はち事件じけん

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はち事件じけん

抗議こうぎする市民しみんたち
とき1947ねん2がつ28にち - 5月16にち
場所ばしょ中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく 台湾たいわんしょう
結果けっか 中国ちゅうごく国民党こくみんとう政権せいけんによる市民しみん虐殺ぎゃくさつ
衝突しょうとつした勢力せいりょく
中華民国の旗 国民こくみん政府せいふ
中華民国の旗 台湾たいわんしょう行政ぎょうせい長官ちょうかんおおやけしょ
中国ちゅうごく国民党こくみんとう
台湾たいわんじん本省ほんしょうじん

はち事件じけん(ににはちじけん, 台湾たいわん白話はくわ: Jī-jī-pat Sū-kiāⁿ)とは、1947ねんみんこく36ねん2がつ28にち台湾たいわんしょう台北たいぺい発生はっせいし、その台湾たいわん全土ぜんどひろがった、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふによる長期ちょうきてき白色はくしょくテロ、すなわち民衆みんしゅうへの弾圧だんあつ虐殺ぎゃくさつがねとなった事件じけん[1]

1947ねん2がつ27にち台北たいぺいタバコ販売はんばいしていた台湾たいわんじん女性じょせいたいし、取締とりしまり役人やくにん暴行ぼうこうくわえる事件じけんきた。これが発端ほったんとなって、よく2がつ28にちには台湾たいわんじんによる市庁舎しちょうしゃへの抗議こうぎデモおこなわれた。しかし、憲兵けんぺいたいがこれに発砲はっぽうこうそうはたちまち台湾たいわん全土ぜんどひろがることとなった。台湾たいわんじんおおくの地域ちいき一時いちじ実権じっけん掌握しょうあくしたが、中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ中国ちゅうごく本土ほんどから援軍えんぐん派遣はけんし、武力ぶりょくによりこれを徹底的てっていてき鎮圧ちんあつした。

背景はいけい[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく国民こくみん政府せいふぐん官員かんいん出迎でむかえる台湾たいわん学生がくせいたち(1945ねん

1945ねん日本にっぽん敗戦はいせんしたのち台湾たいわんでは、カイロ宣言せんげんもとづき、連合れんごう国軍こくぐん委託いたくけて、日本にっぽんぐん武装ぶそう解除かいじょおこなうために、中国ちゅうごく本土ほんどから蔣介せき主席しゅせきひきいる中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ中国ちゅうごく国民党こくみんとう官僚かんりょう軍人ぐんじんらが同地どうち進駐しんちゅうし、「失地しっち回復かいふく」という名目めいもく台湾たいわん行政ぎょうせいいでいた。

台湾たいわんひとたちは中国ちゅうごく本土ほんどから官僚かんりょう軍人ぐんじんらをみなと歓迎かんげいしたが、やがてかれらの汚職おしょくすさまじさにおどろき、失望しつぼうした。中国ちゅうごく本土ほんどから官僚かんりょう軍人ぐんじんは、当時とうじにちちゅう戦争せんそう国共こっきょう内戦ないせん影響えいきょうしつわるく、強姦ごうかん強盗ごうとう殺人さつじんおかものおおかったが、その犯人はんにん処罰しょばつされぬことがしばしばあった。

"Chinese Exploit Formosa Worse Than Japs Did"(日本人にっぽんじんよりも過酷かこく台湾たいわん搾取さくしゅする中国人ちゅうごくじん)(ザ・ワシントン・デイリーニュース

たとえばっせられる場合ばあいでも、犯人はんにんせきマスコミとうほうじることはきびしくきんじられた。また、台湾たいわん資材しざい中国人ちゅうごくじん官僚かんりょうらによって接収せっしゅう横領おうりょうされ、中国ちゅうごく上海しゃんはい国際こくさい市場いちば競売きょうばいにかけられるにいたり、物資ぶっし不足ふそくおちいった台湾たいわんでは、相対そうたいてき物価ぶっか高騰こうとうインフレーションによって企業きぎょう倒産とうさん相次あいつぎ、失業しつぎょう深刻しんこくした。

