咸宜帝 みかど (越 えつ 南 みなみ 语 :Vua Hàm Nghi /𤤰咸宜 ;1871年 ねん 8月 がつ 3日 にち —1944年 ねん 1月 がつ 14日 にち )[ 2] ,在位 ざいい 期 き 间名阮福明 あきら (越 えつ 南 みなみ 语 :Nguyễn Phúc Minh /阮福明 あきら ),為 ため 阮朝第 だい 8任 にん 皇帝 こうてい ,1884年 ねん 登 のぼり 基 はじめ ,年號 ねんごう 咸宜 。第 だい 二年被法國迫逐出京,1888年 ねん 兵 へい 敗 はい 被 ひ 俘,遭流放 ひ 至 いたり 阿 おもね 爾 しか 及利亞 あ 。原名 げんめい 「膺 」[ 註 2] ,被 ひ 廢 はい 後 ご 改 あらため 為 ため 「膺𨇗 」[ 4] 。同慶 どうけい 帝 みかど 即位 そくい 後 ご ,阮朝準備 じゅんび 待 まち 咸宜帝 みかど 投降 とうこう 後 ご 以其為 ため 郡 ぐん 公 こう ,承繼 しょうけい 堅 けん 太 たい 王 おう 祀 まつ ,故 こ 阮朝官 かん 方 かた 提 つつみ 及咸宜 むべ 帝 みかど 時 じ 多 た 稱 しょう 「郡 こおり 公 こう 膺𨇗 」。
咸宜帝 みかど 原名 げんめい 「阮福膺 」(越 えつ 南 みなみ 语 :Nguyễn Phúc Ưng Lịch /阮福膺 )[ 註 2] ,是 ぜ 堅 けん 太 たい 王 おう 阮福洪 ひろし 侅 與 あずか 潘 はん 氏 し 嫻所生 しょせい 的 てき 兒 じ 子 こ 。堅 けん 太 たい 王 おう 阮福洪 ひろし 侅 是 ぜ 嗣德帝 みかど 的 てき 弟 おとうと 弟 おとうと ,由 ゆかり 於嗣德 とく 帝 みかど 無 む 子 こ ,咸宜帝 みかど 的 てき 哥哥阮福膺豉被 ひ 過 か 繼 つぎ 給 きゅう 嗣德帝 みかど 當 とう 養子 ようし 。阮福膺豉 是 ぜ 嗣德帝 みかど 第 だい 二 に 養子 ようし ,1884年 ねん 嗣德帝 みかど 的 てき 第 だい 三 さん 養子 ようし 建 けん 福 ぶく 帝 みかど 逝世後 ご ,本 ほん 應 おう 由 よし 阮福膺豉繼 つぎ 位 い ;但 ただし 阮福膺豉年齒 ねんし 已 やめ 長 ちょう 而且有 ゆう 主 ぬし 見 み ,專權 せんけん 的 てき 阮文祥 さち 、尊 みこと 室 しつ 說 せつ 不 ふ 願 ねがい 令 れい 他 た 登 とう 位 い ,遂 とげ 將 はた 阮福膺豉的 てき 弟 おとうと 弟 おとうと 「阮福膺 」[ 註 2] 擁 よう 上皇 じょうこう 位 い ,改名 かいめい 阮福明 あきら ,是 ぜ 為 ため 咸宜帝 みかど 。
1884年 ねん 8月 がつ 2日 にち [ 5] 咸宜帝 みかど 繼 つぎ 位 い 之 の 時 とき ,中 ちゅう 法 ほう 戰爭 せんそう 仍在繼續 けいぞく ,但 ただし 越 えつ 南 みなみ 已 やめ 經 けい 成 なり 為 ため 法 ほう 國 こく 的 てき 保護 ほご 國 こく 。根據 こんきょ 1884年 ねん 6月 がつ 6日 にち 簽訂的 てき 《第 だい 二 に 次 じ 順化 じゅんか 條約 じょうやく 》,越 こし 南 みなみ 脫 だつ 離 はなれ 了 りょう 中國 ちゅうごく 的 てき 朝貢 ちょうこう 和 わ 冊 さつ 封 ふう 體系 たいけい ,其全境 さかい 被 ひ 分 ぶん 為 ため 北 きた 圻 、中 ちゅう 圻 、南 みなみ 圻三 さん 個 こ 部分 ぶぶん ,北 きた 、中 ちゅう 二圻設立欽使和統使(Résident)、副使 ふくし (Résident adjoint)[ 註 3] 並 なみ 制定 せいてい 不同 ふどう 的 てき 法律 ほうりつ ,儼然 げんぜん 成 なり 為 ため 三 さん 個 こ 不同 ふどう 國家 こっか ;法 ほう 國 こく 在 ざい 順化 じゅんか 設立 せつりつ 中 ちゅう 圻欽使 し (Résident supérieur d'Annam[ 註 4] )阮朝朝廷 ちょうてい 完全 かんぜん 成 なり 為 ため 中 ちゅう 圻欽使 し 的 てき 傀儡 かいらい 。
