょ ,其志誠 まこと 可 か 嘉 よしみ 也。鬭巧局 きょく 長官 ちょうかん (烏 がらす 羝)貴 き 職 しょく 嘉 よしみ 陳 ちん 君 くん 有 ゆう 大志 たいし ,準 じゅん 許 もと 入場 にゅうじょう 應 おう 役 やく 。且在伊 い 城 じょう ,陳 ちん 君 くん 所 しょ 接 せっ ,率 りつ 多 た 貴人 きじん ,莫磋日程 にってい 主 ぬし 翁 おう 悲𠲖越 こし 、並 なみ 須撑低溫 ていおん 處 しょ 阿 おもね 迭省督 とく 學 がく 安 やす 連 れん 眉 まゆ 犀 さい 二貴職所帮助。再 さい 預入 よにゅう 學 がく 場 じょう ,其一 いち 年 ねん 內食用 よう 銀 ぎん 費 ひ ,由 ゆかり 伊 い 省 しょう 連 れん 眉 まゆ 犀 さい 貴 き 職 しょく 所 しょ 支給 しきゅう 。至 いたり 來年 らいねん ,則 のり 在 ざい 本國 ほんごく 諸 しょ 親友 しんゆう 繼 つぎ 給 きゅう 支 ささえ 需銀,務 つとむ 其學得 とく 速成 そくせい ,試 ためし 中 ちゅう 教師 きょうし 職 しょく ,俟回本國 ほんごく 傳 でん 教 きょう 諸 しょ 同胞 どうほう 子弟 してい ,庶大有 ゆう 公益 こうえき 云 うん 。茲謹代 だい 為 ため 陳 ちん 君 くん 親友 しんゆう ,代謝 たいしゃ 法 ほう 國 こく 二 に 貴 き 官 かん 意 い 。且贊嘆 さんたん 陳 ひね 君 くん 有 ゆう 出 で 洋 よう 遊學 ゆうがく 思想 しそう ,幷敘伊 い 學 がく 場 じょう 教法 きょうほう 甚精,而學生 せい 仝年 とし 銀 ぎん 費 ひ 只 ただ 五 ご 百 ひゃく 西貫 にしぬき ,效 こう 諸 しょ 法學 ほうがく 塲,其價甚廉。且此地 ち 風景 ふうけい 天氣 てんき 甚佳,誠 まこと 足 あし 供人 ともびと 勝 かち 賞 しょう ,願 ねがい 諸 しょ 出 で 洋學 ようがく 者 しゃ ,須就伊 い 場 じょう 學習 がくしゅう 也可。”載 の 《大南 おおみなみ 同文 どうぶん 日報 にっぽう ·登 とう 鼓 こ 叢 くさむら 報 ほう 》成 なり 泰 たい 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん 二 に 月 がつ 廿 にじゅう 九 きゅう 日 にち (1907年 ねん 4月 がつ 11日 にち )第 だい 3期 き (總 そう 第 だい 795期 き ),第 だい 45頁 ぺーじ 。
^ 《法 ほう 國 こく 來信 らいしん 》:“西 にし 七 なな 月 がつ 二 に 十 じゅう 八 はち 日 にち ,《波 なみ 思 おもえ 墨 すみ 磋報 》有 ゆう 敘云,南國 なんごく 一 いち 少年 しょうねん 名 めい 陳 ちん 仲 なか 金 きん ,寓 ぐう 學 がく 在 ざい 安 やす 低溫 ていおん 場 ば ,初 はつ 試 ためし 中小 ちゅうしょう 學 がく 師範 しはん 科 か 。伊 い 昨 さく 抵墨 ぼく 磋城鬪 たたかえ 巧 たくみ ,志 こころざし 在 ざい 陶 すえ 造 づくり 人才 じんさい 一事 いちじ ,故 こ 自 じ 抵安低溫 ていおん ,留 とめ 心 しん 學習 がくしゅう ,期 き 以盡伊 い 塲督學 がく 黎 はじむ 蔑翁所 しょ 教之 のりゆき 術 じゅつ ,忝 かたじけな 為 ため 伊 い 新 しん 第 だい 人 ひと 及各教師 きょうし 盡 つき 心 こころ 誨他賀 が 賀 が 。本館 ほんかん 閱見這事甚屬喜悅 きえつ ,蓋 ぶた 陳 ちん 仲 なか 金 きん 乃我同胞 どうほう 之 の 一 いち 良友 りょうゆう ,河 かわ 內多有 ゆう 熟 じゅく 識者 しきしゃ ,且陳之 の 遊學 ゆうがく ,本 ほん 報 むくい 第 だい 三期報章亦已明敘之矣。”載 の 《大南 おおみなみ 同文 どうぶん 日報 にっぽう ·登 とう 鼓 こ 叢 くさむら 報 ほう 》成 なり 泰 たい 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん 六 ろく 月 がつ 二 に 十 じゅう 三 さん 日 にち (1907年 ねん 8月 がつ 1日 にち )第 だい 19期 き (總 そう 第 だい 811期 き ),第 だい 303頁 ぺーじ 。