台湾たいわん経済けいざいは、日本にっぽん内地ないち地方ちほう都市としえて東京とうきょうおな水準すいじゅんだった[2]日本にっぽん統治とうち体験たいけんした台湾たいわんじんにとって、治安ちあん悪化あっか役人やくにんいちじるしい汚職おしょく軍人ぐんじん兵士へいしなどの狼藉ろうぜき、さらに経済けいざい混乱こんらん到底とうていれがたいものであり、人々ひとびと不満ふまんたかまっていった。当時とうじ台湾たいわんじんはこれらの状況じょうきょうを「いぬ日本人にっぽんじんりて、ぶた中華民国ちゅうかみんこくじんたる」(いぬ豬來)とんで揶揄やゆした。

経緯けいい[編集へんしゅう]

専売せんばいきょく台北たいぺいぶんきょくまえあつまった群衆ぐんしゅう(1947ねん2がつ28にち
台北たいぺい市民しみんちされた専売せんばいきょく台北たいぺいぶんきょく
当時とうじ弾圧だんあつえがいた木版もくはん
台湾たいわんしょう警備けいびそう司令しれいのビラ(中国ちゅうごくとともに日本語にほんご併記へいきしている)

戦後せんご台湾たいわんでは、日本にっぽん統治とうち時代じだい専売せんばい制度せいどさけ・タバコ・砂糖さとうしおひとしすべ政府せいふによって専売せんばいされた。しかし、中国ちゅうごく本土ほんどではタバコは自由じゆう販売はんばいゆるされていたため、おおくの台湾たいわんじんがこの措置そち差別さべつてきかんがえ、不満ふまんっていた。

1947ねん2がつ27にち台北たいぺいでタバコを販売はんばいしていた女性じょせいはやしこう邁、40さい2人ふたり子持こも寡婦かふ)を、官憲かんけん台湾たいわん専売せんばいきょく台北たいぺい支局しきょく密売みつばい取締とりしまりいん6めい警察官けいさつかん4めい)が摘発てきはつした。女性じょせい土下座どげざしてゆるしを懇願こんがんしたが、取締とりしまりかん女性じょせい銃剣じゅうけん殴打おうだし、商品しょうひんおよび所持しょじきん没収ぼっしゅうした。タバコりの女性じょせい同情どうじょうして、おおくの台湾たいわんじんあつまった。すると取締とりしまりかん今度こんど民衆みんしゅう威嚇いかく発砲はっぽうしたが、まったく無関係むかんけい台湾たいわんじんであるちんぶんけい被弾ひだん死亡しぼうさせてしまい、逃亡とうぼうした。

この事件じけんをきっかけとし、民衆みんしゅう政府せいふへのいかりが爆発ばくはつした。よく28にちには抗議こうぎのデモたいしょう行政ぎょうせい長官ちょうかんけん警備けいびそう司令しれいちんただし公舎こうしゃ大挙たいきょしてしかけたが、庁舎ちょうしゃ守備しゅびする衛兵えいへい屋上おくじょうから機関きかんじゅう銃弾じゅうだんびせかけ、おおくの市民しみん死傷ししょうした[3][4]

激怒げきどした台湾たいわんじん民衆みんしゅう政府せいふしょ施設しせつ襲撃しゅうげきし、そとしょうじん商店しょうてんいた[3]日本語にほんご台湾たいわんはなしかけ、こたえられないものそとしょうじんみとめると暴行ぼうこうするなどの反抗はんこう手段しゅだんおこなった。台湾たいわん住民じゅうみんなかには日本語にほんごはなせない人々ひとびともいたが、「きみ」は国歌こっかとしてすべての台湾たいわんじんうたえたため、台湾たいわんじんたちはぜん台湾たいわんじん共通きょうつう合言葉あいことばとして「きみ」をうたい、うたえないものそとしょうじん)を排除はいじょしつつ行進こうしんした。また、台湾たいわんじんがわはラジオ放送ほうそうきょく占拠せんきょ軍艦ぐんかんマーチとも日本語にほんごで「台湾たいわんじんよ、がれ 」と全島ぜんとうびかけた[5]