就在建 けん 福 ぶく 帝 みかど 逝世的 てき 時候 じこう ,中 ちゅう 圻欽使 し 黎 はじむ 那 な (Pierre Paul Rheinart)曾致公 こう 函 はこ 給 きゅう 阮朝朝廷 ちょうてい ,聲 こえ 稱 しょう 越 えつ 南 みなみ 的 てき 新 しん 君主 くんしゅ 必須 ひっす 得 え 到 いた 法 ほう 國 こく 政府 せいふ 的 てき 認可 にんか 方 かた 才 ざい 合法 ごうほう 。這引起 おこり 了 りょう 阮朝朝廷 ちょうてい 的 てき 不滿 ふまん ,因 いん 此阮文 ぶん 祥 さち 、尊 みこと 室 しつ 說 せつ 擁立 ようりつ 咸宜帝 みかど 為 ため 新 しん 君主 くんしゅ 時 じ 並 なみ 未知 みち 會 かい 法 ほう 國 こく 政府 せいふ 。黎 はじむ 那 な 得知 とくち 後 ご ,決定 けってい 使用 しよう 武力 ぶりょく 手段 しゅだん 懲治越 えつ 南 みなみ 。黎 はじむ 那 な 致函給 きゅう 北 きた 圻統帥 とうすい 米 べい 樂 らく (Charles-Théodore Millot),米 べい 樂 らく 便 びん 派 は 居 きょ 里 さと 埃 ほこり (Guerrier)大尉 たいい 率 りつ 兵 へい 六 ろく 百 ひゃく 人前 にんまえ 往中圻。6月27日 にち ,居 きょ 里 さと 埃 ほこり 率 りつ 兵 へい 隨 ずい 黎 はじむ 那 な 一 いち 起 おこり ,強行 きょうこう 進入 しんにゅう 了 りょう 順化 じゅんか 皇 すめらぎ 城 じょう ,冊立 さくりつ 咸宜帝 みかど 為 ため 新 しん 的 てき 皇帝 こうてい 。
1885年 ねん 6月 がつ 9日 にち ,法 ほう 國 こく 與 あずか 中國 ちゅうごく 清朝 せいちょう 簽訂《中 ちゅう 法 ほう 新約 しんやく 》,清朝 せいちょう 正式 せいしき 承認 しょうにん 了法 りょうほう 國 こく 對 たい 越 えつ 南 みなみ 的 てき 保護 ほご 權 けん 。這標誌 し 著 ちょ 法 ほう 國 こく 在 ざい 越 えつ 南 みなみ 保護 ほご 權 けん 的 てき 正式 せいしき 確立 かくりつ 。但 ただし 越 えつ 南 みなみ 各地 かくち 都 と 有 ゆう 反對 はんたい 法 ほう 國 こく 統治 とうち 的 てき 勢力 せいりょく 起 おこり 兵 へい 反抗 はんこう 法 ほう 國 こく ,有 ゆう 不 ふ 少 しょう 甚至是 ぜ 越 えつ 南 みなみ 的 てき 地方 ちほう 官員 かんいん 領 りょう 導 しるべ 的 てき 。法 ほう 國 こく 派遣 はけん 羅 ら 塞 ふさが 爾 しか ·德 とく ·可 か 爾 しか 西 にし (Roussel de Courcy)中將 ちゅうじょう 為 ため 軍民 ぐんみん 事務 じむ 總督 そうとく ,前 まえ 去 さ 安 やす 撫 なで 剛 つよし 剛 つよし 被 ひ 法 ほう 軍 ぐん 佔領的 てき 北 きた 圻。這使阮文祥 さち 、尊 みこと 室 しつ 說 せつ 非常 ひじょう 恐慌 きょうこう 。由 よし 於已被 ひ 幽 かそけ 禁 きん 的 てき 廢 はい 君 くん 育 そだて 德 とく 帝 みかど 曾同法 ほう 國 こく 來往 らいおう 密 みつ 切 きり ,[ 6] 為 ため 了 りょう 避免他 た 與 あずか 法 ほう 國人 くにびと 勾結,二人將育德帝秘密殺害。