^ 《法 ほう 國 こく 來信 らいしん 》:“陳 ちん 仲 なか 金 きん 昨 さく 初 はつ 試 ためし 得 とく 師範 しはん 塲卒業 そつぎょう 証紙 しょうし ,茲幸資 し 法 ほう 國 こく 二 に 員 いん ,一 いち 日 にち 報 ほう 主筆 しゅひつ 𠾦𠲖為 ため 繄,一 いち 督 とく 學 がく 黎 はじむ 眉 まゆ 絲 いと ,為之 ためゆき 保護 ほご 。現 げん 就利 り 昂 のぼる 省 しょう 工 こう 商 しょう 塲入機器 きき 學 がく ,學費 がくひ 薪 たきぎ 費 ひ ,每 まい 資本 しほん 國 こく 舊友 きゅうゆう 數 すう 員 いん 所 しょ 助 じょ 給 きゅう 。間 あいだ 有 ゆう 欠 かけ 者 しゃ ,學 がく 場 じょう 亦 また 從 したがえ 中 ちゅう 斟酌 しんしゃく 末 まつ 減 げん 。敬 けい 請愛國 あいこく 諸 しょ 君子 くんし 不 ふ 靳一助 いちじょ ,使 つかい 陳 ちん 君 くん 得 とく 卒 そつ 學業 がくぎょう ,吾 われ 國 こく 何 なん 患無人 じん 也。原 はら 陳 ちん 君 くん 有意 ゆうい 遊學 ゆうがく ,本 ほん 欲 よく 成業 せいぎょう 歸國 きこく ,献 けんじ 諸 しょ 同胞 どうほう 。或 ある 作 さく 教師 きょうし ,或 ある 興 きょう 工藝 こうげい ,以施行 しこう 公益 こうえき 諸事 しょじ ,非 ひ 私 わたし 圖 ず 利己 りこ 也。今 こん 陳 ちん 君 くん 舊 きゅう 契 ちぎり 擬 なずらえ 代 だい 修 おさむ 單 たん ,呈 てい 與 あずか 遊學 ゆうがく 保 ほ 助 すけ 會 かい ,為之助 ためのすけ 給 きゅう ,會 かい 中 ちゅう 列 れつ 官員 かんいん 當 とう 必妥允 まこと 矣。貴 き 會 かい 現 げん 方 かた 揀二 に 人 にん 游 ゆう 法學 ほうがく 工 こう 藝事 げいごと ,而陳君 くん 之 の 在 ざい 法 ほう 者 しゃ ,適當 てきとう 此選,可 か 以中用 よう ,且往來 おうらい 舟 ぶね 費 ひ ,省 しょう 得 とく 過半 かはん ,列 れつ 貴 き 會 かい 寬弘 かんこう 之 の 量 りょう ,必終不 ふ 遺棄 いき 了 りょう 。但 ただし 會 かい 給 きゅう 不 ふ 過食 かしょく 費 ひ 而已,至 いたり 如服用 よう 支 ささえ 需,每 まい 形 かたち 缺乏 けつぼう ,懇 こん 祈 いのり 諸 しょ 友人 ゆうじん 留 とめ 心 こころ 顧及者 しゃ ,另即書 しょ 寄 よせ 陳 ちん 君 くん 在 ざい 利 り (卭)〔昂 のぼる 〕工 こう 商 しょう 場 じょう ,如上 じょじょう 所 しょ 言 げん 為 ため 仰 おおせ 。”載 の 《大南 おおみなみ 同文 どうぶん 日報 にっぽう ·登 とう 鼓 こ 叢 くさむら 報 ほう 》成 なり 泰 たい 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん 六 ろく 月 がつ 二 に 十 じゅう 三 さん 日 にち (1907年 ねん 8月 がつ 1日 にち )第 だい 19期 き (總 そう 第 だい 811期 き ),第 だい 303頁 ぺーじ 。
^ 《南風 みなみかぜ 雜誌 ざっし 》第 だい 卅九 きゅう 期 き <越 えつ 南 みなみ 史 し 略 りゃく 出版 しゅっぱん > (页面存 そん 档备份 ,存 そん 于互联网档案 あん 馆 ):近日 きんじつ 教授 きょうじゅ 兼學 けんがく 政 せい 清 きよし 查職陳 ちん 仲 なか 金 きん 先生 せんせい 有 ゆう 出版 しゅっぱん 越 えつ 南 みなみ 史 し 略 りゃく 一部 いちぶ 。
^ 據 よりどころ 臺灣 たいわん 學者 がくしゃ 梁 りょう 錦 にしき 文 ぶん 稱 たたえ ,陳重 のぶしげ 金 きん 「亦 また 稱 しょう 之 の 為 ため 陳 ひね 仲 なか 金 きん 」。見 み 梁 りょう 錦 にしき 文 ぶん 《越 えつ 南 みなみ 簡史》,國立 こくりつ 暨南國際 こくさい 大學 だいがく 東南 とうなん 亞 あ 研究 けんきゅう 中心 ちゅうしん ,126頁 ぺーじ ,注 ちゅう 第 だい 85.
^ 6.0 6.1 6.2 6.3 Dommen, p. 85.
^ 7.00 7.01 7.02 7.03 7.04 7.05 7.06 7.07 7.08 7.09 7.10 Chieu, p. 301.
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^ 18.0 18.1 Editions du Gouvernement General de l'Indochine. Souverains et notabilites d'Indochine . 河 かわ 內 . 1943: 43.
期 き 刊 かん 文章 ぶんしょう
Vu Ngu Chieu. The Other Side of the 1945 Vietnamese Revolution: The Empire of Viet-Nam. Journal of Asian Studies . February 1986, 45 (2).
书籍
事件 じけん 潘 はん 佩珠胡志明 ほうちみん 組織 そしき 起 おこり 義 ぎ 領 りょう 導 しるべ 者 しゃ 文學 ぶんがく 家 か 獨立 どくりつ 運動 うんどう 家 か 皇帝 こうてい 殖民 しょくみん 長官 ちょうかん 親 おや 法 ほう 官員 かんいん