3月1にちからはかく主要しゅよう都市とし民衆みんしゅう蜂起ほうきして官庁かんちょう警察けいさつ占拠せんきょし、そとしょうじん殴打おうだした[3]たいみなみではたいみなみ飛行場ひこうじょう占拠せんきょされ、きゅう日本にっぽんぐん飛行機ひこうき東京とうきょうんでマッカーサー元帥げんすい陳情ちんじょうしてGHQ占領せんりょうれてもらおうとするものもいた(機体きたい部品ぶひん欠損けっそんしていたためたせず)[5]高雄たかおでは要塞ようさい司令しれい彭孟緝がこれにたい武力ぶりょく掃討そうとうおこない、おおくの死者ししゃしている[4]

3月4にちには台湾たいわんじんによる秩序ちつじょ維持いじ食糧しょくりょう確保かくほのための全島ぜんとう処理しょり委員いいんかい成立せいりつ事態じたい収拾しゅうしゅうけて、知識ちしきじん地方ちほう名士めいしからなるはち事件じけん処理しょり委員いいんかい台湾たいわん各地かくち組織そしきされ、台北たいぺいどう委員いいんかいは3がつ7にちむさぼかん汚吏おり一掃いっそうしょう自治じち実施じっし政府せいふかく機関きかんへの台湾たいわんじん登用とうようなどの改革かいかくちんただし要求ようきゅうした[3][4]

劣勢れっせいさとった政府せいふ長官ちょうかんは、一時いちじ台湾たいわんじんがわたいして対話たいわ姿勢しせいしめしたが、うらでは中国ちゅうごく本土ほんど国民こくみん政府せいふひそかに援軍えんぐん要請ようせいしていた。ひねは「政治せいじてき野望やぼうっている台湾たいわんじんだい台湾たいわん主義しゅぎとなえ、台湾たいわんじんによる台湾たいわん自治じちうったえている」「台湾たいわんじん反乱はんらんこした」「組織そしきてき反乱はんらん」「独立どくりつくわだてた反逆はんぎゃく行為こうい」「奸黨らん(奸党らん)にたいし、武力ぶりょくをもって殲滅せんめつすべし」との電報でんぽうを蔣介せきおくっている。

国民こくみん政府せいふ主席しゅせき蔣介せきちんただし書簡しょかん内容ないよう鵜呑うのみにし[注釈ちゅうしゃく 1]、3月8にち中国ちゅうごく本土ほんどから援軍えんぐんとして派遣はけんされただい21師団しだん憲兵けんぺいたい到着とうちゃくした。これと連動れんどうして、ちんただし部隊ぶたい一斉いっせい反撃はんげき開始かいしした。裁判官さいばんかん医師いし役人やくにんをはじめ日本にっぽん統治とうち時代じだい高等こうとう教育きょういくけたエリートそう次々つぎつぎ逮捕たいほ投獄とうごく拷問ごうもんされ、そのおおくは殺害さつがいされた。台湾たいわんせききゅう日本にっぽん軍人ぐんじん学生がくせい一部いちぶは、きゅう日本にっぽんぐん軍服ぐんぷく装備そうびけて、中華民国ちゅうかみんこく政権せいけん軍部ぐんぶたいむかち、たたかった(「独立どくりつ自衛隊じえいたい」、「学生がくせいたいとう )。しかし、最後さいごはこれらも制圧せいあつされ、台湾たいわん全土ぜんど中華民国ちゅうかみんこく政権せいけんぐん支配しはいおさまった。

よしみよし議員ぎいん民衆みんしゅうがわったちんきよしなみ中国語ちゅうごくごばん市中しちゅうまわしのうえでよしみよしえきまえ銃殺じゅうさつされたのをはじめ[4]、この事件じけんによっておおくの台湾たいわんじん殺害さつがい処刑しょけいされ、かれらの財産ざいさん研究けんきゅう成果せいかおおくが接収せっしゅうされたとわれている。犠牲ぎせいしゃすうについては800にん〜10まんにんまで様々さまざませつがあり[7]正確せいかく犠牲ぎせいしゃすう確定かくていしようとするこころみは、いま政府せいふ民間みんかん双方そうほうあいだおこなわれている。1992ねんみんこく81ねん)、中華民国ちゅうかみんこく行政ぎょうせいいんは、事件じけん犠牲ぎせいしゃすうを1まん8せん〜2まん8せんにんとする推計すいけい公表こうひょうしている[8]