6月30日 にち (陰曆 いんれき 五 ご 月 がつ 十 じゅう 八 はち ),可 か 爾 なんじ 西 にし 率 りつ 軍 ぐん 500人 にん 來 らい 到 いた 中 ちゅう 圻 ,企圖 きと 將 はた 阮朝朝廷 ちょうてい 完全 かんぜん 變成 へんせい 傀儡 かいらい 。次 つぎ 日 び 可 か 爾 しか 西 にし 到達 とうたつ 順化 じゅんか ,阮朝朝廷 ちょうてい 派遣 はけん 兩 りょう 名 めい 官員 かんいん ,隨 ずい 中 ちゅう 圻欽使 し 參 まいり 哺 (Louis Eugène Palasne de Champeaux)來 らい 到 いた 順 じゅん 安海 あんかい 口 こう 迎接 げいせつ 。可 か 爾 なんじ 西 にし 令 れい 阮文祥 さち 、尊 みこと 室 しつ 說 せつ 二 に 人前 にんまえ 去 さ 拜見 はいけん ,只 ただ 有 ゆう 阮文祥 さち 一 いち 人前 にんまえ 去 さ ,尊 みこと 室 しつ 說 せつ 以病推辭。可 か 爾 なんじ 西 にし 命令 めいれい 尊 みこと 室 しつ 說 せつ 即 そく 使 し 有 ゆう 病 びょう 也要抬來。因 よし 此尊室 しつ 說 せつ 非常 ひじょう 憤怒 ふんぬ 。而可爾 なんじ 西又 にしまた 堅持 けんじ 要求 ようきゅう 自己 じこ 率 りつ 軍 ぐん 從 したがえ 皇宮 こうぐう 正門 せいもん 長驅 ちょうく 直入 なおいり 謁見 えっけん 咸宜帝 みかど ,更 さら 使 し 阮朝朝廷 ちょうてい 氣 き 憤 いきどお 。尊 みこと 室 しつ 說 せつ 煽動 せんどう 朝廷 ちょうてい 諸 しょ 大臣 だいじん 與 あずか 法 ほう 軍 ぐん 拼死一 いち 搏。
7月 がつ 4日 にち (陰曆 いんれき 五 ご 月 がつ 廿 にじゅう 二 に )中午 なかうま ,慈裕太 ふとし 后 きさき 遣 や 人 ひと 送 おく 禮 れい 給 きゅう 可 か 爾 しか 西 にし ,要求 ようきゅう 僅他一 いち 人 にん 能 のう 走 はし 正門 せいもん ,其他法 ほう 軍 ぐん 士 し 兵 へい 走 はし 偏 へん 門 もん ,但 ただし 被 ひ 可 か 爾 なんじ 西 にし 拒絕 きょぜつ 。這令阮朝朝廷 ちょうてい 十 じゅう 分 ふん 難 なん 堪 こらえ 。當 とう 天下 てんか 午 うま ,尊 みこと 室 しつ 說 せつ 趁黎那 な 在 ざい 欽使府中 ふちゅう 招待 しょうたい 法 ほう 國 こく 官員 かんいん 之 の 際 さい ,對 たい 欽使府 ふ 發動 はつどう 突襲。法 ほう 軍 ぐん 據 よりどころ 欽使府 ふ 抵抗 ていこう ,並 なみ 於次日 び 早 はや 晨發起 ほっき 反攻 はんこう ,擊 げき 潰 つぶせ 越 えつ 軍 ぐん 。咸宜帝 みかど 與 あずか 慈裕太 ふとし 后 きさき 逃往謙 けん 陵 りょう ,留 とめ 阮文祥 さち 守 まもり 順化 じゅんか 。在 ざい 尊 みこと 室 しつ 說 せつ 的 てき 保護 ほご 下 か ,咸宜帝 みかど 一 いち 行 ぎょう 又 また 逃至廣治 ひろじ 省 しょう ,被 ひ 廣治 ひろじ 巡 じゅん 撫 なで 張 ちょう 光 ひかり 憻將 はた 其迎入 にゅう 廣治 ひろじ 城 じょう 。阮文祥 さち 向 こう 法 ほう 國 こく 投降 とうこう ,與 あずか 阮有度 ど 、潘 はん 廷評同 どう 掌 てのひら 朝政 ちょうせい 。原由 げんゆ 尊 みこと 室 しつ 說 せつ 擔任 たんにん 的 てき 兵部 ひょうぶ 尚書 しょうしょ 一職則空缺,由 よし 法 ほう 國 こく 人中 ひとなか 圻欽使 し 參 さん 哺代理 だいり 。
《勤王 きんのう 詔 みことのり 》
阮文祥 さち 奉 たてまつ 法 ほう 國 こく 之 の 命 いのち 請咸宜 むべ 帝 みかど 等 とう 人 じん 回 かい 到 いた 順化 じゅんか 。慈裕太皇太后 たいこうたいこう 范氏姮 、莊 そう 懿皇太后 こうたいごう 武 たけ 氏 し 諧 、皇 すめらぎ 太 たい 妃 ひ 阮氏香 が 三宮 さんのみや 到達 とうたつ 謙 けん 陵 りょう ,咸宜帝 みかど 則 そく 被 ひ 尊 みこと 室 しつ 說 せつ 劫 こう 持 じ 到 いた 了 りょう 廣平 ひろへい 省 しょう 宣 せん 化 か 縣 けん 。在 ざい 廣治 ひろじ ,尊 みこと 室 しつ 說 せつ 建立 こんりゅう 新所 しんしょ 城 じょう 為 ため 據點 きょてん ,並 なみ 以咸宜 むべ 帝 みかど 的 てき 名義 めいぎ 發 はつ 佈《勤王 きんのう 詔 みことのり 》,號 ごう 召越南 みなみ 各地 かくち 人 じん 起 おこり 兵 へい 反抗 はんこう 法 ほう 國 こく 的 てき 殖民 しょくみん 統治 とうち 。越 えつ 南 みなみ 各地 かくち 紛紛 ふんぷん 舉兵響 ひびき 應 おう ,最初 さいしょ 其勢力 せいりょく 北 きた 至 いたり 乂安省 しょう 、清 きよし 化 か 省 しょう ,南 みなみ 至 いたる 平 ひら 順 じゅん 省 しょう ,後來 こうらい 又 また 向 こう 南 みなみ 延伸 えんしん 到 いた 了 りょう 富安 とみやす 省 しょう 。這場反對 はんたい 法 ほう 國 こく 殖民 しょくみん 統治 とうち 的 てき 運動 うんどう 被 ひ 後世 こうせい 稱 たたえ 為 ため 勤王 きんのう 運動 うんどう 。該運動 うんどう 也受到了 りょう 不 ふ 少 しょう 越 えつ 南 みなみ 文 ぶん 紳 しん 甚至地方 ちほう 官員 かんいん 的 てき 響 ひびき 應 おう ,比較 ひかく 著名 ちょめい 的 てき 有 ゆう 河 かわ 靜 せい 省 しょう 的 てき 潘 はん 廷逢 、北江 きたえ 省 しょう 的 てき 黃 き 花 はな 探 さがせ 、廣平 ひろへい 省 しょう 的 てき 阮范遵 、乂安省 しょう 的 てき 阮春溫 ぬる 等 ひとし 等 ひとし 。嗣德 年間 ねんかん 的 てき 重臣 じゅうしん 、已 やめ 經 へ 退 ずさ 隱 かくれ 家鄉 かきょう 的 てき 原 はら 禮 あや 部 ぶ 尚書 しょうしょ 武 たけ 仲平 なかひら ,也在家鄉 かきょう 廣平 ひろへい 省 しょう 麗水 れいすい 縣 けん 舉兵,宣 せん 佈支持 しじ 勤王 きんのう 運動 うんどう 。
9月12日 にち (八 はち 月 がつ 四 よん 日 にち ),法 ほう 國見 くにみ 無法 むほう 讓 ゆずる 咸宜帝 みかど 回 かい 到 いた 順化 じゅんか ,決定 けってい 另立其兄長 ちょう 阮福膺豉為 ため 帝 みかど 。14日 にち ,羣臣奉 たてまつ 两宫懿旨迎 むかえ 阮福膺豉入 にゅう 宫。17日 にち ,举行晋 すすむ 光 こう 礼 れい 。19日 にち ,阮福膺豉正式 せいしき 登 のぼり 基 はじめ ,是 ぜ 為 ため 同慶 どうけい 帝 みかど ,遙 はるか 降 くだ 封 ふう 咸宜帝 みかど 為 ため 堅 けん 江 え 郡 ぐん 公 おおやけ ,日 にち 後 ご 承 うけたまわ 堅 がた 太 ふとし 王 おう 之 の 嗣。由 よし 於阮文祥 さち 無法 むほう 維持 いじ 越 えつ 南 みなみ 的 てき 穩定,法 ほう 國 こく 將 はた 刑部 おさかべ 尚書 しょうしょ 阮文祥 さち 、戶部 とべ 尚書 しょうしょ 范慎遹 以及尊 みこと 室 しつ 說 せつ 的 てき 生 なま 父 ちち 尊 みこと 室 しつ 訂 てい 一起流放到塔 とう 希 まれ 提 つつみ 島 とう 。又 また 派 は 阮仲合 なからい 前 まえ 去 さ 鎮壓 ちんあつ 文 ぶん 紳 しん 叛軍 はんぐん 。