事件じけん当時とうじ地区ちくごとに度々どど発令はつれいされた戒厳かいげんれい台湾たいわんしょう政府せいふ成立せいりつをもって一旦いったん解除かいじょされた。しかしその1949ねんみんこく38ねん5月19にちあらためて発令はつれいされた戒厳かいげんれいは38ねん[9]1987ねんみんこく76ねん)まで継続けいぞくし、白色はくしょくテロばれる恐怖きょうふ政治せいじによって、おおくの台湾たいわんじん投獄とうごく処刑しょけいされる根源こんげんとなった。また、内外ないがい批判ひはんによって中華民国ちゅうかみんこく政府せいふようや戒厳かいげんれい解除かいじょしたのちも、国家こっか安全あんぜんほうによって言論げんろん自由じゆう制限せいげんされていた。今日きょう台湾たいわんちかかたちの「民主みんしゅ」が実現じつげんするのは、登輝とうき総統そうとうが1992ねん刑法けいほう改正かいせいし、言論げんろん自由じゆうみとめられてからのことである。

犠牲ぎせいしゃ一覧いちらん[編集へんしゅう]

はち事件じけん犠牲ぎせいしゃひょう中国語ちゅうごくごばん参照さんしょう

その[編集へんしゅう]

はち和平わへい公園こうえん慰霊いれいとう台北たいぺい
はち和平わへい記念きねん碑文ひぶん台北たいぺい
はちねんかんはち和平わへい公園こうえんうち建物たてものきゅう台湾たいわん放送ほうそう協会きょうかい (THK) 台北たいぺい支局しきょく)。
きゅう台湾たいわん放送ほうそう協会きょうかい台北たいぺい支局しきょく(1931ねん
はちねんよしみよし

事件じけん関係かんけいしゃおおくは処刑しょけいされるかかくすか、あるいは国外こくがい逃亡とうぼうくわだてた。

のち中華民国ちゅうかみんこく総統そうとうつとめた登輝とうき留学りゅうがく経験けいけんしゃという知識ちしき分子ぶんしであったため処刑しょけいおそれて知人ちじんたく潜伏せんぷくし、ほとぼりのめるのをった。外国がいこくじんはつ直木賞なおきしょう受賞じゅしょう作家さっかであり実業じつぎょう邱永かん学生がくせい運動うんどうのリーダーであったが、当局とうきょくくぐって出航しゅっこう香港ほんこん経由けいゆして日本にっぽん逃亡とうぼうした。亡命ぼうめいしゃなかにははん国民党こくみんとうかかげたものもあったが、当時とうじ東西とうざい冷戦れいせん時代じだいであり、はん中華民国ちゅうかみんこく国民党こくみんとうおや共産党きょうさんとうなされて、日米にちべいではその主張しゅちょう理解りかいされなかった。

中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ事件じけん戒厳かいげんれいを38ねんあいだ施行しこうした[10]戒厳かいげんれい台湾たいわんでは政治せいじ活動かつどう言論げんろん自由じゆうきびしく制限せいげんされ、白色はくしょくテロばれる人権じんけん抑圧よくあつおこなわれた[11]

事件じけん本省ほんしょうじんそとしょうじんあいだ亀裂きれつをもたらし、事件じけんについてかたることは長年ながねんタブーとなっていた[12]

しかしときつにつれ、これを話題わだいにすることができる状況じょうきょうまれてくる。当初とうしょ政府せいふ台湾たいわんじん高等こうとう教育きょういくあたえると反乱はんらんもとになる、とかんがえていたが、経済けいざい建設けんせつすすめるにたって専門せんもん必要ひつようせい明白めいはくとなり、方針ほうしん転換てんかんして大学だいがく建設けんせつみとめた。

戒厳かいげんれい解除かいじょ1989ねん公開こうかいされた侯孝賢ほうしゃおしえん監督かんとく映画えいが悲情城市ひじょうじょうし』ははち事件じけん直接的ちょくせつてきえがいたはじめての劇映画げきえいがで、ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいきむ獅子しししょう受賞じゅしょうした[12]