因 いん 越 えつ 南 みなみ 動亂 どうらん ,法 ほう 國 こく 總理 そうり 亨 とおる 利 り ·布里 ふり 松 まつ 提議 ていぎ 增加 ぞうか 對 たい 在 ざい 越 えつ 法 ほう 軍 ぐん 的 てき 開 ひらけ 支 ささえ ,但 ただし 提案 ていあん 未 み 獲 え 通過 つうか ,布里 ふり 松 まつ 辭職 じしょく 。新 しん 總理 そうり 夏 なつ 爾 なんじ ·德 とく ·弗 どる 雷 かみなり 西 にし 內撤去 てっきょ 可 か 爾 しか 西之 にしの 職 しょく ,由 ゆかり 保 ほ 羅 ら ·伯 はく 爾 なんじ (Paul Bert)代替 だいたい 其軍民 ぐんみん 事務 じむ 總督 そうとく 之 の 職 しょく 。
法 ほう 國 こく 派遣 はけん 肖 あやか 蒙 こうむ (Chaumont)上 うえ 校 こう 攻 おさむ 佔廣平 ひろへい 省 しょう ,切斷 せつだん 了 りょう 尊 みこと 室 しつ 說 せつ 與 あずか 北 きた 圻起 おこり 義軍 ぎぐん 的 てき 聯 れん 繫;另一路法軍攻取乂安省 しょう ,對 たい 尊 みこと 室 しつ 說 せつ 軍隊 ぐんたい 形成 けいせい 鉗形攻勢 こうせい 。尊 みこと 室 しつ 說 せつ 以向清朝 せいちょう 求 もとめ 援為名 めい ,同 どう 提督 ていとく 陳 ちん 春 はる 撰 せん 出奔 しゅっぽん 廣東 かんとん 龍 りゅう 州 しゅう 。咸宜帝 みかど 不能 ふのう 抵擋法 ほう 軍 ぐん 進攻 しんこう ,在 ざい 尊 みこと 室 しつ 談 だん 、尊 みこと 室 しつ 詥 、黎 はじむ 直 ただし 、阮范遵的保護 ほご 下 か 據 よりどころ 守 もり 宣 せん 化 か 縣 けん ,騷擾 そうじょう 廣平 ひろへい 、河 かわ 靜 せい 等 とう 地 ち 的 てき 法 ほう 軍 ぐん 。但 ただし 法 ほう 軍 ぐん 由 よし 乂安、宣 せん 化 か 等地 とうち 對 たい 其圍攻 おさむ ,咸宜帝 みかど 退 すさ 往叢林 りん 裡 うら 繼續 けいぞく 抗爭 こうそう 。為 ため 了 りょう 加 か 強 きょう 對 たい 越 えつ 南 みなみ 的 てき 統治 とうち ,法 ほう 國 こく 於1886年 ねん 正式 せいしき 在 ざい 順化 じゅんか 設立 せつりつ 法 ほう 屬 ぞく 印度 いんど 支 ささえ 那 な 聯邦 れんぽう 政府 せいふ ,由 ゆかり 康 かん 斯坦 (Jean Antoine Ernest Constans,越 えつ 南 みなみ 史料 しりょう 稱 しょう 其為「功 こう 增 ぞう 」)出 だし 任 にん 首 くび 任 にん 總督 そうとく 。法 ほう 國 こく 殖民 しょくみん 政府 せいふ 還 かえ 挾 はさみ 持 じ 同慶 どうけい 帝 みかど 前 ぜん 往廣平 ひらめ ,勸誘 かんゆう 咸宜帝 みかど 等 とう 人 じん 走出 はしりで 叢林 そうりん 投降 とうこう ;又 また 派 は 黃 き 繼 つぎ 炎 えん 前 まえ 去 さ 勸降 かんこう ,試 ためし 圖 ず 以高官 こうかん 厚 あつ 祿 ろく 吸引 きゅういん 他 た 們,皆 みな 失敗 しっぱい 。
1887年 ねん ,阮范遵 在 ざい 戰 せん 鬥中被 ひ 殺 ころせ 。法 ほう 軍 ぐん 審問 しんもん 俘虜 ふりょ ,從 したがえ 而得知 ち 了 りょう 咸宜帝 みかど 的 てき 藏 ぞう 身 み 之 の 處 しょ ,並 なみ 且得知 ち 了 りょう 咸宜帝 みかど 身邊 しんぺん 的 てき 近侍 きんじ 張 ちょう 光 ひかり 玉 だま 是 これ 個 こ 貪 むさぼ 財 ざい 之 の 人 ひと 。法 ほう 軍 ぐん 以重金 きむ 收 おさむ 買 かい 了 りょう 張 ちょう 光 ひかり 玉 だま ,令 れい 其為內應。次 つぎ 年 ねん 9月 がつ 26日 にち ,張 ちょう 光 ひかり 玉 だま 與 あずか 阮定情 じょう 二人 ふたり 發動 はつどう 兵 へい 變 へん ,包圍 ほうい 了 りょう 咸宜帝 みかど 的 てき 住所 じゅうしょ ,殺 ころせ 死 し 護衛 ごえい 的 てき 尊 みこと 室 しつ 詥 。咸宜帝 みかど 見 み 狀 じょう ,手持 てもち 青 あお 龍 りゅう 劍 けん ,對 たい 張 ちょう 光 ひかり 玉 だま 說 せつ :「你把我 わが 殺 ころせ 了 りょう ,而不僅是把 わ 我 わが 帶 おび 回 かい 去 さ 獻 けんじ 給 きゅう 西洋 せいよう 人 じん 。」(Mày giết tao đi, còn hơn đưa tao về nộp cho Tây! )但 ただし 張 ちょう 光 ひかり 玉 だま 的 てき 手下 てした 從 したがえ 背後 はいご 奪 だつ 下 した 了 りょう 青 あお 龍 りゅう 劍 けん ,逮捕 たいほ 了 りょう 咸宜帝 みかど 送 おく 交法軍 ぐん 。尊 みこと 室 しつ 談 だん 得知 とくち 咸宜帝 みかど 被 ひ 俘後,也自殺 じさつ 殉死 じゅんし 。咸宜帝 みかど 被 ひ 送 おく 往順化 じゅんか 囚 しゅう 禁 きん ,法 ほう 國 こく 審問 しんもん 咸宜帝 みかど 身 み 份,咸宜帝都 ていと 拒絕 きょぜつ 回答 かいとう 。
咸宜帝 みかど (右 みぎ )與 あずか 玛赛勒·拉 ひしげ 洛 らく 埃 ほこり (左 ひだり )的 てき 婚禮 こんれい
為 ため 防止 ぼうし 其支持 しじ 者 しゃ 叛亂 はんらん ,法 ほう 國 こく 決定 けってい 將 はた 咸宜帝 みかど 流 りゅう 放 ひ 到 いた 北 きた 非 ひ 的 てき 阿 おもね 爾 しか 及利亞 あ 。11月22日 にち ,咸宜帝 みかど 自 じ 順 じゅん 安海 あんかい 口 こう 出發 しゅっぱつ 。臨行前 まえ ,咸宜帝 みかど 望 のぞむ 著 ちょ 故國 ここく 而痛哭 つうこく 流涕 りゅうてい 。12月13日 にち ,咸宜帝 みかど 抵達西 にし 貢 みつぐ ,並 なみ 坐 すわ 船 ふね 前 ぜん 往阿爾 なんじ 及利亞 あ 。1889年 ねん 1月 がつ 13日 にち ,咸宜帝 みかど 抵達了 りょう 法 ほう 屬 ぞく 阿 おもね 爾 しか 及利亞 あ 的 てき 首府 しゅふ 阿 おもね 爾 しか 及爾 。先 さき 是 ぜ 住 じゅう 在 ざい Régence賓 まろうど 館 かん (L'hôtel de la Régence),後 ご 被 ひ 安置 あんち 在 ざい 距離 きょり 阿 おもね 爾 しか 及爾5公里 くり 以外 いがい 的 てき 棱聰別墅 べっしょ (Villa des Pins)。法 ほう 國 こく 方面 ほうめん 每年 まいとし 提供 ていきょう 給 きゅう 25000法 ほう 郎 ろう 作為 さくい 生活 せいかつ 費用 ひよう 。
1月 がつ 24日 にち ,阿 おもね 爾 しか 及利亞 あ 總督 そうとく 路 みち 易 えき ·提 ひさげ 爾 なんじ 曼 (Louis Tirman)宴 うたげ 請了咸宜帝 みかど ,並 なみ 告知 こくち 咸宜帝 みかど 其生母 せいぼ 潘 はん 氏 し 嫻 於1月 がつ 21日 にち 逝世的 てき 消息 しょうそく 。在 ざい 最初 さいしょ 的 てき 幾 いく 個月 かげつ 裡 うら ,咸宜帝 みかど 對 たい 法 ほう 國 こく 非常 ひじょう 敵視 てきし ,一 いち 直 ちょく 拒絕 きょぜつ 學習 がくしゅう 法語 ほうご 。後來 こうらい 他 た 發現 はつげん 阿 おもね 爾 しか 及利亞 あ 的 てき 法 ほう 國人 くにびと 較為友好 ゆうこう ,與 あずか 越 えつ 南 みなみ 的 てき 法 ほう 國人 くにびと 完全 かんぜん 不同 ふどう 。