登輝とうき体制たいせい事件じけんさい調査ちょうさおこなわれ、1992ねん長大ちょうだい調査ちょうさ報告ほうこくしょ作成さくせいされた。

同年どうねんの1992ねん史上しじょうはつの『はちメモリアルコンサート』が、台湾たいわん西洋せいようオペラのちち自由じゆう民主みんしゅ戦士せんし音楽家おんがくかとしてもられる曾道ゆう指揮しき)らによって実現じつげんされた。曲目きょくもくモーツァルト作曲さっきょくレクイエム』とブラームス作曲さっきょく運命うんめいうた』。当時とうじはち事件じけん』はタブーされていた用語ようごでありコンサートを開催かいさいすること自体じたい前代未聞ぜんだいみもんであった。これら音楽家おんがくか決意けつい評価ひょうかした登輝とうき総統そうとうは、このコンサートに参加さんか謝罪しゃざいスピーチまでった。国民党こくみんとうないでの自身じしん政治せいじてき基盤きばんいま完全かんぜん確立かくりつしていないこと承知しょうちうえ政治せいじてきリスクをってまで参加さんかした総統そうとう勇気ゆうき文芸ぶんげいかい犠牲ぎせいしゃ家族かぞくからたか評価ひょうか敬意けいいけられた。

1995ねん2がつには台北たいぺいしん公園こうえんげんはち和平わへい公園こうえん)に「はち事件じけん記念きねん」がてられ、みずからが除幕じょまくしき公式こうしき謝罪しゃざい表明ひょうめいした[3]どう公園こうえんない台北たいぺいはちねんかん台北たいぺい市内しないはち国家こっか記念きねんかんで、事件じけん資料しりょう展示てんじされている。

2006ねんには、はち事件じけん最大さいだい責任せきにんしゃ蔣介せきだとする研究けんきゅう結果けっか発表はっぴょうされた[13]

外国がいこくじん犠牲ぎせいしゃへの対応たいおう[編集へんしゅう]

はち事件じけん発生はっせいした当時とうじもとたかししゃりょうとうげん和平わへいとう)にやく30にん琉球りゅうきゅうじん漁民ぎょみんのこったが、中国ちゅうごくからなかったため処刑しょけいされた。2011ねん訪台ほうたいした沖縄おきなわけん議員ぎいんとうあいだ盛夫もりおらの要請ようせいにより、「琉球りゅうきゅう漁民ぎょみん銅像どうぞう記念きねん」が設立せつりつされた[14][15][16][17]

2016ねん2がつ17にち台北たいぺい高等こうとう行政ぎょうせいほういん外国がいこくじん犠牲ぎせいしゃはじめて賠償ばいしょうみとめる判決はんけつくだし、はち事件じけん記念きねん基金ききんかい中華民国ちゅうかみんこく政府せいふから委託いたく事件じけん処理しょりおこな基金ききん)にたいして犠牲ぎせいになった与論島よろんとう出身しゅっしん日本人にっぽんじん遺族いぞく一人ひとりに600まんしん台湾たいわんドルやく2050まんえん)の支払しはらいをめいじた[1]。また、これ以外いがいにも日本人にっぽんじん1にんふく外国がいこくじん2にん犠牲ぎせいしゃとして認定にんていけた。一方いっぽう事件じけんまえ与那国島よなぐにじまから台湾たいわんわたってそのまま失踪しっそうした2人ふたりは2017ねん7がつと2018ねん3がつ外国がいこくじん犠牲ぎせいしゃ認定にんてい申請しんせい却下きゃっかされた[18]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