因 よし 此在11月 がつ 開始 かいし 學習 がくしゅう 法語 ほうご 。幾年 いくとせ 以後 いご ,咸宜帝 みかど 的 てき 法語 ほうご 說得 せっとく 非常 ひじょう 流 りゅう 利 り 。1899年 ねん ,咸宜帝 みかど 前 ぜん 往法國 こく 巴 ともえ 黎 はじむ ,參觀 さんかん 了 りょう 高 こう 更 さら 的 てき 畫展 がてん 。咸宜帝 みかど 受到高 だか 更 さら 的 てき 印象派 いんしょうは 畫 が 作 さく 影響 えいきょう ,開始 かいし 作畫 さくが 。2010年 ねん 11月24日 にち ,其畫作 さく 「垂 たれ 暮 くれ 」(Déclin du jour)在 ざい 巴 ともえ 黎 はじむ 拍 はく 賣 うり 時 じ 被 ひ 以8800歐 おう 元 もと 的 てき 價格 かかく 賣出 うりだし 。[ 7]
1904年 ねん 11月4日 にち ,咸宜帝 みかど 娶 めと 了 りょう 一 いち 位 い 名 めい 叫 さけべ 玛赛勒·拉 ひしげ 洛 らく 埃 ほこり (Marcelle Laloë)的 てき 當地 とうち 女子 じょし 為 ため 妻 つま ,婚 こん 後 ご 育 そだて 有 ゆう 一 いち 子 し 二女 じじょ 。
1944年 ねん 1月 がつ 14日 にち ,咸宜帝 みかど 因 いん 胃癌 いがん ,逝世於阿 おもね 爾 しか 及爾比 ひ 阿 おもね 尔的 てき 嘉隆 よしたか 別墅 べっしょ ,享年 きょうねん 七 なな 十 じゅう 二 に 歲 さい ,16日 にち 在 ざい 嘉隆 よしたか 别墅举行葬礼 そうれい [ 8] 。後 こう 葬 そう 於法国 こく 亞 あ 奎丹萨拉拉 ひしげ 卡内达区 托 たく 纳克的 てき 公 おおやけ 墓 ぼ 。[ 9]
由 よし 於咸宜 むべ 帝 みかど 抗 こう 擊 げき 法 ほう 國 こく 的 てき 殖民 しょくみん 統治 とうち ,越 えつ 共 ども 給 きゅう 予 よ 了 りょう 他 た 很高的 てき 評價 ひょうか 。1957年 ねん ,河 かわ 內中學 ちゅうがく 被 ひ 改名 かいめい 為 ため 咸宜中學 ちゅうがく 。1975年 ねん 該中學 ちゅうがく 被 ひ 解散 かいさん ,但 ただし 於2005年 ねん 恢復 かいふく 。此外,胡志明 ほうちみん 市 し 、海防 かいぼう 市 し 、峴港市 し 、順化 じゅんか 市 し 都 みやこ 有 ゆう 街道 かいどう 被 ひ 命名 めいめい 為 ため 咸宜路 ろ 。[ 10]
2002年 ねん ,越 えつ 南 みなみ 政府 せいふ 派 は 人前 ひとまえ 往法國 こく ,提議 ていぎ 將 はた 咸宜帝 みかど 的 てき 遺骨 いこつ 歸 き 葬 そう 順化 じゅんか ,但 ただし 遭到咸宜帝 みかど 次女 じじょ 阮福如李 的 てき 拒絕 きょぜつ [ 11] 。
在 ざい 順化 じゅんか 堅 けん 太 たい 王 おう 祠 ほこら ,咸宜帝 みかど 牌 ぱい 位 い 內容為 ため “奉 たてまつ 為 ため 舊 きゅう 皇 すめらぎ 咸宜懷 ふところ 仁 じん 諡 おくりな 莊 そう 恭之 きょうすけ 金 きん 靈位 れいい ”,代表 だいひょう 他 た 可能 かのう 被 ひ 追贈 ついぞう 為 ため 懷 ふところ 仁 じん 郡 ぐん 王 おう ,諡 おくりな 莊 そう 恭 きょう 。
咸宜帝 みかど 家族 かぞく
祖父 そふ :憲 けん 祖 そ 章 あきら 皇帝 こうてい 阮福暶
父 ちち :堅 けん 太 たい 王 おう 阮福洪 ひろし 侅
祖母 そぼ :宮人 みやびと 張 ちょう 氏 し 永 なが
出 で 皇帝 こうてい 阮福明 あきら
外祖父 がいそふ :不 ふ 詳 しょう