音楽おんがく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ただし、蔣介せきは3がつ16にち日記にっきで「ちんただし台湾たいわん政事せいじおこなうにあたり、みずからの欠点けってんをわきまえず、いばりくさり、とりつくろうことを大切たいせつなことだとおもっている。このたび激変げきへんはち事件じけん)があっても、なお自分じぶん責任せきにんみとめようとしない。痛憤つうふんのあまり、ふかいためいきがでる」と不満ふまんつづっている[6]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 名切なきり千絵ちえ (2016ねん2がつ17にち). “はち事件じけん日本人にっぽんじん犠牲ぎせいしゃ遺族いぞく勝訴しょうそ 基金ききんかいに2せんまんえん賠償ばいしょう命令めいれい台湾たいわん” (日本語にほんご). 中央ちゅうおうどおり訊社. 2016ねん2がつ23にち閲覧えつらん
  2. ^ 野嶋のじまつよし (2015ねん12月2にち). “いまなぜ台湾たいわんで「ふところ映画えいが」がだいヒットするのか (4/4)”. 東洋とうよう経済けいざいオンライン. 東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ. 2015ねん12月5にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e はち事件じけん(に・にはちじけん)とは”. コトバンク. 2020ねん6がつ6にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d 228・なな○:わたしたちのはち特別とくべつてん”. www.nmth.gov.tw. 国立こくりつ台湾たいわん歴史れきし博物館はくぶつかん. 2020ねん6がつ6にち閲覧えつらん
  5. ^ a b 【それぞれの70ねん 台湾たいわんから】日本にっぽん言葉ことば獄中ごくちゅうささえに”. 産経さんけいニュース (2015ねん5がつ6にち). 2020ねん8がつ14にち閲覧えつらん
  6. ^ 本田ほんだ善彦よしひこ台湾たいわん総統そうとう列伝れつでん - べいちゅう関係かんけい裏面りめん 中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2004ねん、13-16ぺーじISBN 4-12-150132-2 
  7. ^ 松野まつの良一りょういち (2013ねん4がつ4にち). “「悲情城市ひじょうじょうし」の証言しょうげん台湾たいわん228事件じけん中大ちゅうだい卒業生そつぎょうせい. YOMIURI ONLINE (読売新聞よみうりしんぶん). http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/research/20130404.html 2016ねん11月13にち閲覧えつらん 
  8. ^ 田中たなか靖人やすひと (2015ねん2がつ28にち). 台湾たいわん2・28事件じけん式典しきてん台北たいぺい市長しちょううま総統そうとう握手あくしゅ拒否きょひ. 産経新聞さんけいしんぶん. http://www.sankei.com/world/news/150228/wor1502280048-n1.html 2015ねん7がつ18にち閲覧えつらん 
  9. ^ http://228memorialmuseum.gov.taipei/ct.asp?xItem=1938462&ctNode=41711&mp=11900A
  10. ^ はち国家こっかねんかん. “はちわたしたち-つぎ世代せだい歴史れきしをどう解釈かいしゃくするのか|はち国家こっかねんかん”. www.228.org.tw. 2021ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  11. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2017ねん7がつ13にち). “台湾たいわん戒厳かいげんれい解除かいじょ30ねん白色はくしょくテロ」時代じだい解明かいめいようやくいち”. 産経さんけいニュース. 2021ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  12. ^ a b 悲情城市ひじょうじょうし台湾たいわん歴史れきしてき事件じけん記録きろくした、侯孝賢ほうしゃおしえん初期しょき集大成しゅうたいせい(CINEMORE)”. Yahoo!ニュース. 2021ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  13. ^ たい南市みなみいち学校がっこうから蔣介石像せきぞう全面ぜんめん撤去てっきょへ/台湾たいわん. フォーカス台湾たいわん (中央ちゅうおうどおり訊社). (2015ねん2がつ28にち). http://japan.cna.com.tw/news/apol/201502280003.aspx 2015ねん10がつ31にち閲覧えつらん 
  14. ^ もと隆和たかかず平島ひらしま 曾是琉球りゅうきゅうじん群居ぐんきょ聚落しゅうらく おおやけ新聞しんぶんもう
  15. ^ 自由時報じゆうじほう電子でんしほう (2010ねん8がつ13にち). “きのねん228かかなんにちじん沖繩おきなわ盼在和平わへいとうしつらえ - 政治せいじ - 自由時報じゆうじほう電子でんしほう” (中国ちゅうごく). 自由じゆう電子でんしほう. 2020ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  16. ^ 自由時報じゆうじほう電子でんしほう (2011ねん4がつ28にち). “けん228ねん じんかん和平わへいとう - 地方ちほう - 自由時報じゆうじほう電子でんしほう” (中国ちゅうごく). 自由じゆう電子でんしほう. 2020ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  17. ^ 中時なかとき電子でんしほう. “にちせき受難じゅなんしゃぞく 和平わへいとうさいちち - 地方ちほう新聞しんぶん” (中国ちゅうごく). 中時なかとき電子でんしほう. 2020ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  18. ^ はち事件じけん沖縄おきなわじん被害ひがい認定にんていあつかべ”. nippon.com (2020ねん3がつ1にち). 2020ねん6がつ12にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく[編集へんしゅう]