母 はは :府 ふ 妾 わらわ 潘 はん 氏 し 嫻
外祖母 がいそぼ :不 ふ 詳 しょう
姓名 せいめい
法語 ほうご 原名 げんめい
生 なま 卒 そつ 年 ねん
生平 おいだいら
瑪賽勒·拉 ひしげ 洛 らく 埃 ほこり
Marcelle Aimée Léonie Laloë
1884年 ねん —1974年 ねん
法 ほう 裔阿爾 なんじ 及利亞 あ 人 じん
排 はい 行 ぎょう
越 えつ 南 みなみ 姓名 せいめい
法語 ほうご 姓名 せいめい
生 なま 卒 そつ 年 ねん
配偶 はいぐう
备注
女 おんな
1
阮福如梅
Marcelle Suzanne Henriette Ung Lich Ham Nghi d'Annam
1905年 ねん 8月 がつ 17日 にち —1999年 ねん 1月 がつ 11日 にち
2
阮福如李
1908年 ねん 7月 がつ 22日 にち —2005年 ねん 7月 がつ 9日 にち
François Barthomivat de la Besse
De la Besse伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん ,有子 ゆうこ 嗣[ 12]
子 こ
1
阮福明德 めいとく
Jean Ung Lich Ham Nghi d'Annam
1910年 ねん 7月 がつ 6日 にち —1990年 ねん
Renée-Paule Bonnaud
子孫 しそん 改姓 かいせい 「明德 めいとく 」(Minh Duc)
腳註
引用 いんよう
陳 ちん 仲 なか 金 きん 《越 えつ 南 みなみ 史 し 略 りゃく 》,戴可來 らい 譯 わけ (中 ちゅう 文 ぶん 譯名 やくめい 《越 えつ 南通 みなみとおり 史 し 》),商務 しょうむ 印 しるし 書 しょ 館 かん 出版 しゅっぱん ,1992年 ねん 12月。
Nguyễn Quang Trung Tiến. "Vị vua trưởng thành từ niên thiếu". Tạp chí thông tin Khoa học và Công nghệ , số 1(7), 1995.
Baille. "Souvenirs d'Annam 1886–1890" E. Plon, Nourrit et Cie, Paris (1890, viii + 266 pp.)
Devillers, Philippe. "Français et Annamites. Partenaires ou ennemis? 1856–1902", Denoël, 1998, 517 pp.; ISBN 2-207-24248-X (2-207-24248-X)
Gosselin, Charles. "Le Laos et le Protectorat Français". Librairie académique Didier, Perrin & Cie, Paris (1900, 349 pp.) Available here or here
Gosselin, Charles. "L'empire d'Annam". Préface de Pierre Baudin, Perrin. Cie: Paris (1904, xxvi + 560 pp.)
Nguyên Cao Duc, Georges. Un empereur aimé: Hàm Nghi (页面存 そん 档备份 ,存 そん 于互联网档案 あん 馆 )
事件 じけん 潘 はん 佩珠胡志明 ほうちみん 組織 そしき 起 おこり 義 ぎ 領 りょう 導 しるべ 者 しゃ 文學 ぶんがく 家 か 獨立 どくりつ 運動 うんどう 家 か 皇帝 こうてい 殖民 しょくみん 長官 ちょうかん 親 おや 法 ほう 官員 かんいん